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2014年2月に作成された投稿

2014年2月28日

下着メーカー 「トリンプ」 の由来

トリンプ」という名前の下着メーカーがある。私は長らくアパレル業界でメシを食っていたので、このメーカーとも少しは関わりがあった。

このメーカーの英文字標記が "Triumph" であるということも、当然ながら知っていた。中には全然無頓着な業界人もいるが、私は一時、日本の繊維業界の状況を英語でレポートするなんていう仕事もしていたので、会社名の英文表記に関しては、フツーの人よりは気にかかってしまう。

で、この会社の英文名は "Triumph"(意味は「勝利」)なのだから、カタカナでは「トライアンフ」ということに、フツーはなり、「トリンプ」は、少なくとも英語読みじゃないことは明らかである。私としてはそれ以上深く詮索しないで、「フランス語読みなのかな?」ぐらいに軽く考えていた。

ところが、どうやらフランス語読みでもないようなのである。Triumph はフランス語では triomphe になって、読みは「トリオンフ」に近いらしい。さればドイツ語かと思ったが、綴りは英語と同じで、発音はフランス語に近く「トリオンフ」という感じだ。じゃあ「トリンプ」というのは、一体何語読みなのだ?

この疑問は、案外簡単に解けた。スイスに本社がある Triumph International という会社が日本に進出した際に、日本語の読み方をどうするかで検討した結果、「トリンプ」という、何語読みというわけでもない、いわく言いがたい読み方になったのだそうだ。

「へなちょこパンチ」というブログの管理人さんが、トリンプの日本法人に直接問い合わせたところ、次のような返事があったそうである。(参照

弊社の名前の由来とのことですが「TRIUMPH」はドイツ語で「勝利」という意味であり、
その単語を日本になじみやすく「トリンプ」という読み方にしました造語でございます。

なんとまあ、「造語」なんだそうだよ。びっくりだね。

ちなみに、このブログの管理人さんは「なぜ『下着会社』が『勝利』なのか」を知りたかったのだが、この回答ではその疑問までは晴れなかったとしている。で、その部分を探してみると、Wikipedia で案外簡単に見つかった。こんなことらしい。

世界中のどこでも一目で認識してもらえる印象的な商標の必要性を感じていたシュピースホーファーは、パリの凱旋門を目にした瞬間にひらめき、勝利=「Triumph」が商標となった。

案外単純な理由で、"Triumph" というブランドはできてしまったらしいのだ。ちなみに、シュピースホーファーというのはドイツのコルセット製造職人で、トリンプの創業者である。ドイツ人にとっては、女性の下着もかなり豪快なイメージで語るもののようなのである。

まあ、それも何となくわかるような気がするけどね。

 

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2014年2月27日

入試シーズンになると思い出すこと

今頃は入学試験のシーズンで、先日の大雪では試験開始を昼過ぎまでずらしたりするなど、大騒ぎになっていた。いずれにしても、入試というのは受ける方も学校側も大変だなあ。

ちなみに私は、我ながら生意気なことだが、高校でも大学でも大学院でも、入試で苦労したという経験がない。

私の田舎では、高校の選択肢なんてほとんどなくて、中学時代の成績が良かったら、ほぼ自動的に地域で一番の進学校一本で受験するものと相場が決まっていた。当時は競争率だって 1.2倍以下の呑気なもので、「滑り止め」なんていう意識もなく、公立校を落ちた者がのんびりと私立に願書を出しても間に合った。

私の場合は、通っていた中学の教師をしていた伯父が「あいつが落ちるようなら誰も受からないから、安心してろ」と父に言っていたそうで、当人も全然心配していなかった。受験勉強といっても「今さら何を勉強するんだ」ってなもので、特別なことは何もせずにあっさりと合格した。

高校在学中も、学校以外で勉強というものをしたことがなく、ただひたすら楽しく遊び回っていた。それでも高校 3年の夏を過ぎて、さすがに大学入試のための勉強というものをしなければならないと気付いたのだが、実際には 11月の文化祭が過ぎるまではその気にならなかった。

文化祭で目立ちまくり、その後はしばらく燃え尽き症候群になったので、受験勉強を始めたのは、12月になってからである。だから受験勉強は 12月と 1月の、実質 2ヶ月しかしていない。

大学は私立文系を受験したので、文系 3科目で済んだ。たった 3科目なら、2ヶ月あれば十分すぎる。しかも社会科では「倫理社会」が一番得意だったのだが、それではあまりにも点数を取り過ぎて他の受験生に悪いだろうから、2番目に得意だった「日本史」を選択したほどである。

そもそも「倫理社会」は「勉強」というより「道楽」と思っていたので、そんなもので大学入試を受けるのは「反則」みたいな気がして、自分から遠慮したのだ。ああ、なんてまあ、呑気な私。

ワセダの入試当日、机の上に裏返しに置かれた問題用紙を、開始のベルが鳴ってひっくり返したとたん、びっくりした。「ワセダの入試問題って、こんなに簡単でいいのか!」と思ってしまったのである。高校入学以来ずっと必至に勉強してきてこんなので落ちるやつが気の毒だと、心底思った。

当時の私の受験勉強なんてまったくテキトーなもので、今では常識になっているような試験対策なんてほとんどやらなかった。「要するに出された問題に答えさえすりゃいいんでしょ。どこからでも、かかっておいで」という基本姿勢で臨んだのである。

だから「受験テクニック」なんてものは、ほとんど身に付いていなかった。当時の田舎の進学校の受験指導なんて、その程度のものだった。こう言っては、ますますゴーマンに聞こえてしまうかもしれないのが恐縮だが、私ってば、テクニックじゃなく、地力であっさり合格したのである。

そして受験テクニックに疎かったというのは、思わぬところでプラスに作用した。

ワセダの前に「滑り止め」のつもりで受験した R 大学は、当時珍しいマークシート方式の試験だった。この試験で最後の問題に答え終わり、「さあ、後は寝るか」と思ったら、なんと回答欄が 1個残っていたのである。

つまり、どこかで問題を 1個飛ばしてしまったのだね。で、私はあろうことか、全部消しゴムで消して、しかも、紛れがないようにきれいに念入りに消して、のんびり最初からやり直したのである。それが礼儀みたいな気がしていた私は、まさに受験生の風上にも置けない呑気すぎる輩だったのだよね。

その結果、その科目は半分もできないうちに時間切れになり、R 大学は当然のごとく不合格となった。

R 大学の合格発表は、ワセダより早かった。だから下手に R 大学に合格していたら、入学金を無駄に支払うところだったが、幸運にも落ちていたために、払わずに済んだのである。

これが、当時の私の唯一の親孝行だったかもしれない。

 

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2014年2月26日

外務省が日本海の呼称問題で PR 動画を作ったというのだが

外務省が日本海の呼称問題で PR 動画を作成し、インターネット上に公開したというニュースが流れた(参照)。『世界が名付けた日本海』というビデオである。YouTube でも見られるので行ってみたら、至極まとも、かつ客観的で、「そりゃ、そうだよな」 という内容だ。

結びとしての「世界中の国が、自国から見て西や東の海を『西海』や『東海』と呼ぶことを国際化しようとすれば、無用の混乱を引き起こす。韓国の中でしか使用されていない名称に根拠なく変更しようとする試みを良識ある国際社会は受け入れない」という主張も、まことにもっともである。

このことに関しては、2年前にあえて "ならば、太平洋に「東海」と併記せよ"  というエクストリームな記事を書いたことがある。自分で書いていて「無茶だよな」と思ったのだから、韓国の主張がいかに無茶か、わかろうというものだ。

ただ、内容的にはまとも、かつ客観的な今回のビデオだが、現在は日本語版しかなく、「近く英語と韓国語に翻訳した動画も公開する」というのには、ちょっと呆れた。こうしたビデオは国際社会へのアピールとして必要なもので、まずは英語版から出すべきものではないか。

外務省って外交的な業務を行うお役所だったはずなのに、日本人同士で見て、「そうだよね、その通りだよね」とウジウジ言い合うための内向きのビデオを作って、一体どうしようというのだ。

しかも産経ニュースによれば、これは「同様の動画は平成 18年に作成していたが、より多くの人に見てもらおうと約 13分を約 5分半に短縮して分かりやすく再構成した」ものというではないか(参照)。だったら、外務省はせっかく作ったビデオを、8年近くも大事に眠らせていただけなのか。

