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2015年9月に作成された投稿

2015年9月30日

「出身地鑑定 方言チャート 100」で、新潟県下越出身と判定されてしまった

出身地鑑定 方言チャート 100」というサイトがおもしろい。東京女子大現代教養学部で方言学を専門とする篠崎晃一教授と、篠崎ゼミに所属する学生たちが開発し、今年 7月に公開した途端に 約 2か月で 300万人がアクセスしたという。

このシステムは日本を 100のエリアに分類しており、数問の設問に「はい/いいえ」の二択で答えると、出身地を推定してくれる。2年前に開発した旧バージョンは 47都道府県別の分類だったので、必ずしも正確な推定はできなかった。確かに私の生まれた山形県を例にとっても、私のペンネームの元になった庄内と内陸では、かなり違ってしまう。やはり少なくとも 100ぐらいにわける必要があるだろう。

で、さっそく試しにやってみたところ、「新潟県下越」(新潟県北部) と判定されてしまった。山形県庄内からみればほんの南隣だが、正解というわけにはいかない。こんなこともあるのだろう。

いったいどこで間違えたのかと辿り直してみたら、以下のような筋道で 「新潟県下越」 ということにされたようだ。

  • 翌日、家に不在の時、「明日、家におらん」と言うことがありますか?
    → いいえ
  • 授業で先生にあてられるとき、「先生にかけられる」と言うことがありますか?
    → はい
  • 「宿題を終わらせる」ことを「宿題をおわす」と言うことがありますか?
    → いいえ
    (ここで、「新潟県出身者」 と明確にカテゴライズされてしまったようで、次の設問 4 からは 「新潟県突入!」 と表示される。つまり、これが決定的な分岐点だった)
  • ぶつけたとき、内出血で肌が青黒くなった部分を「ぶすいろ」と言うことがありますか?
    → いいえ
  • 「あなた」ということを「おまん」と言うことがありますか?または、地元の人が言っているのを聞いたことがありますか?
    → いいえ

  • 「おやまあ」ということを「おっこっこ」もしくは「おっこー」または「おここ」と言うことがありますか?または、地元の人が言っているのを聞いたことがありますか?
    → はい

以上の 6問に回答したところで、「あなたの出身は新潟県の下越エリアですね !?」 という表示が出た。最後の 3問で、新潟県の中でも 「下越エリア」 と特定されたのだろう。しかし最も重要な分岐点は、3番目の「宿題を終わらせる」ことを 「おわす」というかどうかだったようで、「おわすなんて言わない」と答えた時点で、即座に山形県出身ではないと判断されたようだ。

試しに、ここで 「はい」 と回答してみたところ、案の定 「山形県突入!」 と表示された。以下、別ルートの再現である。

  • (同上)

  • (同上)

  • 「宿題を終わらせる」ことを「宿題をおわす」と言うことがありますか?
    → (心ならずも 「はい」 と答えて、山形県に突入する)

  • 「~(名詞)ですか?」のことを「~(名詞)なな?」と言うことがありますか?または、地元の人が言っているのを聞いたことがありますか?
    → いいえ

  • 「かわいそう」のことを「めじょけね」と言うことがありますか?または、地元の人が言っているのを聞いたことがありますか?
    → はい

ここで「あなたの出身は山形県の庄内エリアですね !?」 と表示された。ピンポン! 終わらせてみれば(私は「おわしてみれば」なんて言わないよ)なぜか新潟県下越と判定されるよりも 1問節約された。

3番目の「宿題をおわす」に関して、山形県の内陸出身者は確かに「おわす」という言い方をするような印象があるが、しつこいようだが、少なくとも北庄内(酒田エリア)出身の私はそんな言い方は気持ち悪くてできないし、周囲の人たちも言わなかった。あるいは南庄内(鶴岡エリア)では「おわす」と言うのかもしれないが、定かではない。

このあたりを曖昧に処理したことが、このシステムのバグと思われる。多分庄内出身者は調査サンプルがとても少なかったのだろうと同情してしまうが、とにかくフィックスしていただければ幸いだ。

ちなみに「宿題を終わらせる」は、私は 「しゅぐで、してしまう」と言う。「終わらせる」に相当する語彙は、ネイティブにはない。そして「めじょけね」(かわいそう は、庄内ではとても一般的な表現で、極めると「めじょーけねごど!」(かわいそうだこと!)という強調表現になる。

【お願い】

南庄内 (鶴岡エリア) 出身の方がいらしたら、「宿題を終わらせる」を「宿題をおわす」と言うかどうか、ご教示いただければ幸いです。コメント欄にお願いします。

 

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2015年9月29日

ゲートボールと戦争

公園からゲートボールがなぜ消えたのか」という日経ビジネスの記事の見出しに興味を引かれた。

もっとも興味を引かれたのは見出しだけで、記事の中身はちょっと物足りない。納得させられたのは「ゲートボール連合の統計によると、2014年の加盟団体の会員数は 11万8985人。正式な統計を取り始めた 1996年時点の会員数は 56万7232人で、右肩下がりに減少している」という事実のみで、ほかはちょっと期待外れだ。

ゲートボール衰退の理由として挙げられているのは、次のようなことだが、これらは「○○が売れなくなった理由」として最近マーケティングの世界でよく言われることの焼き直しに過ぎないように思う。

  1. 平均寿命とともに、自立した生活を送ることができる期間を示す「健康寿命」が延びた

  2. 高齢者向けの娯楽が多様化

  3. ゲートボールの特徴である「チームプレー」が、近年の高齢者から厭われた

この記事を書いた記者は、ゲートボールをしたことがないのだろうと思う。だから「口論の末に殺人事件も」という小見出しまである割に、チームプレーが近年の高齢者から厭われた」というポイントの掘り下げが足りない。

実は私はゲートボールをしたことがある。それも還暦を過ぎた最近のことではなく、40歳になる前のことだ。休暇で実家に帰っていた時、家の前の公園で年寄りたちがいつものようにゲートボールを始めたのだが、一方のチームに欠員が出て、急遽駆り出されたのである。

初めは相手チームから「そんな若いヤツを助っ人にするのはずるい」とクレームがついたが、それもすぐに収まった。というのは、ゲートボールで重要なのは体力なんかではなく「戦略と慣れ」のようで、「若い助っ人」なんてメリットにならないばかりか、「不慣れ」 なのでむしろ足を引っ張ることになる。

私としてはとりあえずルールがさっぱりわからないので、リーダー格のじいさんの言うとおりに球を打って転がしていたが、そのうちに要点がわかってきた。はっきり言って「相手の邪魔をしてなんぼ」というゲームなのである。年寄りの遊びと言うにはかなりシリアスなルールで、冷酷非情さがないと勝てない。

ゲートボールは 5人のチームで戦うのだが、戦略にたけたリーダー 1人と、忠実に従う 4人の「部下」がいればいい。要するにリーダー次第なのである。リーダーが「ここで相手の球にぶつけて妨害しろ」と指示したら、メンバーは「そこまであくどいことはしたくないな」と思っても従わなければならない。

それだけに「徹底的に相手の妨害をする」ことを重視するリーダーがいると、相手チームはフラストレーションがたまりにたまり、ついに 「そこまでするか!」と喧嘩になるのも、あながちあり得ないことじゃないと思った。年寄りって、案外キレやすいのである。

このゲームは一見のんびりとしたものだが、実際には 1人の「冷酷な隊長」と、4人の「忠実な兵隊」によって戦われる「シリアスな神経戦」なのである。実際にやってみて、そのことがよくわかった。

だから同じ年寄りでも、「戦争に行った世代」と「戦争に行かなかった世代」では、ゲートボールというゲームに対する感覚が違ってしまうのも自然なことだ。そして、ちょっと前までゲートボールに真剣に取り組んでいたのは「戦争に行った世代」なのである。「戦争に行かなかった世代」には、ゲートボールは人気がない。

私の父は旧制中学時代に志願して予科練に行き、特攻隊員にまでなったが、ついには戦場には行かないうちに終戦となった。それだけに、「軍人精神注入棒」なんかで尻をぶっ叩くことに象徴されるような、当時の日本の軍隊のあり方を客観的、批判的な目でみていたところがある。「あんな馬鹿なことばかりしていたから、戦争に負けたのだ」とまで言っていた。

それだけにゲートボールには無意識的にしろ人一倍「軍隊の臭い」を嗅いでいたのかもしれず、決して加わろうとしなかった。だから 「メンバーが足りないから助っ人を頼む」と言われても、「俺はイヤだ。お前が行ってこい」と、息子の私を人身御供に差し出したのである。

