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2015年7月に作成された投稿

2015年7月31日

東京オリンピックのエンブレムの "L" って一体何なの? (その 2)

昨日の続きである。

私は昨日の記事で、東京オリンピックのエンブレム・デザインが "Theatre de Liege" のロゴマークに「似てる/似てない」という議論以前に、「どう見ても、無駄で無意味な "L" がある」という点で、このデザインはアウトだということを主張した。これは当然の視点だと思っている。

ところが、日本国内の報道やブロゴスフィアを眺めても、そうした指摘は驚くほど少ない。大方は「似てる/似てない」の印象論的堂々巡り議論に終始しているのが、私にとっては不思議で仕方がないのである。

このあたりのことを、欧米ではどう捉えられているのかと検索してみたところ、「日本に対する海外の反応を報道するニュースサイト」 という触れ込みの NewSphere というサイトで "東京五輪エンブレム盗作疑惑 「偶然」「Lに見える」「桜版より良い」米サイトで話題" という記事に、関連する記述が見つかった。

米国のインターネット界隈には、"Kotaku" という日本のサブカルチャーファンが集まるサイトがあるというのだが、ここに多くの読者コメントが寄せられていて、デザイン業界に近い人ほど「偶然」と見る傾向が強いという。

ただし「盗作との見方も当然ながらあって、東京五輪に関係のない、「元ネタ」の "Liege" の "L" が残っているのが証拠だとする意見が目立っているとある。そうした指摘は、次の 2点に集約されるようだ。

    • アーティストの説明がどうであろうと、英語圏の者から見れば L にしか見えない。

    •  なぜ L を入れたの? 誰かが劇場のロゴを見て気に入り、意味も分からずにコピーしたのだと思う。

これは私の指摘と同じ視点である。やはり英語圏では、いや、英語圏に限らずアルファベットを使用する言語圏では "L" の字を「不自然」と見るのが 「自然」 のようなのだ。そりゃ、当然のことだよね。昔ちょっと英語でメシを食っていたことがあるというだけの日本人の私が、最初に見たときから「この "L" って、何なの?」と引っかかっていたぐらいだから。

で、オリンピックのエンブレムというのは、当然ながら国際的に使用されるものなのだから、アルファベットを使用する言語圏の人間が「この "L" って、何なの?」とフツーに思ってしまうようなデザインは、採用すべきじゃないと、重ねて思ってしまうのであるよ。

これはもう、盗作か否かとか、似てるか似てないか以前の、とてもベーシックな問題である。盗作か否かなんていうのは、どうせ最後までわからないのだから、「一見シンプルに見えるデザインの中で、無駄で無意味な要素が目立ちすぎている」という明らかに客観的な事実に即して、このデザインはアウトとすべきだと思うのだ。

 

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2015年7月30日

東京オリンピックのエンブレムの "L" って一体何なの?

オリンピック東京オリンピックのエンブレムに盗作疑惑が持ち上がっている。ベルギー、リエージュの Studio Debie が自らの Facebook Page で 「よく似ている」 と問題提起しているのだ(参照)。下の画像は、その Facebook Page への直リンクで表示しているのだが、確かによく似ている。

で、ネット上では「似ている」「盗作だ」「インスピレーションを得ただけじゃないか」「まったく別のデザインだ」 などなど、いろいろな見解が飛び交っているが、私としては、「似ている/似ていない」 という話の前に、佐野研二郎氏のデザインによる東京オリンピックのエンブレムにある "T" と "L" の 「"L" は一体何なんだ?」 ということを問題にしなければならないと考える。

Studio Debie による Theatre De Liege(「リエージュ劇場」 といえばいいのかな)のロゴは、イニシャルの  "T" と "L" の組み合わせだから、デザイン意図が鮮明だ。しかし、東京オリンピックのエンブレムの方の "L" は、何を意味しているのかさっぱりわからない。

7月 24日の選考結果を伝える NHK ニュースでは、次のように伝えられている (参照)。

「TOKYO(東京)」「TEAM(チーム)」、それに「あした」を意味する「TOMORROW(トゥモロー)」の3つのことばの頭文字の「T」をイメージしたデザインとなりました。

はい、OK、"T" の方に関してはわかった。かなりこじつけっぽいけど、この類いのものって、大抵そんなもんだ。その上で再び問う。「で、"L" の方の意味は?」

「いや、あれは "L" じゃなくて、あくまでも "T" のデザイン変化なんです」 と言うのかもしれないが、それは常識的にみて無理がある。あれはフツーにみれば、 "T" と "L" の組み合わせ以外の何物でもない。もっと言えば、どうみても "T" よりもむしろ "L" の方が鮮明に読み取れる。

私が問題にしたいのは、デザインの選考をする時に、審査員が 「この "L" は一体何なの?」 と疑問を呈することがなかったのだろうかということなのである。なかったのだとしたら、審査員は全員 「感覚派」 すぎる。文字のもつ意味に無頓着にもほどがある。

要するに、「似てる/似てない」 の議論は結論なんて出ないだろうが、「どう見ても、無駄で無意味な "L" がある」という点で、このデザインはアウトだということなんだよね。「シンプルなデザインは似たものになりやすい」と弁護する向きもあるが、これは一見シンプルに見えて、"L" の文字という無駄な余計ものを抱えている点で、シンプルでもなんでもない。

というわけで、この唐突で必然性のない "L" の文字の存在そのものが、雄弁に「盗作」の可能性が高いことを語っていると、私は思ってしまう。証拠残り過ぎじゃん。

大会組織委員会は 「長い時間をかけて世界各国の商標を確認し、今回のデザインを発表したので問題はないと理解している」なんてコメントしているが、「長い時間」をかけりゃ許されるってもんじゃない。

問題は酷似したデザインがあるという事実を見逃していたということと、そして何よりも、このデザインから無意味な "L" の文字を読み取ることができなかったというお粗末さである。

 

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2015年7月29日

生き返ったヒラリー・クリントン

私はヒラリー・クリントンには何の恨みもないのだが、昔から辛辣なことを言い続けてきている。9年前の中間選挙の時には「ヒラリーは、ただスマートなだけかも」と評した。何をやらせてもそつなくこなす常識と「勘の良さ」はちょっとしたものだが、質問への応答の仕方が想像通り過ぎて(つまりマニュアル通りってこと)、人間的な魅力が感じられないのだ。

つまり、彼女はどう振る舞えば魅力的に見えるかを知っていて、その通りに演じているだけだったのだよね。9年前のジョージ・ブッシュ(息子の方)との大統領選を私は「何を言えばスマートに見えるかを熟知しているヒラリー・クリントンと、どのように振る舞い、何を言えば馬鹿に見えるかを知らないジョージ・ブッシュ」の戦いと言っている。

その上で、米国南部を中心とする保守層は「スマートな人間が嫌い」なので、どう転ぶかわからないとしていて、その懸念通り、馬鹿に見えまくりだったジョージ・ブッシュが勝ってしまったのだった。本当に世の中はマニュアル通りにはいかないものなのだ。

さらに前回のバラック・オバマとの指名争いの時には、「賞味期限切れのヒラリー」とまで書いちゃっていて、米国初の女性大統領が生まれるとしたら、ヒラリー以外の誰かだろうなんて言っている。しかし、ここに来て私はこの前言を撤回しなければならないようだ。

ヒラリーは一度賞味期限切れしていたが、周回遅れで走っているうちに、いつの間にか生き返ってしまったようなのである。リモデルしてラベルを貼り替えたような勢いになっている。

彼女はこのほど、米国の再生可能エネルギー生産を大幅に拡大する方針を示し、大統領就任から 4年以内に(つまり最初の任期以内に)太陽光パネル 5億枚以上を設置し、10年以内(任期は切れてるけどね)に国内すべての世帯に十分なクリーンエネルギーを供給するという目標を示した。

さらに「公平な経済」という理念を掲げ、「富める者がより富めば、低中所得者層にも富がしたたり落ちる」という新保守的な考えが誤りだったことを指摘した。低中所得者層の家族の生活を引き上げることで、国の経済成長につなげる必要性を説き始めている。

私のような者からすると、「ようやくそこに気付いたか」ってなぐらいのことだが、まあ、これまでのヒラリーからはあまりイメージできなかったことを、大まじめに言い始めていることは評価していいと思う。望むらくは、今言っていることを本当にしっかりやってもらいたい。

とくに共和党候補のトップが、あの怖いもの見たさ人気のドナルド・トランプというのだから、現時点では最も可能性の高い候補ということになる。長い選挙戦だから、これからどんなどんでん返しがあるかわからず、序盤でトップを走っていた人間が最後に笑うことにはならないのが、米国の大統領選だが、今回ばかりはヒラリーも過去 2回でかなり学んでいるはずだから、期待していいかもしれない。

【2022年 6月 24日 追記】

今さら遅すぎる追記で恐縮だが、ヒラリー、やっぱりダメだったわけである。この時の大統領選直後に、「米大統領選挙に関する記事では、めちゃくちゃ反省だ」という記事を書いているので、宜しければどうぞ。

 

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2015年7月28日

クルマの運転があぶないのは、高齢者ばかりではない

最近クルマを運転していて思うのは、高齢者の運転はやっぱりあぶないということだ。ものすごくトロい運転が増えているのは、世の中の高齢化と無関係じゃないだろう。相手の反応がワンテンポかツーテンポ遅れることが多いから、こちらとしてもかなり慎重に対処しなければならない。