(13分バージョンの方には 外国語版もあるのだとしたら、ごめん。ただ、いずれにしてもあまり活用されていなかったみたいではある)

個人的には、今の「日本海」の呼称を何が何でも守り通さなければならないとは、思っていない。他に適当な名称があったら、何も「日本海」でなくてもいいと思う。

ただ、「東海」という韓国のローカル呼称はいただけないし、「韓国海」とか「朝鮮海」とかにしてしまうと、向こうは「だから、独島はウチのもの」と嵩にかかるに決まっているので、これもいただけない。

日本と韓国の両方の頭文字をとって "Sea of JK" でもいいと、個人的には思うのだが、これだと何かと話題の「JK お散歩」みたいになってしまうのが難点かなあ。

 

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2014年2月25日

"Commander" を「船長」と言い換えてでも

今日、出先から車を運転して帰る途中に聞いていたラジオで、「若田光一さんが国際宇宙ステーション(ISS)の『船長』に就任する」 というニュースを聞いた。東洋人では初めてなのだという。私は、「ふぅん、若田さんがキャプテン(Captain = 船長)になるのか」 と思って聞いていた。

ところが帰宅してからネットでニュースをチェックしたところ、若田さんが就任するのは「キャプテン」ではなく「コマンダー(Commander = 司令官)なのだとわかった(参照)。

改めて日本語のニュースをググると、大抵のメディアは「船長」になるのだと報じている。どうも「コマンダー」とか「司令官」とかいう軍隊じみた言い方は避けたいという意思が感じられる。

念のために英語のメディアをみると、ほとんどが "commander" とか、動詞の "command" とかいう言葉で報じている。日本のマスコミでも、英字紙になると "Astronaut Wakata to start ISS command on March 9" (Mainichi Daily News)なんていう見出しになっている。

英語では平気で「指令を下す」みたいな言い回しをしていながら、日本語になると、どうしてもそうした直接的な言い方は避けたいみたいなのだ。あの産経にしてからが「若田船長」と報じているほどである(参照)。

こうしてみると、安部政権が海外メディアからいかに「軍国主義的」と言われようと、日本人の感性はちょっとしたことでも軍事的なニュアンスを可能な限り避けたいと思ってしまうほどに、軍国主義からは遠くなっているようなのである。

 

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2014年2月24日

大河ドラマのテイストが苦手

相変わらず NHK 大河ドラマのテイストが苦手である。今やってる『軍師官兵衛』は黒田官兵衛が主人公なのだが、そもそも私は、黒田官兵衛と山本勘助と柳生十兵衛と竹中半兵衛の区別がつかない。

いや、いくらなんでも、よく考えればこの 4人の違いぐらいはわかる。ただ、急に言われると、咄嗟には誰が誰だかわからなくなるぐらいの、立派な歴史音痴である。だからそもそも、大河ドラマに出てくる主人公には思い入れがないし、その人物に関するドラマを 1年間も見守るだけの根気がない。

それに、大河ドラマというのは、見ていてどうもピンとこない。具体的にいうと、ストーリーを合理的に説明しようとする流れと、登場人物の心理主義的描写が、生理的に苦手なのである。

あれって、まさに我々が飽き飽きしているはずの「近代主義的技法」の権化なんじゃなかろうか、リアルに表現しようとされればされるほど、私にはおとぎ話に思えてしまう。それよりは、歌舞伎の荒唐無稽の方がずっとおもしろい。

同じ歴史ドラマでも、もうちょっと別の、例えばポストモダン的な視点で眺められるようなものって、できないものなのかなあ。いや、そんなスタイルで大河ドラマを作っちゃったら、メイン・ターゲットの中高年層に総スカンを食らってしまうのだろうか。

団塊の世代は絶対数が多いし、皆テレビが好きだし、ステロタイプの解釈を受け入れやすいし、それに何より、まだまだ長生きしそうだし、それを考えると、大河ドラマのテイストはなかなか変わりようがない。つい諦めの境地になってしまうのである。

 

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2014年2月23日

ウチの本宅サイトの BBS が 1年以上前に閉鎖されていた

うちの本宅サイトで使っていた無料 BBS(掲示板システム)がいつの間にか閉鎖になっているのに気付いた。どうせ最近は書き込みも絶えてほとんど使っていなかったから、トップページからのリンクボタンを削除しておいた。

私が自分のサイトをもった 12年前頃には、個人サイトには読者との交流のために掲示板を設置するのがマナーみたいなことになっていたので、最初は teacup の BBS を使っていた。ところがこれがあまりにもちゃっちいのですぐに見切りをつけ、いろいろな無料 BBS を渡り歩いた。

BBS の最大の問題はスパム・コメントの多さで、私の BBS も、エロサイトや怪しい出会い系サイトへの誘導を目的とした書き込みに手を焼くようになった。それで最後にたどり着いたのが Hide BBS というシステムだった。この BBS はスパムコメント対策が行き届いていて、なかなか使いやすかった。その辺りのことは、6年半前の記事に書いてある(参照)。

ところが世の中は次第にブログや SNS 全盛となり、個人サイトの BBS なんて、誰も気にしなくなった。私の記事にコメントしたかったら、ブログに直接コメントする方がずっと手っ取り早いのだから、当然である。それで私も、自分の運営する BBS のことをすっかり忘れていた。

Hide BBS の運営会社からは、ちゃんと 2013年 1月 31日をもって BBS を閉鎖する旨の通知が届いていたらしいことを、東工大ハンググライダー部のブログで知った(参照)。どうやら私は、その通知を見逃していたようで、ズボラなことに 1年以上もほったらかしておいたわけだ。

いずれにしても、Hide BBS は筑波大などのちゃんとした組織が利用していたほどで、かなりクォリティの高いシステムだったと思う。それだけに、閉鎖を残念に思うユーザーも少なくなかったようだ。

とはいえ、私としては 1年以上も閉鎖に気付かなかったことでもわかるように、BBS の存在を意識しなくなって久しいので、とくに残念な思いもない。もう BBS というシステムの使命はほとんど終わってしまったのだと考える方が、いっそすっきりする。

ちなみに、「かんたん相互リンク」というシステムを使った相互リンク集(参照)というものも、当本宅サイトがスタートして間もなくから使っているのだが、これも今や、ほとんど意識していない。まあ、捨ててしまうのもなんだから、惰性で使っている程度である。

個人サイトを運営し始めて 12年も経つと、ネットの世界はかなり変わってしまっていることに気付く。ブログや SNS なんて、当時はなかったんだから。

 

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2014年2月22日

森喜朗元首相の、何が「暴言」なのか

森喜朗元首相がソチ五輪での浅田真央選手に関して暴言を発したとやらで、非難囂々の憂き目に合っている。この人、昔から 「無党派層は寝ていてくれればいい」 など、余計なことを言っては物議をかもす。

ただ、今回の発言は、例によって文脈を無視して一部分だけをセンセーショナルに取り上げるマスコミのトリミングによって「暴言」と化しているようなところがあるようだ。実際の発言は以下のようなものだったと伝えられている。(参照

「頑張ってくれと見ていましたけれど、真央ちゃん、見事にひっくり返りました。あの子、大事な時には必ず転ぶんですね」

「浅田さんが(団体戦に)出れば、3回転半をできる女性はいないから、成功すれば3位になれるかもとの淡い気持ちで出した。それで、見事にひっくり返ってしまった」

「その傷が残っていたとすれば、ものすごくかわいそうな話。負けるとわかっている団体戦に、浅田さんを出して恥をかかせることはなかった」

「転んだ心の傷が残っているから、自分の本番の時には、何としても転んではいけないとの気持ちが強く出たのだと思いますね。勢いが強すぎて転んでしまいました」

と、こんなようなわけで、森さんの発言は巷間言われているほどのひどいものではなかったようなのである。むしろ、浅田選手に同情的なものと受け取ることさえできる。

ただ、それじゃあ問題なかったのかといえば、やっぱり問題なのだ。それは、元首相ともあろうものが、どんな言い方をすれば妙な受け取り方をされるかということぐらい、熟知していなければならなかったのに、つい軽はずみな言い方をしてしまったということである。