とまあ、妙に長々と書いてしまったが、ゲートボールというのは「戦争に行った世代」に馴染むゲームであるということだ。一方、とくに「戦中派」の中でも「悲惨な戦争を知ってはいるけど、戦場には行かなかった世代」にとっては、一層「なんか感じ悪いよね」と思われるのではなかろうか。

だからこそ「戦争に行った世代」の体が動かなくなり、「戦争に行かなかった世代」がゲートボールをしてもいい頃になった途端に、急に廃れたのである。

 

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2015年9月28日

SEALDs の今後

安保法案が成立して、あれだけ盛り上がった(ように見えていた)反対運動も一段落しかかっている。それだけでなく、その反動的な動きとして SEALDs への批判的な意見もバラバラと出てきた。「なんか自民党感じ悪いよね」という SEALDs のキャッチフレーズをパロって「なんか SEALDs 感じ悪いよね」なんていわれ始めている。

私個人の考えとしては、最初に重箱のスミをつついちゃうのだが、まず "SEALDs" という名前が気にくわない。そもそも "Students Emergency Action for Liberal Democracy s" という英語がアヤしいし、とくに最後の "Liberal Democracy" なんて、自民党の支持団体なんじゃないかと思っちゃう。

とはいえ、重箱のスミさえつつかなければ、なんとか許せると私は思っている。きちんとしたリーダーシップが存在しないことに関しては、日本の学生運動の歴史をみるにつけ、リーダーシップが発揮されるとは、既存政党の影響下に入るか、妙に過激化するかのどちらかだから、そんなものはない方がいいとさえ思う。

思想的にバラバラなままというのも、それはそれでいい。妙に純化されると、現実から遊離した「学生のうちにしかできない『はしか』みたいなもの」となってしまい、就職した途端に見事に保守化するかつての「全学連シンパ」と同じ穴のムジナと化す。

要するに「なまくら」な運動なら、それはそれでいいと私は思っている。というかむしろ「なまくら」である方がいい。下手すると「なまくら」でなくなってしまう様相が見え隠れしている方が心配だ。

一番危惧しているのが、日本の「左翼」に共通してみられる「自分たちはいつも正しいけど、いつも被害者」というどうしようもないコンセプトに堕してしまうことだ。これを翻訳すると、「戦争には駆り出されたくない。駆り出されるのは自分たちなんだから」という情緒的なスローガンになる。被害者的な立場からの情緒的な主張が勝利を収めた例しを、私は知らない。

現代社会は複雑系なのだ。単純な筋だけでは理解も解決もされない。「自分たちはいつも少しは間違っているし、少しは加害者であることを免れない」という自覚をもたなければならないのだ。完全無欠の潔白なんてあり得ないのだから、そのくらいの開き直りをしてこそ、実は「純粋」というものである。

リベラルな運動は、もっとしたたかな戦術をもたなければならないと思う。しかし実際にそれをすると政治的ロマンチストたちが「我々の運動は純粋性を失った」などと言い出し、その結果として足の引っ張り合いになってしまう一方で、政治的リアリストたちが必要以上に醜悪な勝利を得る。

そもそも「ロマンチックに純粋」でありたいなら、政治運動なんかしないに限る。政治運動に向かない連中が「自分たちはいつも正しい」と錯覚しているから、日本の反体制派はまともな力にならない。

 

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2015年9月27日

Mac はエキスパートになる必要がない

Windows 7 から Mac に乗り換えたのは昨年の 1月 20日だから、まだ 1年と 8か月で、2年にも達していない。それなのに、ずっと昔から Mac ユーザーだったような気がしてしまうほど居心地がいい。性に合っているのだろう。

振り返ってみれば、PC(MS-DOS)を使い始めたのは 1990年(その前は 5年ほどワープロ専用機の OASYS ユーザーだった)で、Windows を使い始めたのは 1994年(当時は Windows 3.1 というバージョンだった)だから、ちょうど 20年使ったわけだ。Mac ユーザーとなってからの時間は、Windows を使っていた時間の 1割にも満たないし、MS-DOS ユーザーだった時間と比べても半分以下だ。

Mac ユーザーとして 20年目を迎えるためには、82歳になる 2034年まで使い続けなければならないが、Mac も私も、それまで命をつないでいられるという保証はない。結局 Mac ユーザーでいた時間よりも Windows ユーザーだった時間の方が長かったということになる可能性もかなり高い。ああ、こんなことならもっと早くから Mac に鞍替えしておくんだった。

Mac ユーザーになって、Windows ユーザーだった頃と最も違った点は何かと自問してみると、「PC のエキスパートである必要がなくなった」ということだと思う。Windows ユーザーだった頃は、結構いろいろな七面倒くさい設定やトラブルに関して「俺に任せろ」的な自負があった。IT 知識を駆使してコトに当たっていたような気がする。

ところが Mac ユーザーになったら、そんなエキスパートでいる必要がなくなったのである。個々のアプリケーション操作に関しては専門性や慣れが必要なことは言うまでもないが、インターネット接続や周辺機器接続など、こと OS レベルの設定などの操作に関しては、まったく「お気楽」でいられる。

何度か書いたことだが、私は決して PC 大好き人間というわけではなく、作業がはかどって便利だから使っているだけなので、設定などのための操作は「お気楽」であればあるほどありがたい。決して PC の「エキスパート」なんかになりたいわけじゃないのである。

その意味で、Mac は私のニーズに合っている。Mac の良さの最大のポイントはこれだといっていい。ただ、個々のアプリケーション・ソフトに関しては、それなりの専門性を維持して仕事している。それはいうまでもなく当然のことである。Mac がすべてをやってくれるわけじゃないからね。

 

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2015年9月26日

水見舞いに行って来た

常総市の知り合いに、水見舞いに行って来た。土曜日なので会えると思ったのである。我が家からわずか 20km 足らずなので、自転車で行ってみることにした。20km という距離は微妙だ。クルマで行けば 30分もかからない「すぐ近く」と言ってもいいが、自転車だと 1時間近くかかり、「それなりの距離」である。

今回は自転車で行ってみて、その「微妙な距離感」が納得された。水害地域は、「すぐ近く」ではあるけれど、我が家からはやっぱり距離がある。それだけに、水に浸かってしまった地域の人のフラストレーションは、直接にはわからない。

それでも、我が家も 30年前の水害では床下浸水の被害に遭い、家族で高台の中学校に避難した経験があるので、まったくわからないわけではない。知人の家の近くまで行くと、公園の植え込みに、私の腰の位置よりも高いところまで水が来たことを示す泥色の線が続いていた。これは相当の浸水である。

家を訪ねると、彼の家は床下浸水で済んだとのことだった。それは不幸中の幸いである。床下浸水と床上浸水では、天国と地獄ほどの差がある。床下浸水ならば、水が引いて避難先から戻れば、すぐに普通の暮らしが再開できる。しかし床上浸水だと、後始末に忙殺されることになる。

22日にボランティアに入った地域では、ほとんどの家が床上浸水となったため、悪臭を放つ断熱材を、わざわざ壁を壊して撤去するという作業に追われていた。それと比べれば、しばらくは湿気に悩まされるとはいえ、床下浸水の被害は軽い。

ただ、知人の家は農家なので、倉庫に保管してあるものが水に浸かってしまったらしい。その意味では、床下と床上の間ぐらいの被害と言ってもいいかもしれない。その後始末も、2週間ほど経ってようやく一段落したようだった。

彼の家族の話を聞いても、常総市の避難指示発令は相当遅かったらしい。逃げ出す頃にはかなり道路冠水がひどくなっており、堤防決壊でどっと水が出る前に逃げ出せたのだが、それでもかなり大慌てだったという。

それに関しては私の今月 12日の記事でも指摘したが、常総市は責任追及を免れることができないだろうと思う。

 

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2015年9月25日

フォルクスワーゲンのスキャンダルは飛び火しないのか?

