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2014年12月に作成された投稿

2014年12月31日

良いお年を

いやはや、あっという間の大晦日である。しかも、ぐずぐずしている間にこの大晦日も終わってしまうではないか。年が明けたら早めに新年のご挨拶をアップしなければならないから、下手すると 12月 31日の記事が飛んでしまい、毎日更新が途切れてしまうではないか。

こんな風だから、年を取ると 1年が早く感じてしまうのだ。こないだ箱根駅伝を見たばかりのような気がしているのに、ふと気付けば明後日が新年の箱根駅伝である。本当にもう、1年って 1か月より早いぞ。

もうゆったりしている暇はない。年末ほど忙しい時はないのである。それもまた、普段にしっかりとやることをやっていないからだ。怠惰な自分を、1年に 1度だけ反省である。

というわけで、まずは皆様、良いお年を。

 

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2014年12月30日

年末年始は大荒れになるというので

天気予報によると大晦日は大荒れで、三が日は日本海側で大雪になるという。この雪は関東北部の山を越えて、下手すると平地まで積雪になることもあるというから、穏やかじゃない。

秋の終わり頃に、遅れてきたエルニーニョの影響で、この冬は暖冬になるかもしれないなんて言われていたが、とんでもない話で、少なくとも冬の入り口としては厳しいものになっている。

正月にクルマで東北や北陸の日本海側に里帰りしても、なんとかたどり着けるかもしれないが、戻って来れなくなる可能性がある。山形・秋田の新幹線だって、まともに動くかどうか、あまり期待できない。私はかなり前から、年末年始の里帰りは諦めている。

近頃の天気はこれまでの常識が通用しないんじゃないかというほど、極端な変化を見せる。CO2 の増加で「地球温暖化」などと言われ、平均気温は確かに上昇しているが、実感としては、暑いときはくそ暑く、寒い時はやたらと寒いという 「極端化」 に走っていると思う。

だから最近は「地球温暖化」というよりは「気象変化」という言葉がよく使われる。CO2 増加に警鐘を鳴らして今やお馴染みとなった IPCC も、正式名称は Intergovernmental Panel of Climate Change だから、「気象変化についての政府間パネル」である。「温暖化についての」ではない。

「温暖化」などというと、「地球が温暖化すれば、シベリアでも農作物が採れるようになるから、いいじゃないか」なんて、アサッテの方を向いたようなことを言い出す人がまだいるので、誤解を避けるために、この言葉は安易に使わない方がいいのかもしれない。

温室効果ガスがこのまま増え続けると、地球が満遍なく温暖になるのではなく、気象が極端化するのである。だから、農業のできる範囲が広がるのではなく、それどころかこれまで問題なく農業ができた地域でも、台風や干ばつなどの自然災害でまともな収穫ができなくなる可能性の方が大きいのだ。

というわけで、私は CO2 排出を極力抑えるために、できるだけ省エネに気を配っているわけなのでる。仕事部屋の暖房も、13℃ を下回らなければ作動させないというぐらいだ。「あんたが 1人ががんばったところで、効果は微々たるものだよ」と言う人もいるが、こうしたことは、まず自分がやらなければ始まらない。

「買わなきゃ当たらない」なんて言ってせっせと宝くじを買って、トータル赤字になりながらも「夢を買ってるんだ」なんて負け惜しみを言うくせに、環境問題になると「自分一人ががんばっても、意味がない」と、積極的に貢献しない人を、私は信用する気になれない。

というわけで、我が家の屋根にもようやく太陽光発電パネルが乗っかることになった。年明けの中旬頃に工事が行われる予定である。これまでは反原発を唱えても、自分のところで自然エネルギーによる発電を行っていないので、ちょっと引け目があったが、その状態から脱却できる。

「俺んとこでは、自前で電気作ってるんだ。文句あるか」と言えるようになるのは、重い足かせが外されるみたいに嬉しい。

 

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2014年12月29日

小さいが大きな意味のある変わり目の年だった

今年もいよいよ押し詰まったので、自分にとってこの 1年がどんな年だったのかと思い返してみた。

まず今年は 「なりたかった自分」を 2つ実現したことが、かなり大きい。1つ目は、1月に晴れて Mac ユーザーになったことだ。私は MS-DOS の昔から職場で PC を使っていて、20年前に初めて自分の PC を買ったときも、本当は Mac にしたかったのだが、仕事上の互換性を考慮して Windows 3.1 にした。しかしその間、ずっと「自分は Mac ユーザーであるべきだった」と、内心で思い続けてきたのである。

そしてこの 1月、ついに MacBook Pro を購入したのは、Windows 8 が死ぬほど使いたくない代物だったということもあるが、やはり「もうここらで、本当に自分の使いたいマシンを使うべきだろう」と思ったからというのが大きい。健康に生きれば、多分あと 20年は PC(あるいはその後継商品)を使うだろう。だったら、Mac にするのは今しかないと、心を決めたのだった。

で、結果的に、Mac にしたのは大正解だった。私は元々、PC を使って仕事をしている時でも、「パソコンしてる」と言われるのが嫌だった。「パソコンしてるんじゃなくて、パソコンを使って仕事をしてるんだ」と思ってきたのである。

Mac を使うというのは、まさにその感覚がしっくりくる。これで、もう 20年使うとしても、うっとうしさが先に立つことはないだろう。

なりたかった自分の 2つめは、「自転車乗り」である。今月になってからスポーツタイプの自転車を買った。以来、雨降りでなくて、片道 15km 以内なら、原則自転車を使うことにしている。

我が家は郊外というより田園地帯に近いところで、これまではどこに行くにもクルマを使ってきた。しかしそれでは無闇に CO2 を排出することになり、エコ派の私としては、内心忸怩たるものを感じていたのである。しかし自転車乗りになったおかげで、気持ちの枷が外れたような気分で、かなりルンルンで乗り回している。

買ったのがスポーツタイプだから、漫然たる乗り方はしない。常に限界近くまでの負荷をかけて、ゼイゼイ言いながらペダルを漕ぐので、最近は太ももがパンパンである。こうした乗り方をすれば、15km 先の目的地に行くのに、クルマだとほぼ 25分だが、自転車でも 45分で行ける。

たった 20分しか違わないのなら、CO2 を排出するのは申し訳ないし、自分の足でペダルをこぐ方が、気持ちもいい。おかげで、たった 3週間でウェストが結構減ったという気がしている。しかもウェストが減ったのに体重はそれほど落ちていないのだから、その分は筋肉が付いたのだろう。嬉しいことである。

というわけで、今年は私にとって、小さいが大きな意味をもつ変わり目の年になったと思っている。還暦を 2年も過ぎてこれだけ変われるのだから、まだまだイケると思っていいかもしれない。

 

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2014年12月28日

人口 1億人死守という幻想

政府が「人口 1億人維持へのビジョンと戦略」というものを正式決定したのだそうだ。これにより、「50年後に 1億人程度の人口維持」という目標実現に向け、国と地方の取り組みが本格的に動き出すらしい。

具体的なビジョンは、読売新聞の記事によると次のようなことだという。(参照

  • 東京圏への転入超過を解消することを当面の目標に、地方への企業移転を促す税制優遇、農林水産業の成長産業化などで、地方で若者の雇用を 30万人創出し、東京圏転入を13年比で年 6万人減少させ、転出を 4万人増やす。

  • 若い世代が希望通りに結婚・出産できれば、合計特殊出生率 (13年は1.43) が 1.8程度に上昇し、30~40年頃に人口が一定となる 「人口置換水準」 の2.07まで出生率を回復させれば、50年には 1億人程度の人口を維持できる。

個人的には、「東京圏への転入超過を解消」することが人口減少防止にどう役立つのか、急にはよくわからない。都会暮らしよりも地方で暮らす方が、子どもをたくさん作りやすいということなんだろうか。

もしその通りだったと仮定しても、「若い世代が希望通りに結婚・出産」できるようになり、出生率が 2.07まで回復するというのは、 単なる「期待値」に過ぎないとしか読み取れない。

それでなくても、政府が何か新しいことを始める時の裏付けとなる「期待値」というのは、大抵手前味噌な計算に基づくもので、まともに実現された例しがない。本気で受け取ってはいけないと思っている。

そもそも、50年後の日本に 1億人の人口が本当に必要なのだろうか? 人口は国力の基本になると言われるが、21世紀後半の世の中でそれがそのまま通用して、国力維持のためには本当に 1億人の日本人がいなければならないのだろうか?

