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2014年5月に作成された投稿

2014年5月31日

風邪が中途半端に長引いている

噂によればどうやら、今年の夏風邪はこじらせやすいらしい。治りかけてもすぐにぶり返し、ひどくなってしまいやすいという。ただ私の場合は、決してこじらせているというわけじゃなく、ただ単純に長引いている。

咳が止まらないが、常に咳き込んで疲労困憊するというわけでもない。時々咳き込んで、後はそんなに苦しいとも思わない。熱っぽいわけでもないから、体温計で測ろうという気にもならない。

ただ、やはり疲れやすい気はする。とはいえ、へとへとになってしまうわけでもない。疲れた時にちょっと仮眠すれば、何とかなる。食欲はないが、ちゃんと腹は減る。食べ物を受け付けないというわけでもなく、腹が減っただけ、食えば食える。

2〜3日寝ていれば治るか、治らなくてもずっと軽くなるだろうというのは、経験が教えてくれる。だが、ちょこちょこ途切れずに仕事が入ってきて、寝ている暇はない。仕事をすればこなせる。実はこれが困る。治らなくてもなんとかなっているので、治る暇がない。

今日も今日とて、自分で車を運転して宮城県に来ている。明朝からの仕事のために、前泊だ。仙台での仕事だったら、迷うことなく新幹線で来るのだが、震災のためにまだ交通機関が完全復旧していない地域なので、車でないと動きが制約されすぎてこなしきれない。

長距離ドライブをしなければならないので、咳止めの薬も飲めない。せいぜいのど飴をなめるだけだ。ただ薬を飲まなくても、のべつ咳き込むわけでもないので、なんとかなるのだが、やはり喉が痛い。

というわけで、なんともはや、中途半端なままの状態が先週末から続いている。我ながらなまじ体力があるために、こんな宙ぶらりんになっているのが、なんともはやもどかしい。

すっきり治るまでには、まだ 3〜4日かかる気がする。ああ、面倒だなあ。

 

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2014年5月30日

進化論を信じないからといって、無学ってわけじゃない

Slashdot が 「進化論を信じるかどうかは科学リテラシーとは別問題」 と報じている。私からすると、「ようやくそこに気付いたか」という思いだ。ちょっと引用してみよう。

全米科学財団(NSF)は、市民の科学に対する理解は民主主義にとって重要だと考えており、そのためのプロジェクトを長期にわたって行っている。そして彼らは数年前にある種の結論にたどり着いた。『市民の科学リテラシーを判定する際に、進化論を信じる信じないという質問は含むべきではない』という結論だ。

アメリカではこうした質問は宗教的信念の尺度に近いものであり、彼らの科学の読解能力を測定することには繋がっていないというのがその理由だ。

ちなみに米国で進化論を信じる人の割合は 45%で、日本(78%)、欧州(70%)、中国(69%)、韓国(64%) などに比べて明らかに低い。これをして、「米国人は頭が悪い」とか「無学だ」とか「科学を信じない」とか乱暴なことを言う日本人を、たまにみかける。

進化論を信じていることが錦の御旗になるわけでもあるまいにと、わたしなんぞは思ってしまう。さらに「進化論を信じる」と口先で唱える人にしてからが、往々にして「人間は猿から進化した」(文末注 参照)なんて、短絡的というか、乱暴なことを言うから、ますますややこしいことになる。

今ではカソリックでさえも、ヨハネ・パウロ 2世が 1996年10月に「進化論は仮説以上のもので、肉体の進化論は認めるが、人間の魂は神に創造されたもの」と述べたように、学説として認めている。ただ米国では極端な聖書主義のプロテスタントが強いので、今でも「人間が猿から進化したとは、神の冒涜だ」と息巻く人が多い。

ということはつまり、単純に肯定するにしろ否定するにしろ、進化論が「人間が猿から進化した」と説いていると、短絡的に思っているレベルでは、科学リテラシーにおいては大した違いじゃない。まあ、世の中そんなものである。

進化論を信じる/信じないという態度は、ある意味、宗教的な立場による「建前論」みたいなところがあって、クリスチャンが自分の信じる神様に文字通りに誠実であろうとしたら、「信じない」というしかない。これはあくまで「文字通りに誠実であろうとしたら」である。

柔軟な態度で、政教分離のごとく「まあ、地球が太陽のまわりを回ってるんだから、しょうがないよね」と、「科教分離」みたいなことで進化論を認めるか、あるいはあくまで「建前」にこだわるか、根本的にはそのレベルでの違いである。科学リテラシーの問題と考えたら、説明のつかないことが多すぎる。

決して「学があるか/無学か」という問題ではない。大学を出ても建前論で「進化論を信じない」と表明している米国人は、いくらでもいる。

頭の固い進化論信奉者は、「進化論を信じなかったら、ネズミやサルで実験した薬だって使えないじゃないか」と言うが、そこはそれ、進化論を信じなくても薬ぐらいは飲む。ただし ES 細胞を使った医療は、拒否するかもしれない。

【注】 「人間と猿とは、共通の祖先を持つ」と考えられており、「猿から進化した」とは、乱暴すぎる言い方である。

 

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2014年5月29日

要りもしないモノを押しつけるために余計な手間をかけるキャンペーン

近頃セブンイレブンで、またしても「○○円以上お買い上げで、商品が当たるくじを一枚引けます」みたいなキャンペーンを実施している(していた?)みたいで、私も一昨日、妙な穴の開いた 2つの箱を差し出された。片方が「酒たばこ関連」 (だったかな?)で、もう片方が「一般商品」(これも、だったかな?)という感じだ。

私はこの類いのキャンペーンで、要りもしないものを押しつけられるために余計に待たされるのはたまらない性分なので、「それ、遠慮しときます」と断った。レジのおねえさんは、「あ、失礼しました」と応えたが、別に失礼ってわけでもなんでもないのにね。

時々行われるこのキャンペーン、レジが混雑している場合などはものすごく余計な時間がかかって、イライラすることがある。イラチな私は待ちきれなくて、籠に入れた商品を棚に戻して、店を出てしまうこともある。「別に、コンビニはここだけじゃないしね」ってな感じだ。

セブンイレブンでこのキャンペーンをしているとわかっている場合などは、待たされるのがいやだから、ちょっとのぞいてみて混雑しているようだと、敢えて 3軒先の別のコンビニに行ったりする。セブンイレブンのこのキャンペーンは、私という顧客に限って言えば明らかにマイナスに作用していて、販売機会損失につながっている。

一般的に言っても、あのキャンペーンでモノをもらうために来店する客って、そんなにいるものだろうか? そんなキャンペーンを知らずに来店して、さっさとレジを済まそうとしたら、ちょっと待たされて、要りもしないモノを押しつけられて、喜んで「またセブンイレブンに来よう!」なんて思う客なんているんだろうか?

もしかしたらあれって、売れ行きの悪い商品をさっさと消化するための裏技なんだろうか?

こんなようなことを考えていたら、「いつか電池がきれるまで」というブログに "セブンイレブンの「ちょっと気まずいサービス」について" という記事があるのを見つけた。この記事の締めはこんな具合である。

うーむ、あの「くじ」って、サービスになっているんですかねえ。
嫌なら他所のコンビニチェーンに行け、お前もくじを引くな、って言われそうなんですが、誰も幸せにしていないような気がしてなりません。
くじとかやらずに、さっさと会計してくれたほうが、よっぽど「サービス」だと思うのだけれど。

これには、まったく同感なのである。

 

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2014年5月28日

「ソフトバンクからの依頼で電話回線が切り替えられた」 件について

"「KDDIがソフトバンクからの依頼で勝手に電話回線契約を解約した」事件、解決へ" という Slashdot の記事の見出しに、私のアンテナがビビッと反応した。「ソフトバンク、まだそんなあこぎなことをやってるのか!」と疑ったのである。まあ、実際にはソフトバンク本体ではなく、悪質な代理店の仕業なのだろうけど。

この記事の内容は、次のようなことである。(上記の記事より引用)

この事件は、切通理作氏の実家の固定電話が突然使えなくなり、電話回線の契約をしているKDDIに確認したところ、「ソフトバンクから要請があったから解約した」と言われたというもの。ソフトバンクと契約を行ったことはないとして KDDI に確認を求めたものの、「工事済で復旧不能。使いたければ新規契約を」との回答しか得られなかった、という。KDDIのミスか、それともソフトバンクが勝手に契約をでっちあげたのか、などと Twitter 上ではさまざまな説が出ていたのだが、実際には So-net との契約トラブルが原因で電話が使えなくなっていたことが後に判明したという。

具体的には、So-net がインターネットの回線工事の際に光電話への切り替え工事も行っており、かつその実家では光電話では使えないビジネスフォンを使っていたために電話が使えなくなっていたそうだ。

しかしこの説明では、ソフトバンクがどう関わっているのか、さっぱりわからない。それで、私は自分の経験に照らし合わせて、ソフトバンクの悪質な代理店が契約をでっち上げたのではないかと疑っている。

私の経験というのは、10年前にさかのぼるが、ソフトバンク・グループの Yahoo BB からの勧誘電話に、妻が「それでは資料を送ってください」と返事したら、送られてきたのは資料ではなく、「お申し込み受け付け完了のお知らせ」 という書類だった。

中身を見ると、「このたびは Yahoo! BB ならびに BB フォンサービスにお申し込みいただきまして、まことにありがとうございます。お客様のお申し込みを承りましたことをお知らせいたします」と、実にふざけたことが書いてある(詳しくは こちら)。この書類によると、何日後だかに、Yahoo BB 回線への切り替え工事が行われるという。

当時、我が家はフレッツ ADSL 回線を使用していたから、 NTT 東日本に電話して、「いくら申請が出されても、当人に確認しなければ、工事はしませんよね」と聞くと、「いや、NTT としては、申請を受理した以上、スケジュール通りに工事を行うことになります」と、乱暴なことをいう。それであわてて、「それは差し止めてくれ」と申し入れた。

さらに、この「お申し込み受け付け完了のお知らせ」というふざけた書類を送ってよこした(有)サイバーワンという会社に電話を入れると、済ました声で「それではキャンセル手続きをとります」と言う。この種のクレームにはかなり慣れた様子だ。

私は「ふざけるんじゃない、契約してもいないものが、どうして『キャンセル』なんだ。それをいうなら、『無効手続き』だろう」 と、強行に怒ってみせて、もし回線関連で実質的な迷惑を被ったら、すぐに警察に訴えると通告した。

まあ、実際には回線切り替え工事は行われなかったので、不都合は生じなかったが、今回話題になったケースでは、でっち上げられた契約に沿って、妙な回線切り替えが行われたのではないかと、私は疑っているのである。どうもソフトバンク・グループでは、昔からこの種の話題が多いみたいなのだ。

というわけで、ご忠告しておく。なにかの勧誘の電話があっても、こちらの住所なんか絶対に教えてはならない。よくある投資詐欺などでも、ハンコを押させてナンボだというのに、電話一本で契約をでっち上げられてはたまらない。

ちなみに、いつの間にか自宅の電話回線の請求がソフトバンクから来るようになっていて、「おかしいなあ」と思いつつも「不都合はないから、ま、いいか」ですませている人は、全国にかなり多いんじゃないかと思う。あるいは支払先が変わっていることすら意識していない人もいるだろう。

その程度で済めばいいが、「ルーターがつながらなくなった」とか「プロバイダーのサービスが受けられなくなった」とかで表面化する例もあると思う。インターネットをまともに使っていない家庭ほど、ほとんど意識することなく、いつの間にかソフトバンクになったりしてるんだろうね。

 

