« 井の頭公園は「いのかしら」か「いのがしら」か | トップページ | 凶悪犯罪は増加しているか »

2014年4月 6日

昔のモノの売り方

近頃、電通の「戦略十訓」というのが、改めて話題になっている。どんなのかというと、こんなのだ (参照

  • もっと使わせろ
  • 捨てさせろ
  • 無駄使いさせろ
  • 季節を忘れさせろ
  • 贈り物をさせろ
  • 組み合わせで買わせろ
  • きっかけを投じろ
  • 流行遅れにさせろ
  • 気安く買わせろ
  • 混乱をつくり出せ

消費者視点からみると、完全に踊らされているように感じてムッとしてしまうし、第一、さすがに今のご時世には合わなすぎるので、ほとんど死蔵状態というが、1970年代まではこれが錦の御旗みたいなものだったらしい。

いや、1970年代までというが、実際には 2度のオイルショックを経験した 1980年代になっても、とくにファッション業界においてはこれがそのまま金科玉条の様相を呈していた。さらに 90年代に至ってさすがにこの十訓自体が完全に賞味期限切れになってからさえ、業界人は過去の幻想にしがみつき、時代遅れのマーケティングで坂道を転げ落ちようとしていた。

使わせ、捨てさせ、無駄遣いさせるというマーケティングは、一時的にはかなり成功した。これは 8番目の 「流行遅れにさせろ」 というテーゼと密接に関連していて、要するに 「ちょっと流行遅れの服が一番ダサダサ」という法則を利用していたのである。だから、ファッション人間はシーズンごとにどっさり服を買わなければならなかった。流行の最先端の服ほど、次のシーズンにはもう着られないのだから。

季節を忘れさせ、贈り物をさせるというのも、重要なマーケティングだった。例えば、タオルなんて品物が、ディオールだのサンローランだのというブランドを付けただけで結構な値段になり、贈答用の目玉商品となった。タオルだけでなく、シーツやパジャマ、ネクタイ、靴下など、オートクチュール系のブランドさえ付いていればいいので、季節なんてほとんど関係ない。

実際には安物のタオルほど使いやすくて、ブランド・タオルは分厚すぎて絞りにくいなんてことであまり使われず、押し入れの中は貰い物のタオルで一杯なんてことになってもいたのだが、そんなことはおかまいなしである。

「組み合わせで売る」というのも、重要なキーワードだった。洋服は「コーディネート」という美名の元に、セットで売るものとなった。要するに消費者の頭の中がまだ単純でだまされやすかったから、自分で自分のスタイルを決められず、勧められるままにセットで買うしかなかったのである。

7番目の「きっかけを投じろ」というのは、ちょっとわかりづらいが、要するにヴァレンタインデーで義理チョコを売りまくり、ことのついでに翌月のホワイトデーなんてわけのわからないイベントまで作り出してまで、モノを売りまくるということである。

「気安く買わせろ」というのは衝動買いしやすいムードを作り出すことで、「混乱を作り出せ」というのは、売り場でガンガン音楽を鳴らしたりして、正常な判断ができないようにすることだ。三越の売り場がものすごくうるさかったなんてことを覚えている人もいるだろう。一見よく考えられた戦略だったのだが、今や完全に時代遅れとなった。

今や消費者は、余計なものは使わず、買わず、大事なものは捨てず、温暖化で訳が分からなくなったためにかえって「季節感」という無い物ねだりをするようになり、「趣味に合わないモノはもらっても嬉しくない」と言い放ち、単品を上手に組み合わせることができるようになった。

「流行」 なんてものを意識するのは、一部のファッション人間だけで、フツーは同じものを何年着てもおかしくない世の中になった。買い物はネットで比較検討し、リアルショップで触って確かめた上で、やっぱりネットで安く買う。そして混乱には近づかない。

バブル崩壊以後、高度成長期時代のマーケティングは通用しなくなったが、それは消費者が少しは賢くなったということで、不景気が続いたというのも、まんざら悪いことだけではなかった。そして今は、この十訓の逆ばりをすれば成功するということなのかもしれない。

 

|

« 井の頭公園は「いのかしら」か「いのがしら」か | トップページ | 凶悪犯罪は増加しているか »

マーケティング・仕事」カテゴリの記事

コメント

tak-shonaiさん
こんばんは~
すんごいですね~この十訓とやら・・・
まいりました。
私達はどれだけ振り回されて買わされてきたのでしょう~
だから、
私はバブルがはじけてからと言うもの、買わないという
生き方をしています。それに、時代は《地球にやさしく》が
うたい文句になりましたからね。ほっとしますよ。
といっても、またその言葉に振り回されているのかな?

でも、やはり、あの頃ってゆうか、1960年代から2000年までで買い物の時代は終わりですっ!
馬鹿みたいに買いあさったのは何だったのか・・・・
今はもう、どうやって捨てたらよいのか・・・に
悩んでいる始末。あ、これも、
断捨離という言葉にふりまわされているのかしら?

自分の主体性は、どこにあるのかしら?

投稿: tokiko6565 | 2014年4月 7日 18:09

tokiko さん:

私は周囲にモノがありすぎると、リラックスできません。ガランと何もない方がずっと落ち着きます。

そして、買うより捨てる方がずっと難しいです。

投稿: tak | 2014年4月 7日 20:37

この「戦略十訓」のような広告代理店の大衆扇動(――とちょっと露悪的に言ってみる)も、80年代には早くも老化が始まったようで、バブル直前の84年頃、電通は「少衆」、博報堂は「分衆」と、それぞれ笛吹けど踊らずの(現代に通じる成熟した)大衆像を分析していて、面白いです。
当時はわりと賛否両論だった(らしい)「少衆・分衆」論ですけれども(―――「おしん」や「独眼竜政宗」がテレビ視聴率50-60%取るような時代だったですし)、30年経った今からみると、まさに現代の予言だったのかなと。

投稿: まこりん | 2014年4月 8日 02:53

まこりん さん:

「少衆・分衆」論の出た当時、私はまさに現役バリバリでした。

当時の印象としては、8割の「大衆」 と 2割の 「少衆・分衆」 が共存しているなという感じでした。2割がとんがって、8割がべったり。

今は、いろいろな音色の笛を吹くと、結果的にいろいろな 「少衆・分衆」 が同じような踊りを踊りだす時代になりかけているかもしれません。

投稿: tak | 2014年4月 8日 03:20

> いろいろな 「少衆・分衆」 が同じような踊りを踊りだす時代

広告代理店側がターゲットを明確に定めたピンポイント型のマーケティングするようになったのと、なんだかんだいって今でも「みんなといっしょに踊りたい」って人が結構多い(――「キョロ充」なんてネットスラングもありますし、30年前の八割は今も八割なんだと思います)結果の、「色んな所でちっちゃな盆踊り状態のいま」なんじゃないかなとわたしは思ってます。
ちなみにわたしは、祭りの最中は遠巻きに見るだけで踊らず、祭りの後なってはじめてその場に佇んで、寂寞とした気持ちになるのが好きなタイプです。

投稿: まこりん | 2014年4月 8日 17:56

まこりん さん:

「色んな所でちっちゃな盆踊り状態のいま」なんじゃないかなとわたしは思ってます。

そんな感じですね。
「小さな違いが大きな違い」という感覚で、小分けされた状態。

>祭りの後なってはじめてその場に佇んで、寂寞とした気持ちになるのが好きなタイプです。

その感覚、さらに磨いてください。

投稿: tak | 2014年4月 8日 18:34

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 井の頭公園は「いのかしら」か「いのがしら」か | トップページ | 凶悪犯罪は増加しているか »