人の心の「非言語」のままに残された部分
Advertimes という広告関連のサイトに、"「意識の95%は非言語」に広告の未来があるかも" という記事がある。電通 マーケティング・デザイン・センター プランニング・ディレクターの京井良彦さんという人の記事だ。
これは、LINE の 「スタンプ」 などのように、言語化されないコミュニケーションが広まってきているのだから、広告も非言語コミュニケーションをもっと重視すべきだという指摘である。京井氏は「これまで広告は、すでに言語化されている事象を、より伝わりやすく表現し直してユーザーに届ける」ことを重視してきたと言う。しかし、それでは不十分なのだ。
京井氏は「心脳マーケティング」を提唱するハーバード大学のジェラルド・ザルトマン教授の「人間は自己の意識の中で、自分で認識できることは5%にすぎず、残りの 95%は自分では認識できていない」という指摘を引用し、圧倒的な「認識できていない部分」=「非言語のままの心」に、広告は対応すべきであるとする。
例えば、市場調査の基本中の基本とされるアンケート調査について、京井氏は疑問を投げかける。「従来型のアンケート形式では、言語化できる 5%の意識しか調査できていません」というのである。これは私も常に不満に思ってきたことだ。いわゆるアンケート調査では、サプライヤーのバイヤスたっぷりの結果しか得られないのである。
ユーザー・エクスペリエンス(UX) の向上とは、「プロダクトやサービス一つひとつのスペックの良し悪しだけでなく、ユーザーが真に求めている非言語領域のニーズに応え」なければならないというのは、正しい指摘だろう。
「人間の意識の中で、自分で認識できるのはわずか 5%」 というのは、大昔からユングの心理学で言われたことだ。ユングは人間の意識を氷山に譬え、水面に出ている顕在意識はわずか 5%で、残り 95%は潜在意識として、水面下に没している」 としたのである。我々はことほど左様に、自分のことをほとんどわかっていない。
自分のことすらほとんどわかっていないのだから、市場のユーザー・ニーズをきちんと把握するなどというのは、べらぼうに難しい。ほとんど不可能に近いだろう。しかし、「我々がわからないままに放ってある、95%の領域が存在する」ということを前提としてマーケティングすることは、それを無視するよりも、ずっとまともな手法といえるだろう。
「バカな奴は単純なことを複雑に考える。普通の奴は複雑なことを複雑に考える。賢い奴は複雑なことを単純に考える」というのは、稲盛和夫氏の名言とされる。これについて私は、1年半ほど前の「複雑なことを単純に考えて満足するのは、中途半端に賢い奴」という記事で、次のように書いている。
「より賢い奴」 というのは、複雑なことを単純に説明できて、その上で、「これでかなりの部分を説明できているけど、カバーしきれない部分も残されている」 ということに自覚的である。
つまり、論理で説明できるのは全体のほんのわずかであり、論理的思考には常に「積み残し」が大量に発生しているのだ。本当に頭のいいやつは、そのことに常に自覚的でなければならない。
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コメント
おはようございます~
tak-shonaiさんこの記事すてきです~
ほんとうに、最後の3行は、特にコトリと腑に落ちました。
私はリアルにそんな人を知っていますので。
投稿: tokiko6565 | 2014年5月22日 07:16
tokiko さん:
ありがとうございます。
論理的な言語にできない部分を担うのが、詩人の役割だと思っておりまして、私としては片方をこのブログ、もう片方を「和歌ログ」で受け持っているつもりなんですよね。
かなり途方もないことで、難しいんですけど。
投稿: tak | 2014年5月22日 21:32