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2015年1月に作成された投稿

2015年1月31日

理想のパスワード管理とは

一昨日の記事、「パスワード管理は面倒くさいものだが」の続編である。どんなパスワードが一番安全で、しかも使いやすいかという問題だ。

まず、自分の誕生日、電話番号、住所など、個人情報から容易に想像がついてしまうのは、ダメである。ID さえ知られてしまったら、あとは容易にクラックされてしまう。恋人や配偶者、子ども、ペットの名前なんかもダメだ。

それから、単純な単語もダメで、その代表例が "password" である。昔のルーターなんかは、管理用の ID と パスワードの初期設定が "admin"、"paswword" というのが多くて、それをそのまま使っているというトンデモなシステム管理者がかなりいた。危なくてしょうがない。

そうでなくても 1ワードで辞書に載っているような単語は容易に想像がついてしまう。なぜか知らないが、"monkey" というのが結構多いそうで、あとは "baseball" "football" も増えているという。この 2語が増えているのは、最近 8文字以上のパスワードが要求されることが多いからかもしれない。ただ、いずれにしても 1ワードは容易にバレやすい。

さればといって、複数の単語を組み合わせたものならいいのかというと、"letmein" "iloveyou" "iloveu" なんていう定番は、やっぱりダメだ。こんなのでは、1ワードと変わらないほど不用心である。

となると、一番いいのはランダムな文字の組み合わせということになる。例えば "rTm#4vD)" みたいなやつだ。スマホの登録時に自動的に発行される暫定パスワードなんかは、この類いが多い。とにかくクラックしにくいから、なまじ余計な知識がなくてそのまま使い続けているなんていうのは、結構安全だ。

ところが、こうした 「セキュリティの観点からは望ましいパスワード」というのは、実際のところはかなり不人気である。自動発行された初期設定のパスワードをそのまま使い、メモするのを怠ったため、一度ログアウトしてしまったが最後、再びログインすることができなくなるという人が、案外多い。

そうでなくても、ランダムな文字列のパスワードは「面倒くさい」という理由で人気がない。もっと端的にいえば、「自分でも覚えられない」というのが正直な理由だろう。文字列自体に意味はなくても、「自然に発音しやすい」という要素があれば覚えやすいが、そうでないとフラストレーションの源泉になる。

つまり、ユーザーが覚えやすいパスワードはクラックされやすく、クラックされにくいパスワードはユーザー自身が取り扱いに苦労するというパラドックスが生じる。

こうした問題を解決するためには、自分しか知らないかなり昔の記憶のテキスト要素と数字要素を組み合わせるというようなテクニックが、役に立つかもしれない。例えば、通っていた幼稚園のクラスの名前と、親戚の電話番号を組み合わせて "himawari4398" なんていうのは、なかなかクラックされにくいだろう。あるいは小学校の校長のあだ名と最初に乗った車のナンバーで "kotaro3348" なんていうのも意表をついている。

そして、それらを一定期間をおいて更新していくということにすれば、なかなか立派なものだろうが、一番面倒くさいのは、この「時々変える」ということかもしれない。

 

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2015年1月30日

21世紀のオフィスルールってものがあるらしい

インフォシークの「楽天 Woman」というサイトに、「21世紀のオフィスルール」という記事がある。「上司が残業をしている場合、たとえ自分の仕事が終わっていても帰ってはならない」といったような不思議な「暗黙のルール」が前世紀には存在したが、最近はあまり気にしなくてもよくなってきたらしい。

サーブ・コープジャパンという会社が、40代、50代の管理職 400人に行ったアンケートによると、「部下が自分よりも早く帰ることをよしとしない」という上司は全体の 10.5%に過ぎなかったという。もっとも、私にとってはまだ「よしとしない」という上司が 1割以上もいるというのが驚きだが。

フツーは、用もない部下たちがいつまでも会社に居残って、そのせいで残業代がかさんだりしたら、管理職としての資質が問われるだろう。いや、そうした上司のいる会社というのは多分ブラックがかっているだろうから、上司に付き合って「サービス残業」ということになってしまうのだろうけどね。

さらに、「名刺を片手で受け取られた」、「毎朝、出勤時間にかろうじて間に合って出社する新入社員がいる」などと、なんだか細かすぎる不満を述べる上司も、まだいる。私なんか、両手で恭しく名刺を受け取られると、かえって気持ち悪いがなあ。それに、遅刻せずに出社するんなら、そりゃ文句を言う筋合いじゃないだろう。

さらに、飲み会で「グラスがカラなのに部下が酒を注がない」、「会計時に部下がお金を払う姿勢を見せない」などという不満もあったという。グラスに酒を注ぐかどうかは、最近では好みの問題で、私なんかは勝手に注がれたら迷惑である。それに会社の飲み会はたいてい上司が誘うのだから、上司のおごりで当然だ。それが嫌なら無理に誘わないでもらう方が、若い社員にはありがたいだろう。

いや、それよりもびっくりしたのは、この記事のカテゴリーが、「楽天WOMANトップ > ニュース > 芸能 > 21世紀のオフィスルール」と表示されていることだ。これって、楽天 WOMAN というサイトでは芸能ニュースということになっているようなのである。

 

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2015年1月29日

パスワード管理は面倒くさいものだが

AllAbout の newsdig に、「あなたは大丈夫? 漏洩した330万件から分析した最悪のパスワード」というニュースがある。それによると、2014年で最悪と評価されたパスワードは、昨年に引き続き "123456" で、2位はとても古典的な "password"。3位と 4位は首位と大差ない "12345" と "12345678" だった。

以下、5位から 7位は "qwerty"、"1234567890"、"1234" と、似たようなもので、8位から 10位に 初登場の "dragon"、"baseball"、"football" がランクインし。以下、15位までは "1234567"、"monkey"、"letmein"、"abc123"、"111111" と続く。13位の "letmein" (let me in = 入れて頂戴) も昔からあるが、2014年は 1ランク下がっている。こんなもんでも面倒に感じられるんだろうか。

周囲を見渡しても、"123456" ほどじゃないが、自分の誕生日そのままだったり、電話番号だったり、子どもの名前だったり、ID さえわかっていれば、あとは他人にも容易に想像が付いて不正ログインされそうなパスワードがやたらと多い。危なくてしょうがない。

なんで他人のパスワードのつけ方を知っているかと言えば、初心者に頼まれて PC や SNS の設定をしてあげる時、パスワードの設定まで頼まれることが多いからである。たいていは 「誕生日にしといてください」 なんてことになる。他のパスワードなら、入力したらすぐに忘れてあげることにしているが、誕生日がパスワードでは、忘れてもすぐに調べが付いてしまう。

それでも、当人が忘れてしまって、「私のパスワード、何でしたっけ?」なんて電話で聞いてくる人がいる。「そんなの、覚えてませんよ。礼儀として忘れちゃうことにしてます。でも、もしかしたら、誕生日かなんかじゃないですか?」と答えると、たいていの場合「あ、入れました。ありがとうございます!」で済んでしまう。

中には会社名義の銀行預金のキャッシュカードの暗証番号を "1234" にしている人がいて、さすがにそれは必死に諫めたことがある。

ほぼ安全そうなパスワードを設定していても、「ややこしくて、すぐに忘れるから」なんて言って、ポストイットに書いて液晶モニターに貼り付けている人も、知っているだけで 10人は下らない。そんなんでは、パスワードを設定するだけ面倒くさい。

「じゃあ、お前は理想的なパスワード管理をしているのか」と言われたら、「ごめんなさい」と言うしかないが、それでも誰にも想像が付かない文字の組み合わせにしてある。不正ログインするのは、かなり困難だと思う。

あとは、時々パスワードを変更すれば満点なんだろうが、それがなかなか面倒なんだよね。これからいくつか変更しとこうかな。

 

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2015年1月28日

高速道路の逆走が、いよいよ増えているらしい

時事ドットコムが「高速の逆走防止対策会議=首都高、センサーで通報検討-警視庁」と伝えている。私が日頃利用する常磐自動車道でも、インター手前の一般道電光掲示板に、「逆走車を見かけたら #9910に通報」なんて表示されている。近頃の高速道路は、よほど逆走が多くなっているのだろう。

私は今月初めの「高速道路の逆走事故を巡る冒険」という記事でこの問題に触れたが、どうやら高齢ドライバーの増加と無関係ではないようなのである。都会では高齢者が無理に車を運転する必要性は薄いだろうが、田舎では車が下駄代わりなのだ。ちょっとボケたじいさんでも、ごくフツーにハンドルを握る。

だから、私は最近山形県庄内の田舎に帰ると、道路の流れがものすごくゆったりしてしまっているのに気付く。昔はそんなことはなかったのだが、今の田舎は年寄りばかりだから、スピードを出さない(出せない?)のである。流れが法定速度以下なんていう、茨城県では考えられない状況がフツーになっている。いや、そのうち茨城県でもそうなるかもしれない。

老人の認知症というのは、徐々に進行する。家族が異変に気付かなくても、高速道路上で突然ぼうっとしてしまったら、大変なことになる。「ありゃ、乗り過ごしちまった!」と気付き、次のインターで降りようとして、「いや、余計な金を払うのも癪じゃわい」 なんてことをつい思ってしまい、その場で U ターンなんてことが、フツーにあるみたいなのである。

高齢者がどんどん増えているのだから、ちょっと前までなら考えられないようなケースが増えるのも当然だ。これからは高速道路の運転も、余計なことに気をつけなければならない。

高速道路だけじゃない。私は一般道、しかも狭い田舎道で、自転車で右側を逆走してくる老人の多いことに、かなりヒヤヒヤしている。彼らは「自転車も車両だから左側通行しなければならない」なんてことを、まったく知らない。

いや、知らないというだけなら、確率論からいえば左側を走る可能性が半分はあるはずだが、彼らはほぼ 100%右側を逆走する。若い頃から「歩行者としての右側通行」が体に馴染んでいるからか、その延長で、自転車でも当然のごとく右側を走る。だから、危険性がきっちりと 2倍になる。

一般に老人は情報弱者となりがちだが、知らなければ命に関わることすら、知らずに生きている。同様に老人に多いのが、「もちによる窒息事故」と「振り込め詐欺」の被害だ。私は今年の正月 4日に次のように書いている。(参照

振り込め詐欺にひっかかっても金を失うだけで済むが、闇夜に無灯火の自転車で右側車線を逆走するのは、命に関わる問題である。しかしいくら命に関わる情報でも、届かないところには絶対に届かない。

だから、「高齢者はもちを詰まらせやすいので、小さく切って、あわてずにゆっくりと食べましょう」なんていう情報をいくら流しても、平気でわしわし食って、「うっ!」てなことになる人が後を絶たない。年寄りでも食べやすいもちやその代用食なんてものを売り出しても、肝心な高齢者やその周囲の人までその情報が届きにくい。

こればかりは仕方がない。情報をもつものが気をつけてあげるしかないのである。

 

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2015年1月27日

駅ナカの立ち食い蕎麦屋、大激減

最近、首都圏の主要駅の構内から、立ち食い蕎麦の店がどんどん姿を消しているような気がする。立ち食い蕎麦は、その回転率からいって、もうかる商売の代表みたいな言われ方をしていた時期があって、その頃はどのホームにも、たいてい真ん中辺りに立ち食い蕎麦屋があった。

ところが最近では、立ち食い蕎麦屋のあるホームはとても少なくなり、それどころか、駅の構内を見渡しても、なかなか見つからなくなった。世の中の移り変わりを、私は駅ナカの立ち食い蕎麦屋大激減という現象に、端的に見る重いがしているのである。

ちなみに、駅を一歩出れば今でも立ち食い蕎麦屋は健在だ。「富士そば」はちょっとした駅前なら必ず見つかるといっていいほどだし、「小諸蕎麦」も繁盛しているようである。ところが一歩駅構内に入ると、どんどん姿を消している。

