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2014年7月に作成された投稿

2014年7月31日

スマホのせいで睡眠障害になる?

昨日の NHK BS ニュース(だったかな?)で、韓国のテレビ局が、スマホが睡眠障害の大きな原因になっているという警告を発していると紹介された。夜遅くまでスマホをいじっていると、睡眠のリズムが乱れて寝付きにくくなるのだという。

韓国はアジアで一番スマホが普及している国らしいから、こんなようなニュースも大きく報じられるのだろう。ただ、睡眠障害の原因と思われているのは、液晶画面から発せられるブルーライトというものだから、スマホだけを悪者にするのは不公平のような気がする。

ブルーライトの発生量に関して言えば、スマホなんかよりも PC の方がずっと多いはずなのに、スマホだけが槍玉に挙げられるのは、やはり「注目される目新しい商品」だからだろう。それに、「夜遅くまで PC をしないように」なんて言ったら、仕事にも差し支える人もあるだろうし。

で、液晶画面がそんなに睡眠障害につながるのかといえば、それは「人による」と言っていいんじゃないかという気がする。私なんか、夜遅くまで PC に向かって仕事をしていると、いつのまにかそのまま眠っちゃってたりするから、「液晶画面のせいで睡眠障害になる」なんていっても、信じられない気がする。

これってもしかして、私がブルーライトをカットする機能付きの眼鏡をかけているせいかとも思ったが、ごくフツーの眼鏡をかけていた頃から、PC の前で眠り込むのは得意技だったから、眼鏡のおかげとも言いにくいのである。

 

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2014年7月30日

集団的自衛権と、日本の平和

昨日 「スマホ普及率と、日本の平和」という記事を書いた勢いで、「集団的自衛権と、日本の平和」について書いてみたくなった。それは、AERA に「集団的自衛権の影響 英語教育、パスポート用意する母親も」という記事が載った(参照)というのに、ちょっとびっくりしてしまったからでもある。

この記事には、安倍政権による憲法第 9条の解釈変更を機に、いざというときの海外避難に備えて、5歳の長男に英語を習わせ、外貨預金をし、家族全員のパスポートを常備しているという母親が登場している。

まあ、息子に英語を習わせ、外貨預金をし、パスポートを常備するのはいいが、その理由が「いざという時の海外避難」、もっと直接的に言えば「息子の徴兵逃れ」のためというのは、エクストリームというほかない。実際には、自ら志願して自衛隊に入りでもしない限り、息子が戦場に送られる心配なんてしなくていい。

さらに、どこに逃げようとも日本以上に安全な国を見つけるのは難しいだろうし、そもそもパスポートだけ用意しても、長期滞在するにはたいていの場合ビザが必要になり、それなりの審査が必要になったりするから、この記事に登場する母親の話はファンタジーにしか思われない。

しかしこの母親はすっかり「本気」のようであり、記事の冒頭に「母親たちの声なき声は、直感的に『危険』を察知している」「国の方向性が見えない中で、母親たちが子どもの将来を案じるのは、自然の流れだろう」 と書いている記者も、「本気」としか思われない。

私は今月 12日の記事で書いたたように。安倍内閣による憲法解釈変更には反対の立場だが、こんなような情緒だけを頼りに書かれたもっともらしい記事には、ちょっと付き合いきれないものを感じてしまう。

 

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2014年7月29日

スマホ普及率と、日本の平和

「ニュースの教科書」に、「日本のスマホ普及率予測が低いのは高齢化が原因?。それとも固定への過剰投資?」という記事がある。米国の調査会社の最新予測によると、日本のスマホ普及率は現在 54.2%だが、4年後の 2018年になっても 63%にとどまるというのである。

ちなみに 2018年時点でのアジア太平洋地域でのスマホ普及率予測は、韓国が 75.8%、オーストラリアが 71.5%、そして日本が 63%となっている。日本は韓国に比べて 12ポイント以上も低い。

その要因としてあげられているのが、日本の高齢化人口比率が高いことと、固定回線重視の政策でインフラ整備が進められたことの 2つだ。なるほど、高齢者の世界では、そもそもガラケーすらあまり普及していない。「電話は家にあるから、それでいい」ってなもんである。

私の父の生前にもガラケーを持たせたことがあったが、普段はスイッチを切ってしまうので、全然役に立たなかった。妻の父は米寿を超えて健在で、一時ガラケーを持たせたが、やはりほとんど実効的じゃなかった。もちろん、高齢者でもスマホをバリバリ使いこなしている人もいないではないが、知る限りはごく希な存在である。

今年 5月に「七三分けのヅラと 4ドアセダン」という記事を書いて、今年 66〜7歳以上の世代は、ヅラなら七三分け、車なら 4ドアセダンを、「準制服」の如くに選択すると書いた。そして彼らは、ケータイならほぼ自動的にガラケーを選び、75歳以上の高齢者になると、多くはガラケーすら持ちたがらない。

ガラケーを選ぶ人たちにとっては、「インターネットは家か会社でするもの」であり、スマホを使って「いつでもどこでもインターネット」なんてのは、「やりすぎ」と思っている。あるいは、インターネットそのものと無縁の人たちもいる。

一方、ちょっと目新しい話題が出る度に、気軽にスマホを使って検索してみるという人もいる。例えば「IPCC の報告によると〜」なんていう文章が出てきたら、ごく自然にスマホを取り出してググり、「気象変化に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change)」のことと納得するのは、大抵の場合、私より若い世代で、しかも知的好奇心旺盛なタイプだ。

こんなケースで、4ドアセダン、七三分けのヅラ、ガラケーをほぼ自動的に選択する世代は、「また、わけのわからない英語が出てきやがったな」とうんざりし、スマホでさりげなくググっている者をみて、「こんな時に、なんでメールなんかしてるんだ!」と、内心ムッとする。

7年前に 「世間がそれほどググらないのは」 という記事を書いた時点では、気軽にググって調べ物をするのは、

普段自分の目の前にパソコンがあって
基本的に電源が入っていて
だいたい常にブラウザが立ち上がっていて
デフォルトページに検索窓がある

という人たちということになっていた。そして 7年前にこの条件を満たしていた人たちは今、ほぼ確実にスマホを使って、いつでもどこでもググってしまう人になっている。

私なんかちょっと疑問に感じたら、その場でググってしまわないと、気持ち悪くて眠れない人になってしまった。そして困ったことに、一度ググってしまうと次から次に疑問が湧いて、延々とググり続けることもある。

で、スマホを持たない人というのは、乱暴を承知で私流に言ってしまうと、「ちょっとググればすぐにわかることを、わからないままに放っておいても、ちっとも気持ち悪くならない人」である。自分で調べなくても誰かが調べてくれると思い、たとえ誰も調べてくれなくても、日本は平和だから大丈夫と思っている。

ああ、わかった。日本のスマホ普及率が案外低いままで、スマホを持っていても必ずしも「気軽にググる」ってわけではないのは、とにもかくにも「日本が平和だから」である。あくせく自分で情報を集めなくても、身の安全は確保されている(と思っている)からである。

こう書くと、中には人格攻撃されたと思ってヒステリックに逆襲してくる人がいないとも限らないので、念のために言っておくが、これは「乱暴を承知で言っている」のであり、たとえ少しは当たっていたとしても、スマホを持たないのは別に「悪いこと」でも「困ったこと」でもない。私は悪いことでも困ったことでもないことで、人を責めたりはしない。

ところで、3年前に死んだ私の父なんかはかなり異色の人で、デジタル機器との親和性は皆無だったが、疑問点はとにかく調べてみないと気が済まず、しょっちゅう図書館に行っていた。単純に情報量だけでいえば、ネット時代を生きる私の方がずっと上だが、あの姿勢は尊敬に値するものだった。

私がググらないと気持ち悪くてしょうがない性分なのは、つまりは父の遺伝なのかもしれない。

 

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2014年7月28日

こいしんじょっとう?

Google News の「スポーツ」の項目に、「鯉新助っ投ヒース、虎ゴメスは抑えた」という見出しがあった。「鯉」だの「虎」だのいうのだから、プロ野球の話題だろうというところまでは想像できたが、「こいしんじょっとうヒース」になると、わけわからん。しばらく悩んでしまった。

まあ、しばらくといっても 1分足らずで、最終的には、「新助っ投」というのが、「新加入の『助っ人投手』って意味かも知れない」と推理できた。ということは、これ 「しんすけっと(う)」と読まなければいけないのかな。

スポーツ新聞の見出しは、時々「ひねり」のオンパレードみたいなことがあるが、あんまりやりすぎて、阪神が連敗した時の「ファンも泣いトラ」とか、ホークスが連勝した時の「どうだ、見タカ!」とかは、もう陳腐化してしまった感がある。

さらに意味よりもインパクト優先みたいなところがあって、時々ぎょっとすることがある。だいぶ前に見かけたのが「復帰後初H」というもので、これ「初ヒット」ということのようなのだが、ちょっとどぎまぎしそうではある。

あんまり暑くて頭がぼうっとしているので、今日のところは、お馬鹿な話題で失礼。

 

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2014年7月27日

「顎関節症」 というもの その2 (あくびとイカとパンに注意)

今月 19日に "「顎関節症」 というもの" という記事を書いているので、一応その後の報告をさせていただく。

症状はだいぶ治まって、「ズッキン、ピキーッ」という痛みはほとんどなくなった。それでもまだ、左の顎関節の周囲にそこはかとない違和感が残っていて、「あんまり無理できんな」という気がする。

痛くてたまらなくなった翌日に接骨院に行き、「痛みが長引くようなら、歯科医にも相談した方がいい」と言われていたのだが、その 2〜3日後に運良く(いや、これが「運良く」ってわけはないけど)奥歯の詰め物が取れてしまって、いやでも歯科医に行かざるを得なくなった。

で、せっかくだから相談してみたら、これは「よくある話」なんだそうだ。それで、奥歯の穴に新しく詰め物をしてくれただけで、顎関節症そのものの治療はとくに何にもなし。「ほとんどの場合、ひどい痛みは 1週間ぐらいで引きますから、経過を見守るしかありません」というのだね。

「あまりに痛みが長引くようなら、MRI 撮りますから、また来てください」なんてことも言われたが、私はアルファベットの並んだ医療専門用語を聞くと、意味もわからずビビってしまうので、そんなことにならないように、根性で痛みを消してしまったよ。