マスコミというのは、発言の一部をトリミングして騒ぎ立てたがるものなのだ。過去の多くの「失言問題」にしても、そんなようなところが多分にある。だったら、発言する方もきちんと用心しなければならない。森さんに限らず、日本の政治家はそのあたりのセンスが皆無の人が多い。

そしてもう一つの問題は、森さん自身の発言の中の矛盾だ。団体戦において「(3回転半が)成功すれば3位になれるかもとの淡い気持ちで出した」と言う直前に「負けるとわかっている団体戦に浅田さんを出して恥をかかせることはなかった」と言っている。

はたして「3位になれるかもしれないという淡い気持ち」だったのか、それとも「負けるとわかっている団体戦」だったのか、どっちと言いたかったのか、さっぱりわからない。この人、頭の中がごちゃごちゃになっていて、整理がついていないようなのである。

結論。やっぱり森さん、あんまり余計なことを言わせない方がいい人なんだろうなあということだ。

 

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2014年2月21日

「IT は楽するためにある」 という原点を忘れないように

私が仕事に IT を活用し始めたのは、1985〜86年頃からだったと思う。富士通の OASYS というワープロ専用機を自費で買ったのが始まりだった。当時は完全に物書き (英語と日本語の半々) の記者だったから、テキスト作成以外の機能はとりあえず必要なかったのである。

ワープロを使い始めて、すぐに天国だと思った。いくら長文の記事でも、とにかく思いついたところから書き始め、後から順序を入れ替えて編集を重ねれば、労せずしてまともな記事になる。紙に鉛筆で書くスタイルの何倍もはかどる。

さらに OASYS に MS-DOS を読み込ませて (つまり、ワープロ専用機を簡易 PC として使って)、英文ワープロソフトの Word Star を走らせれば、スペルチェックまでしてくれる。

その後は MS-DOS ベースの PC を経て Windows 3.1 マシンを、これも自費で購入して使い始めた。大企業勤務経験のない私は、IT はとりあえず自費で購入して、社内で先進的に使い始めるものだった。当時の中小企業の IT 化なんて、どこもそんな感じで進展したのである。まず個人が突っ走って、組織はやっとついてくる。

こんなスタイルでやっていると、仕事の効率は社内の誰よりも上がる。面倒な仕事でもさくさく片付く。ところが、さくさく片付いたらさっさと家に帰れるかというと、そういうわけじゃない。空いた時間を使って、人よりも余計に仕事をしなければならなくなる。そんなわけで、同じような給料で、同僚より余計に仕事をすることになる。

さくさく仕上げて楽するために導入した IT のはずなのに、さくさく仕上げた分、仕事量が増えるというジレンマに陥る。それだけではない。コンピュータを遅れて使い始めた連中に使い方を教えたり、トラブルを解決してやったりという、余計な仕事まで生じる。

楽するために使い始めた IT だったはずなのに、そのためにかえって忙しくなってしまうのだ。

日経ビジネスに 「そのPCにスマホ、本当に役立ってますか?」 という記事がある。パソコンもスマホも普及していなかった昭和末期と今を比べても、日本の労働生産性 (従業員1人当たりの付加価値) は大して変わっていないのだそうだ。

さもありなん。日本の会社には 「楽するために IT を始めた層」 と、「押し付けられて仕方なく始めた層」 がある。後者の場合は 「IT に使われている」 という状態で、今でも 「電卓の方がいい」 と言っているオッサンがいるほどだから、本来期待される生産性を、まったくあげていない。

「楽するために始めた」 という連中も、チームワークを旨とする組織の中で、「仕方なく始めた」 連中のボトルネックに完全に足を引っ張られている。そのために高いコストをかけて作った社内のシステムも、当初期待された効率を発揮するに至らない。

企業の IT 導入は、元々忙しかった社員をますます忙しくし、暇だった社員がますます足を引っ張るという結果になりがちだ。それで両方にフラストレーションが発生する。

こうした事態を避けるには、高度に IT 化された仕事と、せいぜい電卓と FAX 程度でする仕事に完全分離すればいい。そうすればとりあえず、ハイテクで効率を追う仕事と、アナログの良さを発揮した職人芸的仕事の棲み分けができる。

私の場合は、その中間を埋めるような仕事が向いているのだと思う。今、独立して好きなように仕事をしているが、大体そんなようなところでメシを食っているような気がする。この程度が一番いい。 IT に振り回されるほどの仕事をするのは、ごめん被りたい。

仕事を高度に IT 化しすぎると、楽するためのプロセスだったはずなのに、必ず途中でおかしなことになって、人間の心がフラストレーションまみれになってしまう。「IT は楽するためのもの」 という元々の発想を忘れると、IT のせいで楽ができなくなる。

人間というのは、どこかでアナログ的 「遊び」 がないと、まともに生きて行けないのだ。

 

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2014年2月20日

空也上人立像を見つめながら思ったこと

18日に北陸の越前市に出張して、翌日は半日京都をうろうろし、夜になって帰ってきた。今週の初めまでは、水曜夜に再び関東で大雪が降る可能性があるなんて言われていたが、それはなかったので、順調に帰ってくることができた。

それにしても驚いたのは、北陸の越前市は時折小雪が舞ったりしたものの、市内には積雪がまったくなかったことだ。新幹線で京都に向かう途中、新横浜から先の綾瀬市付近はかなり雪が残っていただけに、意外な対比である。

もっとも、日本海側と太平洋側では、雪の降るメカニズムが違う。日本海側の雪は「冬型」と称される西高東低の気圧配置によるものだが、太平洋側の雪は本州南岸を低気圧が発達しながら通過することでもたらされる。これは基本的に春に発生しやすいパターンで、そのため、太平洋側の雪は真冬ではなく春先に多いのだ。

つまり、春の嵐になるはずのパターンで、たまたま気温が低い時に、関東は雪になるのである。今月 14日の雪は、初めは気温が低くて大雪パターンだったが、途中から低気圧の引っ張り込んだ南風が優勢になって、急に大雨に変わってしまった。

関東ではかなり東側となるつくば周辺では、その大雨のおかげで降った雪がどんどん解けてしまった。しかし山梨方面では雨に変わる前に既に思いっきり雪が降ってしまっていて、さらに南風に変わっても気温が下がりきれなかったようで、大雪が降り続いた。それであんなことになってしまったわけだ。

それにしても、もう言い飽きそうになるほどだが、近頃は本当に天候が極端だ。昨年の夏に 40度越えが続いて、これも観測史上初めてのことだったのだが、春先になってこれまた観測史上初めての、甲府で積雪 1メートル越えである。今後はこんなような「記録的な○○」とか「観測史上初めて」なんていう事態が当たり前に起きるだろう。

さらにこないだの東日本大震災に続いて、東海だの東南海だの南海トラフだのといった大地震が連続して起きることが予測されている。これはもう、えらいことだ。

平安末期の「末法の世」と言われた時も、都に頻発した大火、天変地異、大地震、飢饉などで大混乱に陥ったが、現代はその頃の状況によく似ている。平安末期はそうした状況の中で貴族社会から武家社会への大変革が起きた。

昨日は京都に寄って、清水の観音様を参拝してから初めて六波羅蜜寺もお参りした。六波羅蜜寺とは、あの踊り念仏を始めたとされる空也上人が開いたお寺である。真偽は不明ながら醍醐天皇の御落胤と伝えられる空也上人の伝えた踊り念仏は、後の末法の世に民衆の間で大いに広まった。

空也上人の唱える「南無阿弥陀仏」の六字の名号がそれぞれ阿弥陀如来となっている重要文化財、空也上人立像を見つめながら、この平成の末法の世に何をなすべきか、何を慎むべきか、思いを巡らせてしまったのであった。

 

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2014年2月19日

清水の観音様に御参りしたら、二年坂で転んでみるのもいいかも

昨日の夜から京都入りし、今日は清水寺から東本願寺辺りをうろうろして、昼過ぎに新幹線に乗って帰ってきた。清水寺は 20歳前に行ったきりなので、42〜3年ぶりである。

今回は清水の舞台が記憶より小さかったので驚いた。子供の頃に住んでいた町並みが小さく感じるのは体格のせいだろうが、20歳前頃には今の背丈になっていたので、これは一体どうしたことなのだろう。

ところで今日は、清水寺の参道の話である。清水さんの参道では、産寧坂と二年坂というのが有名だ。どちらも土産物屋やら甘味処が軒を連ねていて、いかにも京都らしい風情を漂わせている。

産寧坂は別名「三年坂」とも言って(音が似ているので、ありがちといえばありがち)、二年坂とともに親しまれている。そして今回の訪問で初めて知ったのだが、二年坂と三年坂は、なかなか恐ろしいところらしい。というのは、二年坂で転ぶと二年後に、三年坂で転ぶと三年後に、命を落とすと言い伝えられているというのだ。

それで地元の子供は、わんぱく盛りでもこの 2つの坂では走り回ったりしないらしい。ふうむ、結構急なところもあるから、怪我をさせないための方便的言い伝えなのかもしれない。

ただ私としては、年を取ってからもう一度訪れようと思った。二年坂で転んでみるために。

私はおかげさまで健康そのもので、このままいったらいくつになっても元気で、どれだけ無駄に生き延びてしまうか、知れたものじゃない。それで、「もう十分に生きたかも」という気がしたら、自分の足で歩けるうちに清水寺の観音様に 3度目の参拝をし、そして二年坂で転んでみようと思うのである。

その 2年後に、つつがなく死ねるといいのだが、このケースの「つつがなく」は用法的に無理があるかなあ。

 

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2014年2月18日

冬の京都が暖かいなんて!

