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2014年8月に作成された投稿

2014年8月31日

「イバラキスタン」 という独立国家

はてなダイヤリーに「謎の独立国家イバラキスタン」という記事がある。「イバラキスタン」というのはもちろんネタで、茨城県のことを言っている。茨城県在住の身としては少々気になったので、読んでみてかなり共感してしまったのである。

とにかく、茨城県の橋本昌知事の肖像写真から漂ってくる「権威主義国家の大統領感」がすごいという話である。中央アジアの国々の大統領から発するオーラと、ものすごく共通する。そういえば、顔立ちも体型もどことなく似ているし。

中央アジア諸国の大統領の、何となく「実質的には独裁政権なんじゃない?」と思わせる在任期間を、以下に記そう。

ナザルバエフ大統領 (カザフスタン 在任23年)
カリモフ大統領 (ウズベキスタン 在任23年)
ラフモン大統領 (タジキスタン 在任20年)
ニヤゾフ元大統領 (トルクメニスタン 在任16年)

いずれもやたらと長期政権である。米国大統領の任期が 4年で、2期(8年)までしか務められないという制約を考えれば、これはもう、大変なものだ。

で、我がイバラキスタンの「ハシモト大統領」はと言えば、なんと、昨年 5期 20年の任期を終えて 6選となり、既に 21年目に入っている。このままいけば、中央アジアの諸大統領と立派に肩を並べる 24年の長期政権となることが確実なのだ。

私は昨年の 8月 28日に「茨城県知事選挙にため息をつく」という記事を書いて、橋本氏の 6選出馬の厚かましさに疑問を呈した、というか、呆れてみせた。こんな多選では、もう誰も逆らえない独裁国家みたいなものになる。

茨城県に引っ越してきて以来、強く感じていることだが、ここはどうも日本離れしているところがある。本当に「謎の独立国家」といってもあまりおかしくないのである。

 

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2014年8月30日

「納豆ラーメン」というものを創作してみた

何か変わったものが食べたくなって、かといって面倒くさいものは作ってもらうのも恐縮だし、自分で作る気もしない。ふと思いついて、「納豆ラーメン」なるものを食ってみようという気になった。

世の中にはいろいろなラーメンがあって、さらに多くのラーメン屋が新メニューを開発しているが、今に至るまで納豆ラーメンというものは聞いたことがない。しかし私は「納豆スパゲティ」というのが好きで、一時凝っていたことがあった。ならば、納豆ラーメンだって十分に「あり」だろう。

さらに我が庄内地方には、「納豆汁」というものがある。味噌汁に納豆を溶かし入れるのだが、なかなか風味が立って美味しい。庄内以外の地域では全然見られないのが不思議なぐらいである。納豆スパゲティと納豆汁が美味しいのだから、納豆ラーメンだってきっと美味しいだろうという確信のもとに、さっそく作ってみた。

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納豆風味を際立たせるために、スープは和風の鰹と昆布出汁を使い、味は醤油と塩のミックス。敢えて納豆以外の具は使わずに、シンプルに決める。麺はやや固ゆでである。

さてとばかり、やや恐る恐る食ってみると、うん、旨い! 思った通りである。

麺に納豆のとろみが馴染んで、ただでさえツルツルなのが、ますますツルツルである。しかしネバネバ感は思ったよりもずっと軽くなっていて、かなりライト感覚に落ち着いている。

スープを和風にしたのは大正解だった。これが鶏ガラや豚骨ベースだったら、風味が喧嘩してしまって、台無しになっていただろう。しかも、醤油だけでなく塩をミックスさせたので、くどさが全くなくて、いい感じだ。

「納豆とラーメンを混ぜるなんて!」 と、抵抗のある人には絶対に受け入れられないだろうが、食い物の間口の広い人にはきっと歓迎されると思う。

 

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2014年8月29日

低反発素材を使った製品を巡る冒険

世の中には「低反発マットレス」とか「低反発まくら」とか「低反発クッション」とかいう品物があふれている。いくつかは試してみたが、個人的には恐縮ながら、「そんなにいいかなあ?」という感覚しかない。

私が個人的に購入した経験のあるのは「低反発クッション」というものである。仕事柄、一日中パソコンに向かっていることもあり、とにかく座っている時間が長いので、お尻が痛くなるし、腰痛にもなりやすい。それで数年前に、ホームセンターで売られていたのを、お試し感覚もあって、つい買ってしまったのである。

で、その感想。椅子の座面に置いて腰を下ろすと、何だか妙な感覚になるほどゆっくりと沈む。当初は「うん、これ、固さが直接伝わってこないから、いいかも!」という気がする。それまでの固い座面との違いがありがたく感じられる。しかし 1週間もしないうちに、「あれ、そんなにいいかなあ?」という疑問の方が多くなる。

というのは、「ゆっくり沈む」 というのはいいのだが、20〜30分も座っていると、沈み尽くしてペッタンコになっているのに気付く。ペッタンコということは、要するに、ちっともクッションの役割を果たさないということである。

で、「何だか変だなあ」と思いながら立ち上がると、沈んでペッタンコになっていた部分が、ゆっくりと元に戻ろうとする。すぐには戻らないが、やがて元通りになる。それでもう一度腰を下ろすと、しばらくは快適だが、20〜30分もすると再びペッタンコになっているのに気付く。

というわけで、20分以内の仕事だったら快適なのかもしれないが、そんなことは滅多にないので、せっかく買った物だが、今では押し入れの肥やしになってしまっているのである。

「低反発枕」 というのは、出張先の某ビジネスホテルで試す機会があった。やっぱり、頭を乗せるとゆっくり沈む。ゆっくり沈んでやがてペッタンコになる。私は枕は低いのが好みなので、これは別に気にならない。

しかし寝返りを打って頭が横に移動すると、それまで頭のあった部分が、しばらく低いまま残り、新たに移動した部分は徐々に沈み始める。ということは、頭だけが重力の法則で、元の場所に戻ろうとする感覚がある。まあ、すぐに新しい状況に馴染むのだが。

とはいえ私の場合、長時間のデスクワークで肩から首にかけてコリコリの場合が多いので、一時的で微妙な感覚に過ぎないとはいえ、頭が元の場所に戻ろうとするのに首全体で抵抗するというのは、少々安眠阻害要因に思われた。自分では買わないだろう。

「低反発マットレス」というのも、出張先のビジネスホテルで経験した。ベッド・スプレッドとして導入されていたのである。この場合は、まあ、ベッド・スプレッド程度の厚さしかないので、「ゆっくり沈む」とかいう感覚すらなく、あるんだかないんだかわからないものでしかなかった。

どうせ「あるんだかないんだかわからない」程度のものだったら、わざわざ高い金を出して買うほどのものでもないだろう。ただ、これは個人的感覚なので、中には重宝する人もいるかも知れないと思い、念のため、ネット販売のサイトでカスタマーレビューを当たってみた。

すると、なんと好意的な反応がやたら多いのである。世の中、わからないものだ。クッションの場合は「ゆっくり沈んで、ペッタンコになるだけ」という、私と同じ感想も少なくないが、「腰が楽になる」という声も多い。ただ、長時間座る人ほど「2枚重ねないとダメ」といった指摘が多くなる。

一方、枕の場合は好意的な反応がぐっと増える。どんな環境でも安眠してしまう私でも気になったことが、多くの人には全然気にならないみたいなのが意外だ。私がよっぽどパソコン仕事で首がコリコリになっているのか、あるいは皆さん、よっぽど寝にくい枕から買い換えたのか、そのどちらか、あるいは両方なのだろうか。

マットレスの場合は、さらに好意的な反応が増える。ただ、製品としてはベッドスプレッドではなく、床あるいは畳の上に直に敷いて寝るタイプのものが主流で、「敷き布団と併用すると快適」 という声が多い。いずれにしても、ある程度の厚みが必要のようで、4cm 程度のものは不評だ。

子細にみると、体圧が適度に分散されて寝やすいという声もあるが、逆に腰の部分だけが沈んでしまい、寝疲れするという指摘もある。このあたりは、個人的な感覚の違いが大きいようだ。

まあ、要するに「好きずき」ということなんだろうが、こればかりは試してみないとわからないから、新規購入のリスクは、高価な物ほど大きいと思う方がいい。さらに、購入して間もなくカスタマー・レビューに投稿する人が多いだろうから、それまで使っていたものとの比較で、過度に好意的なレビューになっている可能性もある。

私がクッションで不満を感じるにも、1週間近く経って初めて気付いたのだから、そのあたりの要素も勘案してみる必要があるだろう。

 

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2014年8月28日

コーチと監督

スポーツの指導者の呼称は、ローカル・ルールと国際基準が入り乱れてしまっている。まあ、通常はそれでも支障がないからいいのだが、翻訳を生業とする人はちょっと困ってしまうだろうと、余計な心配をしている。

例えば、野球の監督は、英語では manager(マネージャー)である。ところが、日本の野球はベースボールとは異なった世界を構築していて、マネージャーといったらおにぎり 2万個作る人のことになってしまう。彼女のことを英語で監督と間違われないように紹介するには、何といったらいいのだろう。

スポーツ・チームの監督の役割をする人は、普通は coach(コーチ)である。バスケットボールでもフットボールのナショナルチームでも、日本で「監督」と呼ばれている人は英語では coach という肩書きで紹介される。

コーチが複数いる場合は head coach が、いわゆる「監督」に相当する。Maneger と呼ぶ野球の方が、ずっと少数派のはずだが、日本では一番偉い人を「コーチ」と呼ぶことはまずない。

「コーチ」というのは、外来語として十分に定着しているのだが、日本では外国から入ってきたスポーツとして野球が最もメジャーになってしまったもので、どうしても一番偉い人は「監督」と呼ばないと気分が出ないということになっているようなのだ。

そんなわけで、アギ—レさんも、本来は coach なのだが、どの新聞を見ても「コーチ」ではなく、「監督」として紹介されている。コーチと呼ぶと、野球の世界に馴染んだ日本人には、格下の人と思われてしまうのだろう。

 

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2014年8月27日

モンティ・パイソン復活ライブと、世界一おもしろいジョーク

8月 24日に放送された「モンティ・パイソン復活ライブ・前編」を、ビデオで録画しておいて、ようやく見ることができた。放送では、以前に放映されたビデオを取り混ぜ、さらに、いとうせいこう、宮沢章夫、松尾貴史、須田泰成の 4氏が解説者的に登場して、モンティ・パイソンのおもしろさを伝えている。

以前テリー・ギリアム(モンティ・パイソンのメンバー)が来日した時、いとうせいこうがわざわざ会いに行って「あなた達に大影響を受けた。おかげで今の自分がある」というようなことを言ったら、「それについては謝る」と言われたというエピソードには、笑ってしまったよ。

ところで、モンティ・パイソンの数あるネタのうち、私が一番おもしろいと思っている「世界一おもしろいジョーク」(The Funniest Joke in the World) について、このココログでも既に紹介したとばかり思っていたのだが、いくら検索してもヒットしないのである。

実は、Today's Crack をココログに移行する前、平成 15年 3月に、「知のヴァーリトゥード」のサイト内で紹介(参照)しているのだが、これだとあまりにも目立たなくて Google 検索にもひっかかりにくく、話題にならない。それで、ココログでも書き直したつもりでいたのだが、痛恨にもどうやら書き忘れていたらしいのだ。

