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2014年7月12日

集団的自衛権問題について、うっとうしいけど、ちょっとだけ

これまで「集団的自衛権」について語ることを避けて来たのだが、ここまで来ると頬被りもできないような気がしてきた。仕方がないから、うっとうしい話になりそうだが、今の時点での自分の考えを述べておこうと思う。

最初に、私は集団的自衛権の行使についていいとか悪いとかいう議論はしたくないということを、明らかにしておきたい。というのは、集団的自衛権の保持と行使は国際的には当たり前の話なのであって、「保持するけど行使しない」なんていう解釈の方がずっと変てこりんなのである。

ただ、変てこりんだからといって、悪いというわけじゃない。日本はその変てこりんの恩恵によって、曲がりなりにも平和を謳歌してきたのだ。そのせいでかなり「平和ボケ」にもなってしまったが、しょっちゅう紛争に首を突っ込むよりはまだいい。

ただ、集団的自衛権という当たり前の権利を「保持するし、必要とあらば行使するよ」という態度を明らかにし、そのためだけという理由で戦争に巻き込まれる例は、皆無じゃないが、そう多くもない。要は運用次第だ。

2003年に米国がサダム・フセインを確保するためにイラクを攻撃した際に、英国とオーストラリアのほか、ポーランドまでこの作戦に参加したが、これは集団的自衛権の「広義の解釈」によるものといえるだろう。

もっともあれは、イラクが「大量破壊兵器」(つまり核兵器のことね)を保持しているというでたらめの前提によって侵攻に参加したわけなので、後から考えれば「広義の解釈」もへったくれもなかったのだが。

ここでちょっと話は逸れるが、イラク戦争について私は以前、次のように書いている。

イラク戦争が始まるときにしたって、サダム・フセインは、「大量破壊兵器」なんてものを持っているような、いないような、のらりくらり戦術で、世界を煙に巻こうとしていた。この「のらりくらり」は、アラビア商人の常套戦術だな。

ところが、ジョージ・ブッシュは、そんなゲーム感覚に付き合えるほど、頭の中が洗練されていなかった。根がカウボーイだもの、仕方がない。いきなりテーブルをひっくり返して頭をぶん殴るという無粋の挙に出たのである。

つまりあれは、サダム・フセイン側の戦術の失敗でもあるのだ。ジョージ・ブッシュの頭の単純さをわかっていなかったのが、間違いの元である。争いごとでは、どちらかが一方的に悪いということはない。

話を元に戻そう。今回安倍総理が言っているのは、日本は集団的自衛権を限定的に行使するということなので、これによって米国の戦闘行為に無闇に駆り出されるというようなものではない。だから、いきなりテーブルをひっくり返す行為に付き合って、戦争への道を開くという短絡的なものでもない。

つまり「集団的自衛権の行使が直接的に戦争や徴兵につながる」という左側からのプロパガンダは、ちょっと言い過ぎだということである。そもそも現代の戦争は、昔の肉弾戦と違って、徴兵制度による「にわか兵隊」が行うものじゃなく、高度な専門的訓練を必要とする。役立たずのにわか兵隊に無駄飯を食わせるほど、日本政府は豊かじゃない。

世界的にみても、徴兵制はトレンドじゃない。韓国などは徴兵制を布いていて、男はうまく兵役逃れをしない限り、みな一度は兵役に就くことになっているが、先日もニュースになったように、軍隊内での「いじめ」にぶち切れて、後ろを向いて鉄砲を撃ってしまうやつが何人もいて、ちょっとした問題になっている。

日本の自衛隊は、そんな面倒なことに首を突っ込むほど暇じゃないから、「自分の息子がいきなり戦地に駆り出される」なんていう心配は無用である。そもそも、そんな心配を表に出すというのは、裏を返せば「(他国の)他人の息子が戦争に行くのなら OK」 と言っているようなもので、実はかなり自分勝手な論理だと、私なんぞは思う。

と、ここまで書くと、私が安倍政権の集団的自衛権の解釈変更に賛成しているかのように思われるかもしれないが、実は反対である。だから最初に、 「集団的自衛権の行使について、いいとか悪いとかいう議論はしたくない」と断っておいたのである。

私が今回の安倍内閣による「解釈変更」に反対なのは、まず第一に「そんなこと、一内閣が決めるような簡単な問題じゃなかろう」という、純粋な法的手続き論からである。

そもそも、憲法第 9条は、次のように書かれている。

  1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

度々言うように、私はアスペルガー一歩手前だから、文言は書かれたとおりに真っ正直に解釈する傾向がある。つまり、憲法第 9条をまともに読めば、自衛隊も違憲だし、ましてや国際紛争を解決する手段としての武力行使なんて、できるはずがないのである。

こうした憲法があるのだから、「集団的自衛権によって、自衛隊出動を可能にするように憲法解釈を変更する」なんて、そもそもナンセンスである。国の最も上位にある法に沿って、歴代の内閣が踏襲してきた解釈(それにしたって、おかしな解釈ではあるのだが)を、一内閣のご都合主義で簡単に変えてしまっていいはずがない。

今回の憲法解釈変更は、多分、米国からの要請にも沿っているのだと思う。だからこそ、米国はいち早く「歓迎」の意を表したのだ。「現憲法は米国から押しつけられたものだから、改憲しなければならない」と主張している人たちが、今回の問題に関しては、改憲の使命をほっぽり出して米国の要請に従うことを喜んでいる。

改憲には途方もなく手間がかかりそうだから、今回はとりあえず小手先の「解釈変更」にしておく。米国もそれで満足してくれそうだし…… ということだ。つくづくご都合主義だなあと思う。

改憲を行うということは、とりもなおさず「米国の子分」というポジションから脱却することを意味する。「自分では戦わずに安保で守ってもらうんだから、米国の言うことは何でも聞くよ」という国ではなくなるということである。

だから、改憲にはそれなりの覚悟が必要なのだ。私個人としては、そのくらいの覚悟はすべきだと思っているのだが、正直なところ、今の日本では荷が重いかもしれない。だからこそ、改憲は掛け声だけ大きいが、実際のプロセスはなかなか進まない。

米国としては、今回の憲法解釈変更で、日本がいつまでも子分でいながら、いざという時には、自衛隊が出動して米国の作戦に参加できる(つまり「負担の一部をさらに肩代わり」させる)という下地をを作ることができた。これまで以上に「都合のいい国」になってしまったわけだ。

米国にしてみれば、「こっちも何かと厳しいから、とことん守ってやれるかどうかはわからないけど、言うことだけはこれまで以上にちゃんと聞けよな」ということである。日本は憲法解釈をご都合主義で変更してまで、それを聞く国になってしまったのである。

 

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