日本の人口が少なくなった時に、まず必要になるのが語学力だろう。今は日本語で 「そうだよね、本当だよね」 と言い合えるお仲間が 1億 2000万人もいるからいいが、もしこれが半分ぐらいになったら、今のような内向きの姿勢は維持できないから、少なくとも英語は普通に読み書き、会話ができるようにならなければならない。

今は大抵の書物が日本語訳で読めるが、人口が減ったら、翻訳の市場も小さくなるから、原書か少なくとも英訳で読まなければならないケースが増加するだろう。これに関しては、まあ、しょうがないと思っているが、ドメスティックに育ってきた日本人の生活慣習は大きく変化するに違いない。

その結果、客観的な視線で見た日本文化の再認識というのが進むと、私は期待する。外からの視線で見ることによって、日本文化はより純化して新しい次元に進むかもしれない。

人口が減っても日本が滅ぶようなことはないと、私は案外楽観的に思っている。まあ、本当のところはそうなってみないとわからないだろうけどね。

 

 

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2014年12月27日

「牛のレバ刺しがダメなら、豚があるさ」 の風潮に驚く

"E型肝炎の患者倍増 「牛レバ刺しダメなら豚で代用」 が原因" というニュースに驚いた。牛のレバ刺し提供が禁止された平成 24年(2012年)以後、 豚のレバ刺しが原因とみられる E型肝炎が急増しているのだそうだ。リスクを無視してまでレバ刺しを食いたがる人が、世の中には少なくないようなのである。

私の年代だと、若い頃は「豚肉はジストマがいるから生では食えない」という常識があって、牛はレアで食っても豚はしっかり火を通すということになっていた。今はジストマなんて滅多にいなくなったらしいが、植え付けられた固定観念というのはコワいもので、私は豚しゃぶなんてものすら食う気になれない。

豚しゃぶのみならず、牛肉と豚肉を避けるようになって久しい。魚と鶏肉は平気で食べるし、ラーメンに入っているチャーシューや餃子、シューマイはたまに食べるので、厳格なベジタリアンではないが、お肉大好きな近頃の日本人の平均からすると、私の肉の消費はかなり少ないと思う。

だから、「牛のレバ刺しがダメなら、豚があるさ」とばかりに平気で食ってしまうというニュースには、「一体、どこの国の話?」とさえ思ってしまう。とにかく私は、ゴルフと焼き肉(なぜか生肉含む)と麻雀の話題には全然ついて行けないのだ。

最近は肉食過多は健康に良くないとされ、さらに牛肉 1kg  の生産に要する穀物飼料は 7kg になるということで、肉を多く食うのは人間の口に入るべき穀物の無駄遣いであり、飢餓救済から遠ざかる生活習慣という指摘まである。そんなわけで、個人的な趣味としては、「肉が好き」なんて、堂々と言えることじゃないという気がしている。

もう少し時代が進んだら、「昔は『肉食系』なんていうのが妙にもてはやされてたよね」「今じゃ、『好きな食べ物は肉』なんて言われたら、どん引きしちゃうよね」 なんて会話がフツーになるぐらいがいいとさえ思っている。

 

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2014年12月26日

政党に取材の便宜を図ってもらうマスコミの体質

私は常々、「ゴキブリを 1匹見つけたら 100匹いると思え」ということを念頭においている。"自民支部、TBS 記者の宿泊費払う「精算を失念」" というニュースを読んで、「これは案外あちこちで行われているんだな」と直観した。表沙汰にされない同様のケースは、いくらでもあるに違いない。

自民党沖縄県参院選挙区第2支部(代表は、元内閣府政務官の島尻安伊子参院議員)が、昨年 6月に取材で出張中だった TBS 記者のホテル宿泊代を政治活動費から肩代わり支出していたというのである。

これは 2013年分の政治資金収支報告書から発覚した。朝日新聞によると、ことの顛末は以下の通り。

島尻事務所によると、TBS 記者から同県名護市辺野古を取材したいと相談があり、事務所でホテルを予約。宿泊費を政治資金から支払った。報道機関からの問い合わせを受け、23日に TBS 側から代金を受領したという。「記者の宿泊費の精算を失念していた。今年の報告書に記載して報告したい」としている。

「名護市辺野古の取材」というからには、おそらく在日米軍基地がらみの取材だろう。こうした問題の取材を行う際に、自民党としての考えを現地でインタビューしたいと申し込むなら話はわかるが、「取材したいと相談」をもちかけるというのは、ジャーナリズムの常識からしていかがなものかと思う。

しかもホテルの予約と支払いまで肩代わりさせたというのでは、報道の中立性が根本から壊れてしまうだろう。支払いを肩代わりさせたわけではなく、「たまたま精算を忘れていただけ」と言うかもしれないが、それ以前に予約の便宜をとってもらうこと自体からして問題だ。そんなことは当然のこととして記者が自分でやるべきである。

ちなみに、記者が宿泊したとされる「カヌチャベイリゾート」というのは、本当にリゾートホテルのようで、TBS というのは、一介の記者が出張先でこんなホテルに泊まるんだなあと、ちょっと驚いた。昔のテレビ局の社員は贅沢し放題だったと聞くが、今でもそれは残っているようなのである。

一時期ジャーナリズムに身を置いていたこともある私としては、「取材したいと相談」をもちかけるということ自体が、何らかの「見返り」を期待してのことだと、直観してしまうのである。だって、ここはどこかの国と違って、取材したかったら勝手にすればいいという自由があるのだから。

政治の世界のマスコミとのお付き合いでは、このくらいのことは 「よくあること」 なのかもしれず、少なくとも 「珍しいこと」 では決してないという印象を受ける。さらにこんなことをしてもらったからには、仕事が終わってから飲み食いの接待につながることだってあるんじゃないかと、疑われても仕方のないところだ。

というわけで、私としては冒頭に書いたとおり、「ゴキブリを 1匹見つけたら 100匹いる」 と思っているので、今回はたまたまあっさりバレてしまったが、バレないようにうまく処理しているケースはいくらでもあるんじゃないかと、当然の如くに疑ってしまうのである。

マスコミの政治関連の記事やニュースは、こんなことまで疑いながら読んだり見たりしなければならない。うっとうしいことではある。

 

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2014年12月25日

"Today's Crack" 連続 11年毎日更新を達成

私事で恐縮だが、このブログ、本日で連続 11年毎日更新という記録を達成した。今月 9日の記事で書いたように、7日で連続 4,000日の更新をしているので、もうちょっと足すと連続 11年ということになり、それが今日ということである。

世間では「十年一昔」なんてことを言い、さらに IT の世界ではドッグイヤーとやらで、昔の 7年が今の 1年と言われているぐらいだから、我ながら、まあ、結構な年月にわたってこんなことをしてきてしまったなあという気がする。

『庄内拓明の知のヴァーリトゥード』というウェブサイトを始めたのが、平成 14年の 1月 16日で、その年の 3月 17日から、トップページで短いコラムを書くようになった。だから、このコラム自体は既に足かけ 13年を超えて、もうすぐ 14年目になろうとしている。

初めは 2日に 1回だったり、3日に 1回だったりしていたのだが、じきに「ほぼ毎日更新」ということになり、その状態が 1年以上続いた。そしていっそのこと「ほぼ」をとってしまおうと思ってから、 今日が 11年目ということである。

私としては、「ほぼ毎日更新」という中途半端な状態よりは、「正真正銘の毎日更新」の方が何となく楽という気がしている。決まり切った日課と思う方が、ずっとやりやすいということだ。

この間、世の中の個人とインターネットの関わり具合は、 「個人サイト中心」から「猫も杓子もブログ」という時期を経て、今や「SNS 全盛」という時期になっている。私は最初の 1〜2年の、個人サイトをベースとする行き方から、ごく自然にブログ中心のメソッドに移行してきた。

しかし SNS に関しては、ずっとブログの補完的な役割という位置づけとするに止まっていて、Twitter にしても Facebook にしても、自分のブログの更新通知をする「お知らせメディア」としての役割しか果たさせていない。今後さらなる進化を遂げるとしたら、このあたりの使い方に関わる部分でのことになるだろう。

ただ、これ以上がんばって新しいことをするのも、ちょっとうっとうしい気がしている。何しろ私も、還暦を 2年も過ぎてしまったのでね。よっぽど必要に迫られたら、何か素っ頓狂なことを始めるかもしれないが、とりあえずしばらくは今のままで進んでみたいと思っている。

 

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2014年12月24日

イブの過ごし方

還暦を過ぎてしまうと、クリスマス・イブだからといって、特別なことをして過ごそうという発想がなくなって、いつもよりちょっとだけ時間のかかったご馳走をいただいて、あとは静かに寝るだけだ。この辺りは住人の年齢層があがって、我が家以上にじいさんばあさんばっかりなので、周囲の家々はまことに静かなものである。

思えば、私はクリスマス・イブだからといって特別な過ごし方をした経験がない。高校時代までは自宅で暮らしていたから、家族と一緒にクリスマスケーキとちょっとしたご馳走を食べて寝るだけだった。

ガールフレンドと夜更かしデートしたなんていう記憶もない。決して 「いい子」 だったというわけじゃないが、イブの夜に羽目を外すという発想がなかったのだ。他の時期は夜遅くまで出歩くことがあっても、この時期の田舎は地吹雪で大変なことになるから、「いい子」で過ごすしかなかったのである。