一時はもう、頭の半分(首筋から、耳の周囲と奥、後頭部の左側、こめかみに至るまで)にひっきりなしに「ズッキン、ピキーッ」と痛みが走り、とくに夕方以後がひどかった。それに関しては、一日の疲れが出る夕方以後に痛みがひどくなるのも「よくあること」なんだそうだ。

顎が外れかかった当日は別になんてことなかったというのも、「よくある話」で、「突き指をした時なんかも、うずくような炎症の痛みが出るのは直後じゃなくて、翌日あたりからでしょ」なんて言われ、「ふぅむ、そんなものか」と得心した。私の場合も、1日半経ってから、急に痛くてたまらん状態になったのだった。

ちなみに歯科医の話によると、顎関節症の三大原因は、「あくび、イカ、パン」なんだそうだ。

中でも一番多いのが、なんと「あくび」で、飛行機に乗って着陸する時、気圧変化に対応しようと唾を飲んだり大あくびを繰り返したりしているうちに、「メリメリ、バッキン、ベキベキ!」というのが、よくあるらしい。私は「耳抜き」が得意なので、この心配はないが、できない人は今のうちに練習しておく方がいい。

そして食べ物で危ないのが、「イカとパン」なんだそうだ。カッチンカッチンに固い草加せんべいみたいなものより、もちもち感が強すぎて噛み切りにくいのが、一番ヤバいというのである。

そういえば、思い出した。私が今回 「メリメリ、バッキン、ベキベキ!」 とやっちゃったのは、フランスパンにチーズや野菜をたっぷりはさんだのを食っていた時だった。これからは、この類いのものを食うときは、くれぐれも慎重に頬張ることにしよう。

【業務連絡】
というわけで、私の顎関節症は完全に峠を越したので、もうご心配には及びません。皆様も、あくびとイカとパンには十分にお気を付けください。

 

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2014年7月26日

エルニーニョはどこに行った?

「エルニーニョはどこに行ったんだ?」と思っていたところ、今日になっていきなり 「エルニーニョの発生時期がずれて、秋以降になる」というニュースが舞い込んだ。

記憶にあるだけでも、少なくともここ 4〜5年は猛暑が続いているので、今年春頃に「エルニーニョが発生するので、冷夏になる可能性がある」と聞いたときには、農家の方には恐縮だが「やった!」と思ったものである。たまには過ごしやすい夏を過ごしてみたいではないか。

ところが、梅雨が明けてからというもの、ちゃんと暑いのである。朝から何もしなくても汗がしたたり落ちる。外を歩こうものなら、シャツが汗でびしょびしょになる。頭がぼうっとする。これって、熱中症の初期症状なんだろう。水を飲めば生き返るが、そのまま頑張ったりしたら、多分動けなくなってしまう。

「エルニーニョのはずなのに、おかしいなあ」と思っていたら、なんとそれは秋以降のお話になったというのである。気象庁も中期予報を修正して、8月と 9月の気温は日本中で「平年並みかやや高い」ということになってしまった。

なんだよ、ぬか喜びだったのか。今年の夏もよれよれになって過ごすことになるのか。少し前までは、多少暑くても「夏は暑いもんだよ」と笑ってやり過ごすことができたが、昨今の暑さはそんなもんじゃない。マジになって身を守ることを考えなければならないレベルである。

東京オリンピックが開かれる 2020年には、温暖化はますます進行しているだろう。多分、今よりもっと暑い中でマラソンなんてやることになるのである。

 

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2014年7月25日

ネスレ日本の「レギュラーソリュブルコーヒー」というもの その2

ネスレ日本が、製品の呼称問題でもめて、業界団体である「全日本コーヒー公正取引協議会」を脱退するのだそうだ(参照)。今後は日本のインスタント・コーヒー市場のトップシェアをもつネスレが、いわゆるアウトサイダーになるわけだ。

問題となったのは、ネスレの「レギュラーソリュブルコーヒー」という名称である。ネスレの言い分によると、同社の展開している商品は「微粉砕されたレギュラーコーヒー豆の粒を混ぜる」という新製法なので、単なるインスタント・コーヒーではなく、「レギュラーソリュブルコーヒー」というものなんだそうだ。

ところが全日本コーヒー公正取引協議会の加盟企業から、「消費者がレギュラー・コーヒーと誤認する」という声が上がったため、同協議会で検討したところ、新製法での商品は重量比によっ 「レギュラーコーヒー(インスタントコーヒー入り)」、「インスタントコーヒー(レギュラーコーヒー入り)」とする規約改定案が採択された。

なるほど、これなら混乱は避けられるだろう。ちなみにネスレの製品は、多分「インスタントコーヒー(レギュラーコーヒー入り)」というカテゴリーになるのだろうね。

ところがネスレ側は、「レギュラーソリュブルコーヒー」の展開を始めてから 4年間、消費者からのクレームは 1件もないとして、協議会の決定に不服を唱え、脱退することにした。「消費者が誤認する」なんて言ってるけど、実は気にしているのは業界他社だけじゃないかと、ケツをまくってしまったのだね。

ところで私は、ネスレが自社商品を「レギュラーソリュブルコーヒー」という名称に一本化すると発表した昨年夏に、”ネスレ日本の 「レギュラーソリュブルコーヒー」というもの" という記事を書いていて、今回の記事は「その 2」 というわけだ。前回の記事では、次のように述べている。

「レギュラーコーヒー」という言い方は結構複雑だ。日本でいうところの「レギュラーコーヒー」は、「インスタントじゃないよ」ということを示すために、本家本元の方にわざわざ余計な形容詞を付けた言葉で、本当かどうか知らないが、UCC による造語と伝えられている。つまり、和製英語なのね。

じゃあ、本来の英語には「レギュラー・コーヒー」という言い方がないのかといえば、そういうわけでもなく、民族や地域性などにより、それぞれがてんでに「この淹れ方、この飲み方こそが "regular coffee" である」と思っているらしい。そのへんのことは、前回の記事に少し詳しく書いておいた。

つまり、全日本コーヒー公正取引協議会が、「レギュラー・コーヒー」と誤認されるおそれがあるなんて言っても、「レギュラー・コーヒー」という言葉を「インスタントじゃないよ」という意味で使っているのは日本だけのようで、国際基準にはそんなのはないのだから、あんまり説得力がない。何しろ、ネスレは外資だしね。

というわけで、「レギュラーソリュブルコーヒー」というのは、言葉通りに受け取れば、これはネスレにとっても痛恨だろうが、「フツーのインスタント・コーヒー」という意味でしかない。ネスレの製品をみれば、どうせ「インスタント・コーヒー」以外の何物にも見えないし。

ちなみに私自身は、コーヒーはちゃんとドリップして飲むので、ネスレの「レギュラーソリュブルコーヒー」とやらを飲む気はない。だから、どーでもいい。ただ、言葉の趣味の問題としては、「レギュラーソリュブルコーヒー」というのは、言いにくいし、ナンセンスだし、悪趣味であるなあとは思う。

というわけで、とっくに見放してしまっているので、クレームなんかつける気にもならない。

ネスレとしても「4年間、クレームが 1件もない」なんて誇らしげに言っているが、実はこれは案外ヤバいことと思わなければならないだろう。少しはクレームがつくぐらいの方が、「きちんと意識されている」ってことで、4年間も経つのに全然クレームがないというのは、「まともに受け取ってもらえていない」ということを、自ら白状しているようなものではないか。

今月 21日の記事で書いているように、「国民の大多数に正しい情報がきちんと行きわたるなんて、期待しちゃいけない」のである。メーカーの発信する情報は、ややこしければややこしいほど、消費者全体には伝わらない。伝わるのは、マニアックな消費者だけである。

で、コーヒーの場合は、マニアックな消費者はインスタント・コーヒーなんて興味ないから、そんなところにこだわってもあまり意味がない。ネスレの CM に登場する「違いがわかる男」も、どうみても日頃インスタント・コーヒーを飲んでるようには見えないし。

私には、ネスレがあまり意味のない独り相撲を取っているとしか見えないのである。ネスレとしては、業界団体を抜けることで、かなり高い会費(大抵の団体では、売り上げ規模にしたがって会費も高くなる)を払わなくてよくなり、余計なしがらみもなくなるので、清々しているのかもしれない。

しかし、このような横紙破りをしてまで栄えた企業の例を、私はあまり知らない。マスコミはネスレから広告料をどっさりもらっているので、あまりまともには取り上げていないが、この件では、普通に考えれば公取が動くだろうしね。(動かなかったら、それはネスレの政治力がモノを言ったのである)

 

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2014年7月24日

中国の食品スキャンダルの意味を考える

中国の上海福喜食品による期限切れ食肉使用がスキャンダルになったのは、当初からテレビによるスクープが発端だったと報じられていて、私はずっとそのことが気にかかっていた。

期限切れ食材使用なんてことは、日本の赤福だって似たようなことをつい近年までやっていたのだし、「中国がやっていないはずがない」と思っていた。床に落ちた肉を拾って製造工程に戻すとか、カビの生えた食材を使うとかいうのも、中国のことだから、とくに驚くには当たらない。

そんなことは想定内としておかなければならない。ただそれが、中国人自身の手で暴かれ、中国内でも批判的に報じられて大問題になったというのは、ちょっと想定外だった。今回の件に関して、中国内の自浄機能が働き始めている証拠として、積極的に評価する向きもあるが、私はそれは一面的な見方でしかないと思っている。

別の見方として当初から出ていたのは、 「外資叩き」というものだった。上海福喜食品は米国資本 100%の企業だと言うから、その見方は当然だろう。中国では年中行事のように、マスコミの手によって外資系企業が槍玉にあげられる。 

最近ではトヨタもアップルもさんざん叩かれた。あれは典型的な「ガス抜き」である。中国では自国商品への不満が高まる中、「外資の方がひどい」と言わんばかりの情報発信をすることで、大衆の不満を逸らそうとする。

今回のスクープも、「中国の食品は危なくて口に入れられない」と、自国民の間で言われているぐらいだから、その不満を逸らす狙いがあったのは確実だろう。「中国だけじゃない。外資系だって、こんなにひどいことをしている」と訴えたかったに違いない。だからこそ、米資本の企業を潜入取材のターゲットにしたのだ。

トヨタやアップルが槍玉にあげられたのは、「外国から来て、中国に酷い物を暴利で売りつける会社を糾弾する」という意味があった。中国人が本当はトヨタ車や iPhone が大好きだったとしても、槍玉にあげることで、確実にガス抜き効果があったのである。

