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2015年8月に作成された投稿

2015年8月31日

軽自動車に対する偏見が、すっかりなくなった

実は最近、軽自動車に乗り換えた。前はエスティマ・ルシーダなんていう 1 box 型の大きなクルマに乗っていたこともあったが、子供たちが次々に独立して、今や夫婦 2人だけの生活になってしまったので、どんどん小さなクルマに乗り換えつつあった。そしてついに軽自動車である。

この夏までは、スズキのスウィフトという、排気量 1200cc のクルマに乗っていた。これはなかなかいいクルマで、きびきびとよく走ってくれた。そしてついに乗りつぶす寸前で車検になったので、私としては同じクラスのクルマにしようと思っていたのである。

もとより私はクルマにはほとんどこだわりを持っていない。ちゃんと動いて曲がって止まればいいと思っている。その上で燃費がよければいうことはない。ただ正直言って、軽自動車には偏見があった。

パワーがなくて、80km/h のスピードに達するにも時間がかかるし、エンジン音もうるさい。乗り心地も悪く、運転していて疲れてしまう。そう思っていたのだが、娘が「お父さん、今の軽自動車は優秀だよ。上のクラスに見劣りしないよ」と、熱心に薦めるのである。それで試乗してみたら、確かに合格点の出せる乗り心地なのだ。

というわけで、軽自動車の中でも燃費の良さでは定評があるという、ダイハツのミライースというクルマにした。乗り始めてみると、乗り心地が悪くないだけでなく、車体が小さいので取り回しが楽で、なかなか快適である。その上、燃費がものすごくいい。

今日は水戸の近くまで行ったのだが、夜遅くなったので、信号が少なく、車の通りも少ない一般道を走って帰ってきた。そしてメーターのボタンをちょんちょんと押して「平均燃費」を表示させてみると、なんと、29.3km/ℓ を叩き出しているではないか。

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これはすごい。ミライースというクルマは 「エコアイドル」 という機能が付いていて、信号などで停止している間は自動的にエンジンがストップし、発進する時に自動的に再始動する。これでかなり燃費を向上させているのだが、それでもせいぜい 25km/ℓ ぐらいのものだろうと思っていた。もう少し頑張れば 30km/ℓ も狙えそうなほどの超エコ車とまでは思っていなかった。

最近まで乗っていた スウィフトは、平均燃費が 14.5km/ℓ ぐらいだったので、同じ量のガソリンでほぼ倍の距離を走れるということになる。ということは、同じ距離を走って排出する CO2 は、半分に減少させているということだ。これはありがたい。ベストセラー・ハイブリッド車のプリウスの実燃費はせいぜい 25km/ℓ に届くか届かないかという程度らしいから、こっちの方がずっといい。

というわけで、私の軽自動車に対する偏見は、すっかりなくなってしまったのであった。

 

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2015年8月30日

遺伝子組み換え作物に反対することは 「非科学的」 なのか?

当初は「遺伝子組み換え作物」(以下、"GMO" = genetically modified organism と標記する)に否定的な立場をとっていた毎日新聞記者の小島正美氏が、ある時期から開始した「バイアスの強すぎる報道や情報を是正する活動」の集大成として、『誤解だらけの遺伝子組み換え作物』 という本を 世に送り出すという。(参照

これは、アメリカ人が中心になって書いた"The Lowdown on GMOs" という電子ブックを翻訳したもので、結論的には「農家の方の選択肢として(GMO は)あってもよいのではないか」とする内容になっているらしい。まあ、早く言えば GMO 擁護の立場で書かれたものと言っていいのだろう。

小島氏は、2002年に米国の農業を視察し、実際に GMO の生産に関して取材したことをきっかけに、考えを変えたという。彼は「(GMO の)生産者は口をそろえて『収量は増えます』『農薬も確実に減ります』『殺虫剤をまかなくて済むので、環境にもいいです』と言うのです」 と証言している。

つまり小島氏は、GMO は「いいことずくめ」と言っているのである。「農薬を使わなくて済むので環境にいいし、しかも収量が増えるのだから、何が悪いのか?」というわけだ。どんどん拡大してしかるべきではないかということになる。

しかし、小島氏の主張は一見すると「いいことずくめ」のようでいて、実は落とし穴だらけとみることもできる。「農薬を使わなくて済む」といえば聞こえはいいが、その中身は、「害虫」と呼ばれる虫やバクテリアを寄せ付けないか、それらの生殖を阻害するような仕組みを、作物が遺伝子的に持つということである。

ということは、「農薬を使わないから環境にいい」という幻想のもとで、より深刻な環境改変につながることが確実だ。つまり種の多様性を人為的に破壊してしまうのである。さらにそれは「害虫」を抑えるだけでなく、こうした GMO 作物の栽培を推進することで、作物自体の種の多様性も損なわれる。

「それがどうした?」と言われるかもしれないが、このような「人間の都合による強引な自然操作」が、過去にうまくいったことなどないことを忘れてはならない。現在の状況に「最適化」する形で種の多様性が損なわれれば、今後一定の環境変化が起きた際に、それに対応できる可能性が著しく低下してしまうのである。

ずっとうまくいっていると思われてきた「化石燃料活用による経済発展」が、今や地球温暖化という大問題を引き起こす元凶になっていることをみれば、人間の一方的な都合による自然界の改変が、巡り巡って非常に都合の悪い結果につながる可能性は、非常に高いとみていい。

つまり一つの視点による「都合のいいこと」は、たいていの場合、総合的にみると「自然界のバランスを崩す」という都合の悪い結果につながる。それは当然といえば当然だ。自然というのは微妙なバランスによって成立しているものなのだから、それを局所的に変えてしまったら、全体のバランスが崩れて当然である。

最新の科学や哲学の世界では、すべての物事は非常に複雑に関係し合って成り立っているという「複雑系」の知見が優勢となっているのに、こと農業に関しては「人間の一方的な都合」に立脚して、大規模な種の多様性破壊に確実につながる意思が働いているというのは、かなりな驚きである。

「人間にとって一方的に都合のいいこと」は、結果的にいろいろな弊害を生み出す。GMO だけは例外という根拠はない。しかも従来のやり方で致命的なデメリットがあるわけではないのに、無理に GMO 適用を拡大するというのは、あまりにも強引なやり方といわざるを得ない。

 

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2015年8月29日

「思考停止礼賛」 に驚いた

8月 25日付の毎日新聞、「勝間和代のクロストーク」という欄に掲載されている瀧波ユカリさんという方の 4コマ漫画がちょっと気になった (勝間和代氏の文章は、読んでない)。下の画像をクリックすると、別画面で拡大表示される。

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この漫画、近頃安保法制に関する議論で批判的に使われているらしい「思考停止」ということを擁護するという立場で描かれている。「思考進めりゃいいってもんじゃない」 というのが結論だ。

「そもそも思考って、どこまでも進むのが正しいあり方なのでしょうか?」と疑問を投げかけ、「『ここから先はゆずれない』ってとこで止めるものだろうし、その止めどころの指標になるのが法律だったり倫理感だったりすると思う」と、瀧波ユカリさんは 3コマ目で主張する。

さらに彼女は、「だから『人の命に関わるから反対』『違憲だから反対』を思考停止と揶揄するのは、憲法や倫理を蹴ってまでする思考に価値があると言うようなものでは?」と、4コマ目で疑問を投げかけているのである。

「ここから先は譲れない」というところで、人は思考を止めて当然で、その止める理由が法律や倫理感であるというのは、一見するとちょっともっともらしい。しかし、もっともらしいからこそ、「ちょっと待てよ、それって、やっぱり変でしょ」と言わなければならないと私は思う。

そもそも「ここから先は譲れない」というポイントを確定するのは、そこから先まで考えなければできないことのはずではないか。先まで考えてみて、「やっぱりこれはダメだな」と判断するからこそ、その前のポイントに立ち返り、「ここから先は譲れない」と主張する根拠となる。

法律や倫理感に沿って「ここから先は譲れない」というなら、トンデモな法律や倫理に縛られた国に生まれてしまった人が気の毒である。

「『人の命に関わるから反対』『違憲だから反対』を思考停止と揶揄するのは、憲法や倫理を蹴ってまでする思考に価値があると言うようなものでは?」と彼女は疑問を呈しているが、この際はっきり言ってしまおう。まさに、「憲法や倫理を蹴ってまでする思考」に、価値はあるのである。

憲法や倫理に縛られて停まってしまう思考の方に価値があるなんていう主張の方が、むしろ私には信じられない。それらを蹴り飛ばした思考をしてみた上で、やっぱり「蹴っちゃったらまずいな」と思えば蹴り飛ばす以前に立ち返ればいい。思考の中で仮定的に蹴ってみなければ、そこから先のことは判断できないではないか。

私自身は安倍内閣の進める「安保法案」には反対の立場なのだが、あまり大きな声でそれを言い出すと、こんな風な「思考停止して当然」という妙な考えの人と一緒にされかねないから、ちょっと不愉快なのである。それは今年 7月 6日の記事でも書いた通りだ。

 

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2015年8月28日

人生に三角関数は必要か?