交差点の対向車線に右折しようとしているクルマがいて、その後ろが数珠つなぎになっている。こちらの車線もクルマの切れ目がないから、私はスピードを落として、そのクルマを右折させてあげようとする。ところが右折するに十分すぎるほどの間隔を空けてあげたのに、そのクルマはまるで動こうとしない。

こちらとしては、「せっかく右折させてあげようとしたのに、動かないんじゃしょうがないな」と思う。通してやりたいのはやまやまだが、こちらが余計な一時停止までしたら追突されるおそれがあるので、そのままのスピードで直進しようとする。すると突然、相手の車が右折しようと動きだす。反応が遅すぎるのだ。こちらは驚いて急ブレーキをかける。私の後ろのクルマの驚いて止まる。その後ろのクルマも同様だ。

こちらが急ブレーキをかけた時には、向こうも驚いて止まっている。そして恐れをなしてしまい、そこから全然動こうとしない。こちらは慎重に再スタートして通り過ぎる。

こんなこともある。信号のない交差点で、こちらから見て左側の小路からクルマがそろそろと現れる。こちらは念のためスピードを落とす。相手の運転者は定石通り右を見て左を見て、もう一度右(つまりこちらの方)を確認するのが見える。そこまですれば、当然こちらが通り過ぎるのを待つと思うのだが、さにあらず、突然左折しようと動き出す。

きちんと左右確認の動作をしているのに、こちらが見えていないのだ。年をとると視界が狭くなり、反応も遅くなるといわれるが、本当にその通りだと思う。こんなことが時々あるから、クルマの運転は一頃よりずっと慎重にするようになった。そうでないと、あぶなくてしょうがないのである。

こんなような「トロくてあぶない運転」をするのは、圧倒的に高齢者が多いが、実はそればかりではない。一部の中年のオバサンもかなりトロくてあぶない。彼女らはトロくてあぶない上に、ものすごく自分勝手でもある。これは経験則で学んだことである。横断歩道で歩行者が渡ろうとしていても、オバサンはまず停まろうとしないし。

あの類いのオバサンたちが年をとったら、一体どんな運転になってしまうのだろうと、心の底から心配になる。

 

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2015年7月27日

エルニーニョではあるらしいが

1か月ちょっと前に「どうやら本当にエルニーニョらしい」というタイトルの記事の最後の行で、「ここまできたら、どうやら『冷夏』は覚悟した方がよさそうだ。情熱的な夏物語は、来年以後に待とう」と書いている。この時点では常識通りに、梅雨明けは遅く、冷夏の傾向になると思っていたのである。

ところが実際には、梅雨明けは日本各地でばらつきがあって、沖縄・奄美地方ではものすごく早かったが、その他は関東甲信越や東海でほんのちょっと早く、その他はちょっと遅めとなっている。全体としてみれば、とりたてて遅いってわけじゃない。

それになにしろ、暑い。この暑さは確実に昨夏以上だ。少なくとも「冷夏」なんかじゃない。ただ、やたらと雨が多い。もっと言えば、雨の多いところではいつも以上に多い。続けざまに来ている台風が軒並み「雨台風」で、かなりの大雨をもたらしている。

つまり、「冷夏」では全然ないが、大雨傾向は確実にある。エルニーニョの特徴の半分は満たしている。このまま暑い日が続いたら、エルニーニョらしさの帳尻を合わせるために、雨の方が頑張ってしまうんじゃないかと心配だ。

で、ニュースによると今回のエルニーニョ現象は、冬に向かって強まりそうな気配なんだそうだ。冬までエルニーニョだと、暖冬になりやすいと言われている。夏が暑くて冬が暖冬なんてことになると、日本の平均気温はかなり上がってしまう。

はてさて、今後の天気は一体どうなるんだろう。

 

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2015年7月26日

「二六時中」が「四六時中」に変わったのは?

サザンオールスターズの『真夏の果実』という曲に「四六時中も好きと言って」という歌詞がある。初めてこの曲を聴いた時は、今どきの若い連中は「四六時中」なんて言われても意味がわからないんじゃないかと心配したものだ。いや、多分 10人中 5人はわかっていないかもしれない。

いうまでもなく、これは九九の 「四六 二十四」 から来た言葉で、24時間、つまり 1日中ずっとという意味だ。しかしこの言い方になったのは、比較的最近のことだと思っている。明治の頃までは、「二六時中」というのが普通だったようだ。夏目漱石の小説では、「二六時中」という言い方がよく出てくる。

江戸時代(というか、多分明治初期まで)は「一時(いっとき)」は 2時間で、1日は「子の刻」から「亥の刻」まで、12の「時(とき)」に分けられていた。だから「二六 十二」で、「二六時中」である。

1日は 24時間だなんて思っていなかったのだから、当然のことだ。それが西洋式に 1日が 24時間になった明治の世の中でも、言い方としては「二六時中」がしばらく残っていたのだと思われる。

この 「二六時中」 が、1日 24時間になったのと帳尻を合わせるために、いつの頃からか 「四六時中」 に変わってしまったのだろうが、いつから「四六時中」がメインになってしまったのかは、なかなか調べがつかない。どなたか明確なデータをもっていないだろうか。

ところで、今日は私の 63回目の誕生日だった。このくらいになると、誕生日を忘れ、自分が何歳なのかも忘れがちになる。

 

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2015年7月25日

「プチ熱中症」 に気をつけろ

昨年暮れにクロスバイク(スポーツ自転車で、いわゆるロードバイクとマウンテンバイクの中間タイプ)を買って、最近は晴れてさえいれば片道 30km 以内なら原則自転車で出かけることにしている。ただしかし、これはあくまでも原則で、しかもその原則はハードな方向に破られることが多い。

ちょっと気が向けば片道 40km ならでかけてしまう。歯止めが効かないのである。最近は片道 50km(往復 100km)ならやる気満々ででかけてしまう。そして、やればなんてことなくできるものである。そのうち往復 150km 以内なら自転車ということになりかねない。

おかげで若い頃の体力を少しは取り戻しつつある。自転車を買ったばかりの頃は、往復 30km 程度でひいひい言っていたが、今はまるで平気だ。自分自身の脂肪が落ちて筋肉が付いたのと、心肺機能が鍛えられた分、楽にペダルをこげるようになった。

ただしかし、問題は夏場の暑さ対策である。先日も炎天下に往復 100km のロングライドをして、帰り道はさすがに少々バテた。真夏の直射日光は、思っているよりもずっと体力を削る。行きはいいが、帰り道にそのツケが出るのだ。帰りは夕暮れの中だから楽だと思っていると、全然そんなことはなく、急に脚が重くなる。

さらに、帰宅してからも体の火照りが止まらないことがある。水分不足になっているのだろうと思い、意識して水を飲むがまったく鎮まらない。ならば塩分不足なのかと、レモン果汁と自然塩を加えた特製ドリンクを飲んでも、ほとんど効果がない。それでようやく、「これは熱中症になってしまっているのだ!」と気付く。

熱中症といってもフラフラになるわけではなく、救急車を呼ぶほどでもないので、まあ、「プチ熱中症」である。そう気付いてからは、早めに水に近いほどのぬるま湯シャワーを浴びるなどして、とりあえず体温を下げてやるようになった。そうするとあっという間に楽になる。

これをしないと、風邪を引いたわけでもないのに高熱を出している状態みたいなもので、無駄に体力を消耗してしまう。プチ熱中症でも何度か繰り返したら、夏が終わる頃には相当へばっているだろう。

周囲を見回すと、別に自転車でロングライドをしたわけじゃないのに、年のせいで体温調節機能が衰えて、ひいひい言っている老人が結構多い。これ、案外危険なことなのだね。「夏バテしちゃってねえ」なんてことで軽く済ませてしまうと、気付いたときには相当に体が弱っているなんてことになりかねない。

「プチ熱中症」のうちに、早めに体の火照りを取ってしまうことが大切だと、最近つくづく思うようになったのである。

 

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2015年7月24日

4年後は、土用丑の日が土曜日になる (実は来年も)

今日は土用丑の日である。妻の友だちが、「ウチの旦那ったら毎年土用丑の日になると、必ず『土曜日じゃないのに土用』って、くだらないことを言うのよ。『もう、毎年うるさいから止めてよ』って言うんだけど、必ず言うの」と、嘆いているのだそうだ。それはさぞかしうっとうしいことだろう。

毎年これを言うのだそうだが、言えない年もあるはずだ。それはもちろん、「土用丑の日が土曜日の年」 である。それがいつになるのか調べてみると、どうやら 2019年 7月 27日まで待たなければならないようなのだ。あと 4年後である。この日まではどうあっても生き延びてもらいたいものである。

ところで、土用丑の日にはどうあってもウナギを食べたいという人が多いが、私は一昨年の夏に "「ウナギとマグロは食わないことにする」ということについて" という記事で書いた通り、食べない。絶滅が危惧されている国産ウナギを食べるのは夢見が悪いし、中国産の養殖ウナギはコワくて食う気になれない。よって「食べない」という選択肢が残ったのである。同様に、マグロも絶滅が危惧されているから食べない。