実は今夜は京都に宿泊している。そして、冬の京都が暖かいという、初めての経験をしている。

私は今日の今日まで、夏の京都は死ぬほど暑く、冬の京都は気温はそれほど低いわけでもないのに、妙に底冷えすると思っていた。京都というところは、案外体に悪いところである。

その上、私はこれまで何度も京都を訪れたが、ほとんどくそ暑い真夏か、妙に冷え込む冬場で、季節のいい時分に来たのは 1〜2度しかない。今回にしても、立春を過ぎてはいるものの、実際には一番寒い時節だ。

ところが、今夜 9時頃に京都駅のホームに降り立つと、寒くない。むしろ暖かみさえ感じたのである。種明かしをすると、今日は昼から半日、福井県の越前市というところで仕事をして、日が暮れてから京都入りしたのだ。

越前市内は積雪こそなかったが、さすがに北陸で、時折小雪がちらつき、身を切るような寒風が吹き付けた。体感温度としては昼間から確実に氷点下で、ダウンパーカを着てニットキャップをかぶらなければ、震えが止まらないほど。頬が痛いくらいだった。

とくに、仕事を終えて京都に向かう特急をホームで待っている時などは、震えながら足踏みをしていなければならないほどだったのである。そんなところから直接京都入りしたので、生まれて初めて、冬の京都が「暖かい」などと思ってしまったわけなのだ。

一昨日、「フロリダとウィスコンシンの華氏 50度」という記事を書いたが、似たような現象で、寒いはずだった京都が、より寒い北陸から来ると、暖かく感じてしまっているのである。こんなのは当然のことかもしれないが、当人にしてみると、かなり新鮮に感じてしまっているのであった。

余談だが、私はくそ暑い時かくそ寒い時しか京都に来ていないので、どこに行っても混雑したことがない。桜や紅葉の綺麗な頃などはとんでもない混雑になるらしいが、それが避けられているのは、幸いなのかもしれない。

 

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2014年2月17日

「報・連・相」 の馬鹿馬鹿しさ

報・連・相(ほうれんそう)を禁止せよ」という日経ビジネスの記事のタイトルに引かれて読んでみると、岐阜県の未来工業という会社は、実際に「報・連・相」を禁止しているのだそうだ。うぅむ、なかなかやるのう。

例えば出張先から上司に「今、名古屋駅です。これから新幹線で戻ります」などと連絡を入れることについて、同社は「小学生ではあるまいに、なぜ、いちいち連絡をしてくるのか。通話料も無駄だし、かけてくる社員の時間はもちろん、受ける事務員の時間も無駄」と、ばっさり切り捨てている。

それだけではない。同社は「『どこどこを訪問してカタログを置いてきた』といった報告を書かれてもなんの参考にもならない」と、数年前から営業日報も廃止しているという。

私自身もサラリーマンをしていた頃、一世を風靡した「報・連・相」にはものすごく疑問を感じていた。週報の提出を義務づけられていた時期があったのだが、そんなものを提出しても、上司はまともにチェックしている気配がない。報告の内容よりも、「きちんと提出している」というアリバイの方が大切なのだ。

実際のところ、社員というのは毎日、毎週、とくに報告しなければならないほどのユニークなことをしているわけじゃない。報告書の中身なんていうのは、たいてい面白くもなんともないのである。だから上司だってまともに目を通さない。その証拠に、たまに大切な変化や提案などを報告しても、何の反応もない。

本当に伝えなければならない大切な事項は、日報や週報なんかに書いても無駄で、直接口でいう方がずっといい。ということは、日報や週報なんて、書くだけ無駄なのである。さらに、日報や週報を書きさえすればいいという雰囲気は、会社の雰囲気を停滞させる。無駄以上に有害だったりするのだ。

停滞した会社では、「報・連・相」は不真面目だが、たまに大きな仕事をするというやつよりも、毎日、毎週おもしろくもない報告を提出するやつの方が評価されたりする。上司はその報告なんかまともに読みもしないくせに、「きちんと提出されている」という「一見真面目」ということの方が大切なのだ。

報告や連絡なんて、本当に必要な時にすればいいし、相談なんて、下手にすると有望なプロジェクトにつながるはずの案件が上司に握りつぶされてしまうリスクの方が大きい。

形式的な「報・連・相」なんて、無能な管理職の保身の道具にしかならないという、バカバカしいものである。

 

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2014年2月16日

フロリダとウィスコンシンの華氏 50度

一昨日の「九州の大雪」という記事で、九州大分県の人たちが「うっすらと解け残っているところもある」程度の雪であたふたしているのを見て、こっちが驚いたという話を書いた。

すると、米国在住の emi さんが "雪ではないですが、アメリカでも「50 Degrees in Florida →凍える」vs.「50 Degrees in Wisconsin →半袖短パンで駆け回る」というネタがあります" という書き込みをしてくれた。華氏 50度という気温は、フロリダでは凍える寒さだが、ウィスコンシンでは半袖短パンで駆け回れる気温というのだ。

どれどれとググってみたら、まさにぴったりの画像に行き当たった。こんなの である。どうかクリックして見ていただきたい。思わず笑ってしまう。

摂氏で育つと、米国流の華氏はとても馴染みにくい。ネットで調べると、換算式が書いてあって、それは 「°C=(5÷9)×(°F-32) 」なのだという。

ただ、こんなのは到底やってられないので、もっとざっくり簡便にして、「°C=(°F-30)÷2」というのもある。きっちり正確ではないが、近い値が求められるという。

 

例えば、華氏 60度は (60-30) ÷2 で、大体摂氏 15度ぐらいということになる。正確にいうと摂氏 15.6度なのだが、まあ、このくらいの誤差なら問題ないだろう。ちなみに、問題の華氏 50度は、大体摂氏 10度ぐらいとなる。

寒がり屋さんには「肌寒い気温」だが、関東辺りの「暖冬の昼下がり」と思えば、寒さに慣れた人には「ポカポカ陽気」ということになる。ふぅむ、なるほどね。

ただ、私はこのくらいのざっとした計算でも頭がこんぐらかるほど苦手なので、わざわざ摂氏に換算するなんていうのは、ハナから諦めている。じゃあどうするのかといえば、もう、米国在住者の感覚になってしまうのだ。

どういうことかというと、「60〜70度が一番過ごしやすい」 というのが、一応の目安である。そして、「40度は寒い、30度はやたら寒い、20度以下は凍える」 という体感で捉え、暑さは「80度は暑い、90度はめちゃくちゃ暑い、100度は死ぬほど暑い」という、ざくっとした感覚でやりすごす。

この感じを身につけると、ペーパーバックなんかを読んでいても、いちいち摂氏に換算する必要がないので、面倒臭さから解放される。考えてみれば摂氏の感覚だって、「25度は暑い、30度はやたら暑い、35度以上は死ぬほど暑い」 という感覚で親しんでいるのだから、似たようなものである。

 

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2014年2月15日

ホットミルクはなぜ甘いのか

人間いくつになっても知らないことってあるもので、逆に言えば、いくつになっても新しいことを知って「そうだったのか!」と頭の中に電気が灯るような爽快感を得るのが、当サイトの目的の一つだったりする。というわけで今日は、還暦を過ぎて初めて知った「ホットミルクはなぜ甘いのか」という話題である。

