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2015年4月に作成された投稿

2015年4月30日

イオンは恐竜すぎる

イオンの業績が振るわないのだそうだ。3期連続の営業減益で、中核の総合スーパー事業は赤字に転落しているという。

日経ビジネスは "「トップバリュやめようか」…イオン挫折、出直しへ" という記事で、低迷の原因「規模の強み」を追い求めた中央集権体制のひずみで、商品力が低下したことだとしている。こうした記事の常で、「わくわくする商品」の開発が急務だとしているが、果たしてそんなことで済むのかなあ。

私はジャスコ時代から継続するイオンの大型出店の戦略は、もう古いと思っている。大型ショッピングセンター開発による「不動産屋的ビジネス」はまだ何とかなっているが、その中に自分の大型スーパーを置いても、儲からないだろう。今やフツーの人たちは、食料品や日用品は住まいの近くの地元スーパーで買う。わざわざクルマで郊外のイオンまで行くのは億劫だ。

とくに最近は高齢化が進んでいる。わざわざクルマを運転して遠くの「イオンタウン」なんていうところまで行き、広大な駐車場の端っこの方に車を停めて、これまた広大なスーパーまでテクテク歩き、単に日常の食料品を買うなんていう、疲れるばかりで面白くもなんともないショッピングをする年寄りはいない。そんなのは近くの地元スーパーで十分だ。

その「近くの地元スーパー」にしても、イオン傘下になってしまってやっぱり広い駐車場をもち、その代わり売り場には泥付きネギとか産地直送の魚とかがなくなってしまった中途半端な店よりも、小規模でもどっこい地道に頑張っている店の方が親しみがもてる。

つまりイオン系は、じいさんばあさんばかりになってしまった田舎では、「デカすぎ」か「中途半端」のどちらかになってしまい、「手頃な規模」の地元スーパーに負けてしまうのである。じいさんばあさんに敬遠されて、あまり金を使わない高校生のレジャー施設になってしまい、その高校生の数も年々減っているのだから、イオンは儲かるはずがない。

じいさんばあさんにとっては、「デカすぎて、行っても疲れるだけ」の施設となり、若者にとっては「リアル店舗で下見して、実際の購入はネットで」なんていう世の中になっているのだから、20年ぐらい前から(だったかな?)どんどん加速しているイオンの大型ショッピングセンターは、そのうち世の中の変化について行けなくなってしまう。

私はかなり前から、「こんな恐竜みたいな施設は、そのうち役に立たなくなるんだから、その時は元の田んぼにして返せよな」 なんて、今は亡き山本夏彦氏のようなことを思っていた。

 

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2015年4月29日

運動は体にいいと、改めて確認できるニュース

Gigazine が "「適度な運動」の「適度」がどのくらいなのか研究で判明" という記事を載せている。元記事は New York Times の "The Right Dose of Exercise for a Longer Life" (長生きのための運動の正しい服用量) というもので、まあ、一応信頼してもよさそうな話のようである。

元記事のタイトルの "dose"(服用量) という言い回しは、なかなか意味深長だ。ここでは運動というものを長生きするための「お薬」みたいな視点で捉えていて、薬を飲まなくても、飲み過ぎても病気治療の効果が薄れてしまうように、運動にも適度な「服用量」があるという前提での研究制化が発表されている。

結論から言ってしまおう。アメリカ国立がん研究所とハーバード大学の研究チームによる、中年を中心とする 66万 1000人のデータを分析した研究結果では、「運動はした方がいいし、運動のしすぎが体に悪いということはない、ただし運動すればするほど長生きできるというわけでもない」ということが判明したようなのである。

一般的に「週に 150分の運動は体に良い」と言われているが、これはかなり漠然とした言い方だ。運動の激しさに関して、全然触れられていない。しかし、とにかく運動はする方がいいらしい。

研究によると、最も早世(早死に)リスクの高いのは「全く運動をしない」グループだった。そして週に 150分には達しないが、「いくらかは運動していた」というグループは、それでも全く運動をしないグループに比して 20%も早世リスクが低いという。

さらに推奨される「週に 150分」の運動をするグループは、それがたとえ軽いウォーキング程度の運動でも、全く運動しないグループより 31%も早世リスクが低く、概ね健康に長生きできるようなのである。

ここから先がおもしろい。推奨量の約 3倍の、450分のウォーキングを毎週行っていたグループの早世リスクは、全く運動しなかったグループより 39%低いのだが、この数字は 3倍の運動量の割には大した成果とはいえない。それどころか、推奨量の 10倍以上の運動を行っていたグループの死亡率は、推奨量ちょうどの運動をする人たちとほとんど変わらないというのだ。

つまり、「運動のしすぎが健康に悪い」ということはないが、ある一定量を超えると、その効果はほとんど変わらないようなのである。ということは、週に 150分、つまり 1日 20分ちょっとの運動(ウォーキング程度で十分)をしていさえすれば、健康で長生きできる確率が高まるというわけだ。

もっとも、New York Times の記事では、週に 450分(1日に 1時間ちょっと)のウォーキング程度の運動が、「スイート・スポット」だとしている。長生きするためにピンポイントで効果的な運動量というのが、ここにあるというわけだ。

別の研究では、20万人のオーストラリア人を対象に、運動の激しさも考慮した調査が行われた。週 150分の運動のうち 30%程度(つまり、1日あたり 7分ぐらい)を激しい運動(ウォーキングの代わりに、ランニングや競技スポーツをするなど)に変えると、死亡率がさらに 9%下がるという。

さらに 30%を越える時間(1日あたりにすれば、たかだか 10分を越えるぐらい)を激しい運動に費やすと、死亡率は 13%下がる。運動の時間をむやみに長くするより、多少激しい運動を加える方が、体にはよりいいらしいのである。「運動のしすぎは体によくない」という結論は、まったく導き出されなかった。

もしあるとすれば、それは体の一部を酷使することによる筋肉や関節の不調、あるいは運動中の事故によるリスクを含めて言っているのかもしれない。ただ、筋肉痛や関節の損傷程度では死なないから、上述の研究では無視されているのだろうね。

私は去年の暮れから自転車を始めて、かなりハードに乗り込んでいる。おかげでウェスト周りはだいぶ減った。体脂肪が筋肉に置き換わっているので、体重はそれほど減らないが、動きは格段に楽になったし、何をしても疲れなくなった。週 3〜4回合気道の稽古をしていた若い頃ほどではないが、体力が確実に戻っていることを実感している。

そして、「あまりやり過ぎると体によくないかも」なんていう疑念も払拭されたので、思う存分楽しんでいいのだとわかった。ただし、筋肉痛や関節炎、そして事故に気をつけて。

 

 

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2015年4月28日

もうすぐ 「立夏」

二十四節気でいうと、今は「穀雨」という時節である。江戸時代に出版された『こよみ便覧』によると、「春雨降りて百穀を生化すれば也」とある。「こよみのページ」によると、「田んぼや畑の準備が整い、それに合わせるように、柔らかな春の雨が降る頃。この頃より変りやすい春の天気も安定し日差しも強まる」とされている。

確かにその通りで、今年の連休はとくに天気が安定するそうである。そしていよいよ、5月 6日は「立夏」となる。もっとも、立春から急に春らしくなるわけではないのと同様、立夏も 「夏の気が立ち始める頃、若葉の季節」 とされていて、いきなり夏らしい季節になるというわけではない。「初夏」という言葉がよく似合う頃だ。

しかしどちらかというと、既にこの 2〜3日は「初夏」と言ってもいいような天候である。昨日などは北海道の帯広で 30度の真夏日を記録したし、「一体、どうなってるの?」と言いたくなるような雲行きだ。「最近は天気が極端」とは何度も書いてきたが、もう「従来の極端が、今の常態」ということなのかもしれない。

はっきりしているのは、春から夏への変化は急にどっとくるということである。逆に、夏から秋への変化はなかなかわかりづらい。残暑が続いて「秋はまだか」と、長らくふうふう言い続けるうちに、ようやく秋の風が吹き始める。

地球温暖化ということだから、暑い季節がしつこく居座るのも当然と思っていると、必ずしもそういうわけではなく、秋は短くて、いきなり冬になる。そして冬もなかなかしつこく、震えながら「春はまだか」と心待ちにし続けて、やっとの思いで春めいてくる。今月だって初旬まではやたら肌寒く、桜が咲いてから雪が降ったりした。

思えば今月初めまではずっと「初春」で、「まだまだ寒いね」と震えていたのである。先月、一時的に暖かくなって「今年の春は早いかも」なんて思ったが、「寒の戻り」がやたら強力で、今月半ばを過ぎてようやく本格的に春っぽくなった。

そして、いきなり「初夏」である。本当に春と秋は短い。昨年の秋が昨今珍しいほどに、しみじみと長かった(参照)のは、造化の特別ギフトみたいなものだったのかもしれない。

 

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2015年4月27日

ことさら大きな文字よりも、十分な行間がありがたい

還暦を過ぎるといよいよ老眼が進んできて、近くの小さな文字が読みづらい。眼鏡をかけても、なんだか誂えた時よりも老眼の度が進んだみたいで、なかなかうまく焦点が合わず、しかも一日の終わりに近付くにつれて目の疲労度が増し、ますます視界がぼんやりする。周囲の友人・知人の多くも、似たようなことでこぼしている。

というわけで、世の中では印刷物や Web の文字を大きくすることが求められる。少子高齢化で年寄りが増えているので、これはかなり緊急の要請だ。新聞の文字だって、今世紀に入ってから際立って大きくなっている。

新聞の文字は、昭和 26年頃からしばらくは 15段組で 1段 15文字だった。12段組で 1段 12文字が標準となった今からみると、かなり小さい。新聞各社は、この文字サイズの拡大によって「読みやすさ」が増したとしている。確かに昔の小さな字と比べれば、読んでいて目が疲れてどうしようもなくなるなんてことはなくなった。

しかし文字サイズに関しては、むやみに大きくすればいいというものでもない。私としては、文字を大きくするよりも十分な行間をとってくれる方がありがたい。

Img_2284

例えばこの写真、私が住んでいる自治体の 「議会便り」 という広報紙のページである。市議会で討議・決議されたことが、項目ごとに説明してあるのだが、なにしろ読みにくい。

高齢者を意識してのことだろうが、フォントは十分に大きく取ってあるので、「字が細かすぎて読めない」ということはない。しかしぱっと見たところ、「空間が少なく、文字ばかりがびっしり並んでいる」という印象で、初めから目がウロウロしてしまうのである。

「フォントが読めるぐらいに大きい」ということは必要条件だが、決して十分条件ではない。むしろフォントを大きく取ったために、十分な行間が確保されず、「黒くべったりした見た目」 になって、読もうという気にすらなれないことが多いのである。

フォントサイズは必要最小限に抑えても、行間を十分に取る方が読みやすいことの方が多い。とくに 1行が長くて行間が狭いと、行末から次の行に移る際に、わけがわからなくなってしまう。このことが理解できないと、無闇に大きなフォントで、しかも太文字にしてますます「黒くべったりした見た目」にして、読みにくいものにしてしまうというケースが多い。

いくら高齢者でも老眼鏡をかけて読むことが多いのだから、ことさらに大きなフォントは必要ない。文字を必要以上に大きくしたために行間がびっしり詰まり、視線の移動がスムーズに行かないと、それだけで読みにくくなり、読み続けるのが嫌になる。

広報紙などの編集にあたっては、このことをきちんと知っておいてもらいたいと思うのである。

 

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2015年4月26日

太陽光発電、我が家でもようやく開始

昨年末の「年末年始は大荒れになるというので」という記事で、「我が家の屋根にもようやく太陽光発電パネルが乗っかることになった。年明けの中旬頃に工事が行われる予定である」と書いたまま、その後の報告をしていなかった。実は工事が遅れに遅れ、今月中旬にやっと完了した。

太陽光発電は、早いうちに導入しておかないと売電価格が下がってしまうというので、どうやら設置ラッシュのようなのである。おかげで部品と作業員の手配に驚くほど手間がかかり、当初の予定から 3か月も遅れてしまった。まあ、文句を言っても仕方がないので、現実に我が家が発電所になったことを喜ぶことにしよう。