どんなギャグかというと、次のようなものである。(以下、再録)

あるギャグ作家が自宅で「世界一おもしろいジョーク」を書き、それを自分で読み返し、あまりおもしろすぎて笑い死にしてしまう。大笑いして一瞬のうちに体が引きつり、パッタリと死ぬのである。これが発端。

それ以後、その家に突入した人間は、すべて引きつってパッタリといってしまう。件のジョーク原稿を読んで大笑いし過ぎたのが原因である。

これが第二次世界大戦中の出来事だったので、いっそ対独戦争の武器にしてしまえということになる。しかし一人で全体を翻訳したら死んでしまうので、分割してドイツ語訳する。(ちょっと多目の分量を受け持った翻訳家は、病院送りになってしまうのだが)

次の画面には、ヨーロッパ戦線で苦戦する英国軍が登場する。彼らは手に手にドイツ語で書かれたジョークの原稿を持ち、「フェン・エスト・ダス……ヤァ……」と、声を揃えて読み上げる。すると、どこに潜んでいたものか、大勢のドイツ兵が笑い転げながら現れて、一様に引きつってパッタリといく。(読み上げている英国兵は、ドイツ語がわからないので、無事でいられるというわけだ)

それでドイツ軍も対抗して英語のジョークを作り、英国向けに放送するが、おもしろくもなんともなくて、全然効果がない。ドイツ人はユーモアのセンスが皆無らしい。

結局は、あまりおもしろすぎて危険ということになり、戦後になって永遠に封印されて土に埋められる。その上には、「世界一おもしろいジョーク、ここに眠る」 という記念碑が建てられたというのが、オチである。

とまあ、以上のストーリーを理解して下のビデオをみれば、英語が聞き取れなくてもちゃんと笑えるはずだ。(写真クリックでニコ動に飛ぶ)

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今月 31日の後編も、しっかりとチェックしよう。

 

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2014年8月26日

上から下まで、各段階が「ワンオペ」になってしまうと

日経ビジネスに "ガバナンスも「ワンオペ」だったゼンショー" という記事がある。同社の経営改善を目的とした第三者委員会の調査結果に、厳しい労働実態を生んでしまった原因の一つとして 「コーポレートガバナンス(企業統治)の欠陥」 が指摘されたというのである。

今回問題となったすき家などの「悲鳴を上げている現場の実態」を、「経営陣が十分に把握できなかったことが対策を遅らせ、事態を悪化させた」とされている。私はこの記事を読んで驚いた。経営陣は現場の厳しい労働環境を十分承知の上で、無理強いしていたものとばかり思っていたからである。

ちょっとネットを覗けば、ゼンショーがいわゆるブラック企業の代表格であるという情報が掃いて捨てるほどあった。今回の報告でも、従業員が 1ヶ月に 400時間以上働くこともあったと指摘されている。月に 27日間働くとして、1日あたり 15時間近くになる。通勤とメシ食って風呂入って寝る時間を除けば、何も残らない。

こんなひどい実態でも、小川社長は「ブラック企業」と言われていることについて、「そんなレッテルは、甚だ不本意」程度にしか認識していなかったらしい。「世界から飢えをなくす」という理想に燃え、大量の雇用を創出し、安くて早いメシを食わせる「ホワイト企業」だと思っていたようなのである。

すき家のバイトがひいひい言ってるという情報はあふれていたし、知人の息子がゼンショーに入社して 1年ももたなかったとか、すき家でバイトして心も体も壊しそうになったとかいう話は、いくらでも聞こえてきていた。外部の人間が別に必死で調べなくても知っていたことを、その会社の経営者が知らなかったというのである。

これは、構造的な問題としか思われない。現場のバイト店員の悲鳴を、店舗の責任者が聞こうとしない。聞こえても上に伝えない。だから中間管理職にはそうした情報が滅多に入らない。そもそも中間管理職自身が悲鳴を上げそうになるのを必死に耐えているのだから、下の者の悲鳴なんか「特別なこと」と思わない。

役員レベルでは、創業当時からの滅私奉公が当たり前だと思っているから、多少のことが耳に入ったとしても、そんなことは社長に伝えるほどの重要事項じゃないと思う。だから当然、役員会で討議されることもない。

つまり、初めから「過重労働なんて大したことじゃない」と思っている経営者だから、下の者は「伝えてもどうせ握りつぶされるし、下手すると自分の立場が危ない」と思い、ますます何も伝えなくなる。上から下まで各段階が全て「ワンオペ」になってしまうと、閉塞状況の連鎖に陥って、硬直以外の道がない。

そんな状況で、経営者は軽い気持ちでどんどん「合理化策」を押しつける。どんなに押しつけても反発が聞こえてこないから、つけ上がってさらに「合理化という名の理不尽化」に走る。そして突然、臨界点を越える。

現場を知らず、しかも妙に美しすぎる理想に酔う経営者が、最も陥りやすい罠であるが、実はこれ、多くの中小企業がはまってしまう可能性があるんじゃないかと、私は思っている。「ゼンショーなんか、まだマシな方だ」という声もあるぐらいだしね。

 

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2014年8月25日

iPhone 5 のバッテリー交換プログラム

iPhone 5 バッテリー交換プログラム」というのが、Apple から発表された。iPhone 5 で、「バッテリー駆動時間が急に短くなったり、より頻繁に充電が必要になったりする」可能性があるとして、無償でバッテリー交換をしてくれるというのである。既に有料でバッテリー交換をしている場合は、全額返金してくれるという。

そういえば、私の iPhone 5 も、最近ずいぶんバッテリーの持ちが悪くなり、夕方頃になったら、確実に残り 20%を切る。それで外出するときには充電用のスペア・バッテリーが不可欠になっていた。このニュースを見て、「なんだ、やっぱりそういうことだったのか!」と思ったのである。

ただ、対象商品は「ごく一部の iPhone 5」ということで、自分の iPhone が対象になるかどうかは、ウェブページにシリアルナンバーを入力して調べてみなければならない。それで指定されたやり方でやってみたら、私のは今回のプログラムには該当しないと表示された。

私の iPhone が該当しないというのだから、該当するのは相当頻繁に充電しなければならないのだろう。下手すると、夜のうちに満充電にしても、翌日の昼にはバッテリー切れになったりするのかもしれず、そうだとしたら、ちょっと使い物にならない。

自分のマシンが無償交換対象に該当しないと知って、がっかりする一方で、バッテリー交換なんて面倒だから、逆にほっとしたりした次第である。まあ、まだ少しの間はバッテリー昇天ということにはならないだろう。

どうせ、今年の 11月に 2年縛りが解けたら、iPhone 6 に機種交換するつもりだから、しばらくはこのまま使い続けよう。交換直後は、バッテリーも元気よく少しは長持ちしてくれるはずだ。

スマホというのは携帯電話というよりも小型のコンピュータであり、ガラケーより液晶画面が大きく、頻繁にネットに接続していろいろな操作をする(しなければスマホにする意味がない)ことになる。そんなだから、どうしてもバッテリーのもちは悪くなる。

ガラケーの時はインターネット接続はおろか、メールを打つのも指がつってしまいそうで敬遠していたから、バッテリーのもちはとてもよかった。1日おきか 3日に 1度充電すれば済んでいたものだが、スマホは 1日に 複数回充電することが多い。

スマホも、余裕で朝から夜中までバッテリーがもつようになってくれたらと思う。これ以上の機能を増やすよりも、省電力とバッテリーの改良に取り組んでくれる方がずっとありがたい。

 

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2014年8月24日

例の「チュー事件」と、「逆男女差別」

橋本聖子参議院議員の「チュー問題」がエラい話題になっている。被害(あれ、どうみても「被害」でしょ) を受けた高橋大輔選手が空気を読んで苦しい取り繕いをしてくれているので、変に穏便に処理されそうだが、私なんか「橋本さん、『パワハラ/セクハラ』という言葉が一般化してからのことで、よかったね」と言いたい。

というのは橋本聖子さんとしては、ぶっちゃけたところ「パワハラ/セクハラ」なんて意識は微塵もなく、単に酒飲んで妙にハイになって、「アタシはただ、高橋君とチューしたかっただけなのよ」ってことだったんだろうと思うからだ。結構オッサンキャラなんだろうね。

で、高橋選手としても「パワハラやセクハラを受けたという認識はない」というのは、実感としてまんざら嘘じゃないんだろうが、「いやはや、まいったなあ、まったく」と思っていないはずはなかろう。「西欧ではハグやキスは当たり前」なんて言っていたが、いくらなんでもあんなにブチューってやったら、引きまくられる。

昨今は、「パワハラ/セクハラ」という言葉が一般的になって、その観念もかなり行きわたってしまったので、今回の問題も、幸か不幸かその視点から取り上げられてしまっている。まあ、確かに国会議員先生だし、JOC 内部でもエラい人らしいから、周囲の誰も止められず、やりたい放題だったことは確かなんだろうが。

それにしても「パワハラ/セクハラ」なんて言葉を誰も知らなかった時代(日本では 1980年代前半まで)だったら、「色きちがい」というレッテルを貼られて、それでけりがついてしまっていただろう。その方がずっと不名誉だから、「ちょっと違う」という気もするが、「パワハラ/セクハラ」で論じられる方が、まだマシだ。

ただ、既にあちこちで指摘されているが、これが男女が逆の立場で、フィギュア・スケートの女子選手が、国会議員のオッサンからチューされていたなんてことだったら、絶対にただでは済まない。私の考えでは、今回のことは「パワハラ/セクハラ」以前に、逆男女差別である。

その「チュー写真」を週刊文春が掲載したというのだが、これも男女が逆だったら、あり得ないことだ。それは、被害者(あえて「被害者」という)の名誉を著しく傷つけ、二次被害につながるものだからである。ということは、これもまた逆男女差別なのだ。

高橋大輔選手にしてみれば、一生の痛恨だろう。彼の身にもなってみるがいい。好きでもないオバサンに抱きつかれて無理矢理チューされている写真が世間に出回ったら、どんな気持ちだろう。本当に本当に、これが逆男女差別でなくて何だというのか。

この件自体は今年 2月のソチ五輪の打ち上げパーティでのことだったらしく、半年も経ってからの暴露に、裏で JOC 内部のゴタゴタがあるとか、自民党内部のドロドロだとか、いろいろなことが言われているが、まあ、そんなことは知ったことじゃない。勝手にやってくれってなもんである。

ただ、これを穏便に済ませたらしい JOC は、今後同様なことをスケベなオッサンがやっちゃったとしても、「被害」を受けた女子選手が空気を読みすぎて「大人と大人のはしゃぎすぎ」なんてことを言っちゃったら(言うかなあ?)、同様に穏便に済ませなければならない「前例」を作ってしまったということである。

これを「悪しき前例」としたくないのだったら、改めてちゃんとした処分をしなければならない。

 

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2014年8月23日

本日は 「処暑」

今日から二十四節気でいうところの 「処暑」。暑かった夏も、終わりを告げる頃なのだそうだ。そんなことを言っても、既に 8月 7日に 「立秋」 になって、「暦の上ではもう秋」 とか、「立秋以後は、『残暑見舞い』 になる」 とか言われているではないかということになりそうだが、まあ 「立秋とは、秋に向かう道しるべが立ったようなもの」 と捉えればいい。