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2014年5月27日

私はジャストシステムの「シルバー会員」なんだそうだ

このほどジャストシステムから「シルバー会員様【ご要望多数につき再入荷】業界初! 追突の危険性やふらつきを警告!……」というメルマガが届いた。ジャストシステムの製品は ATOK しか使っていないが、ユーザー登録をすると自動的に「会員」ということになるらしい。

それにしても、還暦を少しばかり過ぎただけなのに、「シルバー会員」ということになって、しかも「ふらつきを警告」する商品を薦められるなんて、我ながらずいぶん焼きが回ってしまったことだと、ちょっとムッと来ていた。

ところがよく調べてみると、「シルバー会員」というのは別に高齢者の会員というわけではなく、会員の中でも最低のランクということで、上には「ゴールド会員」と「プラチナ会員」というのがあるようなのだ。要するに、どんなに若くてもたまに ATOK を買うだけだと「シルバー会員」なのだね。私としては「アルミ会員」ぐらいでもいいのだが。

「ふらつきを警告」というのも、別に歩くときの足取りがおぼつかなくなった年寄り向けの商品ではなく、追突やふらつきをリアルタイムで警告してくれるドライブ・レコーダーのことなんだそうだ。ふぅむ、妙な具合に受け取ってしまったのは、年を取ってひがみっぽくなってしまったということなのだろうか。足取りの方はまだまだ大丈夫だが、そっちの方が要注意である。

ジャストシステムの製品に関しては、一太郎は Word に慣れてしまったせいで違和感たっぷりだし、「三四郎」とか「花子」とかになると、「なんか、そんなのあるみたいね」という程度である。お付き合いするのは数年に1度のペースで ATOK をバージョンアップする時だけだ。

2年間の有効期間内にアスキー製品をどんどん購入してポイントがたまると、「ゴールド会員/プラチナ会員」に昇格できて、割引を初めとしていろいろなサービスを受けられるらしいが、もともと一太郎に馴染めない上に、今や Mac で動かせるジャストシステムの製品は ATOK しかないのだから、私としてはほとんど意味がない。

といわけで、今後うっとうしいメールが来ないように、メール配信停止の手続きをさせてもらった。ジャストシステムさん、愛想なしでごめんね。その代わり、ATOK は当分使い続けるからね。

あとは、せめて Mac で使える「一太郎 Viewer」みたいなのが提供されれば、多少のお金を出してでも購入するのだが、ジャストシステムはやってくれないみたいなのだ。世の中には、一太郎で作成したファイルをそのまま添付して送ってくる人が、まだ少数ながらいるので、これだけはちょっと困りものなのだよね。

 

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2014年5月26日

季節外れの風邪がはやっているらしい

どうやら季節外れの風邪がはやっているらしい。先週あたりまでウチの妻と次女が風邪でしんどそうだったが、2人が治ったと思ったら、今度は私の番になってしまったようだ。時々咳が止まらなくなって、喉がヒリヒリと痛い。体もちょっとダルい。

一昨日電車に乗った時、私自身は花粉症のピークはとっくに過ぎ去っているのに、マスクをしている乗客が何人もいて、「今年は杉花粉の飛ぶのが長引いて、重症のアレルギーの人は、まだ辛いのかなあ」なんて思っていた。しかしあれは、風邪引きさんたちだったのだね。

今日、仕事で訪問した先でも、風邪引きが二人もいてゲホゲホしていた。「大変ですねえ」なんて言っていたら、なんと自分でもおかしくなってしまったようなのである。いやはや、冬の間に風邪を引かなかったのに、夏になりかけてこんなことになるとは思わなかった。

観念して早めに寝ようと思っていたのに、こんな時に限って超特急の仕事が入った。まあ、ちょいちょいっと済ませられるぐらいの軽い仕事なのだが、早めに寝ることは叶わず、夜中になってしまった。とにかく、もう寝る。

年を取って体が鈍感になると、風邪を引くこともできなくなるなんて言われて、私もずいぶん鈍感になってしまったのかと思っていたが、どうやらその心配はなさそうで、ある意味ほっとしたりしている。

 

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2014年5月25日

「まだ動いていない人」の多くは、これからだって動かない

知り合いのオッサンが、「近所に大型のショッピングセンターができて、大型の書店が入った」と喜んでいる。「その本屋に行けば、近くの本屋でいくら探しても見つからないような本でも大抵見つかるから、ありがたい」と言うのである。

「欲しい本がわかっているんだったら、Amazon で買う方がずっと早いですよ。大型書店の醍醐味は、『何かいい本がないかな』と漠然と探しに行って、思いがけないいい本に出会ったりするところにあるんじゃないですか」と言うと、彼は急に黙り込んでしまった。

ああ、ごめんなさい! つい、またやってしまった。

彼は PC を持っている。インターネットの閲覧とメールのやり取りはできる。しかし、いくら教えても添付ファイルを送ることができない。というか、教えている最中に目が泳いでいて、理解しようという気持ちがまったく感じられない。その程度の人に Amazon を進めても、何の意味もないんだった。

Amazon で買い物をするぐらいは、IT 音痴の私の妻でもできるのだから、つい軽い気持ちで、一般的な常識を適用してしまった。これをやると、インターネットと添付ファイル抜きのメールしかできない人に、ちょっとしたコンプレックスを感じさせて、不愉快な思いをさせてしまう。

「Chikirin の日記」に、「まだ動いてない人をいかに動かすか」というエントリーがある。ネット・ビジネスはかなり普及したように思われているが、普及率をこれ以上あげるためには、まだ Amazon で本を買ったことのない人、PC に何もダウンロードしたことがなく、あたかも冷蔵庫や扇風機のごとく買った状態のまま使っている人などを、新たに取り込まなければならないというのである。

それで、これまでネット広告しかしなかったような企業が、積極的にテレビ CM を流し始めているというのだ。ふぅん、私はテレビをあまり見ないから、そんなことはちっとも知らなかったよ。

ただ私は「まだ動いていない人」を動かす試みに関して、かなり悲観的だ。今に至るまで動いていない人のほとんどは、多分一生動かずに終わる層だ。これは経験から知ったことである。これまでもそうした人たちに懇切丁寧に教えてあげて、なんとか動かそうとしてきた私が、すっかりあきらめているのだから、これは実感である。

私の周囲には、PC を「使っている」というレベルではないものの、「一応、触っている」という程度の中高年がかなりいる。彼らの PC はすべて、買ってきた状態から私が最低限の設定をしてあげたものだ。インターネット接続、その人が注目しているサイトのブックマーク、メール、住所録の最低限の登録、PDF リーダーのダウンロード、必須の専門用語の単語登録などなど。

彼らはそれ以上のことは何もしていない。それどころか、私が設定してあげた必須事項の半分も使いこなしていない。せっかく写した写真を添付ファイルとして送ることすらできず、直接訪問して USB スティックにコピーさせてもらうしかないのだから、「Amazon で買い物すると便利ですよ」とか「ホテルの予約はネットでするのが便利ですよ」 なんて言っても、まったく意味がない。

彼らのほとんどは還暦をとうに過ぎた世代だから、生きてもせいぜいあと 20年である。だから、無理矢理引っ張ってきたとしても、実効的な活用はほとんどなされないままに、あと 20年足らずで消え去るユーザーだ。コストをかけてこのマーケットを取り込んでも、表面上のユーザー数が一時的に増えるだけで、実効的なユーザーが増えるわけではない。

この実感は年齢層のみによるものではない。30〜40代でも、PC を持っていながらAmazon で買い物をしたことがない人、ネットでホテルの予約をしたことがない人、ちょっとした疑問をググってみたことのない人はいくらでもいる。彼らはネットを使って自分でやるより、人に頼んだ方が早いと思っている。こうした層は、たとえやりかたを知ったとしても、アクティブなユーザーにはならない。

無駄な努力をしなくても、若い層の多くがどんどん「ごく当たり前にネット利用」するのだから、普及率は自然に上がるに決まっているんだがなあ。

 

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2014年5月24日

ちょっとイラっとくるラジオ CM

私はあまりテレビを見ない。たまに見るのは BS の NHK と WOWOW だ。それは主に、サッカーと格闘技を見るためである。ということは、CM の流れるテレビはほとんどみない。だが、ラジオはしょっちゅう聞いていて、それは TBS がほとんどなので、ラジオ CM はよく耳にする。

ラジオで「いらっと来る CM」というのがあり、それは業種や企業を問わず、焼き直しに次ぐ焼き直しが、昔からほとんど変わらないスタイルで延々と続いているものである。本当に私が子どもの頃から、ほとんど変わらない。それは、こんなのだ。

「カーン」(と、バットでボールを打つ音)
(絶叫調で)「バッター、打ちました!  大きい、大きい、大きい!! 」
(大歓声にかぶって)「入りました、ホームランです。○○のホームラン、△△です!」

「またかよ!」 と思うが、このスタイルのラジオ CM は、常に絶えることなく、どこかしらの企業が毎シーズン流している。きっとその企業の社長が野球好きで、「これでやってよ」と要求するんだろう。そうでもなければ、こんな安っぽくて手垢の付きすぎたスタイルを、広告会社が今さら提案するとも思われない。

でも、実際のところはどうなんだろう? あまり広告制作費の見込めないような企業の CM では、出来合いパターンとして、「じゃあ、例の『ホームラン』で行きますか?」てなことになるのだろうか。

ところでここ数年、この「ホームラン・スタイル」に勝るとも劣らないほどの陳腐なお決まりパターンの CM が目立つようになった。こんなのである。

「○△●□× と言えば?」 
(ポン!) 「●□×○!」
「…… ですがぁ、△●□☆なら?」
(ポン!)「□▲○☆!」
「…… ですね。そして、★▽○◇なら?」
(ポン!)「★▽□◇○!」
(ピンポン、ピンポン、ピンポン!)「正解です! やっぱり ○▽◇●なら、★☆◇○ですね!!」

最近は、この 2つのパターンのラジオ CM を聞かない日はないぐらいである。そして聞く度に、恐縮ながら、ちょっとイラっときている。ついでだが、このタイプの CM で宣伝される商品で、自分が買いたくなるような魅力的なものは、皆無であると書き添えておく。

いや、だからどうってことはないのだが、あまりにも陳腐なステロタイプの CM って、効果ないんじゃないかなあと思ってしまうのだよね。

 

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2014年5月23日

来月にかけて忙しくなってしまいそうだ

なんだか、来月にかけてやたらと忙しくなりそうな雲行きである。九州には 2度にわたって行ったり来たりしなければならないみたいだし、そのほかに、大阪にも行かなければならない。大阪まで行ったら、いつもの私ならその前後に時間を作って京都に寄りたいところなのだが、そんな時間がとれるかどうか、悲観的にならざるを得ない。

もう還暦も過ぎたのだから、あまり忙しくなく、余裕をもって仕事をしたいものだが、仕事というのはどうやらムラがあるらしく、暇なときは暇だが、忙しくなるとますます固まって仕事が入る。で、根が貧乏性なものだから、仕事を依頼されたら断ることを知らない。

で、昨日あたりから、土曜も日曜もなく仕事が入ってしまっている。しばらくはこのブログにもまとまったヘビーなことは書けないかもしれないが、まあ、できるだけ時間の隙間をみて、腹に溜まってしまいそうなことは吐き出しておきたいと思っている。

 

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2014年5月22日

『美味しんぼ』について、おずおずと書く

例の『美味しんぼ』の件について、おずおずと書く。

ただ、これから書くことは、この漫画の内容についての詮索ではない。ましてや、例の鼻血がどうの、福島には住めないという話がどうのとかいうことに関して、論評するつもりはない。そもそも私は 『美味しんぼ』 の読者ではない。大昔にほんのちょっとだけ読んだことがあるだけなので、書く資格がない。