我が家はそれほど大きい家ではないし、屋根の形も寄棟造りで斜めの線が多いためデッド・スペースが大きく、パネルの枚数もあまり多くできなかったので、発電能力も 3kw/h に少し足りないぐらいという、可愛らしいものである。それでも、晴れてさえいれば自分の家で消費するよりずっと多くの電力を生み出すことができている。

一日中曇り空とか雨降りだったりとかすると、発電量はぐっと下がってしまい、東京電力から電気を買うことになるが、これまでの 10日間の通算では、発電量の半分も自家消費せず、売電している。元々我が家は省エネ型のライフスタイルだから、年間を通しても大幅な 「黒字」 となるのが確実だ。

これまでは「再生可能エネルギーの活用」を主張しながら、自分の家でそれを実行していないのが痛恨だったが、これからは「ウチは、自分の家で発電してるんだ、文句あるか」と、堂々とモノが言えるようになった。経済的なメリットよりも、このことが一番大きいという気がする。

 

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2015年4月25日

首相官邸に落下したドローンと、田舎の旧家に入った泥棒

高校時代の同級生が嫁に行った先が田舎の旧家で、広大な敷地を囲む塀に沿って歩いて廻るだけで結構な散歩になるらしい。さらにやたらと大きな土蔵があり、この土蔵が泥棒に破られて中のお宝を盗まれたことに、半月も経ってから気付いたという。

こんな話を思い出したのは、例の首相官邸の屋上に放射性物質入りのドローンが落下していた件で、犯人らしき男が自首したというニュースからだ。この男は「ゲリラブログ参」というブログを書いていて、そこに今回のドローン落下事件の詳細も書いているというので、行ってみたら、確かにその通りだった。

このブログの 4月 12日付の記事に、今回のドローン事件の犯行について詳細が書いてある。それによると、4月 7日に小浜を出発し、9日夜明け前に首相官邸に向けてドローンを飛ばしたことになっている。前庭に落とそうとしたが、真っ暗で操縦不能になり、どうなったかわからないまま現場を離れたことになっている。帰宅後にニュースを見ても何の報道もないので拍子抜けしたらしいことも窺われる。

そして 22日付の記事で、ようやくドローンが発見されたとのニュースを確認、「遅せーよ職員!てゆーか警備員じゃないのか・・・2週間放置て・・・」と書いている。まあ、確かに首相官邸の警備って間が抜けている。高校時代の同級生が嫁に行った先の旧家並の呑気さだ。本当に、こんなんで大丈夫なのかしらん。

それから、この犯人は「反原発を訴えるため官邸にドローンを飛ばした」と供述しているらしいが、その意図は当然ながら全然達成されていない。こんなような自分勝手な思い込みというのが、この類いの連中の共通点と言えそうな気がする。

ブログでこんな物騒なことを書いていたら、すぐに話題になって逮捕されていても不思議ではないのに、当人が自首して初めてブログが話題になっている。いかに読者が少なかったかが窺われる。とにかく行ってみればわかるが、読者の読みやすさなんて少しも考慮されていない。本当に読みにくいデザインなのである。このあたりにも、自分勝手さを感じてしまうなあ。

【追記】

この男は出頭を決意するまでブログを非公開にしていた形跡があるらしい。道理でね。

 

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2015年4月24日

イラッとくる新手のスパムメール

ある日、私の iPhone のメルアドに 「Fwd:佐世保東翔高等学校の同窓会の出席確認」というタイトルのメールが届いた。次のような文面である。

タカボー参加します!!詳細決まったら教えて

それとヤマケン、アド変えたでしょ?前のアド送れなかったし…それに転送メールに書いて無かったから洋介から聞いた

(以下略)

これ、メルアドを間違えて送信されたのかと思ってしまう人もいるかもしれないが、この類いはすべてスパム・メールと思った方がいい。下手に 「送付先を間違えてますよ」 なんて返信すると、きっと面倒なことになると思い、放っておいたら、その翌日、こんな続きが舞い込んだ。

あ、そうだ!!今回は先生も呼んで、昔話に華咲かせたいなって思ってるんだけど、どう?もう成人式以来、会ってないし、30歳になった俺らの成長を見てもらおうよ(笑)先生呼んで良いなら、連絡先知ってるし任せて

いかにも罪のなさそうな文面で、つい親切に 「送付先を間違えてますよ」 という返信をしたくなっても不思議ではないが、ここでも思いとどまって、無視。すると、さらにしつこく、こんなのが届く。

仕事忙しいのか??先生も予定あると思うし、呼んでOKならOK、NGならNGって返事欲しいんだけど…先生来たら楽しいと思うんだけどな 連絡待ってるぞー!

この辺で、さすがにうっとうしくなって、「メルアド間違ってるから、もうこんなの送信するな!」 と、警告メールを入れたくなる人もいるだろうが、ぐっと我慢して無視。すると、またまたこんなのが。

ヤマケンだよな?同窓会の転送メールにお前のアドレスに書いてなかったから、洋介から聞いてそのアドに送ってるんだけど。。。俺のメール届いてないの?

まったくもう、日本語としてもなってないし、ブチ切れそうになるが、やはりぐっと耐えて無視、無視、無視。すると案の定、さらに追い討ちが来る。

なぁ?何で無視??そんなに無視するなら、俺同窓会欠席するわ こんな感じのまま参加しても楽しくないし、俺が行くことによってお前も楽しめないだろ。じゃー欠席って事で宜しく

内容的にはそろそろこれで一段落かと思ったが、さらにこんなダメ押しがあった。

友達に教えてもらったアドレスにメールしてたんですけど、どうやら俺が打ち間違えてたみたいです。ずっと友達にメールしてたと思ってました。何通も本当にすいません。送ったメール全部削除するので、そちら側も削除お願いしますm(_ _)m

馬鹿め、削除なんかするか。せっかくだから、しっかりブログのネタにさせてもらうわ。ちなみにちょっとググッてみると、このスパムに下手にレスすると、しまいには馴れ馴れしく某有名芸能人の名を騙ってきて、出会い系サイトに誘導されるという顛末に至るらしい (参照)。

というわけで、最近はこんなスパムが流行っているらしいので、ご注意を、というお話である。

ちなみに「佐世保東翔高等学校」というのは実在の高校のようで、同校サイトのトップページには「迷惑メールにご注意!本校同窓生を名のり、同窓会名簿への掲載や同窓会参加を勧誘するメールが出回っています。本メールはまったく本校とは関係がありません、くれぐれもご注意ください」との表示があった (参照)。

ただ、この注意書きの 「本メールは」 という言い回しは、明らかな誤用とは言い切れないまでも、前後の 「本校」 という言い方との関連もあって、とても下手な、紛らわしい言葉遣いである。この高校の国語の先生は気持ち悪くなったりしないのかなあと思うし、学校の評価が下がりかねないと心配にもなるが、まあいいや、放っとこう。

 

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2015年4月23日

全線復旧開通した常磐道を走ってきた

今日ちょっとした用があって、仙台にある妻の実家を 2人で日帰り訪問した。経路は、先月に全線復旧開通した常磐自動車道を利用した。

この常磐道の復旧開通に当たっては、一部区間の放射線量がやたら高いというのが話題になっていた。放射線量の高い区間にはところどころにモニタリングポストが立てられ、時間当たりの放射線量がリアルタイムで表示されることになっている。先月の開通時は、放射線量が 5.5μSv/h  (マイクロシーベルト・パー・アワー) に達している区間があるとして、あちこちのサイトで不安の声が上がっていた。

というわけで、ちょっと心臓の辺りがザワザワする感覚を覚えながらも、放射線量の高い区間に夫婦で突入したのである。しかも 1日のうちに往復したのだがら、その被曝量は短時間に 2倍になる。心理的抵抗はあるが、とにかくチャチャっと日帰りするために、最も短時間で行って来れる常磐道を通ることに決めたのである。

筑波の地から常磐道に乗り、初めは片道 3車線だが、水戸を過ぎると 2車線になる。そしていわき中央を過ぎると片道 1車線の対面通行区間になり、さらに進んで行くと、例のモニタリングポストが登場する。

初めのうちは、0.2μSv/h ぐらいの数値だ。これなら大したことはなかろうと思うが、東日本大震災直後は、地元でたまにこんな数字が出たりすると、本当にゾクゾクする感じがした。洗濯物などは、できるだけさっさと取り込むようにするなど、かなり気を遣っていたものである。

さらに進むと、2.3μSv/h なんていう数字が表示されている。ちょっと進んだだけで、一挙に 10倍以上の数値だ。「やな感じだなあ」 と心の中でつぶやき、「できるだけサクサク通り過ぎよう」 と、妻と言葉を交わす。ほかに余計なことは言う気にもならない。

Img_2257

そして、ついに出た。双葉町付近に設置されたモニタリングポストには、5.4μSv/h という数字が表示されている。

先月のニュースで伝えられた 5.5 μSv/h よりは、やや下がっている。しかしつい先日、知人が通行した時には 4.6μSv/h が最高値だったと言っていたから、どうやら短期間のうちにずいぶん増えたり減ったりするようなのだ。

ちなみに 3μSv/h 以上の放射線量を、1年間浴び続けると、放射線作業者が 1年間で平均的に浴びても良いとされている放射線量 20mSv/y  (ミリシーベルト・パー・イヤー) を越え、放射線被曝が原因のガンによる死亡率が、計算上では 10万人中数十人の割合で増加すると言われている。

ということは、時間当たりの数値がより高い 5.4 μSvという状態でも、ほんの短時間に通過する程度では、人体への影響は小さい。レントゲン写真を撮るより大丈夫なのだろう。だから大げさに死ぬの生きるのと騒ぎ立てるつもりはないが、やはり気持ちの上ではあまりいいものではない。

そもそも、この付近は今でも住民がよそに避難したままになっている。この事態をどうしてくれるんだということになる。私の反原発の意識は変わらない。

 

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2015年4月22日

やっぱり マック と Chrome は相性が今イチのようだ

昨年の今頃の時期、「Mac と Chrome は相性が悪いようだ」という記事を書いた。Mac で Chrome を立ち上げたまま、マルチタスクをしていると、頻繁にフリーズしてしまっていたのである。そのため、この時は Chrome の使用を諦め、Safari 一本で行こうと思っていた。

しかし今年 1月になって、「Mac Chrome 4.0 安定版」というのがリリースされ、これを使う分には、名前の通り安定していて、頻繁にフリーズしてしまうということはなくなった、これを受けて、「しばらく Safari と Chrome を使い分けてみよう」という記事を書いている。

しかしそのほぼ 半月後に、やはり Mac と Chrome との相性は根本的には解決されていないことに気付き、上記の記事の「追記」として次のように書いている。

Chrome を起動させたままにしておいても、前ほど頻繁にフリーズすることはなくなったが、Office アプリでややこしい処理をさせると、レインボウ・カーソルが出現する傾向があるとわかった。しかしその場合でも、システム全体がフリーズしているわけではなく、Chrome を閉じれば短時間のうちにレインボウ・カーソルは消えて、通常の状態に復帰する。

Chrome を起動させていることによるレインボウ・カーソルの出現は、この時点ではそれほど頻繁なものではなかったが、最近になって、Chrome のバージョンアップにより、これまで以上に「RAM 食い虫」になってきたらしく、Chrome を立ち上げたまま Word や Excel を使った作業をするだけで、頻繁にフリーズするようになった。

私が今でも Chrome を使い続ける理由は、Safari とココログ編集画面の相性が今イチなためで、日常的な作業は Safari で行っている。ココログ編集画面以外では、むしろ Safari の方が使い心地がいいので、自然そうなっているのだ。

今後は、Chrome は使っている時以外はまめに閉じるという習慣を付けた方がよさそうなのである。面倒くさいけど。

 

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2015年4月21日

アピール下手の茨城県

私は茨城県に住んでもう 35年近くになろうとしていて、故郷の山形県(18年)、大学時代から暮らし始めた東京都(10年) よりもずっと長くなってしまった。

35年も住めば少しは馴染んでしまったところもあるが、茨城ネイティブではないので、まだまだ「茨城人」 にはなりきっていない。だから、「地域ブランド調査」とやらで毎年最下位が指定席となっている件についても、「そうだろうなあ」と、まったく冷静でいられる。