大学に入って上京してからも、この時期はバイトに明け暮れて、遊ぶという発想がなかった。逆に、クリスマス・イブに妙に盛り上がる風潮を苦々しく思っていた。そのうち、友人の家に集まって地道な飲み会をしたりするようにもなったが、あまり金をかけてどうこうということはなかったなあ。それよりも「忘年会」の方がずっと盛り上がっていた気がする。

そのうちに世の中は「バブル」という時期になって、クリスマス・イブは、恋人同士で豪華な夜を過ごすというのがもてはやされるようになった。都心のホテルが予約で満杯になったという時期である。中には、相手もいないのにとりあえず豪華ホテルを予約するなんていうやつもいたらしい。そして当日多額のキャンセル料を払うのである。

こうしたバブルの頃、私は小さな子どもを 3人抱えていたから、イブの夜はそそくさと家に帰って、子供たちの相手をしていた。実に健康なものである。他の時期は結構バタバタと走り回っていても、クリスマス・イブは静かに過ごすものという生き方を、ずっとしてきたことになる。

これが本来なのだろう。ありがたいことである。

 

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2014年12月23日

既に夕方が長くなっている

今日、自転車で 10km 以上離れたショッピングセンターに行って買い物をし、日暮れ前に戻ってきた。最近なぜか自転車にはまっていて、私としてはちょっと思い切った値段のスポーツタイプの自転車 (その世界では単なる入門機だが) を購入し、片道 20km 以内なら車を使わないようにしている。

で、気付いたのだが、今日は日没がかなり遅くなっていた。午後 4時半を過ぎても結構明るいのである。先々週あたりは 4時を過ぎたら薄暗くなっていたから、夕方が長くなっている。 つまり日がのびているのだ。こうしたことは、自転車に乗っているとかなりよく気付く。自然の移り変わりが身近に感じられる。

ただ、冬至を過ぎて急に日がのびたわけじゃない。実は、日没は 12月 10日前後が一番早く、その時期を越すと徐々に遅くなる。だからあまり早起きをしない人にとっては、体感的には冬至の 10日ぐらい前から日がのびたように感じられていたはずだ。

一方、日の出は冬至を過ぎてもどんどん遅くなる。だから、早起きする人にとっては、冬至を過ぎてもまだまだ日が短くなっているように感じられる。日の出が早くなり始めるのは、年が明けて小正月(15日頃)になってからだ。日がのびていると本格的に感じられるのは、この頃からである。

ただし二十四節気ではこの頃から「寒の内」に入って、一番寒い時期になり、2月初めの立春を過ぎてもまだまだ寒い。今年は年が明けたら暖冬傾向になるなんて言われているが、どうなるんだろう。今年の初めみたいに、関東でも何度も大雪になるなんてのは、勘弁してもらいたいなあ。

 

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2014年12月22日

新しいもみじマーク制定から 4年半近く経って

Wl100909a新しい「もみじマーク」(高齢運転者標識)が制定されてから、4年以上経った。最近気付いたのだが、改定当初から付けられていたような古いもみじマークは、相当に色が褪せてしまっている。

初心者マーク、いわゆる「若葉マーク」なら、運転免許を取得してから 1年経てば取ってしまうのだから、色が褪せてどうこうという心配はない。しかしもみじマークは、ずっと付け続けるのだから、色が褪せるのも道理である。

しかも、とくに左側の茶色と黄色っぽい部分が褪せてしまって、白っぽくなっていることが多い。ということは、右側のグリーン部分が目立ってしまい、色的には初心者マークとの差別化が損なわれて、高齢者が運転しているというメッセージ性が希薄になる。

そもそもこのマークは、前のもみじマークが「年寄りくさい」という不満が大きかったため、少しはカッコよく修正してできたものである。しかしこの修正について私は、4年半前に "「もみじマーク」 のメッセージ性" という記事の中で次のように疑問を呈している。

元々、もみじマークを付ける目的というのは、周囲のドライバーに、「この車は高齢者が運転しているので、気を遣ってね」というメッセージを発することではなかったのか。だったら、多少の哀れっぽさを感じさせる方が、その目的に合致しているんじゃなかろうか。

もみじマークに求められるメッセージ性って、本来はそうしたものだったんじゃなかろうか。もみじマークにそれ以外の「かっこよさ」みたいなものを求めてしまうのは、本末転倒なんじゃなかろうか。

私は自分がもみじマークを付けなければならない高齢者になったら、なるべく哀れを催すように、前のデザインのかっこ悪いやつを付けようと思っている。私のこうしたメンタリティは、「後期高齢者」という呼称の何がいけないんだろうと思っている(参照)どころか、「早く末期高齢者と呼ばれる年になりたい」なんて言ってるのと共通しているのかもしれないが、とりあえずは、「周囲には哀れに思わせておく方が安全」という実利的なメリットも大きいのである。

哀れに思わせるどころか、突然どんな突飛な運転をするかわからないから、下手に近寄ると危なくてしょうがないぐらいに思ってもらえると、かなり安心だ。

ただ、新しいもみじマークが、遠目には初心者マークと区別が付きにくいみたいな色に褪せてしまっていることから、私は新しいことに気付いた。初心者マークだろうがもみじマークだろうが、とりあえずは周囲に注意を喚起させるようなデザインにしてしまえば、同じマークにしてしまえばいいじゃないかということだ。

つまり、もみじマークが年寄りじみていて嫌だという老人は、だったら、初心者マーク(あるいはそれに替わる「注意喚起マーク」) を付ければいいのである。初心者でも高齢者でも、要するに周囲に注意してもらえればいいのだから、強いて分ける必要はない。同じマークを付けさせればいいのである。

ただ、それでも私は自分が高齢者になったら、いかにも哀れっぽいもみじマークを付けたいけどね。

 

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2014年12月21日

LINE は国内最強のメッセンジャーアプリらしいが

Gigazine に「国内最強のメッセンジャーアプリ LINE は世界ではどれぐらいのシェアがあるのか?」という記事がある。記事によると、LINE の国内シェアは全年齢層ベースで 44%、20歳代に限ると、80%という圧倒的シェアを占めているのだそうだ。

しかし一度世界に目を向けると、マーケットリサーチ企業の GlobalWebIndex の調査によるランキングでは、LINE は Viber に次ぐ 6位。シェアは僅かに 5%しかないという。国内と海外とのギャップがとても大きい。

私の iPhone にも、一応 LINE はインストールされているが、実を言うと、滅多に使うことがない。LINE ユーザー同士でなら無料通話ができるというのだが、私は企業の固定電話と通話することが多いので、ほとんどお呼びでない。時々 LINE 音声通話の呼び出し音が鳴ることがあるが、慣れないので応答するのにいつも焦ってしまう。

LINE は「無料通話アプリ」というよりは、「メッセンジャーアプリ」と呼ぶべきものであるらしいが、私としては、無料通話さえできればいいと思っている。変な「スタンプ」使いまくってチャットなんてする気にもなれないし。

ほんのたまに LINE でメッセージが入ることがあり、そんな時にはちゃんとレスを返すが、正直言って、「何も LINE なんか使わなくても、フツーにメールしてくれればいいのに」と思う。そんなわけで、こちらから LINE でメッセージを送ることはまずない。

LINE って、なんだかギャル御用達みたいなイメージがあって、おじさんとしては好んで使う気になれないのである。それに、同じ無料通話なら Viber の方がずっと使いやすい気がする。Viber なら、今はサービス期間中なので、国内の固定電話にも無料通話できるし、このサービスは期間限定とはいえ、今のところ終了予定がないらしい。

ただ、どうも国内シェアという点で、LINE と Viber は圧倒的な差があって、私のアプリに自動的に表示される連絡先のリスト(LINE だと「友だち」リストというらしい) をみても、LINE ユーザーの方が数倍多い。とはいえ、前述のように私は固定電話にかけることが多いので、これはあまりハンデにならないのだけれどね。

ただ、Viber で電話した相手が不在だった場合、相手が着信履歴を元にコールバックしても「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」というメッセージが流れる。これはイタい。

この他に、"050 Plus" という通話アプリもあり、これは相手が誰であれ、格安料金で通話ができる。つまり、相手が同じアプリをインストールしていなければならないという制限がない。これはなかなか便利である。

ただ、このアプリを使うと、相手に表示される電話番号が「050」で始まる独自番号になってしまうので、見知らぬ人からの怪しい電話と思われて、応答してもらえないことがある。さらに、この独自番号にコールバックされてしまうと、自分が "050 Plus" アプリを起動させていないと受信できないので、なんだか自分が「二重人格」みたいになってしまうのがうっとうしい。

無料通話やメッセージ・アプリに関しては、まだ決定版というのが登場していないような気がするのである。

 