そもそも、駅ナカの立ち食い蕎麦の存在意義は、「お洒落な店」とか「グルメ」とかとは対極的なところにあった。ゆっくり食っている時間はないが、とりあえず手っ取り早く小腹を満たしてくれる店として、重宝されていたのである。

一時、牛丼の吉野家が「うまい、安い、早い」をキャッチフレーズにしていたが、それは、吉野家が駅ナカの商売じゃなかったからである。駅ナカの立ち食い蕎麦屋には、誰も「うまさ」なんて求めない。外食をする客がみな、「うまさ」を求めているなんてことはないのである。そんなのは幻想に過ぎない。

駅ナカの立ち食い蕎麦屋が、下手に「うまさ」を追求するあまり「安さ、早さ」を犠牲にしてしまったら、それは幻想にとらわれ、現実の客のニーズを無視したことになるのである。要するに、食えるレベルでありさえすればいいのだ。

一方、駅前の立ち食い蕎麦屋は、事情が少し異なる。駅から一歩出てしまった客は、急いで乗り換えることもないから、それほど時間に追い立てられてはいない。だから小諸蕎麦みたいな、ちょっと手間をかけて蕎麦を、椅子に座ってゆっくり食べられるような、それなりの付加価値を訴求した店が繁盛する。

しかし、「駅ナカ」と「駅前」とは、事情が決定的に違うのである。駅ナカで駅前の商売をしようとすれば、それは儲からないに決まっている。それをわきまえずに、駅ナカで「ちょっとお洒落な立ち食い蕎麦屋」なんてものをやろうとしても、成功するはずがない。

近頃リニューアルして「お洒落」な雰囲気になった都心の主要駅には、昔ながらの立ち食い蕎麦屋はそぐわない。ところがお洒落な雰囲気に合わせ、若い女の子でも入れるような、ちょっと付加価値を付けた立ち食い蕎麦屋なんてものをやろうとしても、誰も具体的なイメージが浮かばない。そんな中途半端な店は誰も求めていないのだから。当然と言えば当然だ。

そんなわけで、駅ナカの立ち食い蕎麦屋は、廃れてしまった。手っ取り早く小腹を満たしたいオジサンは、結局空きっ腹を抱えたまま電車を乗り換えるしかなくなったのである。

 

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2015年1月26日

馬鹿なことばかりしていたから、戦争に負けたのだ

慰安婦報道巡り、慰謝料求め朝日新聞社を提訴」と、当の朝日新聞が報じている。朝日の慰安婦問題の報道で 「国民の名誉が傷つけられた」として、8749人が、1人あたり 1万円の慰謝料と謝罪広告の掲載を求めている。原告の中心みたいな感じで名前が挙げられているのは、渡部昇一氏で、他にも研究者、評論家、衆院議員らが名を連ねている。

ちょっと前までは朝日的論調が日本の主流にあって、従軍慰安婦に関する当然の疑問を述べただけで「右翼」呼ばわりされた。ところが今はその力関係が変わってしまって、朝日的な「行き過ぎたリベラル」が、槍玉に挙げられてしまっている。

「従軍慰安婦」に関しては、いろいろな資料を検討してみても「強制的に徴用された」というのは明らかに虚偽の言いがかりであり、どうしても日本を悪者に仕立て上げたい勢力が作り上げてしまったでたらめだという指摘に、私も賛成する。その意味で、朝日の犯した罪は重いと思う。

しかしかといって、戦時中の日本には恥ずべき点などなく、悪いイメージはすべて東京裁判において戦勝国側が押しつけたものであるといわんばかりの論調は、「そりゃ、悪のりし過ぎだろうよ」と思う。いちびりにもほどがある。

戦後になってアジア諸国の独立が勝ち取られたのは、太平洋戦争初期において日本が欧州の植民地となっていた東南アジアに侵攻したおかげだとして、「あれは聖戦だったのだ」という主張まであるが、私としてはそれはあくまで「結果論」だと思っている。まあ、このくらいのことがなければ、あまりにも救いがたいので、ありがたい結果論ではあるが。

太平洋戦争が崇高なものだったとしたら、多くの日本人が一時的な挫折感を超えた後はむしろ進んで敗戦を受け入れ、それまでの価値観をあっさりと捨て去り、開放感さえ覚えていたという事実を説明できない。やはり戦時中の状況は、当の日本人にさえも「とんでもない無茶」を強いるものであったのだ。

私の父は志願して予科練に入り、特攻隊に選出された。ところがその頃にはもう「神風攻撃」をしかける飛行機は残っておらず、上陸してきた敵に爆弾を背負って自爆攻撃をかける訓練ばかりしていたという。そのうちに終戦になって、父は死なずに済み、巡り巡って私がこの世に生を受けた。

予科練時代の集まりに行った父が、ある年「海軍精神注入棒」という記念品を持ち帰った。昔の海軍には、新兵の人間としての尊厳を打ち砕いてしまうために尻をぶん殴る固い樫の棒があり、それを「海軍精神注入棒」と称したらしい。その棒を卓上に飾るための小さなレプリカとして、記念に配られたのだそうだ。

予科練時代の思い出を時に懐かしく語る父だったが、その記念品はちっとも喜ばず、押し入れの奥に無造作に押し込めていた。実家の荷物の整理でそれを見つけた私が、「これは一体、何だ?」と聞くと、父は「そんな馬鹿なことばかりしていたから、戦争に負けたのだ」と、苦々しく吐き捨てた。

太平洋戦争中の日本の軍隊は、決して誇れたものではなかったと、私は考えている。事実として、行く先々で様々な蛮行をしたのだ。それは、後から誇張に誇張を重ねて語り継がれた「南京大虐殺」というほどのものではなかったにしろ、立派な行為ばかりしてきたとは、とても言えない。それは生還した元兵士たち自身の口から生々しく語られている。

これまでの揺り戻しで、日本軍のしてきたことが美化されてしまいかねないのを、私は危惧している。私は自分を愛国者だと思ってはいるが、「そんな馬鹿なことばかりしていたから、戦争に負けたのだ」という父の一言は、重く受け止めている。

ありもしなかったことを「あった」というのと同様に、あったことに目をつむるのも、やはり罪である。

 

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2015年1月25日

還暦を 2年過ぎて、どうやらここまでは悟った

私は昔から、物事を達成するための努力はするが、無駄な「あがき」はしないというタイプの人である。別の言い方をすると、自分で何とかしようと努力して、その努力が報いられる可能性が少しでもあれば、真剣に努力するが、自分の力ではどうしようもないことであれば、あっさりと諦めて素直に受け入れるべきだと考えている。

「自分の力ではどうしようもないこと」というのは、例えばこの世に生まれてきてしまった以上は、自分の両親と親類縁者の面子は変えようがないというようなことだ。端的に言えば、親兄弟を恨んでも仕方がないということである。親兄弟を恨むのは、典型的な「無駄な努力」だ。努力なしには、恨み続けることだってできない。だったら素直にありがたく売れ入れる方が手っ取り早い。

同様に、これまでの生い立ちや、自分の文化背景としてのナショナリティなども変えられない。周囲の自然環境も、これ以上悪化させないための努力はできるが、根本的なあり方までは変えられない。何しろ明日のお天気だって、お天道様次第なのである。

政治状況なども、自分の発言や活動の影響力なんて微々たるものだ。だから選挙の度に投票はするが、それによって社会が劇的に変わるなんて期待はしていない。期待していないどころか、ほとんど諦めているという方が近い。投票を棄権しないのは、客観的にみれば単なる「悪あがき」みたいなものである。

私は、人生なんて水たまりに散った木の葉のようなものだと思っている。木の葉が水たまりから脱出しようとしても、自分の力ではどうにもできない。悪あがきすればするほど疲れるだけである(もっとも木の葉は、悪あがきしたくてもできないのだけれどね)。

逆にただだまって諦めて、水たまりの中に浮いてさえいれば、いや、たとえ沈んでしまったとしても、さらに大雨が降ってくれれば水たまりが溢れて、外に流れ出ることもある。ただ、流れ出て行き着く先はわからない。行った先々でそれなりに対応して漂い続けるだけである。

あるいは、大雨なんて降らずに日照りが続き、水たまりが干上がってそのまま朽ち果ててしまうかもしれない。それならそれで、朽ち果ててダニに食われ、排泄物となって微生物によってさらに分解され、周囲の植物たちの養分になれれば幸いというものである。そのままミイラのごとく変化しないよりはずっといい。

要するに、努力は精一杯するが、自分の力なんてたかが知れていると思っているのであある。何かそれなりの成果の上がることを成し遂げるとすれば、それはほとんど自分の力によるものというわけじゃなく、周囲の力の方がずっと大きい。自分は周囲の流れにうまく乗っかることができたというだけのことである。

周囲の流れにうまく乗っかるには、周囲とかなりの部分で同化しなければならない。反発していては乗ることなんてできない。それなりに意味のあることを成し遂げようと思うなら、意味のある人たちや物事と、親和しなければならないのである。ということは、「意味のあること」を見つけることさえできれば、幸せな人生のとっかかりはつかめたのである。あとはそのことに馴染んでしまえばいいだけだ。

馴染めなかったら、選択を間違えたか、自分がわがまますぎるかのどちらかである。要するに、周囲が悪いのではなく、自分がまずかったのだと思えば、腹も立たずにやり直せる。周囲が悪いと思っているうちは、何をどうやり直しても、ことはうまく運ばない。いつも自分で選んで悪い環境の中に飛び込んでしまうだけである。

 

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2015年1月24日

「荷役」の読みは「にやく」が正しいらしいんだが

漢字の読みをめぐる冒険」という記事を書いたのは、もう 7年も前になる。この中で、「捏造」は「でつぞう」、「洗滌」は せんでき」と読むのが正しいなどという「意外な正しい読み方」を紹介した。「依存」が「いそん」で、「間髪を入れず」が「かんはつを〜」だったりするのは、まだ序の口である。

私は収入のかなりの部分が 「原稿料」 という名目で入ってくるので、言葉に関しては一応プロである。その私としたことが、最近初めて知った 「漢字の正しい読み方」というのがある。それは「荷役」という言葉で、正しい読みは「にやく」なんだそうだ。これまでずっと「荷役作業」を「にえきさぎょう」と読んでいたけど、間違いだったわけだ。

これに関して調べてみると、大修館書店の「漢字Q&A」というページに、次のような説明があった。ちょっと長めだが、引用する。

「やく」は呉音、「えき」は漢音というのが両者の違いで、中国語としての漢字にまでさかのぼった場合、意味的な違いではありません。しかし日本では、古くからこの2つの音読みを、意味によって使い分けてきました。

「えき」と読むのは、「働かせる」「戦争」などの意味の場合です。「使役」「戦役」などが、この例にあたります。これに対して「やく」と読むのは、「割り当て」「仕事」などの意味の場合で、「役割」「配役」「役人」などがこの例です。この使い分けは、日本独自のもので、漢字が本来持っていたものではありませんが、私たち日本人としては、これに従っておいた方がよいと思われます。

さて、そうしますと、「荷役」の「役」はどういう意味かを考えれば、その読み方が決められるということになります。この熟語は、主に船舶などで、荷物の上げ下ろしをする仕事のことを意味しています。この場合の「役」は、「働かされる」という意味だとも考えられますが、「仕事」という意味で捉えておく方が、素直ではないかと思います。「荷役」はやはり、「にやく」と読む方がよいようです。

ふぅむ、言われてみればもっともという気もするが、なんだかまだ腑に落ちない。例えば 「雑役」は『大辞林』 によれば 「種々雑多の仕事。雑用」とある。上述の原則によれば、「仕事」というのだから、「ざつやく」と読むべきなのだろうが、「ざつえき」と読まれている。「雑役夫」も「ざつえきふ」であって、「ざつやくふ」 ではない。

