童謡『桃太郎』の歌詞が、最近変わったらしい
最近、童謡『桃太郎』の歌詞が昔と違ってしまったのだそうだ。昔は 1番目の終わりの「お腰につけた黍団子/一つわたしにくださいな」を受けて、2番目は「あげましょう あげましょう」で始まったものだが、今の幼稚園などでは「やりましょう やりましょう」と歌われているらしい。(参照)
「あげる」は「やる」の謙譲語(自分の方を低く表現する敬語)なので、家来になる犬、猿、雉に対して使うのはおかしいというのである。それでいつの間にか、「やりましょう やりましょう」に統一されてしまった。この国では根本的な改革はちっとも進まないが、重箱の隅みたいなことは、ずいぶんマメに対応するのである。
ちなみに私は桃太郎の歌の歌詞について、昔から「あげましょう/やりましょう」以上におかしいと思っている箇所がある。それは「これから鬼を征伐に/ついて行くならやりましょう」という部分だ。
「ついて行くなら」というのは、どうしようもなく不自然ではないか。犬、猿、雉の「ついて行く対象」が桃太郎、つまり他ならぬ自分自身なのだから、ここは「ついて来るなら」というのが自然である。
「これから一緒に鬼ヶ島に行くのだから、『ついて行くなら』でいいじゃないか」とアホなことを言う人もいかにもいそうだが、だったら、「一緒に行くなら」と言うべきである。
とにかく「これから一緒に行く/何かを目指す」という場合でも、「俺について来い」とは言うが、「俺について行け」とは言わないのである。家来はリーダーの後に従うのだから、「これから行く」という場合でも、リーダーの視点からすれば、「ついて来る」のである。
あるいは、小津安二郎的な映画をイメージしてみよう。「ついて来てくれるというなら、君のご両親に、結婚の申し込みに行くよ」というセリフは OK だが、「ついて行ってくれるというなら……」では、その時点で映画がぶちこわしである。「一体誰について行くんですか?」ってな話になる。
「花に水をあげる」とか「お小遣いをあげる」とかいう言い方がそれほど奇異とは感じられなくなった今の世の中で、「あげましょう/やりましょう」レベルの些細なことにこだわるよりも、文脈そのものを混乱させかねない「ついて行くなら」の部分に注目する方が、より大きな問題だと思うがなあ。
前述の「この国では重箱の隅レベルの修正はマメに行われるが、根本的な修正はなかなか進まない」というのが、これをみても理解されるだろう。
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コメント
こんにちは、今日も面白く読みました。
愚痴じゃないんですが、聞いてください。
私の年の半分ぐらいの若いやつで、
「行く」と「来る」が分からないのがいるんです。
(若いやつと二人、資料室で)
「昨日資料室に行ったとき、ファイルを元の場所に
しまうのを忘れたんすよね」
という具合で、いま資料室にいるのに、
「資料室に行ったとき」なんて言うんです。
で、そのことを指摘すると、
「行く」も「来る」も同じじゃないですか、
と来た(!)
なんだかへなへなとなってしまいました。
浦島太郎の歌詞はかなり古いはずですが・・・。
投稿: hokkaidense | 2014年5月14日 21:48
hokkaidense さん:
体がいるところに心がいないから、「ここ」 と 「そこ」 の区別がつかないんです。
そうした人は、常に心が別の所に飛んでいるか、居場所とリンクされるべき主体を持ち合わせないかのどちらかです。
どちらも手短にいえば、しっかりした自分がないのです。
投稿: tak | 2014年5月14日 22:35
むむむ。
僕は福岡出身なのですが、九州地方…いや、少なくとも福岡では「来る」と「行く」の区別があいまいに使われてはいます。
例えば電話で友達を自宅に誘う時、
僕「お前暇?今からウチに来ん?」
友人「おー!来る来る!」
などと言ったりはします。
桃太郎と言えば岡山だから、西方面ってコトで「行く、来る」のそんなイレギュラーもあるのかなぁなどと思いコメントしてみました。
投稿: ミギヤマ | 2014年5月14日 23:24
それはそうと、
「これから鬼を征伐に」侵略者思想丸出しですな。
離れ小島で平和に暮らしている「鬼」を殺戮し、財宝を持ち帰る。
多分、戦前の軍人さんか、御用音楽家が作詞したのでしょうな。恐ろしいでげす。
早くこんな歌が忘れ去られることを望むでげす。
投稿: 小市民下衆兵衛 | 2014年5月14日 23:59
tak-shonaiさんおはようございます~
この記事、おもしろい~~
まあ、その時代の言い回しというのもあるかもね。
でさ、
私が最近(20年ほど前から)一番嫌なことば
たとえば、お化粧品のコマーシャル
「これをこうやって、塗ってあげます」
自分で自分の顔に塗るんだったら
「塗ります」でいいと思うんですがね。あげますってヘンですよね?
「箱を開いてあげます」も箱に心でもあるのですかね?
「箱を開きます」でいいと思うんですがね。
投稿: tokiko6565 | 2014年5月15日 09:29
そういえば以前、「猫にごはんを上げる」と言っていたら、家人の伯母から「猫に餌をやると言いなさい」と怒られたなぁ(笑)
ミギヤマさんがすでにご紹介のとおり、「行く」と「来る」が標準語の使い分けと違う地域はあるようです。沖縄もわりとその傾向が強いはず。
英語もそうかな?
