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2014年1月に作成された投稿

2014年1月31日

「空き巣狙い」 という言葉

今日はまた、本当にどうでもいい言葉尻の問題である。何かというと、「空き巣狙い」という言葉だ。知り合いが「人間の家に泥棒に入るのに、『空き巣』という言い方はちょっとひどいではないか」と言うのである。まあ確かに、ちゃんとした家なのに「空き巣」とは、「よく言うわ」って感じではある。

その知り合いは「巣」じゃなくて、ちゃんと「家」と言うべきだと主張するのだが、ちょっと待てよ、「空き家」と言ってしまうと、ちょっと意味が違ってきてしまう。「空き家」に泥棒に入っても、盗むものがないではないか。

「空き家狙い」では言葉としてナンセンスになってしまうのだから、もっと他の言い方はないのかと言えば、ないことはない。「留守宅狙い」と言えば、問題ない。これこそ、破綻のない美しい言葉である。

しかし「留守宅狙い」と言ってしまうと、なんだか背広を着て泥棒に入るようなイメージになってしまうような気がする。意味的に正確でも、雰囲気的に微妙に違う。あの、ちょっといい加減で猥雑なまでの感覚とかけ離れすぎている。

私としては、やはり「空き巣狙い」という言葉はなかなか秀逸だと思うのである。

それにしても、もう 1月は終わりである。早いものだ。

 

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2014年1月30日

Mac を使うことによる 「しっくり感」

今月 20日に Mac を購入して、慎重に Windows 環境からの移行を進展させているが、ようやくかなり手の内に入ってきたような気がしている。初めの 1週間はサイドデスクに Mac をおいて、メインに使うのは Windows マシンのままだったが、一昨日あたりから指定席が入れ替わり、メインデスクに Mac が鎮座ましました。

基本的な設定は iCloud 経由であっという間に済んでしまったが、仕事に使うファイルの多くは、そう簡単に移行できない。いや、簡単にやってしまってもいいのだが、そこはそれ、やっぱり「美しく」移行させたいではないか。一番いい形での組み立てにする前に変な構造にしたくない。

そんなわけで妙に慎重になっていたのだが、1週間を過ぎてようやく何となくカタチが見えてきた。これでもう、文字通り Mac をメインマシンにしてもいいという気がしてきた。

私の Mac は奮発して Retina ディスプレイ にしたから、なにしろ表示がきれいである。これは目に優しい。これまでのディスプレイは、かなり網膜の筋肉を緊張させて眺めていたのだとわかる。Retina ディスプレイだと、目に余計なストレスがかからないのだ。還暦をすぎると、これは金に換えられないメリットである。

近頃「晴れて Mac ユーザーになった」と、あちこちで吹聴しまくったものだから、「Mac って、Windows とどう違うの?」 と、よく聞かれるようになった。そう聞かれてもちょっと説明しにくいが、Mac の方がユーザーに優しいといえるかもしれない。

Windows はかなり細部にわたってカスタマイズして、「使いこなす」というか、「使い倒す」感覚で操作することができる。それはそれで「PC 好き」にとっての快感といえるだろう。しかし Mac となると、あまり凝りまくったカスタマイズなんかしなくても、なんとなく快適に使えるのである。

要するに、Windows は「ものすごく手をかけて自分のものにする」という感覚だが、Mac の場合は、初めから何となく手間がかからないのである。前から iPhone と iPad を使っていたためでもあるが、iCloud にお任せで、自分の環境が自然に整ってしまっているのである。これはありがたい。

結局のところ私は、「自分は PC 好きってわけじゃない」のだと、再認識している。PC  を使えば、仕事や好きなことを手間をかけずにできるという、そのことが好きなのだ。だがら、PC そのものに手間をかけてどうこうするという発想はあまりない。

これは、「音楽好き」と「オーディオ好き」のビミョーな違いに似ているかもしれない。私は音楽好きだが、音楽を聞くマシンにはあまりこだわらない。「フツーに聞こえさえすれば OK」という人である。聞く「音」ではなく、「音楽そのもの」にこだわりたいのである。

しかし、世のオーディオ好きという人たちを見ていると、私の偏見かもしれないが、「いい音」にはものすごくこだわるが、決して「音楽が好き」というわけじゃないんじゃないかという気がするのである。だって、彼らの聞いてる曲って、「案外フツー」でしかないのだもの。

で、PC の場合は、ハードにこだわらないと、逆に Mac に行き着いてしまうような気がするのである。Mac を使っていると、あまりマシンそのものを意識しないで済むのだよね。

というわけで、私は「自分は本来 Mac ユーザーであるべきだった」という 20年来のジクジたる思いから、ようやく脱却できたと思っている。

世に言う「自分探しの旅」ってわけじゃないが、20年かけて Windows から卒業し、Mac を使っていると、「これでこそ」というか、「落ち着くべきところに落ち着いた」というか、ちょっとした「しっくり感」があるのだよね。

 

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2014年1月29日

フォークソングに夢中になった世代

昨日の記事で、1960年代後半から、私はフォークソングに夢中になったと書いた。あの当時、お坊ちゃまお嬢ちゃまフォークから硬派のプロテスト・ソングまで、いろいろなスタイルがあったが、いわゆる 「フォークソング」 に夢中になった人間に共通の特徴があるような気がするので、書いてみたいと思う。

  • ギターは弾けて当たり前
    ギターが弾けるのは別に 「特技」 とかいうものでなく、弾けて当たり前。近頃ではこなすものがいなくなったカーターファミリー・ピッキングやスリーフィンガー・ピッキングなど、オールドファッションな奏法をいとも簡単にこなす。

  • 英語に抵抗がない
    PPM やブラザーズ・フォーなどのコピーから入った連中は、耳はいいのでかなり発音もいい。日本語フォークをやっていた連中も、根っこはウッディ・ガスリーだったりしたから、英語は結構得意で、専門的に習ったわけでもないのに、簡単な会話ぐらいはブロークンでもなんでもこなしたりする。

    PPM から入った連中はニューヨーカーみたいな英語だが、ウッディ・ガスリーにかぶれると、行ったこともないのにオクラホマ訛りだったりする。

  • ハモって当たり前
    誰かが主旋律を歌っていると、ごく自然にハモってしまう。というか、ハモらずにはいられない。最近の若い連中はいきなりハモりを入れられると主旋律すらめちゃくちゃになる 「ハモり音痴」 が多いが、それとは対照的。

  • 政治的にはリベラル
    プロテスト・ソングを歌っていた連中が多いので、当然ながら、政治的にはリベラルになる。私なんかは 「君が代/日の丸」 を断固支持する立場だが、それを強制する動きには俄然反発したくなる。
    【参照】 愛国心を評価されてたまるか
       
  • エコ派
    なぜか自然にエコには関心をもつようになり、生活もかなりエコ派になる。

まあ、こんなようなところだろうか。あの頃というのは、日本史的にも結構特殊な時代だったんじゃないかと思う。面白い時代だったなあ。

 

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2014年1月28日

The singer of folk songs よ、永遠なれ

ピート・シーガーが死んだというニュースに、かなり悲しくなった。彼を知る人なら、きっと悲しくなる。悲しくならない人とは、あまり友達にはなりたくない。

一番最近、彼が歌うのをみたのは、オバマ大統領の就任記念コンサートだった。その時のことを、私は 5年前に「君と僕のためにつくられた国」というタイトルで書いている。あの時 "This Land is Your Land, This Land is My Land" を高らかにシング・アウトした彼は、89歳だった。そして 94歳になった今年、ニューヨークの病院で亡くなった。

報道によれば、数日前から入院していたという。死因は「老衰」。私も死ぬならそんなふうに死にたい。

私が意識して音楽に親しみ始めた 1960年代後半、ピート・シーガーはほとんど神様だった。あの頃にフォークソングを歌っていたのは、生まれも育ちもいいお坊っちゃま、お嬢様の大学生だったが、彼らの歌う "Where Have All the Flowers Gone" や "This Land is Your Land, This Land is My Land" は、毒を抜かれたバージョンだと知った。

私はブラザーズ・フォアや PPM、キングストン・トリオを入り口として、ボブ・ディランを知り、さらにピート・シーガー、ウッディ・ガスリーを知って、フォークソングにのめり込んだ。その前から夢中になっていたビートルズ、ローリング・ストーンズは、ロックン・ロール、R&B、そしてより古いブルースへの入り口となった。

だからピート・シーガーは、私の中の「白いフォークソング」の象徴だが、「白い」といっても、彼らの首は日に焼けて赤い。

彼は自らを "folk singer"  ではないと語った。本当のフォークシンガーとは、民衆の中で日々の暮らしの中で歌う人であり、自分は "a singer of folksongs" (フォークソングの歌手)であるとした。彼はその意味で red neck の歌にある種のインテリジェンスを与えたのである。

私は "a singer of folksongs" の "a" を "the" に変えた称号を彼に贈りたい。 "The singer of folk songs" よ、永遠なれ。

 

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2014年1月27日

新手の迷惑メール

近頃、私のケータイに新手の迷惑メールが頻繁に届く。タイトルが「softbank端末をご利用のお客様へ注意喚起」というのが、「187」という差出人からで、タイトルがほとんど似ているが「softbank端末をご利!用のお客様へ注意喚起」というのが、「179」という差出人からである。

こんなふざけたタイトルと差出人名で、信じてしまうやつがいるのかと思うと、そっちの方が腹立たしい。差出人のメルアドを見れば、cdxsmlfb@dqvmklsdvmldm.biz なんていう、ますますふざけたアドレスなのだから、デタラメとすぐにわかるのだが。

以下にメールの内容をコピペする。

あなたの.携帯にウイルスが侵入し,ご契約者様のお名前- ご住所- 勤務先 , 電.話帳データ_アプリなどの個人情報が流出しております!

大.量の迷惑メールがあなたの携帯に配☆信されていませんか?

それがウイルスに感染している何よりの証拠です :

このままウイルスを放置しておくとあなたの個人情報(お名前_ ご住.所,勤務先_電.話帳データ、アプリなど)から悪徳業者があなたに成りすまし,犯罪行為を行う危険性があります .

悪徳業者があなたの名前などを使って何かの犯罪を行った場合- あなたが責任を負うことになってしまいます .

上記のような状態にならないためにも今すぐにウ.イルス.の除去が必要です :

ウイルスを除去される場合は大至急『除去』とご返信ください .