牛乳を暖めるとほんのりとした甘みが加わるのは、ほとんどの人が知っているだろう。とくに冬の寒い夜などはホットミルクを飲むと体が暖まるのと同時にほっこりとした気分になって、寝付きがよくなったりする。

もっとも、古くから言い伝えられている「ホットミルクで安眠できる」ということについては、「効果がある」という説と「単なる気のせい」という 2つの説がある。

実際のところ、牛乳に含まれる安眠成分が本当に効果を発揮するには、よほど大量に飲まなければならないという話もあり、いずれにしても 「気分の問題」 というのが大きいようだが、それならそれでもいいじゃないかという気もする。「納豆を食べて痩せる」なんていう話よりはずっといい。

で、話を元に戻すが、牛乳を温めると甘くなるというのは、私はおぼろげに、熱を加えることによって微妙な化学変化が起きて甘み成分が生じるのだと思っていた。ところがどうやらそうじゃないらしい。

それは人間の舌の方の問題らしいのだ。「Yahoo 知恵袋」に次のようにある。

甘みは体温と同じか少し高めの温度の方が甘さを強く感じます。温めた方が冷蔵庫から出してそのまま飲むよりも甘く感じるのはそのせいです。

念のため、「味覚/温度」というキーワードでググると、九州労災病院の勤労者予防医療センターというそれらしいページに行き当たり、そこにも次のようにある(参照)。

舌には、未蕾という甘み、塩辛さ、苦み、酸味を感知する4種類の感覚器がありますが、4つのうち、甘みと塩辛さの感度は、人肌の温度の時をピークに、それより高くても低くても鈍化してしまうそうです。甘みは体温に近い温度の時に、もっとも強く感じるそうです。

というわけで、冷たい牛乳を飲んだときには感じられなかった甘みが、温めたときにしっかりわかるというだけの話のようなのだ。なんだ、そんなことだったのか。

ちなみに、Yahoo 知恵袋の方には、「アイスクリームのように冷やして食べるスイーツは、常温にすると耐えられないほど甘くなりますよ」という記述があり、実際に試してみようかとも思ったが、それではもったいなさ過ぎると考え直して、危うく思いとどまった。

 

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2014年2月14日

九州の 「大雪」

大分県への出張から帰ってきた。

昨日から今日にかけて、大分県でも「大雪」になった。括弧付きにしたのは、私の目からは到底そうは見えなかったからだが、土地の人は、「いやいや、よう来られました。こんな大雪では来きらん(来られない)と思うとりました」 と、恐縮しきりだった。こっちが恐縮するほどである。

実際、国東半島の別府湾添いは、「ところどころうっすらと積もっているところがないわけではない」という程度の雪だったのだが、大分空港に行く高速道路は夕方になっても閉鎖されたままだったし、幼稚園は休園のところが多かったようだ。私の訪ねた人も「この雪では、仕事にならん」と言っていた。

この程度の雪で「仕事にならん」というようでは、東北では冬の間中ずっと仕事にならん。私としては関東の人たちが雪に対する耐性がなさ過ぎると感じていたが、九州の人はそれ以上のようだ。

帰りは、大分空港まで一般道を通ってのろのろと走り、「羽田空港が雪で着陸できない場合は、関西国際空港に降りるとの条件付き」と脅されて飛行機に乗り込んだ。実際には「羽田空港の滑走路の除雪に手間がかかった」とやらで、順番待ちの着陸となり、かなり時間がかかったが関西で下ろされずに済んだ。

東京都内は結構な積雪でびっくりしたが、つくば周辺は雪が降り出したばかりという風情で、案外スムーズに帰ってくることができた。九州人だったら、どこかホテルに泊まりたくなるところだったろうが、多分、どのホテルも満室だったろう。

 

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2014年2月13日

ネクタイの締め方に関する偏見

昔からネクタイは好きじゃなかったが、今世紀に入ってからは滅多にしなくなった。冠婚葬祭やオフィシャルな格好が求められる場以外では、まず締めない。多分、ネクタイをするのは年に 20回以下だろうと思う。月に 2度締めることはたまにあっても、3度はまずない。

ところで、ネクタイの結び方はものすごくたくさんの種類があるらしいのだが、私は 3種類しか知らない。プレーンノット、ウィンザーノット、セミウィンザーノットだ。そしてこの中で、一番簡単なプレーンノットしかできない。

いや、その昔、ファッション雑誌に載っていた図を見ながら、他の 2種類も試してみたことはある。今でも、多分やろうと思えばできないことはないだろう。しかし、たかがネクタイでプレーンノット以外の面倒な結び方をするなんて、気が遠くなってしまいそうなので、40年近く面倒な締め方から遠ざかっている。

世の男たちは、どんな締め方でネクタイを身につけているのだろうか? ネットで調べたが、信頼に足るほどのアンケート結果みたいなものは見つからなかった。多分アンケートで回答を求めるにも、世の中のおっさんたちの多くは自分の結び方の名前なんて知らないから、答えようがないんじゃないかと思う。

ただ、周りを見ると、団塊の世代より上のオッサンたちは、圧倒的にウィンザーノットが多いという印象がある。結び目がやたら大きくて野暮ったく見えるし、結んでいるところを見ても、ずいぶん念入りに面倒くさそうな結び方をしている。

乱暴な言い方かもしれないが、クルマを買う時にほとんど自動的に 4ドアセダンを選択するオッサンは、日頃ネクタイをする機会が多くて、しかも間違いなくウィンザーノットで結ぶとみて間違いないと思う。

ウィンザーノットでネクタイを締めるのが好きなオッサンたちは、4ドアセダンに乗り、何かの集まりの二次会では、スナックとかバーとかに繰り出しておねえちゃんとチークダンスに興じ、カラオケでは演歌を歌うのである。

 

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2014年2月12日

パワースポットというもの

「パワースポット」というものがある。いや、「ある」と言ったら語弊があるので、「あると考えている人もいる」と修正しておく方がいいかもしれない。あると考えている人もいるということは、「そんなのでたらめ」と考えている人もいるということだ。

パワースポットとはどんなところかといえば、「自然豊かなところ」と「霊験あらたかな神社仏閣」であることが多いという。そしてパワースポットを訪れると、厄払いと開運の効果があると言われている。

私は昔は山登りが好きで、結構いろいろな山に登った。そして今でも神社仏閣好きで、日本全国に出張するたびに、その地の寺や神社はできるだけ参拝するようにしている。ということは、私はこれまでに、数えきれないほどのパワースポットを訪れているはずなのだ。

で、こんなにも多くのパワースポットを訪れている私自身に、巷間言われているような厄払いと開運の効果が現れているかというと、それはどうだか全然わからない。こんなにも丈夫で病気知らずなのだから、十分現れているのかもしれないし、あまりお金に縁がないので、ちっとも効き目がないのかもしれない。

そもそも私は神社仏閣に参拝するにあたって、ご利益というものを求める発想がない。地元の神社仏閣を参拝する時は、日頃の無事を感謝し、旅先では「当地を訪問して参拝させていただくことができました。ありがとうございます」と、感謝の気持ちで手を合わせる。ただそれだけだ。

まあ、こういうお参りの仕方だと、厄は落ちても、金銭的な開運には結びつかないのも道理かもしれない。

 

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2014年2月11日

「脱成長」 を言い続けたいわけ

東京都知事選挙では、「脱原発」を掲げた宇都宮氏と細川氏の得票数を足しても、舛添氏への投票に届かなかった。とくに細川氏は「脱原発」のワンイシュー選挙に持ち込みたかったのだろうが、彼の持論である「脱成長」が災いして票に結びつかなかったとの指摘が多い。

私は都知事選 1週間前の 2月 2日の記事で、次のように書いた。

都知事選に立候補した細川さんが、ちょっと前までは「脱原発」に加え、「脱成長で心豊かな生活を」と訴えていたのだが、立候補してからは「脱原発で経済成長」という言い方に変わったようだ。票を集めようと思ったら、やっぱり「経済成長」と言わなければならないみたいなのである。

この辺が、私が舛添さんに対抗するには細川さんでなければならないだろうと思いながら、その主張に確固たるものを感じることができなかった理由である。「この人、どうもヤバいんじゃないか」という感覚が拭いきれなかったのだ。