また「苦役」も「苦しい肉体労働」のことだから、「仕事」 に他ならない。それなのに、「くやく」ではなく「くえき」である。また、一般的な用語ではないが「力役」(りきえき)という言葉もあり、『大辞林』では「体力を使って仕事すること。力仕事」とある。これも上述の原則に従えば「りきやく」と読むべきなのだろうが、そうなってはいない。

こうした感覚は、現代的な理解では「やく」と読むのは「役割」的な意味合いであり、英語で言えば "role" というニュアンスの強い場合が多いことによるのだと思う。「取締役」「配役」「上役」「悪役」 などが、このニュアンスにぴったりだ。

一方、「えき」と読むのは「戦役」という意味合いを別とすれば、今ではむしろこちらの方が「仕事」というニュアンスが強い。英語でいえば "task" である。上述の「雑役」も「苦役」も「力役」も、「仕事 = task」である。

だから「荷役」も「にえき」と読む方がしっくりくるわけだ。しつこく例を挙げ続ければ、「現役」という言葉も、「現に働かせる」というよりは「現時点でその仕事に就いている」というニュアンスだから、「げんえき」でしっくりくる。

大修館書店の説明にあるとおり、「日本独自のもので、漢字が本来持っていたものではありません」というのだから、例外的というか、通り一遍では説明が付かない用例がうじゃうじゃあるのも当然である。

さらに漢和辞書を引いても、少なくとも私の手持ちの三省堂版『携帯新漢和中辞典』には「荷役」という言葉は見当たらない。ということは、元々の漢語ではなく、和製熟語である可能性が高い。そんなわけで、「荷役」が「にやく」というのも、後付けの理屈で無理矢理に当てた読みということのようで、それもしっくり来ない要因ではあるのだろうね。

 

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2015年1月23日

違和感だらけの記者会見

「イスラム国」 で日本人 2人が拘束され、殺害予告が出ているとのニュースに関しては、申し訳ないがあまり関心を持っていなかった。ところが今朝たまたま、人質の 1人、後藤健二氏の母親という石堂順子さんの記者会見の模様をラジオで聞き、あまりの違和感に、かえって少し興味が湧いてしまったのである。

そもそも、彼女の冒頭の発言、「日本国民、政府の方々、ここにお集まりの方々に、感謝とご迷惑をかけたことをお詫び申しあげます」という、メチャクチャな日本語のコメントに、ちょっと驚いた。だが、「まあ、相当混乱してるんだろうから仕方ないか」 と眼をつむった。

ところがそこから急に、息子の安否を心配する母親ではなく、反原発運動家としてのコメントがあふれ出してきたことに、今度はちょっとどころでなく驚いた。新聞やテレビではきれいに編集されて、「健二はイスラム国の敵ではない、健二の命を救ってください」 と訴えたと報道されているが、実際の会見では反核の主張の方がメインという印象だった。

とくに「私は今、こみ上げてくる涙を隠しておりますが、そのまま語っておりますが、それは先ほど申しました、原子力の問題です」とのコメントには、正直言って最大限に困惑した。

ネット界隈では、この石堂さんへの率直な違和感の表明、違和感以上の嘲笑、そして「息子の命が危険な状態で、普通の精神状態じゃないのだから、そこを思いやれ」という、大きく分ければ 3つの立場のコメントが飛び交っている。

私も「普通の精神状態じゃないのだから思いやれ」とのコメントに関しては理解する。ただ、理解はするものの、「このオバサンの記者会見は、完全に逆効果だったな」と、客観的に判断せざるを得ないのである。同情と客観的判断は別物だ。

まず、この記者会見をテレビやラジオで聞いていた人たちは、それまで「できるだけの交渉努力をして救出してあげなければ」と考えていたとしても、その気持ちはかなり萎えてしまっただろう。政府部内で実際の救出活動に関わっている人たちに関して言えば、一般の人たち以上に冷めてしまったに違いない。

そもそも、後藤健二氏とともに人質にされている湯川遙菜氏という人に関しては、当初からあまり同情されていなかった。民間軍事会社の代表を名乗っているらしいが、その会社の活動実績はほとんどなく、自身の軍事経験も訓練を受けた実績も皆無。英語もアラビア語も話せないという。何のためにふらふらと中東まで行ったのか、わけがわからない。

一方、そのわけのわからない人の「救出」のために「イスラム国」入りしたという後藤健二氏の方は、「正義感あふれるジャーナリスト」というイメージで、同情されてはいた。しかし今日マスコミに登場した母親がいらぬことを口走ったために、そのイメージはかなり崩れてしまった。

後藤氏が生後 2週間の子どもと妻を置いて行ってしまったことに関して、実の母親がつい最近までその事実を知らなかったと告白し、さらに「怒りを感じた」だの「解せない」だのというコメントを発してしまっている。これでは、はっきり言ってぶちこわしではないか。

彼女は、記者会見の前に近しい知人たちから会見を止めるように忠告されたというが、知人たちがそう忠告するのは、至極もっともだと思わざるを得ない。このオバサンが口を開いたらろくなことにならないということを、周囲の人たちは知っていたのだろう。

この記者会見に参加した外国人記者たちは、どんな記事を書けばいいのか、本当に困ってしまっただろう。「人質の母親が記者会見で地球環境保護を訴える」と、そのまま書いてしまったら、単なるガキの使いになってしまうし。

最後に、エコ派で反原発の私ですら、「このオバサンと一緒に見られたくはないな」と感じてしまったことを告白する。その意味でも明らかに逆効果だった。

 

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2015年1月22日

しばらく Safari と Chrome を使い分けてみよう

Internet Watch に "「Google Chrome 40」安定版公開、62件の脆弱性を修正" という記事が載った。バージョンは 「40.0.2214.89」で、「Windows 版、Mac 版、Linux 版が提供され、既存ユーザーは自動的にアップデートされる」とある。

「どれどれ」と自分の Mac で Chrome を立ち上げ、バージョンナンバーを確認したら、「40.0.2214.91」と表示された。おやおや、上述の記事は今日の、しかも日が暮れてから(2015/1/22 18:33) のものなのに、それから 4時間ほどの間に、既に 2回修正されているようだ。すごいものだね。

ところで、私は昨年 4月に「Mac と Chrome は相性が悪いようだ」という記事を書いている。私の MacBook Pro で長時間 Chrome を起動して作業していると、きまって OS がクラッシュしてレインボーカーセルが表示されっぱなしになり、強制終了に追い込まれる事態が頻発していたのだが、ブラウザを Safari にした途端に解決した。これでは Chrome との相性が悪いと判断するしかなかったのである。

ネットで検索してみると、MacBook Air 2012年版との相性が最悪とのレポートが散見されたが、実際は MacBook Pro との相性もかなり悪いみたいだったのである。ただ、長時間起動させなければクラッシュすることはないため、私は必要に応じてちょこちょこ Chrome を立ち上げて、用が済んだらすぐに終了させるということで、今日までやってきた。

本日公開された Google Chrome 40 は、わざわざ「安定版」とされているのだから、もしかしたら MacBook との相性が改善されているかもしれない。Interenet Watch の記事には「Mac OS との相性問題解決」というのはちっとも謳われていないが、これが放置されているということもなかろう。うん、きっと解決されているはずだと信じよう。

こう信じたいというのには、理由がないわけじゃない。Safari はなかなかいいブラウザで、使っていてもほとんどストレスがなく、しかも iPhone、iPad との同期もさくさく取ってくれるのでありがたいのだが、たった 2つ不満がある。それは、Safari には「フレーム内再読込」の機能がないことと、このココログの記事作成/編集画面の表示が、いまいちしっくりせず、ちょっとした不具合が頻発することだ。

それで今日のこの記事は、試しに Chrome を使って書いている。やはり、ココログの記事作成/編集画面に限っては、Chrome の方がずっとしっくりくる。これは、Safari の機能が悪いのか、それともココログの対応がまずいのか、判断できないが、要するにココログに関しては、 Chrome の方がずっと相性がいいようなのである。

このまま Chrome を起動しっぱなしにして何の問題も生じなければ、少なくともブログ更新作業の時は Chrome を使うことにしようと思う。それ以外では Safari の心地よさというのも確実にあるので、しばらくは 「使い分け」 でやってみたい。

【2月 7日 追記】

Chrome を起動させたままにしておいても、前ほど頻繁にフリーズすることはなくなったが、Office アプリでややこしい処理をさせると、レインボウ・カーソルが出現する傾向があるとわかった。しかしその場合でも、システム全体がフリーズしているわけではなく、Chrome を閉じれば短時間のうちにレインボウ・カーソルは消えて、通常の状態に復帰する。

問題は軽くなったとはいえ、やっぱり Chrome と Mac の相性は、根本的には解決されていない気がする。

 

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2015年1月21日

文書をプリントする場合、フォントをどう指定するか

今日は、いわば昨日の記事の続編である。英数字を半角で揃えることに関しては、まあ大方の納得は得られるだろうが、問題は Word などで文書を作成する場合のフォントをどうするかである。

結論的にいえば、私は Word のフォント設定は 「日本語: MS 明朝、英数文字: century」 をデフォルトとしている。Word をインストールした時の設定のままにしていると、英数文字が 「日本語用と同じフォント」 ということになったりしているので、プリントアウトした場合の体裁を考えると、変更しておく方がいい。

ブログ本文ではその違いは表現できないので、Word 文書の実例を画像で示すと、こんな具合になる。

Font

上段は同じ英文テキストを、MS 明朝と cenruty で表示したものだ。左側の、すべてMS 明朝体で表示した方はずいぶん頼りなく、また間延びして見えるのがわかる。

それもそのはず、明朝体というのはそもそも、日本語を表示するためのフォントであって、英数文字は専門外なのである。だからこれで英数文字を表示させると、日本人がカタカナ英語でしゃべっているのをそのまま文字にすると、こんなふうになるのではないかというような、どうにも  「こなれない」 イメージになってしまうのだ。

一方、右側の century で表示したものは、いかにも英語らしい、しっくりくるフォントと納得されるだろう。

一方、日本語と英数文字を混在させる場合は、好みが分かれるところかもしれない。画像下段の、左側は日本語も英文字も、すべて MS 明朝で入力したもので、右側は、日本語は MS 明朝、英数文字は century にして混在させている。

私は、日本語は日本語らしく、英数文字は英数文字らしく表示されている右側が好みだが、なかには左側のすべて日本語らしいイメージが好きという人もいる。右側だと、アメリカ人が日本語をしゃべっているような雰囲気と取られてしまうのかもしれない。まあ、そんな感覚もわからないではないけどね。

ただ、個人的には上述の通り、 「日本語: MS 明朝、英数文字: century」 をデフォルトとすることをオススメする。だって、どう見てもその方が、見た目がスマートじゃん。

 

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2015年1月20日

英数字の入力、全角? 半角?