だが今回の場合は、ガス抜きでは済まなかった。スキャンダル効果が、当初の思惑を完全に超えてしまったのである。この企業が「外国から来て、中国に酷い物を暴利で売りつける」のではなく「中国で作ったものを、中国のみならず世界中に売りつけている」という事実があることを、あまりにも軽く見過ぎていたようなのである。

報道が国内に止まっていれば、「ひどいのは外資」というキャンペーンで済んだのだろう。しかしそれが世界中に広まった時点で、「中国製食品はヤバい」ということになってしまったのである。「愛国無罪」的な意識で外資系のスキャンダルを暴き立てたつもりだったのに、「中国製食品全体」に跳ね返ってきてしまった。

要するに、余計なことをして、寝た子を起こしてしまったのである。

これは、国際市場における自国の影響力が自分たちの想像以上に大きくなってしまっていることに、中国人自身がまだ十分に気付いていないことから来たのだろう。勝手な都合による行為が、天に唾することになる時代になったということに、少しは気付いてもらわなければ困るのである。

 

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2014年7月23日

戦闘地域の上空を飛ぶことについて

ウクライナ上空でのマレーシア航空機撃墜事故は、かなり衝撃的だった。地上では戦闘が行われていたとはいえ、航空戦や地上からの対空攻撃が日常的に行われていたわけでもない地域で、いきなり民間航空機がミサイルで撃ち落とされたというのだから、尋常じゃない。この地域を飛ぶ民間機は、しばらく皆無になるだろう。

私が初めてヨーロッパに出張した 1980年頃は、ドイツに行くのに、アラスカのアンカレッジを経由するのが普通だった。アンカレジで給油しないと、ヨーロッパまで燃料がもたなかったのである。アンカレジ空港の「立ち食いうどん」は、まずいのだが、ヨーロッパに 1週間もいると、里心付いてつい食ってしまうのが痛恨だった。

ところがその頃、ソ連(当時は「ソ連」だったのである)上空を飛んでヨーロッパに直行する便というのが登場した。これは画期的なことだったが、私はこの便には決して乗りたくないと思った。もしなにか不具合が発生して、ソ連領内に緊急着陸せざるを得ないなんてことになり、そのまま2〜3日ソ連で過ごすなんていう事態には、絶対に遭遇したくないと思ったのである。

今でこそ、年間 20回以上飛行機に乗る(とびきり多いというわけでもないが、決して少ないわけでもないだろう)私だが、若い頃は飛行機に乗るのに恐怖を感じていた。初めて乗ったルフトハンザ機では、成田を離陸するとき、ずっと足を突っ張っていたのを思い出す。

まあ、今は「人間が飛ばそうとして作ったものなんだから、問題なく飛んで当たり前」と信頼を置く気になったので、飛行機に乗ることにそれほど緊張することはようやくなくなったが、それでも、戦闘地域の上空を飛ぶ航路の飛行機には、絶対に乗りたくないと思う。

平和はありがたいものなのである。そして、今回の事故の扱いをポリティカル・ゲーム化する現状には本当に心が痛む。

 

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2014年7月22日

気にかかるのは、Amazon の大きすぎる段ボール箱

Amazon はとても重宝していて、しょっちゅう買い物しているのだが、一つだけ気になることがある。品物が届く時の段ボール箱が、無駄に大きすぎるのだ。新書版の本 1冊とか、SD カードリーダー 1個など、ほんの小さなものを買っても、ほぼ例外なく、週刊誌が 30〜40冊は入りそうなサイズの段ボール箱で届く。

Img_9430今回も偏光レンズのサングラスを 1個買ったら、いつもと同じサイズの段ボール箱の底のど真ん中に貼り付けられた姿で届いた。箱の容積の 80%以上は空気で占められている。ああ、もったいない。

思うに Amazon としてはこれが最小サイズで、これより小さいのは用意していないのだろう。この大雑把な感覚は、やっぱり米国の企業なのだと思ってしまう。日本の企業だったらもう一回り、二回り小さな箱を用意するだろう。

しかしAmazon としては、多サイズで取りそろえると、紙素材を多少節約するよりもコスト増になってしまうし、あまり多様なサイズの箱があると、バックヤードの処理もしにくくなるので、標準化しているのだろう。

しかしエコ派の私の感覚では、多少コストがかかっても無駄のないサイズの箱を用意する方が、結果として企業イメージのアップにつながると思うのだがなあ。

 

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2014年7月21日

無法自転車について、さらに論じてみる

昨日の「自転車のマナー」という記事が、思いの外に関心を呼んでしまったようで、あっという間に 5件もコメントがついた。みなさん、自転車のお行儀の悪さには腹に据えかねておいでの様子である。山辺響さんのおっしゃるように、これは「マナーの悪さ」というより 「議論の余地のない法律違反」というべき問題である。

ところで、コメント欄にも書いたことだが、私は自転車で右側通行をしている連中も、「自転車は左側通行」という基本中の基本のルールを知らないはずがないだろうと思っていた。学校でも自治体でもこれだけ啓蒙に力をいれているんだから、知っていて平気でルール違反してるんだろうと思っていた。しかしどうやら、その考えは甘かったようなのだ。

「自転車は左側通行」というルールを、本当に知らない人が多いようなのである。というか、「なんだかややこしいルールを聞いたことがあるような気がするけど、人は右側だし、自転車は『車』ってわけじゃないし(実は 『軽車両』 なのだが)、まあ、どっちでもいいんじゃないの?」 ぐらいに思っている人が多いみたいなのだ。

私は「国民の大多数に正しい情報がきちんと行きわたるなんて、期待しちゃいけない」と思っている。テレビでもラジオでも、地方自治体の広報紙でも、これだけ「振り込め詐欺に注意」と情報発信しているのに、引っかかる人が後を絶たないのだから、それは明白である。

だから、3年前にテレビが地デジに切り替わった時、「突然テレビが映らなくなった」という問い合わせが集中したのだ。血相変えてそんな問い合わせをするぐらいだから、テレビへの依存度は高い人なのだろう。そんな人たちが、何年も前からあれだけ「アナログ放送の終了」を告知されても、「なんか、あるらしいな」ぐらいにしか思っていなかったのである。

「人は右、車は、自転車も含めて左」というごくごく当たり前の情報でも、実はその辺のじいさんばあさん、オトンオカン、ガキンチョまでには、きちんと届いていないのである。少なからぬ人たちが、この辺りのことに関しては、まったく「無意識」なのだ。

そしてそれは、学校や自治体が啓蒙活動に努力すれば届くのかといえば、そういうわけでもない。情報を受け取らない人というのは、何がどうあっても、金輪際受け取らないのである。

それは「拒否」しているというわけじゃなく、「無意識だから届かない」のだ。無意識だから、当然受け取るべき情報を自分はきちんと受け取っていないということに、気付いていない。だから、「あ、こりゃいかん」と反省することもできない。そしてその無意識さ加減は、命に関わる情報でも変わらないのである。

だから「夜間に自転車のライトを点けるのは、車から認識してもらうためで、点けなきゃいきなりぶつけられてしまう可能性が高まるんだよ。命が惜しけりゃ、無灯火運転しない方がいいんだよ」と、いくら口を酸っぱくして言っても、ライトを点けない人は、闇夜だろうがなんだろうが、金輪際点けないのである。

リスクに関する一般的原則から、彼らの意識はかけ離れている。いつの場合でも「自分は別」なのだ。「正常化の偏見 (normalcy bias)」が、無意識に強すぎるので、自分はいかにぼうっとしていても、まず大丈夫と思っている。結果的には、周り中に「ヒヤリハッと」させまくり、迷惑かけまくりの上での「大丈夫」なのだが。

釈尊が「知って犯す罪より、知らずに犯す罪の方が重い」と言われたのも当然の話なのだ。それについては、2年半前に "「無明」と「罪」" というタイトルで論じているので、ご参照いただきたい。

で、私としては、世の中そういうもので直りようがない、不治の病みたいなものだからしょうがないと、諦めている。気付いてしまった者が気をつけるしかないのである。鈍感な者よりも敏感な者が気を利かせるしかないというのは、悲しいお話だが、自分が鈍感な方じゃなくてよかったとせめて喜ぶ方が、精神衛生にはいいだろう。

 

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2014年7月20日

自転車のマナー

自転車に乗る時のマナーが問題になっている。とにかく、自転車に乗る人の多くは、ルールを守る気がないようで、車を運転していて、危なくてしょうがないのである。

近所でよく自転車とすれ違うのだが、右側通行をする自転車がやたらと多いような気がずっとしていた。ただこれは、ルール違反をしている自転車の方が印象に残りやすいので、実際には右側通行は少数派なんだろうと思っていたのである。ところが、そうじゃなかった。

この 3〜4日、意識して観察してみたのである。すると、すべてを観察することが不可能な大通りは別として、生活道路と呼ばれるレベルの幅の狭い道路では、なんと、見かけた自転車が 100%右側通行だったのである。

くどいようだが、100% ということはつまり、1台の例外もないということである。老若男女に関わりなく、じいさんばあさんから子供に至るまで、少なくともこの近所の狭い生活道路では、きちんと左側通行している自転車は皆無だったのである。年齢に関わりないから、徐々にまともになると期待することもできない。

若い子の乗った自転車は、細い道を左側通行しているこちらの車に、平気で真っ正面から向かってくる。オカンやじいさんばあさんは、右側通行のまま、道ばたに止まってすれ違うのを待つ。止まって待つぐらいなら、まともに左側通行すればいいのに、気が知れない。

それに彼らは、サドルに腰を下ろしたままではなく、自転車から完全に降りて側に立つので、必要以上に幅を取ってしまう。ただでさえ邪魔なのに、こちらはずいぶん大げさに避けてあげなければならなくなる。

先日は丁字路で、こちらが左折したくてウィンカーを付けているのに、右側通行してきたオカンの自転車が丁字路のど真ん中で、こちらが左折する進路をふさいで止まってしまい、いつまでも動かないので、お見合いのまま動けなくなってしまった。あの人たちは、自分がルール違反をしても、いざという時には停まりさえすりゃいいという了見違いをしている。

その数日前は、狭い道で対向車とすれ違う時に、前から右側通行してくる高校生ぐらいの男の子の乗った自転車がいるので、こちらは一時停止せざるを得なかった。そして対向車が行ってしまってからも、その自転車は私の車の目の前に呆然と止まっているので、こちらは発車できない。

