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2014年9月 1日

がんの告知について

ちょっと前までは、がんの患者に病名を告げることは滅多になかった。私の妻の母は、23年前に肺がんで亡くなったが、当時は本人への告知はほとんどタブー扱いだった。告知したとたんに患者は絶望し、自暴自棄になってしまうと信じられていた。

しかし当時、妻の家族は自分の病名も知らずに死んでいくことがとても理不尽なことに感じられ、本人に告知したいと病院に申し入れた。病院側は当初、かなり驚いたようだったが、家族のたっての望みと知り、「それでは極めて稀なケースですが、患者の精神的状態がいい時を見計らって告知しましょう」ということになった。

で、告知してみると、義母は少しも取り乱すことなく「まあ、やっぱりそうだったのね」と受け入れ、絶望することなどなかったという。病院側の心配は、とても大げさすぎることのように思われたのだった。

そして今は、ほとんどのがん患者に、病名を告知するようになっているらしい。私の父が 3年前に肺がんで亡くなった時も、当然のように告知した。変われば変わるものである。

この変化の要因は、医学の進歩によってがんが決して「不治の病」ではなくなってきたことが大きいと言われている。5年後の生存率がかなり高まったので、告知しても患者を絶望の淵に突き落とすことがなくなったというわけだ。

しかし、決してそればかりではないのではないかと思う。というのは、治癒の可能性が極めて低い末期がんの患者にも、平気で告知するようになったからだ。私の父も既に末期だったのだが、当然のように告知された。

父は何が何でも生きていたいという妄執には無縁の人で、かなり前から「自分の人生には満足していて、思い残すことは何もない。いつ死んでもいい」と言っていたぐらいなので、心静かに告知を受け入れた。絶望なんてことは少しもなかった。

まあ、父は少し変わっていたのかもしれないが、それほど特殊なケースでもないと思う。治癒の可能性が低くても、がんと告げられてどうしようもないほど取り乱す人は少ないのではなかろうか。

それは、がんという病気が全然珍しくないものになって、日本人の 2人か 3人に 1人はがんで死ぬようになったということが大きいのではないかと思う。「自分だけじゃない」ということが、「皆さん、そうなさってますから」と言われれば素直に従う日本人の特質にマッチしているのだろう。

昔の日本人は今ほど平均寿命が長くなかったから、大抵はがんで死ぬ前にほかの病気で死んでいた。しかし今は、多くの病気が治せるようになり、半数以上の人はがんになるまで死ななくなったのである。言い換えれば、人はがんで死ぬまで待たなければならなくなったのだ。

こうなると、ある程度の年になってしまえば、がんを告知されても別に身の不運を嘆くようなことでもない。「ついに自分の順番が回ってきたか」ぐらいの感慨で済んでしまう。つまり、がんを告知するようになったのは、それが「とてもありふれた死因」になったからだと思うのである。

 

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