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2014/05/12

『良心を持たない人たち』−サイコパスと一闡堤 その1

「一闡堤」という仏教用語がある。読みは「いちせんだい」または 「いっせんだい」、略して「闡提(せんだい)」と言うこともある。元はサンスクリットの "Icchantika" (イッチャンティカ) という言葉で、その音写が「一闡堤」 だというのだが、まあ、当時の中国での「一闡堤」の発音が 「イッチャンティカ」 に近かったんだろうね。その意味では、「いっせんだい」と読む方が、より原語に近いのかもしれない。

一闡堤というのは、「信不具足、つまり仏法を信じず誹謗する者」という意味である。さらに「善根を断ずる (良心がない)輩で、悟りを求める心がなく、成仏する機縁をもたない」ともされている。つまり成仏に縁のない、慈悲喜捨という四無量心=仏心をもたない者のことである。

『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう)においては、釈尊が弟子の問いに答えて、「アリの子を殺したら罪だが、一闡堤を殺しても罪にならない」なんて、激烈なことを説いておられる。「山川草木国土悉皆成仏」と説いたお釈迦様とも思われない、むちゃくちゃな言い様だ。

どうしてこんなことを思い出したのかといえば、emi さんのブログで紹介されていた 『良心をもたない人たち』(マーサ・スタウト著、草思社文庫)という本を読んだからだ。この本は、手短にいえば、「ごく身近にいるサイコパス」(原題は "The Sociopath Next Door")を論じたものだ。

「良心(conscience)が欠落していて、他人をおとしめるのにまったく躊躇がない人」が、「サイコパス」と呼ばれている。 この本の著者は米国の臨床心理学者で、サイコパスの人たちによって傷つけられ、トラウマを抱えてしまった患者を、25年以上にわたって治療し続けてきた専門家である。

米国では驚くべきことに 25人に 1人がサイコパスであるとされている。サイコパスは一見普通の人と変わりがなく、むしろ人当たりがよく、言葉巧みでもあるので、周囲には魅力的な人物とみられていることが多い。ところがその影で、平然と嘘をつき、自分の欲求を果たすためには人を落とし込めることをまったく厭わず、都合が悪くなると逆ギレする。

人をいじめたり落とし込めたりする時、フツーの人間は自分の中の良心が働いて一定のブレーキがかかるものだが、サイコパスの人間にはブレーキとして機能する良心がないので、いわばやりたい放題である。「よくそんなことができるな」なんて言われても、「良心の呵責」のない彼らにとっては「ん? 何か?」程度のことになる。

日本では米国ほど多くないといわれるが、それでも身近にこうした人はいくらでもいる。一見明るくて勉強や仕事もそこそこでき、周囲の人気者なのに、陰で執拗ないじめを続けているなんていうのは、多分、というより、ほぼ確実にサイコパスなんだろう。

実際にこうした事例が多いので、「いじめられる方に問題がある」なんて受け取られ、いじめがいじめとして認識されにくかったりする。そのため心の繊細な人ほど、サイコパスの被害を受けてトラウマを抱えることが多い。

こうしたトラウマを避けるためには、サイコパスの人間をしっかりと見分け、決して近付かないようにすることが必要だ。紹介した本には、その見分け方と対処法がしっかりと書いてある。その意味では、もしかしたら現代人必読の書と言えるかもしれない。

とはいえ、過去に「"Empathy" の時代」(2010/04/29)や 「ネズミもすなる「思いやり」というもの」 (2011/12/14) なんていう記事で、人間の本性というのは、弱肉強食よりも思いやりの心(empathy)に根ざしているらしいというようなことを書いた私としては、思いやりや良心とは無縁な人たちが一定数存在するというのは、ちょっとしたショックである。

なるほど、お釈迦様までが一闡堤=サイコパスの存在を認めて、「殺しても罪にならない」なんて激烈なことを言ったのも、瞬間的にはむべなるかなとも思われてしまったのである。

長くなるので、続きはまた明日。

 

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