むこうはこちらが大きく道の真ん中に避けて発車するものと思っている。自分はあくまでも右側通行し続けたいようなのだ。ちょっとぶち切れて「お前がどくんだろ!」と怒鳴りつけてやると、恐れをなしたように左側に移動したが、あいつ、もしかしたら自分がどうして怒鳴られたのか、理解できていないかも知れない。

夜間の無灯火については、だいぶ前にも書いたことがある。この辺りはかなり田舎っぽいところで、夜には真っ暗になるのだが、そんな暗くて細い道を、無灯火で右側通行してくる自転車には、本当に驚かされる。「そんなに死にたいか!」と言いたくもなるのである。

私も高校時代まで過ごした田舎では、自転車に乗りまくっていた。しかし杓子定規なまでに左側通行を守り、夜にはライトを付けていた。遵法意識というより、無駄死にしたくなかったからである。自分の身を自分で守らずに、誰が守るというのだ。

この辺りの自転車乗りの意識はかなり遅れているようで、ヨーロッパのように自転車がきちんと生活にとけ込むには時間がかかりそうな気がしている。意識の高い自転車乗りもいるにはいるのだが、本当に彼らが気の毒になってしまう。

 

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2014年7月19日

「顎関節症」 というもの

完全に私事で恐縮だが、左耳の奥が痛いのである。そう言うと、人は 「中耳炎じゃないの? 耳鼻科に行ってみたら?」と言ってくれるが、どうも中耳炎なんかじゃない。どうやら、「顎関節症」というもののようなのである。「がくかんせつしょう」と読む。

何を食ったのか、よく覚えていないが、2〜3日前に出張先でなんだか固いものを食った時、左側の顎の関節が「バキバキッ」といったのだ。一瞬顎が外れかけたようなのである。あまりに痛かったので、何を食った時なのか記憶が飛んでしまったようなのだ。私はノー天気なので、嫌なことは忘れてしまうのである。これって、自己保存本能なのかもしれない。

顎の関節は外れかけてすぐに戻ったようで、その直後は別段なんてこともなかったのだが、昨日辺りから、左側の耳の奥とこめかみ、首筋がズキンズキンと痛いのだ。あまりに痛いので接骨院に行ったら、「顎関節症」と言われたのである。顎関節の亜脱臼によって、周囲の筋肉が炎症を起こしたものと疑われるというのだ。

ズキンズキンというのは神経的な痛みであり、それは筋肉の炎症に伴うものと思われるので、その炎症が収まれば治る可能性が高いが、もし治らなかったら歯科医に行かなければならないという。こういうのって、歯科医の領域なんだそうだ。まあ、しばらく接骨院に通院しなければならないようだ。

ああ、固いものを無理矢理ほおばって顎が外れかけたなんて、いい年をして恥ずかしいのである。若い頃はわしわし食えていたものが、還暦を過ぎるとちょっと無理になってしまうらしい。気は若いつもりでも、体は確実に年を取っているようなのだ。

 

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2014年7月18日

「PC の時代」の「終わりの始まり」

今月 8日に ”「PC の時代」 は来年終わる" という刺激的なタイトルの記事を書いたが、その「終わりの始まり」は既に顕在化しているらしい。日本経済新聞は昨年 6月3日付で「誤算のウィンドウズ 8 マイクロソフトに迫る落日」という記事を載せている。

この記事には、「ある大手情報機器販売会社の場合、企業向けの販売台数に占める(Windows)8 はわずか 5%。実に95%が(Windows 7に)ダウングレードされている」と書かれている。そりゃそうだろう。個人向けでも「Windows 7 機が欲しい」というユーザーが多いのだから。

ましてや企業では、「XP はもう使い続けられないから PC を更新しなければならないが、OS は Windows 8 ではなく 7 にするのが常識」と言われているほどだ。「XP で、ようやくほとんどの従業員が PC 操作に慣れたのに、8 にしてしまったら、仕事の効率が一時的にせよガクンと落ちるのが目に見えている」というのである。

効率が落ちるのは「一時的」とはいえ、それが 1週間続いたら、年間の業績にそれなりの悪影響が出る。同じ人件費で、従業員が激減してしまったのと同じようなものだからだ。もしそれが 1ヶ月続いたら、まともな仕事にならない。影響は深刻だ。

問題は、Windows 8 という新 OS のマーケティング失敗だけに止まらない。日経の記事はさらにこう続く。

米調査会社 IDC が 4月にまとめた今年 1~3月のパソコン世界出荷台数は前年同期比 13.9%減の 7629万 4000台。IDC のプログラムバイスプレジデントのボブ・オドンネルは、「8 はパソコン市場の活性化に失敗した。むしろ、足を引っ張っている」 と嘆く。

従来は、マイクロソフトが新 OS を発表したら、それが牽引役となって PC 市場は確実に活性化した。しかし今回に限っては、それが足を引っ張っているというのである。これはもはや、1つの OS の失敗というストーリーではなく、PC というデバイスにとって、時代の区切りが来ているとみていいのではなかろうか。

先月の記事で私は「『PC の時代の終わり』とはいえ、PC がまったく不必要になるわけじゃない。私だって、業務で使っているのだから、今後も PC は使い続けるだろう」 と書いている。ただ、「従来型の Windows PC」には、もう伸びしろはない。

そしてその「従来型の Windows PC」を牽引してきたマイクロソフトは、既にその使命を果たし終えてしまいつつあるようなのである。使命を終えた人間や企業は、やることなすことがピンぼけになりがちだ。

今月に入り、マイクロソフトのサティア・ナデラ CEO は、従業員に「それぞれが変わる勇気を持たなければならない」という内容のメールを送ったという。そのために、今後半年間で新たなトレーニングや試験を実施すると説明している。

これは同社が相当な危機感を持ち始めたことを意味している。「今までのやり方ではダメだ」と言っているのだから。ただし、これほどの巨大企業が迅速で大きな舵取りをするのは、なかなか大変なことになるだろう。

「古い皮袋に新しい葡萄酒を入れてはいけない」と、イエス・キリストは言った。市場全体の視点からすれば、新しいプレイヤーに新しい市場を牽引させる方が、利益は大きいだろう。

 

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2014年7月17日

個人情報は漏れるものである

例のベネッセの顧客情報流出の件である。当初は流出情報は約 760万件と言われていたが、今回捕まった容疑者は 2000万件以上のデータをダウンロードしていたという。私が驚いたのは、なによりまず、この数である。

日本の総人口は約 1億 2500万人といわれる。このうち、65歳以上の高齢者が 25%を占めるほどだから、子供の人口なんか、たかが知れている。昨年のデータによれば、0〜14歳の人口比率は12.9%である。高齢者のほぼ半分しかいない。まさに「少子高齢化」そのものである。

今回の流出データが 5〜18歳ぐらいの若年層のものと仮定すれば、まあ、だいたい 15%ぐらいなのかと想像され、計算すれば約 1875万人となる。とすると、ベネッセのもっているデータは、これを遙かに上回ることになる。

まあ、その中には子供の親と「昔の子供」のデータも含まれて、とりあえず役に立つ「今の子供」関連に絞れば、今回漏れた 760万ぐらいの数になるのかもしれないが、それにしてもものすごいデータ量である。日本中の子供の半分ぐらいは、ベネッセに情報を握られていると言っても過言ではないんじゃなかろうか。

ベネッセのデータは、教育関連のイベントに集まった子供たちに関する情報が多いらしい。だったら、それほどデリケートな情報は含まれていないだろうが、それにしても、ダイレクト・マーケティングを行うためには、名前、性別、年齢、住所がわかるだけでもとりあえずは十分だ。これに、得意科目や好きなスポーツ、趣味なんかの情報が加われば、かなり貴重なものになる。

子供に限らず、我々の個人情報なんて既に広く知れ渡っていると思って間違いない。だからこそ、あちこちからこんなにも DM が舞い込むのである。それも、ビジネス情報誌だの家のリフォームだの墓地だのの話ばかりで、最近は英会話教材みたいなものの DM なんか来なくなった。ということは、年齢まで正確に知られている。

こんな情報は、ネット販売のアカウントを作った時の情報を始め、商品購入の際に答えたアンケートなど、とにかくいろいろなところから漏れているのだろう。今回はベネッセみたいな会社から漏れているのだから、通販でものを買ったら大抵漏れると思った方がいい。

アンケートなどには、得た情報は他には出さないみたいな断り書きがあるが、そんなのはほとんど信用できない。この類いの情報は、漏れるものと思った方がいい。

ちなみに、今回の 760万件のデータは、大体 250万円ぐらいで買い取られたのではないかと言われている。相場は 1件 1円というところらしいが、今回は件数が多すぎて、しかもあまりデリケートな情報が含まれないとなると、この程度のようだ。今後請求される損害賠償額を考えると、まったく割に合わない犯罪である。

 

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2014年7月16日

ちょっとお行儀の悪い人心掌握術

Twitter で キュア行政書士つがね さんという方が  "人との新密度をはかるバロメーターとして「失礼なことを言って受け入れられるかどうか」を無意識にやっている人って、迷惑なことに本当にいるんですけど、そういう人は逆をされるとだいたい怒るのってあれなんなんすかね" と tweet しておられる(参照)。まさに「あるある」である。

それに対して Masaharu Aono  さんという方から "「自分の方が相手より上」が無意識にあるから、な気がいたします" というコメントが付いている。これもまた、「あるある」 である。

しかし、必ずしも「無意識」でない場合もある。半分は意識的にやっている人もいるから面倒くさい。私の今月 11日の記事「国会や地方議会は、ガラもセンスも悪いものである」にハマッコーさんが次のようなコメントを付けてくれた。

昔、自民党の有力議員の自宅へ仕事で行く機会がありました。
場所がわからなかったので、外から電話すると、“おう、おめえ、いま何処にいんだよ“ と言われて面食らったことがありました。

自宅を訪ねると、あいかわらずべらんめえ口調で、私をむかしからの子分のように私に話しかけてきます。そのバンカラさにはクラクラしましたが、帰る時には、人が変わったように紳士的な態度で私を送り出すんですね。これにはまたびっくり。

こういうタイプの人は、人心掌握術として、半ば意識的に(そして残りの半分は無意識的に)こういう態度を表に出す。案外よくいるタイプである。人はさんざん子分のように扱われたあとに、下にも置かぬ丁寧な態度でお辞儀して送り出されるので、そのギャップ故に「魅力的な人物」と思い込んでしまいがちだ。

