「古典落語がわからない」というおっさん
年上の知人に『笑点』のファンがいる。あれの「大喜利 が好きなのだそうだ。だったら、一緒に寄席に行こうかと誘うと、あまり乗り気ではなさそうである。どうしてなのかと思ったところ、彼は「古典落語がわからない」と告白した。
彼は前に、志ん生の CD を買ったのだそうだ。ところがその内容がわからなくて、全然楽しめなかったというのである。いやはや、驚いた。彼の生まれは終戦の少し前で、いわゆる「団塊の世代」よりもほんの少しだけ年上なのだ。今どきの若いモンならいざ知らず、戦中派にも古典落語がわからない人がいるとは知らなかった。
志ん生がわからないなら、文楽はもっとわからないだろう。いや、もしかしたら、志ん生はわからなくても、文楽なら行儀がいいだけ案外受け入れらるかもしれない。先代の金馬あたりなら、かなりわかりやすいと思うが、談志なんか聞かせたら、落語というジャンルそのものが嫌いになってしまうおそれがある。
最初に聞いた演目にも、印象が左右されるかもしれない。『饅頭こわい』とか『長屋の花見』みたいな滑稽噺なら大丈夫かとも思ったが、いや、もしかして「歯が弱くなったからかまぼこが食べづらい」とか「酒は灘ですかい、伏見ですかい」「宇治だよ」なんてくすぐりに戸惑ったりしたら、ちょっとお手上げだ。
『湯屋番』とか『船徳』とかいう若旦那ものは、昔の道楽の世界がわかっていないと、何が面白いのか通じないかもしれない。それなら『道具屋』とか『牛ほめ』とかの与太郎噺ならいいかといわれると、下手したら聞いてる方が与太郎になりかねない危険性がある。
人情噺でも『芝浜』ならわかりやすいかもしれないが、噺の初めの方で「暗い沖に白帆が見えて」「何を『かっぽれ』みたいなことを言ってるんだい、お前さん」なんてな軽口を混ぜられたら、それだけで「???」になってしまいかねない。危ない危ない。
ましてや『仲蔵』みたいな濃い芝居噺なんて、忠臣蔵の芝居の知識がなかったら本当には楽しめない。『明烏』といった郭噺も、今となってはよっぽど説明を加えて演ってくれないと、チンプンカンプンになってしまうだろう。しかし説明が行き届きすぎても無粋になってしまうから、匙加減がむずかしい。
結局のところ、古典落語は数聞いて、その世界に慣れていくしかないのだろう。こうなってしまうと、本当に「特殊な世界の娯楽」なんてことになりかねないのが恐い。
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