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2014年12月20日

言いたいことだけ言って、突っ込まれるとすぐにはぐらかすタイプ

ちょっと賞味期限の切れかかった話題だが、元・みんなの党代表の渡辺喜美氏の件である。

2年前の総選挙の際に「日本政治.com」というサイトの「投票マッチング」というサイトで試してみたら、私の政治的考えからすると、最も投票するにふさわしいのは「みんなの党」であるという結論が出た。しかし私は、この党を積極的に支持する気にはなれなかった。

今年 4月、渡邊氏の金銭スキャンダルが持ち上がった時に、私は "「みんなの党」 のくせに、ずっとワンマン党首でやってきたから" という記事を書いて、この党と渡辺氏に関する「違和感」を述べている。政策に関しては、「そりゃ、違うだろ!」と突っ込みたくなるような点はないが、どうみても「今イチ」すぎて、共感できなかったのである。

さらに、渡辺氏に関しては、次のように書いている。

本当に渡辺さん、総論として 「聞こえのいいキャッチフレーズ」 は連発するが、具体論について突っ込まれると必ず 「そういう問題じゃない」 と言い返すばかりのお人なのである。これが私は気に入らなかった。逮捕前のホリエモンとまったく同じスタイルである。このスタイルで長持ちした人を、私は見たことがない。

私の直観は見事に当たってしまって、彼は党代表を下ろされたばかりか、党そのものが解党との憂き目となり、その上、今回の総選挙では落選して、「ただの人」になってしまった。おいしいとこだけつまみ食いして、つっこみにははぐらかしで対応するというスタイルは、本当に長続きしないのである。

 

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2014年12月19日

イスラム過激派のテロにどう対応すべきか

オーストラリアで、いや、今やオーストラリアだけでなく世界中で、"#illridewithyou"(私はあなたと一緒に乗ります)というハッシュタグが注目されている。(参照

シドニーで起こった、イスラム過激思想の同調者とみられる男の人質を取ってのカフェ立てこもり事件の影響で、イスラム教信者の女性が無差別的報復を恐れ、街に出るときにヒジャブ(髪を覆うスカーフ)を外す動きが広まっている。それに対して Twitter 上で、「いつも通りの格好でいてください。私が一緒にバスに乗って守ってあげるから」という意思表示が広まっているというのだ。

圧倒的多数のイスラム教徒は過激な思想とは無縁で、平和を愛する人たちである。ごく一部の過激派の起こすテロのために、イスラム教徒全体が憎悪と排除の対象となる可能性があるのは、大きな問題だ。オーストラリアの勇気ある人たちの意思表示は、無闇な報復を諫めるために、大きな意味を持つだろう。

最近のイスラム過激派によるテロリズムのニュースを聞く度に、私は 「昔の連合赤軍とオウム真理教を合体させて、規模を拡大させたような動き」 という印象を深くしている。連合赤軍もオウム真理教も、自らの行動自体が崩壊の端緒となり、破滅してしまったように、イスラム過激派も結局は自己崩壊するだろう。

ただし、崩壊に至るまでの道のりは長いものになるはずだ。彼らの活動の規模が大きいだけに、破滅のプロセスも一瞬では終わらない。まだまだ、多くの惨劇が繰り返される可能性が高い。ただ、その惨劇そのものが、彼らの自己崩壊の一里塚になる。歴史から少しでも教訓を得た者なら、そのことに確信を持つだろう。

私は彼らを壊滅させる軍事作戦は、必要以上に大規模な展開をすべきではないと思っている。軍事作戦は当然ながら大きなリアクションを帯び起こし、世界を不安定なものにさせ、テロリズムをさらに活発化させるるだろう。

軍事的に滅ぼさなくても、彼らはいずれ勝手に滅びるのだから、それを早めるために資金面でのルートを洗い出し、それを絶つことに注力すべきではなかろうか。それが最も低リスクで効率的な対抗策だと思うのである。

暴力に暴力で対抗するよりも素晴らしい動きが可能であることを、オーストラリアの "#illridewithyou"  というハッシュタグの運動は教えてくれている。

 

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2014年12月18日

大雪見舞い

昨日まで二泊三日で出張していたのだが、ビジネスホテルでは大抵 NHK の天気予報を見るので、今回の低気圧が「爆弾低気圧」と呼ばれたことを、帰宅するまで知らなかった。NHK ではもっぱら 「急速に発達した低気圧」 という言葉を使っていたからね。

Wikipedia によると「爆弾低気圧」というのは純粋な日本語じゃなく、1980年に MIT の気象学者、Frederick Sanders らが "bomb cyclone" と言い始めてから広まったものらしい。明確な定義はなく、気象用語としては俗語扱いになっているという。お堅い NHK が使わないはずだ。

それにしても、今回の「爆弾低気圧」はすごい。山口県からの帰路、北陸、東北の日本海側に行く特急は軒並み運行を停止していると伝えられた。我が故郷に行く際に、新潟駅から乗り換える L特急の「いなほ」はもちろんのこと、山形新幹線も停まっていた。北海道に至っては、「外出しないよう」 に呼びかけられていたほどだ。

私も一応、「雪国」 の生まれということになっているが、実はめちゃくちゃな大雪というのは経験したことがない。山形県の酒田という街は、人間が普通の都市生活をしているところとしては、「世界最凶のブリザード地帯」と言われている。日本海側に直接面した港町なので、冬になると猛烈な季節風が吹き荒れるのだ。

この猛烈な季節風は「地吹雪」を引き起こす。35年前に上京して、私は「地吹雪」が何のことだか知らない人が多いのに驚いた。単なる吹雪のことだと思っている人が多いのである。今さらだがここで説明すると、地吹雪とは、一度地面に降った雪が強風で巻き上げられる現象である。視界を遮ってしまうほどの地吹雪も珍しくない。

酒田は、この地吹雪が多いのだ。なにしろ、冬になるとしょっちゅう風速 10m(時々は台風並みの 20m)の風が吹き荒れる。だから、雪は上から降るというより、横から下から吹き荒れる。街中で平気で「ホワイトアウト」(視界が真っ白で何も見えなくなる状態)してしまう。私もほぼ手探りで学校に行ったことが何度かある。

下に積もりかけた雪が風で巻き上げられ、東側の山まで吹き飛ばされるので、普段の年は、雪は積もってもせいぜい 30cm 内外である。「吹きだまり」 と呼ばれる風の通せんぼになったところでは、1m 以上の積雪になることもあるが、そんなのはごく限られたエリアに過ぎない。

ただ、歴史に残る「豪雪」の冬になると、酒田でも大変な積雪になって、除雪した雪の捨て場に困るようなことがある。しかし、私が物心ついてから高校卒業するまでの間には、それほど極端な豪雪の記憶はない。

というわけで、私は猛烈な地吹雪体験は豊富だが、積雪量に限った大雪経験に関しては、まったく口ほどにもない男である。それだけに、今回の大雪に見舞われた地方の方は、年も明ける前からさぞかし大変なことになっているだろうと、お見舞い申し上げる次第である。

無理をして怪我することがないように、ぼちぼち対応していただきたいと思う。

 

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2014年12月17日

もし今度の選挙が全国 1区完全比例代表制だったとしても

共産党議員の宮本徹さんという人が次のような tweet をして、ネット界隈で話題になっている(参照)。

【もし今度の選挙が全国1区完全比例代表制だったら】自民158、民主87、維新75、公明65、共産54、社民12、次世代12、生活9、幸福2、なし1。自民党の290議席は小選挙区制によるマジック。民意を大きくゆがめる小選挙区制廃止を求めるたたかいをあらためて決意しています

これだと自民と公明を足しても、過半数にも届かないことになり、今回の選挙結果は民意からかけ離れていることになる。ただ、一見するともっともらしい指摘だが、これはこれで数字のマジック以外の何物でもない。

それは、もし選挙制度が全国1区完全比例代表制だったりしたら、有権者の投票行動は現状とはかなり異なったものになるはずだからだ。

すべての有権者が、単純に心から共感して、支持する候補者や政党に投票するわけではない。そんな人はむしろ少数だろう。かなり多くの有権者は、候補者や政党を消去法で消していき、妥協の産物として投票先を決める。

「妥協の産物」というのは、例えば現状の制度では消去法で最後に残った候補者に投票しても、自分の票が「死に票」になることが確実な場合、当落線上にいて、自分の票が影響力を行使できそうな候補に投票するという選択をすることがあるからだ。これを一般には「戦略的投票」という。

選挙制度が変わったら、投票の戦略も当然の如く変化する。だから今回の選挙結果を、異なる仮想的制度にそのまま当てはめて議論するのはナンセンスである。それは数字のマジックにさらなるマジックを重ねて対抗しているに過ぎない。

ありえないことだが、もし選挙制度が全国 1区完全比例代表制だったら、私なら、政治が不安定にならないように、迷わず与党か、野党第一党に投票する。今回、批判票として共産党に投票した人の中にも、「あんまり増えたらヤバイ」と考えて、他の党に入れる人が出るかもしれない。