こんな感じの人心掌握術を駆使する人物というのは、大抵は人間関係を上下関係で捉えている。そして自分は圧倒的に上の立場に立ちながら、その位置関係をはっきりさせたり消滅させたりしながら、相手を混乱させ、心をつかむ。

ちょっと変則的な「飴と鞭」である。女をたらし込む男がよくやるメソッドのバリエーションと言っていいかもしれない。ある種の共犯関係に引きずり込みつつ、要所要所で大きなご褒美をあげてしまうので、そこにはちょっと濃いめの人間関係が生じてしまう。

ところが私はそういうのが体質的に合わないので、そんな気配を感じると、さっと距離を取ってしまうのである。せっかく苦労して身につけた人心掌握術を駆使している御仁には悪いけどね。

 

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2014年7月15日

「radiko.jp プレミアム」に登録した

今年 3月に、Radiko の地域限定を外した新サービス「radiko.jp プレミアム」に、いちゃもんをつける記事を書いた(参照)。ちょっと引用する。

わざわざユーザーの現在地を特定して、それによって放送を流したり停めたりするシステムを継続する方がずっと面倒で、そんな無意味なフィルターを解除する方が、ずっと楽に決まっているではないか。つまり、地域の限定を取り外すのに余計なコストがかかっているのではなく、既存システムの方が、本来なら世界中に広がるネットワークをわざわざ一手間かけて地域限定にするために、余計なコストを使っているはずなのである。

つまり、既存システムの方が余計なコストがかかっているはずなのに無料で、余計な一手間を省いてインターネットとしてフツーのスタイルにした途端に有料というのはおかしいじゃないかというものである。とはいえ、別に 350円の会費を惜しんでいるわけじゃなく、地域限定解除でラジオを聞きたいのは山々だから、いちゃもんばかりつけていてもしょうがないと諦めて会員登録をした。出張先でもいつもの番組が聞けるのはありがたい。

ところで、"Radiko" という名称が、「ラジオ」からの洒落だと、つい最近気がついた。

妻に、「もしかして『ラジコ』って、『ラジオ』が男の子で、それに対する女の子っていう洒落なのかなあ」と言ったら、「そんなの、当たり前じゃない。今ごろ気付いたの?」と驚かれた。いやはや、そんなに当たり前の感覚だったのか。

 

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2014年7月14日

酒で「魔が差す」タイプの人

近頃飲酒運転に関する意識が、またしてもユルくなってきているような気がする。小樽や川口で相次いで飲酒運転によるひき逃げ事故が起きたが、千葉では市議会議員の飲酒運転がばれて、辞職に追い込まれている。

この市議は先月末に生ビールと酎ハイを 2杯ずつ飲み、歩いて帰宅しようとしたが、雨が降っていたため、近くの自分の事務所に駐車してあった車に乗り、自宅まで約 400メートル運転したという。その時、別件で来ていた船橋東署員が付近にいたので慌ててしまい、車を駐車場に入れようとして他の車に接触してしまった。

この人、よっぽど酒が飲みたかったらしく、さらに、よっぽど雨に濡れたくなかったようだ。自宅までたった 400メートルというのだから歩いて帰ればいいのに、どうしても車で帰りたかった。どうしても車で帰りたかったら飲まなければいいのに、どうしても飲みたかったようなのである。

本当に酒の誘惑というのは、どうしようもないほど強いもののようなのだ。飲酒運転で捕まった人は大抵「魔が差した」なんて言うのだが、はっきり言って、そういう人はしょっちゅう魔が差しているのである。しょっちゅう魔が差しているから、そのうちの 1度だけ捕まってしまう。捕まるまでは、何度でも魔が差すのだ。

要するに、魔が差さないようにすればいいだけの話なのである。金輪際しないと決めてしまえばいいだけなのだが、魔が差すタイプの人は、それができないみたいなのだ。

 

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2014年7月13日

ローマ教皇が、自然破壊は 「モダンな罪」 と指摘

昨年 3月に新しいローマ教皇が決まった時、私は "「フランチェスコ 1世」 という名のローマ教皇" というタイトルの記事を書いた。その中で、次のように述べている。

マスコミは 「初の中南米出身」 ということを強調して報道しているが、私はそれよりも「フランチェスコ 1世」という名前に注目したい。カソリックで「アッシジのフランチェスコ」といえば、日本では「聖フランシス」という呼び方の方が親しまれていて、「サンフランシスコ」 の地名の元になった人でもあるが、なにしろ中世イタリアにおける最も重要な聖人の一人である。

(中略)

聖フランシスはただひたすら神を讃美し、人間だけでなく神のあらゆる被造物を自分の兄弟姉妹のように愛し、福音を伝えた。ウサギ、セミ、キジ、ハト、ロバ、オオカミに話しかけて心がよく通じ合ったといわれるほどである。そのため、先々代の教皇、ヨハネ・パウロ 2世は彼を「エコロジーの聖人」に指定した。

その 「エコロジーの聖人」 の名を、教皇として初めて名乗られた フランチェスコ 1世は、その本領をかなり発揮し、環境保護を呼びかけておられる。イタリアの農業地帯にある モリセ大学(原文では "the university of Molise" − イタリア語は不案内なのでカタカナ表記には自信がない)における講演で、「自然破壊はモダンな罪」と称したというのである(参照)。

英文記事では、次のようにある。

Pope Francis has called for more respect for nature, branding the destruction of South America's rain forests and other forms of environmental exploitation a sin of modern times.

ざっと翻訳すると、「教皇のフランチェスコ 1世は、自然へのリスペクトが必要として、南米熱帯雨林の破壊などの環境開発を現代における罪と名付けた」ということだ。

ニュースはさらに  "Francis said the Earth should be allowed to give her fruits without being exploited" とも伝えている。「地球は搾取されることなくその果実を与えるように、(神によって)創られている」というのである。慧眼である。

「自然は人間によって克服されるべき障害物」とみる西欧的自然観に、転機が訪れているようなのである。

 

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2014年7月12日

集団的自衛権問題について、うっとうしいけど、ちょっとだけ

これまで「集団的自衛権」について語ることを避けて来たのだが、ここまで来ると頬被りもできないような気がしてきた。仕方がないから、うっとうしい話になりそうだが、今の時点での自分の考えを述べておこうと思う。

最初に、私は集団的自衛権の行使についていいとか悪いとかいう議論はしたくないということを、明らかにしておきたい。というのは、集団的自衛権の保持と行使は国際的には当たり前の話なのであって、「保持するけど行使しない」なんていう解釈の方がずっと変てこりんなのである。

ただ、変てこりんだからといって、悪いというわけじゃない。日本はその変てこりんの恩恵によって、曲がりなりにも平和を謳歌してきたのだ。そのせいでかなり「平和ボケ」にもなってしまったが、しょっちゅう紛争に首を突っ込むよりはまだいい。

ただ、集団的自衛権という当たり前の権利を「保持するし、必要とあらば行使するよ」という態度を明らかにし、そのためだけという理由で戦争に巻き込まれる例は、皆無じゃないが、そう多くもない。要は運用次第だ。

2003年に米国がサダム・フセインを確保するためにイラクを攻撃した際に、英国とオーストラリアのほか、ポーランドまでこの作戦に参加したが、これは集団的自衛権の「広義の解釈」によるものといえるだろう。

もっともあれは、イラクが「大量破壊兵器」(つまり核兵器のことね)を保持しているというでたらめの前提によって侵攻に参加したわけなので、後から考えれば「広義の解釈」もへったくれもなかったのだが。

ここでちょっと話は逸れるが、イラク戦争について私は以前、次のように書いている。

イラク戦争が始まるときにしたって、サダム・フセインは、「大量破壊兵器」なんてものを持っているような、いないような、のらりくらり戦術で、世界を煙に巻こうとしていた。この「のらりくらり」は、アラビア商人の常套戦術だな。

ところが、ジョージ・ブッシュは、そんなゲーム感覚に付き合えるほど、頭の中が洗練されていなかった。根がカウボーイだもの、仕方がない。いきなりテーブルをひっくり返して頭をぶん殴るという無粋の挙に出たのである。

つまりあれは、サダム・フセイン側の戦術の失敗でもあるのだ。ジョージ・ブッシュの頭の単純さをわかっていなかったのが、間違いの元である。争いごとでは、どちらかが一方的に悪いということはない。

話を元に戻そう。今回安倍総理が言っているのは、日本は集団的自衛権を限定的に行使するということなので、これによって米国の戦闘行為に無闇に駆り出されるというようなものではない。だから、いきなりテーブルをひっくり返す行為に付き合って、戦争への道を開くという短絡的なものでもない。

つまり「集団的自衛権の行使が直接的に戦争や徴兵につながる」という左側からのプロパガンダは、ちょっと言い過ぎだということである。そもそも現代の戦争は、昔の肉弾戦と違って、徴兵制度による「にわか兵隊」が行うものじゃなく、高度な専門的訓練を必要とする。役立たずのにわか兵隊に無駄飯を食わせるほど、日本政府は豊かじゃない。

世界的にみても、徴兵制はトレンドじゃない。韓国などは徴兵制を布いていて、男はうまく兵役逃れをしない限り、みな一度は兵役に就くことになっているが、先日もニュースになったように、軍隊内での「いじめ」にぶち切れて、後ろを向いて鉄砲を撃ってしまうやつが何人もいて、ちょっとした問題になっている。

日本の自衛隊は、そんな面倒なことに首を突っ込むほど暇じゃないから、「自分の息子がいきなり戦地に駆り出される」なんていう心配は無用である。そもそも、そんな心配を表に出すというのは、裏を返せば「(他国の)他人の息子が戦争に行くのなら OK」 と言っているようなもので、実はかなり自分勝手な論理だと、私なんぞは思う。

と、ここまで書くと、私が安倍政権の集団的自衛権の解釈変更に賛成しているかのように思われるかもしれないが、実は反対である。だから最初に、 「集団的自衛権の行使について、いいとか悪いとかいう議論はしたくない」と断っておいたのである。

私が今回の安倍内閣による「解釈変更」に反対なのは、まず第一に「そんなこと、一内閣が決めるような簡単な問題じゃなかろう」という、純粋な法的手続き論からである。

そもそも、憲法第 9条は、次のように書かれている。

  1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

度々言うように、私はアスペルガー一歩手前だから、文言は書かれたとおりに真っ正直に解釈する傾向がある。つまり、憲法第 9条をまともに読めば、自衛隊も違憲だし、ましてや国際紛争を解決する手段としての武力行使なんて、できるはずがないのである。