ウナギとマグロを食べないからといって死ぬわけじゃあるまいし、嫌いじゃないが死ぬほど好きってわけでもないし、ほかに美味しいものはいくらでもあるのだから、執着を絶った。執着というものは、執着している間は大変だが、一度絶ってしまえば気楽なものである。どうしてみんな絶ってしまわないのか、不思議でならない。

日本人が土用丑の日に一斉にウナギを食うという習慣を改めれば、ウナギは絶滅の危機から逃れられるんじゃないかと思うのだが、まあ、思い込みによる習慣というのは本当に抜きがたいものである。これも 「業」 なのだろう。

【追記】

うっかり見落としていたが、おかげんさんのコメントにより、来年の 7月 30日も土用の丑の日が土曜日だと判明した。さっそくオヤジギャグが通じない年が迫っているわけだ。

おかげんさん、ありがとうございます。

 

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2015年7月23日

名誉欲ほど厄介なものはない

東芝の「不適切会計」の問題は、これからかなり大きな余波を呼びそうだ。株や不採算部門の売却による影響、リストラ、株主訴訟など、単なる 「内部抗争」 の結果には収まらない様相である。

そもそもこの「粉飾決算に限りなく近い不適切決算」がどうして生じたかというと、経営者がどうしても経団連会長になりたかったので、会社の決算の見かけを取り繕いたかったということのようなのである。赤字企業のトップでは「財界総理」になれないというわけだ。

経団連会長などといっても、その地位にいられるのはせいぜい 4年である。じいさんになってからの 4年なんて、あっという間だ。その 4年間に権力を振るい、周囲からもてはやされ、そして「歴代会長」リストに名を残すためには、会社の決算に操作を加えることも厭わないというのだから、はてさて、人間の「名誉欲」とは醜いものである。

誰が見てもそう思うだろうが、俗人ほど名誉欲が強い。まあ、名誉欲に限らず、いろいろな欲望が強いからこそ俗人ということになるのだが、困ったことに名誉欲に囚われる人はある程度の地位にあることが多いから、その周囲の人間としては本当にうっとうしい。

いくら決算を操作しても、先送りした損失はいずれ帳尻を合わせなければならない。そのうち業績は上向くという確信があるならいざ知らず、今の世の中でそんなことをしたら、ほぼ確実に会社が傾いてしまう。それでも構わないという 3人の人たちを、東芝という企業は、連続して社長に頂いていたのである。これはまあ、すごいことだね。

人間、仕事でたまたま成功して金銭欲がある程度満たされてしまうと、今度は大抵名誉欲に向かう。とくに自分の会社の歴代社長のうちで経団連会長が何人かいるということになると、自分がなれないと「不名誉」だなどと感じてしまう。

似たような構図で、国から勲章をもらいたくてしょうがない人たちもいる。特別大したことをしなくても、それなりの企業や団体でそれなりの役職にそれなりの年数ついていると、自動的に勲章はもらえる。だから、その基準すれすれの人たちは、なんとか形をつけようと汲々とする。

基準を満たしそうにない場合などは、世の中で求められてもいないお手盛りの団体をでっち上げ、自ら会長や理事長に収まってまで勲章をもらいたがる人もいる。もう少しで勲章をもらえそうになる前に、バブルが崩壊しそうな時期になってまでそんな道楽ばかりやっていたせいで自分の会社を潰してしまったという人を、私は何人か知っている。

まことにもって、名誉欲ほど厄介なものはない。

 

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2015年7月22日

冠婚葬祭は衰退産業

ちょっと旧聞気味だが、「冠婚葬祭互助会の1割が債務超過 少子高齢化で収入減」という朝日新聞の記事に「へえ」と思った。まあ、「それが何か?」という程度の「へえ」なのだが、要するに、業界の 1割が債務超過なんてことは、珍しくもなんともないじゃないかと思ったのである。

ところが、"更に割賦販売法が定める「純資産が資本金の 9割以上」という財務基準を満たしていない社も 43社あった。基準を満たさない社は原則、新規契約の締結禁止が命じられる”というくだりには、「それって、ヤバいじゃん!」と思った。この業界、ずいぶん縛りがキツいみたいなのだね。

国の縛りのキツい産業というのは、衰退産業だという認識が私にはある。最近は年寄りが多いから、冠婚葬祭、とくに葬儀に関する業界は追い風なのかと思っていたが、そうでもないらしい。一般的に葬儀が簡素化される風潮があるので、あまり儲からないようなのだ。

考えてみれば、互助会という産業は冠婚葬祭に金をかけたがる傾向に支えられてこれまで発展してきたと言っていいだろう。しかしこれからは、葬式代も残せずに死んでいく年寄りが増える。

それは当然だ。平均寿命が延びるということは、生きている間に財産をほとんど使ってしまうということだ。さらにほとんど死んでいるのに無理矢理生かされて、病院に払うお金ばかりがかさむのだから、葬式代なんて残らない。私は余計な延命治療はしないでくれと、子供たちに言ってある。

「死」というのは珍しいことでもなんでもない。人間誰しも死ぬのである。当たり前のことに余計な金を使っても仕方がない。葬儀が簡素化するのは当然である。さらに若い年代層が減るのだから、結婚式も減る。冠婚葬祭は衰退産業に間違いない。

 

 

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2015年7月21日

アップル・ミュージックの出現で CD がなくなっても困らない

Huffington Post に「アップル・ミュージックの出現で CD はなくなるか?」という記事がある。書いたのは「林伸次(bar bossa)ファンになるバーのマスター」という方で、(bar bossa)というのは、林伸次さんという人の店の名前なんだろう。

この記事はアップル・ミュージックへの疑問というか、もっと明確に言えば、音楽の価値を下げるアップル・ミュージックに抗して、CD 業界はいかにして付加価値を確保すべきかという視点で書かれている。アップル・ミュージックは水道水みたいなもので、業界はいかにしてミネラルウォーターを提供すべきかということだ。

これを読んで私は、「うぅむ、ずいぶん乱暴なご意見だなあ」と思った。アップル・ミュージックは水道水だというのだが、それはあまりにも無神経な決めつけである。実際には、アップル・ミュージックで提供される曲には、極上のミネラルウォーターもあれば、泥水みたいのものもある。それらが区別なく、定額で聞き放題なのだ。

よく考えれば、曲の質に関わりなくほとんど一緒の値段ということに関しては、これまでの CD の売り方と変わらない。変わったのは、「1枚いくら」という売り方ではなく、「何曲聴いても定額」 ということだけである。

つまり、「ミソもクソも一緒」だったのは、今に始まったことではなく昔からのことなのだ。世の中にはミネラルウォーターが好きな人もいれば、泥水が好きな人もいる。いろいろな消費者がいるので、値段の差は付けられなかったし、これからも多分、付けられないだろう。

つまり、これまでは「お金のかかる平等な世界」だったのが、アップル・ミュージックの登場で、「お金があまりかからない平等な世界」になったのである。私は正直言って、「CD って、どうしてこんなに高いんだ?」と不満を抱いていたから、アップル・ミュージックの登場は歓迎である。

アップル・ミュージックによって、音楽はより民主的なものになるだろう。これまでの「わけのわからない権威の世界」的な様相はどんどん薄れていくはずなのだ。私はそれでいいと思っている。これまでの方がいびつだったのだし。

大切なのはメディアではなく、中身なのだから。CD なんて、なくなっても一向に困らないのである。インターネットで音楽のストリーミングを聴くということにどうしても馴染めない人もいるだろうが、そうした人の多くは、既に好きな曲の CD をきっちり確保しているだろうから、あまり問題ない。新しい曲にはあまり興味がないだろうし。

それに残して意味があるとすれば、それは CD じゃなく、アナログ・レコードだろうし、それは既に一定の市場が形成されている。

 

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2015年7月20日

季節は 5日間で変わってしまった

先週半ばから 2度連続の出張をした。16日から一泊二日で山梨県に行き、トンボ返りして、18日から同じく一泊二日で山口県に行った。16日は折しも台風 11号が四国に接近、上陸となっていた日で、台風の勢力が強い上にゆっくりと北上したため、出張先にたどり着くのに大変な手間がかかった。

17日の朝イチの仕事に備え、16日は夜に甲府のホテルに入ればいいので、夕方 5時頃にクルマで出発しようと思っていたのだが、「中央道が閉鎖」 とかいうので、これは大変と、昼前に出発した。下道の国道 20号も通行止め区間があるというので、秩父の峠越えをしなければならないと思ったのである。

ところが途中まで行くと、あちこちのトンネルが通行止めになっているというので、途方に暮れた。東京多摩地区の青梅当たりでうろうろしている時に、カーラジオが「中央道が開通した」と告げたので、「今のうちだ!」とばかりに圏央道に飛び乗り、八王子で中央道に入って、夜の 8時頃に宿に到着することができた。翌朝のニュースでは、中央道は再び閉鎖になっていたから、案外すれすれのタイミングで切り抜けたことになる。

というわけで、普段は都内の高速道路が多少混んだとしても 4時間ちょっとぐらいで行けるのだが、今回は 9時間がかりの移動になり、結構疲れてしまった。さらに 17日の仕事をこなして、次は 19日の朝イチで山口県にいなければならない。一度クルマで帰宅して、18日に新幹線で移動するというのが、馬鹿馬鹿しい気もするがそれ以外に有効な手段が思いつかない。しょうがないから、そのようにした。