ここでおずおずと書きたいのは、これだけ「情報化社会」と言われながら、肝心な情報を得るのは、本当に難しいということである。

この漫画では、「鼻血が出るのは被爆したから」というセリフがあるらしいのだが、これに関してネットで検索すると、「福島で鼻血が出る人が増えたなんていう報告はない」という反論があったり、反対に「実際に子供の鼻血が増えて、母親の間では周知の事実」という口コミがあったりするらしい。

それだけではなく、「そもそも、被爆で鼻血が出るなんていうことはない」と言われたりするかと思うと、「いや、チェルノブイリでも鼻血が出る症状はずいぶん見られた」なんていう報告もあったり、要するに、さっぱりわけがわからない。

これだけわけがわからない状況における最も誠実な対応は、「だったら、よく調べてみましょう」ということだと、私は思うのである。『美味しんぼ』をヒステリックに批判したり、逆に「隠そうとするのは、何かあるからに違いない」といきり立ったりする前に、客観的な目で調査してみればいい。

「事故後に鼻血が増えたという報告はない」というのは、この発言の当事者にとっては客観的事実であろう。しかし、ここで言えるのは「報告はない」ということだけなのである。実際には、時々鼻血が出ることはあっても、別に医者に行くほどでもないし、仲間内のうわさ話だけで済まされていて、オフィシャルな報告としてまでは上がっていないということなのかもしれない。

「鼻血が出る」という程度のことは、小さなうわさ話にはなっても、大げさなニュースにはなりにくいだろう。「幼稚園児に鼻血増える」なんて話は、地方新聞の見出しにだってなりにくい。しかしオフィシャルな報告はなくても、うわさ話だけはあるというなら、そのうわさ話が本当かどうかということだけでも、検証してみればいいではないか。

その上で、鼻血が増えたのが本当だったとしても、それが重大な健康被害であるのか、あるいは気にしなくてもいいぐらいのことなのか、そこまで調べてみればいい。

そうした「誠実な対応」をすっ飛ばして、それぞれが自分の立場でしか発言しない状況をみると、やっぱり「原発」は「立場主義」の弊害が集中的に現れている部分なのだなあと思うしかない。

そもそもこの問題に関して「福島鼻血調査委員会」なんてものが公式に発足するとも思えない。行政は、こんなもの発足させたら、すなわち認めてしまったということになると、確実に思っている。何しろ「立場主義」だから。

で、その「立場主義」こそが今の状況をもたらしたのだということは、『もう「東大話法」にはだまされない「立場主義」 エリートの欺瞞を見抜く』(安富 歩・著)という本に書いてある通りなのである。

私はこの本が「名著」とは決して思わないが、「あるよねえ」と思わせる事例満載だとは思うのだよね。

 

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2014年5月21日

人の心の「非言語」のままに残された部分

Advertimes という広告関連のサイトに、"「意識の95%は非言語」に広告の未来があるかも" という記事がある。電通 マーケティング・デザイン・センター プランニング・ディレクターの京井良彦さんという人の記事だ。

これは LINE の「スタンプ」 などのように、言語化されないコミュニケーションが広まってきているのだから、広告も非言語コミュニケーションをもっと重視すべきだという指摘である。京井氏は「これまで広告は、すでに言語化されている事象を、より伝わりやすく表現し直してユーザーに届ける」ことを重視してきたと言う。しかし、それでは不十分なのだ。

京井氏は「心脳マーケティング」を提唱するハーバード大学のジェラルド・ザルトマン教授の「人間は自己の意識の中で、自分で認識できることは 5%にすぎず、残りの 95%は自分では認識できていない」という指摘を引用し、圧倒的な「認識できていない部分」=「非言語のままの心」に、広告は対応すべきであるとする。

例えば市場調査の基本中の基本とされるアンケート調査について、京井氏は疑問を投げかける。「従来型のアンケート形式では、言語化できる 5%の意識しか調査できていません」というのである。これは私も常に不満に思ってきたことだ。いわゆるアンケート調査では、サプライヤーのバイヤスたっぷりの結果しか得られないのである。

ユーザー・エクスペリエンス(UX) の向上とは、「プロダクトやサービス一つひとつのスペックの良し悪しだけでなく、ユーザーが真に求めている非言語領域のニーズに応え」なければならないというのは、正しい指摘だろう。

「人間の意識の中で、自分で認識できるのはわずか 5%」というのは、大昔からユングの心理学で言われたことだ。ユングは人間の意識を氷山に譬え、水面に出ている顕在意識はわずか 5%で、残り 95%は潜在意識として、水面下に没している」としたのである。我々はことほど左様に、自分のことをほとんどわかっていない。

自分のことすらほとんどわかっていないのだから、市場のユーザー・ニーズをきちんと把握するなどというのは、べらぼうに難しい。ほとんど不可能に近いだろう。しかし「我々がわからないままに放ってある、95%の領域が存在する」ということを前提としてマーケティングすることは、それを無視するよりもずっとまともな手法といえるだろう。

「バカな奴は単純なことを複雑に考える。普通の奴は複雑なことを複雑に考える。賢い奴は複雑なことを単純に考える」というのは、稲盛和夫氏の名言とされる。これについて私は、1年半ほど前の「複雑なことを単純に考えて満足するのは、中途半端に賢い奴」という記事で、次のように書いている。

「より賢い奴」 というのは、複雑なことを単純に説明できて、その上で、「これでかなりの部分を説明できているけど、カバーしきれない部分も残されている」ということに自覚的である。

つまり論理で説明できるのは全体のほんのわずかであり、論理的思考には常に「積み残し」が大量に発生しているのだ。本当に頭のいいやつは、そのことに常に自覚的でなければならない。

 

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2014年5月20日

Retina ディスプレイは、期待以上に目に優しいかもしれない

今年の 1月に、晴れて Mac ユーザーになったのは、既にお知らせした通りである。購入したのは MacBook Pro の 15インチ Retina ディスプレイモデル。Retina ディスプレイにこだわったのは、目に優しい画面表示が金には変えられないと思ったからだ。

実際に店頭で MacBook Pro 同士を見比べても、従来のディスプレイを見るときは、目のピントを合わせる水晶体の筋肉(「毛様体筋」というんだそうだ)が緊張するのを感じるが、Retina ディスプレイをみるときはリラックスできる。長時間の作業をしたら、目の疲労にかなりの違いが出るはずだ。

で、話は変わるが、2〜3ヶ月ぐらい前からメガネが合わなくなったようで、「また老眼が進んでしまったのか」と思っていた。とくに街を歩いたり車の運転をしたりしている時に、遠くの景色に目の焦点が合わせにくくて、目が疲れるのである。

いつもの眼鏡屋に行って検査してもらうと、「遠視の度が 2段階軽くなっているので、今のレンズで遠くを見ると、目が疲れるのでしょう」などと、意外なことを言われた。なんと、「老眼が進んだ」のではなく、「軽くなっている」というのである。さらに言ってしまえば、「目が若返った」というわけだ。

眼鏡屋のスタッフは「年齢から来る遠視が軽くなるなんて、あまり聞いたことはないんですがね。少なくとも私は初めてです」と言う。そんなことを言われると、ますます嬉しくなってしまうじゃないか。

私の目が「若返った」要因は、どう考えても「PC のディスプレイが Retina に変わったこと」の他に思い当たらないのである。それ以外には、私の生活に目立った変化がないのだから。

実感としても、前に使っていたディスプレイに向かって仕事をしていた頃はやたらと目が疲れたが、最近はそうでもない。上述の通り、目の疲れを感じるのは、PC に向かっている以外の、遠くを見ている時なのである。

「目に優しいから」という理由で買った Retina ディスプレイモデルだが、私の期待以上の効果があったのかもしれない。やはり画面の見やすさというのは、金に変えられない価値がある。

Retina ディスプレイに高い金を払い、そのおかげで眼が若返ってしまったために、レンズを作り直すのにさらに金がかかる。二重の出費ではあるが、心情的には惜しくない。人間とは勝手な生き物である。

というわけで、Retina ディスプレイはオススメと言わせていただこうと思うのである。

 

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2014年5月19日

七三分けのヅラと 4ドアセダン

ほぼ 1年半前に「4ドアセダンはお好き?」 という記事を書いた。当時の 65歳以上(今の 66〜7歳以上)の世代は、車を買う時に無条件に 4ドアセダンを買う人が多いと指摘したのである。翻って、還暦を過ぎたばかりの私の世代には、「自分が 4ドアセダンのオーナーになっている姿が想像できない」 という者が多い。

世代論にはあまりこだわるつもりがないが、この点に関しては、現在の 66〜7歳を境に、かなりはっきりと線が引けるのではないかと思うのである。つまり戦後のベビーブームでに生まれた人たちは 「団塊の世代」 と、一まとめにされるとはいいながら、よく見ると、「4ドアセダンしか選択肢のない世代(前期)」と、「4ドアセダンはスルーしがちな世代(後期)」とに分かれるのだ。

私なんかはその「後期団塊の世代」よりさらに 3〜4歳年下だから、「4ドアセダンのオーナーになっている自分」は想像もつかないのである。

これと関係あると思うのだが、最近ふとしたことに気がついた。

世の中には、一見しただけでカツラとわかるような、違和感たっぷりの黒々とした七三分けのヘアスタイルの人がいる。私の印象では、ホテルのフロントマン、学校の先生、中小企業の総務課長という役どころのオジサンに多いように思う。

いや、これは「多かった」と言い直さなければならない。彼らの多くは今では 66〜7歳以上だから、一般的な定年を過ぎてしまっている。ただ、私の中ではどうしても「無条件に 4ドアセダンを買う人たち」と、イメージが重なってしまうのだ。

先日も出張先のビジネスホテルのフロントで、ヅラ以外の何物でもない頭のオジサンと相まみえてしまった。視線をどこに合わせたらいいのか困ってしまうほど、「ありありとしたヅラ」なのである。こう言ってはなんだが、私の世代ぐらいになってしまうと、たとえ頭の毛が淋しくなったとしても、こんな自己主張の強いヅラは、気恥ずかしくてかぶれない。

ところが、このホテルマンの雰囲気をみて気付いたのだが、「七三分けのヅラ」をかぶるのは、多分「スーツを着てネクタイを締めること」と同じぐらい、当然の上にも当然のことと感じているようなのである。

接客を仕事とする以上は、禿げた頭を晒すよりは、きちんとした七三分けの頭で登場するのが、ホテルマンとして当たり前すぎるほどのことなのだ。ヅラがバレバレなのは、それはスーツやネクタイみたいな、いわば「準制服」なのだから、一向に構わないのである。

団塊の世代の中でも年上の世代、まさに終戦直後ぐらいに生まれた世代は、それ以前のオフィシャルな価値観を色濃く引きずっているように思える。そして、それ以後の世代とはジェネレーション・ギャップを生じさせることが多い。むしろ、大正生まれのじいさんたちよりも若いだけ、そのギャップが際立つ。

というわけで、今日の結論。「一見してバレバレの七三分けヅラは、4ドアセダンとよく似ている」のである。

 

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2014年5月18日

未執行の死刑囚が、130人もいるんだってさ

2日前に、中山進という名の 66歳の死刑囚が食道がんのために死亡したというニュースが流れた。そのニュースの最後に、刑の執行が停止された袴田巌さんを除いて、日本には 130人の死刑囚がいると触れられた。私はせいぜい 30〜40人ぐらいのものだと思っていたので、「そんなに多かったのか!」と驚いた。

死刑判決が言い渡されるケースって、そんなに多いのかと思って調べたら、「死刑執行・判決推移」というページが見つかった。戦後の死刑判決と執行の数が掲載されている。それによると、戦後しばらくは死刑判決確定がやたら多く、昭和 38年(1963年)まではずっと 2桁で、とくに昭和 24年(1949年)なんかは、77件の死刑判決確定があった。