今回のフォルクスワーゲンの問題は、ニュースを聞いてすぐに、「こりゃ、フォルクスワーゲンだけじゃないだろうな」と思った。

私は昔から「ゴキブリを 1匹見つけたら 100匹いると思え」というテーゼを信じてきた。不祥事が 1件明るみに出ると、似たような話が続々と出てくる。私が過去にブログで取り上げただけでも、「鉄道事故とヒューマン・エラー」「怪しいダイエット食品」「公式イベントの関連の音楽やデザイン」「郵便物が途中で消える件」「日本酒の不正表示」「食品関連の虚偽表示」など、いくらでもある。

案の定、早速 BMW のディーゼル車も怪しいというニュースが飛び込んできた。フォルクスワーゲンの場合は通常の路上走行では試験データの 40倍もの窒素酸化物が排出されるケースが報告されたが、BMW の場合は欧州の基準値の 11倍の窒素宇酸化物が排出されたという。BMW は不正ソフトの使用を否定しているらしいが、さらに調査する必要があるだろう。

フォルクスワーゲンの場合は、試験中のみ基準をクリアするようにプログラムされた不正ソフトを搭載していたというのだが、それは走行パターンによって「むむ、これは試験だな」と察知した瞬間から、エンジンの浄化機能をフル稼働させる仕掛けなのではないかと見られている。通常走行時はユル〜く働かせて、窒素酸化物をまき散らすのだ。

どうしてそんなことをするのかというと、浄化機能をフル稼働させると燃費が悪くなってしまうというのである。試験の時だけ窒素酸化物排出が少なくし、通常走行時は燃費の良さをアピールすることが目的のようだ。

フツーに考えれば、バレた時のリスクが大きすぎるからそんな姑息なまねはできないのだが、フォルクスワーゲンの技術者の中には、そこまで考えの至らないお馬鹿がいた。そして他のメーカーにもいたかもしれないのである。

ちなみに日本の自動車メーカーの「クリーンディーゼル」は、マツダにしてもトヨタにしても、フォルクスワーゲンとは別の技術を採用しているので、疑惑はないらしい。もっとも「別の技術だから」というのは、完璧な疑惑払拭の理由とはならないと思うが、まあ、とりあえず大丈夫なのかな。

 

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2015年9月24日

先月末から雨がやたらと多いので

9月、いや、8月末以後と言った方がいいかもしれないが、やたらと雨が多い。4月に我が家の屋根にソーラーパネルが載り、太陽光発電が開始されてからというもの、発電した電力が消費電力を順調に上回ってきた。ところが今月は先週まで、消費した電力の方が多かったのである。これは事件だ。

シルバーウィークに突入して急に天気がよくなったおかげで、昨日になってようやく消費電力を発電した電力が上回るようになった。ところが今日は曇りがちで昼からは雨が降ったおかげで、両者が拮抗しそうで、さらに明日から雨模様になるので、またしても発電と消費が逆転してしまいそうである。

ただ、一日中雨が降り続いた日でもまったく発電していないわけではないから、使った電力を丸々東電から買ったというわけではない。その意味では、ソーラーパネルは雨の日でも少しは貢献する。それでも、晴れの日の多い方が、自分の家で使った電力を余裕で上回る発電をしてくれるので、気持ちはいい。

今月もとっくに下旬に入った。見通しとしては明日から 3日間は雨模様だが、最後の 3日間は晴れるようなので、9月トータルでも、ギリギリで発電した電力の方が消費電力を上回りそうだ。

理想から言えば、昼に発電して消費を上回った分の電力は東電に売電なんかせずに、バッテリーに蓄えて夜間や雨の日に使用できるようにしたいところである。しかし今のところはそれだけの容量をもつバッテリーを買ったら大変な出費になるので、やむを得ず売電している。

売電して金儲けすることは、決して本来の目的じゃないのだ。自分の家で使う電力は全部自前で発電して、バッテリーに蓄電し、夜でも雨の日でも東電から電気を買わずに済ませられるなら嬉しいのだが、低コストでそれを実現するには、もう少し時代が進まなければならないのかなあ。

 

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2015年9月23日

「久しぶり」という言葉

だいぶ昔のことになるが、「英語で『お久しぶり』って何て言うの?」と聞かれ、「う〜ん、ぴったりくる言い方ってないよね」と往生したことがある。よく "Long time no see." がそれにあたると言われるが、なんだかカジュアルすぎる言い方で、「久しぶりでお会いできて嬉しいです」みたいな、改まった場面にはそぐわないと思ってしまう。

和英辞書的には、"I haven't see you for a long time." なんていうのが出てくる。直訳すれば 「長い間、お会いしませんでしたね」ってなことで、即物的な言い方にすぎない。これだけじゃ日本語の雰囲気は表現しきれないような気がする。

で、結局のところ「お久しぶり」というのは日本語独特のとても雰囲気的な挨拶であって、この感覚をぴったりと言い表せる英語の言い方なんてないんだと思うようになった。「行ってきます」とか「ただいま」にぴったりと相応した英語の挨拶がないのと同様のことだと。

英語で言うとしたら、"Nice to meet you." あたりでいいんじゃないかと思う。直訳すれば「会えて嬉しい」ということにすぎず、初対面でも使える挨拶ではあるが、初対面か久しぶりかは会った当人同士がわかっているのだから、「久しぶりに会えて嬉しい!」ということなら、ちょっとオーバーなぐらいの感情を込めて言えばいい。

あんまりオーバーな言い方がそぐわないような、フォーマルな場面だったら、私は "Great to see you again."(再びお会いできてとても嬉しい)なんて言い方で済ませている。「久しぶり」という日本語の直訳があると思っているからわからなくなるのであって、「会えて嬉しい」という気持ちの方をストレートに言うのが英語流なのだろう。

考えてみれば、「久しぶり」という日本語はかなり曖昧模糊とした言葉である。以前、健康診断のために病院に行き、記入した申し込み書類を窓口に提出しようとしたところ、そこに陣取っていた白衣のおじさんが、「久しぶりの方は、こちらの窓口に出してください」と大声で繰り返していた。

私はその病院は初めてだったので、迷うことなく通常の窓口に書類を出したが、以前に受診したことがある人は、戸惑ってしまっただろう。「久しぶり」というのが「1週間ぶり」程度なのか「1年ぶり」ぐらいのことなのか、あるいは「5年ぶり」ぐらいのことを指しているのか、まったくわからない。

後学のために、そのおじさんに 「久しぶりって、どのくらいの期間のことを指して言ってるんですか?」と聞いたところ、「半年ぐらいです」と言う。「その『ぐらい』って何だよ!?」ともツッコみたかったところだが、まあ、それで済ませるにしても、それだったら初めから「前にいらしてからおよそ半年以上経った方は、こちらの窓口に」と言えばいいではないか。

まあ、ことほど左様に日本語の「久しぶり」というのは雰囲気のものなので、無闇に使うと、かっちりしたことの要求される場面でも、雰囲気だけの話に落ちてしまうリスクがある。

 

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2015年9月22日

常総市の災害ボランティアに行ってきた

今日は、常総市の水害復旧のボランティアに行ってきた。シルバーウィーク期間中は、明日までボランティアが募集されている(参照)ので、時間と情熱のある方は行ってみていただきたい。まだまだいくらでも人手が必要とされている現場がある。

私は今日は結構キツい現場に入った。すっかり泥水に浸かってしまった倉庫で、売り物にならなくなった製品を、処分のために仕分けして運び出すという作業だ。広い倉庫一杯、泥水をたっぷり吸った段ボール箱の中から、ぐじゃぐじゃになった品物を取り出すだけでも、結構な筋肉労働で、全員泥だらけになっての作業だった。

還暦を過ぎた身としては、「私、ちょっと他の現場に行かせてもらいます」なんて言ってもいいぐらいのところだったが、こうした現場を見ると俄然ファイトが湧いてしまうのが、私の悪いクセである。何も考えずに飛び込んでしまった。

倉庫の社員の方々は途方に暮れた面持ちで、作業の手順についても「もう、皆さんにお任せします」なんて言うしかないほど憔悴している。現場に入った時は我々としても「こりゃ、3〜4日かかりそうだな」と思ったが、実際に始めてみると人間の力というのは大したもので、人海戦術で今日中に 7〜8割は片付いてしまった。

社員だけで後片付けをやったとしたら、1週間や 2週間では終わらないだろう。あちこちから集まった人間が、寄ってたかって協力し合うというのは、なかなか大きな力になるのだと実感した。

ボランティアセンターに戻って手足を洗い、消毒してから専用のバスに乗り合わせて帰ってきたが、泥だらけになった服には異様な臭いがこびりついていた。さっそく念入りに洗濯して乾かしている。

こうして一銭にもならない仕事に、自分で交通費を払って出向き、くたくたに疲れて帰るわけだが、これがなかなか充実感がある。人の役に立つということには、金銭に変えられない喜びというものがある。いい経験をさせてもらって、こちらこそお礼を言いたいぐらいというのが、正直な実感である。