18日の出がけに、取手駅までの移動でカーラジオのニュースを聞くと、台風 11号の余波で、西日本の交通の乱れが解消せず、とくに関西の電車は軒並み運転見合わせだという。台風一過のスムーズな移動を期待していた私は「なぬ !?」と焦った。2度連続で出張の目的地に着くのに苦労するのは、誰だって勘弁してもらいたい。

取手駅の窓口で、いかにも新米風の女子職員に 「東海道山陽新幹線はちゃんと動いてます?」 と聞くと、「少々お待ち下さい」と、何やらパソコンをいじり始めた。おいおい、こんなベーシックな情報は、聞かれたらすぐに答えられるようにしとくべきだろう。

困ったような顔をしてさんざんパソコンをいじったあげく、ようやく顔を上げ、今度は訳のわからないことを言う。

駅員: 「新幹線は遅れも運行もしていません」
私:    「はあ?」
駅員: 「遅れも運行もしていませんから、大丈夫です」
私:    「それ、どういうこと? 初めから動いてないから、遅れもしていないっていうことだったら、全然大丈夫じゃないでしょ」
駅員: 「いえ、遅れも運行もしていませんから、大丈夫です」
私:    「もしかして、『遅れも運休もしていない』 って言いたい?」
駅員: 「はい、そうです (キッパリ!)」
私:    「確認するけど、要するに平常運転ってことね」
駅員: 「はい、そうです (さらにキッパリ!)」

というわけで、宇宙人のような駅員とのやり取りはあったが、無事に山口往復ができたのはありがたかった。

そして、帰ってきたら関東甲信越の梅雨明けが発表されており、今日は真夏の日射しが照りつけて、やたらと暑くなったのである。ああ、この 5日間で、季節はあっという間に変わってしまった。

 

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2015年7月19日

声を大にして 「夢に酔いすぎるな」 と言いたい

ネットのニュース配信で、新国立競技場の計画全面見直しに関し、猪瀬前都知事が「声を大に『夢を奪うな』と言いたい」と言っているというのが入って来た。週刊ポスト 2015年 7月 31日号の記事だという。

猪瀬氏がどんなことを言っているのか (いや、週刊誌のことだから「言っていると伝えられているのか」の方が正しいだろうが)というと、基本的には、以下の 2点である。

まず 2012年のデザイン決定時に 1300億円と見積もられていた工事費が翌年の試算見直しでいきなり 3000億円に膨らんだことへの疑問。そして、「屋根のある競技場」だからいいのであって、この問題で「国民の夢を奪うな」ということである。

率直に言って私は、「猪瀬さん、今頃になって何を言ってるんだろう」と思った。1300億円だった試算がいきなり 3000億円になったことに関して、「なんでいきなりそんなに増えてしまうんだ?」と憤っている人は、猪瀬氏を初めとして少なくないが、この問題は、「最初の試算も大甘すぎたんじゃないの?」となるのがフツーの感覚なんじゃなかろうか。

確かに獲物に集まる如き観のあるゼネコンが、ここぞとばかり利益を貪る試算をしている傾向もあるだろうし、その意味で「こんなに増えすぎるのはおかしい」とも言えるが、「最初の試算がこんなに安かったのがおかしい」との考えを一顧だにしていないのも、おかしすぎるだろう。

さらに「夢を奪うな」という甚だ情緒的すぎる発言も、いかがなものかと思うのだよね。こんなことが「夢」だなんて、今さら誰も思っていない。逆に「夢に酔いすぎるのはいい加減にしろ」と言いたくもなってしまうではないか。

 

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2015年7月18日

iPhone のバッテリーが長持ちしてくれたら

何となく 10年以上も iPhone を使い続けるような気がしたが、よく調べてみると、最初に iPhone 3GS を買ってからまだ 6年も経っていないのだった(参照)。まったく信じられない。iPhone のない昔は、一体どうしていたんだろうとまで思う。

ガラケーを使っていた頃は、「ケータイって便利だけど、家に忘れてきても別にそんなに不便は感じない」なんて言っていた。ところが今では、iPhone をもたずに外出してしまったりすると、不便でしょうがない。とくに出張には必需品である。

以前は出張で必要な資料やデータは、すべて A4 の紙にプリントアウトして、クリアファイルにずっしりと入れて持ち歩いていた。結構重かった印象がある。しかし今は、すべて iPhone を開けば参照できるから、データを紙の形で持ち歩くことはなくなった。初めて訪問するところでも、iPhone がナビしてくれるから地図を持ち歩く必要がない。

ガラケーの時代でもインターネットで地図サイトを見ることはできたが、何しろ画面が小さすぎて全然役に立たなかった。そしてテンキーだけで日本語を打つのはものすごいストレスだったから、ケータイ・メールなんてものもできるだけ使いたくないと思っていた。

今では何をするにもほとんど iPhone で事足りるのでとても便利に使っているが、問題はバッテリーがもたないことだ。出張でメールやナビ、インターネットでの確認なんてことでフルに iPhone を使っていると、ほとんど半日しかもたない。だからエクストラ・バッテリーは必需品である。

iPhone のバッテリーが、ヘビーに使っても余裕で 1日半ぐらいもつようになったら、本当にありがたい。それが可能になるなら、今の iPhone 6 の 5割増しぐらいの厚さになってもいいと思っているぐらいである。iPhone の今後の進化の最大のポイントは、バッテリーのもちだと断言してもいい。

 

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2015年7月17日

裏方感覚と、引き算のお節介

私は「裏方感覚」というのを大事なことと思っている。裏方というのは決して表舞台で目立たず、影にいてイベントの流れをスムーズにする。彼らの力は偉大である。

私は何をするにしても「裏方」として支えてくれている人の身になって、彼らに余計な負担をかけないように考える。そして究極的には、裏方がいなくても、表舞台にいる当事者自身が「裏方感覚」を共有して現場がうまく運ぶように協力し合うことができれば、とてもハッピーだと思うのである。

例えば団体旅行に参加した時には、添乗員に負担がかからないように、絶対に無茶な要求はせず、先回りして自分のことは自分でやる。慣れない人がいたら、ちょっとしたお手伝いをしてあげる。

私は勤め人の頃、海外の展示会に参加する際のコスト軽減のために、「〇〇視察ツアー」なんてのに加わることが多かったが、いつも添乗員に「tak さんみたいなお客さんばかりだと、本当に助かります」と感謝されたものである。

混雑したところを移動する時には、できるだけスムーズな流れが実現するように、無意識に移動のネックになってしまっているお団子状態の群れを、自然にばらけさせるように誘導する。そうするだけで、人の流れは驚くほどスムーズになる。

目に付くところに落ちているゴミはさっと拾う。何かのイベントで音響や空調などの不備があったら、いち早く具体的にスタッフに伝えて改善してもらう。誘導看板の不備のせいで混乱が生じていたら、「こんな風に書き直すと、わかりやすいよ」なんてアドバイスまでする。

こんなことを書くと、まるでおせっかいなオバサンみたいだが、ポリシーとしては、「引き算のお節介」を旨としている。足し算のお節介(つまり余計なお節介)はことを面倒にするだけだが、「引き算のお節介」は流れをスムーズにする。

つまり私は人の邪魔になったり、厄介をかけたりするのが、たまらなく嫌いな性分なのだね。きっと。

ただ少人数のイベントだったら、個人的にさりげない協力をするだけで驚くほどスムーズに動くようになるが、大人数になるとそうはいかない。効率的な 「引き算のお節介」 をするにも組織プレーが求められてしまう。

この「組織プレー」というのが問題で、この中で足し算のお節介をしたがるやつがいたりすると、それれだけでぶちこわしになる。世の中、なかなか難しいのである。

 

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2015年7月16日

英語を社内公用語にすることについて(その 2)

日経ビジネスが、7月 9日付で "ホンダ「も」導入した英語公用化" と伝えている。楽天、ユニクロに続いて、ついにホンダも、6月29日に開示した 「サステナビリティー(持続可能性)リポート」の中で英語公用語化を打ち出しというのである。

もっとも、社内の会話や会議をすべて英語化するというわけではなく、「2020年を目標に地域間の会議で使う文書や、情報共有のためのやり取りを英語とする『英語公式言語化』に取り組んでいる」 という程度のものだ。「地域間の会議で使う文書や、情報共有のためのやり取り」を英語化するというのだから、ドメスティックな会議は依然として日本語で行われるのだろう。

私は 5年前に「英語を社内公用語にすることについて」という記事を書いている。この中で私は、内田樹氏の "英語が公用語という環境では、「仕事はできるが英語はできない」という人間よりも「仕事はできないが英語ができる」という人間が高い格付けを得ることになる" という理由での懐疑論を紹介した。

とはいえ私自身は 「営利を目指す企業や組織で、英語さえできれば最上位にランクされるということはおこりにくいので、極端な心配はいらない」 と、内田氏の指摘は極論に近いと位置付けている。

私自身も英語を公用語とする団体に勤務した経験があるが、その日本支部の幹部クラスの英語能力は、バリバリというわけではなかった。「俺の英語の方が、ずっとまともじゃん」 と思うほどだったから、英語さえできれば出世できるというわけでは決してない。非営利団体にしてそんなものだったのだから、営利企業ならなおさらだ。

 