鹿児島県の伊藤祐一郎知事の 「サイン、コサイン、タンジェントを女の子に教えて何になる?」という発言が問題になっている。この発言だけを切り取って、ああだこうだというのは問題があるだろうから、朝日新聞の記事から拾ってみると、伊藤知事は次のようにも発言している。

「それよりもう少し社会の事象とか植物の花や草の名前を教えた方がいいのかなあ」
「口が滑った。女性を蔑視しようということではない」
「サイン、コサイン、タンジェントの公式をみなさん覚えていますか。私もサイン、コサインを人生で1回使いました」

まあ、何となく言わんとしたことはわかるような気もする。彼は人生でそんなに使うこともない知識を必死に詰め込んでどうなるのだと言いたかったのだろう。自分だって使ったことは人生で 1度しかないというのだから、三角関数なんて大して必要のない知識だというわけだ。

こうしてみると、伊藤知事としては「女の子に教えてどうする?」ということより、「男だろうが女だろうが、どうせあまり役に立たないんじゃないか」と言いたかったのではないかという印象だ。自身も「人生で 1回」しか使ったことがないと告白しているのだから、

伊藤知事に女性蔑視的な考えが皆無とは言わない。少しは、というより、かなりその傾向はあるのだろう。「男だってあまり必要ないんだから、まして女には必要なかろう」といったニュアンスが濃厚なだし。

しかしそれより大きな問題は、彼が「物事を学習することの意義」を基本的にわかっていないということの方だと思う。

今回の件に関して言えば、三角関数の知識は他の知識と同様に、総合的にみて必要ないというわけではない。論理的思考力を高めるための道具としては、かなり有効なのだと思う。イメージでいえば、脳みその論理的思考力の容量をぐりぐりと押し広げてくれるのだと思う。

そうした意味においては、大学院の「文学科芸術学専攻」なんてところに身を置いていた私なんか、人生において直接的な役には立ちそうもないことばかり勉強してきた代表選手みたいなものである。ところが私自身の感慨としては、そのおかげでコクのある人生を送ることができているという実感があるのだよね。

というわけで、人生で直接的な役に立とうが立つまいが、物事の真理を知る喜びというものがあるってことを、伊藤知事はわかっていないのではないかと思うのだ。実はそれこそが「知の醍醐味」なのに。

 

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2015年8月27日

東京オリンピックのエンブレムに関する 「余計な説明」 が、火に油を注いでいる

東京オリンピックのエンブレムに関するゴタゴタに、またしても余計なゴタゴタ要素が加わった。このエンブレムの審査委員代表を務めた永井一正氏という 86歳のじいさんが、選考から決定に至るまでの妙なプロセスを明かした(参照) ため、逆に別方面の疑惑が深まるという結果になっている。

永井氏によると、佐野研二郎氏の元々のデザインは「東京」の頭文字の "T" を図案化したもので、右側の "L" を想起させる部分はなかったが、商標登録のための調査過程で他に類似する商標があるとわかったため、デザインを練り直すうちに、最終的に "L" に似たデザインが盛り込まれたのだという。だから、ベルギーの劇場のロゴを真似たものではないというのである。

しかしこれって、フツーに考えると首をひねりたくなる説明である。佐野氏の元々のデザインの商標登録をする過程で、明らかな問題になると認識されるほどに類似した商標が既に存在しているとわかったならば、その時点で佐野氏のデザインを 「アウト」 にし、次点となったデザインを採用すべきではなかったのか。

最終的に発表された佐野氏のデザインに、明らかに不要で意味不明の要素である「"L" に見える部分」を加えるという「妙にご親切すぎる練り直し」を行ったということ、そしてその事実がしばらくは伏せられていたということ自体が、「かなり不自然なプロセスだよね」ということになる。

さらに言えば、佐野氏自身の釈明会見で、右側の「 "L"  に見える要素」は、"T" と円の組み合わせによってたまたま生じただけで、「デザインのそもそもの成り立ちが違う」と説明されたことも、それは決して「そもそもの成り立ち」なんかじゃなくて、「後から付け加えられた結果」であることがバレてしまった。つまり、あの釈明は「ウソ」だったわけだ。

私としては、こうした諸々のおかしな要素は、「どうしても佐野氏のデザインを採用したい」という意思が働いていたことによるのではないかと疑うに十分なものだと思う。というのは、既に一部ではかなり知られたことだが、このエンブレムの審査委員には、佐野氏の関係者が多すぎるのだ。その「相関図?」みたいなものもネット上に公開されており、それをみるとかなり濃密な「コネ」である。

この相関図が話題になった当初は、私としては「せまい業界なんだから、このくらいのコネは珍しくないのかもね」なんて軽く考えていたが、今回の永井氏の「余計な説明」に接してみると、かえって妙にリアリティをもって迫ってきてしまったのだよね。

 

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2015年8月26日

Windows 10 の展開が始まっているようだが

私は Windows 8 などという「気持ち悪い OS」を使うのが嫌さに、昨年初めに Mac に鞍替えした。とはいえ、Mac ユーザーになった根本的な理由は 「Windows 8 が嫌だから」 というネガティブなものではなく、元々 「自分は Mac ユーザーであるべきだ」 と思っていたのに、20年前につい大勢に流されて Windows マシンを買ってしまったという思いがあるので、「あるべき姿に戻った」という意識の方が強い。

そんなわけで、Windows 10 という OS の展開が始まって、それは Windows 8 のおかしなところをかなり修正してくれているという情報が耳に入ってきても、もうほとんど興味がない。市場の反応も、あまり大きくない。

とはいえ私としては、Windows ユーザーのままでいる人たちに「Windows 10 は無料らしいから、早くアップデートした方がいいよ」と進めている。自分自身が Windows ユーザーに戻ろうなんてことは全然考えていないが、Windows 8 でストレスまみれになっている人には、早いうちに少しは楽になってもらいたいのである。

客観的な見方をすると、Microsoft は Windows 8 という 「チョー出来損ない」 の OS で大迷走をする必要があったのだろう。あれで大失敗したおかげで、自らの立場が既に「市場の盟主」なんかではないと、嫌でも認識せざるを得なくなったのだと思う。それで、今回の Windows 10 を 「最後の Windows」 などと称して、「サポート期限」なしという展開を取るに至ったとみるのが自然だ。

ただ、「サポート期限なし」とはいえ、無償でマイナーチェンジを繰り返していくということなのだろうから、基本的には今の iOS や Mac OS と同じようなものである。別段画期的な手法というわけではない。

本来ならば、Windows XP ぐらいでそういうことにしておけば、ここまで深手を負うこともなかったのではないかと思う。自分で自分の身を傷つけておいて、ようやく延命策にたどり着いたようなものだ。

この間、Windows XP で調子よく動いていたデータベースがおかしくなったり、アプリケーションソフトが使えなくなったりという弊害が起きて、Microsoft に対する信頼性は確実に傷ついた。

結果的には、Windows XP で市場全体を支配していた頃の状態と比較すれば、ちょっと影響力を低下させ、基本的な収益体勢を再構築しなければならない状態に、自分を追い込んでしまったという形になった。要するに、「余計なこと」をしてしまったおかげで、しばらくの迷走を余儀なくされてしまったわけである。

というわけで、私としては Windows 路線からさっさと退却して、Mac ユーザーになっておいて正解だったと、改めて思っている。

 

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2015年8月25日

季節の変わり目

昨日から一泊で北海道の千歳市に出張してきた。今の季節、北海道は日が暮れたら肌寒ささえ感じることが多いので、ポロシャツに重ねる薄手のパーカを用意して行った。

日没頃に新千歳空港に着き、2駅隣の千歳駅で下車。駅でバッグからパーカを取り出して羽織る。ホテルに向かうほとんど日の暮れた道は、きっと寒いだろうと思ったからだ。しかし歩き始めてみると、それほど寒くはない。長く歩いたらきっと汗ばんでしまうだろうと思うほどだ。

チェックインして、夕食を食べに出る時は、パーカを部屋に置きっ放しにした。半袖ポロシャツでもまったく寒くない。しかし食事を終えて、夜の 8時を過ぎるとさすがに肌寒さを感じた。温暖化傾向にあるとはいえ、やはり北海道である。ちょっとコンビニによると、ビール売り場は秋限定ブランドの「秋味」がずらりと並んでいる。さすがに季節感が一足早い。

翌日、部屋のテレビのスイッチを入れてニュースを見ると、台風情報でもちきりだった。台風 15号が熊本に上陸し、九州は JR 全線がストップ。石垣島では瞬間最大風速 71m を記録したということで、駐車場のクルマが軒並みひっくり返っていた。まるで竜巻である。

友人がこんな時に限って熊本に出張すると聞いていたので、ちょっと気の毒になる。一方、晴れ男の私は、こんな時には台風から離れた北海道に出張するようにできているようなのである。窓の外は爽やかな晴天だ。

こんなに晴れているのだからパーカは要らないだろうと、ポロシャツ 1枚で外に出ると、なんと、日が昇っているというのに、夕べより寒い。遠くにあるとはいえ、台風の影響で風が強まっているようだ。

急遽パーカを引っ張り出して羽織る。ところが時間が経つにつれ、だんだんと気温が上がる。10時頃にはさすがに要らなくなって、再びバッグにしまう。昼頃になると空はますます晴れ渡り、ますます気温が上がる。

この頃になると、土地の人たちはさかんに「暑い、暑い」と、ふうふう言い出す。ところがこちらとしてはちょうどいい初秋の陽気に思われて、ポロシャツ 1枚で快適そのものだ。関東の人間と北海道の人間は、やはり気温に関する体の感覚が違うようなのである。京都や大阪の人間だったら、昼頃になっても肌寒く感じるかもしれない。

というわけで順調に仕事をこなし、夜になって関東に帰ってきた。取手の駅で電車を降り、外に出ると、驚くほど風が冷たい。台風が過ぎ去って、秋の風が入ってきているようだ。昨日の千歳よりまだ肌寒く感じる。とはいえ、北海道よりは少し湿度が高いようで、風が粘り付く感じがする。爽やかさでは断然北海道に軍配が上がる。

天気予報をみると、日本付近は台風を境にずいぶん秋の空気に入れ替わっているようで、今週後半は天気がぐずつき、気温もそれほど上がらない日が続くようだ。今年の季節の変わり目は、案外早く来ているのかもしれない。エルニーニョが、少しは自己主張をしているのだろうか。

 

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2015年8月24日

「勝ち組/働き者」と「負け組/怠け者」は、相対的なものである

All About の "「働かないアリ」のおかげで、アリの社会が長く存続できるワケ" という記事を読んで、私が 13年前に紹介した「グッピー理論」というのを思い出した。

まず、「働かないアリ」の件だが、これは All About というサイトのいつもの手で、ちょっとオーバーな見出しにしているもののようだ。決して「働かない」というわけではなく、要するに「反応閾値(いきち)」の問題で、「率先して働くアリ」と、「働き出すのに時間がかかるアリ」がいるというのである。