 

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2015年9月21日

ラグビー、ワールドカップでの歴史的勝利

ラグビー、ワールドカップで日本代表が南アフリカに勝ってしまったことがエラい話題だ。ラグビーはサッカーほどにはメジャーじゃないので、あまり注目を浴びていなかったが、勝利の力というのは大きなもので、少しは国内での注目が高まるかもしれない。

今回の勝利がいかに番狂わせであったかを説明するのに、いろんな喩えが挙げられていて、「サッカーのワールドカップで、日本代表がスペイン代表に勝つようなもの」なんていうのがある。なるほど、そんな感じだろうと思う。

それ以外では、「茶帯が数見に勝ったようなもの」 というのがある。これは極真空手を知らない人には「???」だろう。私も「???」 だったのに「桐谷美玲が吉田沙保里に勝ったようなもの」というのがある

「"キリヤミスズ" って誰だよ? と思って調べてみたら、そもそも読み方からして違っていて、"キリタニミレイ" というタレントだった。ただ、この喩えはいくらなんでも吉田沙保里に失礼だろうと思う。ラグビー日本代表は何度か戦えば今回みたいに南アフリカに勝つこともあるが、桐谷美玲という女性は、100回やっても 1000回やっても、吉田沙保里に勝てない。

まあ、いずれにしても今回の勝利は歴史的大勝利であることには変わりなく、日本におけるラグビーのポジション向上につながれば嬉しい限りである。それから大学選手権でワセダが優勝してくれれば、さらに嬉しいのだが。

 

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2015年9月20日

民主党が一昔前の社会党になってしまった件

一昨日の記事で 「自民党が右翼バネを発揮すればするほど、民主党が自動的に左翼バネを発揮して、昔の社会党のポジションに自ら身を落とす」と書いた時は、「もしかしたら、ちょっと言い過ぎかな?」とも思ったが、「民主、共産と野党選挙協力を協議へ 安保関連法廃止に向け」という日本経済新聞の記事を読んで、「いや、ちっとも言い過ぎじゃなかった」と、自分の直観に確信をもった。

岡田代表は「選挙区で競合を避けるのは重要だが、政策をどうするかなど、さまざまな議論をしないといけない」と語っているという。共産党と政策協定なんか結ぶようだと、余計な左翼バネにますます拍車がかかる。6年前の総選挙で民主党が大勝した時だって、有権者は共産党と共闘するなんてことに期待したわけではまったくないのに。

私としても一時はリベラル保守としての民主党に淡い期待をもったのだが、それはもう幻想だったと思うことにした。あれよあれよという間に、言うことなすことすべて一昔前の日本社会党の面影を彷彿させるようになり、ということは、日本共産党の方が何をやらせても一枚上手ということになる。

民主党の歴史的使命は早くも終わってしまったのかもしれない。ただ、私としては民主党のいう「安保法案廃止」に反対しているわけでは決してなくて、むしろ賛成の立場であることを確認しておきたい。既に何度か書いたことだが、念のため。

 

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2015年9月19日

「シルバーウィーク」 にちょっとこだわってみたら

今日から「シルバーウィーク」なのだと、ニュースがはやし立てている。聞き慣れない言葉なので調べてみると、Wikipedia には 「日本の秋の休日が多い期間のこと。ゴールデンウィークに対する言葉」とある (参照)。

明後日が「敬老の日」なので 「シルバーシート」みたいな発想から、それと関係あるのかと思ってもいたが、無関係らしい。発端は 1950年代に「ゴールデンウィーク」同様、映画のプロモーションがらみで作られた言葉で、元々は 11月 3日の文化の日を中心とした一定期間を指していたという。そして現在は、秋の連休になる期間をテキトーにいうことになったようだ。

面倒なのは、これが毎年あるわけじゃなく、前にあったのは 6年前の 2009年で、次は 2026年まで待たなければならないという。なるほど聞き慣れないわけである。希少価値からいったら、「プラチナウィーク」 と言ってもいいぐらいだ。

さらにややこしいのは、つい最近まで知らなかったのだが「老人の日/老人週間」というのがあるらしく、これが今回の「シルバーウィーク」とかぶるのだ。全国社会福祉協議会によると、"9月15日は「老人の日」、9月15日から 21日までの  1週間は「老人週間」です" ということになっている(参照)。

そういえば「敬老の日」は、元々は毎年 9月 15日だったが、いわゆるハッピーマンデー制度の実施によって、2003年から 9月第 3月曜日に変わった。もっともこの改正の最初の年は、たまたま 9月 15日が第 3月曜日だったというのがご愛敬だが。

ついでだからもっと深く掘り下げてみると、この祝日の発端は兵庫県多可郡野間谷村(現・多可町八千代区)が 1947年 9月 15日から始めた「としよりの日」で、これが全国に広がったものらしい。1964年に「老人の日」と改称され、翌年に国民の祝日「敬老の日」として制定された。(参照

となると、9月 15日 の「老人の日」 というのは、国民の祝日となった「敬老の日」の前身が、あたかも盲腸の如く残っているものなのだろう。ちょっと前までは「老人の日 = 敬老の日」でよかったわけだが、今では別の日になってしまい、同じ趣旨のことを短期間に 2度やるというややこしいことになっている。

まさに「一度始めたことは容易に止められない」(参照)というお役所仕事の典型を見る思いがする。「シルバーウィーク」という言葉にちょっとだけこだわったみただけで、これだけのことが見えてきた。

 

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2015年9月18日

安保法案で、しらけ度がさらにアップ

昨日 「申し訳ないが、安保法案にはしらけている」 という記事を書いて、そのままテレビの国会中継なんか見たくもなかったのだが、今日になってそのハイライト(?)を YouTube で見て、しらけ度がさらに増してしまった。「しらける」というより「馬鹿馬鹿しい」という方がいいかもしれない。

野党がどんなに抵抗しても、安倍内閣は安保法案を成立させてしまうだろう。こうした事態を称して「民主主義ではなく多数決主義」だと言っている人もいる(参照)が、まあ、多数決は民主主義の十分条件じゃないかもしれないが必要条件ではあるので、どんな繰り言を述べようともそもそもは、前回の総選挙で自民党を大勝ちさせてしまったのがいけないのである。

9月 14日に発表された NHK と 朝日新聞による安保法案に関する世論調査によると、どちらも安保法案には反対意見の方が多かった(参照)。NHK の調査では「賛成」が 19%、「反対」が 45&、「どちらとも言えない」が 30% だったし、朝日新聞の調査でも「賛成」が 29%、「反対」が 54% である。

しかしこの数字は、内閣支持率に連動しない。NHK調査での内閣支持率は 43%で、不支持率は  39%。朝日調査では支持率は 36%で、不支持率は 42%だった。安保法案という重要な事項に関する姿勢が、内閣支持率とほとんどかみ合わない。これでは日本人である私まで "Why Japanese people?" と言いたくなるではないか。

そして、国会でのあの騒動である。民主党としては「我々は徹底抗戦しましたよ」というアリバイを残したいのかもしれないが、国民としてはあんな姿を見せられてはがっかりするばかりだ。昨日も書いたことだが、自民党が右翼バネを発揮すればするほど、民主党が自動的に左翼バネを発揮して、昔の社会党のポジションに自ら身を落とす。

民主党は次の選挙では、選挙カーで凄みたっぷりに、こんな風に流すといいだろう。

「皆さん、こんにちは。民主党の ○野○吉です。ごるぁ、そこの有権者、誰に投票するつもりなんだよ? なにぃ、自民党候補? ダァメ、ダメダメ、ふざけんじゃないよ! 何馬鹿なこと言ってんだよ。いい加減にしろよ!  ○野○吉に投票するに決まってんだろ。わかってんのかよ、オラァ!」

すごく調子が上がるんじゃあるまいか。

 

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2015年9月17日

申し訳ないが、安保法案にはしらけている

参議院が例の安保法案で大もめにもめている。昨日の TBS ラジオで、理事会室前に野党議員が押し寄せて、移動を妨害しており、廊下は冷房が効かないので、ものすごい暑苦しさになっていると、国会記者からのレポートがあった。国会議員は時々、結構な肉体労働と化す。

「暑さで汗だくのようですね。臭いが発生しているとのレポートもありましたが」とのスタジオからの問いかけに、現場が「臭いはいつものことですけどね」とさらりと応じたのは、ちょっとヒットだった。じいさんばあさんが多いから、加齢臭が強いのだろうか