携帯電話端末セキュリティーシステム

こんなんでも、てっきり信用して返信してしまう人がいるんだろうなあ。

「大量の迷惑メールがあなたの携帯に配☆信されていませんか?/それがウイルスに感染している何よりの証拠です」なんていうが、「大量の迷惑メール」なんて、最近はお前んとこからしか来ていないよと、言いたくなってしまう。

「悪徳業者があなたの名前などを使って何かの犯罪を行った場合- あなたが責任を負うことになってしまいます」という文言に至っては、「この国の刑法は、いつからそんなメチャクチャなことになってしまったんだ?」と、笑うしかない。

この類の迷惑メールは、Softbank 端末の利用者だけでなく、Docomo や au 端末の利用者にも届いているらしい。発信する方も大変だろうに、マメなことである。これだけマメに発信するのは、それなりの見返りがあるからだろう。

例えば、メールの内容をうっかり信じてしまって、「ウィルスを除去しなきゃ!」と思い、「除去」という返信をしたらどうなるのか。多分 「遠隔操作でウィルスを除去しましたので、料金をお支払いください」なんていう架空請求のメールが来るのだろう。

さらに、うっかり返信者のアドレスは、「詐欺に引っ掛かりやすい『カモ』のアドレス」として、その世界のリストに登録されてしまい、さらにあちこちから迷惑メールが届くということになるに違いない。

ちょっと前は、「三菱東京UFJ銀行」から「システムセキュリティのアップグレードのため、貴様のアカウントの利用中止をさけるために、検証する必要があります」 として、怪しいページへのアクセスを求めるメールが頻繁に届いた。

このメールの 「貴様のアカウント」 という文言には、思わずのけぞった。差出人のアドレスが、 "youkomama1112@yahoo.co.jp" というのだから、さらにのけぞった。

これって、振り込め詐欺のメール版という感じなのかなあ。

 

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2014年1月26日

私の苦手なカタカナ言葉

私はカタカナ言葉が得意と思われているフシがあるが、それは半分正しくて、半分誤解である。私がカタカナ言葉に抵抗がないように見えるのは、英語由来の言葉なら結構元の意味を知ってるので、カタカナ言葉として初めて聞いた時でも、戸惑わずにすむというだけのことだ。カタカナの背後に英語のスペルを見て理解するという感じなのだよね。

だから、英語以外のカタカナ言葉、とくにスイーツ系やフランス料理系の言葉は、はっきり言ってさっぱりわからない。「フォンデュ」とか「テリーヌ」とか 「カルパッチョ」(これはイタリア語?)とか言われても、恥ずかしながらイメージすら浮かばない。ロースト・ビーフとかサニーサイド・アップとか、英語の料理名なら全然問題ないのだけどね。

スイーツ系、フランス料理系に関しては、「プログラムをインストールするには、ブラウザーでダウンロード・ページにアクセスして、アカウントとパスワードをインプットしてください」なんて言われて、目を白黒させてしまうオッサンと、まるで変わりがない。

それから、カタカナの背後に英語スペルを見るクセが付いてしまったため、英語が日本語のカタカナ言葉になってしまった時の、微妙な意味の変化に違和感を覚えてしまうこともある。

前にも書いたことだが(参照)、「あの人は、とてもナイーブだから……」などと言うのを聞くと、「これって、誉めてるのか? けなしてるのか?」と余計なことを考えて、脳内メモリーが無駄に消費されてしまう。"Naive" は元々は、「子供っぽい」という意味で使われることが多いからだ。

これが日本のカタカナ言葉になると、「汚れを知らない素敵な人」という意味になってしまうのは、一昨日の記事の、"quality" という言葉の意味が、米、日、韓、中でそれぞれ違ってしまうのと似た構図である。ちなみに私には、「あの人は、ナイーブで素敵な人」よりも、「あんなナイーブな奴とは、付き合いきれない」という言い方の方がしっくりくる。

「パフォーマンス」 という言葉も、元々の意味と日本語のカタカナ言葉になった時の意味では、ちょっとズレが生じている。

私はこの言葉がカタカナ言葉として日本に定着する前から、ロック・ミュージック関係の本で、「彼は great performance(素晴らしい演奏)をした」 とかいう言い方に馴染んでいた。「いい演奏だった」という時なんか(これは、野球なんかでも同じだと思うが)、"nice play" なんていう褒め方をするのは聞いたことがない。

そんなわけで日本語の「パフォーマンス」が、「ことさらでわざとらしいウケ狙いの行為」といった意味に偏ってしまったことには、違和感ありありなのだ。「あいつのやることはパフォーマンスばかりだ」とか「俺はパフォーマンスは嫌いだ!」なんて、妙に堂々と言い切られると、どうもムズムズしてしまう。

まあ、ムズムズ感が生じる隙間もないほど、ほとんど日本語化してしまったような、英語由来のカタカナ言葉もあるにはあるけどね。「カンニング」とか「トランプ」とか「ノート」とか「ハンドル」とか。ただ、「クレーマー」とか「スマート」とか「ツー・ショット」とかは、私としてはまだちょっとビミョーだけど。

余談だが、「スマートフォン」が出始めた頃は、「薄型ケータイ」だと誤解する人が少なからずいたようだ。

あ、それから、焼肉関係のカタカナ言葉も、私は聞いてもほとんどわからない。ちょっと前に「ユッケ」が物議を醸すまでは、私はそれってどんなものだか、全然知らなかった。まさか焼き肉屋で生肉を食わせるとも、思ってなかったしね。

 

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2014年1月25日

羽毛布団と毛布のどちらを上に掛けるか

「羽毛布団と毛布のどちらを上に掛けるか」 というのは、日本の家庭でありがちな議論なのだそうだ。「毛布が上の方が正式で、保温効果も上だ」と夫が主張すれば、「私は毛布の感触が好きだから、羽毛布団が上」と妻が譲らない。そんな夫婦対立がよくあるという。

オーセンティックな寝具メーカーの見解は、大抵「羽毛布団の上に毛布を掛ける方が、保温効果がある」ということで一致する。それでも、甲斐巻き(掻巻とも表記される)に綿布団の昔から「布団は一番上に掛けるもの」という伝統の日本では、毛布が布団の上なんて、しっくりこないという身体性が残っていることも否定できない。

個人的な結論を言おう。和式の布団(敷き布団と掛け布団の組み合わせ)だったら、どっちでも構わないと思う。確かに一番上を毛布で覆うことの方が、保温性には優れるだろうが、睡眠は暖かくしさえすればいというものではない。人それぞれの「気持ちよさ、しっくり感」は異なるのだから、好きなようにすればいい。

そもそも和式の毛布はそれほど大きいわけじゃないから、布団の上にかけても、全体を(敷き布団の下まで)すっぽりと覆えるわけじゃない。だったら保温性にしても、どっちが上でもそれほど致命的なほどの変わりはない。

さらに、和式の布団はシングル・サイズがほとんどだから、夫婦で見解が異なっても全然不都合はない。それぞれの「しっくり感」を優先して「好きにする」という方が、精神衛生的にもぐっすり眠れるだろう。

我が家の場合はベッドだから、寒い時期には羽毛布団の上に大きな洋式の毛布を掛けて、両脇と足元の三方の端をマットレスの下に折り込む。こうすれば暖かさが逃げてしまうことも、寝具がずれてしまうこともほとんどなく、暖かく快適に眠れる。和式の布団では「どっちでもいい」と鷹揚な私だが、ベッドになってしまったら、これは譲れない。

問題は、ダブルベッドで寝る夫婦の見解が異なって、終りのない議論に陥ることだろう。我が家の場合は妻と見解が一緒なので、争いにならずに済んでいる。ありがたいありがたい。

 

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2014年1月24日

"Quality" という言葉の意味

"「quality」という単語の意味は日本と韓国と中国で変わる?" という記事がちょっと話題になっていたので行ってみると、Derek Sivers という人の記事の紹介だった。元記事は "Same word. Different places? Different meanings" というタイトルである。「同じ言葉も、所変われば意味が変わる」 というようなことだ。

起業コンサルタントで投資家でもある Benjamin Joffe (@benjaminjoffe) というフランス人が、Derek Sivers に語ったところによると、"quality" という言葉の意味が、日本、韓国、中国では変わるのだそうだ。もちろん、米国でも違う。

ここで語られる "quality" は、「品質」という日本語に直訳してしまうと、ほんの少しズレてしまうことに注意したい。Derek と Benjamin は、"quality" という英単語について、英語で語り合ったのだと言うことを忘れてはならない。

それは「品質」という客観的な意味より「質の高さ」みたいなイメージに近いと思う。 "Quality paper" といったら、"Sun" や「東スポ」じゃない「高級紙」になっちゃうし、"A book of quality" は「良書」という意味になるという感じがわかれば、以下が理解しやすい。

米国人である Derek は Benjamin に「Quality と言ったら、どんな意味だと思う?」と尋ねられ、こう答える。

"Quality means it works. It's well-built. It will last."

「Quality というのは、ちゃんと機能して、造りもよくて、長持ちするってことでしょ」と答えたわけである。これが米国人の "quality" に関する典型的なイメージなのだろう。実質本意。お洒落なデザインとか、使っていてしみじみしたり、うきうきしたりする要素というような、情緒的なコンセプトにはあまり考えが及ばない。

それに対して Benjamin は、「それは君たちアメリカ人の考える "quality" の意味だ」と指摘する。要するにアメリカ人にとっては、ちゃんと機能しさえすればそれが "quality" というものなのだ。

アジア地域で広くビジネスを体験してきた Benjamin は、韓国、日本、中国では、"Quality" という言葉の意味するところが違うと言う。ざっとこんな具合だ。

韓国人に "quality" とは何かと尋ねると、"it's brand new"(真新しいこと)という答えが返ってくる。つまり、韓国では「常に変わらぬ普遍的価値」や「非常に耐久性のある製品」なんかを訴求しても無駄というわけだ。

一方、日本人にとっての "quality" とは、"it's perfect - zero defects"(完璧で欠陥なし)ということになる。日本に機械を輸出した会社が、中身の機械そのものには問題がないのに、梱包が傷んでいたという理由で返品をくらったという例が紹介されている。まあ、これは極端な例だろうが、確かにそんなところはあるかもしれない。

はたまた中国人にとっての "quality" は、"it gives status"(ステータスを感じさせる)ということだという。それをもつことによって社会的地位を感じさせることができれば、要するに見かけの押し出しがよければ、中身がどうでも案外構わないというわけだ。

なるほどね。トヨタの小型車「ヤリス」(日本では 「ヴィッツ」)を、中国人社員のアイデアで大きく豪華に見えるデザインに変えただけで、中国での売れ行きがアップしたというのは有名な話である(参照)。それでヴィッツのデザインって、私には小型車のくせにご大層すぎて、「キビキビ感」に欠けると感じられるわけだ。

現代の日本人からみれば、韓国人と中国人の価値観はかなりエキセントリックに思われる。しかしちょっと昔の日本を考えてみれば、我々自身が通過してきた価値観とそんなに遠くないとわかる。

戦前から高度成長期に到るまでの日本では、「舶来」が「高品質」の代名詞だった。当時の国産品は安くて低品質のものが多かったとはいえ、舶来が国産品の十倍以上の値段にふさわしいほどの圧倒的な高品質だったかといえば、それは怪しいものだ。しかし昔の金持ち(成金?)は、こぞって舶来の "quality products" を身に付けていたのである。

今でもグッチのバッグをもち、やたら高い腕時計を見せびらかし、メルセデスに乗りたがる人が少なからずいるが、これは、今の中国の価値観と共通する。私だったら、ただでもらっても使わないと思うが。

