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2015年6月12日

使う言語によって、人間が変わる

Wired に "使う言語が 「世界の見え方」 を決めている:研究結果" という記事がある。端的に言うと、以下のようなことだ。これは、「我が意を得たり!」と言いたくなるお話である。

『Psycological Science』 誌で発表された新しい研究は(中略)バイリンガルの行動と周りの世界の捉え方は、その瞬間に話している言語に依存する。そして彼らは、使用する言語を変えると、同時に行動や物事の捉え方も変化させるというのだ。

つまり、「使う言葉によって人間が変わってしまう」ということだ。記事は主に英語とドイツ語の比較によって論じられているが、それは他の言語同士の比較によっても似たようなことがありえるだろう。

例えば私の英語は「ペラペラ」というほどではなくて「ペラ」程度なので、日本語と英語ということになると、まったく「バイリンガル」とはいえないが、「日本語と庄内弁」となったら、それはもう、「完全なバイリンガル」である。

「そんなの、同じ日本語じゃないか」と言われるかもしれないが、それは当たらない。日本語(共通語)と庄内弁は、例えばスペイン語とポルトガル語以上の差がある。友人の日系ブラジル人はポルトガル語を母語としているが、スペイン語を聞くと苦もなく意味がわかるという。イタリア語でも、ちょっと想像力を働かせればわかるらしい。

しかし、庄内人同士が使い慣れた庄内弁で話しているのを東京生まれの人間が聞くと、「一言もわからない。英語の方がずっとわかる」と言う。それほどの違いがあるのだ。

そして、前にも書いたことがあると思うが、私は庄内弁でものを考えたり、会話したりすると、「俺って、なんていいやつだ!」と、自分で感動してしまったりする。庄内弁では理屈っぽいことは表現できないが、素朴な人情の機微が散りばめられて、ずる賢い悪党には決してなれない気がする。

一方共通語で話すと、庄内弁では不可能だった「論理的な話」が可能になる。話していてわかるのは、「論理的な内容」を表現するための語彙の多くは、多分、明治以後に日本語に加えられた「翻訳語」(欧米の語彙を日本語に翻訳したもの)に依存しているということだ。純粋の庄内弁には、それがないのである。

つまり庄内弁は「近代以前」のコンセプトしか語れないが、その代わり、とても素朴で豊かな人情や感覚を表現することができる。「共通語」という「人造語」は、多分それが苦手になりつつあるのだ。

そして私の英語がもし、「バイリンガル」と言えるほどに達者だったら、より「論理的」な内容で思考したり、会話したりできるだろうかと考えると、それは疑問だったりする。私の「共通語」は、もしかしたらナチュラルな英語以上に「論理的」たり得るかもしれない。

私の「共通語」は、後天的に学んだものだけに、無意識的ではあるだろうが、かなり人工的で論理的なところがあると思うのだ。だから、庄内弁で考えたり語ったりする時には不可能な「小賢しいやつ」になるのが可能だったりする。結構アブない。

 

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言葉」カテゴリの記事

コメント

きっと庄内弁には、「人を蔑む」語彙はないんでしょうねえ。

我が地元の言葉は、基本上から目線の対話法だと思われてなりません。
「よくぞそこまで達観したような物言いができるなぁ。」と言うおいちゃんおばちゃんで、あふれています。
「そんなこと、はなから分かっとったわ!」と言い切れるなら、はなからお見通せ!と言いたくなる。

おそらく地元言葉で思考したら、一言居士の会話になりそうで…。
げんなり。

投稿: 乙痴庵 | 2015年6月13日 09:59

乙痴庵さん:

>きっと庄内弁には、「人を蔑む」語彙はないんでしょうねえ。

ないわけではないんですが、もろに蔑まず、ちょっと笑いに包んでという感覚になるんですよね。

そうでないと、言いにくいというか、基本的に上から目線になりにくい言語体系だと思います。

例えば、

「そんなこと、はなから分かっとったわ!」

と言う発想はなくて、

「やっぱりんだが」 (やっぱりそうか)

程度に言うのが、庄内弁の基本的なメンタリティです。

これに

「んであんめがどは、もてだけんどもの」(そうじゃあるまいかとは、思ってたけどね)

がくっついたら、相当腹に据えかねてるってことです。

投稿: tak | 2015年6月13日 17:10

「上から目線」が日常会話です。
正直、40年住んでおりますが未だに生活言語にできません。本質的に受け入れられない…。
→当然訛りとしてのイントネーション違いはあります…。(汗)

「早よ起きヤァ!あんたが早起きしたいって言うもんで、わっざわざわ起こしてやっとるんやらぁ!」
これが当地方の各家庭で繰り広げられています。(勝手な推測)

投稿: 乙痴庵 | 2015年6月14日 01:32

乙痴庵 さん:

へへえ、そうですか。

庄内弁だと、多分こうなります。

「ちゃっちゃど起ぎねど、ままかしらんねぞ!」
(さっさとおきないと、ご飯食べさせられないぞ!)

メシを食わせてもらえないのが、最大のダメージです (^o^)

投稿: tak | 2015年6月14日 15:52

Wiredの記事を拝見しました。今までもそういう研究はたくさんされていそうなものですが、斬新な研究、結果だったのでしょうか。一言語以上を使う人は皆そうだと勝手に思ってました(笑)。

私は普段は英語だけですが、たまに日本語を使う機会があると突然性格が日本人になります。社会的上下、相手の気持ちや周りの空気を気にする度合いが断然違います。新聞購読の勧誘があった時、日本語のセールスだったのではっきり断れずにかなり苦労しました(苦笑)。17歳まで日本だったので、日本で大人としての社会的な経験に欠けているということも影響しているかも知れません。

皆さんの方言を使った表現、とても楽しいですね。庄内弁の映画があったら字幕が絶対必要です。「フラガール」を観たときもかなり苦労しましたが。

投稿: めぐみ | 2015年6月18日 01:05

めぐみ さん:

>たまに日本語を使う機会があると突然性格が日本人になります。社会的上下、相手の気持ちや周りの空気を気にする度合いが断然違います。

なるほど、さもあらん (^o^)

>庄内弁の映画があったら字幕が絶対必要です。

そりゃ、そうです (^o^)

あるいは、沖縄に 「うちなぁやまとぐち」 (共通語の沖縄バージョンと言ったらいいのかな) があるように、庄内流に共通語をしゃべることもできます。昔の学校の先生とか、市役所の役人とかが、そんな感じでしゃべってました。

投稿: tak | 2015年6月18日 02:07

庄内流の共通語というのは私にも分かるような庄内弁の雰囲気をかもしだした共通語(もどき?)というものなのでしょうか?ちょっと想像がつきませんが、言語学的にとてもおもしろそうです。

投稿: めぐみ | 2015年6月18日 13:35

めぐめ さん:

大抵の方言にあるんじゃないでしょうかね。

吉本芸人の関西弁も、そんなところがあるだろうし。

投稿: tak | 2015年6月18日 22:46

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