個体間の「反応閾値」の差異によって、必要に応じた労働力がうまく分配されているらしい。率先して働き始めたアリがちょっと疲れてしまった頃に、閾値が高くて調子が出るまでに手間のかかっていたアリがようやく働き始め、結果としてアリの労働が平準化され、アリの社会が円滑に運営されるというのである。

 

おもしろいことに、閾値が低くて率先して働き始めるアリばかりを集めると、その中で閾値が高くなって、調子が出るのに手間のかかるのが現れて、結果的にアリ社会がうまく機能するようになる。働き者ばかりを集めれば全員競って働き始めるってわけじゃない。同様に、閾値が高くてなかなか働き始めないアリばかり集めると、その中で閾値が低下して率先して働き始めるアリが出てくる。

働き者は天性の働き者で永遠に真面目であり続けるってわけじゃなく、同様に怠け者が天性のもので、どう転んでも働き者になれないってわけでもない。人間に限らず、アリの場合でも世の中というのは、案外うまくいくようにデザインされているようなのである。

で、「グッピー理論」である。これは私が「知の関節技」というサブサイトに紹介した(参照)、元龍拡散会長、故・藤井康男氏の唱えた説である。ちょっと自分のページから引用しよう。

氏によると、水槽に熱帯魚のグッピーを 100匹入れて飼うと、餌をやっても、それを口にできる「勝ち組」と、ありつけない「負け組」に分かれる。それはほぼ 50匹対 50匹の半分ずつになるという。それでは可哀想なので、負け組だけを別の水槽に移して、50匹ずつにする。すると当初の勝ち組と負け組の中でも、それぞれ 25匹対 25匹で、新たな勝ち組と負け組が生まれてしまう。

これだけでも充分興味深いが、本当におもしろいのはそれから先で、新たに生じた「勝ち組の中の負け組」と、「負け組の中の勝ち組」を一緒の水槽に入れると、今度は、一度は負けたはずの「負け組の中の勝ち組」の方が餌にありつくようになるというのである。

この 「グッピー理論」 の教訓は、次のようなものだ。

  1. 集団はある環境の中におかれると、その中に優劣、強弱の差が必ず出てくるものである。

  2. 勝ち負けは、絶対的なものではない。一度負けても、次に勝ち癖がつけば、それからは勝ち続ける可能性もある。

  3. これを企業の人事に当てはめると、一流大学卒業の優秀な人材ばかり集めても、半分は使い物になるが、残り半分は戦力にならずに埋もれてしまうということである。逆に、三流大学卒の人材ばかり集めても、その半分はきちんと戦力になるということだ。

これをアリ社会と対比させてみると、やはり 「働き者/勝ち組」 も 「怠け者/負け組」 も、絶対的なものではないということがわかる。状況に応じてどちらにもなる可能性があり、そしてそれぞれに存在意義があるのである。

 

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2015年8月23日

牛の乳はいいが、他人の乳は 「気持ち悪い」 と感じる人たち

The Huffington Post の「あるママが友人の子供に授乳する写真を投稿したら、起こったこと」 という記事を読んで、いろいろと思うことがあった。

ジェシカさんという女性が友人の子どもを預かって、自分の子どもと一緒に授乳(母乳)している写真を SNS に投稿したところ、多くの肯定的なコメントに混じって、「気持ち悪い!」という否定的なコメントも少なからず殺到して、大嵐状態になっているのだそうだ。何かとても考えさせられる「事件」じゃないかと思うのだよね。

他人の子どもに授乳するのが気持ち悪いというなら、日本に昔から伝統的に存在した「乳母」という制度は、否定されることになってしまう。さらに、牛のミルクを原料とした粉ミルクを水に溶いて飲ませるのは「ごくフツー」なのに、人間の母乳を飲ませるのが「気持ち悪い」と思われるようでは、世も末だと思ってしまうのだ。

ちなみに我が家の 3人の娘は全員、100%母乳で育った。粉ミルクを買ったことは 1度もないし、子供たちが十分に生長して、自分で牛乳を飲むことができるようになるまでは、母乳以外のミルクを 1滴たりとも飲ませたことはない。だから、育児には積極的に関わった私だが、粉ミルクの溶き方を知らない。

昔から、母乳の出にくい母親というのは存在していて、そんな人の代わりに母乳を提供する人はいくらでもいた。粉ミルクのなかった昔は、そうでもしなかったら赤ん坊は栄養失調になってしまっただろう。そうした「ごく当たり前のこと」が「気持ち悪い」と感じられるというのは、人間が「生物としての当たり前の感覚」を失いつつあることを示す。

将来的に人類が滅亡する時があるとすれば、気候変動や隕石落下などの外的要因も考えられるが、それ以上に「人間が生物的感覚を失ってしまう」という内的要因が働くことも大いに考えられるだろうと思うのである。

 

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2015年8月22日

「ソウル・バイク」 もいいけどね

一昨日の自転車に関する記事で、きっしーさんが付けてくれたコメントに 「Go for a spin というのは自転車で出かけることだと思ってたら、今どきだと『ジムに行って stationary bike で汗をかく』と言う意味だそうです」という件がある。

Stationary bike というのは、あの室内でペダルをこぐための、文字通り「動かない自転車」のことだ。これ、初めて耳で聞いた時は「文房具の自転車」なんていうのかと思ったが、文房具は綴りが "stationery" だから、音は同じでもエラい違いである。

この stationary bike というのが今、米国でどえらい人気なのだそうで、とくに "Soul Cycle" というのが注目株なのだそうだ。東洋経済が "米国で中毒者続出 「ソウルサイクル」 って何?" という記事で、それを経済的視点から伝えているほどだ。

この Soul Cycle のレッスンは 1回 45分間で、ニューヨークのクラスだと料金は 35ドル (回数券割引だと 28ドルぐらい) なのだそうだ。結構な値段だが、とても効率的なエクササイズができるプログラムが魅力らしい。東洋経済はそのあたりを次のように伝えている。

もちろん、ソウルサイクルの熱烈なファンであれば、そこらのフィットネスクラブで受けられるバイクエクササイズのレッスンとはわけが違うと言うはずだ。ムード満点の照明に、バイクマシンを調整してくれる何人ものスタッフ、エクササイズの動きとぴったりリズムが合った音楽。そしてエクササイズは自己陶冶への道だと説く、カリスマ性あふれるインストラクターたち——。

というわけで、しっかりと調整されたバイクにまたがり、カリスマインストラクターの指導で、音楽に乗ってノリノリでこぎまくるうちに、集団的効果もあってあっという間にカロリー消費ができてしまうもののようなのである。

でも、これって、屋外で実際に自転車に乗るのとは、似て非なる行為だと思うのだよね。私としては同じ時間を使うならば、個人的に、あるいは気の合う数人の仲間とともに、自然の風に吹かれながらペダルを漕ぐことを選択する。その方が、単なるエクササイズ以上のものを得られると思うから。

 

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2015年8月21日

「男の日傘」を巡る冒険

「男の日傘」の売り上げが増加しているのだそうだ(参照)。傘専門店のスタッフによると、「2011年に環境省が日傘の使用を推奨し始めてから、商品のバリエーションが増加」していて、「最近では機能性を重視したタイプや、男性が持っても気恥ずかしさを感じないデザインの日傘が登場」しているのだという。

いやはや、環境省が日傘の使用を推奨しているなんて知らなかった。本当かなあと思って調べてみると、確かに環境省のサイトに、平成 23年 7月 19日 (つまり 2011年ね) 付の、「ヒートアイランド現象に対する適応策の効果の試算結果について」というタイトルの報道発表飼料がみつかった。以下のような記述がある。

上着を着用して歩行するケースに比べ、上着を着用しないクールビズを実施するケースの熱ストレスは約11%低減し、さらに日傘を併用すると合計約20%軽減できること、街路樹がないケースで日傘を差す効果は、10m間隔で街路樹を形成する効果に匹敵すること等、熱ストレスの観点からは男女問わず日傘を活用することが望ましいことが判明しました。

(中略)

このため、街路等の改良の推進とともに、このようなライフスタイルや暑熱回避行動を呼びかける普及啓発、これらを可能にするためのクールシェルターの提供、信号待ちのための緑陰・日除け等の整備、男性用日傘の商品開発・普及等も並行して進める必要があります。

なるほど、日傘使用の効果には、お墨付きを与えていることがわかった。

で、男性用日傘として、どんな商品が売れているのかというと、上述の記事によれば、「やはり一番人気なのは折り畳み式の日傘」なのだそうだ。そりゃ、そうだろうね。いくらなんでも、長い日傘をもって歩きたくはない。気恥ずかしいというより、絶対にどこかに置き忘れる。雨傘でさえ置き忘れるのだから、日傘なんて何本あっても足りなくなる。

さらに傘専門店としては、「男性がさしても違和感なく使えるようにと、日傘らしい淡いカラーを取り揃えている」というのである。「雨傘と勘違いされたくない」というニーズがあるのだそうだ。

しかし、そのくせして、この記事で紹介されている売れ筋商品はすべて「晴雨兼用」というのである。 「突然の雨でも安心して使うことができるので、カバンに一本忍ばせておくのはいかがだろうか」という結論になっている。

そんなことなら、わざわざ日傘を買うまでもなく、日射しが強すぎてたまらないという時には、フツーの折り畳み傘を使えばいいんじゃあるまいか。上述の「雨傘と勘違いされたくない」というニーズに応えたデザインの日傘は、せっかくの「晴雨兼用」でありながら、雨の時に使いにくいんじゃなかろうか。

個人的には「ご覧のように日傘を買って使ってます。あ、でも、これ晴雨兼用なんですけどね」となってしまうより「あんまり暑いんで、急遽雨傘をさしてみたところ、結構日よけになって便利です」という感じの方が、素直な気がするんだがなあ。どうせ晴雨兼用ということなんだから。

 

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2015年8月20日

「バイク = 自転車」への道のり

近頃、自転車に乗り始めたこともあって、「バイク」という言葉を国際標準通りに「自動二輪」ではなく「自転車」という意味で使える世の中に、早くなって欲しいものだなあと思うようになった。そうでないと、これからいろいろと不便なことになる。