「立春」 の頃にしても、それからしばらくが 1年で最も寒い時期である。「立秋」 も同様に、1年で最も暑い時期なのだ。そしてそれがようやく一段落して、「もう、これ以上暑くなるなんてことはないよね」 と、確信を込めて言ってもいい頃というのが、処暑である。

とはいえ、去年も一昨年も、「処暑って何だっけ?」 と言いたくなるほどの残暑が続いて、頭から湯気が立ちそうだった。一昨年なんて、8月 29日に北海道の小樽に行ったが、あまりの暑さにもだえそうだった。とにかくこの年の夏は猛暑が続いたので、「涼しい北海道に行けば一息つける」 と思っていたが、着いてみたら 32度を超える暑さでうんざりしたのを覚えている。

それに比べれば、今年は 「処暑」 らしい天気の変化だ。今日は外を歩いても頭がくらくらするなんてことはなかった。日が暮れてからは涼しい風が吹き込んでくる。この 3年間の中では一番涼しい処暑である。

とくに西日本は大雨が降り続いて、地面が暖まる隙がなく、むちゃくちゃなほどの猛暑にはならなかった。関東も順調に秋を迎えてくれればありがたい。

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2014年8月22日

FAX が届いたのだが

久しぶりで FAX というものを受信した。ところが、送信側が原稿の裏表を間違えてセットしたらしく、一番上に発信日時のみが印刷され、あとは白紙のまま出力された。発信者の FAX 番号記載もなく、誰から送られてきたものやら、見当が付かない。

唯一印刷されている送信日時は、8月 22日 18:00 となっているが、実際に届いたのは 17:02 だ。ここに表示されるのは、送信者側の FAX で設定されているものだから、 今回の送信者は、こうしたデバイスの管理操作が相当にテキトーな人であるらしい。

というわけで。ちょっと困っているのである。何か重要な用件だったらどうしよう。誰から来た FAX かわからないので、問い合わせようもない。受信履歴を調べてみたが、番号は表示されていない。管理操作が苦手な割には、自分の番号が表示されない設定にだけはしてあるらしい。

こればかりは仕方がない、後になって誰かに「FAX で知らせたのに」なんて言われたら、「原稿をセットする時は、裏表をしっかり確認してね」と、やんわり指摘することにしよう。

ところで、私の周りでは FAX もかなりレガシー・デバイス化してきている。さすがにメールが普及したので、わざわざ FAX を送ろうという人も少なくなってきたようなのだ。

ただ、何かの書類をそのまま FAX で送るということは、今でもちょくちょくある。ただし FAX で送ると印刷結果がどす黒くなって、字も潰れてしまうということが多い。

そんな時には、スマホでもガラケーでもいいから、書類をそのまま写真で撮って送ってくれるとありがたいのだが、それがとてつもなくない高等技術だと思っている人も多いので、なかなか思うに任せない。

 

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2014年8月21日

安心して生きて死のう

TED に森田洋之さんという方が登場して、とてもいい講演をされており、YouTube で聞くことができる。

ただ、ビデオだと 20分以上かかるので、忙しい方は講演をテキストに起こした「病院がないほうが死亡率が下がる! 夕張市のドクターが説く、”医療崩壊”のススメ」というページをご覧になるといいかもしれない。とはいえ、森田さんという方の語り口はとても魅力的なので、少しはビデオの方もご覧になることをオススメする。

講演の内容はテキストに起こしたページのタイトルそのもので、財政破綻のあおりを受けて「医療崩壊」してしまった夕張市で、その結果、実は住民が健康になり、死亡率も下がってしまったというお話だ。夕張市診療所の元院長さんだった森田氏がおっしゃるのだから、まんざらでたらめではない。

でたらめではないどころか、客観的データに基づいた事実なのである。本当に、病院に頼って余計な治療をし薬漬けになる方が、健康にはよくないみたいなのだ。

私はこれまで、"不老長寿なんて求めない時代"、"「死ぬならがんに限る」というのは、本当のようだ" などの記事で、「無駄に長生きするよりは、さっさと死ぬ方がずっとましだから、余計な医療にはかかりたくない」みたいなことを何度も書いてきた。

高齢化社会においては、自分が無駄に長生きしたら社会的損失になるから、寿命が尽きたらさっさと死ぬ方がずっと「世の中のお役に立てる」と思っていた。ところが皮肉なもので、余計な医療にかからない方が、ずっと健康で長生きできるようなのである。

まあ、健康でいるうちは社会に貢献して、それができなくなったらさっさと死ぬというのが一番よさそうなので、やっぱり「医療崩壊」なんてちっとも恐れることはないのだろう。安心して生きて死のう。

 

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2014年8月20日

人口減少と、ライフスタイルの変化

先日帰省した時に感じたことだが、地方都市は確実に年寄りだらけになっている。私が高校時代まで暮らした実家の近所は、あの頃「若いお父さん、お母さん」だった人たちが完全に「じいさん、ばあさん」になっている。じいさん、ばあさんだらけだから、田舎の道路は車のスピードがやたら遅い。

その じいさん、ばあさんの子供と孫が同じ家か同じ地域に暮らしているのはほんの僅かで、子供たちの世代の多くは、東京でなければ仙台に出て暮らしている。まあ、この私にしてからが田舎を出て関東で暮らしているわけで、妹も同様。そのため、私の実家は父と母が亡くなってからは空き家になっている。

こうなってしまうと、実家の近所は 10年ぐらいの間に空き家ばかりになってしまうに違いない。地方都市の地価はこれからどんどん下がり続けるはずだから、U ターン、I ターンはとてもやりやすくなるはずだが、それでも田舎に住もうという人はそれほど多くない。

日本創成会議が今年 5月に発表したところによると、2040年までに日本の自治体の半数は消滅する可能性があるというのだが、それが現実感をもって迫ってきたわけである。日本では山中の村だけじゃなく、いっぱしの地方都市でも限界集落的様相になってしまうのだ。

発表によると、人口減少が最も深刻な東北では、青森県では 40自治体のうちの 35が消滅する可能性がある。以下、岩手では 33のうちの 27、宮城では 35のうちの 23、秋田では(何ということか!)25のうちの 24、山形では 35のうちの 28 が消滅しそうだということになっている。なおこの報告書では、原発被害の深刻な福島県は除かれている。

県庁所在地といえども安泰ではないようで、青森市、秋田市が消滅危険都市になっている。じゃあ、25自治体のうち 1つしか残らない秋田県ではどこが残るのかというと、八郎潟の干拓によってできた大潟市だけなんだそうだ。じゃあ、大潟市が秋田市を吸収合併して「新秋田市」を名乗って県庁所在地にならないとも限らないのか。

山形県では 35のうち 28が消えて、7自治体が生き残るというので、数少ない 10万都市の 1つである我が酒田市は一応大丈夫かと思っていたが、やっぱりダメなんだそうだ。いやはや、さすがにじいさん、ばあさんだらけだものなあ。

それどころか、庄内地方の 2市 3町はすべて生き残れない可能性が高いということで、エラいことである。じゃあ、庄内地方は、まとめて「庄内市」とでもなるしかないのか。いや、生き残ってもその何年後かにはまた危機的状態に陥るのか。

東北地方ばかりではない。今私が暮らしているこのつくば地域にしても、じいさん、ばあさんの比率がやたら高くなっている。我が家の向こう三軒両隣を含む 20軒ぐらいでも、今では還暦を過ぎたどころか、70歳以上の人たちばかりになり、夫婦揃っているのは、我が家を含めて 5軒だけだ。

向かいの家なんかは、最近ご主人が亡くなり、奥さんは認知症でどこかの施設に入っている。子供が 1人いるのだが、結婚してどこかに行ったまま、顔も見せない。空き家ではまだ電話を解約していないようで、時々ベルが空しく鳴り続けているのが聞こえる。まさに「限界集落」の様相を呈していて、やはり 10年以内に、ほとんどが空き家になるだろう。

とまあ、こんな状態で、日本全体をみても人口は減少し、大都市以外では人がいなくなるのだから、今さら原発再稼働なんてする必要があるとも思われない。さらに当事者の JR 東日本が「採算割れ確実」と言っているリニア新幹線なんて、作るだけ馬鹿馬鹿しいだろう。

こうなったら、少ない人口で余裕の出た国土を、大切にしながら暮らすライフスタイルを確立しなければならない。余計な開発をしたところで、それを維持する労働力が期待できないのだから、慎ましい暮らしに戻るしかないではないか。

かといって、何もかも昔の暮らしに戻る必要もない。今では IT やインターネットもあるのだから、慎ましくも活発な暮らしができるはずなのである。ただ、あまり余計な贅沢をしなければいいだけなのだ。

 

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2014年8月19日

今の世の中のブームって

『アナ雪」がブームなのだという。ただ、『アナ雪」なんて言われても、何のことだかわからない人の方が、実は多いんじゃないかと思う。正式の邦題は『アナと雪の女王』だっけか。これなんかも。米国在住の emi さんはだいぶ経つまで、"Frozen" のこととは知らなかったそうだ(参照)。

老若男女を含めれば、多分日本人の半分以上は『アナ雪』をはっきりとは知らないだろう。私もよく知らない。知ってる人でも、その半分ぐらいは原題を知らないだろうし、ましてや「レリゴー」って何のことだかわからない人は日本人の大多数だろう。

それでも『アナ雪』は、驚異的な大ヒットで、ブームなんだそうだ。いつの頃からか知らないが、日本人の中のほんの一部が夢中になるだけで、「ブーム」と呼ばれるようになった。日本人の大多数は興味なしの対象でも、メディアで煽ってテレビに何度も露出させさえすれば、「ブーム」ということになるのである。

日本人の大多数がフツーに知ってることよりも、一部に認知されて、マスメディアにどんどん登場すれば、「ブーム」である。何となく、安易なことではあるなあと思うのだよね。

 

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2014年8月18日

エルニーニョと季節感

先月 26日に、この夏に発生するとみられていたエルニーニョが、秋以降にずれ込む模様という記事を載せたが、さらに最新情報では、秋以降に発生する可能性も低くなっているようだ。

夏に発生すると聞いた時は、「久しぶりにしのぎやすい夏になりそう」と、内心喜んでいたが、あっさり裏切られた。さらに秋以降に発生するなら、「暖冬になるかも」と期待していたのだが、それもまた望み薄ということのようなのである。このところのエルニーニョ予想は、こう言っちゃナンだが、オオカミ少年みたいである。

もっとも、エルニーニョが発生しても、必ずしも冷夏や暖冬になるとは限らないようだ。2009年の夏から秋にかけて発生した時は、確かに 2000年代に入ってから最高の冷夏となった。

ところが 2012年の夏から秋にかけての発生では、西日本と北日本の日本海側で猛暑・暖秋となった。一昨年のことだから、まだ記憶に新しいだろう。私も、この年の 8月 末に北海道の小樽に行った時、32度を超える暑さになった。「北海道に行けば一息つける」と期待していたのに、「ちっとも涼しくないじゃないか!」とがっかりしたのを覚えている。

今年の夏も、エルニーニョが発生していたとしても、本当に冷夏になったかどうかなんて、誰にもわからない。案外猛暑になって当てが外れていたかもしれないし、西日本にいたっては現状でも雨が多くて、猛暑日が連続するほどには地面が暖まらない。自然現象というのは、なかなかわからないものである。