デジタル・データとしての書類を作る際に、私は英数文字はすべて半角に統一することにしている。ほんのたまに全角英数文字が混じることがあるのは、単に変換ミスであり、気付き次第すぐに半角に修正する。

半角にこだわるのは、全角だといかにも間延びして見えるためもあるが、根本的な理由は、デジタル・データとしての基本的なメリットを活かすためだ。デジタル・データにおいては、同じ「100」 でも、全角で「100」と書かれたものとは明らかに区別される。ということは、半角と全角を混在させてしまうと、同じ「100」が同じ数として検索されなくなる。

せっかくのデジタル・データなのに、同じ数が同じ検索結果にかからなくなるのでは、あとからやりにくくてたまらない。それでどちらかに揃える必要があるのだが、同じ揃えるなら見た目のきれいな半角に揃えたくなるのは、人情というものだ。

全角を避けるもう一つの理由は、全角で数字を入力すると、行が分かれてしまうことがあるからだ。例えば、「200,425,843,021」という長い数字を入力すると、半角なら ひとつながりの数字と認識されるので、途中で切れて 2行にわたることはないが、全角だと平気でそれをやられてしまう。

例えば、前述の数字をあえて全角文字で表記すると「200,425,843,021」という感じだ。気持ち悪くてしょうがない。(この部分、ブラウザーによってはこちらの意図通りに 2行に渡って表示される実例にならないこともあるだろうが、ご容赦)

とまあ、大きくはこの 2つの理由で、私は「英数字は半角で」という原則を貫いているのだが、お役所の世界ではこれが通じないところがあるようなのだ。

法務省のサイトに「電子証明書申請用磁気ディスクの作成に当たっての留意点」というページがある。一般的な常識としては、「ディスクの作成」をするわけじゃなく、「作成したデータをディスクに保存する」のだが、まあ、お役所というのは、こうした時代錯誤的な言い方をするものである。

このページに、「商号又は名称,本店又は主たる事務所等,代表者等の資格,代表者等の氏名の入力」 という項目があり、そこには 「文字数等に制限があり,代表者等の氏名については126文字以内,それ以外の事項は各128文字以内で,いずれも全角で入力する必要があります」 とある。

つまり、会社の名前などは、それが英数文字であっても全角で入力しなければならないようなのである。ちなみにそれを規定したものだけに、上述の文章に登場する数字も、しっかりと全角文字になっている。

例えば 「株式会社 Global Office」 という会社があったとすると、お役所に提出する登記関連の書類では 「株式会社 Global Office」 という間延びした表記にしなければならないようなのである。まあ、そういう決まりらしいので、従わざるを得ないのだろうが、よくわからない決まりである。

 

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2015年1月19日

我が家もついに Google Map のストリートビューにカバーされた

なんと驚いたことに、Google Map のストリートビューで、我が家がいつの間にかカバーされていた。

我が家はその昔、田園地帯の中の荒れ地だったところらしく、30数年前に整地して宅地化したところなので、郊外といえば聞こえが良すぎるほどの、要するに田舎である。だからストリートビューなんてものには当分縁がないと思っていた。

ところが昨日ふと思い立って調べてみたら、なんと昨年の夏前に撮影されていたらしく、我が家がちゃんとカバーされていたのである。油断も隙もありゃしない。洗濯物まで映っているじゃないか。まあ、白いカジュアルシャツだから、見られても恥ずかしいってわけじゃないけどね。

それでまたふと思い立ち、私の実家も調べてみたら、これもまたきちんと映っている。実家は市街地に隣接しているので、意外でもなんでもないが、Google さんは本当にマメに世界中を回って写真を撮りまくっているようなのである。こうなると、よっぽど辺鄙な所でもなければ、居ながらにしてその近くまで行ったような気になれる。

調子に乗って、上京して以来住んだところを片っ端からあたってみたところ、すべての地点で住んでいた当時の面影が消え失せている。この家に越してくるまで住んでいた杉並区西荻窪のアパートも、見慣れないマンションに変わっていた。そりゃそうだよね。この家に引っ越してきてから既に 33年経つのだから、変わるのも当然だ。

しかしここまでストリートビューでくまなくあちこちの様子を見ることができるようになると、初めて訪問する家や会社にしても、行く前にその佇まいを確認することができるってわけだ。

便利といえばかなり便利だが、それがどうしたといえばその通りでもあり、複雑なところである。

 

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2015年1月18日

お天気について、あれこれ

この冬はたまたま、雪国に一度も旅していないので、日本海側がどんなに大雪に見舞われているか、実感がない。つくば周辺は一昨年の成人の日に大雪に見舞われ、昨年も 3回の積雪があったが、今年は今のところ、無事に過ぎている。

ただ昨年も、立春を過ぎてからびっくりするほどの大雪になったので、今年もまだまだ油断はできない。関東に雪の降るメカニズムは日本海側と違って、太平洋岸を低気圧が東に進むとき、寒気が入り込むと雨ではなく雪になるというパターンなので、冬型の気圧配置が崩れ始める頃に多いのである。

昨年の秋頃から、5年ぶりのエルニーニョ発生が確認されたので、この冬は暖冬になるなどと言われていたが、実感としてはちっとも暖冬なんかじゃない。特別厳しい寒さというわけでもないが、それなりにしっかりと寒い冬である。エルニーニョだからといって、暖冬と決めつけるわけにはいかない。

思えば私が中学生頃まで、つまり 1960年代中頃までは、私の田舎は結構雪深かった。小学校の頃まで住んでいた家の前は坂道になっていて、私は毎日のようにそこでスキー遊びをした。それが可能なほどに雪が降って、なおかつ車の通りが少なかったのである。

あんまり毎日スキーで滑っていたので、すっかりお腹いっぱいになり、長じてからは「金を払ってスキー場に行ってまで滑るのは馬鹿馬鹿しい」という気がしてしまい、バブルの頃でさえ「スキーに行く」という発想がなかったほどである。

ところが、高校に入ってからは私の故郷でも雪が少なくなり始めた。とくに大学に入って上京して以降は、年末年始に帰郷しても「雪のない正月」が珍しくないという時期がしばらく続いたのである。

「甲子園で東北の高校が結構勝ち進むようになったのは、雪が少なくなって冬でも練習できるようになったからじゃないか」なんて言っていたものである。ただ最近、また冬の積雪が多くなっても東北の高校が勝ち進めるのは、どうやら関西方面から入学させたいわゆる「外人部隊 の選手たちのおかげであるらしいが。

というわけで、最近はエルニーニョでも必ずしも暖冬になるとは限らないほど、「冬は寒いもの」ということになってきているようなのである。

「地球温暖化」などと言われているが、これは満遍なく暖かくなるのではなく、計算ししてみれば確かに平均気温は上がっているが、実際の気象は、暑いときには死ぬほど暑く、寒い時はやたら寒いという「極端化」の方向に向かっているというのは、このブログでも何度も書いたところである。

それで、最近は春と秋がやたら短いという実感があるが、そういえば昨年は珍しく「秋らしさを十分堪能できた」という気がしている。昨年の 8月「エルニーニョと季節感」という記事で次のように予言した通りになったのだった。

今年(注: 2014年)は旧暦では「閏 9月(長月)」があって、つまり 9月が 2度あることになる。新暦でいえば、今年は 9月 24日の秋分から、11月 21日まで、延々と 2ヶ月近くも旧暦の 9月が続く。

(中略)

今年、旧暦 9月が長く続くということは、晩秋を思わせる季節感が長く続くということになるのかもしれない。趣きのある秋になれば幸いである。

この記事について総括するのをすっかり忘れていたが、なんと実際に「趣のある秋」の季節感が、最近では珍しいほど長く続いたのだった。旧暦というのは日本の季節感をよく反映するといわれているが、ここまで当たってしまうと、「恐るべし、旧暦!」と言いたくなる。

というわけで、関東はここまではどうにか乗り切り、あとは「大寒」をやり過ごせばいいだけというところまで来ている。昨年のような立春過ぎの大雪がなければいいがなあ。

 

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2015年1月17日

たまる一方の紙の書類を整理する奥の手

常にどんどん増え続けて、デスクの上や書棚を埋め尽くす書類の山の整理には、多くの人が苦労しているだろう。最近はデジタル・ファイルという形でのデータ保存が多くなったので昔ほどではないが、それでもやはり、紙の書類は日々増え続けて仕事部屋のスペースを圧迫する。

私は以前、野口悠紀雄氏の「超整理法」の「押し出しファイリング」というのを試してみたことがある。このメソッドでは、書類を分類整理して専用ファイルに保存するなんていう、手間がかかるばかりで実利の少ない作業はしない。

超整理法で守るべきは、「端から立てて保存する」という原則だけである。何しろ、紙の書類というのは人間よりずっと怠惰で、一度横に寝てしまったら梃子でも起きない。

新しい書類はどんどん右の方に(別に左でもいいのだが、とにかく一方通行で)立ていく。そうすることで、書類は時系列に並び、「いつ頃の書類」ということさえ覚えていれば、さっと取り出しやすい。そして一度取り出して使った書類は元の場所に戻すのではなく、改めて一番右に立てる。

こうすることで、古い不要な書類は次第に左側に追い詰められ、新しい書類とよく使う書類だけが右側に並ぶことになる。左側に追い詰められてしまった書類は、ある時期に見切りを付けてどっと捨てる。それで、このメソッドを「押し出しファイリング」という。

ただこれは、とてもいい方式だと思ったのだが、いざ自分でやろうと思うと、なかなかうまくいかなかった。

初めのうちは書類立てにスペースがありすぎるので、よれっと曲がってしまう。曲がらないように封筒やクリアファイルに入れて立てようとすると、その手間さえ面倒で、ついデスクに積み重ねてしまう。それで結局、私の机の上は元の混乱した状態に戻っていた。

それを解決したのが、写真にあるような、6個の紙製ファイルボックスを並べて立てた、プラスチック製のケース 2個である。

Img_1144

この合わせて 12個のファイルケースに、月ごとの書類を入れていく。分類などせずに、ただひたすら放り込んでいくのは、超整理法と同様だ。1か月ごとに分けて入れるので、1年分の書類がこの中に入る。

私はこれを昨年の 1月から開始した。初めのうちは書類を横に積み重ねる習慣が抜けきらなかったが、とにかく結果的に月ごとのフォルダーに放り込めばいいので、後追いでもなんとかなり、5月頃には自分の中で定着したメソッドになった。

この「後追いでもいい」というのが、大きなメリットである。一度横にしてしまった書類でも、ちょっと日付を確認すれば放り込む先が明確なので、あっという間に片付く。「取り返しが容易」なのである。オーソドックスな超整理法は後追いが難しいので、途中で挫折してしまいやすい。

私は今年の元日に、昨年 1月の書類をどっと捨てた。空っぽになった 1月分のボックスに、今年 1月の書類を入れ始めている。このローテーションのおかげで、書類は 1年間確実に保存され、翌年同月にはいやでも破棄される。

このメソッドを試してみてわかったのは、一度この書類入れに放り込んだものは、よほどのことがない限り、再び取り出して見ることことなんてないということだ。稀に取り出して確認する書類もあるが、それは 1〜2か月以内のものがほとんどで、3か月経ってしまったら、まず用がなくなる。

というわけで、1年経過してしまったら、迷うことなく捨てることができる。これはある意味、「不要な書類」の棺桶のようなものである。ただ、ほんの稀に必要になることがあるので、 一応 1年間だけは墓に納めず(つまり廃棄せず)に、棺桶のまま保存しておくというわけだ。

どうせ 1年経てば破棄するもので、ある意味、気休めみたいなものだから、きれいに整理して保存する必要もない。どんどん放り込めばいいだけなので、手間がかからない。これも、長続きする要因だろう。

ちなみに、度々参照するほどの重要書類なら、デジタル・データで送ってもらい、PC の中に保存してあることが多いから、たいていはそっちの方を見る。編集作業やコピペなどの再利用が自在だから、自然そうなってしまう。

万が一、1年以上経って捨ててしまった紙の書類が必要になっても、それを作成した張本人のところにはデジタル・データで保存されているはずなので、ちょっとメールで依頼すればすぐに送ってもらえる。もし張本人のところにも保存されていないようなデータなら、そんなに重要なデータじゃないってことと、割り切ればいい。

ということは、これはデジタル時代になったからこそできるメソッドなのかもしれない。紙の書類がすべてだった時代には、やはりきちんと分類整理して、専用のフォルダに綴じて保存するのが最良の方法だったろう。ただ、今の時代に律儀にそんなやり方をするのは、時間の無駄でしかない。

そんなわけで、最近の私のデスクの上は、一時期よりは乱雑さが軽減され、作業スペースが広くなった。たまに紙の書類を探すことになっても、横に積み重ねられた山を掘り起こす必要もなく、簡単に見つかる。ありがたいことである。

 

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2015年1月16日

煮干しと焼干し

和食の出汁は、昆布出汁、鰹、鯖などの削り節、茸など、多種多様のものがある。最近は即席出汁の素が多くなったので、なかなか見られなくなったが、「煮干し」もポピュラーな出汁の一つである。