先月 21日の「東京都知事選のありがた迷惑」という記事に付けられた山辺響さんの宇都宮氏押しのコメントに、「宇都宮さんの政策をみると、つい共感してしまいそうになるのが、コワイ」というレスを付けたのは、そんな理由からである。今思えば、いっそきちんと共感しておけばよかったかもしれない。

私としては、2月 2日の時点では、"個人的には「脱成長」のコンセプトに賛成だ。人類は経済成長至上主義から卒業すべきだと思っている” と書いたように、「どうして『脱成長』で正々堂々と戦わないんだ」と思っていたのである。このことを、次のように書いている。

こんなことを言うと、「無責任」「非現実的」「おとぎ話」と批判されるが、そうした批判は従来のパラダイムの視点からすれば当然のことだ。

つまり「経済発展から卒業」というのは、従来のパラダイムからも卒業するということである。といっても、いきなり「脱成長」をまさにおとぎ話的に目指したら、社会の枠組みががたがたになってしまうことぐらいは、いくら私でも十分認識している。実際の「卒業」のプロセスは、かなり長い時間をかけて進行させなければならない。

こう書いても、まだ「おとぎ話」という人もあるだろうが、そうした人たちには「経済は成長しなければならない」というテーゼこそが、「おとぎ話」なのだということを言わなければならない。そろそろパラダイムシフトをしなければならない時期にさしかかっているのだ。

ちょっと古い日経の記事だが、"「経済は成長しない」が常態だった 経済史家が実証した「成長しない資本主義」" というのがある。これを読めば、「成長しない資本主義」というのもまんざら夢物語ではなく、そろそろそれを模索しなければならないタイミングなのだという気がしてもらえるかもしれない。

とはいえ、そのパラダイムシフトが完遂されるまでには結構な時間がかかるだろうから、自分が生きている間に「脱成長経済」がうまく実現されるとは、期待していない。それどころか「脱成長」なんて言うことで、自分が損する可能性の方がずっと大きいだろうということも覚悟している。

今、いい目を見るには「成長」を追う方がずっと現実的だ。しかし私は、多少のいい目を見るチャンスを逸してでも、「脱成長」を言いたいと思うのである。こうしてブログに残しておけば、子孫が「ウチのひいじいさん、あの時代に案外まともなことを考えてたのかも」なんて言ってくれるかもしれない。

私個人の内部では、パラダイムシフトは既に結構進んでいて、「経済的には過剰な『いい目』なんてみなくて結構だもんね」と思っているしね。

 

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2014年2月10日

出口調査って、一体何なんだ?

大雪でバタバタしているうちに、東京都知事が決まってしまった。一部には投票率を下げて舛添都知事を誕生させるために、何者かが人工雪を降らせたのだという某略説もあるようだが、都民でもない私にとっては、逆に大雪のせいで舛添都知事誕生のニュースの影が薄くなってしまったという印象だ。

なんでも、開票開始とともに舛添当確となったんだそうだが、それは出口調査の精度がものすごく上がったためと言われる。しかし、その出口調査って、そもそも一体何なんだ? 私は出口で「誰に投票しました?」なんて聞かれたことは一度もないぞ。

Wikipedia で調べて大体の様子は理解できたが、私が理解できないのは、出口で待ち受けた調査員に自分が誰に投票したかを正直に回答しちゃう人が多いってことだ。大手マスコミを名乗って質問なんかされると、つい気持ちよく答えてしまうんだろうか?

私なら「放っといてんか!」と突き放しちゃうか、猪瀬さんばりに「忘れた」としらばっくれるところだが、出口調査の精度が高いってことは、そんなへそ曲がりは少数派ということなんだろうなあ。

ことほど左様に選挙関連って、私には理解できないことだらけで、とくに都知事選というのは、青島さんの昔からその傾向が強すぎる。

 

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2014年2月 9日

大雪だった

いやはや、大雪だった。一昨日、雪国生まれには 50センチ以上の積雪でないと大雪とは思われないと書いたが、我が家は住宅団地のはずれにあって、吹きさらしなので、玄関前の吹きだまりは確実に 50センチ以上の雪だった。だから、大雪と言わせていただく。

近所総出で雪かきをして、昼頃にようやく表通りまで車で出られる状態になり、用足しに出たら、行った先が雪かきされておらず、さながら雪野原。その中で雪に阻まれて立ち往生してしまった車を救出した。車載用のスコップを積んでいてよかった。

救出した車は、ノーマルタイヤだった。よくまあ、ノーマルタイヤで雪の中に突っ込むなんて発想をしたものだ。運転していた兄ちゃんに、「もう、表通りだけを選んで家に帰りな」と言ったら、「はい、そうします。本当にありがとうございました」と拝まれた。

というわけで、今日はぐったりでなので、早寝します。おやすみなさい。

 

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2014年2月 8日

久しぶりの雪景色

いやはや、予報通りの雪である。関東の雪としては、かなりまともに積もってしまった。我が家の裏手の土手は、すっかり白く染まっている。

Img_7965

午前中はあまり大した降りではなく、予報ほどには積もらないんじゃないかと思っていたが、午後 2時頃から急に雪の勢いが増してしまって、あっという間の銀世界である。

今夜は台風並みの暴風が吹き荒れるといっていたが、確かに日が暮れてから、家が揺れるほどの風がごうごうと音を立てて吹いている。これでは、明日の日曜日も家でおとなしくしているしかないのだろうが、私は用があって出かけなければならない。

自分の車はスタッドレスを付けているので、何とかなると思うのだが、問題は他の車だ。100台のうち 1台でも動けなくなると、渋滞の発生源になるからなあ。

 

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2014年2月 7日

大雪という予報

予報によると、明日は「大雪」になるのだそうだ。とはいっても、土曜日だから会社はお休みという人が多く、週末はずっと家でおとなしくしていれば、なんとかやり過ごせるだろう。都知事選挙にしても、投票所は近くにあるはずだから、影響は少ない。どうせ都会の選挙は、雪なんか降らなくても投票率が低いことだし。

問題は、仕事が休めなかったり、受験だったり、どうしても参加したいイベントがあったりという人たちで、今からオタオタしている。明日の積雪は平地でも 15センチぐらいというから、交通機関にはかなりの影響が出るだろう。

ただ 15センチ程度の積雪であたふたするのは、本当の豪雪地帯の人からみれば、お笑い草だ。関東の都会というのは、どうしようもないほど雪が苦手である。東北日本海側の生まれとしては、「大雪」というのは少なくとも積雪 50センチ以上というイメージなのだが、関東では数センチでも大雪になる。

我が家は最寄りの鉄道駅まで行くにも車を使わなければならない。つまり、車がないと人間の暮らしができない地帯である。その車が、ちょっと雪が降っただけで動かなくなる。

いや、私の車は冬になればスタッドレスタイヤを装着するので、それほど問題はない。しかし、周り中の車が雪対策しておらず、スリップしまくって動けなくなるので、結局道路交通が麻痺し、私もどこにも行けなくなるのである。これはかなりのフラストレーションだ。

自分だけが雪の対策をしても、周りがしていないと意味がない。メールで連絡をとりたくても、相手のおっさんがケータイ・メールすら扱えないのでどうしようもないというフラストレーションに似ている。

昨年の暮れの記事でも書いたように(参照)、雪道対策は、結局のところテクニックより装備なのである。明日は、対策をきちんとしていない人は道路に出てこないでいただきたい。スタッドレスタイヤを履いたりチェーンを付けたりという人だけが出てくるなら、それほどの問題にはならないはずだ。休日でもあることだし。

 

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2014年2月 6日

だまされて感動したような気分にさせられた人が気の毒

世の中は、佐村河内守という人がゴーストライター(ゴーストコンポーザー?)を使って曲を書いていたというニュースでもちきりだ。ゴーストライターというのは書籍の世界ではいくらでもあることのようで、法律的に取り締まる対象にはならないんじゃないかと思っていたが、調べるとどうやらそうじゃないらしい。

Wikipedia にあたってみたところ、「著作者名詐称罪」(著作権法第121条)というのがあって、「著作者や原作者を詐称することは罪となり、1年以下の懲役刑若しくは100万円以下の罰金刑」というのだ。しかも親告罪ではないから、警察がその気になれば、いきなり逮捕しちゃうことだってできるのである。

