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2014年6月25日

「自分たちのサッカー」 というもの

ザック・ジャパンのワールドカップが終わった。決勝トーナメントに進出できなかっただけでなく、1分け 2敗というグループ最下位の成績だった。ただ、この大会の成績だけをみれば最悪だが、私としては今後につながるものだと考えておきたい。

というのは、これまで出場したワールドカップで、過去 2回決勝トーナメントに出場できたとはいえ、それはいずれも「必死の一夜漬けで試験をパスした」というイメージだったのである。「まともにやっても通用しないから、ひたすら守備を固めて、運がよければ得点できるサッカーをしよう」ということだった。

ところが今回の敗退は、「決して一夜漬けではなく、むし一生の役に立つ勉強をしたのだが、それが身につくまでには至らなかった」ということのように思えるのだ。きっとそれほど遠くなく、「身につく」時がくるだろう。

選手たちは口を開けば「自分たちのサッカーをすれば勝てる」と、自らに気合いを入れていた。日本代表はこれまでも「自分たちのサッカー」と言い続けてきた気がするが、今回ほどこの言葉を聞いたことはない。それは、リアルに「自分たちのサッカー」というものが見えてきたような気がしていたからだろう。

ただ、このレベルで「自分たちのサッカー」と言っても、それは甚だ間口の狭いものでしかなかったようなのだ。「自分たちのサッカーをすれば勝てる」というのは、「自分たちのサッカーをさせてもらえなければ歯が立たない」ということの裏返しである。

日本代表には「自分たちのサッカー」が、確かに見えてきてはいるのだが、実際にそれを着実に展開できるまでのレベルには至っていなかったのだ。つまり、「自分たちに都合のいいサッカー」という意味合いでしかなかったわけだ。

本当に「自分たちのサッカー」で勝つためには、その間口を広げておく必要がある。次の手、次の次の手が自然に出て来ないのであれば、本当に 「自分たちのサッカーをすれば勝てる」というものではないのだ。

同様のレトリックに、「自分のピッチングをすれば勝てる」とか、「自分のボクシングを押し通す」とかいう言い方がある。だが、勝負というのは相手のあることだから、そう簡単にはいかない。相手はこちらの思うようなことをさせないための戦略を立ててくるからだ。

だから、相手のやり方に対応してその上を行く戦略をもたなければ、勝負には勝てない。「相手なりのサッカー」というものを包含した上での「自分たちのサッカー」でなければ、アジアでは確実にトップに立ったとはいえ、世界では通用しないようなのである。

武道には「習うて、しこうしてそれを忘れよ」という金言がある。必死に型を覚えて習得し、熟練したら、次の段階ではそれを忘れてしまう必要があるというのである。そうなってこそ初めて、自由自在にこなせるレベルになるのだ。今大会の日本代表は、それには遠く及ばなかったということである。

ただ、これまでの一夜漬けサッカーよりはずっとよかったと、私は思っている。もっと必死に習って、そしてそれを忘れるためのプロセスに、ようやく取りかかれたのだから。

 

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