韓国人の「新しもの好き」だって笑えない。つい最近の日本人もそうだったではないか。あの「バブル」の頃を思い出してみるがいい。日本人はこぞって「新しいディスコ、新しい音楽、新しいダンス、新しいファッション・ブランド、新しい億ション、新しいクルマ、新しいゴルフ・クラブ、新しいオフィス・デザイン等々」にうつつを抜かしていた。

あの頃の私は、そうした動きを活字にするのが仕事だったが、「世に話題の新しいもの」に接するたびにため息をついて、「トレンディを気取るのも、楽じゃなかろうに」と、しみじみ呟いていたものだ。

こうしてみると、私の "quality" という言葉に関するイメージは「アメリカ + 日本 ÷ 2 に、ヨーロッパのスパイスを少々まぶしたもの」という気がする。

アメリカ式の「機能しさえすりゃ OK」というのは、日本人である私にとっては "quality" というより "standard"(当たり前)にすぎないことのように思われるが、個人的には「当たり前」が実現されさえすれば、特段の不満はない。そこに目立ちすぎないデザインの良さが加われば、私には満足以上の "quality" である。

「完璧で欠陥なし」というのは、私如きにとっては「無茶な要求」というものだ。それは "quality" というより "dream" である。

ちなみに Benjamin は、 "music", "romantic", "friends" さらに "fun" という言葉についてさえ、異文化においては意味が異なると言っているそうだ。なるほど、日本人のいう 「ロマンチック」 って、ちょっと特殊なところがあるかもしれない。

 

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2014年1月23日

杉花粉は、もう飛び始めているみたい

昨日、運転しながらラジオを聞いていたら、気象予報士(女性、名前忘れた)が、杉花粉の飛散が始まるのは 2~3週間後だが、「敏感な人は、もうアレルギーが出始めているようですね」と言っていた。気象庁のいう「花粉飛散開始日」はあくまでも観測上のデータであり、それ以前にごく少量の飛散が始まっていることもあるというのは、既に常識だ。

花粉飛散開始日は、Wiipedia によると次のように規定されている。

「花粉飛散開始日」 とは、環境省花粉観測システムの花粉自動測定器 (ダーラム型花粉採集器) にて 1平方センチメートルあたり 1個以上の花粉が 2日以上連続して観測された最初の日を指す。注意点として、飛散開始日はあくまでも観測上での日時であることが挙げられよう。つまり実際には飛散開始日よりも前にごく少量の花粉飛散が始まっているため、敏感な患者は飛散開始日より前に発症する場合もある。

というわけで私は、その「敏感な患者」の一人のようなのである。最近、風邪を引いているわけでもないのに、どうも鼻づまりがしたと思うと、急に鼻水っぽくなったりするという繰り返しで、「一体何のアレルギーだろう?」と思っていたのだが、杉花粉というなら納得だ。

この寒さのせいで、まさか杉花粉がもう飛び始めているとは、思い当たらなかったのである。しかし考えてみれば、例年立春の少し前頃には「どうも杉花粉が飛び始めてるんじゃないかなあ」と思っていたのである。今年はこんなに寒いのに、飛び始めるのが少し早いみたいなのだ。

気象庁によると、今年の杉花粉飛散量は例年の半分ぐらいらしい。ということは、症状的にはあまりひどくならずに済みそうだ。しかし症状が重いか軽いかということと、早く現われるかどうかというのは、別問題だ。私はどうやら、毎年かなり早く症状が現われるタイプのようなのである。

こんなことで 「敏感」 と言われても、少しも嬉しくないのだが。

 

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2014年1月22日

Windows 8 は 「新しい Vista」 というより始末が悪い

Paul Thurrott という人は Microsoft ウォッチャーとして有名らしいのだが、私は知らなかった。今回初めて知ったのは、彼の Twitter での tweet が話題になっているからである。Microsoft の社員が、社内で Windows 8 を "New Vista"(新しい Vista)と呼んでいるというのだ。

他ならぬ Microsoft の社員がそんなことを言っているようでは、どうしようもない。何しろ販売が芳しくないというのである。新型の PC のほとんどが Windows 8 マシンになって久しいというのに、売れないというのは大問題だ。需要がタブレットに流れているのも、風向きが悪い。

先日は某家電量販店の店頭で、「ビジネスに使いやすい Windows 7 パソコン、在庫あとわずか」という看板を見て、思わず笑ってしまった。この看板の背後に、「ビジネスに使いにくい Windows 8 パソコン、在庫たっぷり」という文字が見えたような気がした。

さりげなく触れておくが、実はこのほど MacBook Pro を買って、Mac ユーザーの仲間入りを果たした。まだ Windows 7 の Let's Note が元気なので、併用しながら徐々に Mac に移行していくつもりだ。この 20年ずっと抱き続けてきた「自分は本来ならば Mac ユーザーであるべきだった」という思いから、めでたく決別できたのが嬉しい。

MacBook は、近所の家電量販店で購入した。きっちり値引きしてもらえたので、ハッピーである。店員に「Windows 8 は死んでも使いたくないから、乗換だよ」と言うと、「そうですよねぇ。大きい声じゃ言えませんが、実は私もそう思います」と言っていた。まあ、Mac 売場の店員だから、戦略的つぶやきかもしれないが。

聞けば、消費税アップが迫るにつれて、Mac の売れ行きが好調なのだそうだ。どうやら Windows 8 は、長年の Windows ユーザーを Mac に流出させるためのリーサル・ウェポンになっているような気配なのである。そうした意味では、Vista よりずっと始末が悪い。

 

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2014年1月21日

東京都知事選のありがた迷惑

細川さんが「脱原発」を旗印に、都知事選に立候補すると聞いて、少し期待したくなっていたのだが、その後ろで、鳩山、菅、小沢という面々が出番を作りたくてうずうずしているらしいという情報で、しらけてしまった。この 3人が表立って支援なんかし始めたら、こんなありがた迷惑はない。

鳩山、菅の両氏は、はっきり言って民主党政権時代の日本を思い切り迷走させた責任者みたいな存在だ。とくに鳩山さんの沖縄米軍基地に関する軽率すぎる発言は、今に至るまで混乱を長引かせているではないか。

小沢さんは「脱原発」を目指す者同士ということで、ひっつきたがっているようなのだが、細川・小泉・小沢のトロイカなんてことにならないように、どうか突っぱねてもらいたいものである。小沢さんの主張する「脱原発」なんて、いかにも取って付けたようで、信念から出ているものとは思われない。いつ裏切られるか、知れたものではない。

それに、小沢さんという人は昔から、いろいろなところとくっついて、一時的には勢いをつけるものの、すぐにややこしいことを言い出してぐちゃぐちゃにぶち壊してしまうという疫病神だ。これまでにそうでなかったことがないのだから、次だってきっとそうだろうと思うほかない。

それにしても東京都知事選挙というのは、どうして喜んで投票したくなるような人に恵まれないのだろう。いや、それは東京に限ったことではないか。

 

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2014年1月20日

鳥取県にスタバがないからって、それがどうした

鳥取県というところは、日本でただ 1つ、スターバックスが 1店もない県なのだそうだ。お隣の島根県は、昨年松江市に第 1号店ができ、この春には出雲に 第 2号店ができるという(参照) のに。

ちなみに鳥取県というのは、私がまだ行ったことのない唯一の県だ。なるほど、スタバがないのでは、私が行く用事のできないのも無理からぬことと、つい思いそうになってしまうではないか。

鳥取県の人口は長らく 60万人弱と思ってきたが、Wikipedia によると 2013年 12月 1日の推定人口は 577,337人ということになっていて、58万人をも切っている。千葉県の船橋市や鹿児島市でさえ(「さえ」 は余計か?)人口 60万人を越えるというのに、鳥取県の人口はそれらの市より少ない。

鳥取県の人口にほぼ匹敵するのは、579,800人ぐらいという東京都八王子市だが、鳥取県はこの八王子市にもわずかに及ばない。約 55万人の杉並区よりは多いが、当然ながら人口密度はずっと低い。なるほど、これではスタバが出店しても、大した儲けにはならないだろう。

しかし、人口というのは多けりゃいいってものじゃない。田舎には田舎の良さというものがある。ここまで書いてきて私は、自らのただ 1つ未踏県となった鳥取県に、行ってみたくてたまらなくなっている。行っても、鳥取砂丘以外にはとりたてて何もないかもしれないが、その何もなさを味わってみたい。

鳥取県はお隣の島根県をかなり意識しているようで、平井伸治知事が「鳥取にはスタバはないですけれども、日本一のスナバ(砂場)があります」などとコメントしているらしい。さらに、鳥取県というところはちょっとしたコーヒー文化をもっているという。

総務省の家計調査によると、鳥取県は平成 22~24年の1世帯当たりのコーヒー豆や粉などの購入数量が全国トップなのだそうだ。購入数量はトップでも、金額となると 4位というのが、ちょっと悲しいといえば悲しいが、おいしいコーヒーを淹れて飲むという文化は確実に存在するのだろう。

それだけに、ローカルではこだわりの専門店も数多くあって、関係者は「スタバの出店時は、覚悟して来てほしい」と話しているというのである。これはなかなか手強そうだ。鳥取ならではのコーヒーというのは、どんな感じなのだろう。

私としてもそのうち、最後の未踏県である鳥取県にも行く仕事ができることと思うが、その時がきたら鳥取のコーヒーを心して味わって、このブログに書いてみたいと思う。

 

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2014年1月19日

東京オリンピックが錦の御旗になってしまったようで

都知事選に立候補するらしい細川さんが、「東京オリンピックは辞退すべきだった」と言ったとか言わなかったとかでゴタゴタになって、釈明することになったらしい。どうも近頃は、東京オリンピックに消極的な人は、歓迎されないどころか、下手すると集中砲火に遭うみたいな雰囲気なのだ。

このあたり、「すごいなあ」と感心してしまうのである。日本国民の 「気を読む」能力というか、変わり身の速さというか、これは大したものである。今や、東京オリンピック開催は「錦の御旗」になってしまった感がある。

しかし、ちょっと思い出してもらいたい。2020年オリンピック開催都市の決定直前頃までは、東京の最大のウィークポイントは、国民の「支持率の低さ」と言われていたのである。日本国民の多くは無関心で、 「そんなにやりたければ、どうぞ」程度だったではないか。

私自身は今でも、東京オリンピックを積極的に喜ぶような気持ちには全然なれなし、ぶっちゃけたところ、「開催反対」である。最大の理由は、オリンピック開催が原発再稼働の最大の理由になることだ。でもまあ、ここまできたら、「決まっちゃんたんだから、放り出すわけにもいかないし。どうぞおやりください」程度の意識である。

決定直後の安部さんは、「誘致成功は、日本人が心を一つにしたおかげ」なんて言っていたが、それは言い過ぎというものだ。はばかりながらオリンピック誘致に関しては、日本人が心を一つにしたなんて事実はない。