あるいは、投票の多様化が進みすぎて、反動としてかえって政党再編成が促進され、「右からちょっと右」と、「左からちょっと左」に別れて、連立狙いの連携がさかんになり、逆に政党の独自性が薄れるかもしれない。

さらにあるいは、キャスティング・ボート狙いの中道政党ばかりが漁夫の利を得るかもしれない。

さらにさらにあるいは、政党がばらけすぎて収拾がつかなくなることを防ぐため、政党としての成立要件がめちゃくちゃ厳しくなって、かえって非民主的になる事態につながるかもしれない。それは誰にもわからない。

いずれにしても今回の結果が、そのまま宮本氏の言うような結果にならないことは確実である。選挙に限らず、人間の行動って、そんなに単純なものじゃない。たとえ非理性的であったとしても、決して単純には済まない。

 

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2014年12月16日

秋芳洞に潜って、どういうわけか……

仕事で山口県に来ている。今日は時間があったので、秋芳洞に生まれて初めて行ってみた。小学校の時に日本最大の鍾乳洞というものがあると知って以来、何となく潜ってみたいと憧れていたのだが、今日、図らずもその願いが実現してしまったのだ。

今日は平日で、しかも肌を刺す風が吹く雨模様ということもあり、秋芳洞は閑散としていた。私はこうした閑散とした観光地というのがむしろ好きなのだが、今回はちょっと様子が違った。あの鍾乳洞というもの、一人で潜ると、ちょっとビビるのである。

思えば、私は高校を卒業して初めて上京し、地下鉄というものに乗るようになった時、ちょっと居心地悪い思いを感じていたのである。閉塞感というか、押しつぶされそうな暗闇の恐怖というか、自分はそんなのが苦手であると、地下鉄に乗って初めて知ったのである。高所恐怖症は昔から意識していたが、それだけじゃなかったのだね。

今では地下鉄にもすっかり慣れてしまってはいるが、今日、秋芳洞に潜って久しぶりであの居心地の悪さを思い出してしまった。中には要所要所に照明が点いているが、突然の停電なんかになったら、どうしよう。私は懐中電灯とロープを持って、ヘルメットをかぶってくるんだったと、半ば本気で思ったよ。

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平日であまり人も通らないし、本当に心細い。あれだけ憧れていた秋芳洞を、私は小走りで駆け抜けるように見物してきたのである。ただ、そのスケールと造化の妙には十分に感動したけどね。

無事に脱出してほっとしたせいなのか、出口の観光みやげ屋で、妙なものを買ってしまった。小石である。私はいわゆる宝石にはちっとも興味がないが、小石はなんだか好きなのだ。映画「おくりびと」でも、手に握りしめた小さな石がちょっとした意味をもつが、小石はなかなかいいものである。

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そんなわけで何を血迷ったか、どうでもいい小石を 6個、1600円も出して買ってしまったのだよ。帰ったら書類が風に飛ばないように、重石代わりに使おうと思う。

 

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2014年12月15日

選挙結果が馬鹿馬鹿しくてたまらない

先月 24日にも「仕方のない選挙」というタイトルで書いたのだが、結果として「しょうもない選挙」になった。投票率が低かったのは、かなりの部分で「棄権」という消極的行為というより、「付き合いきれんわ!」という積極的意思表示でもあったと思う。

きちんと期日前投票した私でさえ、心の中で「ああ、馬鹿馬鹿しい!」と、呪いの言葉を吐きながらの行動だった。「とりあえず投票はする」というポリシーがなかったら、投票なんてするだけ野暮と思ってしまったかもしれない。

選挙結果の数字をよく見れば、なぜか喜んでいる自民党だって、数字を減らしている。民主党が曲がりなりにも議席を増加させたのは、いわゆる「第三極」がガタガタして選択肢が狭まったので、図らずも嫌々ながらの受皿として機能してしまったからだろう。

要するに、大勢にほとんど影響ない程度に自民党が微減して民主党が微増し、ゴチャゴチャしていた第三極が整理され、どさくさで共産党がにわかに増えたという選挙だったのである。単純に見れば、それだけのことではないか。

 

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2014年12月14日

総選挙の投票率が、やたらと低い

今回の選挙、私はいつものように期日前投票を済ませておいた。仕事で帰りが遅くなりそうだったためだが、思ったより早く片付いて午後 6時前に帰宅したので、それから投票所に行けば行けた。ただ、もし仕事が長引いたらそれもできないので、期日前投票しておいたのは正解だったと思っている。

できるだけ期日前投票をするようにしているのは、もう一つ理由がある。知り合いから「○○党(中身は公明党が 7割、共産党が 3割)の△△に投票して」という依頼電話がかかってきても、「もう済ませちゃったから」というたった一言で、向こうはあっさりと引き下がってくれるからだ。

「嘘も方便」で、期日前投票していないのに「もう済ませた」と言ってしまう手もあるが、そう言ってしまってから投票日に投票所で顔を合わせてしまったりしたら、バツが悪いというよりも、次からこの手が効かなくなりそうなので、ちゃんと本当に済ませておくのである。

ところで、今回の選挙は低投票率になるのが確実と前々から言われていたが、帰宅してネットのニュースを調べてみると、午後 4時現在で 20.11%、午後 6時になっても 34.98%と発表されている。

つまり、日が落ちてしばらく経っても、有権者のほぼ 3人に 1人しか投票していないようなのである。戦後最低の投票率と言われた前回の同時刻より、6.79ポイント下回っているという。この寒空では、これから大幅に伸びることも期待できないから、今回の総選挙は戦後最低を更新することが確実だろう。

この記事を書いている今、時刻は午後 8時を回った。もうすぐ投票率の確定数字が発表されるだろう。もう、どんな低い数字が出てきても驚かない。とりあえずここで一度アップしておいて、後ほど最終確定数字を付け加えることにする。

【12月 15日 追記】

最終的には 52%前後ということになったらしい。かろうじて半分を超えたわけだ。私は 40%台になるかと思っていたが、前日の時刻ごとの発表は、期日前投票を除外した数字だったらしく、それをプラスして、この数字になっだという。やれやれ。

 

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2014年12月13日

「今年の漢字」って、結局何なんだ?

近頃毎年発表される「今年の漢字」、2014年は「税」という漢字なんだそうだ。あんまり「まんま」すぎて、「夏とかけて何と解く?」とふられたお馬鹿なアイドルタレントが、つい「暑いと解きます」なんて言っちゃった時みたいな、何とも言えない脱力感を覚えてしまう。

そもそもこの企画の主催者は日本漢字能力検定協会だが、この団体が独自の視点で選出するというわけではなく、全国ベースで公募を行い、最も応募数の多かった漢字一字を、まんま発表するということのようなのだ。道理でね、毎年のように発表される漢字を見ても、あまりウィットは感じられない。

ちなみに今年の 2位以下 10位までは順に「熱」「嘘」「災」「雪」「泣」「噴」「増」「偽」「妖」 だったそうだ。うぅむ、どれもぐっとくるものがない。「だからどうした?」と言いたくなるようのばかりだ。

こんなことを言ってしまっては身も蓋もないことになりそうだが、そもそも現代の世相を漢字一文字で表現しようとする試み自体に、ちょっと無理があるのかもしれない。

日本漢字能力検定協会としては、このイベントにはお金に換算したら大変な額になるほどの宣伝効果があって、結果的に漢字検定受験料で潤うということになるのだろう。しかし結局のところ、我々にとってはあまり意味のあることとも思われないのだよね。悪いけど。

 

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2014年12月12日

医者嫌いの味方をしてくれるお医者さん

PRESIDENT Online に「日本人男性が早死にする要因は、どっち 医者が知っていて言えない、早死にする人の意外な習慣」という記事があり、読者はのっけから「(A)健康診断が嫌いだから(B)健康診断が好きだから」という質問に答えさせられる。その正解は、どうやら (B) ということのようなのだ。

この記事を書いたのは近藤誠さんという慶応大学医学部卒のれっきとしたお医者さんで、長らく同大学病院に籍を置いていたという。そんな立派なお医者さんが、次のようにおっしゃるのである。

世界一の長寿国といわれる日本だが、その平均寿命は男女で異なり、女性は86.61歳、男性は80.21歳(14年厚生労働省発表)と、6歳の差がある。これにはさまざまな要因があるが、女性と比較して、職場勤めをしている男性は健康診断を受ける機会が多く、その結果、むだな医療を受けて亡くなってしまう人がいるのではないか。そしてほかの医者たちもそのことに気づいているのではないかと私は考えている。

近藤先生はさらに、慶応大学病院では強制されるまで、医者の健康診断受診率は 50%だったという。つまり、人には健康診断を受けろという医者が、自分自身はあまりその効果を信じていないということのようなのである。