自動二輪(モーターサイクル)乗りの中には、「いつから自転車を『バイク』なんて言うようになったんだ?」と憤っている向きもあるようだが、実は「バイク」は昔から自転車のことだ。「二輪車」を意味する "Bicycle" の省略形で、れっきとした英語である。

日本でいうところの「オートバイ」は、英語では普通は "motorcycle" というのだが、動力付き二輪車ということで "auto-bike"(あまり一般的な英語じゃない)から来たんじゃなかろうか。その "auto-bike" が省略されて、日本では 「バイク」 といったら自動二輪を指すようになってしまっていた。

日本人の中でも割と英語に馴染んでいる人間は、ずっと「英語で "bike" と言ったら、普通は自転車なんだけど、日本語では自動二輪のことのようだから、使い分けなきゃね」と思ってきた。まあ、"pants" と「パンツ」 、「グラブ」と「グローブ」の使い分けみたいなものである。

ところが近頃、この使い分けがうまく機能しなくなってきた。自転車ブームと言われるようになって、日本でも「バイク」と言ったら自転車を指すようになってきたのである。そのハシリは、"MTB" と略称される「マウンテンバイク」あたりからだろう。それに続いて、あのドロップバーの「ロードバイク」、両者の中間タイプの「クロスバイク」が一般的名称として定着した。

これまでは「自転車」とか「チャリ」とか言ってきたが、ここまで自転車人口が増えてしまい、海外での自転車イベントへの参加者が増えたりしてしまうと、やっぱり国際標準通りに「バイク」=「自転車」と捉える必然性が高まったのである。

ただ、そうなると自転車乗りにはいいのだが、問題はこれまで自らを「バイク乗り」と認識してきた自動二輪ライダーたちへのケアである。「俺たち、これから自分の愛車をどう読んだらいいんだ?」ということになる。原則的には国際標準に即して「モーターサイクル」と呼べばいいのだが、それだとちょっと日本人はかんじゃいそうだ。

というわけで、しばらくは「バイク」と言ったら「自転車? それとも自動二輪?」と確認しなければならない世の中が続くのだろう。面倒なことだが、落ち着くところに落ち着くまでの過渡期なのか、あるいはずっとこのまま混乱状態で、「阿吽の呼吸の使い分け」でいくのか、予断を許さない。

 

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2015年8月19日

キュウリの 「スリスリ儀式」

昔、高校を卒業して東京の大学に入り、一人暮らしを始める前に、今は亡き母にキュウリの「アク抜き」の仕方を教わった。端をちょっと切って、その断面同士をスリスリすると、白っぽいアクがしみ出てくる。これをやってから調理すると、キュウリがおいしいというのである。

一人暮らしを始めてからしばらくは、そのやり方を忠実に守っていたが、そのうちにそんなことしなくても味は変わらないと気付いた。元々面倒なことはしたくない性分なので、キュウリのアク抜きなんて全然しなくなった。そのせいでキュウリがまずかったり苦かったりしたという経験は一度もない。

そうなると、「あの『アク抜き』って、一体何だったんだ?」ということになる。単なる迷信だったのか? それとも我が家だけに伝わる大いなる勘違いだったのか?

試しに「キュウリ アク抜き」というキーワードでインターネットで検索してみると、「楽天レシピ」というサイトに、「小技!きゅうりをおいしく。きゅうりのあく抜き レシピ・作り方」というタイトルのページが見つかった。ここに、まさに私が母から教えられた通りの「アク抜き」の方法が公開してある。

「よりおいしい、きゅうりのお料理を作るための小技です」なんて表示してあるので、ガックリである。だ〜から〜、こんなことしたって、味なんか変わらないって言ってるじゃないか。

さらに深く調べてみるために、キーワードを「キュウリ 断面 スリスリ」に変えて検索してみた。すると「Yahoo 知恵袋」に 「きゅうりの処理?」 というページがあり、質問者が「料理初めてからついクセでスリスリしてしまいますが、別にしなくても味は変わらない気がするし」と、私と同じ疑問をぶつけている。

そのベスト・アンサーは 「昔のきゅうりは苦味があり、独特の臭みやアクがありましたので、端を切り落とし塩をつけてスリスリすると白い苦味成分を出すことができます。でも、今のきゅうりは品質改良され、上記のような作業を省くことができます」というものだった。

なんだ、そうだったのか。今のキュウリはアク抜きしなくてもおいしくなっているのか。そういえば、そうだった。昔のキュウリはものすごく苦かったらしいのだ。自分で書いた記事を思い出した。

それはまだ、Today's Crack がココログに移行する前の、平成 16年 5月 13日の記事である。もう 11年以上前に書いたものだ。気象予報士、森田正光さんの、「江戸時代以後、河童が減ったのは、キュウリの品種改良のせいで、河童の口に合わなくなったから」という珍説を紹介しているので、以下に再録する。

そもそも、キュウリというのは奈良時代に日本に渡来した野菜なのだが、当時のキュウリは苦くて大変まずいモノだったらしい。水戸黄門も「毒多くして効能少なし」と書いて、栽培に圧力をかけていたほどで、それだけに、逆に河童のような異界のものが好んだのだろう。

ところが江戸後期以降、キュウリの品種改良が進んで、現在のような人気野菜になった。しかし河童としては、逆に好みの味ではなくなったものと思われる。好物がなくなったために、個体の数も激減し、今ではほとんど見られなくなったというのが、森田説なのである。

というわけで、私は「それならば、(昔の苦いキュウリの代替品として)沖縄のゴーヤーを使って河童をおびき出せば」なんて書いている。最近はゴーヤーを使ったグリーンカーテンなんてものが増えてきているから、もしかしたら河童も復活するかもしれない。

それにしても、キュウリの品種改良は江戸時代以後に進んだとあり、既に昭和 40年代にはアク抜きなんてしなくても味は全然変わらなかったのだから、日本人は 100年以上にわたって、思い込みによる「スリスリ儀式」を続けてきたもののようなのである。まさに、一度染みついたことは、不必要になっても止めるのは難しい。

そんなような馬鹿馬鹿しい「慣習」や「慣例」というのが、世の中にはまだまだたくさんある。

 

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2015年8月18日

日本の常識は世界の何とやら

その昔、もう前世紀ということになるのだるが、「日本の常識は世界の非常識」なんてことが言われて、ちょっとした物知りがものすごく増幅された物知り顔で知識をひけらかすのが流行った時代がある。竹村健一という人はそれで本を書いて儲けたりしていた。

まあ、どこに行ったってその土地特有のローカルルールがあって、「郷に入っては郷に従え」なんて言われているので、日本独特の習慣を「世界の非常識」と言って恥じる必要はまったくないと思う。とはいえ「外国でこれをやったら奇異に思われるから、ちょっと気をつけよう」なんていうような知識は、ないよりはあった方がずっといい。

さらに進んで、「日本も新しい国際的に一般化しているマナーを取り入れよう」なんてこともあっていいと思う。日本社会もここまで国際化してしまったんだから、そのくらいのことは当然だ。

そこで、日頃感じている「日本の常識、世界の非常識」を 「取り入れたい世界の常識」、「好き好きで選択したい常識」、「守り通したい日本の常識」 というものを挙げてみたいと思う。

まず、「取り入れたい世界の常識」 である。

  • 電車で老人に席を譲る
    私は電車で立っている老人を見かけたら、脊髄反射的に席を譲ってしまうのだが、最近は 「待てよ、俺も見かけは若いといっても、とっくに還暦過ぎたんだし……: なんて思うようになった。自分がさっと席を譲って周囲を見ると、どうみても 20代の連中が知らん顔で座っていたりして、かなりの違和感である。「席を譲るのが恥ずかしい」 なんて言うヤツがいるが、私には信じられないことで、譲らない方がずっと恥ずかしい。
  • 鼻をすするぐらいなら、さっさと鼻をかむ
    これも電車の中でムカつくことなのだが、隣に座ったやつに頻繁に (5秒に 1度ぐらい) 鼻をすすられると、もう不愉快でたまらなくなって、席を立って逃げ出す。日本人は人前で鼻をかむのを嫌がるくせに、鼻をすすることに関して無神経すぎる。欧米では盛大な音を立てて鼻をかむのは一度で済むから OK で、延々と鼻をすするのは忌み嫌われる。どうみても欧米方式がいいと、私は思う。
  • エレベーターに乗ったら、まず 「開く」 ボタンを押す
    日本人の多くはエレベーターに乗ったら条件反射のように 「閉じる」 ボタンを押したがる。後ろを確認することもせずにそれをやるから、続いて乗る人がぎょっとする。先に乗ったらまず、「開く」 ボタンを押し、続いて乗る人がいないのを確認して 「閉じる」 ボタンを押すべきだ。まあ、日本のエレベーターは 「閉じる」ボタンを押さないといつまでもドアが閉まらなくてイラつくという事情もあるが。

次に、「好き好きで選択したい常識」

  • 料理に砂糖を入れるか入れないか
    料理に砂糖を入れるというのは、多分世界的にみると 「えっ!」 と驚かれるほどの特殊なレシピである。砂糖はケーキやコーヒーに使うもので、フツーの料理に使うものではない。すき焼きなんかでも、肉を食うのに砂糖で味付けするなんていうと、外国人にはとても抵抗があったりする。まあ、我が家では佃煮以外の料理に砂糖を入れるなんてことは、絶対にない。
  • 中元、歳暮
    感謝の心をモノで表すというのは、悪いことではない。ただ形式のみに堕してしまうと馬鹿馬鹿しいものになる。我が家は中元、歳暮は最小限に抑えている。
  • 飲み会
    気のおけない仲間同士の飲み会は楽しいものである。ただ、上下関係に則った強制的な 「付き合い」 になってしまうと、それは苦痛でしかない。「付き合わない自由」 もしっかりと認めるべきで、さらに人のグラスに無理矢理酒を注ぐのも止めた方がいい。