それからずっと減少して、昭和 63年(1988年)の 11件を除いてずっと 1桁が続いていたが、平成 16年(2004年)から再び増加して、平成 22年(2010年) と昨年を除いて、2桁となっている。今年はまだ 2件(5月 16日現在)なので、また 1桁台に戻れるかもしれない。

このデータは、先月 7日に書いた「凶悪犯罪は増加しているか」という記事の補完にもなると思うが、今の世の中は昔ほど物騒じゃないのだ。少なくとも、死刑になるほどの凶悪事件は、バブル崩壊以後の世の中で一時的に揺り戻しがあったものの、昔に比べればずいぶん減っている。

ただ、死刑判決を受ける者が毎年数名以上いるのに、実際の死刑執行は比較的少なく、平成 20年(2008年)の 15件を除いて、ずっと 1桁台となっている。つまり近年は死刑判決確定に死刑執行が追いついておらず、平成 15年(2003年)までは死刑囚の数はだいたい 50名ぐらいだったのに、それからどんどん増えて、ほぼ 10年で 2.3倍になってしまった。

その間、執行前に獄死や自殺で一生を終える死刑囚もいて、さらに少数ながら恩赦や再審で無罪となった者もある。それがなかったら、もっとずっと増えてしまったところだ。

私は死刑制度に関しては明確に反対を唱えているわけではないが、個人的には近年とみに疑問が大きくなってきている。6年近く前に「死刑制度では旗幟鮮明じゃない私」という記事を書いた時点より、さら 「死刑制度はない方がいいかもしれない」という方向に傾きつつある。

私が問題にしたいのは、「死刑が凶悪犯罪の抑止力として、果たして本当に機能するのか」ということだ。前述の記事で、私は次のように書いた。

池田小殺人事件の宅間某のように、「おぉ、俺は死にたいんじゃ、さっさと死刑にしてくれ」と開き直るものがいる (略)

自分で自分をコントロールできず、自殺すらできない者が、国家の手で強制的に処刑してくれることを期待して凶悪事件を起こすという可能性すらある。

ここで例に挙げた宅間某は、世の中に恨みを抱き、絶望の果てに自暴自棄になり、国家の手で処刑されて死ぬことを望んだ。確実に死刑になるためには、なるべく残虐な殺人を犯す必要がある。それで小学校に乱入して罪もない子供たちの命を奪った。(参照

そして裁判でも、一片の反省の態度すら見せることなく、死刑を言い渡された時も平然としていた。さらに、国家は彼の死刑をさっさと執行してしまったのである。ほかに執行されないままで何年も刑務所暮らしをしている死刑囚が多いというのに、本人の望んだとおりの早期執行となった。いともご丁寧なアフターサービスである。

これって、おかしくないだろうか。死刑制度が凶悪事件を抑止するどころか、結果論ではあるが、凶悪事件にインセンティブを与えたのである。宅間某にとって「国家による自殺幇助」として機能してしまったところの死刑制度がなかったら、彼はわざわざあんなにも残虐な犯罪に及んだろうか。

それに、現実に死刑を執行されずに何年も獄中生活をする者が 130人もいるのだから、「実質『終身刑』とそんなに変わりないじゃん!」と言いたくもなるではないか。だったら、初めから死刑を廃止して「終身刑」を最高刑としても、そんなに変わりないような気がするのである。

 

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2014年5月17日

論理型の人間には、世渡り下手が多い

昨日の 「性格の違いによるコミュニケーションの難しさ」 という記事に、emi さんからコメントがついた。彼女はコミュニケーションを専攻されているだけあって、この問題はかなり深く考えておられる。昨日の私の記事がわかりにくいと感じた人は、彼女の過去記事「会話のキャッチボール」 に飛ぶといいかもしれない。

で、emi  さんは、性格の違いを理解して言葉のキャッチボールでの軋轢を減らすのは、これもまた性格の違いによって、できる人とできない人がいるとお考えのようで、次のようにコメントされている。

タイプの違い(球種)を理解して対応し、キャッチボールを成立させようとするのは名捕手の素質だと思うのですが、4タイプのうちでそれを持ち合わせているのは、論理派(直球型)だけのような気がします。いかがでしょう?

うぅむ、よく考えてみると、これは確かに言えるかもしれない。それはそもそも、「タイプの違い」を客観的に、つまり「好き/嫌い」の感情を加えずに理解して、それに対して対応しようとすること自体が、「論理的な行動」であり、感情型の人間には苦手なことだろうからだ。

論理型の人間は、「理屈に合うか/合わないか」が基本的な判断基準だが、感情型の人間は、「しっくりくるか/こないか」で判断する。それで感情派は論理的な話を聞かされても、それが「しっくりこない」という場合には、「それは理屈としては正しいんだろうけど、誰も喜ばないよ」と思いがちだ。

そんなわけなので、「ぐずぐず言ってないで、理屈に合うなら粛々とやるだけのことでしょ」と主張する論理型の人間が、「人の心を理解しない冷たいやつ」に思われてしまう。それで、「あいつ、はっきり言って、大嫌い」ということになりがちだ。

自分が最も大切にする「人情の機微」的なことをいとも簡単に軽んじるのだから、ただでさえ「好き/嫌い」で判断しがちな感情型としては、当然のごとく、何のてらいもなく「大嫌い」という烙印を押してしまうのである。で、その「大嫌い」なやつと協力するなんて、「死んでもいや」ということになる。何しろ、「大嫌い」なのだから。

ところが、スマートに生きるのが信条の論理型人間は、そもそも喜怒哀楽の感情には乏しい傾向があり、ましてや「好き/嫌いなんていうどうでもいいファクター」で物事を判断する人間がいるなんてことは、到底信じられない。

だから、「あいつ、もしかして俺のことを嫌ってるのかな?」なんてことを薄々感じながらも、あまり気にしないように、努めて冷静に接しようとする。彼にとっては好きだの嫌いだの、気に入っただの気にくわないだのというのは、論理的正当さの前には「極々些細なこと」なので、感情型の人間にとっては、それが何よりも重大なことだなんて、想像もつかない。

というわけなので、自分を嫌っているらしい感情型の人間に対して、「だったら俺だって、お前なんか大嫌い!」なんてことには、決してならない。「あいつ、どうも苦手だなあ」とは思っても、論理を尽くせば理解してもらえると思っているから、「大嫌い!」に至る発想がないのである。なにしろ、論理は絶対だから。

ところが感情型の人間としては、大嫌いな論理型の人間が、自分に対して嫌な表情も見せずに極めてクールに接してくるのを見るだけで、「こいつ、なんて偽善的なやつなんだ!」と、ますます大嫌いになる。

まして、その大嫌いな偽善者が、「よく落ち着いて考えてみてください。どう考えても、この結論にしかならないじゃないですか」なんて言い出すと、「その言い方が気にくわない!」ということになって、ますますこじれる。これでは両者の間で、まとまる話もまとまらない。

とどのつまりは、感情型は論理型を「口先だけでうまいことを言う、世間知らずの偽善者」として嫌い、論理型は感情型を「あいつは頭が悪いから、枝葉末節にこだわって、大筋を理解しようとしない」なんて、匙を投げてしまう。

そういうわけで、自分が論理型の傾向が強い(とはいえ、土壇場で突然「直観型」にジャンプしてしまうのだが)と認識している私としては、とくに日本の実社会においては、論理派は生きにくいと思っている。

それは、論理型としてずいぶん割を食ってきた経験則からきている判断である。私はずいぶん早い段階で、「感情型の人間って、そういうものなんだ」と理解したので、なんとか大きな軋轢もなく対応してきたが、それを知らない論理型の人間が感情型の上司に振り回されたりすると、ものすごいストレスで神経症になってしまうと思う。

論理型の人間からみると、感情派は論理派を「あいつ、気にくわない、大嫌い!」と思っていれば済むので、楽と言えば楽なものだ。一方、論理型は 「コミュニケーションは性格の違いによって阻害される」という事実を理解しさえすれば、「それが理屈なんだから仕方ないね」と割り切って、自分を抑えてでも別の道を探ろうとする。

だが、感情型は「自分がしっくりくるか/こないか」がすべてだから、そんなことはしない。それができるのは、感情的に相性がいい相手を喜ばせてあげたいと思う時だけだ。これがうまくはまると、彼/彼女の周囲(に限って)は、さながら極楽浄土のような素晴らしい雰囲気になる。しかし気にくわない相手に合わせようなんて、死んでも思わない。

だから世の中、声の大きい感情派の方が強くて、理屈はなかなか通らない。それで論理型はいつも、自他共に認める「世渡り下手」になりやすいのである。

これは、論理型人間が学者や評論家みたいな世界に多いが、実業界では思いの外に少ないということをみればわかる。世の実業家の多くは、よく分析すると感情型の要素がかなり強いので、学者や評論家の言う通りのマネジメントなんかしたら、会社が潰れてしまうと思っている。

うまくミックスさせると、とても素晴らしいことになるだろうが、何しろ両者は「水と油」なので、1人の人間の中ではなかなかうまく行かない。奇跡的に両立してしまったら、それはそれで、「スーパーマン」になるよりは「個性のないつまらない人間」になってしまう確率の方がずっと高いだろうしね。

 

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2014年5月16日

性格の違いによるコミュニケーションの難しさ

コミュニケーションはよくキャッチボールに喩えられる。キャッチボールの基本は、相手の受け取りやすい素直な球を、一番受け取りやすい胸元に向かって投げてやることだ。お互いにそうすることによって、スムーズなキャッチボールができる。時々コントロールを誤って、とんでもない球を投げてしまうこともあるが、それはそれで、自分がミスしたのだとわかる。

ところがコミュニケーションでは、キャッチボールで当たり前のことが当たり前に運ばない。一番受け取りやすい素直な球を、相手の真っ正面に向かって投げてやったつもりなのに、相手はまともに受け取れなかったりする。それどころか、「どうして、そんな変な球ばかり放ってよこすんだ?」などと、思いがけないことを言われたりする。

こうしたことが生じるのは、お互いの思考メソッドが違うからだ。例えば論理思考派が、かなり感情的な相手にものごく冷静なボールを投げると、相手にとってははっとするような剛速球に感じられて、「わざと意地悪な球を投げるやつ」と思われたりする。

逆に、感情的なファクターを重視して物事を判断するタイプの人間が投げる球は、論理タイプの受け手にとってはものすごく不規則で面倒くさいタイミングに感じられて、受け取りにくくてしょうない。「もう少し、素直な球を投げられないの?」ってなことになる。

論理的な人間と感情的な人間というのは、水と油である。論理的な人間の判断基準は、「理屈に合うか、合わないか」ということで、感情的な人間の判断基準は、「好きか、嫌いか」である。

これでは、お互いに相手の思考メソッドが理解できない。感情派は論理派を「口先だけのやつ」と思い、逆に論理派は感情派を「どうでもいい枝葉末節のニュアンスにばかり気を取られてるやつ」と見なしがちだ。

世の中には、「自分は理屈で考えている」と思い込んでいるだけで、実は「好き嫌い」で物事を判断している人間というのが、かなり多い。こう言っちゃなんだが、巷で「できるタイプ」と言われる女性の中には、物事を理屈よりも好き嫌いで判断する感情派が、実はかなり多かったりする。

「どうしてウチの上司にはまともな理屈が通じないんだ?」と不満をもらす人が多いが、その理由は簡単だ。その上司は「感情型」の人間なので、論理一辺倒のプレゼンには非人間的な冷たさばかり感じて、「世の中、そんな理屈通りに行かんだろ」と反発が先に立ってしまい、どうしても共感できないのだ。

