やしきたかじんという人の死に関するデジャブ感
やしきたかじんという人が病気で亡くなったということで、マスコミもネットの世界も、えらく話題になっている。しかし申し訳ないが、私はこの人のことをほとんど知らない。名前だけはどこかでちらっと見かけたことがあるが、顔も知らなかった。
妻に「どんな人なの?」と聞くと、「私もよく知らないけど、大阪で歌を歌ってたみたいだから、聞けば知ってる歌もあるんじゃない?」 と言う。それで試しに、YouTube で検索してみて、そこでひっかかった曲をいくつか再生してみたが、1曲も知らなかった。またまた申し訳ないことに、繰り返して聞いてみたくなるような歌でもなかった。
私が全然知らないのに、世間ではどうしてこんなにも惜しまれているのかと不思議に思い、どんな人だったのか Wikipedia で調べてみたら、どうやらずいぶんいろんなものに反抗しまくった人らしい。「ふぅん」という感じである。
この感じ、何だかデジャブ感があると思ったら、その昔、尾崎豊という歌手が死んだと聞いた時に抱いた感慨と、とてもよく似ていると気付いた。
尾崎豊という歌手についても、死ぬ前にはちょっと名前を聞いたことがあるぐらいで、どんな歌を歌っているのかも全然知らなかった。だから死が報じられて、あちこちでずいぶん大袈裟に残念がる人が多いのに驚いたものである。
彼が死んでから、尾崎豊の曲が時々ラジオで流れるのを聞いたが、甚だ恐縮なことに、どこがいいんだかさっぱりわからなかった。この感覚は、今日 YouTube でやしきたかじんの歌を聴いた時と、ほとんど同じといっていいほどよく似ている。
こうした感慨を Twitter でちょっと tweet したら、Hiro. S さんが "尾崎豊は当時は 「反逆のカリスマ」 として持て囃された、って部分はあったかと思います。やしきたかじんも「東に対する反逆のカリスマ」って面の方が強かったかと" というコメントを書いてくれた(参照)。
ふうむ、このあたりの事情も、私のデジャブ感に一役買っているのかもしれない。「反逆のカリスマ」って、なんだかあんまり興味を持てないのだよね。私にとって「反逆」というのは、カリスマチックにやるもんじゃなくて、せいぜい「へそ曲がり」的にやるものなのだよ。
誤解してもらいたくはないのだが、私は尾崎豊ややしきたかじんを貶めようとしているわけではない。ましてや「嫌い」 言ってるわけでもない。貶めたり嫌いになったりするに十分な情報をもっていないのだから、「よく知らない」「興味ない」と言うほかないというだけのことだ。
世の中には私の興味の外の世界で、ずいぶん大きな共感を得ている存在というのがあるものなのだなあと、今さらながら驚いている。そしてそうした現象に関してはちょっとだけ興味が湧いたので、こんな記事を書いたわけである。
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