この先生はがんの放射線治療を専門とし、乳房温存療法のパイオニアで、患者本位の治療を志向しておいでだという。著書に 『がん放置療法のすすめ』(文藝春秋)、『医者に殺されない 47の心得』(アスコム)などがある。なるほど、その主張は何となくわかってきた。

お医者さんが自らの存在価値を軽んじてしまうという同じような主張は、私が今年の 8月 21日に書いた「安心して生きて死のう」という記事でも紹介している。財政破綻で診療所が潰れてしまった夕張市で、医療崩壊の結果、市民が健康になり、死亡率も下がったということを、他ならぬ元 診療所院長さんの森田洋之さんという方が語っておられるのだ。

医者嫌いの私としては、嬉しくなってしまうお話である。医者が好きでせっせと通い、処方される薬をきちんと飲んでいると、不健康になって短命に終わりがちで、逆に医者が嫌いで、処方される薬もほとんど飲まないでいる方が健康にいいというのだ。私自身が医者嫌いで健康だから、案外本当のような気がするのである。

ただ、近藤先生がおっしゃる女性の方が長生きなのは、なにも日本に限ったことではなく、世界中の多くの国で共通した現象のようだ(参照)。だから、ことさらに「日本人男性が早死にする理由は」などという根拠にはならないということがある。この一点の理由で、近藤先生の主張が「トンデモ」扱いされる可能性はある。

しかし一方で、日本人女性の平均寿命が世界一なのに、男性は 5番目という事実もあり、やっぱり「日本人男性は早死にする」と言ってもいいと見ることもできる。ここではごく穏やかに、「特別に『トンデモすぎる指摘』ってわけじゃないよね」とだけ言っておこう。

結論。私はこれまで通り、医者嫌いで通させていただくのでよろしくということだ。

 

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2014年12月11日

また例の、サンタクロースが本当にいるってお話

今年も私の本宅サイトにある "サンタクロースは本当にいる! クリスマス・イブは、「大きな愛」を知るチャンス" というページに、続々とアクセスが集まる季節になった。12月に入ってからは 毎日 500以上のアクセスとなり、先週の土日は 1000近くにまでのぼった。来週以後は毎日 1000以上になることが確実である。

ありがたいことに「サンタクロース/本当にいるの」という 2語のキーワードでググってみると、ここ数年は私のページがずっと トップになっている。あの有名な「ニューヨーク・サン」の社説を紹介したページのずっと上にランクされているのだから、我ながら面はゆいぐらいである。

つい最近までは、クリスマスが近付かなかったら、1日に数件のアクセスしかなかったが、最近は 1年を通じて 数十件のアクセスが記録されている。それが 12月の半ば頃になると、1000件以上になるのだから、Google の影響力というのはすごいものだ。このページは 11年前に書かれたのだから、極力少なく見積もっても既に十万人以上の目に触れているだろう。

このページ、我ながらよくまあ、こんなに素敵なページを作れたものだと、ちょっと幸せな気分になる。もし私が突然ぽっこりと死ぬようなことがあっても、このページを世に出したというたった一点の功績で、まあ、地獄に落ちることはなかろうという気がしている。

というわけで、今年も私のページで多くの人がいい気分になってくれるなら、この上ない幸いである。

 

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2014年12月10日

裏が透けて見えすぎる巨大カレンダー

バブル崩壊からこっちは、使いもしないカレンダーがあちこちから届くことも少なくなってほっとしていたのだが、今週になって、いきなりぎょっとするほど巨大なカレンダーが届けられた。下の写真は、比較しやすいように新聞(タブロイド判じゃないよ)と一緒に写したので、その大きさがわかろうというものだ。

Img_0804

我が家には、こんなばかでかいカレンダーを吊しておけるほどの壁の余裕がないし、たとえあったとしても、こんな悪趣味なでかさのものは使いたくない。そもそも、紙の無駄にもほどがある。表紙に「植林 ECF この用紙は植林木を使用しています」と、小さく表示されているが、せっかく植林した木だったら、もっと役に立つように使えばいいのに。

届けてきたのは、縁もゆかりもない会社である。この会社は、廃棄物(産業・一般)収集・運搬という事業もしていると表示されているので、電話をかけて、我が家の玄関先に勝手に投棄されたゴミを廃棄物として処理してもらおうかとも思ったが、面倒くさいから止めた。

カレンダーにはこの会社の女社長の名前がしっかり印刷されており、さらに彼女のエッセイ風の文章の載ったパンフレットが添付されていて、やたらわざとらしい顔写真まで付いている。あまりのわざとらしさにもしやと思ってググってみたら、彼女は先の参院選に立候補して落選し、捲土重来を期しているとわかった。

彼女のブログも、かなりやる気満々である。次回の選挙の立候補を期して、この辺りの家にカレンダーを配りまくっているのだろう。このカレンダーは結構厚めの上質紙なのに、裏が透けて見えすぎるというのも、なんだか空しい心持ちになる。それにしても政治家になるには、金をかけて資源もバンバン浪費しなければならないらしい。

申し訳ないが私としては、この巨大カレンダーを見ただけで、この人には投票したくないと思った。どうやら比例区からの立候補だったらしく、今回の総選挙の比例区では、彼女の所属する政党に投票してもいいかなと思っていたのに、これでその気も失せてしまった。

世の中には、私のような人間もいるのだよ。恐縮ながら、彼女は相当なコストをかけて、自らネガティブ・キャンペーンをしちゃったことになる。自らネガティブ・キャンペーンをするといえば、私は選挙カーでの連呼もそうだと思っているのだがね(参照)。

ちなみに、こんなカレンダーはとても使い物にならないし、かといって捨てるのも資源浪費にさらに浪費を重ねることになるので、カッターナイフで切って、メモ用紙として使うことにした。

Img_0806

結果、こんなに分厚いメモ用紙の束ができたのである。ここまでカットするにも結構な手間がかかり、本当はこの半分のサイズにしたかったのだが、途中で力尽きてやめた。この倍の厚さにしても、なかなか使い切れないしね。

 

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2014年12月 9日

知らぬ間に、連続 4,000日更新を達成してた

うっかりしていたが、この Today's Crack は一昨日の 12月 7日で、 連続 4,000日更新という記録を達成していたのだった。ということは今日で 4,002日目の連続更新ということになる。

4,000日といえば、10年と 11か月 13日である。ということは、今月の 25日で 11年間連続更新記録達成ということになる。まったくもって、よくもまあやってきたものだよね。我ながら、半ば呆れるほどである。

私は昔から、何をやっても三日坊主だった。長く続いたことなんて、このブログ以外には一つもない。これだけがこんなに続いているというのは、何かよっぽど性に合ってしまったとしかいいようがない。

"Today's Crack" を始めてから数年間は、「同じことは二度と書かない」ことをポリシーにしていた。毎回別のテーマで、別のことを書くことにしていたのである。ところがこんなに長く続いてしまうと、そんなことは到底無理で、同じ話を 2度、3度と繰り返してしまうことも出てきた。

ただ、そんな場合でも少しは新しい視点を取り込んだり、別のテーマと関連づけたりして、「まったく同じ」ということはなるべく避けるようにしている。A という話も、B という話と組み合わせることによって、C という結論が導かれたりする。話のモンタージュである。今後はこの手法が増えるかもしれない。

 

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2014年12月 8日

こう切り出さないと、話が続かなくなる人たち

iPhone の「メモ」というアプリのずっと奥底の方に、「こう切り出さないと、話が続かなくなる人たち」というタイトルのメモが見つかった。2年半以上前のメモで、自分でも一体どんなことを書いたのか記憶がない。

開いてみたらところ、何かのきっかけでジョークのように書き留めたものだったと思い出した。このブログのネタにでもしようかと思ったのかもしれない。その後ずっと忘れていたのだが、ちょっと面白いので、今さらながらではあるが、以下に一切の編集なしで、そのままコピペしておく。

スポーツ解説者:  いや、そうですね

官僚:  えぇ、その件に関しましては…

ギャル:  つぅかさぁ…

ブックオフ店員:  いらっしゃいませこんにちはぁ!

ビジネスホテルのフロント:  申し訳ございません…

アントレプレナー:  そういうことじゃなくってぇ…

芸人:  俺、そういうの、わかんないんだけどぉ…

中小企業のワンマン経営者:  「おぅ、あれ、やってくれた?

元気なばあさん:  今度、どこ行く?

陰気なばあさん:  近頃、具合が良くなくて

姑:  嫁が…

嫁:  姑が…

広告プランナー :  つか、逆にいうと…

市民運動家:  それって、おかしくないですか?