もっと情感に訴えるやり方をすれば、簡単にころっと落とせるのだが、不幸なことに、それは論理型の人間の最も苦手とするところである。田舎のじいさんの寄り合いじゃあるまいし、そんな馬鹿馬鹿しいことに労力を割くなんて、信じられない。だから実は感情派の多い世間では、論理型は「世渡り下手」になりがちだ。

その一方で、「感覚型」というタイプもある。純粋芸術的な美的センスを重視するタイプと職人タイプとがあるが、どちらも細かいことでも理屈抜きに、「そういうものだ」で納得できてしまう。「美しくて心地よいか、不細工で鬱陶しいか」が判断基準なので、理屈や感情みたいな面倒な要素にはあまり興味がなく、大抵スルーしてしまう。

芸術家や職人肌の人たちが、理屈と感情がとぐろをまいてどろどろになった俗世間から距離をおき、別の世界で別の価値を追求していられるのは、そのためである。

職人タイプの人間だと、複雑な設計図や分子式でも理屈抜きで写真のごとくに頭にすっと入ってしまうので、論理の世界と思われがちな科学技術者の中にも、こうしたタイプがかなり混じっている。彼らはルーティン・ワークは大いに得意だが、独創的なことは案外苦手だったりする。

こうしたタイプは「何とか技術研究所」とかのスタッフだったりしても、自分のやっていることは「ごく当たり前」と思っているだけで、必ずしもきちんと論理立ててやっているわけじゃないので、自分の専門分野を門外漢に説明するのが、ものすごく下手だ。そのことについては、"「文系/理系」と「論理的/感覚的」" という記事で、過去に触れた。

一方、独創的なことが得意なのは、「直観型」と言われるタイプだ。理屈も情感も感覚もへったくれもなく、突然のインスピレーションでとんでもないことをやってしまう。だから、直感型の投げる球ほど受け取りにくいものはないが、うまくはまるとものすごい「魔球」になったりする。

とびきり個性的な芸術家やデザイナーなんかは、フツーは「感覚派」と思われがちだが、本当は「直観型」であることが多い。だから、純粋な感覚派には耐えがたいような「一見不細工に見えてしまうようなもの」でも、自信満々に発表したりする。

その意味で感覚型と直観型というのも、実は水と油である。感覚派からみた直観派は「突飛すぎ」で受け入れがたいし、直観派からみた感覚派は「フツーすぎ」で、おもしろくもなんともない。

と、ここまで述べたのはユングの性格分類説に基づいて、私なりの経験からくる知見を交えて言っているのだが、実際のコミュニケーションを行う際にこうしたことに気をつけると、余計な軋轢を避けることができたりする。私なんぞも、感情型の人間と付き合わなければならない場面でこれを知らなかったら、ものすごいストレスだろうと思う。

まあ、本当は上述の 4タイプがそれぞれ 「外向的/内向的」 に細分化され、さらに、各要素がいろいろな比率で混じり合って出現するので、かなり複雑で、到底一筋縄ではいかないのだがね。

 

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2014年5月15日

「ハンディドリップコーヒー」 という、実はうっとうしい商品

よく贈答品としていただくものに、コーヒーの粉を一杯分ずつ小分けにして、カップの上に直接セットできるような、紙製の仕掛けに入れたものがある。AGF の場合は 「ハンディドリップコーヒー」という商品名のようだ。

これ、はっきり言ってもらっても邪魔くさいだけだから、はなはだ恐縮ながら、すぐに他に廻してしまう。ウチはコーヒーをいれる時は、大抵 3〜4杯分ぐらいまとめて、コーヒーメーカーでいれる。1杯分ずつちまちまいれることは滅多にないから、こんなのは面倒なのだ。

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ところが、うっかり他に廻すのを忘れていたのが棚の奥から見つかったりすると、これはもう仕方がない、しあさってに賞味期限が切れてしまうようなのを人にあげるわけにもいかないので、もったいないから賞味期限の 翌週ぐらいまでかけて、自前で消費する。

はっきり言って、表示された賞味期限が過ぎても、味はそんなに極端に落ちるわけじゃない。十分に飲める。ただ、味はそんなに変わらないが、いつもと違ういれ方になってしまうので、やはり面倒くささが先に立つ。

それに、写真の左上のように、たった 5杯分ずつ小分けされて入っているご大層なボール紙のパッケージをみると、なんとなくうんざりする。それを開けると 1杯分ずつ小分けされてプラスチックのパッケージに入れられたの(写真の真ん中下) が出てくるのだ。

さらにそれを開けるとようやく、写真の真ん中のようにカップにセットするための紙の器状のものに入っているのが出てくる。その過剰なまでの念の入りように接すると、こちらはどうも気持ちが落ち着かない。「たった 1杯のコーヒーのために、どんだけ資源を浪費してるんだよ!」と言いたくもなるではないか。

これって、普段はインスタントコーヒーしか飲まない人に、「たまにはレギュラーコーヒーを召し上がれ」と言って差し上げる類いの商品なのではなかろうか。ドリップするためのネル袋も、ペーパーフィルターも、サイフォンも持っていない人には、まあ、いいかもしれない。

ところがそんなのもらうまでもなく、いつもレギュラーコーヒーを自分のやり方で飲んでいる人には、「何を今さら」というようなことになるのである。

しかも普段インスタントコーヒーを飲んでいる人が、たまにレギュラーを飲むために、自分でわざわざこうした商品を買うことは滅多にないだろうから、どうしても贈答用の扱いになり、見栄え重視の過剰包装になる。要するに「なくても困らない商品」、「メーカーの押しつけ贈答企画」 ということができる。

そうしたものが、「なくても困らない」 どころか、「もらっても邪魔くさいだけ」 という人のところにまで贈られてしまうのだから、世の中というのは本当にままならない。ちょっと考えたら「こんな中途半端なモノ贈っても、あまり喜ばれないだろうなあ」 とわかるだろうに。

どうしてもこうした類いの商品を売りたいというなら、いっそ紅茶みたいにティーバッグ入りみたいな形が開発できないものかなあ。そうすれば、3〜4杯でも一度に入れられるし、資源の無駄遣いも少しは抑えられるので、贈答用ではなく、日常商品として展開できるだろうに。

【注】
ちなみに、ここでいう 「レギュラーコーヒー」 とは、UCC が作ったといわれる和製英語の 「いわゆるレギュラーコーヒー」 のことを意味しており、米国でいうところの "regular coffee" のことではない。念のため。(参照

 

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2014年5月14日

童謡『桃太郎』の歌詞が、最近変わったらしい

最近、童謡『桃太郎』の歌詞が昔と違ってしまったのだそうだ。昔は 1番目の終わりの「お腰につけた黍団子/一つわたしにくださいな」を受けて、2番目は「あげましょう あげましょう」で始まったものだが、今の幼稚園などでは「やりましょう やりましょう」と歌われているらしい。(参照

「あげる」は「やる」の謙譲語(自分の方を低く表現する敬語)なので、家来になる犬、猿、雉に対して使うのはおかしいというのである。それでいつの間にか、「やりましょう やりましょう」に統一されてしまった。この国では根本的な改革はちっとも進まないが、重箱の隅みたいなことは、ずいぶんマメに対応するのである。

ちなみに私は桃太郎の歌の歌詞について、昔から「あげましょう/やりましょう」以上におかしいと思っている箇所がある。それは「これから鬼を征伐に/ついて行くならやりましょう」という部分だ。

「ついて行くなら」というのは、どうしようもなく不自然ではないか。犬、猿、雉の「ついて行く対象」が桃太郎、つまり他ならぬ自分自身なのだから、ここは「ついて来るなら」というのが自然である。

「これから一緒に鬼ヶ島に行くのだから、『ついて行くなら』でいいじゃないか」とアホなことを言う人もいかにもいそうだが、だったら、「一緒に行くなら」と言うべきである。

とにかく「これから一緒に行く/何かを目指す」という場合でも、「俺について来い」とは言うが、「俺について行け」とは言わないのである。家来はリーダーの後に従うのだから、「これから行く」という場合でも、リーダーの視点からすれば、「ついて来る」のである。

あるいは、小津安二郎的な映画をイメージしてみよう。「ついて来てくれるというなら、君のご両親に、結婚の申し込みに行くよ」というセリフは OK だが、「ついて行ってくれるというなら……」では、その時点で映画がぶちこわしである。「一体誰について行くんですか?」ってな話になる。

「花に水をあげる」とか「お小遣いをあげる」とかいう言い方がそれほど奇異とは感じられなくなった今の世の中で、「あげましょう/やりましょう」レベルの些細なことにこだわるよりも、文脈そのものを混乱させかねない「ついて行くなら」の部分に注目する方が、より大きな問題だと思うがなあ。

前述の「この国では重箱の隅レベルの修正はマメに行われるが、根本的な修正はなかなか進まない」というのが、これをみても理解されるだろう。

 

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2014年5月13日

『良心を持たない人たち』−サイコパスと一闡堤 その2

昨日私は、仏教でいうところの「一闡堤 (成仏の機縁をもたない人)」を、「サイコパス」と対象させて論じた。世の中には思いやりの心や良心といったものを持たない人=サイコパスが、一定数(米国では 25人に 1人)存在すると言われる。臨床心理学で認められたサイコパスは、仏教でいえば成仏の機縁を持たない一闡堤であるのかもしれない。

釈尊の最初の覚りは「山川草木国土悉皆成仏」「悉有仏性」というものだった。つまり、人間に限らずすべてのもの、命あるものから無機質に至るまで仏性をもつというのが、大乗仏教の根本である。白隠禅師の『座禅和讃』にも、「衆生本来仏なり/水と氷の如くにて/水を離れて氷なく/衆生の外に仏なし」とある。

しかし、釈迦の教えの最終到達点といわれる『大般涅槃経』では、「一切生類にはみな仏性がある。ただし一闡堤は除かれる。(如来性品第四の四)」とある。つまり、すべての生きとし生けるものがもつ「仏性」を、一闡堤はもたないというのである。これはあまりにも悲しい。

一闡堤はどうしようもない性(さが)なのか。永遠に救われないのか。そして同様に、サイコパスも心的病理として不可避のものであるのか。そして良心とは最後まで無縁であるのか。つまり、人としての心をもつことができないのか。

これに関して、昨日触れた『良心をもたない人たち』という本の中に、サイコパスの存在する割合が、米国では 25人に 1人であるのに対して、異なる文化圏ではそうはならないと記述されている。神道的な「万物のあいだの相互関係」や、「きずなにもとづく義務感」といった思いのある日本では、サイコパスの割合は低いというのだ。

これは朗報である。サイコパスの出現割合が文化圏によって異なる、つまり、米国ではサイコパスになるタイプの人が、幸運にも日本に生まれた場合にはそうはならないことがあるというのであれば、それは絶対的なものではなく、環境要因も大きいということだ。サイコパスになる宿命は、どうあっても避けられないというわけではないようなのである。

ならば、一闡堤という存在もそうしたものなのではないか。一闡堤として生まれたら、どうしても救われないというわけではないのではないか。一闡堤には仏性がないというわけではなく、厚く堅い殻に閉ざされて、容易に発揮されることがないということなのではないか。

エンパシーという情感は、ミラーニューロンというものと関係があるらしい。ミラーニューロンとは、簡単にいえば(まったく正確な説明ではないかもしれないが)、例えば他人の笑顔を見て我がことのように嬉しくなるという働きを司る神経といわれている。