今は昔みたいに、英語ができるというだけで外資系企業を渡り歩く「英語ゴロ」が通用する時代ではない。私だって英語圏に留学した経験があるわけでも、英文科を出たわけでもなく、なんと大学院で歌舞伎なんていうもろに日本的なものを研究しただけなのに、なぜか英語ぐらいはできた。

 

「仕事ができるが、言葉は日本語しかできない」という人間よりは、「仕事も英語もできる」方がずっと有利である。というか、中学から大学まで 10年間も学んだ英語をビジネスに使えないなんていうのは、私としては信じられないのである。

「大学まで出たのに、英語を使えない」というのでは、「国際的な仕事はできない」とみていいのではないかと思う。だったら少なくとも、国際的なビジネスを展開している企業では、「使えない人材」ということになる。

だから、英語を社内公用語にするというのは、今となってはそんなに変わったことではないと思うのだ。

 

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2015年7月15日

本日の強行採決について、気が進まないけど一言

安全保障関連法案が本日午後、衆院平和安全法制特別委員会で、自民、公明両党の賛成多数で可決された。怒号の飛び交う中での採決だった。こんな姿をみたら、誰だって「こりゃ、おかしいぜ」と思うだろう。もう本当に気が進まないけど、一応一言書いておくことにする。

私はこのブログで何度も書いているように、れっきとした改憲派である。今の日本国憲法は改正されなければならないと思っている。そして、改憲派の多くは安倍内閣を支持している。それが私には理解できない。改憲派なら改憲派らしく、「憲法解釈」なんかで集団的自衛権を認めようなんて小手先の手法はとらず、堂々と改憲で進むべきだろう。

こんな無理矢理の「憲法解釈」なんかで集団的自衛権を既成事実にしちゃったら、もう改憲する意味がなくなってしまう。多くの改憲派が「諸悪の根源」とまでいう「アメリカに押しつけられた憲法」でここまでできてしまうなら、結果オーライ、「はい、おめでとうございます」ってなお話じゃないか。

「憲法改正には時間がかかるが、集団的自衛権は喫緊の課題だ」と、彼らは言う。しかしそんなに急がなければならない話だろうか。いろいろ取り上げたらキリがないが、まあ、日本にとって「一応の平和」が実現されている今だからこそ、じっくりと時間をかけて討議すべきだと、私は思うのである。

「ホルムズ海峡、いや違った、マラッカ海峡の通航」を日本の生命線でなくしてしまえば、そんなに必死に憲法解釈変更なんかしなくても済むのだ。まあ、それを言い出したらものすごく長いお話になってしまうので、これから折りがあったらちびちびと書いていこうと思う。

ちなみに、どうして改憲しなければならないかということについては、私としては「現憲法は米国からの押しつけ憲法だから」という感情論とは、明確に一線を画したいと思っている。「押しつけられたものだからダメ」というのは、単なる感情論である。2年ちょっと前に "「米国に押しつけられた」 では、憲法改正の理由にならないんじゃないかなあ" という記事で書いているように、「いいものならありがたく頂戴」しておけばいい。

そして私としては、日本の国の基本的なスタンスをきちんと考え直せば、「集団的自衛権」は必ずしも必要なものじゃなくなる可能性があると考えているのである。「軍隊は持つ、いつでもやってやる用意はある。けど、最後の最後まで平和の道を進むぞ」という国になるべきだと思うのだ。

今回の憲法解釈変更は、それとは真逆だ。「自衛隊は軍隊じゃない。だけど、何かあったら出撃しちゃうからね」ということになる。自衛隊員が「兵隊ではない単なる国家公務員」として戦闘に臨む事態が生じてしまっては、あぶなくてしょうがないじゃないか。少しは人の身にもなってみろというのである。

 

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2015年7月14日

明日という日はきっと来る

「日は昇り、日は沈む」 というフレーズは、とにかくあちこちで目にする。なんとなくそれっぽい雰囲気があって、つい言ってみたくなるんだろう。しかし私は若い頃、こんな短いフレーズで時の流れを表現する気には到底なれなかった。

そんなに暇人でもなかったのに、1日の長さをもてあましていた。日が暮れて眠りにつくまで、やたらと長かった。ましてや 1年というスパンでものを考えたりすると、気が遠くなった。

それが今や、1年がものすごく短い。6月が終わり、1年の半ばが過ぎたと思ったら、もそのう 7月も中旬にさしかかっている。そして夏というのはもっとも短く感じられる季節だから、うかうかしているとあっという間に秋になるだろう。そしてそうこうしているうちに冬になって、来年がくる。

というわけで、近頃私はようやくそれほどの違和感もなく、「日は昇り、日は沈む」と言えるようになった。しかし、本当にしっくりと言うことができるのは、順序を逆にした 「日は沈み、日は昇る」 というフレーズである。

要するに私はまだ、明日という日を信じているようなのである。「明日という日は、きっと来る」 と疑いもなく思っているのだ。そのことに気付いて、自分でもちょっと驚いている。

 

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2015年7月13日

突如として真夏になった

突如として真夏になった。全国ベースで見れば、昨日と一昨日も十分に暑いところがあったようだが、つくば周辺は、昨日まではまだ「だんだん暑くなってきたね」で済んでいた。ところが今日は朝からうだるような暑さに、文字通り「ヒイヒイ」と悲鳴が漏れた。

今月初めは雨模様の日が多く、朝晩は肌寒ささえ感じさせる日があった。ところが急にこの暑さである。多分昨日と一昨日の晴天で、地面が暖まってしまったのだろう。今日は日が昇った途端に暑くなってしまった。

これで梅雨が明けてしまうのかというと、さにあらず。水曜日からは降水確率が 50%になって、週末までそんな状態が続くらしい。そしていったんは猛暑が収まるが、週末からまた最高気温が 30度台になると予想されている。その後のことはよくわからないが、梅雨明けは遅れるとの予報もあるので、まだまだ季節的に行ったり戻ったりが続くのかも知れない。いずれにしても湿度は高いままで推移して、蒸し暑い状態が続きそうだ。

今週後半は出張が続くので、できれば晴れてもらいたいが、晴れすぎると暑くなると言うジレンマがある。まあ、適度に雲が広がってくれたりするのが、一番ありがたいかもしれない。熱中症には気をつけよう。

 

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2015年7月12日

「遊びの辛さ」 って意味じゃなかった

沖縄の島唄に『豊節』というのがあって、その中でリフレインのように 「あそびぬちゅらさ/にんじゅぬすなわい」という歌詞が繰り返される。沖縄では "o" の音が "u" に聞こえやすいことを知っているので、私はずっと 「遊びの辛さ/人情の備わり」 と言っているのだと思い込んでいた。島歌も、ずいぶん不条理を歌うのだなあと感じていたのである。

「遊びは楽しいようでもあるけれど、本当に遊びを突き詰めようとしたら、案外辛いものでもあることだよ。それに何て言ったって、人には人情ってものが備わっているしね」ってな感じの、ちょっとした機微を歌っているのだと思っていたのだ。

しかしそれは、まったく見当外れだと知ったのである。「ちゅらさ」というのは、前の NHK 連ドラでも知れ渡った「美(ちゅ)らさ」 であり、「美しい、みごと」という意味の言葉だったのである。これは今は NHK の連ドラや「美ら海水族館」の影響で「美ら」という表記が知れ渡ったが、元々は「清ら(きよら)」の変化なので、「清ら」の方がより語源に即した表記らしい。

で、さらに、「にんじゅのすなわい」の方も「人情の備わり」ではなく「人数の備わり」という意味なんだそうだ。なんだ、私ってば浅はかにも、歌の意味をまったくトンチンカンに受け取っていたわけか。

つまりこの歌詞は「遊びの美らさ(清らさ)/人数の備わり」ということであるらしい。ここでいう 「遊び」 とは、現代風の「飲む打つ買う」の放蕩的な遊びというよりも、日本古来の芸能の「田遊び」という言葉にも通じる気分が強いようなのだ。

「田遊び」は、春先の田植えの前に、その年の豊作を祈願して行う神事で、音曲・踊りの芸能を伴う。つまり芸能をもって神をもてなし、神と共に遊ぶのである。そのように、沖縄の「遊びの美らさ(清らさ)」も、神と共に遊ぶ芸能的な心持ちがあるようだ。

言うまでもなく、沖縄は三線という楽器が普及していて、踊りができて一人前というほどの土地柄である。歌舞音曲が盛んなので、結婚式の披露宴でも 100人や 200人、300人ぐらいの出席者は当たり前と聞く。皆で歌い、踊り、祝福し、楽しむのである。そうした「遊び」が、信心でもあるという心根が残っている。

つまり、人数が揃うと、「大勢で楽しむ」というだけでなく、そこにはいろいろな芸のある人も揃うので、より「遊び」の感興が高まるということのようなのだ。なるほど、こっちの方がストレートに深い。

 

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2015年7月11日

着物とフェティシズム

Huffington Post の「ボストン美術館の「キモノ試着イベント」が中止に 理由は人種差別、白人至上主義?」という記事が、とても興味深い。ボストン美術館で開催されていた 「キモノ:ウェンズデイ」 というイベントが、人種差別的であるとの抗議を受け、中止に追い込まれたのだそうだ。