しかし、あんなにも「無関心」だったはずの日本人が、今やオリンピックで浮かれている。これって、いったいどのへんでスイッチが切り替わっちゃったんだろう? 来月開幕のソチの冬季オリンピックに向けてさえ、連日マスコミが煽りまくっている。私には、「皆さん、空気読み過ぎなんじゃないの?」と思えてしまうのである。

確かにオリンピックを本当に楽しみにしてる人も、増えているのだろう。だからといって、消極派がいても全然おかしくないではないか。日本国民がこぞってオリンピックを盛り上げなければいけないなんていう義理は、全然ないのである。オリンピックに対する態度だって、いろいろあって当たり前じゃないか。

このあたりの多様性すら認められないようでは、「空気読めない人」やマイノリティにとって、日本は住みにくい国であり続けてしまうし、「いじめ」問題だってずっと消えないだろう。

 

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2014年1月18日

稀勢の里ファンには悪いけど

昨日、本当に久しぶりでテレビで大相撲を見た。そして稀勢の里という力士の取り組みを初めて見て、すっかり驚いた。周囲の期待は大きいみたいだが、「こりゃあ、横綱になれる相撲取りじゃない」と、一目で思った。

土俵に上がり、対戦相手と向かい合って四股を踏む段階で、「なんじゃ、こりゃ?」と思った。悪い四股の踏み方の典型である。あんな四股の踏み方では、何百回やっても下半身の鍛錬にはならない。それに、手を下ろして見合う時も、素人じゃないかと思うほど腰が下りていない。

もしどこかの学校の相撲部であんな四股を踏んでいたら、散々怒られて、徹底的に修正されるんじゃないかと思う。プロの世界だと、基本はどうでも勝ちさえすればいいのだろうか。

稀勢の里の過去の戦績を調べると、十両に昇進するまでは敵なしみたいなものだったが、そこから先は成績にムラが生じている。基本的な所作ができていないのだから、それも当然だ。幕下までは上半身の強さで勝ち進めても、関取になったらなかなか通用しない。「強いんだろうけど、安定感がない」 という力士である。

稀勢の里の体型をみると、上半身の大きさに比べて、腰回りが不釣り合いなほど小さい。実際に動いているのをテレビで見て、初めて認識したのだが、これではさぞかしバランスが悪いだろう。致命的欠陥と言っていい。

ただでさえバランスが悪いのだから、卵と鶏の関係かもしれないが、あの腰高では、序盤戦で取りこぼしが多いのも当然だ。下半身に粘りがないから、ちょっとした拍子にあっけなくバランスを崩してしまう。そして緊張すればするほど、足が地に着かなくなる。

稀勢の里は茨城県牛久市の出身ということで、茨城県在住の私の周囲には、稀勢の里ファンがかなり多い。だが熱心なファンには気の毒だが、稀勢の里は横綱にはなれないと予言させてもらおう。万が一、間違ってなれたとしても、横綱にふさわしい成績を安定して維持するのは到底無理だ。

【2017年 1月 21日 追記】

この記事を書いてから 3年経って、稀勢の里の腰高はかなり改善された。初場所の初優勝で、横綱昇進が見えたようだ(参照)。

 

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2014年1月17日

「頭寒足熱」という言葉の気持ち悪さ

唐突だが、私は「頭寒足熱」という言葉が嫌いである。嫌いというのは、頭を冷やして足を温めるという意味が嫌いなのではなく、この四文字熟語の言葉としての成り立ちが嫌いというか、ちょっと気持ち悪く感じるのだ。

この言葉を知ったのは、多分小学生の頃だと思う。最初に触れたのは、話し言葉ではなく文字としてだったので、私は当然にも「トウカンソクネツ」と読むのだと思った。そしてどこかでそう口走ったら、「お前は 『ズカンソクネツ』という正しい読み方を知らんのか」と、馬鹿にされた。

馬鹿にされてはみたものの、この熟語の読み方に関しては素直に「自分が馬鹿だった」と思うことができず、「ズカン~」の方がおかしいではないかと、ずっとこだわってきた。この読み方がおかしいと思わないことの方が、私にはおかしく感じられる。

長ずるに及んで調べてみたところ、やはりこの言葉はテキトーな和製熟語であることがわかった。

Prof_Hiroyukiの語学・歴史談義 というブログの管理人 prof_hiroyuki という人も、やはり「頭寒」を「トウカン」と読むものと思っておられたのだそうで、2010年 4月 29日付の記事で、熟語の読み方で漢音と呉音が混在する例を挙げ、次のように書いておられる。

ズ(呉音)カン(漢音)ソク(呉音)ネツ (慣用音)と、見事にばらばらなのです。

実は私、中学生時代までは頭寒を 「トウカン」 と読むものとばかり思っており、教師と喧嘩になりかけた事がございました。
・・・頭の漢音は 「トウ」、寒の漢音は 「カン」 だからです。

この様な音の種類の齟齬は当該熟語が「和製」だから・・・ という事を知ったのは、ずっと後になってから。

つまり、この和製熟語を作った人が、音読みの辻褄を合わせることを怠り、そのまま広まってしまったもののようなのだ。ほぅら、やっぱりね。この言葉を最初に作った人には、「ズカン」(昔のフリガナでは「ヅカン」― 念のため) と変則的に読ませることが必要になるような、洒落か何かの都合でもあったんだろうか。

あるいは、昔は「頭(ず)が高い」と言い習わし、「頭打ち」を「ずうち」と読んだりしていたようだし、「頭巾 (ずきん)」 などのように「ず」と読む熟語に馴染んでいたので、何の気なしに「ズカンソクネツ」ということにしちゃったんだろうか。「手水(ちょうず)」を「長頭」 と聞き違えることでドタバタになる 「手水廻し」 という落語もあるしね。

いずれにしても、「頭寒足熱」 というのは、あまりできのいい熟語じゃない。

 

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2014年1月16日

「小正月」は「しょうしょうがつ」とも読むのかと思っちゃうほどに

昨日 1月 15日は小正月だった。上方方面では、元日からこの小正月までを「松の内」とするところが多く、実はこの方が伝統的に正しくて、関東では 7日までとされるのは、松の内が長すぎると火事が増えてしょうがないために、幕府のお達しで短縮されたためということを、5年前の 1月 15日付の記事に書いた。

で、この記事に やっさん が次のようなコメントを付けてくれた。

小正月は、「こしょうがつ」ですよね。ですよね。ショウショウガツじゃないですよね。え?私が間違ってるんですか?。否、そんなはずはない。絶対に「コショウガツ」でしょう!? それなのに、J-波(英語読みにしてください)の人気番組を担当する DJが、ショウショウガツ!ショウショウガツと連発。その謂れとか事、詳細に、どこかで聞いてきたように語るわけですよショウショウガツの事を・・・。

言うまでもないことだが、いや、時は既に「しっかりと言っておかなければならないことだが」と断らなければならないほどになっているのかもしれないが、「小正月」は「こしょうがつ」である。決して「ショウショウガツ」じゃない。手持ちの辞書で引いてみてもらいたい。「こしょうがつ」はあるが、「しょうしょうがつ」なんてない。

この やっさん のコメントに、私は次のようなレスを付けている。

賑々しい日本料理のお店でも、賑々しく 「しょうしょうがつ」 とフリガナ振ってるし。

http://www.sakuichi.com/seasons/jan.html

このレスでは、該当の「賑々しい日本料理のお店」の名は出していないが、5年も経ってそのままなのだから、そろそろ名前を出してもいいだろう。大阪西心斎橋にある「作一」という店である。この店、ちょっと調べてみたら、あっと驚くことに、ミシュランで一つ星獲得しているらしい (参照)。

恐ろしいもので、ググって見るとこのほかにも、Jewel Cafe Odakyu OX 狛江店のスタッフブログでも、「本日は小正月 (しょうしょうがつ) です」と、わざわざフリガナ付きで表記されている(参照)。ここまで堂々とやられると、「もしかして、実際に『しょうしょうがつ』と言いならわしてる地方があるのかなあ」と、こっちの方が不安になるほどだ。

ただ、Google では「小正月 "しょうしょうがつ"」というキーワードで検索しても、本日のところはわずか 23件しかヒットせず、しかもその中には、それまで「しょうしょうがつ」と読み間違えていたという記述の方が多い。とりあえず一安心したくなる。

しかしちょっと深読みをすれば、これは、わざわざ「しょうしょうがつ」とフリガナまでふって記述したページが少ないということに過ぎないのだとわかる。文字には反映されなくても実際には誤読している人が何百万人いるか、知れたものではない。この誤読が複数のブログのネタになるぐらいなのだから、きっと「ありがち」なのだ。

今どき、「小正月」という言葉は文字で触れることしかなくなりつつあるのだろう。昔は日常会話の中で普通に出てきて、耳から覚えたものなので、「ショウショウガツ」なんていう誤読を防ぐためにフリガナが必要になるとまでは、誰も思わなかった。いやはや、ちょっとした盲点だね。

言葉というのは生き物だから、ややアブナい状態だが、「ショウショウガツ」が形として残る文字情報は少ないから、まあ、しばらくは放っておいてもこの誤読が市民権を得てしまうことはないだろう。しかし「市民権」はなくても、既に「長期滞在者」ぐらいになってしまっているのは、確かなようなのである。

 

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2014年1月15日

ちょっと 「ブログ論」 というものを書いてみる

ほぼ 1ヶ月半前の昨年の 11月 30日、"「毎日更新」を続けるための「新境地」とは" という記事で、最近はテキストがほとばしり出るなんてことはほとんどなくなったというようなことを書いた。

この記事の中で、私は「生きてフツーに暮らしている限り、ネタが枯れてしまうなんていうことはない」と書いている。自慢じゃないが、どんなことでもネタにしてテキストを書くぐらいの技術は持ち合わせている。とはいえ、「ほとばしり出る」ようなテキストにつながる新鮮なネタというのは、そうそうあるものじゃない。

世の中には「ネタ切れ」に悩むブロガーが結構いるようで、「ブログ/ネタ切れ」の 2つのキーワードでググって見ると、なんと 300万件以上がヒットする(参照)。みなさん、ネタ切れで困っているのだなあと思うのである。

ネタ切れしないためにどうするかという記事をいくつか覗いてみると、テレビや映画の感想を書くとか、書評を書くとか、ニュースサイトでネタを探すとか、買い物リストを公開するとか、いろいろな方法が紹介してある。申し訳ないけど、どれもありきたりだ。

毎日更新のためというなら、私は最適解を持ち合わせている。それは、私のもう一つのブログ "Wakalog" だ。これはいわば「写真短歌」のようなもので、毎日和歌を一首詠んで、それを写真と一緒に載せるだけだから、ネタ切れのしようがない。

しかしそれだけでは満足できないので、一方でこの "Today's Crack" 的なブログも続けたいと思うわけなのだ。

年明け頃から、私はブログが「ネタ切れ」に陥らないための解答に到達したような気がする。それは逆説的な結論だが、「ブログを書くためのネタ探しなんてしない」ということだ。生きている限り何らかのインプットはあり、そしてインプットさえあれば、アウトプットのないはずがない。