ただ、私は高校を卒業して東京の大学に入り、一人暮らしを始めるまで「煮干し」というものにはあまり縁がなかった。私の田舎、山形県庄内地方でポピュラーだったのは、「焼干し」の方だったと思う。

煮干しと焼干しの違いは、まあ、読んで字の如し、煮て干すか、焼いて干すかという、言うまでもないことなのだが、より詳しくは、Wikipedia  によるとこんな具合である。

  • 煮干し: 小魚を煮て干したもので、主に出汁をとる材料として使われるほか、そのまま、あるいは乾煎りにするなどで食べられている。カタクチイワシで作ったものが最も一般的だが、マイワシ、ウルメイワシ、キビナゴ、アジ、サバ、トビウオ(あご)などを原料としたものもある。イリコ (炒り子)、じゃこ (雑魚)、だしじゃこ (出汁雑魚)など多くの別名がある
  • 焼干し: 特に山間部においては川魚の焼き干しを貴重な蛋白源として利用してきた。
    焼き干しに利用される漁獲物は、アユ、イワナなどの淡水魚からイワシ、トビウオ、ハゼなどの海水魚まで多岐に渡る。(中略) そのまま炙って酒の肴や惣菜として利用する他、味噌汁や雑煮など汁物の出汁として広く利用できる。最近ではラーメンのスープ原料としても人気がある。また佃煮や甘露煮にしたり、身をほぐして炊き込みご飯の具とする事もある。その他にも燗酒の風味付けとしても利用される。

へえ、焼干しの世界の方がちょっと深いみたいなのだ。知らなかったよ。とくに最近は、我が郷土の名物「あごだし」(トビウオの焼干しによるもの)が一部で注目されているようで、「あご出汁ラーメン」なんかが珍重されたりしている。うちの田舎に来れば決して珍しくないのだけれどね。

ちょっと考えるだけでも、どさっと湯に入れて煮たものを干せばいい煮干しと違い、焼干しは手間がかかる。さらに、煮てしまったらその時点で旨みや栄養価のかなりの部分は失われてしまうが、焼いただけなら油が飛ぶだけなので、いい出汁が取れるだろう。

実際、青森県むつ市の脇野沢村漁業協同組合のウェブサイトには、次のようにある。

焼干しはカルシウムが多く栄養価が高いことで知られ、また魚を煮てから乾燥させる煮干と比べても、魚の旨みを凝縮させて封じ込める事が出来るため、煮干しの約5倍ものダシが取れると言われています。

ちょっとウェブで検索してみただけなので、あまり自信を持って言い切ることはできないのだが、どうやら焼干し文化圏は東北や山陰に偏っているようなのである。焼干しの方がどうみても 作るのに手間がかかるので、江戸を中心とした関東では消費に生産が追いつかず、一般化しなかったのだろう。

一方、上方は昆布出汁が多いのかしらん。また鰹節は、江戸時代中期以後に広まったもののようで、比較的新しい出汁の取り方とみられる。(間違ってたらごめんなさい。誰か指摘してください)

細かいことはよくわからないが、私は幸運なことに、美味しい出汁の取れる焼干しの文化圏で育つことができたということだけはわかった。何はともあれ、これはありがたいことだったと思う。

ちなみに庄内では焼干しは 「やぎぼす」 と発音する。煮干しの発音は、えぇと、法則からいえば 「にぼす」 になるが、私は庄内弁でそう言った覚えがない。それほど庄内では焼干しばかりだったと思う。

 

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2015年1月15日

山茶花が主の死のショックから立ち直り始めているらしい

今月 6日に「丹精してくれた主が亡くなったのを、花も悲しんでいるのか」という、ちょっとセンチメンタルな記事を書いた。

お向かいのお宅のご主人が、昨年亡くなり、奥様はかなり認知症が出ていて、どこかの高齢者施設に入っており、一人息子はほとんど絶縁状態で寄りつかない。というわけで、空き家状態になってしまった家の生け垣の山茶花が、この冬はなぜか一輪も咲かない。主が亡くなったのを、花も悲しんでいるように思われたのである。

Img_11281

しかし、その山茶花がようやく咲き始めたのである。一昨日の夕刻にひっそりと一輪が咲き、今日は午後に雨の降り出す前に、4〜5輪の花が開いていた。よく見てみると、蕾もいくつか膨らんでいるので、まだ続いて咲くだろう。

一時はこのまま枯れてしまうのではないかとまで心配したが、ようやく主の死によるショックから立ち直ったものと見える。これで少し安心して眺めていられる。そしてとりあえず、今日は雨が降っているからいいが、これからは乾燥が続いたら水をやろうかなと思ったりしている。

あとはほぼ絶縁状態にあるらしい息子が、母親とよりを戻してくれればいいのだが。

 

 

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2015年1月14日

吾妻山の思い出など

山形・福島県境の吾妻山で、火山性地震が急増しているという。その近くの蔵王山でも火山活動の活発化で、5月に予定されていた自転車レース「日本の蔵王ヒルクライム・エコ2015」が中止されたというし、御嶽山や阿蘇山、浅間山、桜島ばかりでなく、日本全体で火山活動が活発化しているような印象だ。

吾妻山といえば、この火山群の中には東北では我が郷土の鳥海山に次ぐ 2000メートル峰の西吾妻山がある。独立峰ではないのであまり目立たないが、山塊全体としてみればなかなか魅力的なところだ。私は車で里帰りする時、時間に余裕があれば福島で東北自動車道を降りて国道 13号線を辿り、米沢まで景色を楽しみながら走ることがある。

東北という所はなにしろ山懐が深いので、自然の中に分け入ると、都市生活との隔絶がとても心地良い。街から抜けて少し行けば「山里の観光地」みたいな風情になり、そこから少し走ればまた街になってしまうという関東とは、全然かけ離れた感覚がある。

吾妻山の火山群の中に車で行ける浄土平というところがあり、そこから吾妻小富士(標高 1707m)という山までは、10分ぐらいで登れる。こちらのサイトに写真が紹介されているが、とても綺麗で雄大な眺めが楽しめる。20年以上前、犬 1匹、猫 2匹を含む家族旅行で、ここに立ち寄ったことがある。

吾妻小富士は大きな火口の縁を巡る 1周 400m のコースが有名で、犬とともにこのコースを巡った。帰ってきてからも、うちの犬には「1700m 以上の高度を経験した犬は、この辺ではお前以外にいないだろうから、誇っていいぞ!」と声をかけていたものである。

この犬もだいぶ前に死んでしまったが、一緒に行った日本各地の自然の中でも、あの火口を巡ったコースは今でも懐かしく思い出される。私ももう還暦を過ぎて、昔のようなハードな山登りはできないと諦めかけていたが、最近自転車に乗り始めて体力が戻ってきたので、またちょっとした山登りならしてみたいと思うようになった。

今回の火山活動で、あの吾妻小富士の噴火口から再び溶岩が吹き上がるなんてことはないだろうが、既にだいぶ前から一切経山付近からは噴煙が立ち上っているようでもあり、ちょっと心配である。日本はとにかく、北から南まで火山の連なりみたいなところなのだから、警戒と覚悟だけは常にしておく方がいい。

自然を楽しむことと、自然を畏れ敬うことは、矛盾しない。同じ心根から発するものである。

 

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2015年1月13日

食品の異物混入と、原発の安全性

食品の異物混入というのが、最近やたらとニュースになっている。これほどまでに連続して取り上げられるのは、最近になって急に増えたからというわけじゃなく、元々珍しくなかったことが、急にニュースになり始めたからとみるのが自然だ。

実際、東京都福祉保健局によれば、平成 24年度に都内保険所に届けられた「異物混入」ケースは 681件もあったという(参照)。東京都だけで 1日に 2件近くもあるのだから、「この際、どんどんニュースにしちまおう」というつもりで調べれば、ネタはいくらでもある。

ニュースになりさえしなければ「日本で流通している食品は清潔で安全」という神話がまかり通っていたのだが、一度ニュースになってしまうと、たがが外れたように、神話を覆す材料があとからあとから出てくる。決して急に湧いてきた話ではなく、これまでは闇から闇に葬られていただけのことだ。

こうしたことは、原発の「安全神話」と同じ根っこをもっていると、私なんかは思ってしまう。福島の事故が起きるまでは、原発事故は「起きないもの」とされていた。とにもかくにも、「安全」なんだから、安心して受け入れろと言われていたのである。

しかしその実態を探れば、東日本大震災以前にも、日本各地で原発の小さな事故はいくらでも起きていた。原発を作ったメーカーの担当者は、何か不具合が起きる度に現場に飛んで、結構長期間尻ぬぐいに追われるなんてことがあった。報道されることは滅多になかったが、そんなケースがなかったとは言わせないよ。

何が言いたいかというと、食品にしろ原発にしろ、何か事故が明るみになって初めて「信頼が裏切られた」なんて言って大騒ぎするのは、「甘すぎる」ということである。事故は見えないところでしょっちゅう起きているのだ。

食品の異物混入ぐらいのニュースは、出始めるとどんどん出てくるが、原発関連のニュースは、あまりまともに取り上げすぎると大変なことになると思われているのか、ガラス張りになっているという印象は全然ない。せめて食品ぐらいの率直さで取り上げたらと思うが、それは期待できないだろうなあ。

 

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2015年1月12日

"Je ne suis pas Charlie" (私はシャルリーではない) と言う自由

フランス人って、無批判に他人と同じことを言ったりしたりするのが死ぬほど嫌いな人たちかと思っていたが、今回のデモに 100万人もの人々が  "Je suis Charlie"(私はシャルリーだ)というスローガンのもとに集まったのを見て、かなり驚いた。「シャルリー」というのは言うまでもなく、例の風刺漫画を載せた 『シャルリー・エプド』 から来ている。

まあ、この「シャルリー」というのは、あの『チャーリー・ブラウン』から来ているという説もあって、あの要領の悪い、いつもブツブツつぶやいている子どもということなら、まだ可愛げがあるが、『シャルリー・エプド』を直接指しているというなら、昨日の記事で書いたように、私は逆に "Je ne suis pas Charlie" (私はシャルリーではない)と言わざるを得ない。

ブロゴスフィアの中には、「フランスで "Je ne suis pas Charlie" なんて言おうものなら、『イスラム過激派シンパの非国民』扱いされかねない」なんてことを書いている人もいるが、私はそれはないと信じたい。言論・表現の自由を守ると叫ぶなら、 「私はシャルリーではない」という発言をも当然のごとく受け入れなければならない。

「言論・報道の自由」というテーゼについて、昨日も書いたことだが、権力を持つ側があまりにも当たり前のことをことさらに叫び出す時というのは、その裏でかなり複雑なモヤモヤが大きくなっている時なのである。これは一応半世紀以上生きてきた経験で知ったことだ。今回もそうした要素を色濃く感じてしまう。

私は世界を「西欧的近代主義」と「反西欧的ムスリム」の対立の構図に落とし込めたくないと思っているが、下手するとそっちの方向に向かってしまいそうだ。穏健なムスリムの排斥にすらつながりかねないような言論は、慎むべきである。敵でもない者を好んで敵に回す必要はない。

今回のデモに参加した人たちの多くは多分、「私はムスリムへの盲目的反感を抱いているわけではないよ」と言うだろうと信じる。近代主義の限界を超える要素を、西欧文明以外の価値観の中に学ぶというチャンスを自らの手で摘み取り、またぞろ前世紀の価値観に逆戻りするのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい。この点に関しては、昨年末の 「イスラム過激派のテロにどう対応すべきか」という記事でちょっと触れている。

で最後に、またしても念のために言うまでもないことを敢えて言っておくけど、私はテロを擁護する立場にある者ではないからね。

 

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2015年1月11日

「言論・報道の自由守る」なんて、単純なことを言ってるけど

ムハンマドを風刺した漫画を載せたフランスの新聞社、シャルリー・エプドがイスラム過激派からのテロを受けて死傷者まで出した(参照)ことについて、西側の政府やマスコミは異口同音に「報道の自由」を守るために戦うといった声明を出しているが、このケースって、そんなに簡単な図式で片付けられるのかなあと、私は疑問に思っている。

