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2015年6月13日

安保法制論議は難しいよ

安保法制論議が盛んである。私は「今の憲法が未来永劫正しい」なんてことはあり得ないと思っているから、昔から改憲論者なのだが、今の安保法制論議は、安倍政権の提唱する「集団的自衛権の行使」が、合憲か違憲かで揉めている。

私のスタンスは、「集団的自衛権が合憲か、違憲か」よりも、「必要か、不必要か」、そして「必要だとしたらどの程度にコミットすべきか」を論議すべきだという点にある。本当に必要ならば改憲してでも進展させればいいし、不必要なら止めとけばいい。テキトーに必要なら、テキトーに運用すべきだろう。

必要か不必要か、どの程度にコミットすべきかという具体的な論議の前に、全てか無かみたいな感覚で「違憲だからダメ」というのは、「健康のためなら死んでもいい」という健康オタクの論理と一緒である。

そもそもの話をすれば、「自衛のための軍備を持つのは合憲か、違憲か」という議論があった。今の自衛隊の存在については、「憲法解釈」によって「合憲」とされているが、私個人としては「どう見たって、違憲じゃないか」と思っている。ただ、「違憲だから自衛隊はダメ」というのではなく、「必要なのに、どうみても違憲なんだから、憲法の方を変えなきゃいけないでしょ」という、ごく単純なスタンスである。

ただ、世の中には「戦争放棄という美しい理想」を掲げた日本国憲法は、世界遺産にしてもいいほどのレアものなのだから、大切にしなければならないという考え方もある。自衛隊の存在に関しては「うーん、ごにょごにょ」でやっていきましょうという現実論が、今の主流だ。私としては原則改憲派だが、「確かに、『ごにょごにょ』も手だよね」と思う程度の柔軟さは持ち合わせていて、ゴリゴリの右翼ってわけでもない。

単純素朴な議論という点で言えば、「家を留守にするのに鍵をかけるのと同様に、国だって他国からの侵略を受けないために、軍備を持つのは当然でしょ」という言い方もある。それに反対する人は、「家の鍵と軍備を一緒にするな」というが、「馬鹿野郎、一緒じゃねえか!」という強硬派もいる。

憲法に立ち返れば、その前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というテキストがベースとなっている。だから本来は、「我が国は軍備を持たずに、戦争放棄しましたよ」という建前なのだ。

ところが「平和を愛する諸国民の公正と信義」なんてことは、到底「信頼」するに足りないというのは、現実が示す通りである。だからそんなことでは「われらの安全と生存を保持しよう」なんて言っても、不可能である。

私が住んでいるつくばの里も、30年以上前に引っ越して来た頃は、妻が買い物に出かけようとして玄関に鍵をかけていると、近所から「そんな余計な心配しなくても……」と言われるほどにのどかな土地柄だった。ところが最近では空き巣が頻発して、自治体が「戸締まりをしっかり」なんてキャンペーンするほどになっている。それと同様に、安保環境も時代とともに変わるのだ。

何しろ天安門事件の歴史的総括を拒否している国が、こちらにばかり「正しい歴史観」なんてものを強要しつつ、頻繁に領海侵犯してくるのだから、呑気ではいられない。「船が通り過ぎるぐらい、いいじゃないか」なんて、呑気なことを言う人もあるが、軒先を借りたら、きっと母屋まで欲しがるのが、世界というものである。

ただ、だからといって「集団的自衛権の行使」なんてものを「いいね、いいね」と推進してしまったら、世界は余計な戦争まで起こしてしまう。問題は必要な国防を行うが、余計な戦争にまでは参加しないという「線引き」なのだが、その判断にしてもなかなかビミョーで、そんなことで侃々諤々をやっていたら、下手するとアクションを取るのが手遅れになったりすることもある。

「いつでも、やってやるぜ」という姿勢は、かなり現実的な抑止力になる。ただ、「とはいえ、容易にはやらないけどね」という原則は守らなければならない。「使わないための準備をする」というパラドックスの上で綱渡りをしている程度に、人類は賢くもあり、愚かしかしくもある。

ビミョーな賢さがちょっと失われただけで、世界は紛争になる。私は何度か "戦争がなくならないのは、「平和は総論で語られ、戦争は各論で説かれる」 から" と言っていて、次のように指摘している。

総論は抽象的だが、各論は具体的だ。世の中というのは、せっぱ詰まってしまうと、抽象論は具体論に敵わないのである。腹が減ってしまう抽象論は、満腹にさせてくれる(という幻想を与える)具体論の前では、無力だ。

「幻の具体論」に惑わされないように、性根を据えなければならない。

 

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コメント

「うーん、ごにょごにょ」に、一票!

突っ込みどころがあるから、その議論の継続で「平和憲法」を維持。
→消極的集団的自衛権

投稿: 乙痴庵 | 2015年6月14日 01:39

乙痴庵 さん:

なるほどね。
この国ではそれが一番現実的かもしれません。

イエスかノーかを明確にしたがる文化圏では、まず無理でしょうけど、日本ならお似合いですね。

投稿: tak | 2015年6月14日 16:00

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