曽野綾子というゴーマンな世話焼きおばさんの、裏返しのお花畑
産経新聞の曽野綾子氏のコラム「透明な歳月の光」の 「適度な距離保ち受け入れを」というタイトルのコラムが大炎上している。私もこのコラムを読んだ時、「このおばさん、調子に乗って滅茶苦茶アブないことを書いてるなあ」と思ったのだが、案の定、あちこちから突っ込まれまくっている。
コラムの内容は、介護のための労働力として、移民を受け入れようというものである。ところが彼女の言い分はそれだけに止まらず、受け入れた移民の居住場所に関して、「南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」というのである。
彼女がこういうのは、彼女なりの言い分があってのことのようだ。南アフリカでは人種差別が撤廃されてから、それまで白人が居住していたマンションに黒人が移り住むようになり、そうなると生活習慣が違うので、共同生活が崩壊してしまったというのである。だから、白人、アジア人、黒人は、居住区を分けるべきだというのだ。
自信たっぷりに「どう見ても、そうした方がいいですわよ」と言っているわけだ。彼女の主張のスタイルは、大抵いつも同じである。「私は世界のあちこちを見てきて、『綺麗事じゃない現実』というものをよく知っているんだから、私の言うことに従えば間違いないのよ」ということなのだ。
彼女の「綺麗事じゃない現実主義」はそれなりに貴重なもので、そうした視点から見れば単純に人道的なリベラル主義などは、およそノー天気な「お花畑」に思われて苛立ってしまうのだろう。その気持ちもわからないではない。しかし、今回の彼女の発言は「裏返しのお花畑」でしかない。
本来、人はどこに住もうが勝手である。勝手だが、収入やライフスタイルの違いで、その居住地はおのずから決まってくる。田園調布に住む人と、高円寺に住む人と、新小岩に住む人は、やはりライフスタイルが違う。違って当然である。これは別に差別というわけじゃなく、ましてや誰に強制されたわけでもなく、自然にそのような棲み分けができる。
つまり、どこに住もうと勝手だが、自然に自分のライフスタイルに見合った所に、人というのは住むのである。そのことについては、自分で選択するのだから、他から強制されるいわれはない。そして、自分で選んで気に入ったところに住めば何も問題が発生しないというわけでも決してなく、結構何だかんだと軋轢は生じるもので、それを適当にやり過ごしながら、人は暮らしていくものなのである。
ところが曽野氏の言い分は、肌の色によってライフスタイルが違うのだから、軋轢が生じないように、初めから居住区を分けろというのである。これは「自信たっぷりのゴーマンな世話焼きおばさんの余計なお世話」である。どこにでも、よくいるでしょ、「自信たっぷりのゴーマンな世話焼きおばさん」が。そしてそういう人って、大抵近所の厄介者でしょ。
ゴーマンな世話焼きおばさんが、「肌の色によって居住区を分けろ」と言ったって、そんな制度、この日本の中で、誰がどうやって作って、どう運用しろというのだ。できるわけないじゃないか。私が曽野氏の発言を「裏返しのお花畑」と言うのは、そうした意味合いである。
それとも彼女は、「私が言うんだから、とにかくおやんなさいよ!」と、あくまでも言い張るのだろうか。あるいはできないとわかりつつも、「本当はそうするべきなのよ、できないのは、制度の欠陥なのよ、だから、日本はいつまでたってもダメなのよ!」と、勝ち誇ったように言いたいのだろうか。
そもそもアパルトヘイトというものの根幹は、「居住区を分ける」というコンセプトからスタートしている。肌の色によって居住区を分けろという彼女の主張は、彼女自身がどう言い訳しようとも、結論的にアパルトヘイトなのである。
無理矢理に居住区を分ければ、確かにライフスタイルの違いによる軋轢は減少するかもしれない。南アフリカのアパルトヘイトも、当初はそれを目的として始まり、それから徐々にシステムが拡大し、確立されていった。
しかしそれによって生じた社会的不正義と経済的損失というデメリットは、少々の軋轢減少というメリットというものがあったとしても、それとは比較にならないほど大きかったのである。だから南アフリカも、ついにはそれを捨てざるを得なかったではないか。
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コメント
「南アフリカのアパルトヘイトも、当初はそれ(ライフスタイルの違いによる軋轢の緩和)を目的として始まり、それから徐々にシステムが拡大し、確立されていった」というのは誤解ではないでしょうか。
投稿: 山辺響 | 2015年2月17日 11:49
この女史のように、育ち・才能・教養全てに恵まれた方があちこちで書き散らし、言い散らしていることを見聞きするたびに、最初は驚愕、今はもううんざりです。
特に「移民」に関しては、単に安い労働力調達の手段として「対症療法的」に安易に行って良いことではありません。
確かにその場しのぎにはなっても、必ずあとあと思いもよらないトラブルとなってしっぺ返しを受けることとなります。
現在、世界的脅威になっているISILの台頭も、それが大きな一因となっていることは周知の事実です。
自分たちの都合だけで導入した政策によって、子孫たちに大きな迷惑や危機を押し付けてはいけないと思います。
「日本人社会に異文化の移民は馴染まない、将来大きな社会的トラブルを抱えることになるから止めなさい。日本人なら、自分たちのことは自分たちで面倒をみることを考えるべきだ。」と言うのならわかりますが、「移民を別居住にした上で積極的に受け入れよ。」という彼女の考えはずい分と乱暴で、到底、知識人、教養人の発言とは思えません。
怒りを通り越して悲しくなります。
投稿: KRT | 2015年2月17日 12:25
本人の弁解(?)コメントが出ましたね。
自分なんかは近所に外国人の土地の買い上げが政治問題化してる地区があるので、出来るだけ薄く広く、一か所に固まらないように移民を受け入れた方が「大きな軋轢」は生じない気がしますが…。差別意識が薄くとも棲み分けは自然に生じるというシェリングのシミュレーションを想起しました。
投稿: clark | 2015年2月17日 18:34
山辺響 さん:
本音はもろに 「差別」 なんでしょうが、建前としては分離居住を行う制度としてスタートしたものと理解しています。
アフリカーンス語で apartheid は「分離した状態」(つまり、分離居住) という意味ですので、白人側の理屈としてはそういうことだったようです。
つまり分離居住は、人種差別の始まりということだと思っています。
投稿: tak | 2015年2月17日 21:29
KRT さん:
私は移民を受け入れること自体には反対ではありませんが、それはかなり慎重に、時間をかけてやるべき問題だと思っています。
介護などの労働を担わせるために移民を受け入れ、しかも居住区をわけろというご都合主義の発想は、確かに将来に禍根を残すことになるでしょう。
アジア版 ISIL 問題が出てきそうですね。
投稿: tak | 2015年2月17日 21:33
KRT さん:
言い訳はこんなようなもののようですね。
>私は、アパルトヘイトを称揚したことなどありませんが、「チャイナ・タウン」や「リトル・東京」の存在はいいものでしょう。
チャイナタウンやリトル東京などは、居住区分離のコンセプトで強制的に作られたものではなく、多分に自然発生的に形成されたものですから、話が別ですね。
投稿: tak | 2015年2月17日 21:38