ブログのテキストは単に結果であって、目的じゃない。言葉を換えれば、「飯を食ったらウンコが出る」のと同じことだ。しかし、ウンコをするために飯を食うわけじゃないのだから、単にブログを書くためのネタ探しをするなんて不毛だ。

人間は、下手をすると「昼飯に何を食ったか」さえ忘れる存在だから、「自覚的に食って、自覚的に消化する」という覚悟がいる。それだけのことだが、それは「ブログを書くため」というより、「まともに生きるため」だ。繰り返すが、ブログのテキストは結果であって、目的じゃないのだから。

ただ、「まともに生きるため」には、どちらかといえば「何を食うか」より「どう消化するか」の方がキーになると思う。世間に生きている限り、必ずしも好きなモノだけを食っているわけにもいかない。しかし自分のやり方で消化しさえすれば、何を食っても生きることはでき、出てくるのは自分のウンコだ。

私のブログも、世間で話題になっているニュースを取り上げることが結構多い。しかし単なる事実の紹介やステロタイプの切り刻み方をするだけなら、私がブログを書く意味がない。ブログを書く意味がないというのは、ブログは結果なのだから、とりもなおさず 「私が生きている意味がない」 ということだ。

私がこの世に生き長らえて、こうして 10年以上もブログを書き続けられるのは、もしかしたら、私が時々、ちょっと面白いたぐいの消化液を分泌できる体になってしまったからなのかもしれない。

 

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2014年1月14日

レーザー・プリンターが安くなっている

多機能レーザー・プリンターが欲しいという友人の、機種選定の相談に乗った。彼は独立してオフィスを構えていて、昨年買ったばかりのインクジェット複合機があるので、モノクロで A4 までのプリントとコピーができればいいという。インクジェットだけでやっていると、どうしてもインク・カートリッジのコストにムッときてしまうようだ。

それほど古くないインクジェット複合機があるのなら、新たに買うのは単機能のレーザー・プリンターでいいんじゃないかと言うと、彼の場合はコピーのニーズがかなりあって、インク・カートリッジの消費が馬鹿にならないので、やはりレーザーでいきたいという。

その上、手持ちのインクジェット機はオート・シート・フィーダー(ADF)がないため、複数ページのコピーをする時に、いちいちフラットベッドに原稿をセットするので、ストレスまみれになっているらしい。なるほど、それでは ADF 付のレーザー複合機が欲しくなるのも無理はない。

余談だが、「オート・シート・フィーダー」の略称が "ASF" ではなく "ADF" なのが長年の疑問だったが、今回調べてみたら、"ADF" は "automatic document feeder" の略称だったのだね。なるほどなるほど、合点がいった。

FAX 機能に関しては、家庭用の子機付 FAX 電話機があるので、それで十分だという。そもそも最近は、FAX のやりとり自体が減ってきているので、家庭用のちゃっちいのでも不足はない。確かに、単純な文書のみのやりとりなら、家庭用でも十分だろう。それで不鮮明になるなら、メールの添付ファイルで送ってもらえばいい。

消費税アップの前にということもあり、さっそく 2人で近所の家電量販店に行ったら、最近はレーザー・プリンターの価格が下がっているのに驚いた。昔は単機能の A4 モノクロ・プリンターでも 2万円近くしたが、今は多機能プリンターで、FAX 付でも 4万円以下で入手でき、FAX なしだと、2万円を切る。

家電量販店の店頭でいろいろ吟味した結果、Brother JUSTIO の "DCP-7065DN" という機種に落ち着いた。Brother のサイトでは 「参考価格 27,980円」 となっているが、店頭価格は、17.800円だった。本当に、ずいぶん値段がこなれたものである。

ちなみに私の個人オフィスは、Brother のプリンターを 2台使っている。"HL 5040" という 時代物レーザー・プリンターと、A3 までの印刷、コピー、スキャン、FAX ができるインクジェット複合機 "MFC J6710CDW" という体制だ。仕事上ちょっと大きなサイズのプリントやスキャンが必要なのである。

ただ、フツーは A4 サイズがこなせれば十分なので、小さなオフィスなら 上述の "DCP-7065DN" に FAX 機能が付いたタイプの "FAX-7860DW" があれば十分だろう。これさえあれば、FAX は要らない。

カラー印刷が必要なら、一番安いインクジェット・プリンター(多分 7,000円以下で買える)を買い足せばいい。2つ合わせても 45,000円ぐらいで揃うはずだ。FAX は手持ちの家庭用 FAX 電話でいいというなら、上述の DCP-7065DN と安物カラー・プリンターを、併せて 25,000円ほど出せば買える。

ちなみに小さなオフィスのくせに、ご大層な複合機を保守契約付きで使っているところがあるが、あれはとんでもない銭失いである。(参照

 

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2014年1月13日

「古典落語がわからない」というおっさん

年上の知人に『笑点』のファンがいる。あれの「大喜利 が好きなのだそうだ。だったら、一緒に寄席に行こうかと誘うと、あまり乗り気ではなさそうである。どうしてなのかと思ったところ、彼は「古典落語がわからない」と告白した。

彼は前に、志ん生の CD を買ったのだそうだ。ところがその内容がわからなくて、全然楽しめなかったというのである。いやはや、驚いた。彼の生まれは終戦の少し前で、いわゆる「団塊の世代」よりもほんの少しだけ年上なのだ。今どきの若いモンならいざ知らず、戦中派にも古典落語がわからない人がいるとは知らなかった。

志ん生がわからないなら、文楽はもっとわからないだろう。いや、もしかしたら、志ん生はわからなくても、文楽なら行儀がいいだけ案外受け入れらるかもしれない。先代の金馬あたりなら、かなりわかりやすいと思うが、談志なんか聞かせたら、落語というジャンルそのものが嫌いになってしまうおそれがある。

最初に聞いた演目にも、印象が左右されるかもしれない。『饅頭こわい』とか『長屋の花見』みたいな滑稽噺なら大丈夫かとも思ったが、いや、もしかして「歯が弱くなったからかまぼこが食べづらい」とか「酒は灘ですかい、伏見ですかい」「宇治だよ」なんてくすぐりに戸惑ったりしたら、ちょっとお手上げだ。

『湯屋番』とか『船徳』とかいう若旦那ものは、昔の道楽の世界がわかっていないと、何が面白いのか通じないかもしれない。それなら『道具屋』とか『牛ほめ』とかの与太郎噺ならいいかといわれると、下手したら聞いてる方が与太郎になりかねない危険性がある。

人情噺でも『芝浜』ならわかりやすいかもしれないが、噺の初めの方で「暗い沖に白帆が見えて」「何を『かっぽれ』みたいなことを言ってるんだい、お前さん」なんてな軽口を混ぜられたら、それだけで「???」になってしまいかねない。危ない危ない。

ましてや『仲蔵』みたいな濃い芝居噺なんて、忠臣蔵の芝居の知識がなかったら本当には楽しめない。『明烏』といった郭噺も、今となってはよっぽど説明を加えて演ってくれないと、チンプンカンプンになってしまうだろう。しかし説明が行き届きすぎても無粋になってしまうから、匙加減がむずかしい。

結局のところ、古典落語は数聞いて、その世界に慣れていくしかないのだろう。こうなってしまうと、本当に「特殊な世界の娯楽」なんてことになりかねないのが恐い。

 

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2014年1月12日

無免許運転は案外多い

昨年末から、無免許運転に関するニュースが妙に増えているなと思っていたら、12月 1日付で道交法が改正され、無免許運転の罰則が強化されていたのだった。道理でね。それにしても、50年間も常習的に無免許での飲酒運転をしていた男が逮捕されたというニュース(参照)には、さすがに驚いた。

読売新聞の記事によれば、昨年 9月に「酒を飲んで無免許で運転している男がいる」とのタレコミを受けた京都府警が捜査していて発覚したものだという。逮捕までに 3ヶ月もかかったのは、さすが田舎の警察という気がする。その間に人身事故でも起こしていたら、警察の責任問題にだってなるだろうに。

道交法の改正では、無免許運転の罰則は「1年以下の懲役または 30万円以下の罰金」から「3年、50万円」に強化された。さらに無免許運転を命じたり、容認したりした場合も同様の罰則となったという。ということは、無免許運転と知っていながら同乗したというだけで、多分 30万円ぐらいの罰金は取られるだろう。

無免許運転というのは、思いの外に多いみたいなのである。規定年齢に達していない高校生が親の車を勝手に運転して事故ったり、オッサンが更新を怠って免許が失効したまま乗り続けたりという話は、本当に珍しくも何ともない。

成人の「無免許運転」は、免許が失効したまま運転し続けるというケースが多い。私の知人にも、期限が切れたことに気付かず、2ヶ月以上も運転していて、何かの検問にひっかかってようやく気付いたという人がいる。その 2ヶ月余りの間は、「無免許運転」ということになるわけだ。免許を取得しなおすのに、半年以上かかっていたと思う。

しかし最初に触れた「50年間も無免許で飲酒運転」という 74歳のじいさんは、もしかしたら、一度も運転免許を持ったことがないんじゃあるまいか。「50年」というのは当人の申告でおおよその数字みたいだから、20歳前頃からずっと勝手に運転していたなんてことも疑われる。

田舎ではそんなのが案外いるのである。都会と違って、車の運転ができないと人間の生活ができないというような環境だから、免許を取らなくても、あるいは期限切れになっても、つい軽い気持ちで無免許運転に走る。それがしばらく続くと、改めて免許を取るのが面倒になり、そのままズルズルと運転し続ける。

かくいう私も大分昔に、友人の車に同乗していて、無免許運転の車と接触事故になったことがある。雪の下り坂で、下から昇ってきたおっさんが何を思ったか、道の真ん中で急停車してしまったのだから、避けようがない。

相手のおっさんがのっけから「全面的に自分が悪いから、修理代は全部払う」なんて言うから、何となくおかしいなとは思っていたが、後になってそいつは無免許だったと判明した。道理で「警察は呼ばなくていい」なんて言ってたわけだ。

長く無免許運転をしているドライバーは、普段は問題なく運転できていても、危険回避の教育も不十分だし、いざという時に適切な対応ができないことが多い。それに保険もまともに入っていないから、何かあると厄介なことになる。

罰則強化に伴う一連の報道が、これまでこっそり無免許運転を続けて来ちゃってる不心得者への大きな警鐘となればいいと思う。うっかりしてると警察にタレコミされちゃうというリスクも、今回のニュースで明らかになったことだしね。次からは、タレコミを受けてから逮捕までに 3ヶ月もかかないだろうから、とりあえずすぐに運転を諦めることだ。

ちなみに、私は 4日前に運転免許を家に忘れたまま車を運転しただけで、「無免許」じゃなく「免許不携帯」ということになるのだが、ちょっとあせった。そうかと思うと、運転免許取得後、ずっと神棚に上げっぱなしのまま、日常的に運転していたというオバサンもいる。世の中は大したものである。