この「地域ブランド調査」というのは、民間調査会社のブランド総合研究所というところがこの 6年間継続しているもので、茨城県は 2012年の 46位(つまりビリから 2番目)を除いて、ずっと最下位の座をキープしている。つまり、日本一ブランド力の低い県であると烙印を押されたわけだ。

これに危機感を覚えた茨城県庁は、茨城県といえば「ヤンキー」が連想されるのを逆手にとって、茨城県出身の芸能人が「なめんなよ」とスゴむという企画の観光キャンペーンを開始したが、これに対して茨城県議会が猛反発したらしい。「けんか腰だ」「誰に『なめんなよ』と言っているのか」「ますますイメージが悪くなる」「国語として成り立つ言葉なのか」などと、低レベルのツッコミを連発したというのでる。

それで茨城県庁としては、PR の手法に四苦八苦していて、今年の春のキャンペーンは、「見どころがいっぱいの茨城に来てください」という面白くも何ともないキャッチフレーズになってしまった(参照)。本当に茨城というところは、外へのアピールが下手だなあ。

茨城に引っ越してきてからずっと感じていることだが、茨城県のネイティブは、狭い身内の中で大将になりたがる。総檜造りのご大層な家を建て、黒塗りのベンツでホームセンターやスーパー銭湯に乗り付けるのが大好きだ。そして周りから「大将、さすが、たいしたもんだねえ!」と言われることに無上の幸せを感じているようなところがある。

古くは平将門が、中央に対抗して「平新皇」を名乗り、「大将」になりたがった。ずっと時代を下っては「尊皇攘夷」の急先鋒になって、開国路線を展開した井伊直弼を暗殺したりもした。そんな風に、結構「俺が、俺が」という意識が強いのだが、いかんせん、それがすべて内向きで、外向きのベクトルがとても弱い。

だから、群馬、栃木、茨城の北関東 3県の中でも、抜群に要領が悪い。肩肘張ってふんぞり返りたがる割に、いつも一番損をする役どころになっている。

それは多分、茨城が昔から北関東の「どん詰まり」であることによるものだと、私は近頃思うようになった。同じ北関東でも、群馬は中山道、栃木は奥州街道の、重要な中継地となっている。それに対して茨城は、水戸街道でほとんど完結してしまっていて、そこから先への主要ルートというのを形成してこなかった。

他との交わりが少ないから、どうしてもアピールが内向きになり、外に向かってどう振る舞えばいいのか、学んだことがない。関東と信州や奥州を結ぶうちに、どう振る舞えば得になるかを曲がりなりにも学んだ群馬や栃木と違い、茨城はどう振る舞えばダサダサに思われるかに無頓着なまま、今日まで来てしまった。そして他からはダサダサに見えてしまうような要素こそが大好きという、損な県民性を獲得してしまった。

だから観光キャンペーンでも、唯一のアイデンティティの表現につながる「なめんなよ」を放棄してしまうと、後はどうしたらいいかわからず、結局は何もアピールしない、どうでもいいポスターに落ち着いてしまったというわけだ。

 

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2015年4月20日

気の毒な韓国の今後 3年間

韓国の朴槿恵大統領の支持率が、今年の初め頃は 30%を切り、任期 3年を残して早くもレイムダック状態と伝えられたが、先月は 40%台に回復したと報じられている。いやはや、それにしても短期間に上がったり下がったり、大変なことである。

大統領自身の支持率はやや回復したが、その一方で側近たちの裏金疑惑が大炎上状態のようで、大統領が南米歴訪中に代行を勤める立場の李完九首相が、裏金疑惑の最前線にいて、辞任は目前などと言われている。

韓国の大統領の権限というのはものすごいもので、5年の任期の間は何をしても逮捕されないことになっているが、任期が終わって「ただの人」になった途端に在任中のいろいろな罪に問われてボコボコにされてしまうことが多い。退任後に無事だったのは、金大中と李明博の 2人ぐらいのものだが、この 2人にしても、身内は遠慮なく逮捕されている。

いや、その前は在任中に暗殺されたり、退任直後に自殺なんてこともあったほどだから、私なんかは「韓国で大統領になりたがるなんて、よほどのもの好きだよなあ」なんて思っていた。なにしろ韓国大統領を経験して、まともな晩年を送った人というのは皆無なのだから。「自分だけは例外になる」というつもりなんだろうが、過去にも全員そのつもりだったはずなのだから、どうなるか知れたものではない。

前任者の李明博は、前述の通り、退任後に逮捕されたりはしなかったが、任期中からいろいろな疑惑が取り沙汰されていた。あまりにいろいろあるものだから、国民の目を逸らすために反日キャンペーンを張りまくって、竹島上陸パフォーマンスまでしてみせたりした。

朴槿恵大統領の場合も、側近の裏金まみれが暴露されて、当人までは及んでいないものの、政権がボロボロ状態になっている。せっかく 40%台まで回復した支持率も、また下がってしまうだろう。

韓国大統領というのは再任が禁じられているから、いずれにしても政権末期はレイムダックになることが避けられない。しかし朴槿恵大統領の場合は、任期がまだ 3年も残っているのだから、その間は韓国の政権がまともに機能しないとなると、他人事ながらお気の毒というほかない。

あと 3年間は「反日」しか武器がないことになるから、李明博の時と同様になんだかんだと反日キャンペーンを張りまくりたいところだろうが、今回は米国から 「歴史についてああだこうだと言い過ぎるのは、いかがなものか」 と、ちょっと釘を刺されたりしている。手詰まりのまま乗り切らなければならない 3年というのは、とても長く感じられるだろうなあ。

 

 

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2015年4月19日

「グスク」 を巡る冒険

9年前に沖縄に行った時、「城」のことを沖縄の言葉で「グスク」というと知った。

沖縄の世界遺産は、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」という名で登録されているが、それぞれのグスクは登録名としては「首里城跡(しゅりじょうあと)」や「今帰仁城跡 (なきじんじょうあと)」などで、「グスクあと」ではない。このあたりはややこしいが、単純に考えて、沖縄では「城」は「グスク」というと思っていいようだ。

今回初めて知ったのだが、那覇の近くの「豊見城市」の読みは「とみぐすくし」で、「とみしろし」ではない。一時高校野球で甲子園大会の常連だった「豊見城高校」は「とみしろ高校」と読むのが正式名称で、名字によくある「豊見城」も「とみしろさん」と読むのがスタンダードだというので、これもまたややこしいが、とにかく地名の「城」は「ぐすく」と読むことが多い。

豊見城以外にも、宇江城(うえぐすく)、兼城(かねぐすく)、中城(なかぐすく)などがある。また「玉城城」という遺跡は、「たまきじょう」ではなく「たまぐすくぐすく」になるというので、これまたややこしい。

グスクは「城」であるとはいえ、内地のイメージの「城」と同じと思うと、イメージはかなり裏切られる。特徴的なのは野積みの石垣で囲まれていることで、私が行ったことがある首里城も今帰仁城も玉城城も、すべて見晴らしのいい小高い山の上に、石垣で囲まれた遺跡がある。

内地の天守閣のある城とはずいぶん違っていて、「グスク」というのは戦略上の要塞というよりもむしろ、その構造は日本の神社とよく似ている。多分、グスクの城主はほとんど「神」と同格の存在として崇められていたのだろう。神社の本殿にあたるところに、城主の住まいがあり、その前の中庭で、臣下が城主を礼拝するという図式のようだ。

「グスク」の語源としては、もともとは「城 = スク」で、それに「御」がついて「御城 = グスク」になったと考えられている。さらにグスクの最も古い形としては、その中心部に必ず「御嶽(うたき)」という礼拝の場所がある。私が日本の神社とよく似ていると直観したのも道理のようなのだ。

「御嶽(うたき)」は、日本語の読みでは「おたけ」 なのだろうが、いずれにしても祭祀を行う場所である。琉球王国最高の御嶽は、南城市の海岸にある「斎場御嶽 (せーふぁうたき」で、これも世界遺産に登録されている。私も今回行ってみたが、なるほど「聖域」というにふさわしい場所だ。

沖縄というところは、ものすごく奥が深くて何度でも訪ねたいが、何しろ遠すぎる。しかしできるだけ機会をつくって訪問したいと思う。

 

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2015年4月18日

沖縄の接客

実は 2泊 3日で沖縄に出張した。沖縄は 9年前の 8月(参照)以来 2度目である。もっともっと訪れたいところだが、なにしろ遠いし、そんなに頻繁に用があるところでもない。一度仕事を離れてじっくりと 1週間ぐらいかけて滞在してみたい。その時には、石垣島や宮古島にも行ってみたいと思うのだが、そんな時間がいつ取れるかわからない。

前回の仕事の現場は那覇市だったが、今回は少し南の糸満市。とはいえ、そんなに離れているわけでもない。クルマを使えばせいぜい 30分ぐらいの距離だ。仕事は 2日目の夕方までで終わったので、3日目はレンタカーで南城市近辺を重点的に廻った。

沖縄に来て思うのは、買い物でも食事でも、店に入ると気持ちがいいということだ。店の人がとてもフレンドリーなのである。内地では妙に「お客様は神様」みたいに思っているようなところがあって、下手すると慇懃無礼になりかかるほど丁寧すぎるところがある。

ただ、それは表面的に丁寧なだけで、実はマニュアル通りでしかないことが多い。だから、近所の八百屋とか「馴染みの店」以外では、店員と客とは原則的によそよそしい関係である。

しかし沖縄ではどうやら、「お客様は神様」ではなく、「お客さんは友だち」みたいに思っているようなところがあって、お互いに構えるところがなく、初めから打ち解けてしまったりする。私なんかは丁寧すぎる扱いをされると居心地が悪くてたまらなくなる方だから、沖縄の接客スタイルはとても心地良い。

私の経験からすると、接客が日本ほど丁寧な国はほかになく、米国なんかは「店員と客は平等」というイメージがある。だからいくら客でも店員にものを頼むときは、「悪いけど○○してくれる?」ってな感じになる。このあたり、日本人の客は「してもらって当たり前」と思っているからつい横柄になり、そうすると店員だってあまりいい気持ちじゃないから、結果的にいいサービスを受けられない。

日本に帰ってきて「アメリカ人の店員はサービスがなってない」なんて文句をいう人が多いが、頼み方次第で結構親身になってもらえたりもする。要するに店員と「いい友だち」になってしまえばいいのだ。

沖縄のお店に客として入ると、日本よりもアメリカ流に近い感覚があり、「友だち」として接すると楽しく買い物や食事ができる。「下にも置かぬおもてなし」をしてもらわないと不満な人も中にはいるが、少なくとも私には沖縄の感覚の方が性に合っている。

 

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2015年4月17日

自分のアドレスではない宛先のスパムメールが届く

近頃、立て続けに「特別催告状」 というタイトルのスパムメールが届いた。中身を下にコピペしておくが、こんなメールを受け取って困っている人の検索の便宜のためで、別に詳しく読んでもらわなくても構わない。

件名: 特別催告状[最終通告]No.00094

【最終通告のお知らせ】

平素より格別のお引き立て、誠にありがとうございます。

さて、この度最後通告としてご連絡させていただきましたのは、2014年2月12日に貴方様がご利用になられました下記コンテンツのご利用料金のお支払いが未だお支払いいただけておりません。


当方につきましては、再三のご請求のご連絡をさせていただきましたが、一向にご連絡が頂けないため、今回ご利用履歴を元に民事訴訟にてご請求の場を設けるに至りました。

しかしながら訴訟にての決着にはさらに貴方様に裁判費用等の費用がかかりますため、最後通告としてご連絡をさせていただいております。また、ご請求内容は下記のとおりです。

・ご利用日時
2014年2月12日 午前0時12分〜
・ご請求額内訳
ご利用料金 385000円
延滞利息金 53900円 年利14% 
消費税 21945円
合計ご請求額  460845円

※只今、訴訟手続き中につき原則即日のお支払いをお願いしております。また連絡なき場合、意思がなくともお客様の不利に働くことがございますのでご了承ください。

裁判所より初回公判日の案内が届き次第、和解には応じかねますのでご了承ください。そのままにしておりますと訴訟の手続きは進みますので一日でもはやいご連絡をお勧めいたします。

ワールドマネーネット株式会社 (以下略)