こうした憲法があるのだから、「集団的自衛権によって、自衛隊出動を可能にするように憲法解釈を変更する」なんて、そもそもナンセンスである。国の最も上位にある法に沿って、歴代の内閣が踏襲してきた解釈(それにしたって、おかしな解釈ではあるのだが)を、一内閣のご都合主義で簡単に変えてしまっていいはずがない。

今回の憲法解釈変更は、多分、米国からの要請にも沿っているのだと思う。だからこそ、米国はいち早く「歓迎」の意を表したのだ。「現憲法は米国から押しつけられたものだから、改憲しなければならない」と主張している人たちが、今回の問題に関しては、改憲の使命をほっぽり出して米国の要請に従うことを喜んでいる。

改憲には途方もなく手間がかかりそうだから、今回はとりあえず小手先の「解釈変更」にしておく。米国もそれで満足してくれそうだし…… ということだ。つくづくご都合主義だなあと思う。

改憲を行うということは、とりもなおさず「米国の子分」というポジションから脱却することを意味する。「自分では戦わずに安保で守ってもらうんだから、米国の言うことは何でも聞くよ」という国ではなくなるということである。

だから、改憲にはそれなりの覚悟が必要なのだ。私個人としては、そのくらいの覚悟はすべきだと思っているのだが、正直なところ、今の日本では荷が重いかもしれない。だからこそ、改憲は掛け声だけ大きいが、実際のプロセスはなかなか進まない。

米国としては、今回の憲法解釈変更で、日本がいつまでも子分でいながら、いざという時には、自衛隊が出動して米国の作戦に参加できる(つまり「負担の一部をさらに肩代わり」させる)という下地をを作ることができた。これまで以上に「都合のいい国」になってしまったわけだ。

米国にしてみれば、「こっちも何かと厳しいから、とことん守ってやれるかどうかはわからないけど、言うことだけはこれまで以上にちゃんと聞けよな」ということである。日本は憲法解釈をご都合主義で変更してまで、それを聞く国になってしまったのである。

 

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2014年7月11日

国会や地方議会は、ガラもセンスも悪いものである

"国会セクやじ当たり前 「ある意味慣れっこ」" という日刊スポーツの記事を読んで、日本という国の政治は、ガラの悪い保守のおっさんと、お約束のステロタイプな文句を言うしか能のない野党と、それらを陰でコントロールする官僚とで成り立っているんだと、つくづく思った。

共同通信が衆参の全女性国会議員 78人にアンケートしたところ、12人が「女は黙ってろ」「離婚しただろう」などのヤジや暴言を受けたり聞いたりしたことを認めたという。ちなみに、記事の見出しにある「セクやじ」という略し方、あんまりいい感じじゃないなあ。

78人のうちの 12人だから、たったの 15%じゃないかと思われるかもしれないが、そもそも回答したのは 26人しかおらず、残り 52人は無回答なのである。たった 3分の 1しか回答が寄せられなかったのは、「言いにくい空気」によるものだろう。

とくに自民党所属の女性議員なんかは、自分が身内からのセクハラ野次は受けなくても、聞いたことはいくらでもあるはずなのに、やっぱりそうは言いにくいだろうから、ほとんどは回答していないんだろうなあと、確信できる。証拠はないけどね。

とにかく、セクハラ野次が常態化していて、「ある意味慣れっこ」になっているというのは、いくら何でも問題である。今どき、会社の会議でそんなことを言ったら大変なことになる。それが国会でなら見過ごされるなんてのは、国会議員、とくに保守系の多くが、いかにガラの悪いオッサンで占められているかを示すものだ。

野次られる方も問題である。そんなことに「慣れっこ」なんかにならずに、きちんと問題にすべきなのに、国会では今に到るまでそんな問題提起は一度もされなかった。お約束のステロタイプな反対意見ばかり言って、肝心な部分に注目しなかったというのは、あまりにもセンスが悪すぎる。

国会内で問題にしても、多分黙殺されるだろうが、今はネット社会なのだから、一言 Twitter に書くだけで、今回の都議会のように、ちゃんとした問題として取り上げられて、いわば「ポイント獲得」にもなる。女性国会議員の多くは、そういうセンスがないのだろうなあ。悲しいことに。

そして、こうした問題が起きても全然表舞台に登場しない官僚たちがいて、「ああ、くだらんことで時間つぶししてないで、粛々と案件を進行してもらいたいものだなあ」と、思っているわけなのだ。まあ、一番得な役どころではある。どこまで行っても無傷のままでいられるのだから。

とまあ、こんなことだから、政治への関心だって高まるわけがないし、投票率だって低いままだ。私だって、こんな世界に興味を抱くのは自分を卑しめることのような気がしてしまうのだが、それでもなんとか気を取り直して、選挙の度に投票だけはしているのである。投票なんて、気を取り直さずにはできるもんじゃないよ。まったく。

ところが、利権がらみのガラの悪いおっさん議員にしてみれば、投票率の低いままの方が楽に当選できるので、改めようという気にはならないんだろうなあ。そして、そのガラの悪いままでいる方が有利と思っているオッサンたちをガラの悪いままで当選させているのは、ほかでもない我々なのであるよ。悲しいことに。

 

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2014年7月10日

気象のパラダイム・シフト

ニュースで台風 8号の被害状況が刻々と伝えられている。何しろ「経験したことのない強大台風」なんだそうだ。これは、一昨年あたりまで流行っていた「10年に 1度」とか「20年に 1度」あるいは「50年に 1度」なんていうレベルではない。なにしろ「未体験ゾーン」なのだから。

55年前の伊勢湾台風の時代は、気象に関する情報システムが整っていなかったから、死者 3,000名という大きな被害になった。台風進路そのものはかなり正確に予想されていたのだが、それが上陸直前まで情報として十分に伝えられていなかったので、対策が遅れたのだという。情報化社会となった今は、それほどべらぼうな被害にはならないが、そうでなかったら大変なことになる。

去年の夏、"「20年に 1度の大雨」から「経験したことのない大雨」に" という記事を書いた。近頃、この「経験したことのない」という枕詞が、気象関係のニュースで目立つようになったが、これは 10年や 20年に 1度というレベルの異常気象がほぼ毎年発生するようになったことと、無関係ではあるまい。

一昨年までは「こんなに毎年毎年、『20年に 1度の大雨』なんてのが発生するんじゃたまらないではないか」と思っていたのだが、これはとりもなおさず、気象のパラダイム・シフトが起こってしまった結果である。これまでは「20年に 1度」と考えられていた気象が、ほとんど毎年発生する「フツーの気象」になってしまったのだから、そう考えるほかない。

それで、最近は「経験したことのない○○」ということになってしまったのである。パラダイム・シフトしてしまったのだから、未経験の気象現象が起きるのも当たり前なのだ。我々は覚悟を決めなければならない。最近の気象変化は「人為的要因」によるところが大きいというのだから、責任上そうするしかないではないか。

「エネルギーをどんどん使って、暮らしは便利に楽しみたい。だけど異常気象は嫌よ」という虫のよすぎる話は、通用しないところまで来てしまったのだ。それを認めない人もまだ多いが、人間が認める/認めないに関わらず、自然界はそういうことになってしまって、そのプロセスはどんどん進んでいるのだから、しょうがない。

とりあえず、今日から明日、明後日にかけては、台風が関東にも近付く。覚悟して待ち構えよう。

 

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2014年7月 9日

米国の国立公園でも、気候変動の影響が大きいらしい

米国の東海岸から西海岸まで(逆コースでもいいが)飛行機で横断すると、その国土の広さに驚く。羽田から北海道に飛ぶ時に東北を縦断すると、宮城県の太平洋岸の上空から反対側の我が故郷、山形県庄内地方の山並みがすぐそこに見え、もう少しで日本海まで見通せそうな時がある。そんな国と比べると、そのスケールの違いは圧倒的だ。

米国中西部の大穀倉地帯を越えると、ロッキーの大自然になる。米国という国は、田舎と大自然でできている国だと実感される。大都会のニューヨークなんて、米国の例外中の例外だ。

あんな自然豊かな国土に住んでいると、自然に対する考え方が両極端になるのもわかる。ナチュラリストは自然環境保護にとても熱心だが、大多数は全然無頓着である。相変わらずガソリンをまき散らして走るような燃費の悪いどでかい車に乗り、電気や水を使いまくる。とにかく資源を使うことに関して大らかすぎるところがある。

ところが、いくら大自然の中でのほほんと大らかに暮らしているようでも、ここに来てようやく危機感が高まりつつあるようだ。まあ、ほんの一部だけでの話ではあるのだが。

毎日新聞が、「米国立公園に気候変動の強い影響」と伝えている。米国の多くの国立公園が、過去数十年の間に極端な気候変動に曝され、政府機関の科学者らが 「思い切った対策を取らなければ、この傾向はさらに加速する」 と警告しているのだそうだ。

多くの国立公園で平均気温が上がり、降水量が減少して砂漠化が進行している。グランドキャニオン国立公園では、これ以上乾燥が進めば、野生動物の生存を支える天然泉が枯渇する可能性があるという。生物多様性が危機に瀕しているわけだ。

国立公園のような大自然ばかりではない。中西部の大穀倉地帯では、これまでバンバン地下水をくみ上げて農業を続けてきた結果、地下水脈が枯渇しかかっているところが増えていると伝えられる。米国の穀倉地帯で穀物が穫れなくなったら、それは世界規模の食糧危機に直結する。

米国でもようやく低燃費の小型車が増えたりし始めているわけだが、今頃そんなことでは、遅すぎるかもしれない。

米国人の「自然」に関する考え方は、人間も自然の一部とみて、山や海に神を見出す日本人とは対照的で、「乗り越えるべき障害」としか見ていないところがある。日本人の自然観を、少しは分けてあげたい気がするほどである。

まあ、日本人は日本人で、あまりにも自然を相対化しないで接しているために、山の中の渓流筋に無頓着に残飯を捨ててしまう釣り師なんかが多いというところもあるのだが。

 

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2014年7月 8日

「PC の時代」は来年終わる

朝日新聞によると、世界のタブレット型端末の出荷台数が、来年 2015年に初めてパソコン(PC)のそれを上回ると予測されているらしい。

米調査会社ガートナーが発表した出荷台数予測によると、来年のタブレット出荷台数は 約 3億2千万台となり、約 2億6100万台の PC を逆転するという。今年は Windows XP のサポート終了などによる買い換え需要で、辛うじて PC の出荷台数がタブレットを上回ったが、来年は完全にタブレットに水をあけられてしまうようなのだ。