 

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2014年1月11日

門松と晴れ着が見られなくなった

私はサラリーマン時代、ずっと繊維関連の業界で飯を食っていたので、東京の下町にあるオフィスに通う時期が長かった。地下鉄の駅で言えば、日比谷線の小伝馬町とか人形町とかいった、あの辺りである。

あの辺りというのは神田明神に近いので、5月の神田祭では結構盛り上がるし、人形町には安産祈願で有名な水天宮があり、秋には宝田恵比寿神社のべったら市で賑わうという具合で、割と伝統行事が盛んな地域である。だから正月にはちょっとしたビルの前には堂々たる門松が飾られる。

ところがそうした特別な土地柄の所を除くと、最近は門松を飾る家も店もビルも、皆無に近くなってしまった。今年の正月なんて、我が家の周囲は大きなショッピングセンターみたいなところでもなければ、門松なんて全然飾られなかったのである。

門松だけじゃない。お正月の晴れ着というのも、ほとんど見なくなった。初詣に行っても、参拝客はほぼ 100%普段着である。つい 10年ぐらい前までは、晴れ着を着て初詣の列に並ぶ若い女の子がチラホラいたものだが、今年は見事なまでに 1人も見なかった。

仕事始めの日に若い女性が晴れ着を着て出勤するなんて習慣も、絶えて久しい。今どきそんな格好でオフィスに行ったら、浮いてしまってしょうがないだろう。テレビでも、晴れ着の女子アナなんてあまりお目にかからなかった気がする。(元々、テレビはあんまり見ないのだが)

民俗学では「ハレ」と「ケ」などと言って、非日常的祝祭と日常の生活を明確に分けて考えている。しかし最近は、この区別がものすごく曖昧になって、一般的には何でもない日でも、その気になりさえすれば「ハレの日」にして騒げるし、その気にならなければ元日だろうが、思いっきり「ケ」のままだ。

こういう傾向を捉えて、「古き良き日本が失われて残念」といったステロタイプのコメントをする人も多いが、私は正直言って、これで結構居心地がいい。楽なのだよね。「これでいいじゃん」みたいなモンである。

ただ人間というのは年がら年中「ずっと日常のまま」では生きられない生き物である。ストレスがたまってしょうがなくなるか、つまらなくてしょうがなくなるかの、どちらかに陥るのだ。そこで、どこかで無理矢理にでも「ハレ」を作らなければならないということになる。

ところが、日本の 1億 2000万人がこぞって参加できる「ハレの行事」なんて、今や存在しないから、各人、各グループがテキトーに「ハレ」を作って勝手に盛り上がろうとする。で、「隣ではエラく盛り上がってるけど、一体何なんだろうね」ってな具合で、マイナーな「ハレ・イベント」だらけの世の中になる。

その結果、「毎日が、どっかでハレの日」という具合になって、全体としては「ハレ」そのものが日常化してしまう。最近の正月というのは、まさにそんなようなもので、「日常化した『ハレの日』のなれの果て」という具合である。

大抵のものが日常化してしまった現代では、「本当の非日常」はよくよく限られた場でしか体験できない。ここまで来ると、「本当の非日常体験サービス」みたいなのが、仕事として伸びることになるかもしれない。

どんなのかというと、ホノルル・マラソン参加や世界の秘境探検旅行みたいなもので、「宇宙旅行」なんていうのは、その最たるものだろう。ただ、どんなに非日常的なものでも、慣れてしまえば日常に堕してしまうので、突き詰めれば「一期一会」の茶道みたいな、精神的なものに行き着くような気がする。

その意味で、「○道」と名の付く日本の武道や芸道は、かなり深いものなのだと思う。宇宙旅行なんかよりずっと安い費用で、ものすごく非日常的な境地に入ることができて、しかも飽きることがない。

今日は門松や晴れ着の話から、とんでもないところに行き着いてしまった。

 

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2014年1月10日

都知事選に田母神さんが立候補するというので

東京都知事選に立候補すると見られる顔ぶれが一通り揃ったようだ。当初は舛添さんが圧倒的有利みたいな雰囲気だったが、自民党内の愛国派がなんと石原さんと一緒になって田母神氏を支持したいみたいな様相を呈していて、分裂がらみである。

そこへもってきて、元首相の細川さんが立候補しそうなそぶりを見せている。小泉さんと元首相同士で組んで、「脱原発」というシングル・イシュー選挙に持ち込んだら、かなりの票を獲得するだろう。

まあ、東京都内に原発なんてないし、これからもあり得ないのだから、細川さんに関して巷には「ずっと茶碗焼いてろ」という声もある。それでも、本当に立候補したら、舛添さんだって楽に当選できないだろう。台風の目である。

と、ここまで書いて、本論として取り上げたいのは、田母神氏である。この人、2008年 11月 4日の記事でもちょっとおちゃらけ気味に書いたのだが、なかなかトリック・スター的な資質をもった人のようなのだ。

例の「田母神論文」で自衛隊の幕僚長をクビになった時だって、時の政府もマスコミもほとんどが当たり障りのない建前論で逃げるか、ヒステリックな感情論で騒ぎ立てるかという、お約束のステロタイプな対応しかできていない中で、当人一人だけがクールに振舞っていた。なかなかの役者振りだったのである。

彼の論文の内容自体は、はっきり言ってそれほど深くも斬新でもなかった。巷の心情右翼が何かにつけて言いたがることを文章にまとめただけで、それこそ右翼的ステロタイプのお手本みたいなものだった。つまり、あの時のやりとりはほとんどステロタイプの応酬でしかなかったのだが、その中で彼の態度は、とてもクールだったのである。

あの騒ぎ以後の彼はあちこちで講演活動をして、それなりにシンパを獲得しておいでのようだ。いや、実際には「シンパ獲得」というよりも、元々心情右翼だった層の心の琴線に触れて、元気付けちゃったという方が正しいのだろう

つまり、彼の支持層というのは、「元々の心情右翼」だけということになるはずなのだ。石原さんの場合は、不思議なほどいろいろ人に支持されちゃったという気がするのだが、田母神さんには、そこまでの期待はできない。政治的には結構保守主義の私だが、自分が東京都民だったとしても、彼に投票しようとは思わない。

要するに、間違っても田母神さんが東京都知事の椅子に座っちゃうなんていう心配はないのだが、選挙運動は面白いことになるだろう。これまでは政治の裏街道しか歩いて来れなかったタイプの主張が、選挙演説として正面切って展開されるのだから、安部さんなんておとなしいものに思われるかもしれない。

彼の主張に、5年前みたいな建前論とかヒステリーとかで対応したら、その方がカッコ悪い。相対的に、田母神さんがカッコ良く見えてしまうことになる。少なくとも、石破茂・元防衛大臣の 「田母神・前空幕長の論文から思うこと」 ぐらいのレベルでないと、お話にならない。

 

 

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2014年1月 9日

やしきたかじんという人の死に関するデジャブ感

やしきたかじんという人が病気で亡くなったということで、マスコミもネットの世界も、えらく話題になっている。しかし申し訳ないが、私はこの人のことをほとんど知らない。名前だけはどこかでちらっと見かけたことがあるが、顔も知らなかった。

妻に「どんな人なの?」と聞くと、「私もよく知らないけど、大阪で歌を歌ってたみたいだから、聞けば知ってる歌もあるんじゃない?」 と言う。それで試しに、YouTube で検索してみて、そこでひっかかった曲をいくつか再生してみたが、1曲も知らなかった。またまた申し訳ないことに、繰り返して聞いてみたくなるような歌でもなかった。

私が全然知らないのに、世間ではどうしてこんなにも惜しまれているのかと不思議に思い、どんな人だったのか Wikipedia で調べてみたら、どうやらずいぶんいろんなものに反抗しまくった人らしい。「ふぅん」という感じである。

この感じ、何だかデジャブ感があると思ったら、その昔、尾崎豊という歌手が死んだと聞いた時に抱いた感慨と、とてもよく似ていると気付いた。

尾崎豊という歌手についても、死ぬ前にはちょっと名前を聞いたことがあるぐらいで、どんな歌を歌っているのかも全然知らなかった。だから死が報じられて、あちこちでずいぶん大袈裟に残念がる人が多いのに驚いたものである。

彼が死んでから、尾崎豊の曲が時々ラジオで流れるのを聞いたが、甚だ恐縮なことに、どこがいいんだかさっぱりわからなかった。この感覚は、今日 YouTube でやしきたかじんの歌を聴いた時と、ほとんど同じといっていいほどよく似ている。

こうした感慨を Twitter でちょっと tweet したら、Hiro. S さんが "尾崎豊は当時は 「反逆のカリスマ」 として持て囃された、って部分はあったかと思います。やしきたかじんも「東に対する反逆のカリスマ」って面の方が強かったかと" というコメントを書いてくれた(参照)。

ふうむ、このあたりの事情も、私のデジャブ感に一役買っているのかもしれない。「反逆のカリスマ」って、なんだかあんまり興味を持てないのだよね。私にとって「反逆」というのは、カリスマチックにやるもんじゃなくて、せいぜい「へそ曲がり」的にやるものなのだよ。

誤解してもらいたくはないのだが、私は尾崎豊ややしきたかじんを貶めようとしているわけではない。ましてや「嫌い」 言ってるわけでもない。貶めたり嫌いになったりするに十分な情報をもっていないのだから、「よく知らない」「興味ない」と言うほかないというだけのことだ。

世の中には私の興味の外の世界で、ずいぶん大きな共感を得ている存在というのがあるものなのだなあと、今さらながら驚いている。そしてそうした現象に関してはちょっとだけ興味が湧いたので、こんな記事を書いたわけである。

 

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2014年1月 8日

「おかんアート」と「おとんアート」の裏側に潜む生物的本能

昨日の "「おかんアート」と現代アートの、ビミョーで大きな違い" という記事に、げすべえでげす さんから非常に興味深いコメントをいただいた。おかんたちが「こうゆうのをせっせと作る」のは、「本能」から来るというのである。

稲作を始める以前の大昔、男は狩りをし、獲物を持って帰る。女は獲物を料理して子らに食べさせ、皮で服を作った。骨で作った針でチクチクとね。

(中略)

DNA に刻み込まれた「チクチクする本能」は、材料になりそうな物を見れば、作業をしたくなっちまうんですな。

この本能の発揮は、昨年大晦日に書いた「押入の奥の宝物」で触れた、どうみても不要品にしか見えないペーパーバッグや端切れを、妻がどうしても捨てたがらないという傾向とも共通するのだそうだ。なるほど、そう考えるとものすごく納得がいく。

昔、女たちは衣服などの実用品を作ったが、今は服なんて安い値段でいくらでも買ってこれるので、はけ口のなくなった本能は、役に立たない摩訶不思議なモノの制作に向く。その結果が「おかんアート」として日本中に溢れているというのである。

ちなみに世の中には「おとんアート」というものもあるという。Google で画像検索してみると、単に「男が作ったおかんアート」にしか見えないものも多いが、それらを除いて特徴的なところを探すと、「マニアックなまでの職人技」と「竹や流木などの自然材料使用による装飾品」というのが見え隠れする。(参照