ブラック・ジョークや風刺、パロディというのはなかなか面白いものではあるが、ジョークや風刺、パロディの対象となった当事者にしてみれば、それはかなりムッとくるものである。その「ムッとくる」ところをぐっと堪えて、あえて笑って受け入れることができるのは、それなりに成熟した文化背景がなければならない。

「そんなことで本気で怒るのは大人げない」「笑ってジョークで返すぐらいの方がずっと洗練されてる」と思えるのは、私のみるところ、西欧文明の一部だけである。世界のマジョリティは、実はそんな文化とはほど遠いところにいる。

日本はかなり頑張れば、笑って受け流すぐらいのことはできるが、ジョークで返すというのはまだ至難の業だ。ましてや、韓国、中国、イスラム圏となると、本気で怒り出す可能性の方がずっと高いと、私は思っている。

日常生活においても冗談が通じない相手というのはいくらでもいて、他愛もないことで妙にぶち切れて怒り出す手合いは決して珍しくない。それは「洗練された文明圏」であるはずの西欧社会においてすら同様である。

どういうことかというと、洒落の通じない相手には、無闇な洒落を言うもんじゃないということだ。それがもし、洒落の通じる者同士で洒落の通じないやつを嘲笑うというスタンスで発信されたものだったなら、ますます悪趣味である。

その意味で、風刺やパロディが単純に「報道の自由の範疇」と思っているのは、ある意味、西欧的傲慢である。喩えは悪いかもしれないが、すれっからしの大人が妙に一本気な子どもをブラックジョークで挑発しても、それは洒落にならないのだ。

本当に洗練された大人ならば、そのあたりの人情の機微をきちんとわかって、その上で上品なユーモアを発信しなければならない。洒落の通じない相手をわざわざ趣味の悪い洒落で挑発したら、相手がぶち切れるのは当然だ。しかも、相手の側には名うての過激派がいることが、わかりきっているのである。

そのぶち切れた相手に対して「言論・報道の自由を守る」なんてステロタイプの決まり文句で渡り合うなんていうのは、実は大した大人じゃなかったんだねと、化けの皮が剥がれる行為というものだ。

昔から、権力をもったやつが「正しすぎること」をことさらに叫ぶ場合ってのは、裏側に(ここでは敢えて詳しくは触れないが)、何かもやもやしたものがどっさりあるのである。

日本でも政府が「言論・報道の自由を守る」なんて言い出しているが、そもそもそのお膝元ですら、そっち方面の自由なんてありそうで、実は全然保証されていない。妙な圧力によって表沙汰にされず、闇から闇に葬られる事案がいくらでもあるじゃないか。ないとは言わせないよ。とくに原発関連では、そんなことがやたら多い。

念のために断っておくが、私はテロを擁護するためにこんなことを言っているわけじゃない。しかし、わざわざテロを誘発しておいて、「言論・報道の自由を守る」もないもんだろうと思うのである。

私は言論の自由を最も大切なことと認識するものだが、あえて "Je ne suis pas Charlie." と言う。

 

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2015年1月10日

高速道路の逆走事故を巡る冒険

高速道路の逆走事故が後を絶たない。高速道路会社の資料(参照)によると、平成 23~25年の逆走事案 541件の分析の結果、65歳以上の高齢者によるものが 68%で、認知症や飲酒の疑いのあるものが約 4割に達しているとわかった。ちなみに 541件というのは「交通事故または車両確保に至った」ものだけで、実際は毎日のように逆走が発生しているという。

しかしいくらボケ老人や酔っ払いでも、高速道路って逆走できないように作られてるじゃないかと、フツーのドライバーなら思う。一体どうしたら高速道路の逆走なんてできるのだ?

その答えはどうやら、「フツーじゃない状態」だから逆走してしまうということらしい。では、一体どんなポイントから逆走を開始してしまうのかというと、約半数はインターチェンジやジャンクションからのようなのだ。

いろいろなページに説明してあることを整理してまとめると、それはこんなようなプロセスを辿ってのことらしい。

    1. まず、ドライバーが高速道路で乗り越しに気付き、あわてて次のインターやジャンクションで降りようとする。
    1. フツーなら次のインターで一旦料金所から出て一般道に降り、改めて高速道路に乗り直して本来の目的地に向かう。
    1. しかし気が焦っていて (さらに認知症が入ったりして) フツーの精神状態じゃなくなっている上に、超過分の高速料金を払いたくないという余計な意識まで邪魔をする。
    1. そこで何を思ってか、なにしろ 「フツーじゃない」 状態になっているので、あろうことか料金所の手前で U ターンして、逆走してしまう。
    1. 直接の U ターンでなくても、インターやジャンクションには結構複雑な構造になっていて、フツーでもしっかり標識を見ていないと変なコースに迷い込んでしまいそうなところがあり、結果的に逆走を誘発してしまうことがある。

複雑な構造のインターやジャンクションでは、睡魔に襲われたトラック・ドライバーも、つい間違って逆走経路に迷い込んでしまうことがあるらしい。プロが間違えるほどなのだから、このあたりは何とかしてもらいたいところである。

また、パーキングなどで休憩した後に、本線に出る経路を間違えて逆走してしまうというケースもあるようだ。パーキングの駐車スペースには斜めにラインが引いてあり、自然に走ればフツーに本線に戻れるようになっているのだが、それを無視するらしい。

もしかしたら、駐車スペースに入る時に、本来ならバックで入るところを、急角度で頭から突っ込んでしまい、その後バックで出て、そのままの方向で逆走してしまったりするのだろうか。この辺もやっぱり、「フツーじゃないから」としか言いようがない。

さらに驚くべきことに、本線上で無理矢理 U ターンしてしまう事例がかなり多い。パーキングからの逆走開始は 10%以下なのに、本線上での U ターンは 16〜19%にもなっている。「フツーじゃない」心理状態もここまで来ると、鬼気迫るところがある。

何しろ逆走ドライバーは 「フツーじゃない」から、ほとんどの場合、自分が逆走しているという意識がない。だからいつもの習慣で「左側通行」しようとするが、それはフツーのドライバーからみると、追い越し車線を逆走してくることにほかならない。

仮に、「ちょっと行き過ぎちゃったから、本線上を逆走しちゃおう」と意識的に思ったのだとしたら、そいつは (あり得べからざることだが)路側帯をコソコソと(多分、バックで)逆走するだろう。しかし焦って高速道路という意識が飛んでしまうと、追い越し車線をまともに逆走するという最も危険な事態になる。

私はよく「知って犯す罪と知らずに犯す罪とでは、知らずに犯す罪の方が重い」というお釈迦様の教えを引き合いに出すが、高速道路の逆走というケースを想定すれば、それももっともだと納得されるだろう。

とりあえず高速道路上で「逆走車あり」との表示が出たら、左側の走行車線を慎重に走って危険を避けるのが賢明とされている。

と、ここで本論は終わり。ここから先はどうでもいい 「オチ」 である。

冒頭でリンクした高速道路会社の資料は、ファイルネームが、あっと驚く "pdf.pdf" というものである。フォルダを少しさかのぼると "pressroom/press_release/head_office/h26/0910/pdfs/pdf.pdf" となっている。

フツーなら "head_office" 以下は "h26/0910.pdf" で済ませれば、無駄にフォルダを細分化せずに済むんじゃないかなあ。試しにググってみると、このサイトのプレス関係のフォルダには "pdf.pdf"  という名のファイルが少なからず存在している。例えば これ とか、これ とか。

こんな具合に 「構造を無駄にややこしくするメンタリティ」 が、ジャンクションの構造をわかりにくくしているんじゃないかと、あらぬ心配までしてしまいそうになる。

 

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2015年1月 9日

iPhone なら多少の不具合が許されてしまうのは

日経 BPO のニュースレターに「なぜ iPhone だと許されるのか?」 という山中浩之氏の記事があった。Apple 信者の盲目的追従ぶりや iPhone の過剰なブランド化に対する批判的な内容かと思って読んでみると、中身はその正反対だった。

山中氏の iPhone 6 に入れてある曲が、ある日片っ端から聴けなくなったのだそうだ。これは昔からあるトラブルらしいが、山中氏は初めて遭遇したらしい(結果的には iCloud との同期やり直しで解決したという)。そういえば iPhone は、純正マップのお粗末さやアンテナの不具合など、昔から結構トラブルには事欠かないが、なぜか致命的ダメージとはなっていない。

他のスマホなら市場から消えてしまってもおかしくないようなトラブルでも、iPhone だとなぜか許されてしまう。山中氏も前述のトラブルに遭遇した時、「他のスマホに乗り換えようとは、まったく思いませんでした」と言う。これはなぜなのか? 山中氏は次のように述べる。

「思い切った革新さえ見せつければ、多少の不具合は気にしなくていい」 これこそ我々日本人が、iPhone から学ぶべき点なのかも…。 しかし日本ではこういう発想の商品(不具合覚悟で革新に賭ける)は、そもそも発売を許されないはず。なので、やはり日本企業から iPhone が生まれるわけがなかったのです。その一方で、ユーザーとしての日本人は、こんな iPhone を熱烈に愛している。

こうしたことを踏まえ、山中氏は「ミスをなくすのも大事ですが、ミスを許してもらえる商品、サービスの作り方こそが、iPhone、アップルの秘密のような気がします」と結んでいる。

私も iPhone ユーザーであり、山中氏の見解に概ね同意する。私が iPhone からアンドロイド・スマホに乗り換える気がしないのは、iPhone の直感的使い心地とアプリの豊富さ、そしてその豊富なアプリが一応信頼のおける一元的なチャネルで入手できるという安心感が他では得られず、それが多少の不具合を補って余りあるからである。

私とて アンドロイド・スマホをいじってみたことぐらいはある。つい 1年半前まで使っていた E-mobile の Pocket Wifi は、まさしくテザリングができるアンドロイド・スマホだった。その上でいうのだが、アンドロイドは操作の直観性において、iOS と比較にならないほど劣る。

アンドロイドだと、ごく当たり前の操作がメニューのかなり奥深くに隠れていたりする。メニューの構造が、「純粋にプログラムの論理でいえばそういう分類になるんだろうけど、ユーザー感覚からするとうっとうしいよね」 と言いたくなることが多い。

要するに全体が、緻密なまでに論理的なプログラマー感覚に沿っている印象なのである。まあ、iOS とてもちろん論理的にはプログラムされているのだが、それは裏に隠されていて、ユーザー・インターフェイスは直観優先でいけるものに翻訳されている。しかしアンドロイドでは、緻密な論理がそのまま表面に出ているというイメージなのだ。

ある意味、これは好きずきの問題ともいえて、だからパソコン好きや IT オタクには、アンドロイドは何の抵抗もなく、むしろ「好ましい」と思われるほどでもあるようなのだがね。

私の場合、iPhone で何かの操作をする時、直観で「こうかな? ああ、やっぱりそうだった」で済むのだが、アンドロイドだと「こうかな? あれ、違うな。じゃあ、こうか、いやこれも違うか」とあちこちクリックしてみて、「まさか」と思っていた最後のクリックが正解だったりする。

そんなわけで、「辿り着いてみれば、それはなるほど理屈通りと納得するのだけれど、普段何気なく使う分には、何をするにも iOS と比べて一手間か二手間多いよね」と思ってしまいがちだ。

ある意味、論理よりもユーザーの直観に近い操作感覚を優先しているところが、iOS の最大のメリットである。だから一度これに慣れてしまうと、iPhone に多少の不具合があったとしても、アンドロイドに乗り換えて毎日イライラしようとは、決して思わない。ましてや、Windows でスマホをしようなんて、発想すら浮かばない。

