『良心を持たない人たち』−サイコパスと一闡堤 その2
昨日私は、仏教でいうところの「一闡堤 (成仏の機縁をもたない人)」を、「サイコパス」と対象させて論じた。世の中には思いやりの心や良心といったものを持たない人=サイコパスが、一定数(米国では 25人に 1人)存在すると言われる。臨床心理学で認められたサイコパスは、仏教でいえば成仏の機縁を持たない一闡堤であるのかもしれない。
釈尊の最初の覚りは「山川草木国土悉皆成仏」「悉有仏性」というものだった。つまり、人間に限らずすべてのもの、命あるものから無機質に至るまで仏性をもつというのが、大乗仏教の根本である。白隠禅師の『座禅和讃』にも、「衆生本来仏なり/水と氷の如くにて/水を離れて氷なく/衆生の外に仏なし」とある。
しかし、釈迦の教えの最終到達点といわれる『大般涅槃経』では、「一切生類にはみな仏性がある。ただし一闡堤は除かれる。(如来性品第四の四)」とある。つまり、すべての生きとし生けるものがもつ「仏性」を、一闡堤はもたないというのである。これはあまりにも悲しい。
一闡堤はどうしようもない性(さが)なのか。永遠に救われないのか。そして同様に、サイコパスも心的病理として不可避のものであるのか。そして良心とは最後まで無縁であるのか。つまり、人としての心をもつことができないのか。
これに関して、昨日触れた『良心をもたない人たち』という本の中に、サイコパスの存在する割合が、米国では 25人に 1人であるのに対して、異なる文化圏ではそうはならないと記述されている。神道的な「万物のあいだの相互関係」や、「きずなにもとづく義務感」といった思いのある日本では、サイコパスの割合は低いというのだ。
これは朗報である。サイコパスの出現割合が文化圏によって異なる、つまり、米国ではサイコパスになるタイプの人が、幸運にも日本に生まれた場合にはそうはならないことがあるというのであれば、それは絶対的なものではなく、環境要因も大きいということだ。サイコパスになる宿命は、どうあっても避けられないというわけではないようなのである。
ならば、一闡堤という存在もそうしたものなのではないか。一闡堤として生まれたら、どうしても救われないというわけではないのではないか。一闡堤には仏性がないというわけではなく、厚く堅い殻に閉ざされて、容易に発揮されることがないということなのではないか。
エンパシーという情感は、ミラーニューロンというものと関係があるらしい。ミラーニューロンとは、簡単にいえば(まったく正確な説明ではないかもしれないが)、例えば他人の笑顔を見て我がことのように嬉しくなるという働きを司る神経といわれている。
「仏心とは四無量心これなり」といわれ、四無量心とは「慈悲喜捨」とされる。このうち「慈悲」とは、他を我がことのように慈しむ心であり、ミラーニューロンによるエンパシーと大いに関係がある。もしかしたら、他に対する共感をもてないサイコパスも、仏心とは無縁な存在である一闡堤も、ミラーニューロンの働きが阻害された存在なのかもしれない。
つまり本来ならば発揮されるべき良心や仏心が、器質的な不具合によって発揮されないでしまっているという状態が、サイコパスであり、一闡堤なのではないか。というわけで、私はここまできても、サイコパスも一闡堤も、本来は良心、仏性をもっていると信じたいのである。
『大般涅槃経』においても、前半では一闡堤は成仏と無縁であると説かれているが、後半では一闡提でも仏性はあるので成仏できることがあるとして、その救済の可能性を説いている。実際にはかなり困難なことかもしれないが、一筋の希望は提示されているのだ。
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