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2015年1月25日

還暦を 2年過ぎて、どうやらここまでは悟った

私は昔から、物事を達成するための努力はするが、無駄な「あがき」はしないというタイプの人である。別の言い方をすると、自分で何とかしようと努力して、その努力が報いられる可能性が少しでもあれば、真剣に努力するが、自分の力ではどうしようもないことであれば、あっさりと諦めて素直に受け入れるべきだと考えている。

「自分の力ではどうしようもないこと」というのは、例えばこの世に生まれてきてしまった以上は、自分の両親と親類縁者の面子は変えようがないというようなことだ。端的に言えば、親兄弟を恨んでも仕方がないということである。親兄弟を恨むのは、典型的な「無駄な努力」だ。努力なしには、恨み続けることだってできない。だったら素直にありがたく売れ入れる方が手っ取り早い。

同様に、これまでの生い立ちや、自分の文化背景としてのナショナリティなども変えられない。周囲の自然環境も、これ以上悪化させないための努力はできるが、根本的なあり方までは変えられない。何しろ明日のお天気だって、お天道様次第なのである。

政治状況なども、自分の発言や活動の影響力なんて微々たるものだ。だから選挙の度に投票はするが、それによって社会が劇的に変わるなんて期待はしていない。期待していないどころか、ほとんど諦めているという方が近い。投票を棄権しないのは、客観的にみれば単なる「悪あがき」みたいなものである。

私は、人生なんて水たまりに散った木の葉のようなものだと思っている。木の葉が水たまりから脱出しようとしても、自分の力ではどうにもできない。悪あがきすればするほど疲れるだけである(もっとも木の葉は、悪あがきしたくてもできないのだけれどね)。

逆にただだまって諦めて、水たまりの中に浮いてさえいれば、いや、たとえ沈んでしまったとしても、さらに大雨が降ってくれれば水たまりが溢れて、外に流れ出ることもある。ただ、流れ出て行き着く先はわからない。行った先々でそれなりに対応して漂い続けるだけである。

あるいは、大雨なんて降らずに日照りが続き、水たまりが干上がってそのまま朽ち果ててしまうかもしれない。それならそれで、朽ち果ててダニに食われ、排泄物となって微生物によってさらに分解され、周囲の植物たちの養分になれれば幸いというものである。そのままミイラのごとく変化しないよりはずっといい。

要するに、努力は精一杯するが、自分の力なんてたかが知れていると思っているのであある。何かそれなりの成果の上がることを成し遂げるとすれば、それはほとんど自分の力によるものというわけじゃなく、周囲の力の方がずっと大きい。自分は周囲の流れにうまく乗っかることができたというだけのことである。

周囲の流れにうまく乗っかるには、周囲とかなりの部分で同化しなければならない。反発していては乗ることなんてできない。それなりに意味のあることを成し遂げようと思うなら、意味のある人たちや物事と、親和しなければならないのである。ということは、「意味のあること」を見つけることさえできれば、幸せな人生のとっかかりはつかめたのである。あとはそのことに馴染んでしまえばいいだけだ。

馴染めなかったら、選択を間違えたか、自分がわがまますぎるかのどちらかである。要するに、周囲が悪いのではなく、自分がまずかったのだと思えば、腹も立たずにやり直せる。周囲が悪いと思っているうちは、何をどうやり直しても、ことはうまく運ばない。いつも自分で選んで悪い環境の中に飛び込んでしまうだけである。

 

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