ところで前にも書いたことだが、今年は旧暦では「閏 9月(長月)」があって、つまり 9月が 2度あることになる。新暦でいえば、今年は 9月 24日の秋分から、11月 21日まで、延々と 2ヶ月近くも旧暦の 9月が続く。

旧暦の 9月といえば、季節感としては「晩秋」にあたる。旧暦というのはなぜか日本の季節感に沿うようにできていて、どういう理屈かはよくわからないが、閏月があると、その季節感が長く続く傾向がある。

そういえば、2009年のエルニーニョで冷夏になった時は、閏 5月があって、五月雨の季節、つまり梅雨がなかなか明けなかったのだった。今年、旧暦 9月が長く続くということは、晩秋を思わせる季節感が長く続くということになるのかもしれない。趣きのある秋になれば幸いである。

 

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2014年8月17日

田舎の親戚との付き合い

旧盆の時期である。東北生まれの私にとっては、お盆といえば旧盆のことで、7月にやる新暦のお盆なんて、まるで実感がない。で、毎年この時期の前後に帰省するため、自然の成り行きで田舎の親戚や先祖のことを考えるようになっている。

ただ田舎に行っても、私の父母の兄姉というレベルの親戚は年々亡くなって少なくなり、生き残っている叔父、叔母も、私がたまに顔を出すと喜んでくれるが、見事なまでに年寄りの風貌になってしまった。いとこは関東や仙台で暮らす者が多く、帰郷してもなかなか全員には会えない。

いとこたちにたまに会うと、やはりそれなりの年齢の風貌になっている。その子供たちとなると、顔と名前を一致させるのも大変だ。一族郎党が近場で寄り添って暮らしているのでない限り、21世紀の世の中で親しい親戚付き合いを継続させるのはなかなか難しい。

ところで、6年前の「祖父母が 3人ずついる私」という記事で書いたように、私の母は私が子供の頃に一緒に暮らしていた祖父母の養女であり、父はそこに婿養子に来た人である。だから私には、一緒に暮らしていた血のつながりのない祖父母の他に、父方と母方にそれぞれ祖父母がいる。

で、子供の頃は「ウチはやたらと親戚が一杯いるなあ」と思っていた。普通は親戚といえば父方、父の母方、母方、母の母方という 4方向に広がるが、私の場合は、祖父方、祖母方、そして父方、父の母方、母の実父方、母の実母方と、6方向に親戚がいたのである。

幼い子供には、こんな複雑な関係の理解は難しい。その上、それぞれの家風というか、雰囲気がやたらとバラエティに富んでいて、自分のアイデンティティがどこから引き継がれたものか、さっぱりわからなかった。自然と分裂気質的になるのも仕方がない。

父と母の家系は田舎としては知的なところがあったが、祖母は「浜の衆」の漁師の家の出で、無学だった。私は小学校に入る頃まで、祖母は読み書きができないのだと思っていた。実際に字の読み書きをするのを見たことがなかったからである。

で、当時付き合いのあった親戚関係でも、祖母の関係だけは、私の父と母でさえも、どんな親戚かよく理解していなかった。祖母に「あの親戚とは、具体的にはどんな関係なのか」と聞いても 「オヤグよ」(庄内弁で「親戚だよ」)としか説明してくれなかったからである。

まあ、無学な祖母としては、自分でも親戚関係を詳細には把握していなかったのか、あるいは把握していたとしても、人に説明することができなかったのか、そのどちらかだったのである。

だから私は、「彼女は、祖父の妹の旦那の先妻の娘」とか、「彼は母の実母の本家の総領息子の長女の旦那」とか、「あの人は父の母方の従兄弟」とかはわかっていても、祖母の系統だけは、祖母の妹の家の者以外は、「よくわからんが、ばあちゃんの親戚らしい」としか言えないのである。いわばブラックボックスなのだ。

というわけで、祖母の関係の親戚付き合いはだんだんと希薄になっているのも無理からぬところかもしれない。祖母の親戚は筆無精が多いようで、年賀状のやり取りすら思うに任せないし。

そんなわけで、お盆に帰省しても、忙しい時間を縫ってまでこちらから顔を出そうという気にも、なかなかなれないのである。まことにこの世は不常である。

 

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2014年8月16日

負けが見えた時の、ほろ苦さと甘酸っぱさの入り交じった感覚

野球はそんなに好きというわけではないので。甲子園野球も大して興味はもっていないのだが、昨日の昼頃、たまたま明徳義塾高校と奈良智弁学園の試合を途中から見てしまった。両校とも優勝候補にあげられており、1回線での対戦はもったいなさすぎと言われていたらしい。

途中までは接戦で、さすがに強豪校同士の対戦らしい様相だった。この両校ぐらいになると、選手も大舞台に慣れているのが態度でわかる。ようやっとの思いで甲子園出場にこぎつけたぐらいのチームだと、選手たちも少々おどおどしていることがあるが、両校の選手は度胸も据わって堂々としたものである。

7回までは智弁が 1点差を追う展開で、両雄ともに譲らぬなかなかいい雰囲気だった。このくらいの強豪校になると、自分が負けるなんて思ってないから、萎縮せずに伸び伸びとしたプレイができる。なかなかのものである。

ところが、7回裏に明徳が代打 3ランで 4点差とし、さらに加点して一時は 7点差をつけると、相手の智弁がさすがに勢いをなくしてしまい、プレーが緩慢になってしまった。

スポーツの勝負は、体力や技術とともに、メンタル・コントロールが求められる。10回戦ってもせいぜい 6勝 4敗ぐらいの結果に終わりそうな、紙一重の差の勝負だと、最後はメンタルの強さで勝つしかない。ところが、追い込まれてしまうとメンタルはとたんに弱くなる。

私も経験があるが、ある程度勝負が見えてしまうと、リードされている側は「気持ちよく負けるための心の準備」に入ってしまうのである。それは負けて必要以上に惨めにならないための、自己防御本能によるのかもしれない。当然にも無意識の作用ではあるのだが、とにかく、「美しい敗者」になるための準備に入るのだ。

何といえばいいのか、ほろ苦いような、甘酸っぱいような心持ちになってしまい、「俺も、ここまでよく頑張ったよ」なんて思いが、脳裏を駆け巡る。そうなるとアドレナリンの分泌が止まってしまったようになって、それ以上の力を発揮することができなくなるのだ。

智弁学園の、8回からの動きは、最後にホームランが 1発出たものの、まさにそんなような、ほろ苦さと甘酸っぱさの入り交じった感じのものだったように思う。これまで負けたことがあまりない強豪校でも、負けが見えてしまうと、やはりそんなような状態に陥ってしまうのだ。

昨日の試合を見ていて、私には野球の勝負そのものよりも、高校球児たちのメンタルの動きが強く印象づけられてしまったのである。

 

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2014年8月15日

原爆の悲劇を世界に知らせるための、ドンキホーテ的試み

産経新聞に「【鈍機翁のため息】」(「ドンキホーテの〜」 と読むらしい)というコラムがある。筆者は桑原聡という建築家で、ちょっと前まで雑誌『正論』の編集長も務めていたらしい。

私はこのコラムを全然意識していなかったのだが、8月 13日付の「間奏 II キホーテのような山本夏彦」というタイトルに釣られて読んでみた。「間奏 II」というのだから、「間奏 I」も当然あるはずで、それは前日の「間奏 I エノラ・ゲイ搭乗員の死」というものだった。

2回連続のコラムは、日本が独立を回復した昭和 27年の夏(この夏に私は生まれたのだがね)に発行された 「アサヒグラフ」に載った広島原爆投下直後の写真について、故・山本夏彦氏が昭和 54年に 「原爆記念日を期して私はこの写真を千万枚億万枚複写して、世界中にばらまきたい」 と書いたことを紹介している。

桑原氏が「夏彦がこれほど感情を露わにした文章を書くのは珍しい」と書かれているように、確かにいつもの山本夏彦節ではない。特別の思い入れを感じる。彼は次のようにも書いているという。

無数の航空機に満載して、いっせいに飛びたって同日同時刻、アメリカでヨーロッパでソ連で中国で、高く低く空からばらまきたい。

言うはやすく行うは難いと言うな。正体不明の航空機は撃ち落されるなどと言うな。その気があって万難を排せば出来る。『赤十字』のしるしをつけたらどうか。ただ日本人にそれをやる気がないだけである。

山本夏彦氏が、米国軍による広島、長崎への原爆投下に、尋常以上に強い憤りを覚えていたことを物語るものである。

考えてみればまさにその通りで、これは「過ちは繰り返しません」みたいなきれい事では済まない。今の世の中で、いくら戦争状態にあるとはいえ、10万人規模の民間人を犠牲にする原爆投下なんてことをやったら、国際世論でどれだけボコボコにされるか、一瞬でいいから考えてみるがいい。

山本夏彦氏の提唱した「写真を飛行機でばらまく」というアイデアは実行されなかったが、今の世の中にはインターネットというものがある。インターネットでの拡散を呼びかければ、彼の言った写真の多くは、世界中に見てもらうことができるはずだ。

というわけで、山本氏の遺志実現に曲がりなりにも協力する意味で、原爆写真のグーグル検索結果に飛ぶためのリンクページを作成してみた。下手に編集するより、検索結果を生のままで出す方がいいと思ったので、あえてシンプルなものにした。

世界中にみてもらうためなので、説明は英語で書かれている。原爆の悲惨さを訴求する画像ページは決して少なくないが、終戦記念日の今日、私のサイトもその中の一つとして連なろうと思う。

こちら をクリックすると、そのページに飛ぶ。よろしければ、拡散にご協力いただきたい。

 

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2014年8月14日

妙に美し過ぎる理想を掲げたブラック企業の落とし穴

いわゆる「ブラック企業」に関する話題で、最近 2本の記事を書いた。「従業員を大切にしない会社は生き残れない」と「ブラック企業が頓挫する原理」である。どちらも、ワタミとゼンショーについて批判的に論じたものである。

2本ももっともらしい記事を書いてからこんなことを言うのもナンだが、後者の記事にきっしーさんがコメントを付けてくれたように、どちらも  「デフレ経済のあだ花みたいなビジネスモデル」 である。そう一言で言う方が、あっさりと納得できる。

きっしーさんはさらに、 「(ベンチャー企業ならば)シリコンバレーのハイテク企業のように、ある程度の規模になったところで経営の専門家に経営を任せれば良かった」とおっしゃっており、常識で考えれば、まさにそういうことになる。私がゼンショーの創業者だったら、さっさと会社を売り飛ばして責任を免れ、のんびりと老後を楽しむ。

ところが、彼らにはそうできない理由があった。どちらも「妙に美しすぎる理想」を掲げていたかららである。ワタミの創業者、渡邉美樹氏 (「ワタミ」って、自分の名前の省略形だと、最近初めて気付いたよ) なんかはその典型で、やたらと美しい精神論をぶちたがる。

彼の精神論好きは、Wikipedia によると、次のような活動につながっている。

公益財団法人みんなの夢をかなえる会の理事長を務め、「夢溢れ、ありがとうが飛び交う社会の実現」を目的に、2010年4月より講演活動として「みんなの夢シンポジウム」 を仙台から沖縄まで、日本各地で開催した。また、2010年12月には、若者の夢を支援する 「みんなの夢アワード2010」 を東京の日比谷公会堂にて開催した。

渡邉氏の講演なんか聞くと、彼が愛と理想にあふれた素晴らしい人物のように感じられて、多くの人は感動しまくるそうである。またゼンショーの小川氏にしても、「世界から飢餓をなくす」などと高らかに公言し、フェアトレード事業にも関わっておられるようだ。