こんなのは即刻削除して、あとは何にもしなくていい。本当の督促状だったら、こんなメール 1本で舞い込んだりせず、内容証明郵便で送付される。そもそも「最終通告のお知らせ」なんて日本語からして、「眼球の目玉」と言ってるみたいなもので、お馬鹿すぎる。

ちなみにこの種のスパムメールの宛先をみると、自分のアドレスではないが、よく似た文字列のアドレスが表示されていたりする。私に届いたメールもそうだった。それで、「よく似たメルアドに送ったメールが、紛れで届いてしまうなんてことがあるのだろうか?」と、疑心暗鬼になったりする人もいる。

これは、自分のアドレスが BCC として設定されているということのようだ。宛先に表示されているのはたった 1つのアドレスだが、BCC(Bllnd Carbon Copy)欄に多数のアドレスを記入しておけば、同じ内容のメールを宛先表示なしにどさっと多くの人に送れる。

スパムメールを発信している業者は、テキトーなメルアドを手当たり次第に自動生成して、この BCC 欄に入力しているのだと思われる。宛先として表示されたメルアドが、自分のアドレスとよく似たものになっているのは、BCC 欄にそのバリエーションがずらっと入力されたということなのだろう。

スパムメールの冒頭にある 「件名: 特別催告状[最終通告]No.00094」 というキーワードでググってみると腐るほどヒットする。まともな催告状なら、「00094」 という同じナンバーのものが、そんなにたくさん出回っているはずがない。

宛先に表示されたアドレスが自分のものでないということは、自分のアドレスはテキトーに自動生成さて BCC に入れられたものとたまたま一致しただけで、悪徳業者が自分のアドレスを知っているというわけではないと考えていい。ということは、少し安心していいわけだ。

だからこんなメールが届いたら放っておくのが一番で、下手に返信して抗議したりすると、自分のアドレスが悪徳業者に確実に知られることとなり、闇リストに入って売買され、ますますスパムが増えてしまうだろう。

まったくもって難儀な世の中である。

 

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2015年4月16日

中国の「GDP 7.0%増」 が大騒ぎするほどの「低水準」なら

CNN ニュースが 「中国 GDP、1~3月期は 7.0%増 6年ぶり低水準」 と伝えている。リーマン・ショック直後の 2009年1~3月期に 6.6%まで落ち込んでだことがあったが、それ以来の低水準なのだそうだ。

そういえば、昨年 10~12月期の成長率は 7.3%と発表され、「高度成長から安定成長に移行する 『新常態(ニューノーマル)』に入ったことを示す」なんてことで話題になったが、今回はそれよりさらに下がったわけだ。「新常態」というのは、「安定成長」というより「成長鈍化」を意味しているみたいなのである。

それにしても解せないのは、成長率 7.0%なら他の国ならウハウハで大喜びしてもいいのに、中国でこの数字になってしまうと、なぜか大騒ぎするほどの「低水準」ということになってしまうことだ。中国の統計数字の信憑性については、前から公然の秘密のようにいろいろ言われていたが、ここまでくると、どう見ても「まともな数字じゃない」のがバレバレだ。

よく言われるのは、地方から上がってくる数字が各段階で水増しされて、中央に届いた段階では実態からかなりかけ離れた数字になってしまっているらしいということだ。地方の役人が自分の点数を下げたくないので、いつも目一杯上げ底の報告をしてしまう。それで通っちゃうんだから、すごい国である。

上がってくる数字がとんでもない上げ底数字とわかっているから、中央政府は他の数字(比較的ごまかしの効かない貨物輸送量などの数字)と勘案するなどの手間をかけてアジャストするらしいのだが、それでも 7.0%成長が「低水準」だなんていうことになってしまう。それで「中国の GDP というのは、一体どのくらい上げ底になっているのか」というのが話題になったりする。

中国に詳しい人ほど、成長率 7.0%というのは、「その実態は限りなく 0%に近い」なんてことを言う。中国の物差しは、フツーのものより目盛りが右側に 7%分近くずれていると思った方がいいというのである。

それが正しいとすれば、6年前の 6.6%というのは、瞬間風速的なものとはいえ、「実はマイナス成長」だったのかもしれない。あれだけ世界中の経済が落ち込んだのだから、輸出依存の中国経済が一時的にしろマイナスになったとしても、驚くべきことじゃないだろう。

中国政府としては、経済が本当にマイナスになってしまうという事態は、国内の安定を維持するためにも、どうしても避けたいところだろう。失速を食い止めるためにいろいろな手を打つことになるだろうが、それが「実態からかけ離れた数字を無理に維持する」ということになれば、臨界点を越した時には、とてつもない「ツケ」を払わわされる。

「実は大したことなかった見かけだけのバブル」が弾けたら、その結果は「水面下まで急沈下」なんてことになりかねない。それが中国内だけのことなら知ったことじゃないが、それで済むわけがないから、まったくもって難儀なことである。

 

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2015年4月15日

ホテルオークラの解体を、なんと私まで惜しんでしまう

ホテルオークラが解体されてしまうというのを、今日まで知らなかった。今年 8月に本館の営業を終了し、1000億円を投じ、300日かけて建て替えるのだそうだ。建て替え後は近代的な高層ビルになるのだという (参照)。

アンチエスタブリッシュメントで、もったいぶった権威には反発してしまうばかりの私なので、オークラみたいな超高級ホテルは、日常的な感覚からすればどうでもいい問題である。自分の泊まるのは、高くても 1泊 1万円以下のビジネスホテルばかりで、ゴージャスなホテルに泊まることなんて、まずないし。

しかし実を言うと、ホテルオークラは私としても案外お馴染みなのだ。いや、何万円も払って泊まっていたというわけじゃない。新聞記者をしていた頃はいろいろなイベントや会議がオークラで開かれていて、その取材でしょっちゅう足を運んでいたのである。だから、あのホテルの良さは、まんざら知らないわけじゃない。

日本の高級ホテル御三家は、オークラと帝国ホテル、ニューオータニと言われているが、私の感覚では、ニューオータニはそんなに大したことがない。オークラと帝国ホテルは別格の感があるが、どっちが上かと言えば、私はオークラだと思う。そりゃ、フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルもよかっただろうが、オークラには独特の「和の味わい」というものがある。

ただ、若い世代にはオークラの良さはあまり理解できないかもしれない。出張で来日してオークラに宿泊する米国人も、50歳過ぎでないと、「単なる古めかしくて薄ぼんやりとした建物」だと思ってしまうらしい。私が「このホテルは日本のトップだよ」と説明しても、「どうしてこれが?」と、意外に思ってしまうようなのだ。

フツーに考えると、バブル以後にどんどん進出してきた外資系の新しいホテルと比較して、「オークラは時代遅れ」と思われても仕方がない。しかし、「わかる人にはわかる」ホテルなのだ。J-CAST ニュースにも "ホテルオークラ取り壊しに世界が動いた ポール・スミス氏ら有名デザイナーが続々「待った」" という記事が載っている。

このニュースによると、米ワシントンポスト電子版が 今年 2月 2日付記事で、「日本の『取り壊し』文化における最新の犠牲者」がオークラだとし、米 CNN 日本語電子版 2014年7月15日付記事は、「何でも取り壊して大きく作り直すのが主流のアジアにあって、ホテルオークラはかつて素晴らしかったものへの敬意を思い起こさせる存在だった」としている。

うぅん、言わんとすること、よくわかるなあ。オークラまでぴっかぴかの高層ビルになってしまったら、おもしろくもなんともない。というわけで、オークラに泊まるなんてことはあり得ない私まで、尻馬に乗ってその解体を惜しんでしまうのである。

あの薄ぼんやりとしてるけど、よく見れば日本の伝統的意匠がびっしりと埋め込まれているのがわかるロビーのソファでちょっと一休みすると、「日本は捨てたもんじゃない」と心から思える。その感覚が味わえなくなるとしたら、そりゃ悲しい。

それにしても欧米から見るとアジアってのは、「古い建物をどんどん壊して、ピカピカの味気ないビルにしてしまう無粋な国々」と思われているようなのだね。まあ、そう思われても仕方ないというのが、ちょっと悲しいところだけれど。

オークラがなくなったら、あの感覚は日本のホテルから消えてしまい、老舗の旅館にでも行かないと味わえなくなる。しかしあれはホテルだからユニークだということもあるのだよね。似たようなことを旅館でやっても、そりゃ「フツー」になってしまう。

オークラに馴染みのない人は、夏になって解体が始まる前に、一度あの雰囲気を味わっておくべきだと思う。残された時間は短いから、今のうちだ。ロビーのソファに座るだけなら、お金はいらないから。

 

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2015年4月14日

まだ「本命」と言われているヒラリー

8年前に私は「賞味期限切れのヒラリー」という記事を書いた。民主党の大統領候補者が、ヒラリー・クリントンではなく、バラック・オバマに決まりかけていた頃の記事である。だから、今頃になっても彼女が次期大統領選に意欲を燃やしていることに、ちょっと驚いている。

彼女がもし大統領になれたとしたら、就任時には 69歳で、あのロナルド・レーガンと並ぶ最高齢大統領ということになる。日本には 70歳過ぎて首相になる人がいくらでもいるが、米国では「若さ」というのが大統領の大切な要素になっている。

私はヒラリーには何の恨みもないが、なぜかずっと前から辛辣なことを書き続けてきたような気がする。9年半前には「ヒラリーは、ただスマートなだけかも」という記事で、次のように書いた。

彼女のインタビューなんかを聞いていると、何を聞いたらどう答えるかというのが、大体想像通りだったりして、意外性というのはほとんどない。アメリカのベビー・ブーマーズの最大公約数的な「スマートさ」というのを、意識して身につけているだけという気がしないでもない。

そのちょっと前に、当時の大統領だったジョージ・ブッシュ(息子の方ね)とやり合った際には、ヒラリーは十分に株を上げていた。何をどう言えばスマートに思われるかを熟知しているヒラリーと、何をどう言えば馬鹿と思われるかを知らないブッシュの対比は、それはそれは見事なものだった、

しかし私は彼女について、「何をやらせてもそつなくこなす常識と『勘の良さ』に関しては、ちょっとしたものだと思う」とした上で、「スマートさ」が大好きな人間には支持されるだろうが、「ユニークさ」まで要求する人間には、物足りないかもしれないと結論づけている。

ちなみに 10年前のブーム時に出版されたヒラリーの自伝は、「私はファーストレディとして生まれたわけでも、上院議員として生まれたわけでもない。ましてや、民主党員として生まれたわけでもない」というような書き出しだった。(日本語訳は読んでいないので、翻訳とは一致しないと思う)

「ファーストレディとして同時に上院議員にもなった、米国でただ一人の女性」 と賞賛されている事実を充分に利用して、「普通の暮らしを選べば選べたけれど、実際はファーストレディになり、その上、自分の才能と努力で上院議員にも選出された女なのよ」と、言外に高らかに謳った書き出しは、マーケティング的には正解かも知れないが、日本人の感性には十分に「イラッと」くるものだった。

今回は民主党内で他に有力候補がいないため、まだヒラリーが本命みたいなことになっている。しかしこれは、民主党にとってはかなり不幸なことだ。よっぽど「人がいない」ってことなんだろう。前回ダメだった人が 70歳近くになってまだがんばってるのを見るのは、ちょっと辛いものがある。

今回は個人サーバのメルアドで公務をこなしていたなんていうスキャンダルがあったりして、初っぱなから結構な逆風が吹いている。ヒラリーにしてはずいぶんうっかりな自爆のように思えるが、案外「自信満々のヒラリー」だからこその自爆とも言えるのかもしれない。

前回は「本命ヒラリー」を「ニュースターのオバマ」が追い越して、その勢いのままに勝利してしまったのだが、今回もそんなふうになったら、かなり気の毒なことになる。あるいは民主党内で勝利しても、本選で勝つのは難しいだろうし。

 

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2015年4月13日

神社仏閣の油染み

京都や奈良の神社仏閣などで、「油をかけられたような染み」が見つかる被害が相次いでいる。47News によると、被害が確認されたのは「7府県の 30寺社・城」だという(参照)。「城」というのは、京都の二条城のことだろう。

