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2014年10月17日

ロンドンの霧と、肩こりと、いじめと、セクハラ

産経新聞が 「小学校いじめ最多 暴力行為は1万件超す」と伝えている。平成 25年度に全国の小・中・高校と特別支援学校で認知されたいじめの件数は前年度より 1万 2千件余り減少したが、小学校では約 1400件増加し過去最多を記録したというのである。

この記事では、テキストよりも添えられたグラフの画像が興味深い。こんな画像である。(産経新聞より転載)

Photo

昭和 60年度がやたら多い理由はよくわからないが、61年度以後、7年から 11年ぐらいの間隔をおいて一気に急増しては、しばらく減少し続けるという傾向を繰り返している。これは一見すると不思議な現象だ。

いじめがある年にどっと増えて、その後減少し続け、またしばらくすると急に増えるなんてことはありえない。このグラフは、「報告されたいじめ」の背後に「報告されないいじめ」がかなりあるということを示しすものである。報告が時々急増するきっかけは、いじめを苦にしての自殺というニュースのようだ。

いじめによる自殺という事件があると、教育委員会や学校では本格的にいじめの調査に乗り出す。すると、それまで認知されていなかったいじめのケースが取り上げられて、どっと報告が増える。ところが翌年か翌々年になるとその熱が冷めて、また認知されなくなる。そして忘れた頃にまたいじめによる自殺のニュースが流れる。

いじめ対策が、いかに功を奏していないかを示すものといっていい。調べるだけ調べてみて、「これは大きな問題ですね!」と警鐘を発し、その後しばらくは、その甲斐あっていじめは減っていたかのように見える。しかし何かのきっかけで、影に隠れていたいじめが再び暴き出される。

いじめを苦に自殺した子供は、自分の身を犠牲にしてでもいじめ対策を社会に呼びかけたという点で、尊い存在である。しかしこの尊い存在も、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」式に、1〜2年経つと忘れ去られて元の木阿弥になってしまうのでは、申し訳がない。

どうも教育現場では(いや、教育現場に限らないが)、何か重大な事件が発生しないと根本的な対策が行われないという傾向があるみたいなのである。それまでは、「あっても見えず、聞こえず」ということになる。

見えなくて聞こえないものは、「なかったこと」にされてしまい、対策が執られないのである。なかったことにするために、敢えて「見ず、聞かず」という態度をとり続けるということだってあったようだ。

いつも問題にし続けないと、「なかったこと」にされる。だから、たとえうっとうしがられても、大切なことは大きな声で言い続けなければならない。問題にしないと問題じゃなくなるのだ。

「ロンドンの霧は、詩人がそれを言葉にするまでは存在しなかった」と言われている。人は、目の前に歴然として存在することでも、誰かがそれをしっかりと言葉にしてくれないと、まともに認識しないのだ。

「アメリカ人は肩が凝らない」と言われるが、それは「肩こり」という日本語ほど端的に肩や首のこりを表現する言葉が英語にないので、たとえ肩が凝ってもそれをきちんと認識できないからだという説がある。その証拠に、「肩こりなんてしたことがない」というアメリカ人の肩を揉んであげると、「ああ、気持ちがいい」となって、初めて自分の肩も凝っていたことに気付くという。

「いじめ」も同様で、いじめている子は「いじめ」と認識しておらず、ただ「からかっているだけ」とか「付き合わないで無視してるだけ」と思っている場合がある。それがとりもなおさず「いじめ」なのだという認識が薄いようなのだ。

やたら気軽に「結婚したらどうだ」と声をかけるのが、「セクハラ」だと思っていないオッサンが存在するのと同じである。こうしたオッサンがやたらと無神経な発言を繰り返さないようにするには、「セクハラって、お前のやってるそれだよ!」と思い知ってもらわなければならない。

同様に、学校の子供たちにも「お前らが軽い気持ちでやってるそれが、実は『いじめ』なんだよ。やられる方の身にもなってみろ!」と、何度も何度も繰り返して言わなければならない。そうでもしないと、よほどの暴力行為でもない限り、「自分はいじめなんてしたことがない」と思ってしまう。「肩こりなんてしたことがない」と思っているアメリカ人みたいに。

 

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コメント

昭和30年代に小学生だった私は、今にして思うと
あれは「いじめ」だったんだと思うことがあります。

まだ貧しい家庭があった時代です。

すり切れて汚れた服の子が、クラスに一人や二人はいました。

クラスのほとんどは、必要以外はその子と話すこともなく、
無視に近い状態だったと思います。

その一人の女の子が卒業間際に盲腸で入院したので、
クラスを代表して友人とお見舞いに行ったことを覚えています。

あれは「いじめ」だったんですよね。
申し訳ないことをしてたんだなと、時々、胸が痛くなります。


投稿: さくら | 2014年10月17日 16:20

さくら さん:

あとになってそう思うことができるのは、立派です。
お見舞いに行ってよかったですね。

投稿: tak | 2014年10月20日 14:39

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