このニュースをみて急に思い出したのが、2006年 11月 29日付の自分の記事で、「PC の時代は 2015年で終わり?」という刺激的なタイトルだ。この日、電車内吊り広告でみた『月刊アスキー』という雑誌の特集記事が、こんな見出しだったのである。

もっとも私は『月刊アスキー』の読者じゃないので、実際に買って読んだわけじゃない。だから、この記事の内容がどんなものだったか、全然知らない。知らないで書いたのだが、なんと、本当に 2015年に「PC の時代」は終わってしまいそうなのである。

8年前の私は、PC に取って代わる物がどんなものなのか、想像もつかなかった。それで、こんなような、ちょっとピンぼけなことを書いている。

私は PC を毎日毎日使い倒すほど使っているけれど、別に PC 大好きというわけでもなんでもないから、PC の時代があと 9年で終わろうがどうなろうが、知ったことじゃない。PC がなくなっても、今の PC で実現されている機能以上のことがもたらされるなら、全然 OK だ。

「PC に取って代わる物は、タブレット端末」と完全にわかってしまった今から思うと、「今の PC で実現されている機能以上のことがもたらされるなら、全然 OK」なんてコメントは、了見が間違っていたと反省しなければならないだろう。タブレットで実現されたのは、「PC 以上の機能」なんかじゃなく、「PC 以上の簡便な使い勝手」だったのである。

考えてみれば、当時にしても Windows XP で実現されていたのは、必要以上の機能だったのだ。専門業務で使用しているのでもない限り、PC の機能をフルに活用しているユーザーなんていやしない。求められていたのは、「ホームユーザーが気軽に使える機能」だったのである。タブレットはそれを実現した。

だから、「PC の時代の終わり」とはいえ、PC がまったく不必要になるわけじゃない。私だって、業務で使っているのだから、今後も PC は使い続けるだろう。ただ、出張にもって出かけるのは、今や PC じゃなく iPad である。

純然たるホームユーザーなら、PC を持たずにタブレットだけでも十分だろう。ちょっと前なら、音楽 CD を取り込んでタブレットにエクスポートするのに、PC は必要と思っていたが、音楽を CD で買う時代は過ぎてダウンロードする時代になってしまった今、本当に PC がなくてもほとんど困らない時代になった。

それから 8年前の記事で私は、Windows について次のように書いている。

ただ、PC時代の終わりとやらになるまでに、Windows は使命を終えてしまうのだろう。既に Windows の開発は、だんだんとユーザー・ニーズからズレを感じさせ始めているから、そうなるのは時間の問題という気がする。

この点について、個人的には大正解と思っている。なにしろ私は、Windows 8 という OS に嫌悪感を抱いて、今年 1月に、前々から使いたいと思っていた Mac に乗り換えたのだから。さらに Windows 8 を積極的に評価している人にとっても、Windows 7 以前の 「旧来の Windows」 は、既に終わったということになるのだろうし。

 

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2014年7月 7日

七夕とお盆の季節感

今日は 7月 7日。新暦の「七夕」だが、空はどんよりとして時々小雨が降る。夜になっても天の川は見えそうにない。運転しながらラジオを聞いていたら、パーソナリティが「幼稚園の頃から、七夕の行事とかあったけど、必ず雨になってた」と言っていた。

それはさもありなんというところで、何度も書いているが、新暦 7月 7日の七夕というのはとんでもない設定なのである。というのは、本来の七夕は旧暦の行事なのだ。

私の故郷を初めとして東北では一般的に「月遅れの七夕」として、8月 7日が七夕祭りである。あの有名な仙台の七夕もそうだ。しかし本来はそれでも早すぎるぐらいのもので、旧暦の 7月 7日は、新暦の 8月の半ば以降になることが多い。なにしろ歳時記でも、七夕は秋の季語なのだから。

東北生まれの私なんぞは、東京に出てきて七夕が新暦で祝われるのを目の当たりにして、「梅雨も明けないうちの七夕では、織姫と彦星が気の毒すぎる」と思ったものである。本来の七夕の季節感は、立秋を過ぎて夕暮れが早くなり、暗くなったら少しは涼しい風も吹いて、夜空も澄み渡る頃というイメージなのである。

ところが、関東育ちの人間にとっての七夕というのは、全然違う季節感になっているらしい。「夏の初めに、短冊に願い事を書いて飾る行事」というのが、最大公約数的なところなんだそうだ。「夏の初め」というのが、私にとっては本当にびっくりである。

彼らに取っては幼稚園で短冊に願い事を書くというのがメイン・イベントだから、完全に昼間の行事になってしまい、「七夕」の「夕」という字の意味が消えてしまっている。なにしろ夏至のすぐ後で、いつまでも明るくてなかなか日が暮れないのだからしょうがない。これでは、歳時記が成立しなくなってしまう。

そういえば、お盆というのも関東では「新盆」というところが多いようなのである。7月の半ばにお盆をやってしまうようなのだ。そういえば最近、スーパーに行くとお盆のお飾り用の品物がずらりと並んでいる。

しかしお盆ばかりは 8月の「旧盆」が日本の主流であるようだ。関東の人間がどっと帰省する東北地方では、今でもほとんどが旧盆なので、「お盆休み」と言ったら大抵は 8月の休暇を指す。

それにあの原爆記念日と終戦記念日が 8月なのだから、現代の日本人の心情としても、お盆は 8月の方がしっくり来る。

 

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2014年7月 6日

「脱法ハーブ」をキメて運転したら、どんな罰則規定に該当するのか?

近頃「脱法ハーブ」とか「合法ドラッグ」とか言われる薬物による事件が連続してニュースになっている。とくに、この手の薬物吸引でめろめろになって自動車を運転しての事故が目立つ。

まったくもう、酒飲んで運転しても危険だというのに、脱法ハーブみたいな効き目の強いやつをキメて運転するなんて、危険にもほどがある。「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」と言われるほどなんだから、「吸ったら乗るな、乗るなら吸うな」ということにしてもらわないと、危なくて街を歩けない。

近頃「脱法ハーブ」というのは、取り締まりを逃れるために新しい薬品が次々に投入されているらしい。となると、中にはかなり効き目の強すぎるやつが混じっているんじゃあるまいか。

マリファナなんかは、こう言ってしまうと語弊があるが、いわば大昔から人類に馴染んでいるので、そんなに致命的と言うほど危険じゃない。しかし、脱法ハーブというのは合成薬物なので、いろいろ成分や比率を変えているうちに、かなり危険なものになってしまっているということがあるだろう。

人間の体に馴染みがない物質なのだから、そりゃ、危険なものが多いに決まっているではないか。そんなものを、金を出して買って、自発的にモルモット代わりになって人体実験されるなんて、私は御免被りたい。しかし中には、それでもハマってしまうやつもいるわけである。

ちなみに、脱法ハーブで頭がおかしくなったせいで交通事故を起こした場合、どんな罰則になるのだろう。事故を起こさない場合でも、飲酒運転と違って明確な違反の規定がないから、減点するのだってなかなか大変だ。違反規定がないから、点数も引かれないというのでは、どうしようもないではないか。

 

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2014年7月 5日

「スリープオーバー」 という芸術鑑賞

Cube New York に「スリープオーバー」という芸術鑑賞企画が紹介されている。発端となったのは、ニューヨーク自然史博物館で、 6~13歳の子供たちと付き添いの親たちが、クローズした後の真っ暗な博物館内を懐中電灯を片手に探検し、持参した寝袋で館内に宿泊するという企画なんだそうだ。

これに刺激されて他の美術館も大人のための企画を進めている。もっとも注目されているのが、チェルシーにあるルーベン美術館の “The Dream-Over” という企画で、参加費用は 1人 108ドルもするのだが、毎回チケット完売の大人気なんだそうだ。

内容は、キュレーターが各ゲストのために作品を選び、ゲストはその作品の下で一夜を過ごすというもので、ゲスト同士で夢について話し合うグループ・セッションも行われるらしい。これ、なかなかいいかも。

好きな美術作品の下で一晩眠れるなんて、素敵じゃないか。これなら、私も一度体験してみたい。モネの睡蓮の大作の下で寝たら、さぞかし気持ちよかろう。それからアンドリュー・ワイエスの絵の下だと、すごくピュアな気持ちで目覚めそうではないか。長谷川等伯の屏風絵に囲まれて寝るのもファンタスティックだろう。

さらにミッドタウン・ウェストのブリル・ビルの地下で行なわれた演劇、“Dream Of The Red Chamber(紅楼夢)” というのもおもしろい。中国の同名小説はメリハリのない退屈なストーリーが特徴なんだそうだが、それに基づいて、美しく優雅な背景の中で、抑揚のないほのかなストーリーが展開されるというのである。

お客は演劇を観たりうとうとしたりするうちに、ぼんやりと時間を過ごせるというのがウリである。ここまでくると、ニューヨークという忙しすぎる街では、まったり過ごすというのが、非日常になってしまっているのかと、ある意味少し気の毒になる。

 

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2014年7月 4日

「号泣」という言葉のインフレに歯止めがかかった

4年ちょっと前、"「号泣」 という言葉がインフレを起こしてる" という記事を書いた。それは、フィギュア・スケートの浅田真央選手が、バンクーバーで開かれた冬季オリンピックで銀メダルに終わった際に、「浅田真央はインタビューで 『長かったというかあっという間でした』と話した後、こらえきれず号泣した」という記事があったからだ。

「号泣」したというから、人目も構わず泣きわめくのでは、よほど悔しかったのか思っていたが、テレビニュースを見たら、ほんの少し涙ぐんだだけで、むしろ健気な様子だったので、「これを『号泣』とは、いくら何でもひどすぎるだろ!」と驚いたのである。

「号泣」の意味は、「大声をあげて泣き叫ぶこと」である。「号」という文字は「号令」とか「号砲一発」とかいうように用いられるので、まあ、明確な合図のためにも、大きな声や音を伴うことになっている。しかし、最近はちょっとしたすすり泣きでも「号泣」と表現されてしまう。これは「言葉のインフレ」である。

で、件の記事では「号泣」という言葉の意味を、若い人ほど誤解していて、「声を押し殺し大量の涙を流して泣くこと」と思っていることが多いようだということを、NHK 放送文化研究所のデータをもとに確認したのである。

