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2014年8月10日

「儀式の挨拶=古典落語」論

誤解されるのを承知で言う。広島や長崎の平和記念式典みたいな儀式の挨拶原稿を、コピペ以外の手法で作るのは難しい。これは自信を持って言う。本当に本当に難しいのだ。嘘だと思ったら、自分でやってみるがいい。

「冒涜」とか「がっかり」とか、批判する方は案外気楽だが、スピーチを作る側の身にもなってみるがいい。同じテーマで毎年新しい話をしなければいけないなんてことになったら、そりゃ、大変な作業になってしまう。しかも年を追うごとに難しくなる。

原爆に関するオフィシャルなコメントの「望ましいあり方」って、客観的にみればものすごく制約が多い。そこから外れたことを言ってしまったら、それこそ何を言われるかわからない。とにかく原爆投下というのは、デリケートすぎるほどのテーマなんだから。

こればかりは完成されたフォームに則って、当たり障りのない挨拶になってしまいがちだ。それがいけないというなら、このテーマに関していきなり斬新な視点の挨拶が登場しても、決して感情的な非難をせずに冷静に受け取ると約束することだ。しかしこれは、かなり高いハードルである。

これまで踏襲されてきた価値観とか解釈とかは一切変えずに、その上で、毎年新しいバリエーションを開発するなんてことは、めちゃくちゃ難しい。とにかく、元々制約の多いものなんだから、それを毎年新たに考えろと言っても、その方が不毛と気付かなければならない。

譬えとしてふさわしくないと言われるかもしれないが、恒例の式典の挨拶は、古典落語みたいなものでいいんじゃないかと私は思う。話の内容は、聞かなくても初めからわかっている。わかってなきゃおかしい。初めから予定調和だ。そしてわかっていても、「話芸」で聴衆が納得する。そんなようなものととらえる方がいいんじゃないか。

表面的な修辞を工夫したり「てにをは」を変えたりして、姑息な形で「新しい原稿」をでっち上げるよりも、いっそ美しい完成形に多少の変化を加えながら延々と繰り返す方が実り多いと思うのである。

私はこういうのを「黄金のマンネリズム」として、高く評価するものである。この「黄金のマンネリズム」のパフォーマンスを見事にこなせる政治家が滅多にいないのは、残念なことである。

 

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コメント

tak-shonaiさんごきげんよう~
おはようございま~す

わはははははは・・とってもうがっています~~
私もそう思っていました~~うふふふふ・・
ほんとうに・・・ちょっと違うことでも言おうものなら
ツイッターなどでどんな謗りを受けるでしょうか!!
けんのんけんのん


投稿: tokiko6565 | 2014年8月11日 07:47

tokiko さん:

同じように思っている人がいると知って、安心しました (^o^)

投稿: tak | 2014年8月11日 10:07

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