ポツダム宣言と原爆と終戦記念日
今日は「終戦記念日」。それに先だって、私の誕生日 7月 26日があり、そして広島、長崎の原爆記念日があった。
まず、私の誕生日から触れよう。1945年にポツダム宣言が出されたのも、同じ 7月 26日だった。つまり私は、日本の戦後を運命づけたポツダム宣言のちょうど 7年後に生まれたのである。
7月 26日に出されたポツダム宣言を、当時の日本の指導者たちは黙殺して、戦争継続の道を選んだ。本土決戦を避けたかった米国は、広島と長崎に原爆を投下して、日本の降伏を早めたと言われている。このことについてはいろいろと異論はあるが、原爆投下が日本の無条件降伏を決定づけたというのは、結果論として否定できない。
ところでその頃、私の父は予科練で特攻隊としての訓練に明け暮れていた。旧制中学生だった父は、易者に「お前は若死にする」と占われ、「どうせ死ぬなら空で死のう」と考えて、自ら予科練に志願した。ところが行ってみると、まともに飛べる飛行機は 1機も残っておらず、空で死にたいという思いは打ち砕かれた。
志願して予科練に行った父には、ついぞ後輩ができなかった。つまり、父は日本兵として登録された者としての最年少である。父より若い者は招集を受けず、年齢的に志願することすらできなかった。つまり、父はよほど「もの好き」だったのである。その血は、私にしっかりと受け継がれていると思う。
話を戻そう。飛行機が残っていなかった当時の予科練でも、「特攻隊」は募られた。飛行機に爆弾を抱いて敵艦に突っ込むのではなく、本土決戦になった曉には、背中に爆弾を背負って夜闇に紛れて匍匐前進し、敵の陣地に自爆攻撃をかけるための特攻隊である。父は生前、「イスラム過激派と同じことをしようとしていたのだ」としみじみ語っていた。
特攻隊の募集に関しては、誰も無視することはできなかった。建前としては全員が希望するのである。そして「多分、長男以外で、体が健康で忠誠心のある者が選ばれたんだろう」と父は述懐していた。
その特攻隊員の発表で自分の名前が呼ばれた時、父は「一瞬、血の気が引いた」というが、その瞬間、回りから同僚が 口々に「おめでとう!」と叫びながら押し寄せ、無理矢理に胴上げされた。父は空中に舞いながら「何がめでたいんだ!」と思ったが、床に降り立った時には、既に覚悟が決まっていたという。「自分は敵に突っ込んで死ぬのだ」ということだ。その後は英霊になると決定したのだから、十分な食料が与えられたという。
そんな時に広島と長崎に原爆が落とされ、本土決戦は回避され、父が「特攻」という名の自爆攻撃をかける前に終戦になった。そして散々苦労して郷里の酒田に帰り、旧制中学の学生に戻った。
さらに数年後に私の母と結婚し、やがて長男として私が生まれた。7年前にポツダム宣言が出されたのとちょうど同じ日に。そして奇しくもその年は、日本がサンフランシスコ講和条約に調印し、独立を回復した年でもあった。私はいわば、「戦後の申し子」である。そのことは、常に私の脳裏の片隅にあった。
原爆投下に関しては、いろいろなことが言われている。非戦闘員の大量殺戮は、明らかに国際法違反だという見解は、多分正論だろう。しかし、もし原爆が投下されず、終戦が遅れ、本土決戦に突入していたとしたら、父は確実に自爆攻撃で戦死していた。ということは、私はこの世に生まれなかった。こうしてブログなんか書いていることもなかった。
私は戦争と原爆ということを考える時、本当に複雑な思いにとらわれるのである。世の中は複雑系であり、すべては関連づけられていて、中国で蝶が羽ばたくと、南米大陸で大嵐が起きるといわれる。
明らかな事実として、原爆が落とされ、戦争が終わり、父が生き延びて、そのおかげで私はこの世に生を受けた。その上で、私は核兵器使用には反対し続ける。
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コメント
同意します。
教科書と資料の範囲でしか学習していない者にとって、戦争体験者から直接お聴きになった事柄を知る機会を得られたこと、心より感謝です。
アタクシの父は終戦時2歳。祖父は日中戦争出征で被弾し、太平洋戦争には出征していません。
ありがとうございました。
投稿: 乙痴庵 | 2015年8月17日 14:12
乙痴庵 さん:
あの戦争を直接体験した人の話には、「少なくとも純粋な愛国心をもっていた」ということと、「とはいえ、軍部の横暴、馬鹿さ加減は度を超していて、玉音放送を聞いたときには 『ああ、もうこれで戦争しなくていいんだ』と思った」という思いの錯綜が、色濃く滲み出ています。
戦後の「反戦」気分には、軍部の馬鹿さ加減の反動が大きく反映されていると思っています。
投稿: tak | 2015年8月20日 17:43