最後に、「守り通したい日本の常識」

  • 「行ってきます」と「いただきます/ごちそうさまでした」 を言う
    「行ってきます」 「いただきます/ごちそうさまでした」 といった挨拶は、美しい習慣である。英語にはこれに一致する言葉がない。この習慣は何はなくとも守り通したい。
  • 家に入るときは、靴を脱ぐ
    玄関で靴を脱ぐというのは、とてもいい習慣だと思う。湿度の高い日本の気候で、ベッドから出て入るまで靴を履きっぱなしというのは、考えるだけでうんざりする。多分、湿度の低いヨーロッパでも、本当は室内では靴を脱ぐ方が快適なはずだ。
  • 初詣をする
    日本人は 「自分は無宗教」 なんて言いたがるが、正月に初詣をしたり、仏式で葬式や法事をして、盆や彼岸に墓参りをするというだけで、実は立派に宗教的である。こうした習慣は守り通したい。
  • お辞儀をする
    「お辞儀」 というのは、リスペクトの念を表現するのにとてもわかりやすいマナーである。ぺこぺこするのは見苦しいが、心を込めた礼は美しいものである。私は人を見送るときは、しっかりと最敬礼することにしている。
  • 敬語を使う
    私はしっかりとした敬語の体系がない庄内弁で育ち、物心ついてから意識的に学んだ。そのせいでことさらに思い入れがあるのかもしれないが、敬語はとてもいいものだと思っている。自然に敬語を使えるのは、素晴らしい文化だ。
  • 麺文化
    蕎麦を初めとして、うどん、そうめんなど、日本の麺文化をこよなく愛する私としては、絶対に守り通したい。「音を立ててすする」 なんていうのは異端中の異端かもしれないが、鼻をすするのとはわけが違うので、「世界があっとおどろくけったいな習慣」 として保持していきたい。
以上、もっといろいろなこだわりをもつ人もいると思うが、私としてはざっとこんなところである。

 

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2015年8月17日

「ベストセラー」は避けるが、「定番」は信頼する

「ベストセラーと称されるもののほとんどは、自分には合わないんだな」と明確に意識されたのは、高校 2〜3年の頃だったのではないかと思う。それまでは、「ベストセラーというからには、いいものなんだろう」と、単純素朴に信じていた。

ところがミドル・ティーンと言われる年になった頃から、「ベストセラー」を信じないようになった。いや、別に「○○がベストセラー」という情報を信じないというわけではない。客観的データの裏付けさえあれば、「売れてる」ということは認める。しかし「世間で売れているから、いいもの」ということには、決してならない。

世の中には 2種類の人間がいる。「ベストセラーを自分も買う」という人間と、「ベストセラーはまず買わない」という人間だ。私は紛れもない後者である。ベストセラーは敬遠して間違いないと思っている。

そもそもベストセラーとはいっても、消費者の大半が喜んで買っているというものではない。例えば 100万個の品物が売れたというだけで、「ベストセラー」と喧伝されるが、それは日本人の 1%以下に売れたというに過ぎない。こうして伝えられたベストセラーが話題を呼んで、「だったら私も買う」というベストセラー大好き人間にも売れて、それでもせいぜい 200〜300万個が売れるに過ぎない。

まあ、日本人の 2%に売れてしまえば、「大ベストセラー」になる。ただ、残りの 98%のほとんどが「ベストセラーは買わない」と明確に思っている層というわけではなく、ほとんどはたまたまその商品ジャンルに興味がないか、単に買いそびれたかという人たちである。自分が興味をもつ商品ジャンルなら、ベストセラーを買うという人はかなり多い。

私のように「ベストセラーと言われる商品ほど疑ってかかる」という人間は、結構なへそ曲がりである。ベストセラーを買わないからへそ曲がりというわけではなく、元々へそ曲がりだから、ベストセラー的な趣味とはかみ合わないのだ。

例えば書籍の分野を想定すれば、それが納得しやすい。本のベストセラーというのは、普段本を読まない人が買うから、ベストセラーになるのである。本が大好きという人から見れば、ベストセラーは大抵くだらなく見えてしまう。

同様に大抵の人にとって、こだわりのある分野では、ベストセラーは物足りないのである。そして多くの分野でこだわりを持ってしまうと、大抵のベストセラーは「避けて正解」ということになってしまう。

そしてかなりの「こだわり人間」と思われている人でも、別にこだわりのないジャンルでは確実に売れている商品を買ってしまったりする。そうした商品こそ世の中で「定番」と呼ばれているもので、私は「ベストセラー」は避けるが「定番」についてはそんなことはない。

だから、へそ曲がりでも買ってしまう「定番」は、かなり信頼のおけるものであり、さらに、へそ曲がりがこだわりのあるジャンルでも買ってしまうほどの定番商品となると、それは「最強」といってもいいと思うのである。

 

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2015年8月16日

ラジオ体操が、結構な運動になる年頃

夏休みと言えば、ラジオ体操である。我が家の近くの小さな公園でも、ちょっと前までは夏休みの間は小学生が集まってラジオ体操が行われていたが、少子化にともなってもうちょっと遠くの公園に集約されてしまったようで、夏の朝が静かになってしまった。

このラジオ体操というものだが、40代後半まではあまりにも軽すぎて、「こんなの、ちっとも運動にならないじゃん!」と思っていた。何かの準備運動としてやるにも、まるで軽すぎて物足りない気がしていたのである。

ところが 50歳直前頃から、「これはこれで、ちょっとした運動にはなるな」と思い始め、近頃ではさらに進んで、「結構な運動になるわい」とまで思うようになった。真面目に第二体操までこなすと、かなり息が弾んでしまう。若い頃は全然息が乱れなかったのに。

同年代の連中に聞くと、「しんどくて、最後まで息が続かない」とか「膝が痛くて、その場跳びができない」とか「肩が痛くて、腕を回せない」とか「腹の脂肪が邪魔して、前屈ができない」とか「腰痛が酷くて、上体を回せない」とか、ラジオ体操が最後までできないありとあらゆる理由が出てくる。

こうなると、多少息が弾んでも、第二体操を最後までできるだけ、ありがたいと思わなければならないようだ。

 

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2015年8月15日

ポツダム宣言と原爆と終戦記念日

今日は「終戦記念日」。それに先だって、私の誕生日 7月 26日があり、そして広島、長崎の原爆記念日があった。

まず、私の誕生日から触れよう。1945年にポツダム宣言が出されたのも、同じ 7月 26日だった。つまり私は、日本の戦後を運命づけたポツダム宣言のちょうど 7年後に生まれたのである。

7月 26日に出されたポツダム宣言を、当時の日本の指導者たちは黙殺して、戦争継続の道を選んだ。本土決戦を避けたかった米国は、広島と長崎に原爆を投下して、日本の降伏を早めたと言われている。このことについてはいろいろと異論はあるが、原爆投下が日本の無条件降伏を決定づけたというのは、結果論として否定できない。

ところでその頃、私の父は予科練で特攻隊としての訓練に明け暮れていた。旧制中学生だった父は、易者に「お前は若死にする」と占われ、「どうせ死ぬなら空で死のう」と考えて、自ら予科練に志願した。ところが行ってみると、まともに飛べる飛行機は 1機も残っておらず、空で死にたいという思いは打ち砕かれた。

志願して予科練に行った父には、ついぞ後輩ができなかった。つまり、父は日本兵として登録された者としての最年少である。父より若い者は招集を受けず、年齢的に志願することすらできなかった。つまり、父はよほど「もの好き」だったのである。その血は、私にしっかりと受け継がれていると思う。

話を戻そう。飛行機が残っていなかった当時の予科練でも、「特攻隊」は募られた。飛行機に爆弾を抱いて敵艦に突っ込むのではなく、本土決戦になった曉には、背中に爆弾を背負って夜闇に紛れて匍匐前進し、敵の陣地に自爆攻撃をかけるための特攻隊である。父は生前、「イスラム過激派と同じことをしようとしていたのだ」としみじみ語っていた。

特攻隊の募集に関しては、誰も無視することはできなかった。建前としては全員が希望するのである。そして「多分、長男以外で、体が健康で忠誠心のある者が選ばれたんだろう」と父は述懐していた。

その特攻隊員の発表で自分の名前が呼ばれた時、父は「一瞬、血の気が引いた」というが、その瞬間、回りから同僚が 口々に「おめでとう!」と叫びながら押し寄せ、無理矢理に胴上げされた。父は空中に舞いながら「何がめでたいんだ!」と思ったが、床に降り立った時には、既に覚悟が決まっていたという。「自分は敵に突っ込んで死ぬのだ」ということだ。その後は英霊になると決定したのだから、十分な食料が与えられたという。

そんな時に広島と長崎に原爆が落とされ、本土決戦は回避され、父が「特攻」という名の自爆攻撃をかける前に終戦になった。そして散々苦労して郷里の酒田に帰り、旧制中学の学生に戻った。

さらに数年後に私の母と結婚し、やがて長男として私が生まれた。7年前にポツダム宣言が出されたのとちょうど同じ日に。そして奇しくもその年は、日本がサンフランシスコ講和条約に調印し、独立を回復した年でもあった。私はいわば、「戦後の申し子」である。そのことは、常に私の脳裏の片隅にあった。

原爆投下に関しては、いろいろなことが言われている。非戦闘員の大量殺戮は、明らかに国際法違反だという見解は、多分正論だろう。しかし、もし原爆が投下されず、終戦が遅れ、本土決戦に突入していたとしたら、父は確実に自爆攻撃で戦死していた。ということは、私はこの世に生まれなかった。こうしてブログなんか書いていることもなかった。

私は戦争と原爆ということを考える時、本当に複雑な思いにとらわれるのである。世の中は複雑系であり、すべては関連づけられていて、中国で蝶が羽ばたくと、南米大陸で大嵐が起きるといわれる。

明らかな事実として、原爆が落とされ、戦争が終わり、父が生き延びて、そのおかげで私はこの世に生を受けた。その上で、私は核兵器使用には反対し続ける。

 

