進化論を信じないからといって、無学ってわけじゃない
Slashdot が 「進化論を信じるかどうかは科学リテラシーとは別問題」 と報じている。私からすると、「ようやくそこに気付いたか」という思いだ。ちょっと引用してみよう。
全米科学財団(NSF)は、市民の科学に対する理解は民主主義にとって重要だと考えており、そのためのプロジェクトを長期にわたって行っている。そして彼らは数年前にある種の結論にたどり着いた。『市民の科学リテラシーを判定する際に、進化論を信じる信じないという質問は含むべきではない』という結論だ。
アメリカではこうした質問は宗教的信念の尺度に近いものであり、彼らの科学の読解能力を測定することには繋がっていないというのがその理由だ。
ちなみに米国で進化論を信じる人の割合は 45%で、日本(78%)、欧州(70%)、中国(69%)、韓国(64%) などに比べて明らかに低い。これをして、「米国人は頭が悪い」とか「無学だ」とか「科学を信じない」とか乱暴なことを言う日本人を、たまにみかける。
進化論を信じていることが錦の御旗になるわけでもあるまいにと、わたしなんぞは思ってしまう。さらに「進化論を信じる」と口先で唱える人にしてからが、往々にして「人間は猿から進化した」(文末注 参照)なんて、短絡的というか、乱暴なことを言うから、ますますややこしいことになる。
今ではカソリックでさえも、ヨハネ・パウロ 2世が 1996年10月に「進化論は仮説以上のもので、肉体の進化論は認めるが、人間の魂は神に創造されたもの」と述べたように、学説として認めている。ただ米国では極端な聖書主義のプロテスタントが強いので、今でも「人間が猿から進化したとは、神の冒涜だ」と息巻く人が多い。
ということはつまり、単純に肯定するにしろ否定するにしろ、進化論が「人間が猿から進化した」と説いていると、短絡的に思っているレベルでは、科学リテラシーにおいては大した違いじゃない。まあ、世の中そんなものである。
進化論を信じる/信じないという態度は、ある意味、宗教的な立場による「建前論」みたいなところがあって、クリスチャンが自分の信じる神様に文字通りに誠実であろうとしたら、「信じない」というしかない。これはあくまで「文字通りに誠実であろうとしたら」である。
柔軟な態度で、政教分離のごとく「まあ、地球が太陽のまわりを回ってるんだから、しょうがないよね」と、「科教分離」みたいなことで進化論を認めるか、あるいはあくまで「建前」にこだわるか、根本的にはそのレベルでの違いである。科学リテラシーの問題と考えたら、説明のつかないことが多すぎる。
決して「学があるか/無学か」という問題ではない。大学を出ても建前論で「進化論を信じない」と表明している米国人は、いくらでもいる。
頭の固い進化論信奉者は、「進化論を信じなかったら、ネズミやサルで実験した薬だって使えないじゃないか」と言うが、そこはそれ、進化論を信じなくても薬ぐらいは飲む。ただし ES 細胞を使った医療は、拒否するかもしれない。
【注】 「人間と猿とは、共通の祖先を持つ」と考えられており、「猿から進化した」とは、乱暴すぎる言い方である。
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