「仏心とは四無量心これなり」といわれ、四無量心とは「慈悲喜捨」とされる。このうち「慈悲」とは、他を我がことのように慈しむ心であり、ミラーニューロンによるエンパシーと大いに関係がある。もしかしたら、他に対する共感をもてないサイコパスも、仏心とは無縁な存在である一闡堤も、ミラーニューロンの働きが阻害された存在なのかもしれない。

つまり本来ならば発揮されるべき良心や仏心が、器質的な不具合によって発揮されないでしまっているという状態が、サイコパスであり、一闡堤なのではないか。というわけで、私はここまできても、サイコパスも一闡堤も、本来は良心、仏性をもっていると信じたいのである。

『大般涅槃経』においても、前半では一闡堤は成仏と無縁であると説かれているが、後半では一闡提でも仏性はあるので成仏できることがあるとして、その救済の可能性を説いている。実際にはかなり困難なことかもしれないが、一筋の希望は提示されているのだ。

 

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2014年5月12日

『良心を持たない人たち』−サイコパスと一闡堤 その1

「一闡堤」という仏教用語がある。読みは「いちせんだい」または 「いっせんだい」、略して「闡提(せんだい)」と言うこともある。元はサンスクリットの "Icchantika" (イッチャンティカ) という言葉で、その音写が「一闡堤」 だというのだが、まあ、当時の中国での「一闡堤」の発音が 「イッチャンティカ」 に近かったんだろうね。その意味では、「いっせんだい」と読む方が、より原語に近いのかもしれない。

一闡堤というのは、「信不具足、つまり仏法を信じず誹謗する者」という意味である。さらに「善根を断ずる (良心がない)輩で、悟りを求める心がなく、成仏する機縁をもたない」ともされている。つまり成仏に縁のない、慈悲喜捨という四無量心=仏心をもたない者のことである。

『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう)においては、釈尊が弟子の問いに答えて、「アリの子を殺したら罪だが、一闡堤を殺しても罪にならない」なんて、激烈なことを説いておられる。「山川草木国土悉皆成仏」と説いたお釈迦様とも思われない、むちゃくちゃな言い様だ。

どうしてこんなことを思い出したのかといえば、emi さんのブログで紹介されていた 『良心をもたない人たち』(マーサ・スタウト著、草思社文庫)という本を読んだからだ。この本は、手短にいえば、「ごく身近にいるサイコパス」(原題は "The Sociopath Next Door")を論じたものだ。

「良心(conscience)が欠落していて、他人をおとしめるのにまったく躊躇がない人」が、「サイコパス」と呼ばれている。 この本の著者は米国の臨床心理学者で、サイコパスの人たちによって傷つけられ、トラウマを抱えてしまった患者を、25年以上にわたって治療し続けてきた専門家である。

米国では驚くべきことに 25人に 1人がサイコパスであるとされている。サイコパスは一見普通の人と変わりがなく、むしろ人当たりがよく、言葉巧みでもあるので、周囲には魅力的な人物とみられていることが多い。ところがその影で、平然と嘘をつき、自分の欲求を果たすためには人を落とし込めることをまったく厭わず、都合が悪くなると逆ギレする。

人をいじめたり落とし込めたりする時、フツーの人間は自分の中の良心が働いて一定のブレーキがかかるものだが、サイコパスの人間にはブレーキとして機能する良心がないので、いわばやりたい放題である。「よくそんなことができるな」なんて言われても、「良心の呵責」のない彼らにとっては「ん? 何か?」程度のことになる。

日本では米国ほど多くないといわれるが、それでも身近にこうした人はいくらでもいる。一見明るくて勉強や仕事もそこそこでき、周囲の人気者なのに、陰で執拗ないじめを続けているなんていうのは、多分、というより、ほぼ確実にサイコパスなんだろう。

実際にこうした事例が多いので、「いじめられる方に問題がある」なんて受け取られ、いじめがいじめとして認識されにくかったりする。そのため心の繊細な人ほど、サイコパスの被害を受けてトラウマを抱えることが多い。

こうしたトラウマを避けるためには、サイコパスの人間をしっかりと見分け、決して近付かないようにすることが必要だ。紹介した本には、その見分け方と対処法がしっかりと書いてある。その意味では、もしかしたら現代人必読の書と言えるかもしれない。

とはいえ、過去に「"Empathy" の時代」(2010/04/29)や 「ネズミもすなる「思いやり」というもの」 (2011/12/14) なんていう記事で、人間の本性というのは、弱肉強食よりも思いやりの心(empathy)に根ざしているらしいというようなことを書いた私としては、思いやりや良心とは無縁な人たちが一定数存在するというのは、ちょっとしたショックである。

なるほど、お釈迦様までが一闡堤=サイコパスの存在を認めて、「殺しても罪にならない」なんて激烈なことを言ったのも、瞬間的にはむべなるかなとも思われてしまったのである。

長くなるので、続きはまた明日。

 

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2014年5月11日

「さわやか」は秋の季語なんだってさ

知らなかった。「さわやか」というのは、秋の季語なんだそうだ。これまで、春だろうが夏だろうが、「さわやかな晴天」とか「さわやかな風」なんて使い方をしてきてしまった。

さわやかな、じゃない、ささやかな救いは、NHK 放送文化研究所の放送用語の疑問に答えるページで、「さわやか」は秋に限るのかという質問に、「一般には季節に関係なく使われています」とされていることだ (参照)。

とはいえ、iPhone のアプリで入れている『大辞林』を引くと、最初の語義として「ほどよく冷たくさっぱりしていて気持ちがよいさま」というのが出てきて、しかも秋の季語であると明示されている。確かに「ほどよく冷たくさっぱり」というのは、「さわやか」という言葉のキモのような気がする。

『大辞林』 では 2番目の語義として「はっきりしているさま。明快なさま」とあり、使用例として「弁舌さわやかな青年」となっている。なるほど、「弁舌さわやか」というのは情熱を込めて熱く語るのではなく、クールな論理性が前面にでていなければならない。口角泡を飛ばすようでは「弁舌さわやか」とは決して言えない。

ここまで知ってしまうと、以後「さわやかな初夏の空」なんて使い方はできなくなってしまう。他人がそんな使い方をしたところで、ことさらに批判しようとは思わないが、とりあえず自分ではもうできない。

既に 「さわやかな初夏の空」 というフレーズには、そこはかとない違和感を感じ始めてしまったよ。我ながら順応が早いなあ。

 

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2014年5月10日

ホテル昭和(甲府昭和インターすぐ近く)礼賛

とても不思議な魅力のホテルをご紹介する。中央道の甲府昭和インターから、車でほんの 1〜2分のところにある「ホテル昭和」だ。宿泊代はかなりお安くて、昨夜は楽天予約で、4500円で泊まった。これで無料の朝食バイキングまで付く。

「昭和」という名の通り、古色蒼然というほどではないが、古い造りのホテルである。向かいにそびえる全国チェーンの「スーパーホテル」と比べると、3階の低層建築で、しかもエレベーターがない。階段には「階段ダイエット」 なんて書かれた張り紙があり、それが嫌みに感じないのが、まず不思議である。

向かいの「スーパーホテル」は、実はメジャーなホテル・チェーンの中では私の最大のご贔屓である。しかし甲府に行く時だけはそれを無視して、こっちの「ホテル昭和」を選んでしまうのだ。

このホテル、部屋のドアはオートロックではなく、いちいち自分で鍵を閉めなくてはならない。どこを見ても、かなり時代がかった設備ではあるが、アメニティに至るまで過不足はない。テレビはシャープの Aquos で、ちゃんとした大きさのある画面。一応 BS 放送もみられる (WOWOW は映らないが)。それに、有線 LAN のほかに Wifi も無料で接続できる。

昨夜はチェックインの時にフロントで名を告げた時点で、「2度目のお泊まりですね」ということで、宿泊カードの記入は省略してもらえた。実はビジネスホテルでこんなことは、生まれて初めてである。他のホテルは何回リピーターとして泊まっても、チェックインで毎回宿泊カードに住所氏名を記入させられる。あの東横インでも、名前とカード番号を書かされる。

そしてフロントの女性が、マニュアル通りの接客というのではなく、フレンドリーな丁寧さ(機械的な慇懃さではないということ)とナチュラルな笑顔で接客してくれる。妙に愛想よすぎるというわけでもなく、対等な人間同士の関係という感覚が心地よい。

そしてこのホテルの一番の魅力は温泉である。この温泉設備も、やはり相当に古いのだが、不潔感は微塵もなく、何よりも泉質が素晴らしい。とても滑らかな弱アルカリ性の単純泉で、源泉掛け流しである。もちろん各部屋はバス付きだが、このホテルに泊まったら、温泉に入らない手はない。

大浴場はそれなりの広さもあり、水風呂、サウナ、さらに冷凍室(キーンと冷やされる)というのまであって、かなり癒やされる。ぽっかぽかに暖まって、部屋に戻り、寝心地のいいベッドで安眠できる。国道 20号線沿いではあるが、車の音がうるさいということもない。

こじゃれた雰囲気とか、ことさらな高級感とか、全国一律のマニュアル通りの安心感とか、無機質なまでの清潔さとか、そんなこととはまるで無縁だが、過不足のない快適さと、フレンドリーな笑顔、必要十分な朝食、素晴らしい温泉があれば、他に何が必要だろうかと思わせる。

ほとんど毎月泊まりがけの出張にでかけ、日本中のビジネスホテルに泊まっている私が言うのだから、信用してもらっていい。次に車で甲府を訪れることがあったら、是非またこのホテルに泊まりたいと思うのである。

 

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2014年5月 9日

例のネタ、「袋入りません」は「袋要りません」だろうね

近頃、ネット界隈の一部で話題になったネタに、「コンビニでガリガリ君買ったら店員が斜め上のサービスを提供してくれたwwwwwww」というのがある。どんなのかというと、「コンビニでガリガリ君を買って『袋入りません』って言ったら、不思議そうな顔をして袋を剥いてくれた。 そうじゃない」というのである。

まあ、レジ袋は必要ないと言ったのに、店員は勘違いして、アイスの「ガリガリ君」のパッケージのビニール袋を剥いでくれたってわけだよね。これに関するコメントでは、「これがゆとり店員か」とか、「サービス満点の店」とかいうのがあって、結構賑わったようだ。

ただ、私は言葉に関しては細かいところにこだわってしまうというか、自称「アスペルガー一歩手前」のせいで、もろに文字通りに受け取ってしまうというところがあるので、「ん? 待てよ」となってしまったのである。

このネタでは 「袋入りません」と言ったというのだが、これって正しくは、「袋要りません」だよね。あるいは「いりません」と、仮名だけでもいいし。口で言う限りは同じなのだが、文字テキストとして「入りません」としてしまったのは、痛恨のちょんぼだ。

もしかして、「ふくろはいりません」と入力したのかもしれないなんてことまで考えたが、いずれにしても痛恨ではある。ただ、この間違いを指摘するコメントはなかったみたいなのだ。信じられないことに。

これって、手書きだったら多分間違えないはずなのだが、PC なんかで打ってしまうと、日本語変換システムがつい気を利かせて、「袋だったら、ここは『入らない』だろう」 なんて余計なお節介をしてしまうのだろうね。

日本語入力というのは、かなりデリケートな作業なのである。ところで私は、5月 2日の記事で宣言した通り、Mac でも ATOK を使い始めた。おかげで快適な日本語テキスト入力環境を実現している。

Mac OS 付属のことえりだろうが、ATOK だろうが、慎重に打てば問題ないのだろうが、タッタカターっと快速入力してしまうと、つい妙な変換ミスに気づかずに打ち進むことがあって、それが「ことえり」では頻発していたのである。それでなくてもシステムのお馬鹿さ加減が少し残っていて、まともな変換をするのに手間がかかっていたしね。