議論の種となったのは、クロード・モネがもろに日本趣味で描いた「ラ・ジャポネーズ」という作品(左写真)。ジャポニズムの代表作として有名だから、一度は見たことがあるだろう。

ボストン美術館は水曜日のイベントとして、この作品の前で着物に触れてみたり、試着して作品の前で絵のモデルと同じポーズで記念撮影をしたりできるという企画を実施していたのだが、ソーシャル・メディア上の「文化的に無神経で人種差別」という批判に晒されて中止となった。

批判の中には「用意された衣装は正確に言うと着物(kimono)ではなく打掛(uchikake)だ」という抗議まで起きているというのだが、これなんかは批判する側もかなり混乱しているとしか言いようがない。打ち掛けだって着物には変わりないのだからね。

批判の急先鋒である "Stand Against Yellow Face" というページによると、この企画が問題とされたのは、上記のリンク先では触れられていないが、水曜日のもう一つの特別イベントとして実施されていた "Flirting with the Exotic" というトークショーとの合わせ技のようなのだ。「文化に対する配慮がない」というのである。

"Flirting with the Exotic" というタイトルは、直訳すれば 「異国趣味とじゃれつく」 というような意味で、確かにちょっとちゃらんぽらんな印象を受ける。さらにそもそものことを言えば、このクロード・モネの作品が時として「ジャポニスムをバカバカしい、フェティズム的な流行として風刺したもの」と解釈されていることもある。

そうした事情からボストン美術館の企画は、どうやらジャポニズムから逸れて、「フェティシズム」についての議論に向かってしまったようなのである。それで「白人至上主義で軽薄なイベント」と受け取られてしまったらしい。要するに純粋に芸術的見地からの論議を離れて、とても通俗的なイベントにされてしまったというわけだ。

それで、日本語の記事の方には、日本人らしい男女が絵の前で抗議のサインを持っている写真がある。手に持った紙には「着物を着てキュートでエキゾチックに見えたとしても、人種差別主義者というわけではない。MFA がこれをサポートする以外は」「MFA では全ての文化的体験ができる。今日、着物を着て人種座別主義者、帝国主義者になるとはどういうことか、学んでください」というような文句が書かれている。("MFA" は "Museum of Fine Arts, Boston" = ボストン美術館の略称)

しかしこれ、かなりセンシティブ過ぎる批判のような気もしないではない。フツーの日本人だったら、「ちょっと考えすぎじゃね?」と言うだろう。「人種差別的なフェティシズム」というが、これ、同じ企画を日本の美術館が実施したら、絵のモデルとされるクロード・モネの妻、カミーユ・モネが日本の着物を着ているのを真似たがる日本人の女の子たちで、大入り満員になりそうな気がするのだよね。

ただそれをちょっと深読みすると、日本の女の子が、日本の着物を着てポーズを取る西洋人を真似る「なりきりイベント」ということになり、それはそれで「かなり入り組んだ白人至上主義」を日本側から発信しているということにもなりかねない。いやはや、かなり複雑な事情がある。

いずれにしても着物というのは、既に日本人にとってもエキゾティックなフェティシズムの対象になってしまっていると思う。これは「人種差別的」というよりも、「文化的ギャップ」ということのお話なのではないかと思われなくもない。

 

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2015年7月10日

JR はまだ 1か月以上先の予約ができない

今日は本当に久しぶりに、天気の心配をしなくても済んだ。予報では朝から晴天となるだったが、午前中は「ところにより曇り」の「ところ」によってしまって、なかなか雲が晴れなかったものの、午後からは明るい日射しとなって、久しぶりに自転車ででかけることができた。

で、ついでということで、取手駅に寄ったのである。来月のお盆の頃に出張の予定が入ってしまい、その頃は帰省ラッシュで鉄道が混んでしまうだろうから、早めに特急指定席券を買おうと思ったのだ。

お盆の真っ最中に、まず飛行機で出雲に飛び、それから JR で鳥取と京都に寄って、一週間かけて帰宅するという、ちょっとばかりハードな予定である。出雲までの航空券は、既に「早割」で手配済みだが、鳥取から京都までの特急指定席は、どの列車にするか迷っているうちに手配できていなかった。

とはいえ混雑する時期だけに、とりあえず一番手頃な便を予約しておく方がいいだろうと、取手駅に寄ってみたのである。JR 西日本の便なので、自動販売機では買えず、みどりの窓口で申し込んだところ、なんとまあ、「切符の販売は 1か月前からとなりますので、恐れ入りますが、まだ販売できません」という。

そういえば、「指定席券の申し込みは 1か月前から」というのを、大昔に意識したことがあるが、そのシステムが、まさか  21世紀になってもまだ生きているとは思わなかった。

「え、まだ買えないんですか?」
「すみませんが、14日になってからおいでください」
「へえ、航空券なら 1か月以上前だと『早割』 で売ってくれるんですけどね」
「すみません、鉄道はそれができないんです」

というわけで、出直すことになったのである。JR、国鉄から民営になって久しく、いろいろあった不合理な点がずいぶん改善されたと思っていたのだが、こんなところにまだ「えっ、今さらどうして?」というような不合理が残っていた。

7月 10日になって、そろそろお盆の予定も決まりかけている時期に、まだ指定席券を買うことができないというのである。今どき、JAL も ANA も、お盆の便はほとんど満席に近くなっている。「早割」で安く買えるのだから、予定の決まっている人は当然の如く早めに予約してしまうのだ。

これだから JR は、航空便との競合区間は、飛行機に負けてしまうのだ。早割で予約して飛行機で行く方が早くて安いのだから、当然である。コンピュータで管理しているのだから、1か月以上前の予約は受けられないというわけでもなかろうに。それともそのコンピュータ・システムを組み替えるのが、死ぬほど面倒くさいのだろうか。

まあ、仕方がないから改めて予約を申し込むことにしたのだが、なんだかうっとうしい気持ちが残ってしまうのだよね。

ちなみに、私はこれまで鳥取県だけは足を踏み入れたことがなかったのだが、この度、初めて鳥取県内で宿泊まですることになった。これで全都道府県制覇になり、しかもすべての都道府県で一泊以上するというハードルも越えることになる。

 

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2015年7月 9日

ヤマダ電機とイオンの苦境の原因

All About に「ヤマダ電機とイオンはなぜ同時に苦境に陥ったのか?」という記事がある。この記事は、この 2つの小売り大手の不振の原因が次の 4点であると指摘している。

  1. グロスメリットが出せなくなってきたこと
  2. 地方の不振
  3. 品質面での改良スピードの遅さ
  4. 消費者から飽きられてしまったということ

こうしたいわゆる「マーケティング・コンサルタントの視点からの指摘」というのは、私はいつも眉に唾をつけて聞くことにしている。しかもこの記事の筆者が、「軽自動車が売れるのはガソリンより安い軽油で走るから」 なんて書いた前科のあるお方だから(参照)、一層警戒してかからなければと思ってしまうのである。

まず「グロスメリットが出せなくなった」というのは、そうなる前に十分予測されていたことだし、「地方の不振」なんていうのは、何も今に始まったことじゃなく、10年以上続いていることだ。

イオンとヤマダがこの 2〜3年、急におかしくなったのは、その対策が遅れたこともあるが、今さらのようにことさらな言い方をしてもしょうがない。さらに品質だの消費者の飽きだのといっても、漠然とした話でしかない。

私はイオンの不振に関しては、今年 4月 30日の「イオンは恐竜すぎる」という記事で、あのどでかい出店形態は、じいさんばあさんばかりになってしまった田舎には向かなくなったと指摘している。品質がどうとか、消費者に飽きられたとか、マーケティング・コンサルタントの先生がいかにも言いそうなステロタイプな問題じゃないのだ。

それは実際に田舎に行ってみれば、実感としてよくわかる。今や田舎はじいさんばあさんばかりである。「おしゃれな品物が欲しい」なんて思っている若者なんか極々少数なのだ。そしてじいさんばあさんは、郊外の大型ショッピングセンターにクルマで買い物に行くことすらおっくうなのである。

軽自動車でようやく辿り着いたイオンの広大な駐車場は、店舗入り口に近いスペースはすっかりふさがっていて、遠く離れた隅っこの方に駐車しなければならない。そこから延々歩いて無駄にでかい店舗に入り、やたら広い売り場で小洒落た食い物なんか買ってたら、それだけで一日分疲れてしまう。

だから地方都市のじいさんばあさんは、日常の食料品を買うのにイオンの巨大ショッピングセンター内のスーパーになんか行かない。自転車で 5分ぐらいの、小さいが親しみやすい地元スーパーに行くのである。

お馴染みのちょうどいい規模のスーパーで、ちょいちょいっといつもの品物の買い物を済ませ、さっと帰ってきたいのである。他のご大層なショップなんか覗いてみたところで、疲れるだけだから、イオンは広いだけうっとうしく感じられのである。この傾向は今後さらに強まる。

「商品に飽きられた」なんてのは、地元のじいさんばあさんに聞かせたら「はぁ?」ってなもんである。彼らはそんな変わった食い物なんて欲しがっていない。いつもの品物さえ買えたら、それで十分だ。

地元スーパーは近頃、近海で獲れた生きのいい魚や地場野菜をしっかり仕入れているから、大手のわけのわからない商品よりおいしい。「いつもの品物」で十分なのである。逆に聞き慣れない新商品なんか押しつけられても、戸惑うだけである。