まあ、いずれにしても、安保法案は今週中に通ってしまうことがみえみえだから、国会がどんなに喧噪状態になろうとも、国民の多くはしらけている。私自身も、法案に反対であることには変わりない(参照1参照 2)が、やはりかなりしらけてしまっている。というか、無力感にとらわれ始めている。

識者の中には、今の状況を 60年安保時に喩える人がいる。半世紀以上も前のことをよく覚えているのは、多分 70歳以上の高齢者だろう。私は当時、小学校 2年生だったから、深くは理解していなかったが、あの大規模な反対運動はニュースで聞いて (当時はテレビなんかなかったからね) かなり深く印象づけられている。

デモ隊が国会に突入する中で樺美智子さんが死亡する事件があったことを引き合いに出すまでもなく、私を含む小学生たちが「安保反対!」と叫びながらデモ行進の真似をする遊びに興じていたぐらいだから、60年安保当時の反対運動の高まりは、今回とは比べものにならなかった。それでも安倍首相の祖父が通しちゃったんだから、何だかんだ言っても、今回だって孫が通してしまうのだろう。

私は今回の安保法案の件で、「自民党が『右翼バネ』 を発揮すると、民主党が『左翼バネ』を発揮してしまい、結局はイデオロギー対決に近い様相となって、国民はシラけてしまう」と感じている。安保法案に反対している国民の多くが民主党に期待しているのは、昔の社会党みたいな姿になることじゃないのに、なぜかそんな風なことになってしまっている。

イデオロギー対決のような構図になったら、いつの世でも与党が強くて野党は支持を失う。今回はせっかく与党が支持率を落としているのに、民主党はその分をちっとも吸収できていない。今どき妙な 「左翼バネ」 なんか効かせているからである。左翼バネは共産党に任せておけばいいのだ。

野党は生活感覚に裏付けられた具体論で攻めなければならないのに、「徴兵制復活につながる」なんて素朴な寝言を言っているようでは困っちゃうのだよね。

 

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2015年9月16日

最近はホテル事情がタイトらしい

日経ビジネスに「ホテルが取れない出張族に 9つの解決策」 という記事がある。「出張先で宿泊先を確保できず、途方に暮れる会社員が全国的に続出している。運よく事前に予約できても、高額の宿泊費に悩まされるケースも増えてきた」という書き出しだ。

そういえば私も、今年になって妙にホテル予約がタイトになってきたなと感じていた。とくに観光地のビジネスホテルがタイトで、これまでなら十分に予約できていたタイミングでも、すでにほとんど満室になっていたりする。4月に行った沖縄の那覇と、7月に行った北海道の小樽が、まさにそんな感じで、なんとかしょぼい旅館に潜り込めた。

にわかにホテル不足になってしまった最大の要因は、訪日外国人の急増なんだそうだ。「外国人」といっても、主に中国人ということなのだが、なるほどそれは実感する。ちょっとした観光地では、周りから聞こえてくるのは中国語ばかりなんてことが多い。ホテルでも夜中まで廊下に響き渡る大声の中国語で往生することがある。

ホテルが満室になる一番の要因が中国人観光客だから、当然のことながら、東京や大阪などの大都市と中国人好みの観光地のホテルが一番予約しにくい。翌朝一番の飛行機に乗るために、羽田の近くのホテルに前泊しようとしても、最近は間際になると予約しにくいし、上述の那覇とか小樽などの観光地も、夏休みとか連休とか特別な時期でなくても、妙に混んでいたりする。

日経ビジネスの記事で挙げられている 9つの解決策とは、こんなようなことだった。

  • 当日午後3時直後にホテルの専用サイトを見る (キャンセル期待)
  • 最初から郊外 東京では「ニュータウン」を狙う
  • ビジネスホテルは諦め高品質カプセルホテルで勝負
  • 意外に快適 深夜バスを有効活用せよ
  • 多少無理をしても日帰りする
  • 領収書発行もOK ラブホに1人で泊まる
  • 漫画喫茶で仮眠 ファミレスで休息
  • 「最後は野宿も辞さず」という心づもりも

  • いっそマンションを借りる (個人ではなく会社が)

ちなみに私は、6番の 「ラブホに 1人で泊まる」以外はすべて経験済みだ。結構私も歴戦の強者みたいなのだが、ラブホの領収書がお堅い名前の運営会社の名称で出してもらえるなんて、知らなかったよ。しかし地方都市に行って 1人でタクシーに乗り 「ラブホテル街に行って」 なんて言ったら、驚かれるかもしれないなあ。

まあ、いずれにしても出張が決まったら早めの予約を心がけることが一番の対策だ。

おもしろいのは、京都では中国人観光客が、いないわけでは決してないが、あまり目立たないことだ。世界遺産の神社仏閣に大声の中国語が響き渡っているという光景に、少なくとも私はあまり遭遇していない。彼らはもう少し享楽的なところが好きなようなのだ。

 

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2015年9月15日

自転車で往復 120km

7月の 21日に、東京都心との往復約 100km を自転車で往復したことは、こちらではスルーしていたが「和歌ログ」で触れた通りである(参照)。あの日はやたら暑くて真昼の往きで体力を削られ、楽だと思っていた帰り道にその影響が出て少々キツかった。

で、今日はそれより距離のある埼玉県志木市までの往復にチャレンジした。駅まで自転車で行き電車を利用すれば 往復約 4時間で済むが、すべて自転車だと、往復 8時間近くかかり、帰りは夜中になった。往復約 120km。これまでの人生で、最長の日帰りだ。

途中で道に迷うなど、少々のトラブルもあったが、なかなか楽しいものだった。先々月の 100km 往復も含めて遊びではなく、行った先で 3〜4時間の仕事をこなして帰ってきている。で、さすがに疲れたので、今日はこれでおしまい。

 

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2015年9月14日

日本の若い連中、案外 PC スキルが低い

News Week の記事によると、「日本の学生のパソコンスキルは、先進国で最低レベル」なんだそうだ。どうもそんなような気がしていた。パソコン操作をいくら教えても全然覚えられない年寄り連中は「若い人たちなら感覚的に理解できるかもしれないが、私らはなかなか……」なんていうが、実はその割に、「若い人たち」も案外パソコンが使えないことに、私は薄々気付いていた。

内閣府が世界 7カ国の 10代の若者の情報機器に関する意識の調査によると、日本の 10代の若者の情報機器所有率は、携帯ゲーム機器だけは 53.9%とトップだが、他の携帯電話・スマホ、タブレット、ノートパソコン、デスクトップパソコンは、私が「えっ!」と驚くほど低く、軒並み 7カ国中最低である。

自分専用の PC(ノート、デスクトップ)をもたない割合は、日本が45.3%、韓国が19.9%、アメリカが11.4%、イギリスが9.2%、ドイツが6.7%、フランスが7.6%、スウェーデンが7.1%だという。日本だけが突出して高い。

私の意識としては、PC あるいはタブレットはもはや「必需品」だと思っているのだが、タブレットの所有率を足しても、ようやく 58.3%で、半分を超えた程度である。日本の高校卒業後の進学率(大学、短大、高専、専修学校を含む)は、2013年の段階で 71.8%というから、学生さんの中には今どき、手書きのレポート提出なんかしているのがいるんだろうか?

パソコン所持率が低いだけでなく、スキルもかなり低い。プレゼンや表計算ソフトを使いこなせる率は、調査した 45カ国中で断トツに低く、30%程度である。まあ、本当に必要になったら覚えられることではあるんだろうけど、ちょっとお寒い限りである。

私としては、中学生ぐらいになったらタブレットぐらいはガンガン使いこなしてもらいたいという気がするのだが、使いこなせる層と使えない層の落差がかなり大きいみたいなのだね。

 

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2015年9月13日

仙台はゴスペル王国だった

今日、所用で仙台に日帰りしたのだが、たまたま「定禅寺ストリート・ジャズ・フェスティバル in 仙台」というイベントが開かれていた。仙台の中心街がすっぽりと野外音楽会場と化していたのである。いやはや、驚いた。

このイベントは「ジャズ・フェスティバル」と謳ってはいるが、ジャンルを問わない市民音楽祭といったところで、誰でも参加申し込みができるらしい。こういうとお下手な素人音楽を聴かされるお祭りと思う人もいるかもしれないが、出演者のレベルは結構高い。十分に楽しめる。

私が嬉しかったのは、かなり多くのゴスペル・グループが参加していたことである。何しろ私は黒人音楽大好き人間であって、中でもブルースとゴスペルはたまらないほど好きなのだ。ブルースは自分でもやるしね。