ところがこのほど、インフレでも何でもなく、まさに「号泣そのもの」という動画が、ニュースを通じて日本全国に流れ、さらにインターネット動画を通じて全世界に広まってしまった。若い人たちに「本当の『号泣』というのは、このくらいでなければいけないんだよ」 と説明するいいサンプルが見つかった。

例の「号泣ニュース」に関して、私は当初、あまりいじり倒さない方がいいと思っていた。というのも、政治家がはしゃぎすぎのミスを犯したのを、マスコミや周囲がいじりすぎて、それで自殺に追い込んでしまうというケースがあったからだ。

「号泣」という言葉のインフレについて書いた 1年 2ヶ月ほど前に、私は「たやすく人を死に追いやらないように」という記事を書いている。「偽メール事件」で国会で空騒ぎしすぎた元民主党議員が、マスコミに叩かれて辞職し、さらに自殺してしまったことがあったのである。

あの議員さんも、ずいぶん「アブない感じ」があったが、今回の号泣県議は、それに輪をかけて「アブなすぎ」である。もしかしてヤバいことになるんじゃないかと思っていたのである。

ところが、当の本人は現在雲隠れしているものの、報道各社に「心身ともに疲れ果て自殺に追い込まれるのではないかと不安」と文書で取材の自粛を申し入れているというではないか。

そのニュースをみて、変な話だが、ちょっとほっとした。自分で「自殺に追い込まれるのではないかと不安」なんて言っている人で、本当に自殺しちゃう人はあまりいない。

例の号泣記者会見の前にも、「質問にかこつけた暴言やどう喝という形で、わたしが怖いなと感じた時点で、 この記者会見は、打ち切りさせていただきます」なんて申し入れをしていたというし、まあ、かなり「変な人」ではあるんだろうけどね。

 

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2014年7月 3日

ネット上の都合のよすぎるプロパガンダ

例のセクハラ野次の関連で、塩村都議にケネディ米大使から「激励の手紙」が届いたという件で、某 SNS に "これは、「もう終わりにして、これ以上何も言わず大人しくしろ」というメッセージ" という投稿をしている御仁がいるのを発見して、驚いた。この投稿はさらに "こんな風に公開するアホな塩村 ……" 云々と続いている。

炎上などの事態は私の本意ではないのでソースは敢えて明らかにしないが、いわゆるネトウヨと言われる人たちの中には、いや、ネトウヨだけじゃなく、サヨクの中にもだが、何でもかんでも自分の都合で解釈して、大声でプロパガンダしたがる人たちがいる。

これはお行儀のよくないことだと、私は思っている。まあ、ウヨクとサヨクの違いは、ウヨクの方が高圧的で、サヨクはまるで被害者みたいな言い方というところだが、行儀のよくないことについては同じことだ。

ケネディ大使からの手紙は、読売新聞によれば「1枚の用紙の表と裏に直筆で」書かれたものだという。それならば、米国大使館のレターヘッドを使ったオフィシャルなものではなく、あくまで「私信」と考えるのが常識だ。米大使としてのオフィシャルな通信だったら、ワープロで打って、ソースを自分の手元に残す。

だから、米政府として「もうこれで終わりにしろ」という通告の意味でよこしたなんて深読みは不要である。敢えて手書きにしたのは、「インティメットな『私信』なので、余計な詮索はしないで結構」という言外の意思表示と受け取ればいい。

つまり、書面に書かれた内容を素直に受け取ればいいのだ。「これで終わりにしろ」なんていうメッセージを読み取れなんてことになると、キャロライン・ケネディのキャラからして、「そんな寝業師と思われるのは不本意」ということになるのではなかろうか。

そして私信の内容は趣旨だけが伝えられて、詳細は公開されていないのでわからないが、それはとりもなおさず「こんな風に公開するアホな塩村」という非難も当たらないということである。

世の中には、塩村都議がバラエティ・タレント出身で、チャラい過去をもっているから、あの程度の野次はされて当然というようなことを、平然と言う向きもあるようだが、相手がどうあれ、議会でのセクハラ野次の免罪符にはならない。

私は世のネトウヨの一部の、口汚い物言いやヘイトスピーチを悲しむものである。ああしたコメントは、天皇陛下のお目に決して触れさせたくないと思う。きっと心を痛められるだろうから。

なお、ここでの話題とは直接の関連性はないが、「ヘイトスピーチなら韓国の方がずっと上」という指摘もある。ただそれは、今さら言わなくても既に多くの方がわかっていることなので、ここでは敢えて蒸し返さない。

 

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2014年7月 2日

思いやりの心があれば、ストレスなんて怖くない その 2

昨日の「何がストレスかは、受け手の心次第」という話の続きである。

話題の TED で、米国の健康心理学者、Kelly McGonigal という女性が、「ストレスが身体に悪い」 は大ウソ!」と語っている。リンク先のページは丸ごと日本語に翻訳されているので、安心してご覧いただきたい。彼女は従来、「ストレスは体に悪い」と主張してきたが、最近になって、「ストレスは健康の敵ではない」と知ったというのである。

彼女はアメリカ成人 30,000人を 8年間に及び追跡し、健康とストレスの関係について調査した。調査対象の人たちに、昨年どれほどのレベルのストレスがあったかを質問し、さらに「ストレスは健康に害であると思いますか?」と聞く。そして一般公開されている死亡記録により、彼らの生存状況を毎年確認した。

この結果わかったことは、前年に重度のストレスを感じた人々が翌年亡くなる確率は、他と比べて 43%も高かった。しかしこれは、ストレスが健康に悪いと信じていた人だけに適用される数字で、重度のストレスを感じていてもストレスは健康に悪いと信じていない人々が死亡する確率は、非常に低かったというのである。

それどころか、重度のストレスを感じながらも「ストレスは健康に何も関係ない」と考える人々の死亡率が、ストレスをあまり感じなかった人々も含めて、最も低かった。こうして彼女は、人々の死亡原因はストレスそれ自体ではなく、「ストレスが体に悪いと信じることが死亡原因となった」と結論付けるに至ったのである。

これについて、私はとくに驚かなかった。私は「ストレスは人間が生きて行くには必要不可欠なもの」と昔から信じていて、そして「ストレスは必要不可欠ではあるが、『いいストレス』と『悪いストレス』がある」と思ってきた。一般には、「悪いストレス」のみを「ストレス」と称するが、それは誤解であり、社会はいろいろなストレスに満ちているのである。

つまり、Kelly McGonigal さんの結論を私流の解釈で言い換えれば、「何が『悪いストレス』になるかは、人による」ということになると思うのである。

では、「いいストレス」と「悪いストレス」の違いはどこにあるのだろう。私の最近の結論は、「ストレスそのものはよくも悪くもなくて、人間の側の受け取り方次第で、よくも悪くもなる」ということである。要するに、昨日の記事の結論の繰り返しである。

端的に言ってしまえば、どんなストレスでも、「ああ、これを乗り越えることで、自分はさらに進歩できる。ありがたい教材みたいなものだ」と考えれば、毎日がワクワクもので、すべて「いいストレス」になってしまう。

Kelly McGonigal さんは、健康になるためには「ストレスを軽減させよう」なんて思わなくていいと主張する。それよりも、「周囲の人たちを思いやる気持ち」をもつことが大切だというのである。それは、「自分が困難の中にいる時でも他者に関心を持ち、助けてきた人々のストレスによる死亡確率はゼロ」だったからというのだ。

言うまでもなく、「死亡確率ゼロ」と言っても永遠に死なないわけじゃない。他者の役に立とうと努力している間は、翌年に突然死ぬということはないというのだ。よく「まだ世の中のお役に立たなければならないうちは、人は死なない」というが、まさにその通りである。人の役に立っているうちは、どんなに困難に直面しても健康でいられるようなのだ。

私は近頃、「人の身になって思いやる」という意味の "empathy" というキーワードに注目していて、"Empathy" の時代ネズミもすなる「思いやり」というもの といった記事を書いている。

人類の進化は「弱肉強食の生存競争」ではなく、「思いやりの心」でもたらされたと考えるに至った私にとって、Kelly McGonigal さんの研究成果は、なかなか心強い傍証になってくれると思う。

 

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2014年7月 1日

思いやりの心があれば、ストレスなんて怖くない その 1

筋向かいの家は、庭の芝生をいつも見事なほどきれいに手入れしているのだが、奥さんに先立たれたご主人もだいぶ高齢になったので、ついに夏空の下で自力で手入れするのを諦めたようだ。それで、多分シルバー人材センターか何かに依頼したのだろうが、ばあさんが 2人やって来て、朝から午後 3時過ぎ頃までまったりと草むしりをしている。

このばあさんたち、やたら声が大きくて、なんだかよくわからない繰り言をひっきりなしにしているので、窓を開けて仕事をしていると、うるさくてたまらない。「なんだかよくわからない」というのは、とにかく茨城弁がきついからだ。

茨城という所は北関東特有の無アクセント地帯と言われていて、しゃべり方がぶっきらぼうというか、めりはりがないというか、とにかく、ばあさん同士が延々と繰り言を続けていると、結構耳障りというか、気が滅入るというか、ちょっとしたストレスになってしまった。

ところで、明日は朝から新幹線で大阪に出張するのだが、そんなケースでは、近くの席に大阪のおかんグループが陣取って、延々としゃべり続けていることがある。とにかく大阪のおかん達というのは、ずぅっとしゃべり続けて平気なのである。

ところが、この大阪のおかん達のおしゃべりというのは、延々と続いても、少なくとも私にとってはそれほど耳障りじゃない。それはきちんとボケとツッコミの役割分担があったりして、聞いていて気が滅入る内容にはなりようがないし、取り立てて内容を聞いていなくてもしゃべりに適度のアクセント、テンポ、めりはりがあって、生理的に耳障りということもないからだ。

ところが、地元茨城のばあさん同士の繰り言というのは、陰々滅々としたことをめりはりのない無アクセントでだらだら延々と繰り返すので、申し訳ないが不愉快になってしまう。まあ、私が腹の底から茨城人になりきっていないので、生理的に受け付けないということもあるのだろうが。

で、何を言いたいのかというと、何がストレスかというのは、受け手の心次第ということのようだということなのである。さらにかなり唐突だが "「ストレスが身体に悪い」は大ウソ! 健康心理学者が語った、本当は怖くないストレスの話" というテーマに関連づけて、この問題を語りたいのだ。

しかし、長くなりすぎるので、続きは明日。

 

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