世の中にいくらでもある(とされる)ゴーストライターによる著作は、本当はヤバいもののようなのだ。この法律は著名人の著作と思って購入したのに、本当はそうじゃなかったというような場合の、社会的法益の保護が目的なんだそうで、要するに「偽ブランド」を作ったら罪になるというような意味合いなのね。

今回のケースに限って言えば、本家本元が OEM で「偽ブランド」を下請け生産させていたというような、摩訶不思議なことになるのかしらん。しかも、「本家本元」とされる人物は、そもそも「本物」を作ったことなんてなかったというのだから、始末が悪い。

不幸なことに(?)その「本物を作ったことのない本家本元」公認の偽ブランド作品が、クラシックの世界では破格というほどの売り上げを記録してしまい、しかもその売り上げを作ったのが、「作曲者は耳が不自由で『現代のベートーベン』と呼ばれる人」というサイドストーリーだったというのだから、かなりあざとい商法である。

しかも「本当は聞こえていた」という疑惑もあるようで、そうだとしたら「あざとい」の二乗ぐらいのお話だ。これまでころりとだまされて、彼の曲で感動したような気分にさせられていた人は、自分の感性を信じられなくなってしまっているだろう。こりゃ、法的な意味以上に「罪つくり」である。

つまり、今回のケースの本質的な「罪つくり」部分は、ゴーストライター云々というよりは、目立ちたがりの男が「チョーあざとい売り方」をしてしまったということに尽きるのだろう。

で、「彼の」曲が実際どの程度のものなのかと思って YouTube で検索してみると、出てくるわ、出てくるわ、佐村河内守という人は、これまで私が知らなかっただけで、その世界では結構な有名人だったようなのである。

とりあえず『交響曲第一番 "HIROSHIMA"』というのを聞いてみたが、少なくとも「とくに感動的」とは思わなかった。今回の事情を知らないで聞いたとしても、その印象は変わらなかったと思う。どこかで聞いたことのある曲想の寄せ集めだが、印象的な要素というのはあまりない。

実際の作曲をしたという新垣隆さんという人は、そこそこの力量ではあるのだろうが、「いい作曲者」というよりは「器用な作曲者」なのだろう。楽譜を書くこともできないことがバレてしまった佐村河内氏のつたない曲想に、それなりのカタチを与え、錯覚とはいえ、まがりなりにも人を感動させもしたのだから、「かなり器用な作曲家」と言ってもいいかもしれない。

それにしても、世の中にはあざといやり口で世間の注目を集めたいというビョーキの人が、けっこういるものなのである。ちょっと思い出すだけでも、旧石器捏造事件の藤村新一という人とか、iPS 細胞の臨床適用したというでたらめを吹聴した森口尚史という人とか。

やらなくてもいいことをやって、一時は注目されもするが、結局あたら人生を棒に振るというパターンである。

 

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2014年2月 5日

「惜しい」「悔しい」「懐かしい 」「いたわしい」という英語

もう 6年近く前になるのだが、"「懐かしい」 という英語がない" という記事を書いた。確かに「懐かしい」という日本語の形容詞にぴったりと当てはまるような英語が見当たらないのである。ということは、英語民族と日本人のメンタリティの違いということでもあるようなのだ。

そして最近気づいたのだが、「惜しい」「悔しい」「羨ましい」「いたわしい」「恨めしい」といった形容詞にも、ぴったりと当てはまる英語がないんじゃないかと思うのである。これらの言葉を機械的に和英辞書で引くと、次のようになる。

惜しい: 【残念な] regrettable 【惜しい!】 What a shame!

悔しい: be frustrated at, be vexed at, frustrating, vexing, regrettable

羨ましい: envious, enviable

いたわしい: (手持ちの和英辞書に見当たらず)
 【不憫な】 は、poor, pitiful
 【大切な】 は、important

恨めしい: 【非難するような】 reproachful

こうして見ると英語というのは、一つの単語や熟語としては即物的な感慨しか表現できないので、情緒的なことを言おうとすると、いろいろに手を替え品を替えて、遠回しというか、比喩的な言い方をするしかないんじゃないかという気がする。なかなか大変だ。

例えば「悔しい」という言葉の訳語として出てくるのは、もともとは「苛立たしい」とかいうニュアンスの強い言葉だ。過去を悔やんで涙に暮れるというよりは、「くっそぅ! もう少しだったのに!」と地団駄踏むという場面を想起させて、彼此の人間のメンタリティの違いそのものっぽい。

「恨めしい」という言葉が、「非難するような」という意味の "reproachful" になるというのは、まさに即物的な感覚そのものという気がする。日本語のニュアンスは、「非難」するというよりずっと湿っぽい感情だ。

「いたわしい」 なんていうことになると、「不憫な」と「大切な」を足して 2で割った上に、さらに微妙なスパイスをまぶしたような、いともややこしい感情だから、英語で表現しろといってもちょっと無理かもしれない。

一方日本語では、欧米圏の感覚からすればかなり微妙な感情でも、きっちりと決まった形容詞があるので、さっと表現しやすい。

ただ、さっと手軽に表現できるだけに、ちょっとステロタイプに流されてしまいやすく、さらに「はい、それでおしまい」ということになるので、そうした感情を論理的に解決しようとする意識が働きにくい。「じめじめ」っとした感情は「じめじめ」のまま、いつまでも放って置かれることになる。

また、こうした感情を表現するとき、日本語では「○○が羨ましい」などと言うが、英語の場合は「(私は)○○を羨む」というように、動詞で表現することが多いと思う。この辺りも、メンタリティの違いを表している。

ただ、上に挙げた訳語では、「惜しい!」が "What a shame!" になるというのは、かなり近い感覚かもしれないという気がする。"Shame" (恥、羞恥)というちょっと微妙な感情を表す言葉なればこそかもしれない。

 

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2014年2月 4日

近頃は立春でも卵が立たなくなった

「立春卵」 の話題を覚えておいでだろうか。「立春には卵が立つ」という中国の言い伝えがあるが、別に立春に限らず、卵は立てようと思えば立つのである。私は過去に、卵を立てた記事を写真入りで何度か書いているので、証拠としてご覧いただきたい。

2006.02.01 立春に(限らず) 卵が立つ  /  如月一日の歌
2008.02.04 如月四日の歌
2009.02.04 卵が立って立春大吉
2010.02.05   またしても立春卵

とまあ、我ながら物好きなことだが、最初の 2つは立春じゃないので、別に立春でなくても OK という証拠にもなる。卵というのは、思いのほか簡単に立ってしまうもののようなのである。

ところが、どうしたことか、最近は卵が立たなくなってしまった。昨年も一昨年も試したのだが、どうしても立たない。5年前まではあんなに簡単に立っていたのだが、そういえば、8年前より 5年前は立てるのに苦労した覚えがある。どうやら卵はだんだん立てにくくなってきたようなのだ。

ぶっちゃけた種明かしをするが、卵が立つのは、卵の殻の表面にある微妙なギザギザというか、ブツブツが、極々小さな三脚のような働きをしてくれるからであるらしい。このギザギザあるいはブツブツが、テーブルなどの表面の微妙なデコボコにうまくフィットすると、すっと立つのである。

だから、表面を触ってみてなんとなくザラザラした感触のある卵の方が立てやすい。これは経験上確かなことだ。

ところが、最近の卵は表面が妙にツルツルのような気がする。これではどうもやりにくい。最近は衛生面の配慮をしすぎるあまり、卵の表面がツルツルになるまで洗浄しているのかなあなんて、私は密かに考えていた。

で、凍えるほど寒くて雪さえ降ったとはいえ、時折しも立春の今日、客観的な検証ができないかとググってみたら、「スーパーエッグクリーナー」 という、洗卵機の動画が見つかったので、紹介しよう。

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鶏の汚物だらけの卵がどんどんきれいになる様がよくわかる。かなり詳細に撮影してくれているので、機械の内部で、思いのほかに固そうなブラシで念入りにブラッシングされているのも見える。あんなブラシでゴシゴシこすられては、そりゃ、表面のブツブツも摩耗してしまうだろうよ。

これで何となく、最近の卵が立春でも(あるいは立春に限らず)立たなくなった理由がわかったような気がした。昔はちょっと汚れがついたままの卵というのも売られていた記憶があるが、あまりにも衛生にこだわりすぎると、世の中おもしろくなくなるものである。