30年以上前に初めてニューヨークに行った時、たまたま乗ったタクシーの黒人の運転手が、それまで聞いていたカーラジオのスイッチをあわてて切ろうとした。それは多分 FM のゴスペル専門局の番組だったが、東洋人の顔をした客なんて「それ、消してくれ」と言うに決まってると思ったらしい。

ところが、この日の東洋人はちょっと変わっていた。乗ってくるやいなや、"Don't turn it off!" (消さないで)なんて言い出す。その上、"I love this kind of music."(こういう音楽、大好きなんだ)なんてほざいて、ノリノリになってしまったのである。

彼は信じられないといった表情で、「これ、何だか知ってんの?」と聞く。こっちは「もちろん! ゴスペルじゃん」なんて言っていい気持ちになっている。彼は半分あきれ、半分嬉しそうに、「あんた、きっと変装した黒人だね」なんて言い出した。音楽で通じ合えるというのは本当のことである。

仙台という街はゴスペルが盛んらしい。何しろ「仙台ゴスペル・フェスティバル」というイベントが毎年行われるほどというのだ。今日も仙台駅前ではヤマハのゴスペル教室の精鋭部隊がバッチリきめたパフォーマンスをしていたし、市内の公演や広場では、何組ものゴスペル・グループが次々に演奏していた。それがなかなかのものなのである。

実は私も昔からゴスペルをやりたくてたまらない。ところがゴスペルというのは一人でやってやれないこともないが、本来は合唱が基本だから仲間が必要だ。しかしゴスペルを歌えるやつって、そうはいないのである。

日本人の多くはハモるのが苦手で、私より上の年代は『椰子の実』とか『夏の思い出』とかのクラシックな「合唱」ならできても、即興的なハモりとは無縁だったりする。(これに関しては、4年前に「世代別ハモり感覚」というタイトルで書いている)

そしてハモりができる少数派でも、その中で「カタカナ英語」ではなく、きちんとノレる英語で歌えるやつは、さらに少ない。ゴスペルをカタカナ英語でやっても「今イチ」なのは、浄瑠璃を巻き舌でやったら、頑張ってるのはわかるけど雰囲気壊れるのと共通している。だから私は、日本でまともなゴスペルをやるなんて、ほとんど不可能なんじゃないかと思っていたのだ。

ところが仙台に行って驚いた。「まともなゴスペル」をやるグループが、ゴロゴロいるのである。なんてこった。さすが仙台である。YouTube で、仙台ゴスペル・フェスティバルのビデオが見つかったので、下に埋め込んでおく。

ついでに、今日の仙台のパフォーマンスの中で一番気に入ってしまった "Dash♪" というグループの動画もみつかったので、埋め込んでおこう。これはオススメである。

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最後に一言。ゴスペルは信心の歌だから、歌うにも信心が必要だからね。

 

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2015年9月12日

今回の大水害の教訓

鬼怒川の堤防決壊を伝えるニュース画面で、家や土手に取り残されたまま救助を呼ぶ人たちの姿を見て、正直なところ初めは「自治体の避難指示に従って素直に逃げていれば、こんなことにならなかったのに」と思っていた。この人たちが逃げ遅れたために、自衛隊や関係者が大変な苦労をしているのだと。

しかしすぐに「おかしい」と気付いた。いくらなんでも、逃げ遅れている人の数が多すぎる。隣町である我が自治体の鬼怒川に近い地区では、早くから避難勧告や指示が出て、住民の多くがそれに従っていたのに、当の決壊現場にあれだけの人が残っていたのは、どう考えてもおかしすぎる。

その疑問は、昨日夜に報じられた NHK ニュースで解けた。決壊現場の三坂町地区に避難指示が出たのは、決壊のわずか 2時間半前の午前 10時半だったというのである。

着の身着のまま逃げ出すのには 2時間半あれば十分と言う人もいるだろう。しかし現場は混乱している。逃げるといっても急には動けない人もいるし、常日頃から避難用の荷物をまとめている人も案外少ない。急に老人や子どもの必需品を取りそろえるのも、案外時間がかかるものである。

さらに、何とか家にとどまりたいと考えて最後まで腰を上げない人もいる。この期に及んで隣近所の様子をうかがいながら、「お宅はどうする?」なんて呑気なことを言っているうちに、時間はあっという間に経ってしまう。

というわけで、決壊現場から離れた我が自治体では前夜のうちから警戒態勢に入っていたのに、堤防のすぐ近くで、翌朝になっても避難指示が出ていなかったというのは、信じられない不手際である。しかも初めのうちは、鬼怒川の橋を渡って、対岸の西側の避難所に行けという指示だったらしい。

これもまた呑気すぎる。鬼怒川の東岸はほとんど浸水することが予想されていたとはいえ、そんなことを言ったら橋が渋滞して、逃げるに逃げられなくなるのはわかりきっているではないか。橋を渡っている間に崩落事故でも生じたら、どうしてくれるというのだ。さらに言えば、そもそも東岸がほとんど浸水することがわかっていたというなら、どうしてもっと早く避難指示を出さなかったのだ。

この措置がどうしようもないことがわかって初めて、さらに東側の小貝川を渡ったつくば市に避難できるように、受け入れを要請したというのである。どうみても後手後手すぎる。

昨日の記事でも書いたように、早朝の時点で既に上流の若宮戸地区で川の水があふれ出していた。そしてその下流の決壊現場では堤防に亀裂が入り、「いつ決壊してもおかしくない」と思われる状態になっていたのである。これはもう、常総市の災害対策やいざという時の避難計画が不備で、まともに機能しなかったというしかない。

少なくとも、早いうちから「避難勧告」を出しておくべきだった。そして結果論と言われるかもしれないが、早朝の時点でかなり危険が迫っていることがわかっていたのだから、この時点で「避難指示」を出すのは決して困難なことではなかったはずだ。リスク・マネジメントのしっかりした自治体なら当然しているはずのことを、常総市はできなかった。

早いうちに「避難勧告」を出すことについて、効果を疑う人もいる。もちろん、「避難指示」でも従わない人がいるぐらいだから、「避難勧告」程度では多くの住民は従わない。それは 30年前の私自身の経験からわかっている。

しかし、老人や小さな子どものいる家族は、避難勧告の時点で大事をとって避難を開始する傾向がある。そしてそれだけでも効果はあるのだ。よくよく危険の迫った「避難指示」の段階で老人や子どもは既に逃げているということは、より多くの人の避難が効率的に進む。

本当に、老人や子どもや妊婦は、「避難勧告」の時点でちゃんと逃げておくことをオススメする。

 

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2015年9月11日

堤防決壊とソーラーパネルに関する誤解を整理する

今回の大雨による鬼怒川堤防決壊は大変な被害となり、本日昼頃の時点で、行方不明者が 22人にも及んでいる。テレビニュースのヘリコプターからの映像をみていると、あの東日本大震災の津波の映像を思い出させるほどだった。我が家からほんの 20km ほどの近くで起きたことである。

この災害に関連し、メジャーなメディアではほとんど触れられていないが、ネット界隈でちょっとした話題になっているのが、「鬼怒川の堤防決壊の原因はソーラーパネル」というものである。「ソーラーパネル設置のために『無堤防状態』になっていた」というものまである。

さらに「ソーラーパネルなんて自然災害の元になる」「太陽光発電は悪で、原発は善」「民主党政権時代に太陽光発電を奨励したのが悪い」、あげくは 「民主党が 『仕分け』で、堤防建設予算を削ったせいだ」などと、言いたい放題が連続するのは、こうした災害時の常である。

堤防建設予算云々に関しては、この付近は堤防改修工事を控えていたのだが、それが間に合わなかったということらしい。民主党の「仕分け」で、ほったらかしにされていたというわけではないようだ。

ネットで検索してみて、もっとも客観的に書かれていると思われた『スポーツ報知』 の記事 (参照) によると、このソーラーパネルが設置された若宮戸地区では、昔から川に沿った丘陵部 (通称 「十一面山」) が 「自然堤防」 の役割を果たしてきた。この 「自然堤防」 の上にソーラーパネルを設置するため、昨年 3月に民間業者が「横 150メートル、高さ2メートル部分を削った」とされている。

この工事を見て不安を感じた住民から通報があり、市は河川事務所に連絡したのだが、削っても「100年に1回起こりうる洪水の水位」を下回るとされたため、工事中止には至らなかった。しかし民間事業者は住民の不安に配慮して、大型土のうを積んで対策を施した。他の情報によると、この「十一面山」は私有地のため、市はそれ以上の口出しができなかったとされている。

