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2015年5月22日

しゃっちょこばらずに動作する

曹洞宗寺院の副住職さんのブログ 「つらつら日暮らし」に「禅宗の修行と動作システム」という記事がある。本日付のこの記事は、「河本英夫先生『損傷したシステムはいかに創発・再生するか―オートポイエーシスの第五領域』新曜社・2014年、230~231頁」からの引用から始まる。孫引きで引用させていただく。

動作の創発に意識はほとんど関与していない。この関与しないことに動作の自然性がある。手足を動かすさいに、いちいちそこに意識を向けていたのでは、とてもなめらかな動作はできない。動作の進行において、意識がそこから消えていくことに動作の自然性がある。この消えていく事態を意識の積極性と考えようと思う。そのため動作を現象学から考察していくためには、意識がそこから消えていく分だけ動作の自然性が出現し、動作がそれじたい作動するように意識が身を引く事象として成立する。こうした設定を行うことが必要である。またそれに応じた工夫が必要である。

卑近なことを言うが、慣れないことをさせられると、動作がぎこちなくなる。若い頃は、葬式の焼香をするのでさえしゃっちょこばっていた。前の人の手本を見て、その通りにしようとしてもまったく思いのままにならない。少しはまともにできるようになったのは 40歳を過ぎてからで、故人を追悼する気持ちでできるようになったのは、つい最近である。まあ、それだけ葬式が続いて、慣れちゃったということもあるが。

そういえば、昔習っていた合気道でもそうだった。合気道というのは徹底的に型稽古をする。型稽古しかしないのである。技の型を延々と繰り返すのだが、まともにできるようになるには結構な時間がかかる。

初めはやはりぎこちないもので、そのうちに少しはスムーズに動けるようになり、さらに進むと、ことさらに意識しなくても体が自然に動くようになる。というか、意識しているうちはぎこちない動きから抜け出せない。

武道では「習うて、而してそれを忘れよ」などと言う。何度も何度も型稽古を繰り返し、身につけたら、それを忘れてしまえというのだ。せっかく身につけたことを忘れてしまって、初めて本物になるというのである。「動作の創発に意識はほとんど関与していない」というのは、それと通じると思う。

それは、「条件反射」 というのとも違う。条件反射では、一定の刺激に対して自動的に決まり切った反射的動作しか生じない。しかし「意識の積極性」として、動作の中から意識が消えた状態では、自動的な反射行動に留まらない無限のバリエーションが生じる。意識しないからこそそうなるのだというところが、ちょっとおもしろいところだ。

しかし「意識しない動作」がいくら「自然」だといっても、それでは「自然の動作」を行うにあたって、「自己表現」という問題はどうなるのだという疑問が生じるだろう。「自己表現」がなければ、それは単なる機械的動作に過ぎないのではないか。「自然」には見えるかもしれないが、結局は「決まり切ったつまらない手順」なのではないか。

この疑問に対しては、まともに答えようとしてもしょうがない。仕方がないから、「自己表現」しようにも、その表現すべき「自己」なんていうものは、実は存在しないんだから、しょうがないじゃないかとしか言いようがないだろう。

「自己」があると思っている限りはしゃっちょこばってしまう。自己を滅しようとしても、滅しようとしている自己に囚われている。初めからないものを、表現しようとしたり滅しようとしたりしていたのが、そもそもの間違いの元だったのだ。

「動作」 をするというのは、その過程で「自己」はないものと少しずつ確認する修行なのかもしれない。恐ろしく手間のかかるプロセスだけれど、そうすることで「仏性」に気付くことができるかもしれない。

 

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コメント

しゃっちょこばらず…。
「ご焼香…」の動作は、ある政治家の焼香方法がかっこよかったので、努めて真似してます。

あとは、台所の所作ですね。
特に意識せず、包丁さばき、フライパンさばき、こなれているものと自負してます。(ははは思い上がりも甚だしく)

投稿: 乙痴庵 | 2015年5月25日 08:11

乙痴庵 さん:

>あとは、台所の所作ですね。
>特に意識せず、包丁さばき、フライパンさばき、こなれているものと自負してます。

それは素晴らしい!
わたしなんぞ、意識しまくってもうまく運びません。

投稿: tak | 2015年5月25日 14:15

こんにちは。お久しぶりです。
何日も前のエントリーにコメントをし、すみません。
ちょっと気になることがありまして、コメントしました。
本文中の「習うて、而してそれを忘れよ」って、
なにか特定の出典は御存知ですか?
御存知であれば御教示お願いしたく存じます。

というのも、語学には一家言ある私ですが、
これは武道に限らず、「文法」にもあてはまる!と
思ったからなのです。新しい言語を学ぶ際は明示的に文法を
習わなくてはならないですが、それをいつまでも
意識しているようでは、なかなか上達しないといいますか、
ネイティブとのやり取りもままならないと感じます。
動詞活用が膨大なロマンス語では、会話の際に
活用形を考えている暇はないですよね。
これと比較できるなあと思い、上記の件を
お尋ねする次第です。

投稿: hokkaidense | 2015年6月 3日 23:32

hokkaidense さん;

遺憾ながら、出典はわかりません。
「学びて時にこれを習う、また楽しからずや」 の論語でないことだけは確かです。

もしかしたら、「十牛図」なんかが関係あるかもしれませんね。

https://tak-shonai.cocolog-nifty.com/crack/2007/06/post_25bc.html

武道と禅は、ものすごく関係深いですから。

投稿: tak | 2015年6月 5日 22:38

takさん、ありがとうございました。
私の語学が「悟り」に入るのはいつのことやら・・・

投稿: hokkaidense | 2015年6月 6日 22:55

hokkaidense さん:

禅と同じで、しょっちゅうやっていれば、それでいいのかもしれませんね。

投稿: tak | 2015年6月 8日 10:07

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