以上、2年半前の印象で書いたモノだが、今でもかあまり変わっていなかったりする。

 

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2014年12月 7日

モノを所有せず、小さな家に住む

Wired に "モノを所有せずシンプルに暮らす、アメリカ発の 「タイニーハウス・ムーヴメント」" という記事がある。アメリカでは 2000年頃から、トレーラーハウスや自作のログハウスなど「小さな家」や「小屋」に住むことを選択する人が増えてきているという。

この「Tiny House Movement(タイニーハウス・ムーヴメント:small houseとも)」は、単に小さな家に住むというだけでなく、なるべくモノを所有せずにシンプルに暮らすという、これまでの大量生産大量消費社会に対するカウンターカルチャーとして発展してきた。

そんなことなら、私は大賛成だ。家具や食器、衣服、蔵書などをなるべく少なくして、手を伸ばしさえすれば大抵のところに手が届くような、小さな家に住むのが、私の理想なのである。

私だけじゃない。日本人は小さな家に住むのが向いていると思う。『方丈記』を記した鴨長明の時代から、大邸宅なんかより、「庵」という字が似合う風情の、小さな住まいで暮らすのが粋というものなのである。

ところで、大きな家が必要になるのは、家具、食器、衣服、蔵書がどっさりたまるからである。日本では、方丈記のようなささやかな住まいがもてはやされる割に、食器だけはやたら多い。何しろ、和洋中の 3つのスタイルの食事ができるように、それぞれの食器がある。これが私にはうっとうしすぎる。

私は大中小の 3サイズのボウルと皿、そしてマグカップさえあれば、日常の食器は足りると思っている。我が家にある食器でさえ、多すぎる。家族の誰かが結婚披露宴に呼ばれる度に、引き出物の食器が増えてしまうのが、ものすごく負担だ。

服は、最近ワードローブの中をすっかり整理した。宮仕えを降りてしまうと、着る物なんて本当にシンプルにできる。スーツなんて年に 3〜4回しか着ないので、夏用と冬用が 1着ずつと、夏用の冠婚葬祭用の黒服 1着だけを残して処分した。冬の冠婚葬祭は、ユニクロのヒートテックの下着に夏用を重ねれば OK だ。

外出着としては、ジャケットが夏用と冬用を 2着ずつ。それ以外は、ボタンダウンのシャツ、ポロシャツが3〜4着ずつと、チノパンとジーンズが 2本ずつあれば十分だ。あとは、フリース・ジャケットとダウンウェア、マウンテン・パーカがあればいい。

蔵書はできるだけ処分したつもりなのだが、まだ書棚が 5つも必要なほど残っている。10年ぐらいしたら、これもどんどん処分しよう。どうせあの世までは持って行けないのだから。

あとは PC 周りが確保されれば十分に暮らせる。そうなったら、夫婦で 2DK で十分だ。今住んでいる家は 4LDK もあるから、空き部屋ができてしまう。しょうがないから、それらはがらんとしたゲストルームということにしようかと思う。

 

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2014年12月 6日

「スイートルーム」 という言葉

最近、妙に気になる言葉に「スイートルーム」というのがある。何だか知らないが、あちこちで目にするのである。ホテルなどで、続き部屋になっている(居間とベッドルームみたいになっているようなの)のを称して、「スイートルーム」というようなのである。

しかし「トラベル英会話」みたいなアンチョコ本でも、続き部屋を予約するときには "suite" ということになっていて、"suite room" なんて言わない。私はそんな豪華な部屋に泊まったことがないから全然縁がないが、カタカナ語ならいざ知らず、英語としての "suite room" ってのは、かなりの違和感だ。

そう思って試しに調べてみたら、これは和製英語とわかった(参照)。やっぱりね。いや、それどころか EnlightenMe(私を啓蒙して)というサイトには "What is the Difference Between a Hotel Suite and a Room?" (ホテルのスイートとルームの違いは?) というページまであり、そもそも両者は別物であるらしい。

上述のページによると、私がいつも泊まるような、ごく普通のホテルの部屋のように一部屋になっているのが "room" で、やたら大きな部屋とかラウンジとベッドルームみたいに続き部屋になっているのが "suite" であるという。

"Suite" という言葉は元々は「一揃いのもの」という意味で、セットの家具とか、組曲とかいう意味もあり、最近ではパソコンのパッケージソフトの "office suite" という言葉でもお馴染みだ。

さらにこの言葉は "suit"(スーツ、背広)という言葉と同じ語源から発している。なるほど、背広も上下一揃いだからね。こんなの、似たような意味なんだからスペルも発音もどちらかに統一すればよかったのに、なぜか、別の言葉になってしまっている。

「スイートルーム」の話に戻るが、日本では "sweet room" という表記をよく目にする。ググってみると多くは固有名詞のようだから(参照)、まあ洒落なんだろうが、ちょっと複雑な思いがこみ上げて来ちゃったりするのである。

 

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2014年12月 5日

「底解の井(そこぬけのい)」を巡る冒険

私はまだ訪れたことがないのだが、鎌倉に海蔵寺という寺がある。その山門の手前にある井戸は「底解の井(そこぬけのい)」と名付けられ、鎌倉十井の一つに数えられている。この井戸に関するエピソードがなかなか興味深い。

この井戸が「底解の井」と呼ばれるようになったのは、昔、この井戸で水を汲んだ時に桶の底が抜けたからだと言われる。井戸の説明板に鎌倉青年会議所が立てた説明の看板があり、そこにはこのように書かれている。

中世の武将の安達泰盛の娘・千代能がここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため、「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば月もやどらず」とうたったところからこの名がついたといわれています。井戸の底ではなく心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)の歌です。

いやはや、甚だ恐縮ではあるが、この説明ではさっぱりわからない。桶の底が抜けて水がたまらなくて、「月が宿らない」って、それがどうした? それで、「心の底が抜けて、わだかまりが解け」って、どういうことなんだ? どうして悟りに関係があるんだ?

まあ、禅の悟りの境地なんて、そんなものはどうせ一生わからないんだといえばそれまでだが、とはいえ、少しはその境地に近付いてみたいものではないか。そのためには、禅のメソッドとしてはいささか邪道だが、とりあえず、ちょっと論理的に解釈してみよう。

まず基本的な問題として、「月もやどらず」とは、手桶の底が抜けて水がたまらないので、月がその水面に映ることもないという意味である。これだけはしっかりわかっておかないと、そこから先には一歩も進めない。

そもそも禅の世界で「月が水面に映る」とは、心が平静かどうかを問題にする時に、よく使われる喩えである。心が揺れ動いている時には、水面が波立っている時のように、月がきれいに映らない。心が平静な時は、見事にくっきりとした月の像が浮かぶ。

多分、千代能という女性は夜にこの井戸で水を汲む度に、桶の水面に映る月を我が心の反映のように思いながら注目していたのだろう。桶に汲んだばかりの水だから、当然波打っている。月もきれいに映らない。揺れ動く月は、悟りに遠い自分の心と思いながら、どうすれば悟りに到達できるものかと思い悩んでいたに違いない。

ところがある夜、水を汲んでいた桶の底がすっぽりと抜けた。当然、水もたまらず、月の映像も結ばれない。その時に、彼女は忽然と悟ったのだろうね。自分はこれまで、水に映った月ばかりに心を奪われていた。水に映った月をどうすればすっきりときれいにできるものかと、考え悩んでいた。

ところが底が抜けてしまったら、それまで心が囚われていた水に映る月がなくなった。こだわる対象がなくなって、一挙に心が解き放たれた。そして上を見上げると、綺麗な月が皓々と照っている。揺れ動くしかない心に囚われていた時には見えなかった、見事な月である。

道元禅師が鎌倉に赴いた時、北条時頼に「池に映った月を切ってみよ」と言い、時頼は勇猛果敢にばっさりと切ったが、依然として月は水面に映っていたというエピソードも、その類いといえる。昔のコマーシャルに「クサい臭いは元から絶たなきゃダメ」というのがあったが、まあ、元を見ないで、そこから発する臭いを問題にしている限りは浮かばれないのである。

なるほど、なるほど。我々は、注目すべき対象をいつも間違えているのである。心なんてものに映る前の、「本物」を見ようとは、なかなかしないものなのだ。まあ、水面に映る月も、風情としてはなかなかいいものではあるけれどね。

人生における「本物」なんて、ちょっと顔を上げれば見えるお月様より、ずっと見るのが難しいものなので、「あまり簡単に言ってくれるなよ」と言いたくもなる。しかし、そんなことを言っているうちは、心の底が抜けていないのだろうね。

 

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2014年12月 4日

イノシシを巡る冒険

今日は明日の仕事のために甲府に前泊している。午後 5時半の特急あずさで新宿を発ち、八王子を過ぎたところで、「前を行く列車が高尾〜相模湖間で『小動物』と衝突したため確認作業をしており、高尾駅でしばらく停まります」というアナウンスがあった。

「小動物」とは何だったのか、車内アナウンスでは最後まで明らかにされなかったが、途中でイノシシとかシカとか、ウニャウニャ言ってたので、多分そのどちらかなのだろう。どちらにしても「小動物」というには大きすぎる気がするが、JR ではクマより小さいのは「小動物」といい慣わしているのかもしれない。リスとかだったら、「極小動物」になってしまいそうだが。