こんなような「美しすぎる理想」を掲げてしまうと、自分の創業した会社を経営のプロにまかせるなんてことはできなくなる。そんなことをしたら、自分の掲げた理想なんかあっさり忘れ去られてしまうだろうから。

ところが現実には、渡邉氏は若者を「夢も希望ももてない状態」に追い込み、小川氏は「世界から飢餓をなくす」前に、日本のバイトを搾取しまくったことになる。彼らにしてみれば、こうした言われ方はもろに心外だろうが、このような理想と現実のギャップは、一体どういうことなのだろう。

ある意味、彼らの「美しい理想」は、実際に行っているブラックな企業活動の「隠れ蓑」として機能していたのだろう。「ウチの会社は、こうした理想実現のために邁進しているんです!」と思えば、少々の理不尽なんか、彼らにとっては大した問題じゃない。理想実現のために多少の自己犠牲が求められるのは当然だ。

ところが、別の視点からすると順序が逆で、彼らの掲げる理想は初めから「あこぎな経営の隠れ蓑」として用意されたものと見ることができる。不平や不満を抑え込むための必殺兵器、水戸黄門の印籠みたいなものだ。

純粋な理想論が先にあったのか、あるいは元々は従業員の不平不満を抑えるための目くらましのようなものとして、周到に用意されていたのか、それは今となっては誰にもわからない。

「ブラック企業と呼ばれるのは心外」とコメントしている本人たちは、今でも、少なくとも意識的には「純粋な理想」と思っているのだろう。だが無意識的には、あこぎな経営の免罪符として利用していなかったとは言わせない。

まあ、美しい理想がこうした「隠れ蓑」や、「めくらまし」「免罪符」として利用されるというのは、とても主観的な問題で、世間的にはそんな機能はちっとも果たしていなかった。果たしていたとすれば、それは経営者自身のメンタリティの中だけである。

ただ、経営者のメンタリティにこんなような免罪符がしっかりとあるものだから、会社が大きくなって社会的な責任を果たすべき存在になってからも、当然気付くべきところに気付かないできてしまったのである。

「美しすぎる理想」を恥ずかしげもなく公言し、その実現のために他人にまで自己犠牲を求め、過重な仕事を押しつけ、多様な価値観をもつ余裕を軽んじる人に対して、私は自然に身構えてしまうのだよね。

 

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2014年8月13日

Apple の従業員構成と、カタカナ英語を巡る冒険

"Apple も白人男性中心の従業員構成 - 「満足していない」と Cook 氏" という記事の見出しだけを読んだ時は、「90%ぐらいが白人男性なのかな」と思ったが、記事の本文を読むと「白人 55%、アジア系 15%、ヒスパニック 11%、黒人 7%」なんだそうだ。私が思ったほどの白人中心ではないようだ。

昔、勤務先(外資系)で参加が義務づけられていた英語クラスで、Microsoft が本社敷地で開いた社員参加による野外パーティのビデオを見たことがある。これを見せてくれた英語講師(英国人)が、「これをみて何か気付いたことがないか?」と質問したが、多くは「敷地が広い」とか「料理がうまそう」とか「さすがに知的な雰囲気」とかのコメントしか出なかった(もちろん、全部英語でのやり取り)。

一通りのコメントが出てから、その講師は「本来気付いて欲しかったのは、参加している社員が白人ばかりだということ」と言い、他の多くの企業で従業員の人種構成が多様化しているにもかかわらず、「IT 企業は白人中心の構成になっているのが特徴」と説明してくれた。

日本という国の中で仕事をしていると、従業員の人種的多様性なんてことを考えることは滅多にない。「男女比率をまともにしなければ」とか「障害者の雇用を促進しなければ」と考える企業があれば、それは先進的と思われるぐらいのレベルだ。

『ダーリンは外国人』という漫画で、作者(ダーリンの日本人妻)が、外国人である夫を友人に紹介した時、 「外国からいらしたんですか?」と聞かれた夫がガーンと驚いて、「どうしてわかったんですか!?」と叫ぶシーンがある。「どうみても外国人だろうが」といったツッコミが書かれているのだが、このあたりがまさに、カルチャーギャップである。

米国では、米国人か外国人か一目でわかるなんてことはあり得ない。そして米国人(米国国籍をもつ者)でも、ルーツによって "I'm Japanese" とか ”Italian" とか言っている。どうみても日本人の顔立ちの私も、ニューヨークの通りで、白人にしょっちゅう道を聞かれる。お上りさん同士でも、米国人かどうかなんてわからない。

そうした国だから、Apple では白人男性が 55%であっても、CEO の「まだ満足していない」という発言につながるのだ。日本の企業も日本人比率を大幅に減らせなんて無茶はいわないが、せめて女性の比率はもっと高まっていい。

ところで「多様性」を表す英語 ”diversity" を、近頃のメディアはなぜかカタカナで「ダイバーシティ」と書くが、私はこれについて前から疑問である。この英語の発音のマジョリティは「ディバーシティ」に近いと思う。

「ダイバーシティ」と発音する人も確かにいて、私の経験では、オーストラリア人に多い。しかしながら、そもそも強いアクセントは第二音節にあるから、たとえ 「ダイバーシティ」 と発音したとしても、頭の 「ダイ」 はとても軽くあっさり、しかも曖昧に発音されがちで、明確な二重母音には聞こえにくい。

まあ、この単語だけを取り出して、「これって、どう読む?」と聞いたら、ことさらはっきり「ダイバーシティ」式に発音するかもしれないが。フツーの会話の中ではそんなにはっきりとは言わないことが多い。

「ダイバーシティ」なんていうカタカナが一人歩きするようになったので、テレビなどでは「シ」にアクセントをおいて「ダイバー・シティ」(飛び込みする人たちの街?)という妙な言い方をする人が少なくない。私はこれが気になってしょうがないのである。もしかして、これって、お台場の「Diver City 東京」のせいか?

ついでに言っちゃうが、"mobile" も、本当は 「バ」にアクセントをおいた「モバイル」 とは聞こえない。どう聞いても「モゥバル」あるいは 「モゥボー」 (アクセントは最初の「モゥ」にある)だ。もし「モゥバイル」と言っているとしても、アクセントの関係で「バイ」の部分は曖昧になり、明確な二重母音には聞こない。それは上述の  "diversity" と同様である。

その意味で、私はカタカナ表記は「モービル」でいいんじゃないかと思っていたのだが、今はもう圧倒的に「モバイル」になってしまったので、渋々従っている。「ダイバーシティ」もそうなってしまいそうだが、"diver city" とは絶対に言わない。

 

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2014年8月12日

ブラック企業が頓挫する原理

日経ビジネスのサイトに、「ゼンショー会見のデジャブ 調査報告書から見えてきたワタミとの共通点」という記事がある。この記事で記者は、ワタミの桑原社長の次の言葉を引用している。

「ワタミが小さかった時代は、無理してでも働くという文化があった。ベンチャー企業ってそういうのも必要で、それがエネルギーになった面もある。でも、もうワタミは大きくなってそれじゃあ許されない。規模に合わせて会社の体制を変えていかないといけないということです」

「何を今さら」という気もするが、まあ、ようやくそこに気付いただけ救われている。そしてゼンショーの場合もこれとよく似ている。記事中の小川社長のコメントについての部分も引用しておこう。

「私が何もかも見られるのは300店まで」。小川社長は会見でこう限界を認めた。

こちらも「ようやくそこに気付いたか」 というようなお話だ。ただ小川社長が「何もかも」見ていたかどうかは、多いに疑問が残る。本当に見ていたら、すき家の店舗の壁に "Sukiya is delicious" なんてむちゃくちゃな Engrish が書いてあるのを、東大に学んだ小川社長が見逃すはずはないだろう (参照)。

日経の記事は一般論として、カリスマ的な創業社長が、それまでの「イケイケドンドン」的な姿勢でやっていけるのは、300〜400店舗の規模までだとしている。この数字に具体的な根拠があるとも思われないが、まあ、とりあえずそういうことにしておこう。

そして「ブラック企業」と呼ばれることに関しては、ワタミの桑原社長も(そして創業者の渡辺会長も)、ゼンショーの小川社長も、今でも甚だ不本意に思っていることが、コメントの端々からうかがわれる。

「会社が小さな頃は、社員が心を一つにして頑張ってきて、それでこんなにうまくやってこれたのに、会社が大きくなって人材雇用の面でも社会貢献ができるようになった途端に、馬鹿な世間の無責任な『ブラック企業』呼ばわりで営業妨害されるんだから、こっちの方が被害者だ」と言わんばかりの本音が感じられるのである。

そして従業員の悲鳴には耳を傾けず、権威ある第三者機関の調査報告書の勧告には、初めて案外素直に従う姿勢をみせている。これなんか、「2人とも、相手によってずいぶん態度を変える(つまり、弱い者の声には耳を傾けず、強い者には仕方なく従う)人だなあ」 という印象を与えるお話である。

これについて、昨日の自分の記事との関連で考えてみる。私は次のように書いている。

専門紙誌記者としてのキャリアを積んできた私の知る限り、「いい会社」の特徴というのは、意外に聞こえるかもしれないが、経営者が顧客のことよりも、従業員の幸せを第一に考えているということだ。(念のために断っておくが、「従業員さえ幸せならいい」と、排他的に考えているわけではない)

私のいう「いい会社」と、ワタミやゼンショーの社長の考える「いい会社」というのは、どうやら基本的に違うようなのである。私の考える「いい会社」とは、規模の大小にかかわらず、経営者と従業員との関係が良好で、状況変化に柔軟に対応しながら、きちんと利益を出し、社会貢献もできている会社である。

しかしワタミやゼンショーの社長は基本的に、「規模」を追い求めた。そして、社員は会社のためなら大きな自己犠牲を払って当然と思っているようなのだ。だって、その見返りとして「自分の属する会社の規模的発展」という見返りがもたらされるのだから。

しかし「規模的発展」という見返りがあったとしても、それがどれほどのものだというのだろうか。それは大きな自己犠牲の見返りに値するものなのだろうか。私にはどうしても、そうは思われない。

ましてや、ある程度の規模になってから入社してきた新しい従業員にとっては、そんなことはどうでもいいことだ。創業当初からの役員たちにとっては十分に「見返り」ととらえられてきた幻想が、ある時期からまったくのナンセンスになってしまったのだ。

これはワタミやゼンショーみたいな、「従業員全員に過度の自己犠牲を求める」体質の企業にとっては避けられない問題である。つまり創業当初の理念には、会社の運営が一時的にうまく行けば行くほど、やがて顕在化する問題が内在していたである。

彼らは、「自分たちは正しく、従業員としてそれに付いて来れないやつは間違っているのだから、使い捨てにして当然」と思っていた。おおっぴらに公言しなくても、確実にそう思っていたとしか考えられない。しかし人を使い捨てにした経営者は、やがて社会から使い捨てにされる。晩節を汚すのである。

そして言うまでもないが、昨日の記事で触れたような、規模がそんなに大きくないくせに従業員の不満が爆発するような会社は、論外である。

 

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2014年8月11日

従業員を大切にしない会社は生き残れない

"with news" というサイトに、「すき家バイト店員の不満が異常なレベル 再生の契機になるか」という記事がある。このアンケートは内部調査を行った弁護士らが、全国約 33,000人のアルバイト店員のうち 468人を対象にして実施したもので、回答率は 49%だったそうだ。この回答率、ちょっと低すぎないか?