私のような神社仏閣好きからすると、「観光客が一杯の神社仏閣で、どうしたら油なんかぶっかけられるんだ? 周りの人間にすぐに気付かれるだろうになあ」なんて思いがよぎったが、よく考えれば、どんな有名な神社仏閣でも、四六時中人が一杯というわけでもない。平日の早朝などは人影もまばらな時間帯がある。

それに、そうした場所では大抵の人はちょっと視線を上にしてありがたい仏像などを仰ぎ見る視線になるから、足元でこっそり油の滴をまき散らされても、気付かれにくいのかもしれない。いずれにしても、困ったものである。

このニュース、急に降って湧いたように連続して報じられているが、もしかしたらだいぶ前から染みのついていたのを、最近になって念のため 「まさか、ウチにはないだろうな」なんて調べたら、「あった!」ってなことになり、被害届が集中しているのかもしれない。そうだとしたら、犯行時期がばらけていて捜査しにくいかもしれない。

それにしても、こんな馬鹿なことをするのはどんな心理的鬱屈が関係しているのだろう。ちょっと昔だったら、「そんなことをしたらバチが当たる」なんていう心理が、こうした犯罪の防波堤になっていた。欲に目がくらんでの賽銭泥棒みたいなのは昔からいくらでもあったが、建物や仏像に油をばらまくなんていう、一銭の得にもならない行為でバチが当たってはたまらない。

そんなわけで、昔はそんな馬鹿なことをする者はいなかった。だから貴重な国宝クラスの文化財といえども、常に監視の目が光っているというわけではなく、ずいぶん無防備なままで多くの人に公開されていたのである。しかしもはや、こんな平和な景色は望めない時代になったのかもしれない。悲しいことである。

こうした馬鹿な犯罪を犯すのは、案外「いじめ」と関係があるかもしれない。ちょっと前までは、いじめの対象は周囲にいる実際の人間か生き物だった。人間の中でも弱者、そして小さな生き物がいじめの対象となった。いくらいじめても反撃されることがないと思えば、安心していじめることができる。

ところが最近は、いじめ問題がかなりクローズアップされて、一頃よりも弱い者いじめしにくい世の中になった。下手するといじめた相手が自殺して大問題になり、警察沙汰になってつかまってしまう。野良猫や公園の鳩でも、むやみにいじめたり殺したりすると犯罪になる。

そこで彼らは、「究極の弱者」を見つけたのかもしれない。仏像や寺社の建物は、動かないから絶対に反撃してこないし、信心の薄れた現代においては「バチが当たる」なんて迷信に過ぎないと思っているのだろう。警備も信じられないほど手薄だし、やりたい放題、いじめ放題である。

さらに「俺はあの世界文化遺産をこの手で汚してやったんだぜ!」という歪んだ満足感まで得られる。絶対に反撃されない「大物いじめ」である。こりゃ、か弱い同級生や公園の野良猫なんかをいじめるより、ずっとやり甲斐がある。

しかし、直接的な「バチ」は当たらないかもしれないが、やった当人はやっぱりどこか「気持ち悪さ」が残るだろうに。犯行直後は歪んだ達成感があったとしても、後からくる「気持ち悪さは、一生残る。不運に見舞われたりすると、思わず「あの時のバチが当たったのか」なんて思ったりして、心が安まらない。

仏が罰を与えなくても、人は我と我が身に罰を与える。これは迷信ではなく、れっきとした心理学的知見である。

 

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2015年4月12日

マクドナルドの客離れ

日経ビジネスが 「マクドナルド、客離れの深層」 という記事で、マクドナルドの客離れは 3年も前から始まっていたと指摘している。

マックの低迷は、例の「チキン問題」(昨年 7月、中国の加工工場が期限切れのチキンを使っていたことが発覚した事件)が契機となり、さらに今年に入ってから「ビニール片混入事件」が続いたため、信頼を失ったと思われがちだ。しかしよく見るとそんな単純なものじゃなかったというのだ。

日経ビジネスが先月初めに行ったアンケート調査によると、実は 「1〜3年前頃からマックに行かなくなった」という回答が 2割以上を占め、「半年〜1年前」と合わせると、ほぼ半数になる。「チキン問題」で嫌気をさしてしまったのとほぼ同じぐらいの客が、その前からマックを敬遠するようになっていたのである。

その要因として 「食の安全に関する疑問」 だけでなく、「実はマックは高い」と思われていたようなのだ。コストパフォーマンスに関する質問では、若年層の 3分の 1が「悪い、やや悪い」と答え、「良い、やや良い」は、ほぼ 4分の 1に止まっている。

この 10数年マックで食ったことがない私だが、3年前に話題になった「セットメニュー」というのが、一見安いように見えて、実はそうじゃなかったというようなことについて「マクドナルドのセットメニューって、ビミョーにボッてるのね」という記事で書いたことがある。

個々の商品は安くても、セット販売になると高くなるので、イメージは案外悪くなる。安さを訴求するために、一部の商品を気紛れ的に「ワンコイン」にしてしまうと、逆にそのためにますますイメージが低下する。それを避けて利益率を上げるため、さらにセット販売に力を入れると、メニューがわかりづらくなって注文しにくくなる。

この「注文しにくさ」について上述の記事で、私が大昔に珍しくマックのカウンターで注文しようとした時に、バイト店員の女の子が宇宙人過ぎて理解できなかったと書いている。それは、こんな感じだった。

ようやく自分の番になって、何とかセットを注文すると、女の子が甲高い声の早口で、何やら聞いてくる。

女の子  「○*△■◎◇▽▲○◆ かぁ?」
私    「?? はぁ??」
女の子  「○*△■◎◇▽▲○◆ かぁ?」
私    「なんだか、わかんない …… 」
女の子  「○*△■◎◇▽▲○◆ かぁ?」
私    「あなたが何を言ってるのか、さっぱりわからないということなんだけど」
女の子  「○*△■◎◇▽▲○◆ かぁ?」
私    「ハァ、もういいです。今までのことは忘れてね。サヨナラ」

何かサイドメニューを薦めているのかなということまでは想像できたのだが、それが何なのか、さっぱり聞き取れなかったのである。というわけで私は、カウンター越しに対話してしまった宇宙人に恐れをなし、当初の注文をキャンセルして退散したのだった。

安全性のイメージが悪い上に、「安物イメージ」を植え付け、さらに「言うほど安くないよね」ということになって、挙げ句の果てに注文する時にわかりにくくてしょうがないというのだから、敬遠されるのも当然なのである。

ついでに言うと、本家の米国のマクドナルドは私の知る限り、日本のマックよりもずっとイメージが悪い。日本の店員はキャピキャピし過ぎているとはいえ、まだ明るさはある(鏡を見て、自らの顔面に作り笑顔を貼り付けるのだという説もあるが)。しかし米国のマックは大抵雰囲気が暗くて、楽しい食事ができるイメージからはほど遠い。

日本では「マックでバイトする」 なんてごくフツーだが、米国では「なんで、よりによって、あんなところで働くの?」と言われるようなイメージまであるという。このイメージ悪いニューヨークのマックに、私は後学のため突入したことがあった。細かいやり取りは忘れたが、ちゃんとフツーに注文して、フツーに食べることができた。当然ながら、おいしくも楽しくもなかったが。

そして、英語しか通じない米国のマックでちゃんと注文できた私が、日本語が通じるはずの日本のマックでは、宇宙人の店員に遭遇してしまったために、フツーに注文することさえできなかったのである。これではもう、しょうがない。

 

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2015年4月11日

他の地域は、選挙カーの連呼がさぞうるさいだろうなあ

よその県は統一地方選挙の選挙カーでやたらうるさくなっているだろうが、私の居住する茨城県は静かである。茨城県会議員選挙は、統一地方選挙のスケジュールとずれていて、昨年暮れに済んでいるのだ。おりしも衆議院がわけのわからない解散をしてしまっていたので、県議会選挙と総選挙が同日ということになってしまい、そりゃあうるさい年末だった。

茨城県ではほぼ半世紀前の 1966年に県議会議長選挙をめぐる収賄事件(「茨城県議会黒い霧事件」)が発覚し、年も押し詰まった 12月 21日に自主解散した。この年は国政レベルでも一連の「黒い霧事件」と呼ばれる汚職事件が発生していた。

この時の出直し選挙は年明け早々に行われ、以来、茨城の県議会選挙は統一地方選とタイミングがずれることになった。そしてその任期満了に伴う 4年後の選挙は、ちょっと前倒しで年末に行われることになった。議員たちも選挙運動をしながら宙ぶらりんのままで正月を迎えるのは、さすがに嫌だったんだろう。その気持ち、わからないでもない。

いずれにしても日本国民の多くは今、選挙カーの連呼の只中にあるのだろう。気の毒な限りである。おりしもあの乙武洋匡さんが Twitter で選挙の連呼について tweet して、一部で話題になっているらしい。

彼は、候補者が選挙カーで連呼を繰り返すのは、「有権者は政策などろくにチェックせず投票するため、名前を連呼したほうが有効だと感じているから」で、「つまり、私たち有権者が馬鹿にされているのです」と断じている (参照)。

ところがそれに対して、「選挙カーでは連呼しかしちゃいけないことになってるんだから仕方ない」という反応が多く寄せられたらしい。しかし、ここで自慢たらしく言っちゃうけど、ネットの世界で最初に「連呼しかしちゃいけない選挙運動の馬鹿馬鹿しさ」を論じたのは、ほかでもない、この私である。

私は 8年近く前に "選挙カーの「連呼」は「迷信」から生じているらしい − 馬鹿馬鹿しさの根源は、変ちくりんな公職選挙法" という記事で、公職選挙法には動いている選挙カーでは連呼しかしちゃいけないという、まったくもって馬鹿馬鹿しい決まりがあるってことを書いているのだ。

その頃は、政治家の多くもそんなことを知らなかったらしい。現世田谷区長の保坂展人氏は 2009年 5月 27日付のブログで、「私たち政治家は、先輩から『選挙カーの走行中に連呼をしてはいけないことになっているから、(中略)政策やキャッチフレーズの合間に名前を差し挟むように』と聞いてきた」と書いている。

実はこれはまったく逆(つまり、厳密に言えば選挙違反) で、動いている選挙カーでは連呼以外しちゃいけないってことになっているのだ。公職選挙法 第141条の3は、「車上の選挙運動の禁止」 として、次のように定めている。

何人も、第141条 (自動車、船舶及び拡声機の使用) の規定により選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない。ただし、停止した自動車の上において選挙運動のための演説をすること及び第140条の2第1項 (連呼行為の禁止) ただし書の規定により自動車の上において選挙運動のための連呼行為をすることは、この限りでない。

念のためかみ砕いて説明すると、選挙カーでは原則として選挙運動をしちゃいけない(すごいね!)のだが、動いている間の連呼と、停車中の演説は例外的にやってもいいよと決められているのである。そういう馬鹿馬鹿しいしろものなのだ。我が国の公職選挙法というのは。

保坂氏は私のサイトの記事で初めてその事実を知って愕然とし、自身のブログ記事からリンクをはってくれている(参照)。そしてこの時、彼が出演した日テレの『太田総理』という番組で同席した政治家全員が「『ホントなのそれ?』と首を傾げた」とある。いくら本職の政治家が首を傾げようと、ホントなんだから仕方がない。

何度も書いていることだが、「選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない」というのは、日本一シュールな法律条文である。この条文を作成した役人と、採決に立ち会った議員は全員、一昨日の私の記事で触れた「妙な日本語を使っちゃっても、自分で気持ち悪くならない人」そのものである。

ちなみに、この法律の 141条では、自動車と船舶 (!) 以外は選挙運動に使っちゃいけないことになっている。保坂氏も書いているが、自転車を使うのも本来は選挙違反である。彼が総務省に問い合わせたら、そういう返事だったそうだ。船は OK でも、自転車はダメなのである。我が国の選挙ってのは、そうしたくだらないことで無駄にがんじがらめになっているのだ。

というわけで、選挙期間中に多くの人が強烈に感じるストレスは、このがんじがらめの公職選挙法の賜物である。そしてこんな馬鹿馬鹿しい法律が戦後ずっと続いているのは、煎じ詰めればやっぱり乙武さんの言うように、有権者は馬鹿にされているってことなんだろうし、もっといえば、政治家が自分で自分をおとしめているということでもあるんだろうよ。