つまり、昔から「自然堤防」だったところの上部を平らに整地してソーラーパネルを設置し、その周囲に土のうを積んでお茶を濁したというのは、否定できない事実のようだ。そしてこの部分から鬼怒川の水があふれ出していたというのも、事実である。しかしここで重要なポイントは、決壊したのはこの部分ではなく、それよりも数キロ下流の石下地区にある「人工堤防」だったということだ。

私はたまたま昨日の昼前に、この付近をよく知る友人から、これに関する情報を得ていた。彼は電話で、「若宮戸辺りで堤防の高さを越えて水があふれている。さらにその下流の堤防には亀裂が入り、いつ決壊してもおかしくない」と伝えてくれていたのである。

事実を整理しよう。ソーラーパネルの設置されたところは、「堤防決壊」したのではなく、水が堤防を越えて「あふれ出した」のであり、決壊したのはそこから数キロ下流なのだ。だから「ソーラーパネル設置が堤防決壊の原因」というのは、限りなくデマに近い。

しかし、「だからソーラーパネル建設と洪水とは完全に無関係」と言い切るわけにもいかない。スポーツ報知の記事も「国交省関東地方整備局河川事務所は『因果関係は分からない』としている」と報じている。

太陽光発電推進派の私も「各家庭の屋根にパネルを設置するのが本来の姿」と思っていて、メガソーラーのようなものは「やりたければどうぞ」ぐらいに考えている。各家庭で「自分の使う電気は、晴れてさえいれば自分で発電」ということにすれば、原発なんて要らなくなるのだ。私は今年春に自分の家の屋根にもソーラーパネルを設置したので、このことをこれまでより大きな声で言える。

そして「やりたければどうぞ」と思っているメガソーラーに関しても、本来山林だったところなどの自然を破壊してまで作るのは、「そりゃ本末転倒だろう」と考えている。今回の「自然堤防」 だったところを削って設置するというのも、やはり「ちょっとおかしいよね」ということだ。そこから水が溢れたのは事実のようだし。

今回のような「趣旨からしても、ちょっとおかしい」ソーラーパネル設置は、こんなことにつながって、原発推進派を利することになりかねない。まあ、この「私有地」である自然堤防の所有者にしてみれば、税金だけかかる余計ものから、多少は利益を生み出したかったのかもしれないが、今となっては他の手段を考えるべきだったと思う。

【9月 12日 追記】

12日の記事につけられた hokkaidense さんのコメントで、このソーラーパネルに関してつっこんだ取材をした日刊スポーツの記事が紹介された。この記事を読む限り、ソーラーパネルはかなり強引な経緯で建設されたもののようである。多くの批判を呼びそうだ。

記事の URL → http://www.nikkansports.com/general/news/1536943.html

記事はそのうち削除されるだろうから、魚拓もとっておいた。こちら のリンクで読むことができる。

 

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2015年9月10日

思っていた以上の水害に驚いている

昨日「台風が 2個セットで来ているので」という記事を書いた時点では、まだ結構呑気に構えていたのだが、一夜明けて大変なことになった。我が家のある辺りはまだ平穏なのだが、ちょっと離れた常総市で鬼怒川の堤防が決壊し、大水害になってしまった。思っていた以上の事態に、かなり驚いている。

この常総市というのは、「ちょっと離れた」なんて書いたが、実は近くも近く、つい隣り合っているのである。というのは 11年間の「市町村合併」という記事で書いたように、一時は我が地元が「常総市」になりかかっていたことがあるのだ。

その後、合併することになっていた水海道市が急に難色を示し、新市名に決まっていた名称を持ち逃げしたまま、反対側の石下町と合併して「常総市」を名乗ったという経緯がある。今となっては、「我が家が常総市でなくてよかったよ」と思ってしまうのだが。

話が横道に逸れかけたが、とにかく台風 18号というのが、発生して 2日ほどの超スピードで直線的な最短コースを辿り、東海地方に上陸してしまったことでびっくりしたのである。あまり急すぎて、心の準備ができていなかった。

その上、日本海に抜けて温帯低気圧に変わってからは急に遅くなって、ほとんど動かない。そこにもってきて、先に発生していた台風 17号が東からどんどん湿った空気を送り込んでくる。それで発生した「線状降水帯」というのが、よりによって栃木県から流れてくる鬼怒川の上にちょうど重なるように発生して、長時間の大雨をもたらした。

雨そのものは栃木県の方がずっと強かったのだが、そこで降った雨はほとんど鬼怒川に流れ込んで、茨城県にどんどん押し寄せてきた。それで常総市の辺りで堤防決壊につながることになったのである。

実は我が家はつい最近まで「洪水地域」と目されていた。これも 11年前に書いた「水害の恐ろしさ」という記事にあるように、我が家は 30年前の台風による洪水で床下浸水の被害に遭い、一晩だけだが高台の避難所に避難したことがある。当時、妻が三女を妊娠しており、さらに幼い娘 2人に犬 1匹を連れて避難するのは大変だった。

あの頃は、床下浸水とまではいかなくても、ちょっと大雨が降るだけで町内の道路が冠水し、クルマが動けなくなるので、夜中に大雨が予想される時は、前日のうちに安全なところにクルマを避難させておかなければならなかった。そして翌朝、冠水した道路をジャブジャブ歩いて、クルマに乗っていたのである。

あれから下水道が完備し、ウチの裏を流れる川を 2倍に拡幅し、遊水池を確保するなどいろいろあって治水が進み、ここ数年はすっかり洪水とは縁が切れた。一晩雨が降り続いても安心して眠れるようになったのは、つい最近のことなのである。

それだけに、鬼怒川流域に住む何人かの知人の安否が心配でたまらなかったのだが、夜になってようやく全員の無事が確認され、一安心した。とはいえ、1人は着の身着のままで避難所にいるらしいのだが。

今回の水害は、「50年に 1度の災害」だという。確かに 30年前の洪水は局所的なものだったが、今回はかなり広域だ。そして明らかになったのは、我が家のある地域は、30年前以上の大雨にも耐えられるようになったということである。

ありがたいことだが、他の洪水地域に住む人は大変気の毒である。そして昨今の温暖化で、こんなような災害が珍しいことではなくなるのではないかと、心配にもなってしまう。

 

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2015年9月 9日

台風が 2個セットで来ているので

台風 18号の影響で昨夜から雨模様である。常に降っているというわけではなく、時折薄日が射したりもするのだが、それでも降るときはざっと降る。雨脚は夕方になってからますます強くなっている。

下の画像は本日正午の天気図で、上陸した台風 18号は既に勢力が弱くなっているようだが、東にある 17号は、まだまだ元気な様子なのである。こいつさえいなかったら、明日は台風一過の晴天になってもいいはずなのだが、関東ではそうはならないようなのだ。

20150909120000

今年はなんだか、台風が 2個セットでやってくることが多い気がする。1個ずつやってきて通り過ぎるという単純な形ではないので、影響が長く続いて被害も大きくなりがちだ。これもまた、温暖化のせいなんだろうか。

今回もまた、単純には済まない。台風 17号は愛知県に上陸して北陸に進み、午後 2時過ぎには日本海に抜けたらしい。やがて温帯低気圧に変わるという。ところが東の太平洋上を進む台風 17号の影響が大きいので、18号が引っ張り込んだ南風と 17号による南東の風という、2つの湿った空気の合わせ技で、関東では日付が変わっても大雨が続くと予想されている。やれやれ。

それでなくても先月末から、日照時間がやたら短い。今月に入って、ちょっとだけ晴れて暑くなったが、すぐにまたぐずつき始めた。我が家の屋根にある太陽光パネルも、なかなか本領を発揮してくれず、ここ 2週間ほどは発電量が消費量に届いていない。ただ、まったく働いていないわけでもなく、使った電力の半分以上は自前で発電しているのだから、まあまあ許せる。

週末からは少しずつ天気が回復するらしい。そうすれば、また自転車にも乗れるし、自宅で使う以上の電力も自前で生み出せる。楽しみだ。太陽の力とは偉大なものである。

 