で、結果はその 84%強が「労働環境に不満があった」「オペレーションが回っていないと感じることがあった」と答えている。サービス残業もかなりあり、実際の労働時間通りに申請すると上司から指導されたり、勝手に改ざんされたりする例もあったという。

私の知り合いの息子が、大学を出てからすき家の親会社であるゼンショーホールディングスに就職したが、1年持たずに辞めたと聞いた。「このままいたら、人間として壊れてしまいそうで、辞めた」という。その息子は私の知る限り、「結構真面目ないい奴」という印象なので、「相当酷いんだな」と思ったものである。

ゼンショーホールディングス社長兼会長の小川賢太郎という人は、東大で全共闘をやったという経歴をおもちだそうで、インタビューの動画などをみても、まあ、「優秀な人」という印象だ。ただ、優秀な人ならいい経営をするというわけでは、必ずしもない。

話は変わるが、7年前に死んだ母の三回忌のなおらいで、私の田舎の料亭に親戚を集めて昼食を摂ったことがある。その店の評判は事前に聞いた限りでは結構よかったのだが、実際はひどいもので、完全に失望したのである。

料理の量だけは常人の食える 3倍ほど出たが、どれも冷えていてまずい、飲み物を頼んでもなかなか出てこない、従業員に何を聞いても頼んでもトンチンカンで、トイレの場所を聞いても答えられない。

その上、座敷までの通路と階段にわけのわからない荷物がどっさり積まれていて、狭くて歩けない等々、本当に呆れた。何を食ってもおいしい酒田という土地の料亭で、失望したのは初めての経験だった。もうこの店には 2度と来るまいと思った。

その店のウェブサイトで客の書き込む掲示板をみると、最初のうちは多かった「おいしい」「満足」という書き込みが、時間軸に沿ってどんどん少なくなり、直近の反応は「ひどい」「失望した」「客をなんだと思っているのか」というものばかりになっている。

後で聞いたところによると、その店は開店当初は評判がよく、ランチタイムなどは行列ができるほどだったらしい。ところが従業員を大切にしない社風であったらしく、開店時の優秀なスタッフの不満が爆発して、ごっそりといなくなってしまった。それで、「昨日や今日のスタッフ」 ばかりになってしまっていたというのである。

料亭とか、まあ、中級程度以上の飲食店の世界では、従業員を大切にしない店は結局、このようにして客をも大切にしない店に成り下がってしまうのである。この店はやがて潰れてしまったようで、今は別の店になっている。

ところが、すき家のような大衆店というか、安さが売り物の店では、客はことさらなサービスを要求しない。早く、安く、腹一杯食えさえすればいいと思っている。だから「従業員は大切にしないが、客の要望にはそれなりに応えている」という結果になり、「あんな店、もう二度と行かない」なんてことにはなりにくい。

すき家の問題がここまでこじれてしまったのは、そのためである。従業員は不満一杯なのだが、客まで不満をもつことはまれなので、一見「繁盛している」という様相が継続していた。それで、経営者はいいと思っていたのだろう。

ところがここに来て、少しは景気が上向きになったといわれたとたんに、従業員が我慢しなくなった。バイトが「こんな店、やーめた! と言い出して、従業員不足による閉店が相次いだ。安過ぎる物にはそれなりの理由がある。誰かの犠牲によって、安くなっているのだ。

すき家は、デフレの世の中に最適化しすぎていた。状況への最適化は、求められているようでいて、実は危険なのである。ある状況にとことん最適化しすぎると、周囲がちょっと変わってしまっただけで、すぐにほころびが出る。

すき家は、内部は変わらなかったのに、外部が変わってしまったために大問題になった。「一貫した方針」といえば聞こえはいいが、実際には迅速に変わらないと、状況についていけない。

小川氏は 「すき家は今では社会的インフラになった」なんて言っていたらしいが、そのインフラが機能しなくなったということは、やっぱりお客にツケが回ってきてしまったと言っていいのである。

専門紙誌記者としてのキャリアを積んできた私の知る限り、「いい会社」の特徴というのは、意外に聞こえるかもしれないが、経営者が顧客のことよりも、従業員の幸せを第一に考えているということだ。(念のために断っておくが、「従業員さえ幸せならいい」と、排他的に考えているわけではない)

そのベースがあってこそ、従業員は安心して顧客へのサービスに専念できる。経営者は従業員の幸せを考え、従業員は顧客の幸せを考えるという分業が自然にできている。そして自然に顧客のロイヤルティも向上する。

ゼンショーにも、是非そうなってもらいたいものである。

 

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2014年8月10日

「儀式の挨拶=古典落語」論

誤解されるのを承知で言う。広島や長崎の平和記念式典みたいな儀式の挨拶原稿を、コピペ以外の手法で作るのは難しい。これは自信を持って言う。本当に本当に難しいのだ。嘘だと思ったら、自分でやってみるがいい。

「冒涜」とか「がっかり」とか、批判する方は案外気楽だが、スピーチを作る側の身にもなってみるがいい。同じテーマで毎年新しい話をしなければいけないなんてことになったら、そりゃ、大変な作業になってしまう。しかも年を追うごとに難しくなる。

原爆に関するオフィシャルなコメントの「望ましいあり方」って、客観的にみればものすごく制約が多い。そこから外れたことを言ってしまったら、それこそ何を言われるかわからない。とにかく原爆投下というのは、デリケートすぎるほどのテーマなんだから。

こればかりは完成されたフォームに則って、当たり障りのない挨拶になってしまいがちだ。それがいけないというなら、このテーマに関していきなり斬新な視点の挨拶が登場しても、決して感情的な非難をせずに冷静に受け取ると約束することだ。しかしこれは、かなり高いハードルである。

これまで踏襲されてきた価値観とか解釈とかは一切変えずに、その上で、毎年新しいバリエーションを開発するなんてことは、めちゃくちゃ難しい。とにかく、元々制約の多いものなんだから、それを毎年新たに考えろと言っても、その方が不毛と気付かなければならない。

譬えとしてふさわしくないと言われるかもしれないが、恒例の式典の挨拶は、古典落語みたいなものでいいんじゃないかと私は思う。話の内容は、聞かなくても初めからわかっている。わかってなきゃおかしい。初めから予定調和だ。そしてわかっていても、「話芸」で聴衆が納得する。そんなようなものととらえる方がいいんじゃないか。

表面的な修辞を工夫したり「てにをは」を変えたりして、姑息な形で「新しい原稿」をでっち上げるよりも、いっそ美しい完成形に多少の変化を加えながら延々と繰り返す方が実り多いと思うのである。

私はこういうのを「黄金のマンネリズム」として、高く評価するものである。この「黄金のマンネリズム」のパフォーマンスを見事にこなせる政治家が滅多にいないのは、残念なことである。

 

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2014年8月 9日

平和記念式典での首相のコピペ挨拶を巡る冒険

6日に広島市で行われた平和記念式典での安倍首相の挨拶が、ほとんど昨年のコピペだとして一部からの批判を呼んでいる。

Huffington Post の「検証記事」によると、なるほど、昨年の挨拶とほとんど同じだ。前半は、昨年の「68年前の朝」が「69年前の朝」に変わっただけでまったく同じ。まあ、この挨拶文を作成した官僚にしてみれば、冒頭ではこの部分さえ変えれば、あとは儀礼的な挨拶だし、OK と思ったのだろう。

ちなみに「儀礼的」では済まない後半部分では、最近の安倍内閣の実績をアピールしており、完全コピペというわけではない。そして結びの部分はやはり儀礼的に、昨年とほとんど同じ文章で締めてある。

この問題を最初に Twitter に投稿したのは、上川あやさんという世田谷区会議員で、「安倍首相の平和祈念式典スピーチが去年と同じ!? ありえん!という話題」と書いている。この上川さんというのは、性同一性障害であることを公表した上で立候補され、上位当選しているという、なかなかおもしろそうな人である。

ただ、「ありえん!」と言っていいかというと、決してそういうわけじゃない。平和記念式典に限らず、恒例儀式でのエラい政治家の挨拶なんて、大抵は官僚が前の年の原稿を元に、チョイチョイっと編集して作文するものだ。だから大抵はこんなものである。

儀式の挨拶の文章を自分で作りたがるのは、私の知る範囲では、市立や区立の小中学校の卒業式に来賓として出席するヒラの市会議員とか区会議員とかである。ただ、そういう人たちの挨拶は往々にして、ちょっと説明不足で意味不明の部分があったり、逆に思い余ってクドくなりすぎたりする。

上川さんは多分「自分で文章を作る派」で、Twitter などで書き慣れていて、まともな挨拶ができる方なんだろうが、フツーはそういう作業に慣れた役人に作文させる方が無難だと考えられている。下手に議員先生に任せると、つい失言なんかしかねないしね。

今回の安倍首相の挨拶でも、「蝉時雨が今もしじまを破る」という修辞的な部分が、当日は本降りの雨だったためきちんと削除されていて、我が国の官僚はそつなく天気予報まで意識していることがうかがわれる。

まあ、決して誉められたことではないが、平和記念式典に限らず、大抵の儀礼的な挨拶文というのはそんなようなものだということである。それがいかんということになると、もう才能あるスピーチ・ライターを雇うしかない。

私個人としては、スピーチ・ライターの起用に大賛成なのだが、この国では儀礼的な挨拶は決まり文句で済ませればいいと思われているフシがあって、クリエイティブな挨拶なんて求められていない。ところが、たまに上川さんのようなユニークな人がそれを求めると、急に尻馬に乗る人が現れる。

このコピペ挨拶に関して、広島県原爆被害者団体協議会の某事務局長は、「被爆者や国民を冒涜している」と批判したというのである(参照)。だが、作文した官僚が「軽く見すぎちゃった」というのは明らかだけれど、「冒涜」とまでは言い過ぎなんじゃなかろうかと、私なんか思ってしまう。

団体事務局たるもの、関係者が死ぬ度に、 NTT の用意した既成の文例(例の 4桁数字で済むやつ)を使って、ほとんど同じ文面の弔電を、理事長名で打ったことがないはずはないと思うのだが、それを「冒涜」と言われちゃ、かなわないよね。まあ、お互い様である。

 

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2014年8月 8日

朝日の従軍慰安婦関連記事への韓国の反応が、わけわからない

私は昨日、朝日新聞の従軍慰安婦関連の記事への韓国からの反応について、「これまでの行きがかりからすれば、『朝日新聞までが安倍内閣からの圧力に屈して、歴史を歪める方向に舵を切った』 というような論調になるのではないかと思う」と書いたが、それはどうやら間違いだったようだ。

韓国としては、朝日新聞をあくまでも盟友関係におく方が得策とみているようで、今回の記事をむしろ好意的、積極的に評価する傾向が強いらしい。敵の敵は無理にでも味方にしておく方がいいということだ。

7日夜の時点で検索した限りでは、韓国での反応について触れているのは、なぜか夕刊フジのページ(参照)だけである。その内容がどうもわけのわからないものなのでちょっと不満なのだが、ほかに情報が見当たらないので、しかたなくそのまま引用してみよう。