つまり、iPhone が「多少のミスを許してもらえる製品」であるのは、その「圧倒的に心地よい直感的操作感覚」故であると思う。この快感を保証してくれる機種は他にないのだから、ほとんどの iPhone ユーザーにとって、「ずっと iPhone を使い続ける」というのは、「ほぼ動かしがたい前提条件」になる。

どんなに聞こえのいい新機能満載のアンドロイド・スマホが新発売になっても、恐縮ながら興味を覚えることすらない。だから私を含む多くの iPhone ユーザーは、ギャラクシーと Xperia のどっちが SONY でどっちが Samsung かということさえ、はっきりわかっていない。

一方、iPhone といえば誰でも Apple とわかるのは、ものすごいブランド力で、それは他では実現されない「心地よい操作感覚」によるものであると思う。

 

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2015年1月 8日

パチンコ業界はコアなファンが潰すのか

昨日は牛肉の業界に明るい未来はないという話をしたが、パチンコ業界の縮小ぶりもかなりのものらしい。

公益財団法人日本生産性本部の『レジャー白書』によると、2年前の話で恐縮だが、2013年のパチンコの市場規模は約 18兆8000億円で、1995年まで 30兆円規模だった頃と比べ、約 60%にまで縮小している。また遊戯人口も 970万人で、95年の約 3分の1にまで減少している。

バブルの頃、「へえ、パチンコの業界規模って、自動車のそれと同じぐらいなんだ!」と驚いたことがある。しかし今では国内自動車メーカーの総売上合計 44兆円の半分以下になってしまった。ただ私には、それでもまだ大きすぎる気がするけどね。

パチンコ業界衰退の要因は、「若者のパチンコ離れ」「娯楽の多様化」「金がかかりすぎる」などと言われている。まあ、もっともな理由である。

「若者のパチンコ離れ」に関しては、半世紀前までは高校生までパチンコ屋に出入りして「不良自慢」なんてしていたものだが、今ではあまりそんな話も聞かない。「若者の○○離れ」という話題では、クルマ、酒、野球、CD などが槍玉に挙がっているが、パチンコは確かに最たるものかもしれない。

「娯楽の多様化」「金がかかりすぎる」というのは、「若者のパチンコ離れ」の理由でもあるかもしれない。若者はスマホ 1台あれば退屈しないし、そもそも金がないから、「2万円かけて 5万円儲けることもある」なんていうような遊びはできない。

私は 4年ちょっと前に "「パチンコ離れ」を巡る冒険" という記事で次のように書いて、「金がかかりすぎる」という問題について触れている。

昔みたいにワンコインで時間をつぶせるというようなシステムに戻せば、少しは盛り返せるのかもしれないが、今の業態ではそんな小商いでは利益が出ないだろう。やっぱり、バブル期に最適化しすぎたのがいけないのだ。

ただ、パチンコ業界縮小の原因はこれだけではなく、もっと他にあると考えるようになった。それは、「パチンコという遊びのマニア化」である。昔は、街で時間つぶしにちょっとだけパチンコするとか、トイレを借りに入って、ついでにちょっとだけ遊ぶなんてことがあったが、最近ではそんなことはなくなった。

パチンコ店に入るということが、やたらハードルが高いものになってしまったのである。パチンコ台そのものが、昔の呑気でのどかなものとは様変わりしているようなのだ。

実は先日、異常な体験をした。雑居ビルのエレベーターで出口の階数を間違え、パチンコ屋のフロアに降りかけてしまったのである。エレベーターのドアが開いた瞬間、その大音響の凄まじさに度肝を抜かれた。あの中に足を踏み入れるというのは、並の度胸ではできない。あまりにも別世界すぎる。

しかも最近のパチンコ台はやたらいろいろな種類があって、プロレスやらアニメやらの世界を模したものが台頭しているらしい。そんなわけのわからないもの、初心者にどうしろというのだ。

昨年の春に「プロレスの今」という記事で、私は新日本プロレスの新しいオーナーの、カード会社プロシードの木谷高明社長のコメントを紹介した。それは、「すべてのジャンルはコアなファンが潰す」というものである。なるほど、今のパチンコはコアなファンに最適化してユルいファンを切り捨て、遊戯人口を 20年の間に 3分の 1にしてしまったのである。

この構造を打破するのは、ちょっと大変だろうなあ。

 

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2015年1月 7日

米国の牛肉離れは、相当に進んでいるらしい

時事通信が「米国民の牛肉離れが止まらない」と伝えている。米国人といえば、分厚いわらじみたいなステーキをわしわし食いまくっているという印象が強いが、実は健康志向のため、牛肉の消費はかなり長期的に減少を続けているらしい。

今年 1月 4日付の「米、止まらぬ牛肉離れ = 健康志向で鶏肉にシフト」という記事によると、2014年の米国民 1人当たりの牛肉消費量は前年比 3.7%減の 24.6キロと推定され、ピークだった 1976年の 42.8キロと比較すると、40%以上の減少となっている。

その代わり、チキンがとっくの昔に牛肉の消費量を上回っている。チキンの消費量が牛肉を逆転したのは 90年代前半で、14年は 37.8キロと、牛肉の 1.5倍以上となっている。

まあ、いくらビーフを抑えても、米国人のあの大食らいぶりと、食後にさらに甘々のケーキにむしゃぶりつく様を見ていれば、肥満体ばっかりというのも納得されるが、あれだけ肥満体ばっかりだからこそ、少しは気をつけてビーフを抑えようとはしているのかもしれない。

ただ、この米国人のビーフ離れで困っているのは、国内の牛を飼育する畜産農家らしく、当然ながら新たな消費地を求めている。その一番大きなターゲットが、他ならぬ日本らしいのだ。TPP が本格的に効力を発揮したら、米なんかより牛肉が大きな焦点になるとみられている。

このニュースを聞いて、私なんかはタバコのことを思い出してしまう。その昔、米国で喫煙率が劇的に下がった結果、米国のタバコ会社は新たな消費地として日本に狙いを定めた。日本に輸出攻勢をかけただけでなく、さらにタバコ産業に未来はないと見て取るや、日本のタバコ会社にブランドを売りつけたのである。

日本タバコ産業(JT)は、ウィンストンやマールボロなどの米国のタバコブランドを、ありがたがって買い取ったのだが、米国にしてみればちょうどいい厄介払いだった。そして今、JT が日本のタバコ離れのために、東南アジアなどに売り込もうとしている。悪い歴史ほど繰り返すものである。

日本ではまだ「黒毛和牛」なんかのブランドがありがたがられているが、いずれ米国と同じように牛肉離れの時期が来ると、私はみている。長期的にみれば、牛肉の業界に明るい未来はない。それは世界の食糧供給事情という視点からみても、当然の帰結である。

このことは、牛肉 1kg  の生産に要する穀物飼料は 7kg になるため、肉を多く食うのは人間の口に入るべき穀物の無駄遣いであり、飢餓救済から遠ざかる生活習慣と指摘されるなど、単なる好き嫌いの問題ではなく、ちょっとした倫理的なマターとまで捉えられ始めていることとも関連している。

ヘビースモーカーだった私がタバコを止めて、37年になる。何度か書いたことだが、私がタバコを止めた理由は、自分の健康に悪いからというよりも、周囲に害毒を及ぼすのはカッコ悪いことと認識したからだ。それに気付くのが、自慢じゃないが他の大多数の日本人より早かった。

さらに、牛肉も絶対に食わないというわけではないが、少なくとも牛肉料理と言われるメニューを食すことはほとんどなくなった。これも、日本人の中では平均よりは少し早いと自負している。

私はそれほど肥満ってわけじゃないし、血圧やコレステロールが高いってわけでもないから、健康的には牛肉を止める理由はない。ただ、牛肉をわしわし食うのはカッコ悪いと思うようになったから、あえて食わないのである。

なんだかんだと言いながらも、米国の大きなトレンドは時間をおいて日本でもトレンドになることが多い。だったら、今のうちから牛肉離れしておく方が、本当にそうなってから宗旨替えするより精神的に楽というものだ。

しかも、米国の牛肉離れは自らのあまりの肥満体に危機感を覚えてのことという、セルフィッシュな側面が大きいが、日本人はそんなことより、モラル的な問題で牛肉忌避するというなら、その方がずっとカッコいいではないか。

 

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2015年1月 6日

丹精してくれた主が亡くなったのを、花も悲しんでいるのか

我が家のお向かいのお宅のご主人が、昨年亡くなった。多分享年 80歳ぐらいだったと思う。奥様はかなり認知症が出ていて、今はどこかの高齢者施設に入っているらしい。一人息子はどういう事情が知らないが、ほとんど絶縁状態で、最近は顔を見たこともない。

というわけで、お向かいのお宅は今、誰も住んでいない空き家状態である。前は時々電話のベルが空しく鳴り続けているのが聞こえることがあったが、今は解約したのか、料金未払いのためなのか、その音も絶えて聞こえなくなった。

この家の垣根は山茶花の木で、毎年晩秋から早春にかけて、ピンクの花がきれいに咲き続けていたが、不思議なことに今シーズンはこの山茶花が一輪も咲かないのである。家の主がいなくなったことが、花にもわかるのだろうか。家に誰もいなくなったことを寂しがって、咲かなくなったのだろうか。

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「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」 (結句は 「春を忘るな」 とのバージョンもあり)というのは、菅原道真の作といわれる古歌で、彼が太宰府に流される時に、「自分がいなくなっても、春になったら花を咲かせてくれ」と願って詠んだといわれている。お向かいの山茶花は、この逆バージョンで、主がいなくなったら、冬を忘れてしまったかのようだ。

丹精してくれた人がいなくなったのを、花も悲しむなどというと、「非科学的」と笑われるだろうが、なんとなくそんなこともあるんじゃなかろうかと、私なんかはつい思ってしまうのだよね。

 

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2015年1月 5日

絶滅危惧言語を保存したい

Slashdot が「2115年の世界ではどんな言語が話されているか」という記事を載せている。記事によると、100年後の世界で使われる言語の種類は現在よりも大幅に少なくなり、単純化されていると予想されているのだそうだ。現在は世界中で およそ6,000の原語が話されているが、2115年には 600程度に減少している可能性があるという。

それと関連して、琉球新報が昨年の 12月 11日付で、「しまくとぅば、米で紹介 ワシントン・ポストが記事掲載」と書いている。「しまくとぅば」とは「島言葉」の「しまくとぅば発音」である。琉球の言葉では、「オ」の発音が「ウ」になるようなのだ。

琉球諸語はユネスコに「絶滅危機」にある言語として認定されているらい。生物の世界でも「絶滅危惧種」というのがあるが、言葉の世界でも「絶滅危惧言語」があるのだ。記事は次のように伝えている。

沖縄で琉球諸語を学ぶ若者が「若い世代がこの文化と言葉を失えば、沖縄は日本という大きな国の単なる一地方になってしまう」といった思いを抱いていることなども紹介した。一方、琉球諸語は「日本語の中の一方言」と位置付ける学者の見解も伝えた。

ユネスコでははっきりと、「しまくとぅば」を一つの独立した言語として捉えているようなのだが、日本の言語学者の間では、日本語の方言の一つという位置づけが主流であるらしい。私も大学時代に言語学の講義で、日本語の方言で最も大きな地域差があるところに線を引くとすれば、九州と沖縄の間に引かれることになると習った。

「しまくとぅば」と内地の言葉の差は、関東と関西の言葉の違いなんてものじゃない。しかし文法的には日本語とほとんど共通していて、まるで外国語のように聞こえる単語も、上述のごとく「オ」の発音が「ウ」に変わるなどの法則を当てはめれば、日本語とそれほど変わらないため、「日本語の一方言」とされるらしいのだ。

しかし現実にはそんなことをいっても、江戸弁としまくとぅばの違いは、少なくともスペイン語とフランス語ぐらいには大きい。私のブラジル人の知り合いはポルトガル語を母国語とするが、スペイン語ならとくに習ったわけでもないのに、聞いただけで苦もなくほとんど意味がわかるという。さらにイタリア語も、何を言っているかぐらいはわかるらしい。

