高倉健と菅原文太の死
高倉健と菅原文太が亡くなったことで、ものすごく嘆き悲しんでいる人が少なくないが、申し訳ないことに、私としてはあまりピンとこない。思い起こせば、石原裕次郎が亡くなった時もそうだった。自分がアメリカかぶれだからかとも一瞬疑ったが、エルヴィス・プレスリーが亡くなった時も、全然ピンとこなかった。
私は石原裕次郎の映画はほとんど見ていないし、テレビはほとんど見ないから『太陽に吠えろ』も知らない。エルヴィス・プレスリーの曲も、ビートルズに夢中になってから、どちらかといえば懐メロとして知った。 それに比べれば、『網走番外地』も『仁義なき戦い』も見たはずなのに、どうも今イチぐさっと来ない。
もしかしたら、菅原文太までは、団塊の世代のアイドルだったのかもしれない。団塊の世代が心情的にコロッとまいってしまう要素が、エルヴィス・プレスリーから菅原文太までの一連の流れの中に散りばめられているように思われて仕方がないのだ。私は団塊の世代の直後の世代だから、彼らに対してはなんだか複雑な思いをもっていて、心から共感できないのである。
団塊の世代というのは、公式的には昭和 22年から 24年までの 3年間に生まれた人たちなのだそうだ。ほんの少しゆるめにとっても、昭和 25年生まれまでだろう。昭和 27年生まれの私より、2〜5歳年上だ。このあたりが、それまでの戦前、戦中派の価値観(終戦直後の生まれの人も、価値観は戦中派とそれほど変わらない)と、がらりと変わってしまう分岐点になっていると思う。
私はよくたとえ話みたいに言うのだが、今現在の 68歳以上の人は、車を買うときには自動的に 4ドアセダンを選択する。それ以外に自家用車の選択肢はないかのようだ。しかしそれより若い世代にとっては、それは「数ある選択肢のうちの 1つ」に過ぎず、さらに私の同年代になると、「4ドアセダンのオーナーになっている自分を想像できない」なんて言い出す。
で、高倉健、菅原文太は、「4ドアセダンは数ある選択肢のうちの 1つ」と思い始めた世代の人たちのアイドルなんだと思う。それだけ、その以前のスターと比べて革新的なのだ。しかし「4ドアセダンのオーナーになっている自分を想像できない」世代になってしまうと、この 2人は嫌いじゃないし、ましてやマイナス・イメージでは決してないけど、 「なんか、違う」と感じてしまうのである。
ちょっと上の世代が、どういうわけだかしらないが熱烈に支持しているのを見ているだけ、ますます「なんか、違う」感が、胸の中で増幅されているのである。もっとずっと若い世代だったら、「往年の大スターが死んだ」というだけの、客観的事実で済んでしまうのかもしれないが。
どういうことかというと、私の世代は物心ついてからずっと、すぐ上の団塊の世代の荒らしまくった世界の後始末をしながら生きてきたという感覚がある。妙に揺れ動きすぎた振り子を落ち着かせるのが、自分の仕事みたいに思っているようなところがあるのだ。
だから今回の 2大スターの死に関する世間の悲しみにしても、申し訳ないけど、過度の共感は覚えないし、それに乗っかってもっともらしいことを言う気にもなれないのである。
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コメント
ひさしぶりにコメントさせていただきます。
昭和33年生まれの私にもピンときません。
おそらく現在TVや新聞・週刊誌を編集している人たちも、本当のところはそれほど実感がないのでは?
TVでコメントしている愛川欣也さんとかも70代でしから。
投稿: ちいくま | 2014年12月 4日 08:27
ちいくま さん:
>おそらく現在TVや新聞・週刊誌を編集している人たちも、本当のところはそれほど実感がないのでは?
ジャーナリストの中には、共感能力の高い人がいて、その分錯覚しがちがこともあるんですよね。
ただ、現場のほとんどの人は団塊の世代ジュニア以下の年代ですから、ちょっとサービスして「盛った感じ」で報道していると思います (^o^)
投稿: tak | 2014年12月 4日 13:16