東北南部からこっちは、イノシシがかなり多いらしい。農家は毎晩畑が荒らされると嘆いている。一方、私の生まれ育った山形県庄内地方では、クマやカモシカはいくらでもいるが、イノシシに畑を荒らされるなんて、聞いたことがない。多分、イノシシの北限を超えているのだろう。

思い立って調べてみると、イノシシ生息の北限は、太平洋側では宮城県南部、日本海側では福井県とされていた。脚が短いので、深い雪には弱いらしい。しかし近年は温暖化の影響なのか、太平洋側の北限は岩手県まで上がっているらしい。さらに、山形県での目撃例も出ているというから、穏やかじゃない。

そのうち、我が故郷でも「イノシシが出た!」なんてことになるかもしれない。何しろカモシカで大騒ぎになる土地柄(参照)だから、イノシシなんて出たら、大パニックになるだろう。えらいことである。

 

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2014年12月 3日

高倉健と菅原文太の死

高倉健と菅原文太が亡くなったことで、ものすごく嘆き悲しんでいる人が少なくないが、申し訳ないことに、私としてはあまりピンとこない。思い起こせば、石原裕次郎が亡くなった時もそうだった。自分がアメリカかぶれだからかとも一瞬疑ったが、エルヴィス・プレスリーが亡くなった時も、全然ピンとこなかった。

私は石原裕次郎の映画はほとんど見ていないし、テレビはほとんど見ないから『太陽に吠えろ』も知らない。エルヴィス・プレスリーの曲も、ビートルズに夢中になってから、どちらかといえば懐メロとして知った。 それに比べれば、『網走番外地』も『仁義なき戦い』も見たはずなのに、どうも今イチぐさっと来ない。

もしかしたら、菅原文太までは、団塊の世代のアイドルだったのかもしれない。団塊の世代が心情的にコロッとまいってしまう要素が、エルヴィス・プレスリーから菅原文太までの一連の流れの中に散りばめられているように思われて仕方がないのだ。私は団塊の世代の直後の世代だから、彼らに対してはなんだか複雑な思いをもっていて、心から共感できないのである。

団塊の世代というのは、公式的には昭和 22年から 24年までの 3年間に生まれた人たちなのだそうだ。ほんの少しゆるめにとっても、昭和 25年生まれまでだろう。昭和 27年生まれの私より、2〜5歳年上だ。このあたりが、それまでの戦前、戦中派の価値観(終戦直後の生まれの人も、価値観は戦中派とそれほど変わらない)と、がらりと変わってしまう分岐点になっていると思う。

私はよくたとえ話みたいに言うのだが、今現在の 68歳以上の人は、車を買うときには自動的に 4ドアセダンを選択する。それ以外に自家用車の選択肢はないかのようだ。しかしそれより若い世代にとっては、それは「数ある選択肢のうちの 1つ」に過ぎず、さらに私の同年代になると、「4ドアセダンのオーナーになっている自分を想像できない」なんて言い出す。

で、高倉健、菅原文太は、「4ドアセダンは数ある選択肢のうちの 1つ」と思い始めた世代の人たちのアイドルなんだと思う。それだけ、その以前のスターと比べて革新的なのだ。しかし「4ドアセダンのオーナーになっている自分を想像できない」世代になってしまうと、この 2人は嫌いじゃないし、ましてやマイナス・イメージでは決してないけど、 「なんか、違う」と感じてしまうのである。

ちょっと上の世代が、どういうわけだかしらないが熱烈に支持しているのを見ているだけ、ますます「なんか、違う」感が、胸の中で増幅されているのである。もっとずっと若い世代だったら、「往年の大スターが死んだ」というだけの、客観的事実で済んでしまうのかもしれないが。

どういうことかというと、私の世代は物心ついてからずっと、すぐ上の団塊の世代の荒らしまくった世界の後始末をしながら生きてきたという感覚がある。妙に揺れ動きすぎた振り子を落ち着かせるのが、自分の仕事みたいに思っているようなところがあるのだ。

だから今回の 2大スターの死に関する世間の悲しみにしても、申し訳ないけど、過度の共感は覚えないし、それに乗っかってもっともらしいことを言う気にもなれないのである。

 

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2014年12月 2日

「セルカ棒」って、知ってた?

韓国では「自撮り棒」「セルカ棒」というのが大流行なんだそうだ。何かというと棒の先にスマホを固定して自撮りするためのもので、要するに「自撮り棒」という名前のまんまだが、「セルカ棒」というのは、韓国語で「自撮り」のことを「セルフ」と「カメラ」を合わせて「セルカ」ということから来ているらしい。

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上の画像は、Amazon で使われていた通販用宣材の中からの転載だが、正直言ってかなりダサいよね。さらに「偽物・コピー品にご注意ください」という但し書きが泣かせる。まあ、それだけ多種多様な「自撮り棒」が市場に溢れているのだろう。

多分かなり大げさな表現なんだろうが、一説には韓国でこれを持ってない女の子はいないんじゃないかといわれるぐらいの勢いなのだそうで、本当にあちこちで、この棒をもって自撮りしたり、数人で記念スナップを撮っている光景が見られるらしい。

なんでこんなものが流行るのかと深読みすると、彼の国では、周囲の人に「シャッター押してください」なんて頼みにくいのかもしれない。儒教的規範が強いから、目上の人には頼めないだろうし、若い子に頼んだら、下手するとそのままスマホ持って逃げられちゃうなんて心配もある。

日本だと、居合わせたオジサンが気軽にシャッター押してくれたりするから、楽だよね。それに、日本の街頭でこんなもの使って自撮りするなんて、何をするにもマイペースの私でも、かなりこっ恥ずかしい。韓国人は表現がストレートだから、そんなことは全然気にしないのかもしれないけどね。

ただ、意外な問題が出ている。Bluetooth を使ったセルカ棒を、韓国政府が 電波法違反として取り締まる方針を示しているのだ。セルカ棒の発する電波が、周囲の電子機器に影響を与えかねないというのである。これについては「そんな被害事例は 1件もない」として、過剰規制と反発されているというのだが(参照)。

個人的には、旅行先での単純な記念写真(訪問の証拠写真?)だったら、スマホを持った手を伸ばして撮ればいいし、しっかり写したかったら三脚を使えばいいだけのことと思う。私自身はどこを訪問しても、自撮りするなんていう発想はまったくないんだけどね。

 

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2014年12月 1日

「皇帝ダリア」というトレンド

近頃、近所のあちこちの庭でやたらでかい花を見るなあと思っていたら、「皇帝ダリア」というものなのだそうだ。これはもう、流行としかいいようがない。庭の花の世界にも、はやりすたりというのがあるのだと、初めて知った。

改めてググってみると、確かにあちこちのサイトで、「最近流行の皇帝ダリア」なんていう表現が目に付く。ただ、庭で育てる花の流行なんて、いったいどこから発信されるのだろう。

若い子たちのファッション・トレンド情報なら、その類いのファッション雑誌がくさるほどある。それほどではないにしろ、園芸関係の雑誌というのもあるのだろう。それだけではなく、新聞や雑誌の家庭欄とか園芸欄(そんなのがあるとしたら)でも紹介されるのだろう。あとは、ご近所同士の口コミと、ホームセンターの園芸売り場での扱いといったところかな。

この皇帝ダリアという花、育て方はそんなに難しくはないらしいが、何しろ草花のカテゴリーであんなに背が高くなるのだから、木と違って風には弱いらしい。だから、どこの庭でも添え木を当てたり、目立たないようにロープで倒れないように引っ張ったりしている。それはそれなりに手がかかるもののようだ。

私はどういうわけか、皇帝ダリアがあちこちで咲いているのを見て、シベリアン・ハスキーのことを思い出してしまった。もう 20年ぐらい前になるのだろうか。シベリアン・ハスキーという犬がやたら流行ったことがあって、犬の散歩コースではちょくちょく見かけた。それが今では絶えていなくなって久しい。

シベリアン・ハスキーは体も大きいし、力も強い。顔は怖い割に性格は穏やかで、人にはよく懐いたようだが、食う餌の量もばかにならないだろうし、飼うのはなかなか大変だったろう。それで流行はあっという間に終わってしまった。

皇帝ダリアもそんな風になってしまいそうな気がするのだが、どうだろう。何しろ流行というものに乗っているだけだし。

先月 21日に "「個性的」であることと「追従的」であること" という記事を書いて、人間には自分なりのスタイルを追求する人と、世間の流行に迎合する追従的な人があるということを論じた。ただ、流行に迎合するのは「追従的」であるだけでなく、それなりの金と暇がなければいけないのだと、皇帝ダリアを見て気付いた。

金がなかったらシベリアン・ハスキーなんて買って来れないし、暇がなかったら、あんな大きな花は育てられない。

 

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