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2015年8月14日

「善人」の上に「馬鹿」が付いてしまうと

フツーの人間の言動が「政治的過ぎる」というのは、ものすごく嫌らしい感じがしてしまうものだが、政治家の言動で「政治的な配慮がなさ過ぎ」というのは、これはもう「迷惑千万」ということになる。

こう言えば、もうおわかりだろう。元首相の鳩山由紀夫氏のことである。本日の記事は、これで「はい、おしまい」ということでもいい。しかしそれではあまりにも呆気ないので、余計な話になってしまうかもしれないが、もう少しだけ付け加えてみよう。

鳩山氏は「善人過ぎる」のかもしれない。「人としてかくあるべし」と心の底から思ってしまうと、つい正直に、後先を考えずにその通りに行動してしまう。そして自らの「善良さ、誠実さ」にほだされてしまう。政治家が、しかも元首相がこんな風だと、周り中がたまげてしまう。

ということは、「善人」が政治家なんかやっちゃいけないということになりかねないが、ある意味、それは正解かもしれない。ごく稀に鳩山氏のようなナイーブな善人が政治家なんかやってしまうと、こんなことになる。

よく「正直」の上に「馬鹿」がついてしまうと、かえってろくなことにならないというのだが、「善人」の場合も上に「馬鹿」が付くほどの域に達してしまうと、かなりはた迷惑なことになってしまう。

政治家でさえなかったら、つまり市井のオッサンなら、「あの人、ホントにいい人」で済むだろうが、それでもやっぱり、ちょっと付き合いづらいかもしれない。

 

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2015年8月13日

高湿度は大敵

今日は久しぶりの雨模様である。猛暑が続き、「たまには雨が降ってくれないと、地面が冷やされない」と思っていたので、基本的には歓迎だが、おかげで朝から猛烈に蒸し暑い。確認してみると、我が家の室内は「気温 27.7度、湿度 82%」である。

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気温はそれほどでもないが、湿度のおかげで、だまっていても汗が滴り落ちる。これならば、気温 30度、湿度 55% ぐらいの方がずっと快適だ。猛烈な暑さをもたらすフェーン現象の場合は湿度が下がるから、気温が 37度ぐらいになっても、これほどの蒸し暑さは感じない。まさに大敵は湿度である。

実は今日から連続 8日間の旅暮らしに突入する。お盆の里帰りとかではなく、何と全部仕事である。我ながら呆れるほどの変則スケジュールだ。帰省と Uターンの、両方のラッシュの中を移動しなければならないので、体調を崩さないように慎重に動きたいと思っている。

 

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2015年8月12日

メンズウェアには、「がんばる」と「がんばらない」しか選択肢がない

最近本当に久しぶりで、ある郊外百貨店の覆面調査みたいな仕事をした。で、ここでは細かいことは言わないが、メンズウェア市場というのは昔から相変わらず、「がんばっておしゃれするメンズ」と「おしゃれなんて関係ないメンズ」の、2通りしかないのだなと思ってしまったのである。

この郊外型百貨店は、駅の改札口から 1〜2分歩いたところにある。そう言ってしまえばかなりいい立地に聞こえるかも知れないが、百貨店の入り口にたどり着く前に、ステーションビルのショップがどっさりとあり、40歳代以下ならばそこで捕まってしまう。駅舎の外にある百貨店には、まず足を伸ばさないだろう。

さらに郊外百貨店は、オバサマ向けの商品はいくらでもあるが、オジサマ向けの商品はとても限られている。一目見て「あ、俺のセンスじゃないな」と思ったら、それ以後は絶対に寄りつかない。「物理的にはあるけど、意識としてはない店」になってしまう。

メンズウェアを購入するのに、一歩も気張りたくなかったらユニクロで買う。一歩気張りたかったら、都心店まで足を伸ばす。半歩気張りたい時に地元の郊外百貨店で買うのだろうが、現実の地元百貨店には、買いたくなる商品がない。

そんなわけで男には、大別して「がんばったファッション」と「がんばらないファッション」の 2通りしかなくなってしまうのである。つまり、「がんばったファッション」に身を包むのが気恥ずかしいと感じてしまうと、現実的には「がんばらない」選択肢しかがない。

ちょっと前までは、「オジサンは背広とゴルフウェアとパジャマしかもってない」なんて言われていて、今はさすがにそんなこともなくなったが、まともに語れるほどに進化したかといわれれば、そんなことは全然ない。

いい意味で中途半端な商品が豊富にあると、メンズウェアの裾野も広がるのだがね。

 

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2015年8月11日

「自転車用ハイウェイ」がうらやましい

Wired の "「自転車専用ハイウェイ」構想が世界の都市で広がっている" という記事を読んで、うらやましくてたまらなくなった。昨年末にごく初心者用ながらクロスバイクを買って、片道 30km ぐらいだったら軽い気持ちで自転車で往復してしまう人になってしまった私としては、日本でも自転車専用道が整備されてもらいたい。

先日は仕事関係で東京・虎ノ門までの片道 50km(往復 100km)を自転車で往復した。とんでもない暑さで大汗かいたが、別段死ぬほど苦しいなんてこともなく、案外平気で行ってこれるものである。

片道 25km 程度なら、かなり余裕たっぷりの計画でも 1時間半あれば十分だ。ちょっと混雑したら、クルマでも 1時間近くかかることがあるから、時間的にはそんなに違いがあるわけじゃない。移動に要する時間は、そのまま「運動の時間」にできるから、わざわざジョギングしたりジムに行ったりしなくてもいいので、かえって時間の節約になるぐらいだ。

ただ、日本の道を自転車で走っていると、やはりリスクがある。大型トラック(大型トレーラーがとくにヤバい)に追い越される時には、マジで命の危険を感じることがある。

大型トラックは全長が長いから、追い越しに時間がかかる。そして彼らは、自転車を追い越すのに、時速 25km 以上で走っている私を抜く時でも、時速 10km 程度のママチャリを抜くのと変わらない気分でいるようなのだ。

つまり、こちらを完全に抜ききらないうちに、道路の左端に戻ろうとするのである。ということは、自転車からみると、ものすごくえげつない幅寄せということになる。何しろ、追い抜ききっていないのに、がーっと左側に戻ってくるから、こちらの右肩がほぼ接触してしまいそうになるのだ。

こちらは自衛手段として、大型トラックに追い越しをかけられたら、減速して早めにやり過ごそうとする。それでも「うわ、うわ、うわ!」と焦るような幅寄せをされてしまうことも度々で、「こいつ、もしかしてサイクリストに殺意をもってるんじゃないか?」と思うほどだ。

自転車専用道があれば、こんなような命の危険を感じなくて済む。自動車専用道でなくても、少なくとも自転車専用レーンを作ってもらえれば、かなり安心だ。そんな意味でも、ヨーロッパの自転車事情はものすごくうらやましい。

 

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2015年8月10日

パナソニックの老人保健の CM で驚いた

あんまり驚いてしまったんで、正確には何の CM か覚えていないのだが、パナソニックの老人保険関係のものだったと思う。

みるからに上品なおばあちゃんが穏やかな笑みを浮かべる映像で、視覚的には静かで幸せな老後の生活というイメージを思いっきり醸し出している。しかしそのバックに流れる音楽が、"I've Been Working On the Railroad" なのだ。

この歌、日本語にも訳されていて、『線路は続くよどこまでも』というタイトルになっている。もしかしたら、この歌の日本語の歌詞からの連想で、「これからも続く人生を、いつまでもお元気で」というメッセージとしたいのかもしれない。

しかし、聞こえてくるのは英語である。英語の元歌は、文部省唱歌的な歌詞にされてしまった『線路は続くよどこまでも』とは似て非なるもので、「俺はずっと線路で働いてきたんだぜ」という線路工夫の歌である。しかも現在完了進行形だから、まだ引退せずバリバリで肉体労働を続けている男の、かなり生きのいい歌だ。

CM のバックに流れる英語の歌とはいえ、言葉として歌われたからには、言葉として聞いてしまう人間もいるのである。上品なおばあちゃんがいかにも穏やかな微笑みを浮かべる映像にかぶせて、 バリバリの現役肉体労働賛歌が流れるのだから、「ウ、う、嘘でしょ〜〜〜!」としか言いようがないではないか。

まあ、これだけじゃない。老齢の夫婦が仲良く旅行している映像にかぶせて、失恋の情が切々と語られる英語の歌が流れたりするなんていうのも、この国の CM ではよくあることで、要するに映像のバックに流れる歌は、単なる「雰囲気のモノ」としてしか扱われていないのだね。

しかし、もう一度言わせてもらう。言葉として歌われているからには、言葉として聞いてしまう者もいるのである。Tシャツの胸に、単なる「飾り」として書かれた英語を、つい言葉として読んでしまって、ぎょっとするというようなことが、エリートの広告製作者たちが作った CM の世界でもあるのだよね。

 

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2015年8月 9日

東京オリンピックと、英会話熱と、当たり前すぎるお話

2020年の東京オリンピックが決まって、英会話熱が高まっているらしい。「多くの外国人が日本に来るから、英語ぐらい話せなければ」というわけだ。2020年に街を歩くと、外国人に英語で道を聞かれまくるので、親切に道案内してあげなければいけないと思っているらしい。

あるいは来日した外国人と友だちになり、寿司をご馳走しながら英語で日本の観光案内をしてあげるのが、日本人としての「おもてなし」の心だと思っているらしい。

70歳近い知人も、急に「英会話を勉強したいと思っている」と言い出した。「国際化の時代だから、英語ぐらいできなきゃね」というのである。国際化は今になって急に始まったわけじゃないのだから、やっぱり東京オリンピックがきっかけになっているのだろう。

そして「スピードラーニングなんか、いいと思うんだけど、どうかなあ」なんて持ちかけられてしまったので、正直言ってどっちらけた。

「まあ、何もしないよりはいいかも知れないけど、聞き流すだけで英語が話せるようになるなんて、期待しない方がいいですよ」
「でも、赤ん坊が言葉を覚えるのだって、聞き流しているうちに自然に覚えるんだから、いいんじゃないの?」
「頭がまっさらで、吸収力旺盛で、回りを飛び交っている言葉を理解しないと生存にすら関わる赤ん坊が 1日中聞いているのと、いい大人が 1日 5分間聞き流すのとでは、全然わけが違いますよ」
「そうかなあ、いいと思うんだけどなあ」