ただ、ATOK で「ふくろいりません」と入力すると、最初の変換では「袋入りません」になるね、確かに。気の利かせ方が、まだ中途半端のようなのだ。今の時代は。「袋要りません」の方がずっと重要なフレーズになってしまったのに。

ついでだから触れておくが、南東北や北関東では「要る」を方言で「ようだ(要だ)」と言う地域がある。「行くようだ」というのは、「行くらしい」といった意味ではなく、漢字で書けば「行く(ことが)要だ」 ということで、つまり「行かなければならない」ということだ。これは誤解のもとになりやすい。

ちなみにわが庄内では、もっと訛って「よだ」となり、ニュアンスとしては「必要」というよりも「欲しい」という意味合いが強くなる。「一万円欲しい」は、「いづまんえんよだ」となる。「行かなければならない」は「いがねばね」となって、音だけを聞くと、日本語とも思われないものになる。

なんねひとだばつーやぐよだんでろの(慣れない人なら通訳が欲しいだろうね)。

 

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2014年5月 8日

中国とベトナムの対立は、今後の世界の予兆

南シナ海での中国とベトナムの対立が大きなニュースになった。中国が強引に開始した石油採掘に抗議するために現場に近付いたベトナム船に、「中国海警」と大きく記された船が、体当たりを食らわせている。中国人って案外短絡的に、棒でぶん殴ったり、船で体当たりしたがるという印象が大きくなってしまったよ。

ベトナム政府はこの模様を撮影したビデオをさっさと公開した。2010年に尖閣諸島付近で中国漁船(?)が日本の巡視船に体当たりしてきた事件で、時の民主党政府がビデオ公開をしぶりにしぶり、結局「流出」という Good job で日の目を浴びたのとは、エラい違いである。

中国は近年(に限ったことではないが)、周辺諸国との領土問題をエスカレートさせている。その要因はいろいろあるわけだが、最大のものは「資源」である。主に漁業資源と地下資源だ。

世界最大の人口を抱える中国は、経済発展によってこれまで以上に食料とエネルギーを必要とするようになった。

所得の増えた国民は、動物性タンパク質を摂りたがるが、牛や豚をそんなに急に増やすわけにもいかないので、漁獲高を増やさなければいけないのである。さらにエネルギー供給は深刻な問題で、これまで通り質の悪い石炭に頼っていては、大気汚染がますます深刻になる。どうしても石油と天然ガスが必要になる。

尖閣諸島周辺と南シナ海は、食料とエネルギー問題に悩む中国にとって、「喉から手が出る」ほどに欲しい海域なのだね。中国は今後ますます、なりふり構わぬ勢いで、これらの海域に進出を図るだろう。

中国は「東シナ海と南シナ海は、中国の海だ」なんて、本気で思っているフシがあるのだよね。何しろ英語で言ったら "East China Sea" と "South China Sea" なんだから。日本はそのあたりをぼかしたいのか、「シナ」という呼称はどうのこうのなんて言いながら、海の名前だけはしれっとして使い続けている。ご都合主義だよなあ。

韓国人が、「日本海(Japan Sea)」の名称に抵抗するのも、このメンタリティからしたら、少しはわからないではない。日本は「日本海は全部日本の領海だ」なんて野蛮なことは、決して言わないんだけどね。

ちなみに食料とエネルギー問題は、中国ばかりの問題ではない。おっつけ全世界的な問題になる、というか、既になっている。食糧供給は増加が止まり、地球温暖化による自然災害激化のせいで、減少の懸念すらある。

エネルギー供給でも「オイル・ピークは超えた」なんてことも囁かれているし、今後の世界は、食料とエネルギーの奪い合いになるのが確実なのだ。つまり、戦争の種は大きく膨らんでいるのである。つまり、中国とベトナムの対立は、今後の世界の予兆なのだ。

こんなにも戦争の種が膨らんでいる状態で、原発なんかを活発に稼働させたら、攻撃のターゲットになって、危なくてしょうがないではないか。それはもはや世界の常識で、原発 1基に的を絞って、ほんのちょっとでも穴をあけてしまったら、その国全体の大打撃になる。ものすごく効率のいい攻撃になるわけだ。

食料とエネルギーの奪い合いが戦争の原因になるのなら、戦争を避けるためには、その原因から遠ざかればいいのである。食糧自給率を高め、循環可能な自然エネルギー利用を推し進めるのが、最も確実な安全保障になる。

自然エネルギーは高くつくなんていう議論があるが、地下資源争奪(ウランだって有限な地下資源だし)で高い間接費用を使ったり、軍事費を増やしたり、最悪の場合、実際に戦争に巻き込まれたりする方が、コストは莫大なのだ。農業を大切にして太陽光や風力などによる発電を強力に推進するというのなら、もしかして憲法 9条だって改正しなくて済むかもしれない。

 

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2014年5月 7日

ブログが乗っ取られる危険性

今日、いつも愛読しているブログに飛んだところ、そのブログが一瞬表示されたかと思うと、次の瞬間に別のサイトに飛ばされた。何かの間違いではないかと思い、もう一度表示させたが、やはりすぐに別のサイトに飛ばされる。

どうやら、そのブログが乗っ取られてしまっているようなのだ。「ブログ/別のサイトに飛ばされる」という 2語でググってみると、同様の現象が結構見受けられるようなのである(参照)。症状は大抵似通っているが、飛ばされる先はなかなか多様で、悪さをしているのは 1人や 2人じゃないようなのだ。

で、もう少し子細に見てみると、いきなり別サイトに飛ばされてしまう原因は、変なプラグインを入れてしまったとか、不用意に貼り付けたブログ・パーツが悪さをしているとか、あるいはテンプレートが改ざんされてしまったとか、ずいぶんいろいろなのだが、とにかくゆゆしき問題である。

乗っ取りを防ぐには、とりあえず「やたらとブログ・パーツを貼り付けない方がいい」というのは、原則のようなのである。で、私としても乗っ取られるのは嫌なので、ブログパーツは最低限にして、かなり削除してしまった。

乗っ取られてしまったらしいブログに関しては、先方に迷惑がかかってもいけないし、不用意に見に行って飛ばされた先のサイトを表示させただけで、ウィルスに感染してしまうというリスクも否定できないので、敢えて伏せておく。私自身も今、自分の PC をウィルスチェックをしてみたところ、脅威は一応検出されなかった。

まあ、先方もそのうちしっかりと修復して復活するだろう。その際には今回の騒動の顛末もレポートしてくれるだろうから、自分のブログが乗っ取られないためにも、参考にさせてもらいたいと思っている。

 

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2014年5月 6日

富岡製糸場に観光客が急増しているというが

世界遺産が確実になった群馬県の富岡製糸場を訪れる観光客が急増しているそうだ。とくにこの連休中の観光客は過去最高ペースになっていて、昨年のほぼ 3倍の 5万人が押しかけ、5月 4日には、最高記録の 8142人が訪れたという。

話題のスポットには、とりあえず行ってみないと気が済まないという人が、世の中には結構いるのだね。こういう人たちって、例えばスカイツリー開業時にいち早く駆けつけた人と、かなりキャラ的にかぶっているんじゃないかと思う。

で、恐縮ながら言わせてもらうのだが、昔の製糸場なんて、単なる観光気分で訪れたところで、おもしろくもなんともないはずなのである。念のため「富岡製糸場/つまらない」という 2語でググってみると、そんなような話が結構引っかかった(参照)。

私は長らく繊維業界でメシを食っていた人なので、そんなような関係の施設にはかなり足を運んでいる。その経験から言わせてもらうのだが、素人がみて一番つまらないのは、紡績/製糸関連、つまり「糸を作る工場」なのだ。

なにしろ、原料を加工して糸にするというだけである。目に見えるのは、シュルシュルと出てくる糸を巻き取るだけという単調極まりない工程であり、その設備だってスペクタクルな部分は何もない。

ちなみに同じ糸を作るのでも、綿や羊毛などの場合は、短繊維同士を絡み合わせて長い糸にする。これを「紡績」と言う。一方、絹のように紡がなくても元々長い糸状の長繊維の場合は、何本かをより合わせてある程度の太さをもった糸にする。これを「製糸」という。

綿や羊毛などは短い繊維が絡み合っているだけだから、糸に毛羽が発生しやすく、引っ張り強度も低い。一方、絹などは元々長〜い繊維を撚り合わせているので、繊維の端っこが極端に少ないわけだから、毛羽がなく滑らかで、引っ張り強度も高い。それがそのまま絹の特徴になる。

ちなみにナイロンやポリエステルなどの合繊も、ノズルから吐き出される長繊維なので、絹の代用品にしやすい。そんなわけで、昔はストッキングなんかは絹で作ったが、今はほとんどナイロンである。絹は引っ張り強度は高くても、擦り切れやすく、虫食いも発生するので、安くて丈夫なナイロンに置き換わってしまった。

話を元に戻すが、紡績とか製糸とかの工場は、単に糸を作るだけなので、素人にはおもしろくも何ともない。糸を織ったり編んだりして布を作る織物工場やニット工場などは、まだ見ていておもしろみがないではないが、糸ができるだけなんていうのは、退屈きわまりなく感じるだろう。

繊維や近代産業史に興味のある人間が、かなりアカデミックな見地から見るならば興味津々になるはずだが、そうでなかったら、わざわざ交通の不便な富岡まで足を運んでも、多分拍子抜けしてしまうだろうと思う。接続の不便な鉄道を避けて車で行くと、駐車場不足で、停めたところから結構歩かなければならないらしいし。

それに、富岡製糸場は過疎の土地に明治政府が無理矢理大金を使って建てた施設なので、絹産業の連綿たる伝統文化に支えられた濃厚な雰囲気が、町全体に漂っているというわけではない。

というわけで観光的見地からすると富岡製糸場は、地元にそれほどの貢献はしないのではないかと思う。世界遺産登録の前後に一時的に観光客が増えて、彼らのニーズに応えるために周辺施設や駐車場の整備に金をかけても、2〜3年しないうちにブームが去って、投資の元が取れないってことになるはずだ。

どうか、ひっそりと地道にやっていただきたいと思うのである。

【2023年 11月 8日 追記】

富岡製糸場の入場者数は案の定、この記事を書いた 2014年の 133万人超をピークに年々減少傾向にあったようで、2020年はコロナ禍の影響もあって 18万人弱まで落ち込んだようだ。

ただ、コロナ禍を考慮しなくても 2019年度でも 44万人でしかなかったというのだから、やはり一過性のブームだったようだ(参照 1参照 2

 

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2014年5月 5日

日本人と仕事の関わり

昨日 「仕事が嫌いなくせに丁寧な仕事をする日本人」という記事を書いたわけだが、「そういえば、仕事が好きな日本人だっているよな」と思い出した。「仕事が好きな日本人」の代表は、職人的な仕事をしている人たちである。概ねサラリーマン的というより独立独歩的な意識をもち、自分の仕事にプライドをもっている。

彼らの多くは、「1日 8時間労働」というスタンダードなんてものに全然縛られない。とにかく仕事が好きで、金と引き換えに自分の時間を売っているなんていう意識もないから、好きなだけ仕事をする。そして仕事の成果にも誇りをもつ。

それとは対極的な人たちもいる。これに関しては、一昨年の初めに「仕事より出世が好きな人種」という記事で論じた。かなり個人的偏見も混じっていることを自覚しつつ言うのだが、その代表は「役人、商社マン、百貨店社員(店員ではない)」である。彼らの酒を飲みながらの主たる話題は、「誰それさんが本部長(あるいは局長)になった」とかいう、出世の話ばかりである。