このうち「自然材料使用」というのは、げすべえでげす さんの指摘する「男は狩りをし、獲物を持って帰る」という本能のバリエーションかもしれないと思い当たる。自然の中に分け入って、使えそうなものを持ち帰るというのは、狩猟本能から来ると考えられる。

こうした自然材料をマニアックなまでの職人技で加工していくのだが、このあたりも男にありがちな特徴だ。実は私の知人にも、こうした趣味に入れあげているのが約 2名いる。停年過ぎて暇を持て余しているので、これが生き甲斐と化しているようにさえ見える。

ただ彼らは職人技の追求は必死にするのだが、えてして美的感覚やデザインの追求までには到らない。故にその作品は、無駄にテクニックを弄した得体の知れないガラクタになりがちという傾向がある。私は極力もらわないようにしているが、周囲には押しつけられて処分に困っている者も少なからずいる。

おとんアートの「こりゃ一体何じゃ?」と、人を当惑させる力はおかんアートを上回るもので、どんなオシャレな部屋の雰囲気も一瞬にしてぶちこわすという破壊力に関しても、おかんアートの比ではない。何しろ、暴力的でさえあるのだ。おかんアートの方が、見ようによっては可愛い気があるだけましだ。

 

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2014年1月 7日

「おかんアート」 と現代アートの、ビミョーで大きな違い

団塊の世代か、それ以前の生まれの専業主婦のいる家庭では、昔から必ずといっていいほど見かけて、その度に内心「なんじゃ、こりゃ?」と思ってしまうものがある。毛糸で作った他愛もない人形やドアノブ・カバー、くどいレース手芸、広告チラシやたばこのパッケージで作った敷物、あるいは、何だかさっぱりわけのわからない装飾品などだ。

こうした代物には「おかんアート」という名称が付けられていると最近知った。この言葉を最初に聞いた時は棺桶の装飾かと思ったが、そうじゃない。Google で画像検索してみると、出てくるわ、出てくるわ、まあ、こんなようなもの である。

誰が喜ぶわけでもないのに、玄関や茶の間にこれみよがしに飾ってある場合が多く、トイレを拝借しても、しっかりと飾ってあったりする。さらに近頃は、地域密着のコミュニティセンターのロビー、道の駅のレストランの片隅、信用金庫の入り口などへの進出が著しい。

行きがかり上、どうしても何かコメントしなければならない状況に陥った時は、「これは手が込んでますねぇ」と言うことにしている。価値判断を伴わない客観的事実だけの、まったく当たり障りのないコメントだが、言われた方は「素晴らしいですね」と言われたかのように勝手に喜んでくれるから、かなり便利な言葉だ。

神戸を拠点に、おかんアートの探索活動を続けているグループ「下町レトロに首っ丈の会」の山下香さんの自費出版による、その名も『おかんアート』という本によると、おかんアートの定義は以下のようになるらしい。

  1. 基本的に、非常に役に立つとは言い切れないが勢いはある。
  2. いらないものの再利用 (眠った子を起こす)。
  3. 飾る場所に困る。飾るときはビニールに入れたままにしたりする。
  4. 部屋のあらゆる場所に侵攻してくる。
  5. センスが良いなど気にせず、セメントのズレなんかも気にしない。
  6. なのに、暖かみだけは、熱いほどある。
  7. 作りすぎて置き場がなくなり、人への配布をスタートする。
  8. 置いた瞬間、どんなにおしゃれな部屋ももっさりさせる破壊力大。
  9. とぼけた顔にイラッと来るか、なごまされるかはあなた次第。
  10. フィーリングで作るキティとドラえもんは危険。

「どんなにおしゃれな部屋ももっさりさせる破壊力大」というのが、まさに言い得て妙である。なるべくもらいたくないのだが、善意いっぱいの笑顔で「これ、どうぞ」なんて言われると、「いらない」とも言いにくくて、本当に本当に困ってしまう。帰り道で駅のゴミ箱に捨ててしまいたくなるが、それも何だか気がとがめるしね。

ところで、"ART iT" というサイトの 2011年 11月 14日付「おかんアートという時限爆弾」という記事で都築響一さんという方が、このおかんアートについて詳細に考察しておられて、上記のおかんアートの定義について、次のように述べている。

これって、読みようによっては、現代美術が(本来)目指すものと、まったくいっしょじゃないか。実用にならなくて、見るひとを困惑させて、オシャレ空間を一発で破壊して、勢いと熱さだけはあふれるほどあって。

なるほど、都築さんがこのブログで紹介しているように、おかんアートはニューヨークのパンクバンド、Sonic Youth の Tシャツデザインとそっくりである。彼は続ける。

100%の善意で作られたものが、見方をちょっと変えるだけで、冷酷なアイロニーのカタマリになったりする。かっこわるいもののはずが、突然かっこいいものに見えてきたりする。置かれる場所によって、だれにも望まれない飾り物になったり、バリバリの現代美術作品になったりする。

つまり、ちょっとだけ文脈を変えるというか、立ち位置を変えるというか、パラダイム・シフトしちゃうというか、そんなようなことをするだけで、おかんアートのコンセプトはがらりと変貌する可能性があるというのだ。

現状のおかんアートが 「バリバリの現代美術作品」に紙一重の差でなっていない理由は、「作り手にその気がない」という一点だけなのかもしれない。その気で作りさえすれば、ビミョーな一線をあっという間に越えられるのだが、この「その気」という次元に達するのは、実は相当に難しいことなのである。

 

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2014年1月 6日

南スーダンでの、どうしようもないしがらみ

昨年末に南スーダンで自衛隊から 1万発の銃弾支援を受けた韓国軍が、年が明けても本国からの銃弾 4万発や食料を含む追加支援を受け取れないどころか、反政府軍に包囲されてしまっているらしい(参照)。何だか正月どころではない様相である。

自衛隊からの銃弾支援に関しては韓国政府が、「何を余計なことを!」と言わんばかりの勢いで、「追加支援が届き次第、すぐに返却する」と大見得を切っていた。しかし、韓国軍合同参謀本部の話として韓国メディアが報じたところによれば、韓国軍の支援物資は「4日になっても受け取れずにいる」ということだし、その後も「受け取った」というニュースはない。

これは、韓国部隊が展開する東部ジョングレイ州の州都ボルが反政府軍に掌握され、韓国部隊に物資を届けるための安全が保証されないとして、輸送ヘリコプターを飛ばすことを国連が許可していないからだという。国連としては、命がけのオペレーションはご免被るということなのだろう。裏で何か交渉しているのかもしれないが。

韓国軍合同参謀本部は、部隊は今も安全な状態にあると主張しているが、既に「孤立の危機」という報道も出始めている。まあ、普通に考えれば本当に「安全な状態」にあるのなら、銃弾の補充を頼む必要なんてないだろうから、やっぱり心配になるところだ。

一方、自衛隊の派遣部隊は 330名が首都ジュバ及びその周辺において活動しているという。いくら無茶ばかり言いたがる韓国の連中でも、すぐ近くにいるのに放っておくのは、同じアジア人として夢見が悪いだろう。しかし前回は、銃弾支援をしただけであんなにいろいろ言われてしまうのだから、よほど緊急な要請がなければ動きにくい。

とはいいながら、よく考えてみれば「よほど緊急な要請」が発せられる状態とは、とりもなおさず「戦闘状態」であり、その中に自衛隊が割って入っていくというのは、「戦闘行為への参加」に他ならない。もし「緊急事態での超法規的行動」だったとしても、これは「海外での戦闘行為の既成事実化」として、大きな憲法問題を引き起す。

さらに何もしなければしないで、韓国側に「我々が危険な地域で頑張ってるのに、日本の自衛隊が安全なところにいるのはズルい」なんて言われかねない。しかしだからと言って、戦闘も辞さない姿勢で武装して危険地域に進駐したら、またぞろ「安部政権の軍国主義的姿勢」として、どうのこうの言われるのは目に見えている。

要するに、日本は助けても助けなくても、さらに何もしなくても非難される。まあ、南スーダンという国は今はしっちゃかめっちゃかの状態だが、豊富な油田資源があるので、将来の利権を見越した思惑が飛び交っている。いざとなったら恩を売りたい国は出てくるだろうから、それを待つしかない。

韓国部隊も大変だが、いろいろなしがらみを受けながら活動する自衛隊員も、本当に本当にご苦労なことである。

 

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2014年1月 5日

餅のリスクと伝承文化

昨年暮れ、メディアは例年以上に念入りに「お年寄りが餅を食べる時の注意」を、繰り返し繰り返し伝えていた。いわく、「小さく切って」「よく噛んで」「喉を湿らせて」「ゆっくりと呑み込む」等々、至れり尽くせりの呼びかけだったのである。私は「これだけ注意を呼びかければ、餅を喉に詰まられる事故は、少しは減るだろう」と思っていた。

ところが、事故は減らなかった。今年も元日の都内で、「お年寄りなど少なくとも 10人が餅をのどにつまらせて病院に運ばれ」たと、NHK が伝えている(参照)。私の 2007年 1月 3日付の記事には、次のように書かれている(参照)。

元日付のニュースでは、東京消防庁によると、「70-90歳代の男性 7人と女性 2人の計 9人が病院に運ばれ、うち 5人が重体」となっている。

つまり、それほど注意が呼びかけられていなかった 7年前よりも、今年の方が病院に運ばれた人数が多いのである。ただ、今年は都内では餅を喉に詰まらせたことによる死亡事故が報告されていないだけ、少しマシかもしれない。一昨年は、三が日の間に都内で 8人もの高齢者が餅を喉に詰まらせて死亡したと伝えられたのだから(参照)。

好意的に解釈すれば、死ぬほどの不注意な餅の食い方をする老人は、都内ではいなくなったということで、注意呼びかけの効果は、少しはあったということだろう。病院に搬送された人数が増えたのは、老人の人口が増えたことによる「自然増」と考えればいいのかもしれない。

「ハインリヒの法則」によると、具体的な数字となって現われた事故の裏には、その 300倍以上の「ヒヤリ、ハッと」があるとされている。ということは、元日に 10人が病院に搬送されたというのだから、3,000人のお年寄りが「うっ、く、苦しい!」となっていたとみても、あながち大袈裟ではない。

いやはや、餅というのは想像以上にリスキーな食い物である。人間というのはこんなに大きなリスクを冒してでも、やはり正月には餅を食いたくなるものらしい。

これは食文化と言えばいいのか、宿業と言えばいいのか、ビミョーなところである。それを如実に感じさせるのが、「餅すすり (あるいは 「すすり餅」)」とか「餅飲み」とかいわれる芸能だ。リンク先の動画にあるように、長く伸ばした餅を端から噛まずにすすり込むスタイルと、小さく切った餅を次から次へと、さながら「わんこ蕎麦」の如く噛まずに呑み込むスタイルがある。