(韓国の)各紙は「慰安婦」と「挺身隊」の混同や誤用、吉田清治氏の虚偽証言に基づいた記事の取り消しなど、朝日新聞が誤りを認めた部分を引用して報道しつつも、誤報そのものは問題視しなかった。むしろ、「朝日新聞、安倍(首相)に反撃」(朝鮮日報)などと、一連の釈明や主張を代弁したり肯定的に評価したりする報道が目立った。

(中略)

慰安婦と挺身隊の混同に関しては、「朝日は、一部が誤っていたとしても慰安婦問題自体を否定することはできないとした」と伝えた。また、「朝日の今回の記事は、『慰安婦の強制動員はなかった』という考えを持つ安倍首相への直撃弾でもある」と主張し、朝日の報道を支持した。

(中略)

この誤報が日韓関係や国際社会での対日観に及ぼした重大な影響には触れず、「潔い反省だ」と評価した。

というわけで、ここから読み取られることとしては、慰安婦問題に関する朝日のこれまでの一連の報道が誤報に基づいたものだったと認めたことは、「潔い反省」であって問題にするに足らず、それよりも「従軍慰安婦問題自体が否定できない事実」としていることの方を、重視しているようなのである。

さらにすごいことに、従軍慰安婦問題に関する最も重要な根拠が否定されたにも関わらず、どこをどう読むとそんなことになるのか、「今回の記事は、『慰安婦の強制動員はなかった』という考えを持つ安倍首相への直撃弾でもある」というのである。日本人でそんな風にとらえているのは、100人に 1人もいないと思うのだが。

かくの如く、一見論理がめちゃくちゃだが、韓国の反応も、それを紹介している夕刊フジも、どちらも「結論ありき」というところから出発しており、それにどちらも翻訳を介してどうのこうの言っているわけなので、よく整理されているとは思われない。客観的にはどういうことになっているのか、見極めが難しいところである。

いずれにしても韓国側の反応が、夕刊フジの記事から読み取れる分に関しては、論理はめちゃくちゃだが、ヒステリックさ加減に関しては思ったほどじゃないみたいなので、「これからの推移に注目したい」なんて常套句でお茶を濁すに、ちょうどいい案配じゃないかと思うのである。

 

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2014年8月 7日

従軍慰安婦問題の今後

朝日新聞のこれまでの従軍慰安婦問題に関する記事を虚偽と認めた特集に対して、韓国からの表立っての反応はまだほとんど紹介されていない。もしかしたら翻訳に手間取っているのかもしれないが。

どう対応していいか、戸惑っているのだろうが、いずれにしても完全シカトはあり得ないから、そのうちどっと出てくる。これまでの行きがかりからすれば、「朝日新聞までが安倍内閣からの圧力に屈して、歴史を歪める方向に舵を切った」というような論調になるのではないかと思う。

しかし、今回朝日が屈したのは、安倍内閣からの圧力というよりは、「世間の空気」というものを読んでしまったからだろうと、私はみている。朝日は日本国内に向けて日本語で書かれているのだから、読者の主力はあくまでも日本人なのだ。

朝日はその主力読者である日本人に、公然と「チョーニチ新聞」なんて揶揄され始めたのである。このままでは部数減少に歯止めがかからなくなる。朝日内部でも、そうした危機感が表面化しつつあるのではあるまいか。

ちょっと前まで、「日本の良心」は、先の大戦中の日本の「蛮行」を真摯に反省して、謝り続けることにあった。そうでないと、「周辺諸国」に申し訳がないというのである。それが知的でリベラルなインテリの、望ましい態度だった。

ところがふと気付けば、実は「周辺諸国」のほとんどが日本贔屓であり、「反日」は中韓の 2国しかない(北朝鮮は、この際、無視)ことがバレてしまった。さらに中韓の 2国はこう言っちゃなんだが、「周辺諸国」の間でも、どちらかと言えば歓迎されない役どころである。

というわけで、「日本の良心」が依って立つところのバランス関係の認識が、北朝鮮を「地上の楽園」なんて言っていた前世紀後半とは、がらりと変わってしまった。そうなってしまうと、朝日は結構「空気を読む」のである。

その一方で、朝日が国内向けの日本語媒体で少しばかり間違いを認めたところで、国際的な影響力は小さい。「従軍慰安婦問題はガセネタでした」と言っても、慰安婦像の建設を認めた米国のセンチメントがすぐに大きく変わるなんて期待できない。朝日の影響力なんて、その程度のものである。

朝日は自分でどう思ってるか知らないが、国際的には決してクォリティ・ペーパーと認められていない。前世紀のことだが、朝日のファッション担当編集委員だった某女史が、「日本政界のベストドレッサーは、土井たか子」とマジに力説するのを聞いて、「まあ、そういう新聞なのだから、しょうがない」と思ったものだ。

今回の朝日の特集は、右側からは「日韓関係をこじらせた張本人のくせに、ちっとも謝罪になっていない」と攻撃されているが、その「どっちつかず」加減が、現状では図らずもちょうどいい緩衝材となっていると考えることもできる。あまり真摯に突っ込みすぎると、韓国はヒステリックなまでのカウンター・キャンペーンに出るだろう。

嘘でも百回言えば本当らしいものになってしまうのが、世論というものである。ましてや国際世論となると、海の彼方の本当のことなんて、誰も知らないのだから、少なくとも短期的には、大声でしつこく言い続ける者が有利となる。

ところが大声で叫べば叫ぶほど、事実関係の理解が徐々に浸透するにつれて、韓国の立場は損なわれるだろう。そのあたりのことを、韓国が冷静にわきまえることができるかどうかが、今後の課題なんだろうと思う。

 

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2014年8月 6日

自転車で右側通行すると、交通事故で死ぬ確率が 2倍になる

先月の 20日と 21日に、自転車の右側通行が後を絶たないことについて述べた。

自転車のマナー
無法自転車について、さらに論じてみる

茨城県つくば周辺では、どうも「自転車は左側通行」という原則を知らない人が多いようなのである。それで、我が家の周辺の生活道路では、見かける自転車のほぼ 100%が右側通行なのだ。歩行者意識で自転車に乗っているので、あぶなくてしょうがない。

昨日付の中日新聞に、静岡県の今年上半期の自転車事故での死亡数が、昨年に比べて半減したという記事が載っている。これは、自転車の左側通行が徹底されたことによる効果と見られている。

自転車が右側通行すると、車の通行している道路の左側レーンを逆走することになる。これはかなり危ない。とくに狭い道で対向車がある場合は、逆走してくる自転車を避けるには、ストップするしかない。さらに暗い夜道で無灯火の自転車が逆走してくると、本当に「そんなに死にたいか!」と怒鳴りたくなるほど危ない。

また交差点などでは、自動車はまず、右を見て左を見、そしてもう一度右を見て安全確認するように指導される。まず右を見るのは、車両は左側通行なので、出会い頭の危険は右側から迫ってくることが多いためだ。ところが、自転車が右側通行すると、想定外の左側から突っ込んでくる。まさに「ヒヤリハッと」の典型例になる。

中日新聞の記事によると、交差点の出会い頭事故など、右側通行の自転車が起こした事故は前年比で 40.4%減少したという。これもまた、自転車の左側通行が徹底されたことによる顕著な効果といえるだろう。

つまりこれらのデータを逆からみると、自転車が右側通行すると、交通事故で死ぬ確率が 2倍になり、交差点で事故を起こす確率は 1.7倍になるということである。これはどんなに強調してもしすぎということはないだろう。

とはいいながら。やはり、こうした情報が全体に徹底されるということは期待できないと、私は思っている。経験則からして、情報を受け取らない層は決して受け取らないのだ。彼らは情報を「拒否」しているというわけでは決してないのだが、それでも届かないのである。先月 21日の記事に、私は次のように書いている。

「拒否」しているというわけじゃなく、「無意識だから届かない」のである。無意識だから、当然受け取るべき情報を自分はきちんと受け取っていないということに、気付いていない。だから、「あ、こりゃいかん」と反省することもできない。そしてその無意識さ加減は、命に関わる情報でも変わらないのである。

というわけで、こうした類いのことは、意識的に情報を受け取った者が、率先して気を付けるしかない。敏感な人が鈍感な人を守ってあげなければならないのである。そして鈍感な人は、敏感な人のおかげで死なずに済んでいるということにも、気付かない。こればかりは、もう、しょうがないのである。

 

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2014年8月 5日

朝日新聞の 「従軍慰安婦問題」 記事について

ネット界隈は、朝日新聞の「従軍慰安婦問題」に関する自社記事の取り消し問題でもちきりである。済州島における「強制連行」は、吉田清治という人の「証言」を元に、朝日が繰り返し報じていたのだが、そうした事実を裏付ける証拠はなく、今になって彼の証言は虚偽であると判断したのだそうだ。(参照

この吉田清治という人の発言は、元々「怪しすぎる」とか「でっち上げ」とか言われていて、詳細に調べれば調べるほど、「強制連行はあった」という立場の人でさえ「ねつ造」と判断するというほどのものだから、いつまでも「本当にあったこと」と言い続けるのは、いくら何でも無理と判断したのだろう。

朝日の自社記事の検証は 2日間に渡る連載となるとのことである。ということは、まだ明日付の記事を読まないと、結論的にどうこう言うことは控えなければならないだろう。

ただ少なくとも、朝日の内部で、これまでの「エモーショナルな正義派気取り」から姿勢を転換しなければならないとの意識が、少しは高まりつつあるのではなかろうかとの推察が働く。そうでないと、読者の支持を得にくく、部数も減少するばかりになる。

背に腹はかえられない。そして姿勢を転換するのは、今しかない。今のうちにそれをしておかないと、後になってからでは傷が大きくなりすぎるだろう。

大学に入学して東京で一人暮らしを始めた頃、つまり昭和40年代後半のことだが、私は毎日新聞を読んでいた。今では信じられないことだが、当時は一人暮らしの大学生も、当然の如くに新聞を購読していたのである。

毎日新聞にしたのは、実家がずっと毎日であの紙面構成に慣れていたし、中学生時代にワンマン編集していた学級新聞が、毎日新聞主催のコンクールで最優秀賞を取ったこともあり、なんとなく親近感を覚えていたのだ。

ところが世間では、「インテリは朝日新聞を読むもの」とされていた。で、私は自分を典型的インテリとは思っていなかったが、まったくインテリじゃないとも決して思っていなかったので、試しに朝日を 1ヶ月ほど購読してみた。

ところが、「こんなの読んでいたら、こっちまで馬鹿になってしまう」と思って、すぐに毎日に戻った。「馬鹿になってしまう」と思った理由は、上述の通り「エモーショナルな正義派気取り」が鼻につきすぎたからである。

かといって、一方の雄の読売新聞は「だってしょうがないじゃない」式のオヤジ趣味が強すぎるので、しかたなく毎日に戻ったのである。内容的に心からしっくりくるわけでは決してないが、紙面構成という点からすれば、今でも毎日が一番きれいで読みやすいと思う。

で、「従軍慰安婦問題」の話に戻るが、朝日が「おとぎ話」から脱して 「現実」(「真実」とは敢えて言わない)をきちんと見る路線に変更するというなら、「読んでいてこっちまで馬鹿になってしまう」ということもなくなるかもしれないと、少しは期待しているところである。本当にそうなるには、まだ時間がかかるだろうが。

 

