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2014年9月14日

ブログの文体 − 段落ごとの行数の変化

「ワープロで書くと文体が変わってしまう」なんて言う人は今どき少なくなったが、それでもまだ、根強く生き残っている。私はこのことについて、11年も前に次のように書いている。(参照

ワープロで文体が変わってしまうのは、それはワープロを使っているのではなく、ワープロに使われているというだけの話である。

これに対して、毛筆で書くのとボールペンで書くのとでは、確かに文体が変わるのであり、同様にワープロで書く場合でも変わるはずだと主張する人がいる。しかし、これも虚言である。

毛筆で書く時に文体が変わるのは、毛筆という道具によるのではない。改まった文体で書く必要がある時に、毛筆を使う場合が多いというだけのことだ。

文章を書く道具、筆、万年筆、ボールペン、鉛筆、ワープロ等々によって、文体が変わってしまうのではない。人は文章を書く目的によって、道具を使い分けるのである。書く目的が違うのだから、文体が変わるのは当然だ。道具によって文体が変わるというのは、順序が逆である。

私は改まった手紙を書く時には、Word で下書きし、それを和紙の便箋に毛筆(実は筆ペンだが)で清書することがある。いきなり筆で書いたりしたら大抵途中で書き損じてしまい、紙の無駄遣いになる。毛筆で清書する文章の下書きを Word でするのだから、「書く道具によって文体が変わる」なんていうのは、お笑い草である。

上述の記事の最後を私は、「はっきり言わせてもらえば、ワープロごときで文体が変わってしまうなどというのは、実は、その人は『文体』と称するに足るスタイルを、元々持ち合わせていなかっただけなのである。単にそれだけのことだ」と結んでいる。この考えは今でも変わらない。

この ”Today's Crack" というテキストは、10年以上前は現在の「ココログ」というブログ・システムを使っておらず、「知のヴァーリトゥード」 という自分のサイトの中で、「日記」的なものとして書いていた。

この当時から、基本的に行の最初の字下げを行わず、段落ごとに少し行間が空くというスタイルである。これはブログとしてはもっともスタンダードなスタイルではあるが、ブログが誕生する前から、私は同じスタイルでテキストを書いていたことになる。

これは私が、外資系勤務時代にこのスタイルに慣れてしまったということが大きな要因だ。インターネットの標準は英語のテキストであり、私はそのスタイルにどっぷりと使っていたので、英語だろうが日本語だろうが、自然にこうなったのである。

ただ、冒頭のリンクをたどって 11年前のページを見てもらうと気付かれると思うのだが、当時のテキストは段落ごとの行数が短い。大抵は 3行以内で段落を切っている。時々 4〜5行に渡ってしまう時があるが、それはなるべく控えるようにしていた。

それは「読みやすさ」に配慮したからである。当時の PC ディスプレイは SVGA(800 × 600)が主流になっていたが、VGA(640 × 480)というのもまだまだ残っていた。

この程度の解像度だと文字は大きく表示されるが、その分、画面が文字でべったり埋まってしまう感覚になる。文字が大きいからといって読みやすいというわけでは、決してない。このうっとうしい「べったり感」を和らげるため、なるべく段落を変えて、空間を作るように心がけていたのである。

しかしその後、XGA(1024 × 768)を経て、今では UXGA(1600 × 1200)以上が当たり前になり、横幅の広いワイド画面も増えた。これだと、別に頻繁に段落を変えなくても、そんなにべったりとした感じにはならない。そしてフォントやスタイルシートの改良もあり、適度の行間も考慮されて、段落が長くなってもそれほど読みにくくはなくなった。

それで近頃は、4〜5行の段落になっても、安心して書き進めている。ただ、6〜7行以上の段落になるのは、できるだけ避けている。紙媒体だとかなり長い段落でもそれほど読みにくいということはないが、ディスプレイだと、長すぎるのはやはりうっとうしい。老眼が進んできている自分を基準にしていることもあり、やはり段落は 5行までに抑えたいのである。

ただし、スマホの狭い画面だと、平気で 10行ぐらいになることがあるのは、お許しいただきたい。この場合は、1行あたりの字数が少ないので、行数が増えても、それほど読みにくくはならないと思う。

というわけで、発表するメディアによって、意識して少々文体を変えるというのは、十分に「あり」だ。書く手段によってではなく、読む手段に合わせるのだから、私としては当然のサービスと思っている。

ちなみに、文語のブログ記事という実例があることを紹介しておく。私の 2008年 4月 11日から 13日までの、3本の記事である(参照 1参照 2参照 3)。これくらいのことは、何のストレスもなくすらすらとできた。文体が道具によって規定されるわけではないという、何よりの証拠である。

それに、私は ATOK の文語モードを知る以前から、ブログ上で古語の和歌を詠んできたわけでもあるし (参照)。

 

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