だからイオンは、今では地元高校生の遊び場でしかなくなっている。彼らはたむろするだけで金はあまり使ってくれない。若い層は実店舗で下見して、ネットで安く買うなんて技を知っちゃってるから、ますますイオンが儲かるはずがない。

要するにそういうことである。イオンは自前の大型スーパーで売ろうとなんかぜずに、傘下の地元中堅スーパーの地道な仕入れを支援しながら、それにちょこちょこっと PB のトップバリュー製品を織り交ぜていけばいい。

そしてヤマダ電機に関しては、これはもう単純な話。店がダサすぎるのである。いくら地方の店とはいえ、家電量販店で貧相なパソコン売り場のすぐ隣にスナック菓子や清涼飲料水の売り場があるのを見たら、誰だって 「この店、大丈夫か? 気は確かか?」 と思う。

ヤマダ電機の近くにケーズデンキがあったら、そりゃもう、家電を買うのにヤマダに行くなんて人はいない。それだけのことだ。

 

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2015年7月 8日

「キュウリは水分補給に適している」ということの考察

かなり根深いことは根深いが、重要性としてはちょっとささやかすぎて、ほんの時々何かのきっかけでふと思い出すものの、いつもは忘れてしまっている疑問というのがある。気にかかってしょうがないとか、普段の生活にも差し支えるというような疑問でもないので、意識して解答を見つけようとする気にもなれないままに、長い間放り出されてしまっている。

そんな「ささやかで、いつもは気にもかけないで忘れ去られている疑問」の一つに、「キュウリは水分補給にいい」というものがある。料理本やレシピ集みたいなものでキュウリという食材について調べると、たいてい「栄養価は非常に低いが、爽やかな食感があり、水分が多いので水分補給に適している」というようなことが書いてある。

個人的には「栄養価は非常に低い」なんてことはあまり気にしない。毒だというなら遠ざけるが、栄養があろうがなかろうが、「好きだからありがたく食す」という姿勢に変わりはない。ただ問題は、この「水分補給に適している」ということについてだ。

昔から「水分補給なんて、別にキュウリを食わなくても、水を飲めばいいじゃないか」と思っていた。炎天下を歩いて戻ってきて、「あぁ、喉が渇いた、水、水!」と、冷蔵庫で冷やしたミネラルウォーターをグビグビ飲むことはあっても、「あぁ、喉が渇いた、キュウリ、キュウリ!」なんて言ってキュウリに囓りつくなんて人を、私は見たことがない。

もしかしたら「水分補給に適している」というのは、水資源の乏しい国におけるお話で、それをそのまま日本にもってきているだけなのではあるまいかと、疑ったことがある。砂漠の国だったりしたら、ミネラルウォーターよりキュウリの方が安く手に入るなんてことがあるかもしれない。

しかしどうみてもキュウリを食うより水を飲む方が手っ取り早い日本の国で、わざわざそんなことを言う必要はないだろう。わざわざ言うからには、水を飲むよりキュウリを食う方が体のためにいいという理由があるのではないかと、疑問の矛先が変わってきた。

で、もう少し調べてみると、「水分の摂りすぎ」という問題が出てきた。夏はこまめに水分補給をすることが大切とはいうものの、過ぎたるはなんとやらで、水を飲み過ぎるのもよくないというのである。

そういえば、水を一気に飲み過ぎると胃液のバランスが失われて、消化作用がおかしくなるという話は聞いたことがある。もう少し探してみたところ、Yomiuri Online で、小川恵子さんというお医者さんによる「水分とりすぎにも注意!」という記事が見つかった。水を過剰に飲むことによって、腎臓が尿を作る能力の限界を超えてしまい、「水中毒」という病気になることがあるというのである。

いずれにしても、水分補給を「水」という直接の形でがぶがぶやりすぎるのは、あまりいいことではないのだろう。一方、キュウリなどの水分の多い食材を摂れば、体内での吸収が穏やかなプロセスとなり、急激に喉の乾きが感じられて水をがぶ飲みする必要がなくなるのかもしれない。

まあ、よくはわからないのだが、直接水を飲むばかりではなく、食物から穏やかに水分補給をするというのも必要なことなのだろう。そして夏場においてはその必要性がさらに高まるから、キュウリの存在意義があるということで、納得しておこう。当たらずといえども遠からずだと思う。

 

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2015年7月 7日

Apple Music を始めた

Apple Music を始めた。先月 11日に「Apple の定額制音楽配信サービスは、いいかも」という記事を書いて以来、ちょっと心待ちにしていたのだが、ついに日本でもスタートしたので初めて見た。最初の 3か月は無料トライアル期間だそうで、それが過ぎたら自動的に月額料金の課金が始まるらしい。

この料金は、月額 9.99米ドルだというので、日本だと 1,200円ぐらいになるのかと思っていたが、実際に始まってみると、個人向けなら 月額 980円だという。覚悟していたより 200円以上も安いので、ちょっとお買い得感がある。

使い始めるにあたっては、最初に "For You" で好きなジャンルやアーティストを綿密に登録しておくと、かなりパーソナライズされたメニューが表示される。「おぉ、こんなのがあったのか」 と嬉しくなるようなアルバムも出てくるのでありがたい。とにかく何をどれだけ聞いても定額なのだから(今は無料だし)、聞いてみるに越したことはない。

さらに、ストリーミング・サービスとはいえ、"My Music" に登録しておけばあとで好きな時に何度でも繰り返して聴くことができる。これは Wifi のないところでも回線を通さずに聞くことができるようなので、データ通信の 1月あたり 7GB という制限も気にしないで楽しむことができる。

さらにもっといろいろな使い方ができるようなので、楽しんでいこうと思っている。

 

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2015年7月 6日

安保法制論議なんて、今は止めとけ

何度か安保法制論議について書いた。今の内閣が通そうとしているのは、集団的自衛権というものをしっかりと認めた上での安全保障体制を構築するというものである。

そしてこの点に関する私の書き方は、もしかして安倍内閣を支持しているように受け取られてしまっているかもしれないと、ちょっと不安になってきたのである。それで、改めてそうじゃないということを強調しておきたいと思うのだ。

これに関しては急に言い出しているわけじゃない。ほぼ 1年前の「集団的自衛権問題について、うっとうしいけど、ちょっとだけ」という記事でも書いているように、私は「こんな大きな憲法解釈の変更を一内閣が決めるべきじゃないだろう」という理由で反対しているのだ。

ただ私は、今回の安保法制論議について、民主党などの態度について度々批判している。やれ「徴兵制に直結する」という妄言とか、共産党の単なる言葉尻に噛みつくだけの姿勢とか(参照)は、まともな安保体制の論議につながらない、単にヒステリックなものである。私としては自分の姿勢がそんなのと一緒と思われたくないので、しっかりと一線を画しているつもりなのである。

ただ、「単にヒステリックなだけ」という点では、安倍首相の取り巻き連も似たようなものだ。例の若手「勉強会」における 「沖縄の新聞を潰せ」だの「マスコミを懲らしめるために広告を出さない」だの、飲み屋のオヤジたちの政治談義と変わらない話が出てくるようでは、ちょっとお話にならない。

この右側の連中ともしっかりと一線を画してしまうと、「そんな話、今は止めとけ」としか言えないのである。端で聞いてるだけで情けなくなってしまう。どちらももう少し大人になるまで、議論はペンディングしておく方がいいという気がするのである。

 

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2015年7月 5日

"Today's Crack" が 500万アクセスを達成してた

北海道出張のためほぼ 3日間 PC に向き合わず、今朝久しぶりに立ち上げてみると、"Today's Crack" のアクセスがいつの間にか 500万を越えていた。出張中はアクセス・カウンターの出てこないスマホ版の簡略表示で過ごしていたので、全然気付いていなかった。

6月末頃に「そういえば、500万が近いな」とは思っていたが、それに関して今か今かと待ちわびるような感覚には、ついぞならなかった。13年前に本宅サイトの「知のヴァーリトゥード」を立ち上げた頃に、1年以上かかって 5,000ヒットを達成しただけで大騒ぎして喜んでいたのとは、エラい違いだ。

今ではこのブログの 5,000ヒットぐらいは 3〜4日あれば楽々達成してしまう。13年前のウェブサイトで 1年以上かかっていたのと比べれば、ざっとみても 100倍ぐらいのアクセスがもらえるようになってしまったわけだ。

アクセス数が 100倍にもなると、1ヒット当たりの価値が 100分の 1になったわけでは決してないのに、「単なる日常」という感覚になってしまうのも無理はない。ただ、ちゃんと考えればわざわざアクセスしてくれて、読んでくれるのだから、ありがたさに変わりはない。このことを改めて認識しなければならないだろう。

というわけで、ちょっと遅くはなってしまったけれど、ここでお礼を申し上げておきたい。

"Today's Crack" のご愛読、誠にありがとうございます。これからも、ちょっと捻った視点からの「世の中の読み方発信」を継続したいと思っていますので、よろしくお願いいたします。

 

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2015年7月 4日

ネクタイが邪魔者に見えてきた

先月 8日の記事でも書いたことだが、「クールビズ」が少しずつ定着してきたという気がする。ただ、その趣旨が徹底されているわけでもなく、私は次のように書いている。(参照