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2014年8月 4日

「マックス・コーヒー」 を生まれて初めて飲んでみた

Img_9498 「マックス・コーヒー」というものを、還暦過ぎにして、生まれて初めて飲んだ。

このコーヒー、一部では 「チバラキ・コーヒー」として知られており、最近までは千葉県と茨城県のみの限定販売だった。現在は全国販売されているらしいが、やはり東京や神奈川などの自動販売機ではなかなかお目にかかれない。

どんなコーヒーかというと、とにかく「激甘」というのである。私は普段でもコーヒーはブラックで飲む人だし、フツーの缶コーヒー、あるいは 「微糖」 と表示されたものでも甘すぎて閉口する体質である(参照)。だから茨城に引っ越してきて 32年以上経つというのに、今日の今日まで恐ろしくて指を触れることすらできなかったのだ。

ところが、昨日某所で早朝から行われた共同の草刈り作業に参加し、一段落したところで、このマックス・コーヒーというものが一同に振る舞われたのだ。さすが茨城県である。手にした時は、「うわぁ、とんでもないものをもらっちゃったわ!」と驚いたものの、捨てるのももったいない気がして、つい自宅に持ち帰って、冷蔵庫に入れてしまったのである。

Img_94999そして今朝、自宅の庭の片付けをして汗をかき、何か冷たいものでも飲もうと冷蔵庫を開けたところ、このマックス・コーヒーが鎮座ましましていたのである。この時、私の「物好き心」が、ふと頭をもたげた。

生まれた時から茨城に住んでいるネイティブの連中が、「わが心のコーヒー」とし、異常なほどの入れ込みをみせる(だから、ジョージア・コーヒーの傘下になんかなってしまったのかも) マックス・コーヒーの味がどんなものか、一度試してみようと思ってしまったのである。

おそるおそるプルトップを開け、口に含んでみると、うむ、確かに甘い。だがそれほど異常なほどの甘さではない。幼い頃に飲んだことのある瓶入りの「コーヒー牛乳」をさらにもう少し甘くした程度の味である。これならまったく飲めないこともない。もしかしたら、朝から一汗流した後なので、体がガテン系に傾いていたのかもしれない。

ただ、飲み終えてみると口の中が妙に甘ったるくねばつく気がして、ついうがいをしてしまった。やはり、二度と飲むことはないだろうと思ったのである。そもそも缶コーヒーというものを飲む習慣が皆無なので、死ぬまでにもう一度これを飲む確率は、限りなくゼロに近い。

【同日 追記】
そういえば、「マックス・コーヒーを常温で飲むのが好き」というやつがいた。

今年 2月に「ホットミルクはなぜ甘いのか」で書いたように、人間の舌は、冷たいものを口にすると甘さを感じにくいという。ということは、マックス・コーヒーを常温で飲んだら、それはもう、もだえるほどに甘いのだろう。

冷やして飲んでよかった。

 

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2014年8月 3日

蝉の鳴き声と夜蝉の動向

この夏は近所でうるさいほど蝉が鳴いている。私のもう一つのブログ「和歌ログ」はこういう花鳥風月的な話をよく記録しているので、試しに検索したら、今年は 6月 27日に蝉の初鳴きを聞いている(参照)。この辺りとしては、早いほうだろう。

さらに調べてみると、当ブログの昨年の 8月 1日の「セミの声」という記事で、「セミがよく鳴くか鳴かないかというのは、どうやら地域差が大きいらしい」という話に続けて次のように書いている。

この一昨年の夏にしても、我が家の周囲ではよくセミが鳴いていたが、昨年の夏は鳴き始めるのがとても遅かった。ところが他の地域の人に聞くと、「よく鳴いてるよ」と言うのである。ローカルな感覚だけでは、全体は推し量れない。

ちなみに、今年の我が家周辺は、セミがよく鳴いている。もしかして、これって我が家の梅の木の実のなり具合と同様に、1年おきなのかしらん。長期的に記録していないので、よくわからないけど。

ここ 2〜3年、我が家の周囲では蝉の鳴き始めるのがやたらと遅かったような印象があるが、改めて自分の書いた文章を調べ直すと、それは一昨年(平成24年)に限ったことだったとわかる。すると、この年の印象がやたらと強かったもののようだ。どうやら、一年おきというわけでもないらしい。

ところで、「夜蝉」という言葉があって、私としては自分の造語だと思っている。別にそうでなくても構わないのだが、ちょっと前まではこの言葉でググっても、私のページ以外は 1件もヒットしなかったので、勝手にそう思っているだけだ。

ちなみにこの言葉は、今でも一般的には認知されていない。試しに「よぜみ」と入力して変換してみるといい。「代ゼミ」しか候補がないから。

ところが近頃は夜に鳴く蝉もそんなに珍しいものでもなくなったようで、ググると何件もヒットするようになった。街灯やネオンなどの夜間照明が増えたせいで、本来は昼しか活動しないはずの蝉が、暗くなっても鳴くようになったようなのだろう。

ところが今年、我が家の周囲では、日のある内はガンガン鳴いても、夜になるとぴたりと鳴き止むのである。ネオンやことさらな夜間照明が減ったのだろうか。もしそうだとしたら、いいことである。省エネの視点でも、静かに眠れるという点でも。

【8月 5日 追記】
「我が家の周囲では、日のある内はガンガン鳴いても、夜になるとぴたりと鳴き止む」と書いたが、昨夜ちょっと近所に用があって出向いたところ、夜の 9時半頃になっても盛んに「ジジッ、ジジッ」と鳴いていた。夜になって蝉がおとなしくなるのは、我が家の周辺だけとわかった。

「セミがよく鳴くか鳴かないかというのは、どうやら地域差が大きいらしい」というのは、夜蝉に関しても同様のようなのである。

【2024年 7月 18日 追記】

「夜蝉」というのが「自分の造語だと思っている」なんて書いてしまったが、それは勝手な思い違いだったと判明した。なんと俳句の季語として前々から認知されているようなのである。知らなかった!

https://www.weblio.jp/content/%E5%A4%9C%E8%9D%89

ただ、本当に 2010年頃までは「夜蝉」でググってもヒットしなかったのだよね。

 

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2014年8月 2日

旧暦の七夕

実は今日は七夕である。こんなことを言うと、頭がおかしくなったのかと思われるかもしれないが、本日は旧暦の 7月 7日。ということは、正真正銘の七夕である。これこそが本来の七夕なのである。

前々から何度も書き、今年の新暦の七夕の日の記事でも書いた(参照)ことだが、七夕とお盆は、新暦でやるのは季節感がおかしすぎる(実は「ひな祭り」もそうだが)。今どきの子どもたちにとって、七夕は「夏の初めに、短冊に願い事を書いて飾る行事」になってしまっているのが、ちょっと悲しい。

東北生まれの私としては、せめて「月遅れ」でやってもらいたいと思うのである。有名な仙台の七夕は、月遅れの 8月 7日に行われる。ちなみに普通の年の七夕は、月遅れでもちょっと早すぎるぐらいのものだが。

歳時記では、七夕は秋の季語である。普段の年だと、立秋になってすぐぐらいが、七夕の季節感である。まだまだ暑いことは暑いが、日が暮れてしまえば少しは涼しい風も吹き始めるというのが、七夕の季節感なのだ。

今年は旧暦の進行がちょっと早めなので、珍しく立秋の前に七夕になってしまった。立秋は 8月 7日で、まだまだ暑い。とはいえ、立秋以後は「残暑」ということになっている。昨今は暑すぎる残暑が延々と 10月になっても続くことになるが、これは温暖化のせいである。

ちなみに、前述の如く今年はとくに夏以降、旧暦の進行がはやくなってしまっているが、閏 9月を入れることで調節するようになっている。つまり、旧暦では今年は 9月が 2度あるのだ。

この閏月をいつ入れるかというのも、厳密な計算によって決められていて、旧暦の 9月、つまり晩秋が 2度あるということは、今年は秋の季節感が楽しめる時期が長いということになるのかもしれない。

 

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2014年8月 1日

童話 『おおきなかぶ』 の教訓

"童話 「おおきなかぶ」。あの巨大カブが抜けなかった理由" というのが、一部ネット界隈で話題になっている。Twitter で ことぶきや さんという方が、「【おおきなかぶ】 抜けない理由がシジイに有ることが判明」 と tweet されたのが発端だ。

Ihttps://pbs.twimg.com/media/Btv75CVCIAEjEEk.jpg

福音館書店発行のロングセラー絵本『おおきなかぶ』をみると、確かに、最初にかぶを抜こうとしたじいさんが、かぶそのものに足を乗せて葉を引っ張っているのがわかる。なるほど、これでは抜けるわけがない。

この絵本、我が家でも子供たちが小さな頃に読み聞かせしていたのだが、さっき探してみたところ、どうしても見つからなかった。読み聞かせていた頃は、「この絵は、ちょっとまずいよなあ」と思いつつ、子供たちにツッコミをいれられないか、ちょっとヒヤヒヤものだった記憶がある。

幸か不幸か、我が家の娘たちは誰もツッコミをいれなかったが、成長した今になってこの絵本を読んだら、確実に「このじいさん、ちょっとおばかだよね」と言い出すに違いない。

とはいいながら、じいさんの後から引き抜きゲームに参加した連中にしてみれば、じいさんをくっつけたまま、まるごと引っこ抜いてしまえばいいわけだから、最後まで抜けないという理由にはならない。このじいさんはちっとも役に立っていないだけで、自らは地面に固定されているわけじゃないので、「絶対に抜けない状況」を作っているわけじゃないのだ。

作業の阻害要因としては、自分の体重分だけ重くしちゃってることと、後ろから引っ張る連中が真横に引っ張るしかなくなって、ベクトル的に効率的な作業ができなくなっているという点である。確かに、「ちょっとおばか」には違いない。

それでも最後にはこのじいさんも、ようやく自分の足が邪魔しているということに 薄々ながら気付いたらしく、かぶにかかっているのはつま先程度になっている。これなら、むしろ支点として作用するかもしれない。さらにネズミにまで加勢を頼んで、ついに抜けてしまうのだから(参照)、結果オーライとしておこう。

この童話の教訓は、次のようなことである。

【教訓 その 1】
そもそもじいさんは、かぶを必死に引っ張るのでなく、かぶの周囲から掘り起こせばよかったのだが、そこに気がつかなかったために、大変な手間がかかった。このように、プロジェクトに最初にトライした人間がちょっとおばかだと、解決するのに大変な手間がかかる。事前の検討は、非情に重要である。

【教訓 その 2】
とはいえ、最初の方向性が多少「おばか」だったとしても、人海戦術という「力技」で対処すれば、なんとかなることもある。もしかしたら、あれこれ考えているよりも手っ取り早かったりするかもしれない。収拾が付かなくなるリスクも大きいが。

【教訓 その 3】
本来は天敵であるはずのネコに頼まれたネズミまで、この引っ張り作業に参加しているというのは、ちょっとほろりとさせるものがある。争いよりも協力が実り多いものになる。

【教訓 その 4】
最後の最後にネズミが加わったことで、ようやくかぶが抜けたということは、「あともう、ほんの少しの力」で達成されることがあるということを示す。ものごとがうまくいくか、いかないかの分岐点は、かくまで微妙なものである。それゆえ、最後まで諦めてはいけない。

【教訓 その 5】
それにしても、このかぶの葉っぱの丈夫さは尋常じゃない。

以上。

おまけとして、この絵本の読み聞かせ動画をどうぞ。

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