しかしほとんどの内地生まれの日本人は、ネイティブなしまくとぅばをまったく理解できないだろう。しまくとぅばが日本語の一方言だというなら、フランス語もイタリア語もスペイン語もポルトガル語も、「ラテン語の一方言」と言わなければならない。

私はしまくとぅばが日本語の一方言か否かという問題については、さほど関心がない。方言といえば方言なんだろうし、別の言語といえば、またその通りでもあるんだろう。ただ、そんなのは大分類と小分類の差に過ぎず、重要なのは「しまくとぅばが大きなアイデンティティのよりどころになっている」という事実だ。

だから、しまくとぅばの保存に私は大賛成である。いや、しまくとぅばだけではない。わが故郷の庄内弁だって同様だ。庄内、秋田、津軽の言葉も、独立した「東北日本海側諸言語」としてユネスコに認めてもらいたいぐらいのものだ。関東の人間には宇宙語にしか聞こえない津軽弁が、私は結構理解できるのだから、「共通言語圏」としてもいいだろう。

私は里帰りする度に、庄内の子供たちが庄内弁を理解できなくなりつつあることに、大きな悲しみを覚えている。今や庄内の子供たちの話す言葉は、茨城あたりの北関東アクセントなんかとは比べものにならないほど、洗練されたきれいな標準語である。それがきれいであればきれいであるほど、私の危機感は募るのだ。

生物の世界で「生物多様性」が重要なこととされているのと同様に、人間の言葉の世界でも「言語多様性」は重要だと思うだ。例えば私は、標準語で思考すると「俺って、結構論理的じゃん!」と思う。さらに英語で思考すれば説明的になれる。一方、庄内弁で思考すると、情緒的に「俺って、なんていい奴なんだ!」と思う。言語が多様だと、人間の幅も広がるのだ。

できることなら、庄内人には「庄内弁と日本語のバイリンガル」に、うちなんちゅうには「しまくとぅばと日本語のバイリンガル」になってもらいたいと思っているのである。

 

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2015年1月 4日

餅は危険な食い物と、いくら言っても

この時期になるといつも書いているような気がするのだが、ことしもまた、餅を喉に詰まられて命を落としてしまう人が少なくない。餅は間違いなく危険な食い物である。昨年末の NHK 生活情報ブログに、「"必ず起きる" 『餅の窒息事故』に注意!」という記事があった。

この記事によると、餅を喉に詰まらせての救急搬送は、データのある東京消防庁と大阪市消防局管内だけで、年間 100人以上に及ぶらしい。さらに「不慮の窒息による死亡者数」というグラフがあり、これは餅によるものとは限らないが、12月、1月、2月に急増しているところから、かなりの部分は餅を喉に詰まらせての窒息事故と考えられる。

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グラフによると、1月の 「不慮の窒息による死亡者」は 1500人近くで、夏場の 2倍ほどに達している。その 80〜90%が 65歳以上の高齢者で、餅がいかに危険な食い物であるかを物語る。高齢者に限っていえば、交通事故で死ぬより、餅で死ぬ人の方が多そうだ。

最近はマスコミが、餅を食べる時の注意事項を繰り返し流しているが、それでも窒息事故は後を絶たない。それどころか、これから高齢者がますます増えるのだから、窒息による死亡もますます増えるだろう。

これも何度か書いていることだが、情報というのは、いくら繰り返し流しても、届かないところには絶対に届かないのである。「振り込め詐欺に注意」という情報がこれだけ繰り返し発信されても、被害者が増えていることをみてもわかる。

また、こんにゃくゼリーは危ないという情報をいくら流しても、可愛い孫にわざわざ半解凍のこんにゃくゼリーを食べさせて、死なせてしまったばあさんもいる(参照)。

テレビ放送が地デジに切り替えられた時も、「ウチのテレビが急に映らなくなった」という苦情が殺到したという。あれだけ何年も前から繰り返し広報して、世間の話題にもなっていたのに、「ウチには関係ない」と思っていた人が少なくなかったようなのである。(参照

それから、最近驚いたことなのだが、自転車は左側通行という常識を知らない人がかなりいる(参照)。それで、我が家の周辺ではまともに左側通行する自転車よりも、逆走して車に向かってくる自転車の方が圧倒的に多い。

振り込め詐欺にひっかかっても金を失うだけで済むが、闇夜に無灯火の自転車で右側車線を逆走するのは、命に関わる問題である。しかしいくら命に関わる情報でも、届かないところには絶対に届かない。。

だから、「高齢者はもちを詰まらせやすいので、小さく切って、あわてずにゆっくりと食べましょう」なんていう情報をいくら流しても、平気でわしわし食って、「うっ!」てなことになる人が後を絶たない。年寄りでも食べやすいもちやその代用食なんてものを売り出しても、肝心な高齢者やその周囲の人までその情報が届きにくい。

こればかりはもう、どうしようもない。だから NHK も、最初に触れた記事のタイトルで「必ず起きる」と言っている。

 

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2015年1月 3日

今年の箱根駅伝のテレビ中継

テレビをあまり見なかった私も、最近は BS なら見るようになった。教養番組、スポーツ中継、旅番組などで、BS には見る価値があると思われる番組が多い気がするのである。もちろんそれは個人的な趣味嗜好による判断なので、万人に当てはまるものではないが。

というわけで、地デジをほとんど見ない私だが、正月の 2日と 3日だけは、箱根駅伝をつい見てしまう。今年もずっと日テレに釘付けになってしまった。

ただ、とくに二日目の復路中継で「これってどうなのかなあ?」と思う点があったので、ちょっとだけ書いておきたい。もちろん、これとて私が個人的に不満に感じた点というに過ぎない。こうした番組では誰もがつい 「わがまま」 を言ってみたくなるもので、この記事もその類いと思っていただいて構わない。

番組を通じてやたら CM が多かったという印象があるのは、これはまあ、しょうがないかもしれない。これだけ視聴率の高い、お正月の代表的なキラー・コンテンツなのだから、日テレとしても目一杯儲けたいというのはわかる。それに、これだけの番組のスポンサーになれるような大企業は、少しは業績が良くなっているのだろう。いいところですぐに CM になってしまうのは、我慢しよう。

ただ、時々音声と映像が全然リンクしていないケースがあったのは、「ありゃりゃ?」と思った。映像がシード権争いのデッドヒートを映しているのに、音声が延々とそれよりずっと下位のチームのサイドストーリーに触れていたりしたのは、テクニック的な不手際なのかもしれない。

最も違和感を覚えたのは、復路の中継で青学が一人旅の断然トップなのはいいとして、その後に続く有力校、駒沢、東洋、明治、早稲田の情報がえらく軽視されていたことである。青学の一人旅と、シード権争いの団子状態の場面がほぼ交互に延々と映し出され、その間に最後尾付近の画像まで丁寧に映し出す。7区と 8区では、2〜5位がまったくフォローされない時間帯がかなり長かった。

時々思い出したように、上位の状況が映し出されても、順位が接近し始めるような「いいところ」で、突然 CM になる。そして CM が終わると、全然別の場面になっていて、CM の間に上位の状況がどう変わったかなんて、まるで忘れ去られたように触れてもらえない。

昨年までは、上位争いの画像もかなり丁寧に拾われていた印象がある。しかし今年は、時々申し訳程度に明治と早稲田の併走画面が映るだけで、上位同士のタイム差がどのくらいあるのかなんて情報はほとんど流れない。とくに 2〜3位を争う駒沢と東洋は軽視されていて、両校の贔屓の視聴者は、フラストレーションをため込んだろう。

それに比べて、中位のシード権争いの場面はかなり丁寧に拾われていた。さらにそれだけでなく、襷のつながらない下位のチームまで必要以上にフォローされていたように思う。「上位争いよりも、下位の情報が重要ってことなのか?」と思ったほどである。

勘ぐりすぎと言われるのを覚悟の上で書くが、最下位付近が妙に丁寧に拾われていた印象があるのは、この辺りに創価大学がいたからじゃないかと思ってしまうほどだ。9区から 10区の間で創価大学の襷がつながらなかった場面でも、「ここまで映すか」というほど長く、「悲劇のサービス映像」が提供されていたし。

結果論として、下位の方に必要以上のカメラを割り振った影響で、上位の映像を拾うカメラが手薄になってしまったんじゃないかと、私は邪推しているのだよね。

まあ、これまでは「箱根駅伝のテレビ中継は、早稲田贔屓」と言われる傾向があって、私なんかその恩恵に浴していたので、「今さら何を」と言われるかもしれない。中継の編集権はテレビ局にあるので、別にことさら抗議するつもりもない。ただ、「ふぅん」と思ってしまったので、ちょっと繰り言を書かせてもらったわけである。

最後に付け加えるが、青学の最終ランナー、安藤悠哉君が大手町のゴールを駆け抜け、タオルもかけてもらわず、そのままの勢いでダッシュして仲間の歓喜の輪の中に飛び込んで行った場面は、とても感動的だった。あれを見ただけで、「今回の箱根は、まあいいか」と思ってしまったことも事実である。

 

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2015年1月 2日

羊を巡る小さな冒険

今年は未年、羊の年なので、羊と比較文化の話をしてみよう。

美、義、善、養など、羊という字を含む漢字には、いい意味のものが多い。というのは、古来大陸では、羊は財産であり、富の象徴だったらしいのである。なにしろ、毛は衣類や住居、敷物などに使われ、肉や乳は貴重な食料である。羊を飼ってさえいればちゃんとした暮らしができたのだ。

だから、羊が大きいと「美」という字になるというぐらいのものである。日本人は明治になって富国強兵に目覚め、軍服の素材のウールを作るために羊を輸入して飼い始めるまでは、羊というものを見たことがなかったので、あまりピンとこないが、羊というのはかくまでも重要なものだったのである。

ユーラシア大陸では生活に密着した動物として、人と羊の関係はとても重要なものだったが、日本では羊に全然馴染みがなかった。それで、日本人は羊を数えても眠れないのである。羊という動物を数えようとしてその姿を想像しようとすると、それだけでかえって能が緊張して活性化してしまうのである。

ユーラシア大陸の人間だったら、羊というのはあのごちゃっと群れをなしたおとなしい動物と知っているので、数えようとしても、そもそもまともに数える気なんか起こらない。だからぼうっとして眠くなる。そんなわけで、英語の羊は単複同形で、複数でも "s" がつかないというぐらいのものなのである。

このあたりのことは、「なぜ、日本人は羊を数えても眠れない? 比較文化学的考察」という文章にしてあるので、お暇なときにじっくり読んでいただければ幸いである。要するに、日本人は案外羊が苦手なのである。嫌いというわけじゃなく、よく知らないのだ。

日本でも岩手の小岩井農場なんかに行くと、羊に直接触れたりすることができる。それで「まあ、可愛い!」なんて言ってぎゅっと抱いたりなんかすると、羊の毛の表面はものすごく脂っぽいとわかる。これは触ってみて初めてわかることで、犬や猫とはまったく感覚が違うのだ。

この脂は「ラノリン」というもので、薬や化粧品に用いられたりする。毛紡績の工場では、脂でべっとりの原毛を洗剤で洗い、紡績機にかかるようにするのだが、この時に洗い落とされた油脂分を、再利用するわけだ。本当に羊というのは、捨てるところがないほどなのである。

羊というのは、島国育ちの日本人がユーラシアの文化に触れるための、重要な入り口になるものなのかもしれない。

 

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2015年1月 1日

新年のご挨拶

恒例の新年のご挨拶。未年なので、こんな年賀状を用意させていただいた。

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右に書いてあるのは、まったくの悪筆で恐縮だが「本来無一物」という禅語。なんでこんなのが出てくるのかというと、平成 22年の寅年の時の画像が、こんなのだったということもあり、ちょっと共通した「禅」ぽい雰囲気で迫っているつもりなのである。

とりあえず、今年もよろしく。

 

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