蕎麦を噛まずに喉越しで食うぐらいのことは、江戸っ子ならぬ私でも、ふと気付くとやっちゃってることがあるが、同じことを餅でやろうなどとは、間違っても思わない。ところが、それをやってのける「伝承文化」が、日本各地に存在する。過去に何人もの人死にが出た「諏訪の御柱」 に思いを致すまでもなく、フォークロアというものはかなりアブナいところがあるのだ。

餅の事故から得られるもう一つの教訓は、いくら注意を呼びかけても、伝わらない人には絶対に伝わらないということだ。それは「振り込め詐欺」の被害が一向に減らないことをみても、よくわかる。

 

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2014年1月 4日

年賀状で人柄が偲ばれてしまう

3年前の正月に、届いた年賀状を「手書き/印刷」「オリジナルデザイン/出来合いのデザイン」という視点で分類してみたことがある (参照)。その結果はこんな具合だった。

宛名を印刷したもの: 47%
宛名を手書きしたもの: 53%

文面がオリジナル・デザイン (手書きの一言あり): 30%
文面がオリジナル・デザイン (印刷のみ): 24%
出来合いの印刷文面に手書きの一言を添えたもの: 24%
出来合いの印刷文面のみ: 22%

で、今年はどんな風になっているかと、調べてみた。3年経って変化があるかどうかに、興味が湧いたのである。その結果は、以下の通り。

宛名を印刷したもの: 52%
宛名を手書きしたもの: 48%

文面がオリジナル・デザイン (手書きの一言あり): 29%
文面がオリジナル・デザイン (印刷のみ): 10%
出来合いの印刷文面に手書きの一言を添えたもの: 29%
出来合いの印刷文面のみ: 33%

3年前は宛名を手書きしたものが半数以上だったが、今年はさすがに半分に達しなかった。それでもまだ 48%あるのだから、大したものである。田舎の親戚はほとんどジイさん、バアさんで PC を扱えないから、どうしても手書きになるが、普段 PC でバリバリ仕事をしている人にも手書きで宛名を書いてくれる人がいる。きっとポリシーなのだろう。

中には毛筆で、うっとりするような達筆の宛名を書いてくれる人が、ごく僅かながらいる。こういう人には、今後もずっと手書きで押し通してもらいたい。ただ、私には到底真似できない芸当なので、せいぜい PC でしっかりフォントにこだわるということでご容赦願う。

変化が目立ったのは、文面の方である。3年前はオリジナル・デザインのみで、手書きの一言のないのが 24%もあったのだが、今年は 10%に減っている。オリジナル・デザインにするような、ちょっと 「凝っちゃう人」 というのは、やっぱり手書きの一言も添えたいというところなのかもしれない。

オリジナル・デザインの印刷のみというのは、企業からの年賀状か、アーティストのものかのどちらかになった。アーティストからのオリジナル年賀状はそれだけで「作品」だから、印刷のみでも十分に嬉しい。

ところがその代わりに、出来合いの印刷文面のみのものが 33%にも達している。コンビニなどで売ってるようなどうでもいいデザインの葉書が、そのまま何の手も加えない形で届いたりすると、はっきり言ってちっとも嬉しくない。

甚だしくは、手書きの一言を書くためのスペースがたっぷりと取られてあるデザインなのに、そこがぽっかりと空白のままだったりする。これなんか恐縮ながら、私の感覚では考えられない。ある意味、失礼ですらあるんじゃなかろうか。一言添える気がないのなら、それなりのデザインのものを選べばいいのにと思う。

いずれにしても、年賀状というのは出した人の人柄が偲ばれる。素っ気ないとかデリカシーがないとかいう「人柄」を露わにしてしまうものもあるにはあるが、魅力ある年賀状は魅力的な人柄を偲ばせる。

そうした年賀状をもらうのはやはり嬉しいもので、何度も眺めてしまう。私の妻なぞは、書道の師範をしている友人からの、流麗な草書体の手書きのみの年賀状を、棚に飾って楽しんでいる。

願わくは、自分の年賀状もそんな風に何度も見てもらえる「作品」と呼べるものにしたいものである。私の今年の年賀状は駄作だが、去年のなんかは、我ながらちょっとイケてると思っているのだがね。

 

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2014年1月 3日

韓国人の名前の読み方で、ちょっとだけ疑問が解けた

私はこれまでに数回にわたって、どうして韓国人の「李」という名字は、日本人には「イ」と読ませるのに英語表記は "Lee" なのかという疑問を呈してきた。以下の過去記事を読んで頂ければ、この疑問の根深さがわかっていただけると思う。

中国人、韓国人の名前の読み方 (2008.08.12)

それにしても納得がいかないのは、韓国人は「李」という名前を、どうして日本には「イ」と読むように強要するのに、英語表記は "Lee" でよしとしているのかということである。

韓国大統領「李明博」は、日本人には「イ・ミョンバク」と読ませたいらしいが、英語表記は "Lee Myung-bak" である。ならば、どうして日本人が「リ」と読むと怒られちゃうのか、不思議である。野球の「イ・スンヨプ」選手も、ユニフォームの背中にはしっかり "Lee" と書いてあるし。

先代の大統領「盧武鉉」も、日本人には「ノ・ムヒョン」と読ませておいて、英語表記は "Roh Moo-hyun" である。欧米人が「ロー」と読む分にはいいが、日本人が日本式に「ロ」と読むのはいけないようなのだ。

「グルジア」 が 「ジョージア」 であること(2008.08.17)

最近話題の 「グルジア共和国」 だが、表記は "Georgia" なので、英語文化圏内では、当然のごとく「ジョージア」と読む。

韓国人名の読み方のダブル・スタンダード (2011.08.13)

名前の読み方は、国際的には大抵どこでも 「相互主義」 でやっている。それはアルファベット圏の欧米人同士だったら、お互いに自国の読み方で通しても問題ないということだ。例えば "Agnès" という名前は、フランス人には 「アニエス」 だが、アメリカ人は 「アグネス」 と呼ぶ。それで構わない。それが相互主義だ。

アルファベットの固有名詞の読み方を自国流にしていいという慣習があるのだから、漢字の読み方だってそれに準じて当然だ。

この疑問に対しては長らく納得のいく回答をもらったことがなかった。まあ、漢字の読み方の相互主義が、韓国との間で成立しないのは、向こうでは日本人の名前を漢字ではなくハングルで表記するらしいということからもわかる。

これは向こうが漢字を使わなくなって久しいので、日本人の名前を漢字でそのまま表記されても、自国語流の読み方すらできなくなっているからだろうということは、容易に想像される。つまり、韓国との間では東アジア流の「相互主義」が通用しないということだ。

それでも、どうして「李」が「イ」と "lee" というダブル・スタンダードなんだという疑問は晴れなかったのだが、最近になってようやく 「ふぅん、そういうことなのね」と思える記事を見つけた。「韓国人5大姓とローマ字表記のナゾ」というものだ。

要するに、「そう書くのが一般的」ということと、「"Lee" の方が欧米人に馴染みやすい」からということらしいのである。そんなわけで、「朴 (パク)」は "Park" で、「崔(チェ)」は "Choi" なんだそうだよ。詳しいことは、リンク先でじっくり読んでいただきたい。

なんだか、今イチしっくりこないが、まあ、向こうはそういう習慣でやっているのだろう。一つだけはっきりしたのは、「欧米人に馴染みやすい」表記にはするが、日本人に馴染みやすい表記にするのはご免こうむるということのようなのだよね。まあ、それでもいいんだけどさ。別に。

 

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2014年1月 2日

年賀状というもの

一時は年賀状を 200枚近く出していたが、今年の年賀状は 90枚ぐらいになっている。これからまだ、出していない人から来た年賀状の返信でもう少し使い、結局のところは 100枚近くになるのだろうが、それでも半分程度に減っている。

減った最大の理由は、人が死んだことである。親戚や知人が、それこそどんどん死ぬので、これはもう機械的というか、自動的に減るのだ。親しい遺族が残っている場合は継続してそちらに出すが、そうでもない場合は、もうそれでおしまい。はかないものである。

ただ、私の住所録には死んだ人の名前と住所がいくつも残っている。死んでしまったからといって、あっさりと削除してしまう気になれないのだ。心の整理がついて削除するまで、平均で 5~6年かかる。かなりお世話になった人の場合なんかは、10年ぐらいかかる。父の名前のある実家の住所なんかは、延々と残るだろう。

それから、仕事関係の人が少しずつ減っている。停年で仕事を辞めた人でも、個人的に親しくさせてもらっている人には、自宅宛に年賀状を出すが、そうでもない場合はそれであっさりおしまいだ。私も還暦を過ぎて、仕事を拡大しているわけじゃなく、むしろ縮小しているので、この関係の年賀状がかなり減ってきている。

昔の知り合いとか遠い親戚で、ずっと年賀状のやりとりだけの付き合いになっている人がいる。20年以上顔を合わせたこともなく、葉書や電話、ネット上のやりとりをしているわけでもないのに、年賀状だけは向こうから来るから、ついこちらからも出してしまう。

これなどは先方でも「向こうから来るんだから、こちらも出さないわけにいかないなあ」なんて、うっとうしがっているのかもしれず、膠着状態みたいなものだ。私としても年賀状の数を減らしていきたいと思っている折なので、このケースが一番の悩みである。

メールで済ませるということに関しては、ちょっと前までは、「年賀状だけはリアルの葉書でないと、気分が出ないよ」 なんて、「部屋の本棚の中の本を全部自炊できたら、どんなに楽か」なんて思っている私にしては、かなりコンサバな考えだったが、近頃ついに億劫になって「年賀状もメールでいいよ」と思い始めた。

とはいえ、私より世代が上の田舎の親戚(つまり「おじ、おば」の世代)には、メールを扱えるのがほとんどいないので、相変わらずリアルの葉書でなければならない。このあたりの世代交代が進んだら、メールで済ませられるかもしれないと思っていたのだが、従兄弟/従姉妹の世代でも、どうもまだ抵抗があるようだ。

「自然保護のために、年賀状をメールに置き換えて紙の消費を減らそう」なんていうかけ声が、政府から発せられるとありがたいのだが、郵便局が職員にノルマを課してまで年賀状の売上げを促進したいみたいなので、あまり期待できない。それで金券ショップには、ノルマで買わされてすぐに換金した年賀状が、安く出回っている。

結局のところ、自分の生きている間は、相変わらずインクジェット・プリンターをジーコン、ジーコンと動かして印刷し、郵便ポストに投函しに行くという、億劫な作業を続けなければならないのだろうと、覚悟を決めている。

 

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2014年1月 1日

新年のご挨拶

謹賀新年。元旦は恒例の新年ご挨拶で、とりたてて深い意味はないのでよろしく。

で、恒例の年賀状である。毎年干支のモチーフのデザインをしているが、いやはや、馬のモチーフというのは難しい。なんともこなしようがなくて、こんなのになってしまった。来年はもっと頑張るのでお許し頂きたい。

H26

とりあえず、今年もよろしく。

 

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