テレビに登場するキャスターなどのノーネクタイ姿が、まったく当たり前になったし、時々顔を出すオフィスをみても、ネクタイをしていない人の方が多い。(中略) もっとも昨今のクールビズは、「涼しい格好で省エネする」 という本来の目的よりも、「堅苦しいネクタイから解放されるための口実」みたいなところがある。

まあ、いろいろあるにはあるが、「サラリーマンは夏でもネクタイをしなければならない」という呪縛から解放されたことは大きい。その証拠に、近頃はワイシャツにネクタイ姿で電車に乗っているおっさんを見ると、やや奇異に感じられる。ジャケットなしだと、ネクタイがいかにも余計者に見えるようにまでなりつつあるのだ。

彼らはスーツの上着を脱いでいるだけで、目的地に着けばそそくさと上着を重ね、冷房の効いた屋内に突入するのだろう。しかし移動途中の姿、長袖ワイシャツにネクタイをしているだけという格好が、なんとも野暮ったく見えるのだ。

厳密に言えばワイシャツの位置付けは下着だから、下着にネクタイしているだけというようなものなのである。その「厳密な意味合い」が、クールビズが広まったおかげで、はからずも当たり前に感じられるようになってきた。なまじネクタイなんかしているせいで 「パジャマにネクタイしているみたい」 という感覚が強調されるようになった。

ネクタイさえしていれば許されるという、「サラリーマンの免罪符」みたいなアイテムだったものが、逆に「それ、みっともないだろう!」ということになってきているのである。時代は変わった。変われば変わるものである。

現代におけるファッションというものは「感覚派のおもちゃ」みたいなところがあるから、またいつネクタイがもてはやされるようになるかもしれないが、大きな流れとしては、確実にネクタイというものがその重要性を失う方向にあることは間違いない。

 

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2015年7月 3日

"I love you." と "This is a pen."

私には長年にわたる不思議があった。それは「どうして日本人の多くは、"I love you." を発音する時に、"I” と “you” にアクセントを置いて、"love” をあっさりと言うんだろう?」というものだ。

実際、多くの日本人はカタカナとしての「アイラブユー」は、味も素っ気もなく平板アクセントで発音するが、英語としての "I love you.”というフレーズを声に出して読ませてみると、大抵「アイラブユー」 と発音する。(フォントの大きさの違いによって表現してみたが、スマホ表示だとその変化がわからないかもしれない)

これ、ネイティブ・スピーカーの実際の場面ではまずこんなことはない。相手を見つめて言うのだから、「私は」と「あなたを」の部分は言わずもがなであり、強調する必要なんかない。言いたいのは「愛してる」ということに尽きるのだから、当然のごとく真ん中の "love" を強く言う。多くの日本人式の言い方なんかしたら、「僕はぁ、君をぉ、ごにょごにょ」に聞こえてしまい、確実にフラれてしまう。

「なんでまた、こんなに変な言い方になってしまうんだろう」と、私にはずっと疑問だったのだが、今日、突然の天啓のごとくにその疑問が氷解した。気付いてみれば、「なんだ、そんなことだったのか!」と言いたくなるほど、簡単なことだ。

日本人が 「愛」 を軽視しているからとか、照れくさがっているからとか、そんな大げさな理由では決してない。それほどまでにシリアスな意味合いを、英語のこのフレーズに投影しているとは到底思われない。

それは単に、多くの日本人が "I love you." を "This is a pen." と同じリズムとイントネーションで発音してしまうからである。思えば日本人にとっての英語は、すべて "This is a pen." に集約されてしまうのだ。

思えば、日本人が発音すると "I am a Japanese." も "I go to school." も "I like football." も、単純なフレーズはみんな同じ調子になる。これもすべて "This is a pen." のバリエーションに過ぎないのだ。

そうだ、きっとそうに違いない。ああ、すっきりした。

 

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2015年7月 2日

今、米国で注目の "Marketeer" (マーケティア) とは?

emi さんが "Marketeer" という記事を書いておられる。まだ日本ではまったくお馴染みじゃないが、英語には "marketeer" なる言葉があるらしい。 "Marketer"(マーケター)ではなく、"pioneer"(パイオニア)や "volunteer"(ボランティア)と同様に、「マーケティア」と発音すべき単語である。

この単語は単に「マーケティングをする人」という意味の "marketer" とは異なり、上述の "pioneer"、"volunteer" などの単語から喚起される意味合いを含み、極めて先進的なマーケティングを、企業活動に従属するのではなく、生活者視点から自発的に独立して行う人を指す。今、米国ではこのような自由なマーケティングが時代を切り開くものとして注目されている。

…… というのは、真っ赤な嘘である。手持ちの Wisdom 英和辞典では、「市場商人、(特定の)市場制度の支持者」 とされているが、はっきり言って、こんな説明ではよく分からない。「市場商人」なんて言っても、市場に立脚しない商人なんて見たことないし。しかし Oxford Dictionaries では、そう言うほかないようなことになっているようだ (参照)。

とはいえ、実際には "marketer" とほとんど違わない、あるいは、多くの人は違いをあまり意識しない言葉として使われているらしい。emi さんはとりあえず 「マーケティング担当者」という訳語を当てようとしているようだ。 "Marketer" というよりちょっと今風な感じであるらしい。

とまあ、ちょっと小洒落た単語ということなので、日本で流行ってしまうかもしれず、そうなると、emi さんは次のような心配をしておられる。

この語の存在が知られたら一気に流行りそうだな。
ただ、そういう感覚派の人たちのやることなので、
「マーケターと何が違うんですか?」ってなったとき
いいかげんな説明をつけて広めちゃうんだろうな。
そうやってまたガラパゴスなカタカナ語が生まれるのかな。

というわけで、emi さんが危惧しておられる事態が生じるとしたら、多分こんなようなことになるんじゃなかろうかと、先回りして書いてみたわけなのである。前もってこんな風な「釣り」と「バラし」をしておけば、あまり妙なことにはならなくて済むんじゃなかろうかと思ったわけなのだが、なにしろ「感覚派」の人たちのことだからそんなのお構いなしに、いろんなことを言い出すかもしれない。

まあ "enginieering"(エンジニアリング)みたいな感じで、 "marketeering"(マーケティアリング)という言い方が、 "marketing"(マーケティング)よりちょっとお洒落っぽい、「最近の高度なマーケティング」というような雰囲気を指す言い方として、一部の「感覚派」が使い出すことはあるかもしれないね。

そういえばその昔、"image engineering" なんてことを標榜する「感覚派英国人」のマーケティング・コンサルタントがいたなあ。ちっとも役に立たなかったけれど。

 

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2015年7月 1日

「環境的回心」 ということ

ちょっと旧聞になってしまったかもしれないが、Christian Today の "ローマ教皇、回勅「ラウダート・シ」発表 環境問題で回心呼び掛け 正教会・WCC・聖公会・ローザンヌも歓迎" という記事について触れよう。フランチェスコ 1世 (最近は「フランシスコ」 という表記が目立つが、私としてはずっと「フランチェスコ」を採用しているので、これで通させていただく)が、「回心」を呼びかけているというのは、最大限に大きなニュースだ。

「回心」というのは、「えしん」と読めば仏教用語で、「邪心を改めて仏道に帰依する」という意味だが、キリスト教では「かいしん」と読み、英語で言えば "conversion" である。「改宗」あるいは 「これまでの生き方を悔い改めて、信仰に目覚めること」といった意味だ。動詞は "convert" で、野球の守備位置を変えることも同じ単語を使う。

つまり、これまでとはがらりと変わった立ち位置に立つことである。フランチェスコ 1世は、このほどの回勅で「環境的回心」(ecological conversion)が必要であると訴えている。つまり、これまでの「人間中心主義」を改め、「統合的エコロジー」によって自然との共存を目指す生き方をすべきとしている。

つまり、これまでは「自然は障害であり、人間によって作り替えられ、乗り越えられるべきもの」という「人間中心主義」を改め、「自然は保護し、共存すべきもの」としている点で、従来の西欧的哲学をひっくり返すほどの意味をもつのである。

これはむしろ東洋的な思想に近付いているともいえるが、同時に最新の科学的知見をしっかりと取り入れている点で、科学と宗教の和解を促進するものともいえる。つまり今回の回勅は、十分な科学的裏付けをもつ現代的なものなのだ。そうした点で、私はフランチェスコ 1世は歴史に残る偉大な教皇であると思う。

私は過去にも "「フランチェスコ 1世」という名のローマ教皇" (2013/03/15)、"ローマ教皇が、自然破壊は「モダンな罪」と指摘" (2014/07/13) という記事で、「今のローマ教皇はエコロジカルな視点をかなり重視している」と指摘しているが、今回の回勅はその本領を発揮されているようなのだ。

重要な点は、この回勅をカソリックのみならず、他のキリスト教諸派も歓迎しているという点である。もっとも保守的な勢力とみられていたカソリックが、これほどまでにラジカルなエコロジーを推進するというのは、西欧の宗教哲学が大きな転換を図っているということであり、世界の精神世界に大きな影響を与える。

世界は今、大きく方向変換を始めているのである。これはフツーの日本人が思っているよりずっと大きな意味をもつ。これを理解できないと、世界の潮流に取り残されると言ってもいい。原発再開なんて言ってる場合じゃないのである。

 

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