投稿: 山辺響 | 2014年5月15日 11:31
ミギヤマ さん:
>僕「お前暇?今からウチに来ん?」
>友人「おー!来る来る!」
それは「あり」 としても、自分が家にいて電話してる時、「ウチに行かん?」 とは言い出さないのではないでしょうか?
桃太郎の歌の場合は、「ウチに行かん?」 という、気持ち悪いの言い方だと思うのですが。
>桃太郎と言えば岡山だから、西方面ってコトで「行く、来る」のそんなイレギュラーもあるのかなぁなどと思いコメントしてみました。
この歌は作詞者不詳とされていますが、山陽地方のフォークソングではなくて、中央で作られたんだと思いますがね ^^;)
投稿: tak | 2014年5月15日 11:51
小市民下衆兵衛 さん:
>「これから鬼を征伐に」侵略者思想丸出しですな。
一時、「これから鬼を懲らしめに」 という歌詞になったことがあると記憶しているのですが、それはローカルルールみたいなことで、オフィシャルには「征伐」が生きていたようですね。
ただ、鬼が離れ小島で平和に暮らしていたとは、私は思いませんで、フォークロアの常識では、時々襲来して乱暴狼藉・略奪行為をはたらくものが「鬼」と呼ばれる存在になります。
その鬼の財宝を持ち帰ることについては、いずれにしても鬼が近隣の住民から略奪したものでしょうから、「だったら、住民に返還すべきだろう」と思っていました。
中間略奪者が長い期間かけて集めたものを、まとめてごっそり奪ってしまったんですから、桃太郎はスーパー略奪者ですね (^o^)
投稿: tak | 2014年5月15日 12:05
tokiko さん:
>まあ、その時代の言い回しというのもあるかもね。
そうだとしたら、『春の小川』などは、それで「春の小川はさらさら流る」 から 「〜さらさら行くよ」 に変わったんですから、『桃太郎』も、さっさと変えるべきではなかろうかと。
>「これをこうやって、塗ってあげます」
これは自分のお肌を客体化して、「いつも過酷な環境にさらされながら頑張ってくれて、ご苦労さん」と思いやるおもしろい表現と、私はものわかりよく思っています。
私も時々、一日中歩いて脚が疲れた時などは、「我が脚さん、今日はご苦労さまでした」と声をかけて「マッサージしてあげたり」します。
(変なおっさんかもしれませんけど ^^;)
ただし、
>「箱を開いてあげます」
これは、アウトですね。いくら何でも気持ち悪いわ。
投稿: tak | 2014年5月15日 12:15
山辺響 さん:
>ミギヤマさんがすでにご紹介のとおり、「行く」と「来る」が標準語の使い分けと違う地域はあるようです。沖縄もわりとその傾向が強いはず。
日本語は主体と客体との区別に、かなり大らかですから、あるでしょうね。
>英語もそうかな?
例えば、ドアをノックして ”May I come in?" というのは、主体と客体の区別が大らかなためというよりは、お伺いを立てる相手にとっては、"come in" という行為であり、返事をていねいに皆まで言うとすれば "Yes, you may come in." となるはずなので、それに会わせないと気持ち悪いということなのだと、私は思っています。
あくまで、主体と客体の別にこだわった結果であると。
投稿: tak | 2014年5月15日 12:21
「あげましょう あげましょう」だった時代なんて無い
元から「やりましょう やりましょう」だったのを間違ってた人がいただけ
投稿: aaa | 2018年1月23日 22:10
aaa さん:
調べてみたところ、確かに原作は (原作者不明とはなっていますが)、「やりませう」 だったようですね。
ただ、一時期 「あげましょう」 が主流となっていた時代があったことは確かです。これを 「間違ってた人がいただけ」 と取るか、「間違った人がマジョリティとなったため、一時 『やりましょう』 になりかけたが、最終的に 『やりましょう』 に戻った」 と取るかは、ビミョーなところです。
童謡や文部省唱歌は、結構歌詞が変わったりしてます。この 『桃太郎』 の歌詞も、原作とはずいぶん変わっていますね。
投稿: tak | 2018年1月23日 22:34
私は「あげましょう」で習いました。これは確実です。私の幼少期に、やりましょうからあげましょうに変わったようで、祖父母はやりましょう、だった気がします。やはり1960年代の時代背景でしょうか。共産主義的運動や共産党的な日教組の力が一時強かったからでしょう。
でも動物は友だち、皆同じ生き物という立場ならば「あげましょう」というべきだし、私はそういう考えです。
投稿: うさぎ | 2019年7月14日 12:10
うさぎ さん:
「1960年代の時代背景」というのは、あなたの育った時代のことをおっしゃっているのでしょうか。それとも御祖父母様の時代のことでしょうか。
「共産主義的運動や共産党的な日教組の力が一時強かったから」というのは、「あげましょう」になった理由としておっしゃっているのでしょうか。それとも「やりましょう」?
あなたの小学生時代がいつ頃だったのかを明らかにされていないので、なんとも申し上げようがありません。
投稿: tak | 2019年7月15日 21:03