柔道「講道館杯」と、割り切れない日本
NHK BS で、柔道の「講道館杯」決勝の何試合かを見た。気持ちよく一本で勝負の決まる試合もあれば、男子 90kg 級のように、両者が最後までほとんど技を出せず、片方がたった 1度の「指導」をくらったというだけで優勝が決まるという決勝もあった。
格闘技フリークの私だが、柔道にはほとんど素人で、専門的なことは言えない。しかし素人目で言えることを言ってしまうと、講道館杯というのは、他のメジャーな大会と雰囲気がビミョーに違う。いかにも「柔道そのもの」というスタイルが目立つ。
早く言えば、講道館杯の試合は、両者が案外簡単に組み合ってしまうのだ。昔の柔道はたいていそんな感じだったが、今の柔道は、有利な組み手になるために、離れ、振り払い、タックルまがいのことまでするというように、離れている時点で策の限りを尽くす。だから、講道館杯はタイムマシンに乗った柔道という印象だ。
柔道には「柔道と Judo という二つの競技がある」と言われる。別の言い方では「講道館式と国際式」ということになるのだろう。伝統的に美しく一本勝ちを狙う「武道としての柔道」と、とにかく勝つためにポイントを狙う「競技としての Judo」というのがあるというのは、確かに見ているだけでわかる。
日本では高校ぐらいまでの柔道部だと、伝統的柔道が優勢のようだ。せこくポイントを狙いに行ったりすると、「若いうちからそんな柔道をしたら、悪いクセが付く」なんて言って指導者に怒られたりするらしい。まあ、凡庸な柔道選手だったら、せこいテクニックに走るより人間形成にも役立つ「美しい柔道」を志向するというのもわかる。
ところが、下手に実力がついてトップクラスになってしまうと、今度は国際大会でも勝つために、急に「Judo への対応」をしなければならない。しかしある程度完成されたスタイルを身につけてしまってからそれを変えるというのは、かなり大変な作業である。
その意味では、ダブル・スタンダードで育てられる日本の柔道選手は気の毒である。他の国なら初めから「勝つための Judo」に徹すればいいのだろうが、下手に柔道の本家だけに、伝統的な価値観に縛られてしまうのだ。トップクラスになっても、講道館杯では伝統的な柔道までこなさなければならない空気があるし。
それだけに、別に講道館杯で優勝しなくても国際大会に出場できる実績のある選手は、ちょっとした怪我を理由に欠場する傾向があるような印象がある。「講道館杯で悪いクセが付いたら大変」なんて考えているのだとしたら、かなり問題だ。
柔道をみていると、「割り切れない日本」というのをものすごく強く感じてしまうのである。
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コメント
tak-shonaiさんごきげんよう~おはようございます~
そうですか
囲碁の大好きな私の夫も言っていますが、
日本の美しい形の碁の打ち方を中国の人々は
めちゃくちゃな力碁でせまってきて勝つのだそうで、
美しい日本の棋譜が乱れるとなげいていましたよ。
がんばれ日本!!
投稿: tokiko6565 | 2014年11月26日 06:34
tokiko さん:
ふうむ、「勝ちゃいいじゃないか」というのが中国流なんでしょうかね。
それを美しく上回って勝つというのが理想なんでしょうが、柔道でもなかなか難しいですからね。
投稿: tak | 2014年11月26日 11:26