まあ彼らとて、「仕事が嫌い」というわけではないようなのだ。下手すると仕事しか興味がないんじゃないかと思われるまで、周囲からは「仕事人間」と思われていたりするが、本当に好きなのは、仕事そのものよりも出世なのである。

つまり日本人の中には、少数の「仕事が好きな人」と「傍目には仕事好きに見えるが、本当に好きなのは出世」という人種、そして残りの大多数の「仕事が嫌いだが、丁寧な仕事をする」という、3種類の人種がいるようなのである。

ただ、「出世が好き」という人種はかなり減りつつあるように見える。若い年代ほど、「下手に出世して過大な責任を負わされるよりは、適当なところで納めたい」という意識が強くなっているようなのである。ということは、一部の出世欲の強い者にとっては、課題な競争もなく望みが叶えられやすい環境になったといえるかもしれない。

しかしながら、それは「出世欲が強い」というだけの資質の(つまり、「立身出世」の「立身」 の方には興味がない)人間が上の地位に就きやすいということでもあり、ある意味では、下にいる部下にとっては堪らないという状況が現じやすいということなのかもしれない。なかなか大変である。

いずれにしても、将来の日本においては、仕事をする上でのモチベーションを確保する社会を作ることが、重要なファクターになるだろうと思う。そのためにも「きちんと休暇を取る」というのは、当たり前すぎることだけに、改めて意識し直さなければならない。

 

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2014年5月 4日

仕事が嫌いなくせに丁寧な仕事をする日本人

世の中はゴールデン・ウィークである。しかしながら、独立事業主の私はそんなことはまったく関係なく、5月 2日から 2泊 3日で北海道に出張し、今日帰ってきたばかりである。そして明日も明後日も仕事だ。

もっとも、平日でも予定がなければのんびりするし、要するに世間並の曜日や祝日に縛られないだけで、割と自由に仕事を組めるというメリットはある。ただ、フツーの会社員並みの「休日」があるかといえば、ないだろうなと思う。休日はないが、デスクワークなら自宅でできるし、満員電車に揺られて出勤しなくて済むというのは、大きなアドバンテージだ。

よく日本人は勤勉だという。日本人の仕事は、おしなべて丁寧であり、その製品やサービスは平均的に、時には過剰品質じゃないかというほどクォリティが高く、信頼がおける。そして多くの日本人は文句も言わずにサービス残業ををし、バカンスなんてまとめて 1週間も取れない。

だったら、日本人は仕事が好きかといえば、そうじゃない。各種の調査によると、日本人は「仕事が好きじゃない」「仕事が嫌い」と答える比率が、世界一高いのである。唯一肩を並べるのが中国人で、大抵の調査で、両国民ともに「好きじゃない」「嫌い」を合わせて 90%を超える。こんなのは、世界でも珍しいらしい。

中国人は仕事が嫌いで、その仕事の丁寧さも大したことないが、日本人は不思議なことに、嫌いなくせに仕事が丁寧なのである。これは世界の常識で考えればミステリーだ。

つまり、日本人は「強いられて」というか「周りに合わせて」というか「空気を読んで」というか、好きでもない仕事を、丁寧にせざるを得ないように自分を追い込んでいるのである。いや、自分を追い込まざるを得ないから、仕事が嫌いになるのかもしれず、これは卵と鶏のようなもので、どっちが先なのかわからない。

で、ほとんど全員で「空気を読んでいる」わけだから、まさに「共同幻想」で勤勉な仕事をしているのである。別の言い方をすれば、「みんなで平等に苦労する」ことに、日本人はあまり抵抗がなく、「一人で楽しむ」というのが苦手なのだ。さらに一人で楽しむ者は、周囲から理不尽な圧迫まで受ける。

だから、たとえ楽しんでいたとしても、そう思われないようによそおう。苦労しているような素振りをする。ほとんど全員が苦労しているような素振りだけすると、ごく少数の有能な勤労者は、実質的には結構仕事に貢献していても、楽しそうにしているだけで、出世できなくなったりする。逆に言えば、無能でも上司と一緒に苦労している素振りをして、一緒に酒を飲むだけで、ある程度の出世はできる。

日本の勤労者の有給休暇取得率は、ものすごく低い。これも「周囲の目があって、休暇を取りにくい」とかいう「空気」に支配されているからだろう。きっちり休暇を取れば心身ともにリフレッシュされて、仕事をするモチベーションも上がるというのに、休暇を取れずに、嫌々ながら「丁寧な仕事」をしているのが、日本人である。

ちなみに、新卒で就職を希望する連中の、「入りたい会社の条件」というのを正直に挙げさせたら、「休みの多い会社」というのはかなり上位に入るはずだ。だったら「有給休暇を取りやすい企業風土」を売り物にすれば、優秀な人材が獲得しやすいだろうに、企業はそうしない。休みたがるのは無能なやつだけだと思い込んでいる。

もっといえば、有給休暇が取れないのは、かつかつの人数で仕事をまわしていて、職場に余裕がないからである。だったら、有給休暇を取りやすいように企業がきちんと適正な人数を雇用すれば、失業率も減るのである。

なぜか日本の企業というのは、休みたい者を休ませず、仕事のモチベーションを高める努力もせず、嫌々ながら仕方なく働いている者を、無理矢理に丁寧な仕事に追い込み、失業率が改善しないように仕組んでいるわけだ。

こんな状況が続くと、滅私奉公の文字など自分の辞書にない層が被雇用者の大部分になる近未来において、日本の産業が疲弊してしまうことは、火を見るより明らかだ。

 

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2014年5月 3日

「インシデント」 という言葉

例のピーチ航空の那覇空港着陸の際の「重大インシデント」について、世の中では誰とは言わないが、「インシデントって、何だ? どうしてわざわざカタカナを使うんだ?」と、憤っている人がいる。聞き慣れないカタカナに出くわすと、まるで義務みたいにそんな反応をせずにはいられないらしい。

これ、日本語にはうまく言い表せる適当な言葉がないから、しょうがないのだよね。この言葉は英和辞書的には「出来事」「小事件」などと訳されるが、今回のケースでは、社会セキュリティを扱う ISO 22300 の用語と割り切ればいい。つまり、野球で「ストライク/ボール」と言うのと同様の専門用語と思えばいいだけだ。

で、専門用語としての「インシデント」は、次のように規定されている。(Wikipedia より引用)

Incident = “Situation that might be, or could lead to, a disruption, loss, emergency or crisis” (ISO22300(2.1.15)) 「中断・阻害、損失、緊急事態又は危機になり得る又はそれらを引き起こし得る状況」

さらに、私はこの言葉について少し誤解をしていたことに気づいた、私は「アクシデント (accident)」 になりかねない危うい出来事が「インシデント (incident)」、つまり、インシデントの延長線上にアクシデント(事故)があるのだとばかり思っていたが、Wikipedia では次のように説明されている。

かつては事故(アクシデント)が発生する一歩手前の状況がインシデントと呼ばれていたのだが、事故などが発生した後でもほっておけば被害は拡大していくため、その意味ではその事故自体がまた他の事故や危機の発生する一歩手前と考えられるという観点から目に見える事故が発生する一歩手前の状況からすでに目に見える事故や災害が発生してしまった状況までをも含めてインシデントと呼ばれるようになっている。

普通に使われる言葉としての感覚では、「インシデント」のレベルを超えてしまったのが「アクシデント」だが、社会セキュリティ用語としては、「アクシデント」は「インシデント」に含まれるという関係のようなのだ。

これをとってみても、「インシデント」 は専門用語なのだから、無理に日本語に置き換えようとするより、素直にそのまま覚えてしまえばいいもののようなのである。「パソコン」を「個人用計算機」なんて誰も言わないのだから、それでいいじゃないか。

 

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2014年5月 2日

Mac でも ATOK を使うことに決めた

先月 17日に「Mac でもATOK を使いたい」と書いたのだが、「問題は iPhone、iPad と登録単語共有をするのに、一手間か二手間余計にかかるのではないか」と心配している。今日、北海道への出張のついでに、秋葉原のヨドバシに寄り、パンフレットをもらって読んで見たところ、ATOK for Mac は、iOS との同期が可能のようなのだ。

ただし、iCloud 経由での同期ではなく、「ATOK Sync アドバンス」というメソッドによるもののようだ。そして、iPhone や iPad の iOS デバイスの方にも、ATOK Pad for iOS というアプリを入れなければならない。そしてこの ATOK Pad for iOS というアプリは、ATOK Pad というテキストエディターのようなものを使っている時だけ、ATOK の日本語変換機能を使えるということのようなのである。

つまり、iPad でPages を使っている時には、ATOK は働いてくれないということらしい。うぅむ、Apple の基本方針に沿ったことのなのだろうが、今イチだなあ。

とはいえ、テキスト作成はおしなべて ATOK Pad で行って、それをいろいろなところコピペすればいいのだから、それほどの手間じゃないのかもしれない。それより、Mac と iOS デバイスで ATOK が使えることの方が、メリットは大きいだろう。

よし、出張から帰ったら、さっそく Mac に ATOK をインストールしよう。Mac 純正の「ことえり」は、かなりお利口になったとはいわれているが、やっぱりお馬鹿が抜け切っているわけじゃなくて、ちょっとイラっとすることが多い。MS-IME にしてもそうだが、やっぱりアメリカ生まれの OS のおまけでは、まともな日本語入力するのに骨が折れる。

 

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2014年5月 1日

マウスのいらないキーボードを使いたいか?

Wired が「キーボードにセンサーを埋め込めばマウスはいらなくなる」というタイトルの記事で、「マイクロソフトの研究部門が、キーの間に多数の赤外線センサーを組み込んで、マウスやタッチ機能をあわせもつキーボードを開発した」と伝えている。

キーボード上のジェスチャーでマウスとタッチパネルの機能を代行できるので、通常のキーボード入力をする手の位置を動かさずに、これまでマウスで行なっていた操作が可能になるというものだ。ふぅん、それは大したものだね。

動画を見ると、いかに簡単にキーボード入力とジェスチャーによる操作が行なわれるかがデモンストレーションされている。なるほど、確かにこのキーボードがあれば、マウスもタッチパネルも要らない。私は PC のタッチスクリーン操作というのが、ディスプレイまで手を伸ばすために肩こりの元凶になりそうな気がして魅力を感じなかったが、これならいいかもしれない。

しかし、しかしである。

私は近頃、MacBook Pro のユーザーになっていて、買ってしばらくは、この機種にはマウスなんていらないと思っていた。なにしろ MacBook のタッチパッドは優秀で、マウスと同様の操作を行なえる。右手をマウスの位置まで伸ばさなくても、ほとんどのことを、手元のタッチパッドで行なえるのだ。

ところが私は MacBook 購入後、1週間も立たないうちに、Apple 純正の Magic Mouse を購入した。やっぱり、どうしてもマウス操作がしてみたくなってしまうのである。なぜかといえば、長時間キーボード入力の姿勢を保っていると体が辛くなって、テキスト入力以外の操作では、ちょっと姿勢を変えたいのだ。

例えば、ネットサーフィンしている間は、左手で頬杖をついて、右手でマウス操作するなんていう姿勢の方が楽なのである。その間もずっとキーボードに両手を差し出したままの姿勢でいるなんて、ちょっと勘弁してもらいたい。そんなわけで、いくらショートカット・キーを覚えても、マウス操作の方を選ぶことが多いのである。

「テキスト入力とマウス操作(のようなこと)を、姿勢を変えずに行なえる」というのは、一見魅力的だが、人間、長時間ずっと同じ姿勢でいる方が辛いのだ。ずっと同じ筋肉ばかり使わせるのではなく、少しは別の筋肉を使わせてもらいたいのである。

それに、そんなセンサー付きのキーボードなんて、きっとかなりお高い値段になってしまうよね。

 

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