 

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2015年4月10日

文体で「イラッとくる」ことについて再考

実は今日の記事は、一昨日の「イラッとくる感覚の翻訳」の中で書いていたのだが、あまりにも冗長になったので、一度アップロードしてから考え直し、急遽カットしていろいろ付け加え、本日の独立した記事にしている。

一昨日は「自分の文体が英文翻訳調に近い」と自覚していると書いたのだが、実は私にはもう一つ秘密兵器があって、それは古典的な日本語というものだ。それは私のもう一つのブログ「和歌ログ」で駆使しているが、そっちの方はマイナーなブログという位置付けにとどめてあるので、一応「秘密兵器」と言ってもいいだろう。

私は一時、歌舞伎なんてものにどっぷりとハマっていた時期があって、年間 30回以上劇場に通っていた。修士論文が、七代目団十郎から九代目への歌舞伎の変遷というテーマだったほどである。今は時間がなくてなかなか劇場には行けないが、しょちゅうテレビの BS で観劇している。そんなわけで、英文翻訳調の日本語だけでなく、古典的な日本語も意外にイケるのである。

自分の文体が英文翻訳調に近いとはいいながら、あまりにもステロタイプな翻訳調だと、つい「イラッと」きてしまうのは、このバックグラウンドのせいかもしれない。どこかに伝統的、あるいは土着的な、ちょっと言い方を変えると日本の身体性を感じさせるような要素がないと、どうもしっくりこないのだ。

その意味で、私の文体は 「ハイブリッド」(混血)ではなく「エクレクティシズム」(折衷)という方が当たっているのだろう。その意味では、どこか妙にエクレクティックな私の文章に「イラッとくる」人もきっといるだろうと思う。悪しからず。

古典的な日本語を書くという点では、ジャストシステムの ATOK はかなりありがたい。この日本語入力システムには「文語モード」というモードがある。このモードにすると、「てふてふ」と入力すればするっと「蝶々」と変換してくれるし、「言ふに及ばず」なんてのも、一度「言うに及ばず」と入力してから「言う」を「言ふ」に修正するなんて手間が要らない。

古典日本文学を専攻する学生が論文を書いていて、原文を引用する時なんか、とてもありがたい機能だろう。私が修士論文を書いていた頃にこんなのがあったら、どんなに楽だったろうと思う。

7年前に ATOK にそんな機能があると気付いたのをきっかけにして、「ATOK の文語モード試しみむとて」という記事を皮切りに 3日連続で擬古文調の記事を書いたことがある。和歌を古語で詠むのはずっとしてきたことだが、実は散文を書くのは初めての経験だった。しかし案外サクサクと書けるものである。日頃馴染んでいるというのは、ちょっとした強みになるようだ。

とはいえ、この 3日連続の擬古文体は、本当の格調高い古文に馴染んでいる人にとっては、相当に「イラッとくる」ものだったろうと思う。実はあれは、エクレクティシズムの極み的な一種のパロディでもあるので、その辺はどうかご容赦戴きたいのである。

 

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2015年4月 9日

妙な日本語を使っちゃっても、自分で気持ち悪くならない人

日本語の上手な人は、絵の上手な人よりずっと少ない」という記事を先月 25日に書いたが、Twitter でまさにそれを確認させるような tweet があって、一部で話題になった。Shichinohetowada さんという方の「文法的に何か違うような気がする真鶴駅」というもので、下の画像が添えられている。

Img_1525111

料金を示す路線図の下に書いてある注意書きは、こんなようなテキストだ。

新幹線経由で、横浜線内の乗車券をお求めのお客様はご迷惑ですが、係員まで申し出下さい

普通の感覚なら、一読しただけで「はぁ?」となってしまう。この日本語は、「文法的な誤り」を修正したらまともになるというような、生半可なレベルじゃない。とにかく根本からひどい。

まともな日本語を書ける日本人というのは、かくの如く本当に少ないのである。この表示を書いた駅員は、当然ながら言いたいことの内容は自分ではわかっているのだろう。しかし自分でわかっていることを、他人にもわかりやすいテキストとして表現することができていない。

で、この表示のココロを推し量ると、「当真鶴駅から、横浜線内のいずれかの駅に、新幹線経由で行きたい場合は、乗車券の経路の設定がちょっと複雑になる(多分、東海道本線で小田原駅まで出て、そこで新幹線「こだま」に乗り換え、新横浜まで行って横浜線に乗り換えることになる)ので、とりあえず係員に申し出てくれ」ってことなのだろう。

この解釈が正しいと仮定して(ほぼ確実に正しいと思うけど)、僭越ながら表示のめちゃくちゃな日本語を添削させてもらうとすると、次のようになる。

当駅から新幹線経由で横浜線内の駅まで行かれる方は、乗車券をお求めの際、係員にお申し出ください。

これで十分だ。原文の「ご迷惑ですが」というアヤシい一言の真意を尊重するとすれば、後半部分に「恐縮ですが」の一言を添えて、「恐縮ですが係員にお申し出ください」 とすればいい。「ご迷惑ですが」では、ぶちこわしだ。

私の 2007年 8月 31日の記事に、「社員教育としての日本語検定」というのがあり、その中で、銀行の ATM の横の張り紙について書いている。その張り紙には 「明細票はご持参ください」 とあった。

どういう意味かと、そばにいた案内係のオジサンに聞くと、「明細票を屑篭にお捨てになりますと、拾われて犯罪に使われたりすることがございますので、ご持参くださいということなんです」 と、慇懃無礼なほど丁寧に言う。「どの窓口に持参するの?」 と重ねて聞くと、「ご自宅とか会社まで、ご持参いただきたいんです」 ときた。

この人、「持参」 という言葉の使い方がわかっていない。「ご持参ください」 と言ったら、要するに 「持って参れ」、つまり 「持って来い」 ということになる (注: 文末参照) なのだが、彼としては 「持ち運ぶ」 の丁寧語だろうぐらいに思っているようなのだ。その誤りを説明してあげたのだが、どうもよくわかっていないようだった。みずほ銀行も、(あ、言っちゃった)この程度なのかね。

しかし翌週に行くと、さすがに「明細票はお持ち帰りください」という貼り紙に差し替えられて、一件落着となっていた。さんざん悩んだ挙げ句に、誰かまともな日本語のできる同僚に相談したんだろうね。まあ、最近では手を突っ込めないようなスリット型のくずかごに変わって、こんな張り紙は不要になっているが。

というわけで、妙な日本語を使っちゃっても自分で気持ち悪くなったりしない人が、世の中には結構いるということなのである。周りを気持ち悪くさせちゃうから、実はちょっと「ご迷惑」なんだけどね。

ちなみに、この時期だから言っちゃうけど、「気持ちの悪い日本語」 の最たるものは、公職選挙法第141条の3の 「選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない」 という条文だと思うのだよね。日本一シュールな法律条文である。選挙運動をすることはできないが、連呼は OK なんだそうだよ(参照)。

* 自分を主語にして「持参する」 と言ったら、「持って行く」 ということになるが、他人に対して「どこそこに」という補語なしに 「持参せよ」と言ったら、フツーは「持ってこい」ということになる。念のため。

 

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2015年4月 8日

イラッとくる感覚の翻訳

私の文体はやや英文翻訳調に近いところがあると、自分でも意識している。英語関係の仕事をする時期が長かったため、そんな体になってしまったのかもしれない。

20代から某繊維専門誌を発行する会社に 10年ほど在籍して、そのほぼ半分の期間は海外向けの情報を英語で書いていた。その後の 4年近くは外資系団体の広報部に在籍し、来る日も来る日も英語のプレスリリースを日本語に翻訳するという仕事を続けていた。タテのものをヨコにしたり、ヨコのものをタテにしたりするのが仕事だったのである。

だから私の頭の中では、英文と和文の境界線というのがあまり明確ではなく、その感覚が今に続いている。強いて言えば両者の間には「境界線」ではなく「非武装緩衝地帯」みたいなエリアがあって、私は意識的、無意識的にそのエリアの中にはまってテキストを書いているような気がする。

というような私だが、(あるいは「私なので」という方がいいかもしれないが)、読んでイラッとくる文体というのがある。どんなのかというと、このほど Wired に載った 「レヴュー:これは運転したくない、メルセデス・ベンツの未来のクルマ」 みたいなテキスト(オリジナルの英文を和訳した記事) だ。

なんでイラッとするのかは、実際にリンク先に飛んで読んでいただければ、わかってもらえると思う。もしわからなかったとしたら、まあ、それはそれでいい。結局は趣味の問題だからね。

なんというか、スタイリッシュな英語のテキストを過剰なお洒落感覚で訳すと、こんなような日本語になってしまうのかもしれない。たとえて言えば、典型的なアメリカの青春ドラマを、なかばパロディじゃないかと思えるほどのステロタイプな吹き替えにした感覚に通じると言ったら、わかる人にはわかってもらえるかな。

この翻訳記事の最初の部分は、こんなような 「お洒落な」 文章である。

ある晴れた日。わたしはサンフランシスコのオフィスからクルマを走らせていた。ベイブリッジを渡り州間高速道路880号線を走って、閉鎖されたアラメダ海軍航空基地の駐車場に入る。

わたしの運転は、慎重さとは程遠いものだった。制限速度を越えるスピードで他のクルマの間を縫うようにして進み、車間距離など空けずに追い越しを繰り返した。

参考までにこの部分の原文を示そう。こんなテキストである。ちなみに訳文は 2パラグラフにわたっているが、原文は改行なんてされていない。(参照

ONE SUNNY DAY last week, I drove from my office in San Francisco over the Bay Bridge, down Interstate 880 and into a parking lot at the defunct Alameda Naval Air Station. I was late, so I wasn't exactly driving cautiously.  I weaved through traffic going 15 mph over the speed limit, alternating between tailgating and passing cars on the right.

単純比較でもおわかりのように、ちょっと「超訳」気味なところがあり、センテンスもパラグラフもブツ切りにして、過度にハードボイルド調に仕立ててある。何しろ、原文の "I was late, so..."(遅刻気味だったので)という部分がばっさり省略され、単なる「飛ばし屋さん」になってしまっている。原文もかなり「クサい」ところがあるが、訳文ではそのクサみが何倍も増幅されてしまっているのだ。

そうえいえば私は、8年前に「翻訳の難しいアメリカ小説」とう記事で、サリンジャーの『ライ麦畑』はどう日本語に訳しても、原文の雰囲気を裏切ってしまうというようなことを書いている。この小説、私は野崎訳も村上訳も、読み始めて 3ページも進まないうちにイラッときて、放り出してしまった。しかしペーパーバックの原文は、おもしろくてあっという間に詠み終えたのである。

もしかしたら、こんなようなタイプの英文というのは、日本語にしづらいというか、どう訳してもイラっとくる日本文になってしまうってことがあるのかもしれない。というわけで、いくら自分の文体が英文翻訳調に近いところがあるといっても、妙な落とし穴には落っこちないよう、気をつけなければと思った次第なのだ。

 

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2015年4月 7日

自転車を始めたら、冬を薄着で乗り切れた

いつの頃からか、多分 50代になってからだったと思うのだが、恥ずかしながら冬になるとズボン下 (最近はお洒落に「タイツ」なんて言うのかな?) が欠かせないものになっていた。なにしろズボンだけでは寒すぎるのである。若い頃は伊達の薄着ってわけでもなく、そんなものは要らなかったのに。

ところが、ふと気付いてみると、この冬はズボン下なしで乗り切った。別に寒くて耐えられないというほどのことはなく、「ズボン下なんてはくと、なんとなくゴロゴロしちゃっていやなんだよね」という、若い頃の感覚がよみがえったのである。

この冬が特別暖冬だったのかといえば、そういうわけでもない。前とその前の冬は確かに厳冬だったという記憶があるが、今シーズンだってそれなりに寒かった。それなのに、上半身にしてもあまり厚着をすることがなく、乗り切ることができた。夜も寒さで目を覚ますなんていうことがなかったし。

この冬は何が違ったのかと言えば、思い当たるのは自転車を始めたということである。しかもママチャリなんかではなく、エントリー・モデルとはいえ、クロスバイクというカテゴリーの、一応はスポーツタイプである。雨さえ降らなければ、片道 15km ぐらいまではこの自転車でどこにでも行った。

