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2014年3月11日

あれから 3年

あの東日本大震災から 3年である。改めて思い出してみよう。まずは 3年前の 3月11日の和歌ログから転載してみる。

実は今日は昼過ぎまで自宅で仕事をしていて、5時頃に都内に用事があるので、ちょっと早めだが 2時半頃に家を出て、車で取手駅に向かった。そして途中で忘れ物に気付いて引き返し、家に戻って車から降りようとしたら、車が嘘のようにバウンドして降りられない。

一瞬、車がどうにかしてしまったのかと思ったが、すぐに地震と気付いた。ずいぶん長く揺れたように感じ、収まって家の中に飛び込むと、妻と末娘がテーブルの下に身を潜めて青くなっていた。

この時のことは、昨日のことのようにはっきり覚えている。車のエンジンを切ろうとした瞬間にものすごいバウンドで突き上げられたので、私はエンジンがどうにかなったのかと思い、「早く脱出しなければ、車が爆発するのではないか」という恐怖心におそわれた。エンジンを切ってもそのバウンドが続いたので、すぐに地震と気付いたのだが、経験したことのないものすごい揺れだった。

家の中は、棚から落ちて散乱した食器の破片と本で、大変な有様だった。とはいえ、電気も水道も止まっていない。周囲ではブロック塀が倒れたり、家が傾いたり、車庫が盛り上がってしまって車が亀の子状態になったり、落ちてきた瓦が山になっていたりと、放ってはおけないほどの状態だったが、我が家に関して言えば、それほど大した被害はない。

すぐに訪問するはずだった先に「本日は地震のために行けなくなっちゃいました」と電話を入れようとしたのだが、全然つながらない。「まあ、こんな状態なんだから電車も止まってるだろうし、電話の必要もないか」と、この時点では、まだ比較的呑気だった。この日は金曜日だったので、「週明けに改めて顔を出そう」なんて考えていたのである。

ところが、呑気だったのはこのあたりまでで、テレビのスイッチを入れてみると、津波のショッキングな映像が次々に飛び込んでくる。さらに福島の原発がヤバい状態だともいう。いくらなんでも、尋常な事態ではないとわかってきた。とてもじゃないが、「週明けに改めて」なんて状態ではない。下手すると原発がらみで一家で避難しなければならないかもしれない。

とりあえずは、親戚や友人知人が心配になる。実家の山形県では、父がまだ存命だった。まあ、山形県はまだ大丈夫だろうが、妻の実家は仙台である。さらに親戚や友人知人の多くは、高校を出ると東京でなければ仙台に出て暮らしている。だから仙台周辺には安否を確認しなければならない人間が、どっさりいるのである。それが全然連絡が取れないので、心配は増すばかりだ。

幸いなことに、時間が経つうちにほとんどの親類縁者・友人は無事だとわかってきた。ただ、妻の弟の嫁の実家が原発のある女川で、家族 7人のうち 5人が津波に飲まれて犠牲になった。これはこちらから聞くのも辛すぎて、最後まで状況がつかめず、1週間経って遺体が発見されてから、ようやく知らせてもらった。なんとも言葉が出なかった。

地震後、2週間近くは動きが取れなかった。電車は動かないし、ガソリンの供給もストップしているので、どこにも出かけられない。塀が壊れた近所の家の片付けの手伝いをする以外は、ほとんど引きこもりである。スーパーに行っても棚はほとんど空っぽだから、買い物もままならない。

あの時一体何を食って生きてたんだろうと、今では不思議なくらいだ。多分、米と、うどん・そばの乾麺の買い置きがあったので、それを食っていたんだろうと思うしかない。我が家ではライフラインが一度も途切れなかったのが、不幸中の幸いだった。

ひどかったのは余震である。ひっきりなしに余震が来て、揺れている時間の方が長いくらいの状態が続いた。あれほど揺さぶられると、確かに神経がおかしくなる。いつも揺れているような気分になるのだ。周囲のほとんどの人がそうこぼしていた。「地震酔い」という症状らしい。翌月に徳島に出張し、久しぶりで夜中に一度も揺り起こされずに眠れた。それだけで、幸せなことに感じられた。

半月ほど動きが取れないから、仕事もキャンセル続出である。私はサラリーマンじゃないので、仕事がなければ収入も途切れる。おかげで、翌月と翌々月は銀行口座への入金が極端に少なくて、かなりあせった。知人のフリーカメラマンは、翌月の収入がゼロだったそうだ。

月末になって、ガソリンの供給が復活したあたりから、県内の関係先への訪問を開始した。我が家は茨城県でも県南地域だからまだ被害が小さかったが、北部に行けば行くほど大変な状況である。高速道路も、普通に 100km/h では走れない。ゆがみにゆがんでいるので、バウンドして危なくてしょうがないのだ。

屋根瓦が落ちてしまったので、ブルーシートをかぶせている家がやたらに目立ち、多くは半月経ってやっと水道が出始めたというところだった。「風呂に入れない間は、気が狂うほど頭がかゆかった」という言葉が実感をもって迫ってきた。

しばらくの間、県北から福島、宮城にかけての訪問先では、地震の時の話を聞いてあげるのが仕事みたいなものだった。こちらも被災者のはしくれではあるので、つい親身になって聞く。話を聞くことで、彼らとのつながりがそれまで以上に親密なものになった。これは地震の思わぬ副次効果だったかもしれない。

今、揺れそのものによる被害の後始末はかなり進んでいるが、津波と原発事故の後始末は進んでいない。やることと考えることがまだまだありすぎる。

 

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