「脱成長」 を言い続けたいわけ
東京都知事選挙では、「脱原発」を掲げた宇都宮氏と細川氏の得票数を足しても、舛添氏への投票に届かなかった。とくに細川氏は「脱原発」のワンイシュー選挙に持ち込みたかったのだろうが、彼の持論である「脱成長」が災いして票に結びつかなかったとの指摘が多い。
私は都知事選 1週間前の 2月 2日の記事で、次のように書いた。
都知事選に立候補した細川さんが、ちょっと前までは「脱原発」に加え、「脱成長で心豊かな生活を」と訴えていたのだが、立候補してからは「脱原発で経済成長」という言い方に変わったようだ。票を集めようと思ったら、やっぱり「経済成長」と言わなければならないみたいなのである。
この辺が、私が舛添さんに対抗するには細川さんでなければならないだろうと思いながら、その主張に確固たるものを感じることができなかった理由である。「この人、どうもヤバいんじゃないか」という感覚が拭いきれなかったのだ。
先月 21日の「東京都知事選のありがた迷惑」という記事に付けられた山辺響さんの宇都宮氏押しのコメントに、「宇都宮さんの政策をみると、つい共感してしまいそうになるのが、コワイ」というレスを付けたのは、そんな理由からである。今思えば、いっそきちんと共感しておけばよかったかもしれない。
私としては、2月 2日の時点では、"個人的には「脱成長」のコンセプトに賛成だ。人類は経済成長至上主義から卒業すべきだと思っている” と書いたように、「どうして『脱成長』で正々堂々と戦わないんだ」と思っていたのである。このことを、次のように書いている。
こんなことを言うと、「無責任」「非現実的」「おとぎ話」と批判されるが、そうした批判は従来のパラダイムの視点からすれば当然のことだ。
つまり「経済発展から卒業」というのは、従来のパラダイムからも卒業するということである。といっても、いきなり「脱成長」をまさにおとぎ話的に目指したら、社会の枠組みががたがたになってしまうことぐらいは、いくら私でも十分認識している。実際の「卒業」のプロセスは、かなり長い時間をかけて進行させなければならない。
こう書いても、まだ「おとぎ話」という人もあるだろうが、そうした人たちには「経済は成長しなければならない」というテーゼこそが、「おとぎ話」なのだということを言わなければならない。そろそろパラダイムシフトをしなければならない時期にさしかかっているのだ。
ちょっと古い日経の記事だが、"「経済は成長しない」が常態だった 経済史家が実証した「成長しない資本主義」" というのがある。これを読めば、「成長しない資本主義」というのもまんざら夢物語ではなく、そろそろそれを模索しなければならないタイミングなのだという気がしてもらえるかもしれない。
とはいえ、そのパラダイムシフトが完遂されるまでには結構な時間がかかるだろうから、自分が生きている間に「脱成長経済」がうまく実現されるとは、期待していない。それどころか「脱成長」なんて言うことで、自分が損する可能性の方がずっと大きいだろうということも覚悟している。
今、いい目を見るには「成長」を追う方がずっと現実的だ。しかし私は、多少のいい目を見るチャンスを逸してでも、「脱成長」を言いたいと思うのである。こうしてブログに残しておけば、子孫が「ウチのひいじいさん、あの時代に案外まともなことを考えてたのかも」なんて言ってくれるかもしれない。
私個人の内部では、パラダイムシフトは既に結構進んでいて、「経済的には過剰な『いい目』なんてみなくて結構だもんね」と思っているしね。
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