スピードラーニングの宣伝に相当洗脳されているらしく、なかなか諦めきれない様子だ。

「まあ、日常の挨拶と買い物と簡単な道案内ぐらいなら、できるようになるかもしれませんがね」
「それそれ、それよ。それができるようになりたいんだよ。それができるだけで、大したものじゃないの」

それを聞いて、またしても呆れた。大学まで出ているくせに、今さら日常の挨拶と買い物と道案内ぐらいの中学生レベルの会話をしたいがために、何万円もする教材に投資しようというのだ。

「その程度の英語ができればいいんだったら、NHK の初級英会話講座を聴けば、安いテキスト代だけで済みますよ」
「でも、NHK の番組は繰り返し聞けないじゃない」
「いくらでも聞けますよ。録音しちゃえばいいじゃないですか」

ここまで言うと、彼は黙りこくってしまった。

ああ、またやってしまった。この類いのことで、当たり前すぎることを無造作にホイホイ言ってしまうと、傷ついてしまう人がいるのだ。ちょっと考えればわかることを考えていない人には、あまり気軽に本当のことを言っちゃいけないのだ。

やっちまう度に「気をつけよう」と思うのだが、つい忘れて同じ失敗を繰り返してしまう。

 

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2015年8月 8日

PC が、ようやく「ありきたりの道具」になった

Nikkei Trendy の「Windows 10は使いたいですか?アンケート結果発表」という記事が興味深い。とくにおもしろいのは、「Windows 10 に限らず、OS のアップグレードに関するご意見がございましたらご記入ください」として設けた自由記入欄に記載されたコメントの抜粋だ。

ざっと目を通した印象では、Windows 10 にアップグレードするという回答者でも、喜んでというのは極めて少数派で、「Windows 8、8.1 が、あまりにも使いにくいから」とか「サポート期間を延長したいから」とかいう、「しょうがないから」的な回答が多い。

本音的なものでは、「OS をアップグレードするたびに大仕事になるので、面倒でたまらない」とか「OS を使いたいのではなく、アプリケーション・ソフトを使いたいのだから、互換性の問題が発生するアップグレードは、大迷惑」など、かなり否定的なコメントが目立つ。そもそも、「それまで慣れ親しんだユーザー・インターフェイスから、どうして離れなければならないのか」という疑問が勝っているようだ。

こうしたコメントを見ると、「PC はようやく、『ありきたりの道具』になったのだな」 と思う。ちょっと前までの PC は「ありきたり」というよりは、「ちょっと特別のモノ」という側面が強すぎたのだ。

私は 2006年 11月 29日に、「PC の時代は 2015年で終わり?」という記事を書いている。これは当時の『月間アスキー』の電車内吊り広告に載っていたキャッチ・コピーだ。私はこの時は、どんな形で PC が終わるのか明確にはわからなかったが、まさに 2015年となった今、 「なるほどね」と納得する。PC は輝かしい地位から降りて、「ありきたりの道具」になってしまったのだ。

この記事で私は、次のように書いている。

よく人から 「tak さんは パソコンが好きだからね」 なんて言われるが、「別に好きでも嫌いでもないんだけど」 と思ってしまう。パソコンを使わないと仕事にならないから、別段抵抗なく使っているだけだ。

毎日毎日、電気洗濯機で洗濯をしている家庭の主婦に、「電気洗濯機がお好きですねぇ」なんて言ったら、全くの的はずれなのと同じだ。

あれから 9年近く経ち、日常の仕事として PC を使い倒している私に向かって、「パソコンがお好きですね」なんて言う人は、ようやくいなくなった。家庭の主婦に、「洗濯機がお好きですね」なんて言う人がいないのと同じレベルに、やっとなったのだ。

いち早く OS をアップグレードして、人より早く新しい操作法に習熟し、得意になってビギナーに操作法を教えてあげることに喜びを感じるなんていうのは、今やカッコよくもなんともない。単なる「オタク」でしかなくなってしまったのだ。

洗濯機を買い換える度に操作法が一変してしまい、スイッチの切り方一つで悩んでしまうなんていうのでは、家事のストレスが溜まりすぎるだろう。デスクワークだって、それと同じことである。

で、「ありきたりの道具」になって、私は始めて「PC を使えない」という人がいるのも仕方がないと、抵抗なく認めることができるようになった。それは「洗濯機が使えない」というオヤジがいるのと同じことである。要するに「やりたくない」んだから、しょうがない。

 

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2015年8月 7日

猛暑とサメ

エルニーニョになっているのは確かなことらしいのだが、定説通りの冷夏には一向にならず、東京は昨日まで 1週間連続の猛暑日という、ちっとも嬉しくない新記録を樹立してしまったようだ。局所的に 40度越えを記録する暑さというよりも、九州から北海道まで日本中がおしなべて暑いという、分け隔てない猛暑が続いている。

あの東日本大震災から 2年間はエアコンのコンセントを抜きっぱなしだった私も、体調を崩してしまってはしょうがないと諦めて、この夏はおずおずとエアコンを使うようにしている。まあ、自宅の屋根に載せた太陽光発電パネルで作った電気なんだから、文句はないだろうということは、今月 2日の記事に書いた通りである。

ただ、いくら暑いとは言っても、ここつくばの里は周り中に田んぼがあり、我が家の裏には川が流れている。日が暮れてからしばらくは、相対的に湿度が上がるので、体感的にかえって蒸し暑くなるが、その時間帯を過ぎれば開け放した窓から少しは涼しい風が入ってくれるので、熱帯夜で眠れないなんてことは滅多にない。そのあたりはありがたいことである。

さしもの猛暑も少しは緩んで、今日は東京も猛暑日にならずに済むという見通しで (追記: この予報はあっさり外れて、今夏の最高気温を記録した)、週末は 32〜33度ぐらに落ち着くらしい。この気温で少しはホッとするというのも、30度を超えたら暑いと思っていた昔からすると、ちょっと悔しいみたいな話である。

そういえば、ここ茨城県の海水浴場で大型のメジロザメと見られるサメが確認され、遊泳禁止になったというニュースが流れた。テレビニュースの動画でみると、人間が泳いでいるごく近くに大きな魚影が見える (参照)。「おいおい、やばいぜ」と言いたくなるような映像である。

メジロザメはフツーは海の深いところにいるらしく、ビーチの浅いところまで近付くことはごくまれとされている。とくに茨城県の沿岸は寒流の親潮がなんかしているので、水が冷たく、サメが現れるようなところじゃないと思っていたので、ちょっとびっくりだ。

餌になる小さな魚の群れが茨城辺りの海岸にまで移動してきたのを、メジロザメが追ってきたのだとしたら、これもまた気候変動の結果といえるのかもしれない。米国でもサメの被害が増えているというし (参照)、地球規模でいろいろなことが起きている。

 

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2015年8月 6日

北京冬期五輪招致ソングのパクリ疑惑

北京冬季オリンピック招致活動のテーマソング『冰雪舞動』が、ディズニー映画『アナと雪の女王』の "Let it go" に似すぎていると、ネット上で話題になっている。中国お得意のパクリがこんなところにまで登場したかと、YouTube で聞き比べてみた。

客観的にいえる事実は、次の通り。

  • キーが同じ (どちらも C)
  • テンポもほぼ同じ (どちらも ♩= 144 ぐらい)
  • リズムの刻み方もほぼ同じ
  • アレンジ・コンセプトがクリソツ (とくにイントロのピアノの入り)
  • ミキシングもクリソツ (ピアノのトーンはもろにそっくりに調整されている)
  • メロディに関しては、とりたてて言うほど似ているわけじゃない

試しに上の方の "Ler It Go" を再生させてから、5.5秒後ぐらいの時間差で下の方の北京五輪招致ソングを再生させてみると、とても面白い。イントロから歌の数小節にかけては、あまり違和感なく同じ曲みたいに聞こえてしまうが、それ以後はありありと別の曲になってしまう。

つまり、曲そのものがパクリっぽいというよりは、キーとテンポとリズムを含めたアレンジとミキシングのコンセプトがほぼ共通しているので、曲想としてもろにそっくりに聞こえてしまうということだ。パクりじゃない曲をここまでパクリと感じさせてしまうのは、逆説的に素晴らしいアレンジ・テクニックである。

ということで私としては、作曲に関しては完全無罪で、アレンジが「罪作り」なのだと結論づけたい。大ヒット曲のアレンジにあやかるぐらい当たり前という中国的認識と、関係者の誰も「レリゴー」をまともには聞いたことがなかったので、「ヤバいんじゃね?」とも思えなかったことの合わせ技なのかもしれない。

それから最後に、最も重要なポイントは、映画 "Frozen" (日本語タイトルは 『アナと雪の女王』) の中国語タイトルが 『氷雪奇縁』 だったということだ。今回の招致ソングのタイトルが 『氷雪舞動』 だというので、アレンジャーとしてはつい余計なサービス精神で、同じイメージにしちゃいたかったのかもしれない。

 

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2015年8月 5日

ヒッチハイク・ロボットとイージー・ライダー

カナダとドイツでヒッチハイクに成功してきたヒッチハイク・ロボット、"hitchBot" が、米国で東海岸のマサチューセッツから西海岸のサンフランシスコを目指す旅を始めたとたん、東海岸から離れてさえいないフィラデルフィアで、無残にも何者かによってぶっ壊されてしまったと報じられている(参照)。

このニュースを読んで私は、あのアメリカン・二ユーシネマの記念碑的作品、『イージー・ライダー』を思い出してしまったよ。イージーライダーでは、アメリカの理想を探しに出かけた、ピーター・フォンダ演じるキャプテン・アメリカと相棒のビリー(デニス・ホッパー)、そして途中から加わった酔いどれ弁護士、ジョージ(ジャック・ニコルソン)が、旅の途中で夜討ちに遭いボコボコにされ、ジョージは死んでしまう。

