「おかんアート」と「おとんアート」の裏側に潜む生物的本能
昨日の "「おかんアート」と現代アートの、ビミョーで大きな違い" という記事に、げすべえでげす さんから非常に興味深いコメントをいただいた。おかんたちが「こうゆうのをせっせと作る」のは、「本能」から来るというのである。
稲作を始める以前の大昔、男は狩りをし、獲物を持って帰る。女は獲物を料理して子らに食べさせ、皮で服を作った。骨で作った針でチクチクとね。
(中略)
DNA に刻み込まれた「チクチクする本能」は、材料になりそうな物を見れば、作業をしたくなっちまうんですな。
この本能の発揮は、昨年大晦日に書いた「押入の奥の宝物」で触れた、どうみても不要品にしか見えないペーパーバッグや端切れを、妻がどうしても捨てたがらないという傾向とも共通するのだそうだ。なるほど、そう考えるとものすごく納得がいく。
昔、女たちは衣服などの実用品を作ったが、今は服なんて安い値段でいくらでも買ってこれるので、はけ口のなくなった本能は、役に立たない摩訶不思議なモノの制作に向く。その結果が「おかんアート」として日本中に溢れているというのである。
ちなみに世の中には「おとんアート」というものもあるという。Google で画像検索してみると、単に「男が作ったおかんアート」にしか見えないものも多いが、それらを除いて特徴的なところを探すと、「マニアックなまでの職人技」と「竹や流木などの自然材料使用による装飾品」というのが見え隠れする。(参照)
このうち「自然材料使用」というのは、げすべえでげす さんの指摘する「男は狩りをし、獲物を持って帰る」という本能のバリエーションかもしれないと思い当たる。自然の中に分け入って、使えそうなものを持ち帰るというのは、狩猟本能から来ると考えられる。
こうした自然材料をマニアックなまでの職人技で加工していくのだが、このあたりも男にありがちな特徴だ。実は私の知人にも、こうした趣味に入れあげているのが約 2名いる。停年過ぎて暇を持て余しているので、これが生き甲斐と化しているようにさえ見える。
ただ彼らは職人技の追求は必死にするのだが、えてして美的感覚やデザインの追求までには到らない。故にその作品は、無駄にテクニックを弄した得体の知れないガラクタになりがちという傾向がある。私は極力もらわないようにしているが、周囲には押しつけられて処分に困っている者も少なからずいる。
おとんアートの「こりゃ一体何じゃ?」と、人を当惑させる力はおかんアートを上回るもので、どんなオシャレな部屋の雰囲気も一瞬にしてぶちこわすという破壊力に関しても、おかんアートの比ではない。何しろ、暴力的でさえあるのだ。おかんアートの方が、見ようによっては可愛い気があるだけましだ。
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