来年は地卵かなにかの、自然なままで流通している卵を買ってきて、試してみようと思っている。それとも、地卵でもきれいに洗うことに関しては同じなのかなあ。

 

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2014年2月 3日

"Mavericks" という名の OS

ここでも何度か書いたが、最近はすっかり Mac ユーザーである。あまりの使い心地の良さに、Windows なんてもう忘れてしまいそうだ。20年間ずっと思い続けてきたように、私はやっぱり Mac ユーザーであるべきだったのだ。

ところで、私の買った Mac は最新型だから、OS のバージョンは OSX Ver. 10.9.1 で、いわゆる "Mavericks" である。で、またしても、いつもの「些細なことにこだわってしまう癖」が出てきてしまったのだ。それは "Mavericks" のカタカナ表記という問題である。

どうも世の中では、「マーベリックス」という表記が圧倒的多数を占めているようなのだ。ググってみると、約 60万5000件ある。一方「マベリクス」はたったの 2040件だ。だが、「マーベリックス」よりは「マベリクス」の方が正しい英語の読みに近い。

「マヴェリクス」と書けとまでは言わない。それどころか、「マヴリクス」の方が発音としてはより近い。しかしまあ、「マベリクス」と言う方が「マーベリックス」よりはずっとマシだと思う。(ただし、アクセントは最初の「マ」につけてね)

「マーベリックス」と表記して、全然何も疑問に感じない人は、多分  "Mavericks" という英単語の意味なんかにも、全然無頓着なんだろうと思う。しかし Mac ユーザーたるもの、この  "Mavericks" の意味はきちんと押さえておきたいものだ。

"Mavericks" は、カリフォルニアのサーフィンの名所として知られる地名から取ったと言われている。デスクトップのデフォルト背景の大波は、それにちなんでいるのだろう。

しかし実は、単数系一般名詞としての "maverick" という単語には 「他人と異なる考え [行動] をとる人、一匹狼、異端児」(ウィズダム英和辞典より)という意味がある。なかなか意味深なネーミングなのである。

フツーに考えれば、いくら Windows 8 が使いにくくて気に入らないといっても、一足飛びに Mac の世界に飛び込む人というのはそれほど多くはないだろう。だから私は、自分が最初に使い始めた Mac の OS の名前が「異端児」という意味の言葉であったということに、ちょっと「いい気分」になっているのである。

 

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2014年2月 2日

「脱原発には具体性がない」 というのは変化を望まない者の詭弁

都知事選に立候補した細川さんが、ちょっと前までは「脱原発」に加え、「脱成長で心豊かな生活を」と訴えていたのだが、立候補してからは「脱原発で経済成長」という言い方に変わったようだ。票を集めようと思ったら、やっぱり「経済成長」と言わなければならないみたいなのである。

個人的には「脱成長」のコンセプトに賛成だ。人類は経済成長至上主義から卒業すべきだと思っている。とまあ、こんなことを言うと、「無責任」「非現実的」「おとぎ話」と批判されるが、そうした批判は従来のパラダイムの視点からすれば当然のことだ。

つまり「経済発展から卒業」というのは、従来のパラダイムからも卒業するということである。といっても、いきなり「脱成長」をまさにおとぎ話的に目指したら、社会の枠組みががたがたになってしまうことぐらいは、いくら私でも十分認識している。実際の「卒業」のプロセスは、かなり長い時間をかけて進行させなければならない。

要するに、「脱原発」「脱成長」のプロセスにも「神の見えざる手」は働くのであって、無理矢理に成長を止めて、みんなで江戸時代の暮らしに戻ろうなんていうわけじゃない。だから、実際の生活でそんなに特殊なことをしようというわけじゃない。

「脱原発」や「脱成長」の主張は「具体性を欠いて当たり前」なのである。新しい試みが初期の段階では具体性を欠くのは、当たり前の話なのであって、「具体性を欠くから、試みる価値がない」ということにはならない。それは単に、変化を望まない者の詭弁である。

脱原発の論理から言えば、原発を存続させることの方が「具体性を欠き」「非現実的」で、「無責任」なのである。廃棄物処理がどうしようもない状況になって暗礁に乗り上げている事実をみれば、それがわからないはずがない。「そのうち廃棄処理の新技術が開発されるはず」なんていうことの方が、よっぽど「おとぎ話」である。

すべての新しい試みは、具体性を欠く初期の段階から、一定のプロセスを経て具体性を獲得するものなのだ。「具体性を備える」というのは、そういうことである。初めから具体性があって、その具体性のまま計画通りに進行するなんていうのは、小さくて単純なプロジェクトを除けば見たことがない。

で、こうしたコンセプトからすれば、原発という技術が登場してからこんなにも時間が経ったにもかかわらず、廃棄物処理や再利用の技術が全然進まないという事実は、それはもう、「原発なんて諦めて、他の道を考えることの方が現実的」であることを示すものとしか考えられないではないか。

前にも述べた通り「脱成長と言っても特殊なことをするわけじゃない」のではあるが、理念的には、かなり「特殊に聞こえかねないこと」でも常に唱え続けなければならないと思っている。そうしないと、人間はつい怠惰になってしまうものだからだ。ただ、唱え方の匙加減というのはあるけれどね。

 

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2014年2月 1日

もう Windows には戻れないみたい

Mac を買ってからまだ 2週間も経っていないのに、日常の仕事がかなり順調に移行できている。初めは「ゆっくりと 1ヶ月ぐらいかけて移行できればいいかな」と思っていたので、この順調さには我ながら驚いている。

Mac を使いたくなる理由は、「速さ」と「心地よさ」だ。これに馴染んでしまうと、これまで使ってきた Let's note (OS は Windows 7)には戻りたくなくなってしまう。なにしろ、ラップトップのスクリーンを立てた途端に、パスワード入力画面になり、それを入れたら、一瞬にして立ち上がる。(追記 参照)

まあ、この「速さ」というのは多分に HD が SSD に置き換わったことによるもので、Mac 独自というわけじゃないが、私にしてみれば、Mac を導入したことで初めて実現した環境だから、結果として Windows には戻りたくなくなってしまうのである。こればかりは、人情というものだ。

人情といえば、「心地よさ」もその類いのものである。ずっと前から、我が家の娘たちの使っている Mac を見せてもらって、自分の Windows マシンに戻ると、そこはかとない「とほほ感」が生じていたのである。やっぱり、Windows の画面は、情けないほどセンスがないのだよね。

とくに Windows 7 の起動するまでの画面なんて、「こりゃ、一体なんじゃ?」と、毎回情けなくなる。Windows 8 の初期画面なんて、なぜかあのカラリングがいろいろな分野で取り入れられて、さながら流行色みたいになっちゃったので、トレンドが変わった途端に、「ださい色」になってしまうだろう。

それから、"Finder" というのは、Windows の "Explorer" に相当するのだろうが、これが、Explorer より気が利いていて使いやすい。心配だったのは日本語入力の「ことえり」だったが、とくにストレスは感じない。スペースキーの左右に「英数」「かな」の切り替えキーがあるので、「半角/全角」より指を動かす距離が短いのもいい。

それから、Windows マシンの場合は、新しく購入するたびに数々の設定が必要で、さらにあの頭にくる「余計なお世話機能」の解除に手がかかっていた。Mac の場合は、今のところそれがほとんど呆気ないほどあっさりと済んでいる。

唯一やったのが、「拡張子を表示させる」という設定だ。Mac の場合はデフォルトでは拡張子が表示されず、それでも特段の不都合はないのだが、Windows 環境からいきなり移行してきた者にとっては少しやりにくいし、他の Windows ユーザーとのファイルのやり取りもあるので、変更したのである。

Windows の場合はやっぱり拡張子が表示されないと、いろいろやりにさが発生するのだ。ところがその張本人の Windows 自身が「表示しない」という余計なお世話をしているのである。これはお笑いだ。「お前が表示しないとやりにくいシステムだから、Mac まで引きずられるんじゃないか」と言いたくなるのだが。

また、Mac に限ったことではないが、最近はプリンターもマウスも無線 LAN 化が進んだので、PC の裏側が縄のれん状態ということもなくなり、すっきりしたのもうれしい。あとは細かいところまで慣れていけば、ずいぶん楽しく仕事ができそうである。

 

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