さらに旅を続けた二人は、ハイウェイでトラックに乗った農夫にライフルで撃たれ、惨殺される。イージーライダーの 3人が殺されたのは、当時のカウンター・カルチャーへの反感の強かった南部のど真ん中だが、今回の hitchBot がぶっ壊されたのは、南部にさしかかる前のフィラデルフィアだったという。なんと米国独立宣言の書かれたお膝元での惨劇だったわけだ。

フィラデルフィアは、映画「フラッシュダンス」の舞台となった街で、1980年代に私も行ったことがある。当時から案外治安の悪いところだと聞いていたが、まさか今でもヒッチハイクをするロボットがやられてしまうほどとは思わなかった。

このヒッチハイク・プロジェクトの目的は、ロボットに遭遇した人々がどのような行動を取るのかを調査することだったという。つまりロボット研究ではなく、人間研究が目的だった。ということは、「米国人はロボットに対する暴力性が高い」というデータが得られてしまったわけだ。

何だかんだと言っても、米国はやはりコワいところがある。

 

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2015年8月 4日

ツクツクホウシのフライング

昨日の朝方、ツクツクホウシの鳴き声を聞いた気がしていたのだが、それきり聞こえなくなった (参照)。あまりの暑さに、ツクツクホウシとしても「ちょっと早すぎたかな」と後悔しながら、どこかの木の葉陰でじっとしていたのかもしれない。

そして今朝、またしてもツクツクホウシはほんの短時間だけ鳴き、またおとなしくなってしまった。やはり昨日の朝の鳴き声は空耳ではなかったようだ。ただ、ツクツクホウシは夏の終わりに鳴くと相場が決まっているので、やはりこれはフライングみたいなものなのだろう。

昼過ぎになって聞こえるのは、アブラゼミのいかにも暑苦しい鳴き声だけである。夜になってコオロギらしき声がわずかに聞こえるが、虫の声の大合唱になるのはまだまだ先のことのようだ。

都会に暮らしている人には、こうした季節の移り変わりのサインはあまり意識されないかもしれないが、ありがたいことにつくば周辺はまだ自然が残っている。おかげで、ブログに書く季節の移り変わりが、少しは敏感に察知される。

それはともかく、エルニーニョなんて無関係といわんばかりの猛暑である。外は暑すぎて、人っ子一人歩いていない。私は今月中旬はお盆の時期だというのに、出張が続いて旅から旅への旅ガラスの身の上になる。体力を消耗しないように気をつけなければならない。

 

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2015年8月 3日

「法的安定性」を巡る冒険

磯崎陽輔首相補佐官の 「法的安定性は関係ない」 という発言が問題になっている。この発言は講演会において出てきたもののようで、その文脈は 「法的安定性で国を守れますか? そんなもので守れるわけないんですよ」というところから来て、「法的安定性は関係ない。我が国を守るために必要かどうかが基準だ」ということになったもののようなのだ。

磯崎氏の真意を、最大限好意的に推し量れば、私がいつも引き合いに出す「健康のためなら命も惜しくない」という健康オタクの例みたいなもので、「国がなくなってしまったら法的安定性もへったくれもない」ということになる。つまり、「法的安全性と国の安全保障を比較したら、当然安全保障が優先されるべきでしょう」と、磯崎氏は言っているのだと思われる。

それについてはあまり問題がないのだが、彼は「法的安定性は関係ない」なんていう乱暴すぎる言い方をしてしまったから、散々突つかれているのだ。ただ、突つかれている割には誰も「法的安定性」という言葉にピンとこないので、巷ではあまり怒っている人がいない。民衆は「ピンとこないこと」にはあまり怒らないのである。

「法的安定性」 というのは、法律の中身や法令解釈が朝令暮改になっては運用するにも差し障りがあるので、その辺はきちんとしっかりしたものにしておきましょうということである。それはもちろん重要なことだ。

そして本来ならば、「国の安全保障も法的安定性もどちらも重要だ」ということになるのだが、国の安全が脅かされる切羽詰まった状況(要するに「非常事態」ね)に限っては、そんな悠長なことは言ってられないから、安全保障が優先されても仕方ないだろうということになる。これについても、あまり反論がないだろうと思う。

問題は、現在の状況が磯崎氏が「法的安定性は関係ない」と言ってしまうほどに切羽詰まった非常事態になっているかどうかだ。はっきり言えば、今が「法的安定性を犠牲にしてまで国の防衛を優先すべき非常事態」だなんて思っている人は皆無とまではいわないにしても、極少数だろう。

この視点からすると、磯崎氏の発言を好意的に解釈するとしても、「やっぱり、暴走発言だったよね」と言わざるを得ない。

問題は「いや、現状は非常事態なんだ。十分に切羽詰まっている」という考えもあるということだ。少なくとも安部さんとその取り巻きはそう思っているのだろう。彼らがそう思っているのだとしたら、それはもう仕方のないことだが、そうした人たちに国を任せていると考えると、ちょっと背筋が寒くなる。

現在の政権にある人たちが、今の政策を推し進めたいならば、現状がそれほど切羽詰まった非常事態なのだという根拠をきちんと説明しなければならない。今回の安保関連法案に関するゴタゴタは、このあたりがちっともなされていないことによるのだと思う。

ただ、そんなことを説明しても国民の理解が得られるわけはないから、彼らはプロセスを省略してでも結論を急ぎたがっているのだと思わざるを得ない。

 

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2015年8月 2日

最近はエアコンを使っている

我が家では 2011年の東日本大震災以来、極力エアコンを使わないことにしてきた。実際、震災後 2年間はまったくエアコンを使わなかった。真夏の猛暑日は窓の外に直射日光よけの遮光スクリーンをかけて、開け放した窓から風を取り入れ、真冬の夜中はダウンパーカを着て仕事をしていた。

「原発を稼働させなければ電力が足りない」という主張に対抗して、「電力使わなきゃいいんだろ、使わなきゃ!」と、暑さ寒さに耐えていたのである。実際、耐えれば耐えられるものだった。

しかし 2013年からは、ごく控えめにエアコンを使用するようになった。この年の夏が記録的な猛暑だったことと、こちらも還暦を過ぎて、あまり暑さを我慢しすぎると体調を崩してしまいそうだったためである。昨年は 2013年ほどの猛暑ではなかったこともあり、まったく使わなかったわけではないが、極力控えめに使用していた。

そして今年である。7月下旬から、エルニーニョなんて本当か? というぐらいの猛烈な暑さが続いている。さすがに還暦を 3年も過ぎた身としては、省エネ運転ではあるが、あまり我慢せずにエアコンを使うことにした。何しろ、この春から我が家の屋根には太陽光発電パネルが載っているので、「俺んちで作った電気を、俺んちで使うんだ。文句あるか!」ってなもんである。

日が沈んでからは自前の発電はゼロになるが、電力ピークを過ぎているので、「原発を稼働させないと、電力消費をまかなえない」なんてことを言い出されずに済む。それで、夜になっても極々控えめにエアコンを作動させて仕事している。日が暮れると気温が下がっただけ相対的に湿度が上がるので、下手すると日中より暑く感じてしまうためだ。

とまあ、この夏はこれまでと比べるとエアコンの使用頻度が高くなっているが、それでもトータルにみれば、我が家の電力消費は自前の発電量を下回っている。ということは、売電価格は東京電力から買う場合の価格を上回っているので、金額的にも結構な黒字である。光熱費に相当する支出は、ローンの返済を含めても以前より少ない。だから条件さえ許せば、太陽光発電はエコであり、さらに経済的でもあると、オススメしている。

ただ、私としては売電価格が買う場合の価格と同じでも文句は言わないつもりである。経済的な問題よりも、電力ピークと言われる時間帯でも、原発なんか稼働させなくても十分まかなえるという体制にもっていくために、少しでも貢献しているのが嬉しいと思っているのである。

 

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2015年8月 1日

"ROCK IN JAPAN FESTIVAL" という名称を巡る冒険

今年も私の在住する茨城県のひたちなか市で、ROCK IN JAPAN FESTIVAL が始まった。我が家の娘も毎年行っていて、今年も行っているようだ。既に夏の大きなイベントとして定着していて、ラジオの交通情報は、朝から常磐高速道の下り線が混んでいると伝えていた。

ところでこのイベントの正式名称は上述の通り "ROCK IN JAPAN FESTIVAL" (全部大文字が正式らしい)となっているが、フツーは "ROCK IN JAPAN" と呼び慣わしているように思う。冒頭でリンクさせたこのイベントの公式サイトでも、"ROCK IN JAPAN FES. 2015" と、 "FESTIVAL" の部分は軽く扱われて、省略表記になっている。

我が家の娘も 「ロック・イン・ジャパンに行く」 とは言うが、「ロック・イン・ジャパン・フェスティバルに行く」とはまず言わない。きちんと正式名称で言ったら、かんじゃいそうだし。

どうでもいいことかもしれないが、私は前から最後の "FESTIVAL" ってのは余計じゃないかなあと言ってきた。"ROCK IN JAPAN FESTIVAL" と言ってしまったら、直訳すると「日本祭の中のロック」 ということになってしまうよねと、ちょっとケチを付けているのである(参照)。主催者には申し訳ないけど。

しかし最近になって、「なるほど、この名称にはやむを得ない事情があったのかもしれないね」と、理解を示すようになった。私もずいぶん心が広くなったものである。

その「事情」というのは、多分商標登録に関するものだ。単なる "ROCK IN JAPAN" では、「日本のロック」 という意味合いの一般名称に過ぎず、商標として登録できなかったんじゃないかと推測するのである。それで仕方なく固有のイベントという意味を明確にするために、最後の "FESTIVAL" を加えたんじゃないかと思うのだ。

そう考えると、フツーにはみんな「ロック・イン・ジャパン」と呼び慣わして、「ロックイン・ジャパン・フェスティバル」とはあまり言わないという現象も理解できる。イベントの企画運営というのも、なかなか大変なのだね。この辺の理解というのも、私のいうところの「裏方感覚」と無関係じゃないと思っている。

 

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