そのおかげで、下半身だけでなく上半身にも筋肉が復活したのである。合気道を真面目にやっていた若い頃の体には到底及ばないが、それでもメタボは解消してすっきりし、とくに腰から太もも、ふくらはぎにかけてしっかりした筋肉がついたのだ。

筋肉というのは、結構な熱発生装置であるらしい。下手すると皮下脂肪がどてらを着るみたいに体を暖めてくれると誤解している人がいるが、皮下脂肪は一度冷めてしまうと温め直すのに結構なエネルギーを消費するから、寒い時はなかなか暖まりにくい。ところが筋肉はちょっと体を動かすだけで効果的に体を温めてくれるようなのである。

人間の体の中でも筋肉量が多いのは、腰から太ももにかけてである。この部分の筋肉が増えると、体全体が寒さ強くなるようなのだ。というわけで、ありがたいことにこの冬はすっきりと乗り切ることができたのである。運動するのは大切だと、身を以て認識してしまったよ。

 

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2015年4月 6日

(Mac に限らず)一太郎ファイルを読み込む苦労

昨年の 5月、"私はジャストシステムの「シルバー会員」なんだそうだ" という記事でもちょっと触れたが、日頃 Mac を使っていて困るほとんど唯一の問題は、メールで一太郎ファイルを送ってこられた時にどうしても読めないということだ。

今や業務ソフトは MS Office がデフォルトになってしまったが、日本語ワープロの世界では、一部で一太郎が使われ続けていて、今でも地方のお役所や団体、小学校なんかではデフォルトになっていたりする。スプレッドシートに Excel を使っているくせにワープロは一太郎だなんて、ずいぶん無駄な運用だが、なぜかずっとそのままだ。それで、忘れた頃に 一太郎ファイルの添付されたメールが届いたりするのである。

Windows では「一太郎ビューア」という無料ソフトがあって、私も Windows ユーザーだった頃はそれで一太郎ファイルを開いて読むことができていた。しかし Mac ユーザーになってからは、一太郎がものすごく遠い世界のプログラムになってしまったのである。「一太郎 for Mac」なんてソフトはないし、さらにそのビューアすらない。

ジャストシステムとしては、一太郎が Windows の世界でさえマイナーなワープロになってしまったので、しかたなく「一太郎ビューア」を提供しているのだろうし、Mac の世界では、それをする余裕すらないようなのだ。

私は一太郎ファイルを受け取ってしまったら、棚の奥から(アンチウィルスを更新してないので)スタンドアローンの古い Windows マシンをしぶしぶ取り出し、USB スティックから「一太郎ビューア」で読み込んで、それを Word にコピペし、Mac に戻して読み込むなんていう面倒な作業をする。こんな親切な作業をする人は、それほど多くはないと思う。

今となっては、一太郎ユーザーが「自分はマイナーなワープロを使っているのだから、そのままの形でファイルを送っても、読んでもらえない可能性が高い」と自覚して、それなりの対応をしてくれないと、周囲の者はちょっと困ってしまうのである。

ところが少なからぬ一太郎ユーザーはそうした自覚をほとんどもっていないようで、相変わらずノー天気に "jtd" という拡張子のファイルをメールに添付して送ってくる。送りつけられた今どきの初心者は、それが一太郎で作成したファイルであることを理解できない。さらに拡張子を表示しない設定で使っている人も多いから、ますますわけがわからない。

そうなると、たとえ Windows マシンを使っていても、「一太郎ビューア」をインストールすれば開けるということも知らずにお手上げになり、「送ってもらったファイルは開けませんでした」と返信することになる。そして、そんな返事をもらった一太郎ユーザーとしても、多くはどうしていいのかわからず、結局ウヤムヤになってしまう。

私は自分が一太郎ファイルを受け取った時に発揮する親切さの何分の一かの、ほんのちょっとした親切さを、一太郎ユーザー側に求めてもバチは当たらないと思っているのである。一太郎で作成した文書を他人に送りつける時は、"rtf" ファイルで保存して、それを送ってくれればいいのだ。そのくらいのちょっとした手間をかけてくれてもいいではないか。

しかし、私の知る限りの一太郎ユーザーは、「そのままでは開けないので、rtf ファイルで送っていただけるとありがたい」とリクエストすると 「わかりました。どうも済みませんでした」 なんて返事をくれるものの、きちんと実行してくれる人はとても少ない。

大抵は次の機会にも相変わらず "jtd" で添付してくる。あれだけ「開けない」って言ってるのに、まともに理解していないようなのだ。そんなわけで、世の中ではメールに添付された一太郎ファイルの、多分半分以上は開いてもらえずに放り出されていると思う。ご愁傷様なことである。

これはもう、どうしようもない。願わくはどなたか、一太郎文書の中身を Mac で読み込めるビューアーを作成して提供してくれないものだろうか。贅沢は言わない。一太郎ファイルをダブルクリックしたら、テキストのみを引っ張り出すだけという最小限の機能でもいい。

フリーソフトでなくてもいい。2000円ぐらいなら出してもいいから、誰かやってくれるとありがたいのだがなあ。それとも、一太郎なんてあまりにもマイナーなワープロになってしまったから、その程度ではコストが合わないのだろうか。

ただ、一太郎ファイルが開けなかったからといって、業務に致命的な差し障りを生じたという覚えはあまりない。こんなことをはっきり言うのも恐縮だが、rtf を理解できない一太郎ユーザーの作る文書なんて、開けなくても別に構わない程度のものではあるらしいのだ。

 

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2015年4月 5日

今度は皆既日食と地震の関連について

昨夜日本の各地で(私の地元のつくばの里はあいにく曇り空で全然ダメだったが)皆既月食が観測された。これに関連して、夕刊フジの "ZAKZAK" というサイトに、「地震と“怪奇”月食のコワ~イ関係 強い引力が地震のきっかけになる可能性も」という記事が載っている。

潮の満ち引きが月の引力によって引き起こされているというのはよく知られている。そして新月と満月の時期には、太陽と地球と月の位置が直線に近い状態になるため、地球は太陽と月の引力をプラスした形で強い影響を受け、「大潮」という現象が起きる。

そして実は、太陽と月の引力の影響を受けるのは潮の満ち引きだけではなく、地球内部のプレートも強く影響され、1日に 20〜30センチも上下しているというのである。そのため、プレートの間地震が起こりそうになっているときには、その引き金を引く要因になり得るのだそうだ。ちょっと嫌な話だよね。

話は変わって、10年半も前の 2004年 10月 22日付の朝日新聞に、「月の引力は潮の干満だけでなく、地震を引き起こす『最後のひと押し』になっている可能性もある」という記事が載った(参照)。単なる与太話ではない。米カリフォルニア大と防災科学技術研究所(茨城県つくば市)の共同研究でわかった事実である。

どうしてこれを記憶しているかというと、当時、この記事に興味をもってしまった私は、翌 23日にこのブログでそれについて書いているからだ。「無視できない数字」というタイトルの記事である。

それだけなら単に、「ふぅん、そうだったんですか」で済む話なのだが、このブログ記事を書いた 23日の夕方に、新潟で震度 6強を記録したあの中越地震が発生してしまった。あまりに気になった私は、試しにその日の新潟地方の干潮満潮時刻を調べてみた。気象庁のサイトに行けば、簡単に調べられる。便利な時代である。

すると、何と、この日の 2度目の干潮時刻が 17:56で、最初の震度 6強の地震が起きた時刻とぴったり重なっていたのである。あまりの符丁に驚いた私は、翌 24日の「月の引力と地震」という記事で、それについて書いている。それだけに今回の ZAKZAK に載った記事も、あまり気持ちのいいものではない。

そして話はそれだけでは済まない。 私が呆れたのは、地震と月の引力の関連性に関する記事を載せた朝日新聞が、その翌日に発生した中越地震が、まさに干潮の時刻ぴったりに発生したということについて、一言も触れなかったということである。あの記事を書いた記者は、新潟の干満時刻について、調べてみようという発想がなかったのだろうか。つまり、書きっぱなしだったということなのだろうか。

そして朝日新聞だけでなく、他のマスコミでも、ブロゴスフィアでも、この問題について書かれた記事は、私のもの以外には見つけることができなかった。みんな案外ぼんやりなのだなあ。それについて私は、東日本大震災の興奮冷めやらぬ 2011年 3月 20日、"地震と 「スーパームーン」" という記事で、思い出したように書いている。

この記事では深読みしすぎて、"これに関して、「当局からの圧力で何も書けなかった」などという、謀略説を唱えるやつもきっと出てくるだろうなと思ったが、知る限りそれもなかった" なんてことまで書いている。それほどまでに、月の引力と地震の関連性に関しては、一般の関心は薄く、さらに学会でも賛否両論があるみたいなのである。

とはいいながら、潮の満ち引き、スーパームーン、そして皆既月食と、月と地震の関係はいろいろと取り沙汰されるところで、やっぱり気になってしまうところではあるのだよね。

 

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2015年4月 4日

インターネットは、脳みその外付け記憶装置

IT Media ニュースに "ネット検索は「自分は賢い」と錯覚させる 米研究" という記事が載った。4月 1日付だが、まんざらエイプリルフール・ネタでもなさそうだ。「ネット検索は、ネット上の知識と自分の知識を混同させてしまうことで、実際以上に自分が賢いと錯覚させてしまう可能性がある」というのである。

去年の夏に 「スマホ普及率と、日本の平和」という記事で、 「ちょっと疑問に感じたら、(スマホで)その場でググってしまわないと、気持ち悪くて眠れない」と書いてしまった私にとって、これは由々しき問題である。調べないと眠れない体になってしまったからといって、「実際以上に自分が賢いと錯覚」なんかする勘違い人間に自分がなっていたとしたら、逆に気持ち悪くて眠れなくなってしまう。

眠れなくなってしまっては困るので、この研究成果はどんな実験でもたらされたのか知るために、記事の中身をよく読んでみた。するとこんなふうに書いてある。

ある実験では、対象者をネット検索を使ってもいいグループとそうではないグループに分け、「ジッパーはどういう仕組み?」といった4つの質問に答えてもらった。その上で、4つの質問とは無関係な別の質問(「曇りの夜はなぜ暖かい?」など)を示したところ、ネット検索を使ってもいいグループは、そうではないグループに比べ「自分はその質問に答える能力がある」と考える傾向にあったという。

検索を使ってもいいグループは、容易には検索できないような難しい問題や、フィルターによって回答が検索できない質問をされた時でも、「自分の知識は十分にあると感じる傾向」を示したという。「“検索モード”時の認知作用はとても強力で、検索で何も見つからなかった時でさえ、人々は自分を賢く感じているようだ」と、研究者は結論づけている。

ふぅん、これってどうやら、「ネット検索をしていると(脳が "検索モード" に入ってしまうと)、『自分は賢い』と錯覚する状態になりやすい」ってことを言いたいのであり、「ネットで検索しないと眠れなくなってしまう」という私みたいな人間が、常々「自分は実際以上に賢い」とゴーマンにも思い込んでいるというようなことを言っているわけではないようなのだね。

確かにビミョーに違う。少し安心したのである。私がちょっと疑問にぶち当たるとすぐにググって調べてみないと気が済まないのは、「なんでこんなこと知らないで、今まで済ませてきたんだ?」とばかりに、自分の無知さ加減にムカついてしまうからなのだ。いわば「脱・無知」の欲求、つまり「欠乏を満たしたい欲求」からの傾向のようなのである。

で、満足した調べがつくと「ああ、これで一つ賢くなれた」とは思うが、「自分は実際以上に賢い」と勘違いするってことは、基本的にない。「本当にないよな?」と重ねて自分に問いかけてみても、確かに「うん、ない」と答えることができる。だって、まだまだ知らないことだらけと自覚しているからね。

記事によると、研究者は「インターネットでは、『自分が知っていること』と、『自分が知っていると思っていること』の線引きがあいまいになってしまう」と述べているという。これは確かに、私のような「ググりたがり屋」が心して気をつけなければならないことだろう。

しかし私としては、ここで敢えて少し見方を変えてみたいと思うのである。ネット検索で知見を得ることによる「錯覚」を 「陥りやすい罠」として捉えるのではなく、逆に、これこそインターネット時代のアドバンテージと考えることもできるのではないか。

インターネット時代がここまで進展すると、人間の思考もネット対応する方が自然というものである。つまり、インターネットに蓄積された膨大なデータを、自分の脳にとっての「外付け記憶装置」として機能させてもいい時代になりつつあるんじゃなかろうか。ものすごく巨大なハードディスクみたいな外部記憶装置を、自分の脳に接続させたようなものである。

この外部記憶装置はまだまだ発展途上なので、その取り扱いについては十分な注意が必要だが、「自分が知っていること」という概念の定義は、昔と比べたら少し変化して当然だろう。「検索によって容易に得られ、そしてきちんと活用できる知識」は、「準・自分が知っていること」として位置付けてもいい時代になりつつあると言っても、それはあながち傲慢ではなかろう。

インターネットの思想って、そうしたレベルまで深め、高められてもいいんじゃないか。だって、元々そうしたことまでを目指して構築されてきたものなんじゃないのか、このインターネットというシステムは。

もちろん、インターネット上で得られる知見は、それを十分にこなせるバックグラウンドが自分になければ、単なる付焼き刃に終わってしまうが、それは検索を繰り返すプロセスで身についていくと期待してもいいと思うのである。何事もトレーニングが必要だ。

ちょっとだけ自慢げに言わせてもらうと、私はこのことに 20年近く前から気付いていた。そしてそれに関連して 13年前に書いた文章が、私の本宅サイト 「知のヴァーリトゥード」 の中に残されている。"コンピュータは 「脳みその大腸菌」" というテキストである。お時間があれば、読んでみていただきたい。

 

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2015年4月 3日

お金に興味がない私

一昨日のエイプリルフールの記事に関連してのことだが、私は「お金」というものにあまり興味がないのだと、最近しみじみわかった。

例の「バカリーマン日本代表」とかいうお方は 「財布を大事にするということはすなわちお金を大事に思っていることで、お金持ちの人はお金を愛し大切にする」と語っている。しかし私は彼の言うことが本質的に理解できない。年季が入りすぎたかもしれない二つ折りの財布で十分満足していて、彼の推奨するピカピカの大げさな長財布を持つ気には到底なれない。

これに関連するかもしれないが、「どうして古典演劇なんていうお金にならない学問を専攻したの?」と聞かれることがある。そうした質問に、私は唖然とするのである。私には「大学でお金のための学問をする」という発想がなかったのだ。逆に「どうして学ぶ分野を選ぶのに、お金なんかに左右されなければならないのだ? それで本当に学びたい分野を諦めてしまってもいいのか?」と聞きたい気持ちになる。

ところが大抵の人は、「本当に好きな分野の学問をしたい」というほどの切実な気持ちにはならず、「とりあえず、嫌いじゃない分野で就職に役立つ勉強をするのが、フツーってもんでしょ」ということになるようなのだ。就職に有利な分野を諦めてまで専攻したくなるほどの、「好きな分野」ってものを、持ち合わせない人が多いようなのである。

私は「仕事は仕事でちゃんとやるから、学生でいる間は、それとは別に好きな分野の学問をさせてもらうよ」と思っていたのである。確かに「フツー」じゃない。お気楽な馬鹿である。好きなことに時間を使ってお金はちょっと我慢するか、とりあえずお金を儲けることに時間を使って、好きなことを後回しにするかの違いである。私は「好きなこと」が先に立ってしまったのだね。

自分の馬鹿さ加減は重々自覚してはいるものの、お金というのは自分の興味をもつ対象を得るための中間的なメディア(手段)にすぎないと思っているから、私の興味は目的の方に向かいこそすれ、中間段階には向かない。「音楽が好きなのであって、オーディオ装置が好きなのではない」 というのと、同じ理屈だ。

世の中にはオーディオ装置には結構なお金をかけているくせに、CD コレクションは極々入門的なクラシックとか、あるいは時々新聞広告に載る 「○○大全集」 みたいなものしか持っていない(「○○」は、映画音楽だったり、シャンソンだったり、タンゴだったりと、とにかく統一性がない)人が案外多い。とくに団塊の世代の人に多い。

彼らは音楽が好きというより、「いい音で何かを聞く」ことが好きなのだろう。私なんか、こうした傾向を、お金で得るものよりも「お金そのもの」が好きな人と共通する志向性だと思ってしまうのである。

「お金があれば、何でも好きなものが手に入るのだから、お金を欲しがるのは当然ではないか」と言われるかもしれない。しかしそんなことを言う人の多くが、往々にして値段だけ高いがらくたに散財したりしているのをみるのが不憫である。

「いいオーディオさえあれば、いい音でいい音楽を聞けるじゃないか」といいながら、昨日は「ムード音楽大全集」を聞き、今日は「フォークソング大全集」なんかを聞いている人の姿とオーバーラップしてしまう。まあ、そりゃ好きずきだからいいんだけどね。

私はあまりお金に興味がないものだから、大それた収入もなく、その結果として好きなものを買うにも我慢を強いられることが多いが、人生、そんなものだと思っている。「好きなモノ」を好き放題に手に入れることはできなかったが、ちょっと考えてみると、私が好きなのは「モノ」より「コト」なのである。「モノ」はそんなに要らない。

「モノ」は金さえあれば手っ取り早く手に入れられるが、「コト」をこなすには時間がかかる。限られた時間の中で「好きなコト」だけは存分にしてこれた私は、案外幸運なんじゃないかと思っているのだよね。

 

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2015年4月 2日

昨日の記事の種明かし

昨日の 「英語の達人が使っている辞書には、共通した傾向がある」 という記事には、思いがけなくシリアスなコメントが寄せられたりしたが、実は恒例の「エイプリルフール・ネタ」である。この記事作成にあたっては、近頃ネット界隈でよく見かける記事を参考にした。

その類いの記事は、AllAbout なんかにとくによく出てくるのだが、代表的なのを 1つ挙げるとすると、「年収 2000万円サラリーマンの財布の特徴は?」みたいなものになるかもしれない。この記事は、こんな調子で始まる。

お金持ちの財布は長財布が基本。しかも艶があってきれいなのが特徴と話すのは『バカでも年収 1000万円』著者、バカリーマン日本代表の伊藤喜之さんです。

この人によると、年収 2000万円稼ぐサラリーマンは皆、上記のような高級な財布(長財布がマストで、2つ折りは論外だそうだ)をもち、しかもカバンの中でもしまう場所が決まっていて、ポケットに入れる場合でも胸ポケットに入れる。尻ポケットなんかには絶対に入れないのだという。

「財布を大事にするということはすなわちお金を大事に思っていることで、お金持ちの人はお金を愛し大切にする」のだそうだ。そうすると、お金の方から寄ってくるというのである。この類いのテキストは、ネットの世界にくさるほどある。きっと財布屋の回し者なんだろう。

私なんかが思うに、このバカリーマン日本代表の伊藤喜之さんという方の知っているお金持ちというのは、たまたまそうした類いの人たちなんだろう。そしてこの場合に関しては「逆もまた真なり」という保証はどこにもなく、高級な財布を後生大事に持ちさえすれば誰もが年収 2000万円になれるというわけではないというのは、フツーに考えても明らかである。

フツーに考えれば、高級な財布をもてば金持ちになれるのではなく、金持ちになったが故に高級な財布も持てるようになるのだろう。順序が逆だ。さらにいえば、すべてのお金持ちがそうした財布の持ち方をしているというわけでもなかろう。ぼろぼろの財布をもった金持ちだって、いないはずはない。

そして私は、高級な財布をことさらに見せびらかすような金持ちになりたいとは、決して思わない。こうした類いの文章の「お金」を「英語」に、「財布」を「辞書」に置き換えて書いているだけで、なんだか背筋がムズムズしてしょうがなかったよ。まったく。

若い頃に、電車に傘を置き忘れるのは、安物の傘を持つからで、奮発して高級な傘をもてば嫌でも大切にして置き忘れることなんてなくなるといわれた私は、それを真に受けて、高級ブランドの 1万数千円という値段の傘を購入したことがある。しかし、それは 1週間ももたずに電車の中に置き忘れてしまったというのは、10年近く前に「傘のジレンマ」というタイトルで書いた通りである。

あれ以来、私はこの類いの話は信じないことにしているのである。

 

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2015年4月 1日

英語の達人が使っている辞書には、共通した傾向がある

2020年に東京オリンピックが開催されることになり、国際化は嫌でも進展する中で、「英語ぐらいはしゃべれるようになりたい」という日本人が増えている。英語熱が高まるのは、戦後幾たびか繰り返されてきた熱病のようなものだが、その割にはこの国の人には英語はなかなか身に付かない。

ところが私の友人には、「英語の達人」と言われる人が何人かいる。私とてその昔、あるビジネス系の英語学校の検定で、「海外の法人で現地採用の社員を使いこなし、マネジメントできるレベルの英語力をもっている」とのお墨付きをいただいたことがあるが、その私が舌を巻くほどの英語力だ。

彼らが英語が得意になった経緯を聞くと実に様々で、「この方法で勉強すれば英語の達人になれる」という決まり切った方程式みたいなものは存在しないと思う。しかし最近、私は英語の達人たちに共通する傾向に気付いた。

「この方法で勉強すれば」という確実な「方程式」はないが、その代わり「英語に関してこんなような態度を保持すれば、英語の方から自然に馴染んできて、結果的に英語の達人になる」というような「法則」みたいなものがあるようなのだ。

ビジネス書から小説にいたるまで、英語の原書を年間 200冊以上読みこなすという J 氏は。日本語の本より英語の本を読むスピードの方が確実に速いというぐらいの達人である。米国人とジョークを言い合って大笑いしたり、逆に火の出るような論争をしている現場に遭遇したこともある。

その彼のオフィスを訪ねた際に、私は彼が辞書をとても大切にしていることに気付いた。彼の書棚には英語の辞書が20冊以上並んでいて、それが皆ピカピカに綺麗なのである。背表紙の金文字がかすれているなんていうのは、1冊もない。

「僕は辞書は常にピカピカでないと気が済まないんだよね」と、彼は言う。彼は安物の携帯版英和辞書なんか手にしない。常にハードカバーの英語辞書(いわゆる 「英英辞書」)を使う。しかもちょっと手垢で汚れてくると惜しげもなく人にあげて、新品の辞書を買う。

「このくらい英語を大切にしているから、英語の方で寄ってくるんだと思う」と、彼は自信満々に言うのである。「英語にお金をかけているから、英語がお金を生んでくれる」と言いたげだ。

それに気付いたのをきっかけに、知り合いの英語の達人にずらりと聞きまくってみると、異口同音に「辞書はいつも新品にしている」「改訂版が出る度に買い換える」という返事が返ってきた。例外なく「汚れた辞書なんか使っていると、英語運が逃げていく」と言うのである。

さらに私が「最近は紙の辞書なんか使わないで、iPhone の辞書オンリーなんだけど」というと、「そんなことだから、君の英語力はその程度で停まってしまって、それ以上進歩しないんだ」と責められた。余計なお世話だと思ったが、知り合いの英語の達人は、ことごとくそう言うのである。

どうやら「英語は英語を愛して大切にしている人、英語が好きでたまらない人のところに寄ってくる」傾向があるらしい。その象徴が一流の辞書であり、一流の辞書のある環境でこそ英語は本当に身に付くもののようなのである。

私みたいに 「英語は必要に迫られて使っているので、辞書は iPhone のアプリで十分」(といっても、それなりの値段の有料アプリを入れてるんだけどね)という程度では、「英語が逃げていってしまう」ようなのである。(そんなに遠くまで逃げられているとも思わないが)

「君も騙されたと思って、一流の英語辞書を買って、改訂版が出る度に買い換えるといい。そうすれば英語が英語を呼んで、気付いた時には英語の達人と言われるようになっているさ」と、J 氏はこっそりと秘伝を伝えるように言うのである。しかし私ももう還暦を過ぎてしまっているので、遅いだろうなあ。

【4月 2日 追記】

恐れ入ります。これは恒例のエイプリルフール・ネタですので、真に受けないよう、よろしくお願いいたします。詳しい種明かしは、4月 2日付の記事をご覧ください。

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