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2015年9月 8日

これまで単純に "1 trillion" は「1兆」とばかり思っていたが

昨日の記事で紹介した NewsWeek の記事の見出し "There Are 3 Trillion Trees on Earth, 8 Times What We Previously Thought" に、注釈的に 「地球上には我々がこれまで考えてきた数の 8倍の、3兆本の木がある」 という訳を添えたが、この時「待てよ、"trillion" って『兆』でよかったんだよね」と、念のため辞書で調べたらとんでもないことがわかった。

iPhone にインストールしてある『ウィズダム英和辞典』には、"trillion" は 「1兆(million の 2乗); 《英・古》 100京 (けい)(million の 3乗)」 とある。なんと、米語と英語の古語とでは意味が異なり、"1 trillion" は米語では「1兆」だが、英古語では「100京」という途方もない数を表すらしいのだ。英古語では "1 billion" が「1兆」で、「10億」は "1 thousand millions" となるらしい。ああ、ややこしい。

ちなみに数字を表すとき、便宜的に 3桁ごとに ","(コンマ)を入れることが多いが、あれは 4桁区切りにしてくれる方が、「万、億、兆......」 という区切りと連動するので便利なはずだ。

「なんで 3桁区切りでわざわざ読みにくくしてるんだ?」なんて言う人もいるが、あれは西欧人向けに最適化されているというだけのことだ。米語では 3桁ごとのコンマで区切られるたびに "thousand (千), million(百万), billion(十億), trillion(兆)......" と変化していくので、読み上げに直接的に連動して便利なのである。日本人の都合なんて無視されているのだ。

昔、小学校で日本人に馴染みやすいように 4桁区切りのコンマの入れ方も習ったような覚えがあるが、下手にグローバル化してしまったビジネス社会では、4桁区切りは全然市民権を得ていない。

こうした事情をしっかり頭に入れ、先に英語で読んで日本語に戻るというプロセスを身につけると、桁数の多い数字を日本語で読み上げる時もスムーズにいける。これは確実に、「英語に馴染むことによる付加的メリット」と言っていいだろう。私のように数字に極端に弱い者でも、読み上げるだけならずいぶん流ちょうに読み上げることができる。計算はできないが。

ただ、フツーに使われる数は、どんなに桁数が多くてもせいぜい 1000億台、つまり 100 billions の位までで、「兆」の位まで出てくることはあまりない。だから今回も、"3 trillion trees" が「3兆本」でよかったのかどうか、念のため確かめてみたくなったのである。

そして古語とはいえ「100京」なんていう途方もない数字を目にして、ビックリたまげてしまったわけだ。ただ、今の世界で普通に通用する英語としては、「1 Trillion は 1兆」ということで問題ないようである。それがわかって一安心した。

ちなみに、英古語で「1兆」と言うときには、"1 thousand billion" となるらしい。日本語では 2音節で済むのに、5音節になってしまう。"1 trillion" でも 3音節なのだから、いずれにしても英語で数を表すのは、日本語より手間がかかる。

もう一つ、最近初めて知ったのだが、フランス語では「10億」は "1 millard" で、「1兆」が "1 billion" となるらしい。1兆は英古語と同じだが、それでもこれだけバリエーションがあるということは、昔の人にとっては、ある程度以上に大きな数なんて、割とどうでもよかったんだろうと思うしかない。1000 は「たくさん」で、100万以上になったら「ものすごくたくさん」ということだ。

さらにもう一つ、英語では billion, trillion と続くので、既に察してしまった方もいるだろうが、それ以後は、quadrillion, quintillion, sexillion, septillion, octillion, nonillion, desilliion ということもわかった。京以後が、垓、禾予(合わせた 1文字) 、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数 と、哲学的な響きすらもって続くのと比べると、かなり即物的だなあ。

 

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2015年9月 7日

「予測」という言葉の誤用

地球上には過去の予測の約 8倍もの木が生えていることが判明」という Gigazine の記事について、いちゃもんをつけたい。ただし、それは内容についてではなく、このタイトルについてである。

「地球上には過去の予測の約 8倍もの木が生えている」と言ったら、その意味は、過去のある時点で、将来的に生えているであろう木の総量を「予測」していたのだが、その「予測」は誤っていて、実際にはその 8倍もの木が生えていたということでなければならない。

例えば、20年前の時点で「20年後には、これだけの木が生えているだろう」というように、「将来の状況を予め推し量った」のだが、実際に 20年経ってみたら、その「予測」より 8倍も多い木が生えていたことがわかったというようなことである。

私はこのタイトルをみて、人類が最近、ものすごい勢いで植林したとか、あるいは木の生命力がこれまで考えられていたよりずっと強かったとかいうような、トンデモ記事を読まされてしまうのかと思ってしまったよ。

ところが言うまでもなく、記事の内容はそんなことではない。次のように書かれていることからも明らかだ。

これまで地球上に存在する木の数は衛星写真から判断されていたのですが、最新の研究で、実際はその 8倍の木が生えていることが判明しました。その数はおよそ3兆400億本です。

つまり、地球上に生えている木の本数は、これまでのメソッドで推定されていた本数との比較で、8倍も多かったということであって、「予測」が間違っていたのではなく、「現在、これだけの木が生えているとみられる」という「推定」(あるいは「見積り」)が間違っていたのである。早く言えば「予測」という言葉を誤用しているのだ。

わかりやすい例をあげれば、俳句の愛好者の数、つまり「俳句人口」は、少なくみて 100万人、多くみれば 1000万人などと言われているが、これは「予測」ではなく「推定」(あるいは「見積り」)なのである。かなり大ざっぱすぎる見積りではあるが。

というわけで、今回の記事タイトルを推敲してあげるとすれば、「地球上にはこれまでの推定の約 8倍もの木が生えていることが判明」とすべきだろう。

この記事だけでなく、時間軸とは直接関係のない現在の状況を見積もる場合に、「予測」あるいは「予想」と言ってしまう誤用例の多いことが、私はとても気になっている。「予」(「あらかじめ」とか「前もって」とかの意味) という文字の存在に無頓着すぎる。言葉は生き物だから時代とともに変わっていくとはいえ、これは基本的に意味が違うのだから、誤用というしかない。

念のため再確認しておく。将来を予め推し量るのではなく、現在の状況を見積もるのは、「予測」 ではなく、フツーは 「推定」 である。

【追記】

Gigazine の記事の元記事と思われる Newsweek の記事が見つかった。"There Are 3 Trillion Trees on Earth, 8 Times What We Previously Thought" (地球上には我々がこれまで考えてきた数の 8倍の、3兆本の木がある)というタイトルで、もちろん "predict" とか "forecast" (どちらも「予測」という意味)とかいう言葉は使われていない。

 

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2015年9月 6日

Twitter のアクティブユーザーが日本で異常なほど多いのは

ITmedia ニュースが "「日本人の Twitter 好きは“異常”」――Twitter、開発拠点を日本に新設 世界に活用法を提案" と伝えている。Twitter Japan は、「世界的にも“異常”なほどアクティブなユーザーが多い日本を重要な市場と捉えて」いるのだそうだ。このため、日本国内に開発拠点を開設し、ユーザーの動向に沿った新機能を加えていく方針らしい。

Twitter Japan は本国の社員から「どうして日本人はこんなに使うの?」と聞かれることもしばしばだという。これに関しては、「日本のユーザーは Twitter と生活が密着している」と答えているようだ。

同社の牧野友衛執行役員は、「情報発信だけでなく、電車の遅延や地震の発生など、自分の身に起こったことをすぐに投稿する生活への密着具合が日本人ユーザーの使い方の特徴。お店の前の行列に『なんだあれ?』と思った時に Twitter で検索するとすぐに分かるのは日本だけ」とコメントしれいる。

しかし、これでは満足な答えになっていない。「どうして日本人はこんなに Twitter を使うのか」という問いに、「日本のユーザーは Twitter と生活が密着しているから」  と答えてもナンセンスである。それは、元々の問いが、「どうして日本では Twitter と生活が密着しているのか?」という問いに他ならないからだ。質問の真意を繰り返しても、まともな答えにはならない。

これに関して私は、東日本大震災の 4日後に、「日本語/英語、そして Twitter/Facebook」という記事で、"Twitter の規定である 「140文字以内の tweet」というのは、英語でやるとものすごく短いのだ。「えっ、もう終わり?」という感じなのである" と書いている。

私はこの頃、東日本大震災の発生に呼応して、外国で "#prayforjapan" (日本のための祈り) というハッシュタグの tweet が数多く発信されていることを知り、彼らに感謝の tweet を英語で書いたりしていた。ところが、英語で 140文字以内の tweet をしようとすると、がっくりするほど短すぎるのである。日本語の 140文字は、結構使いでがあるというのにだ。

そこで私は次のように書いている。

全世界的に Facebook ユーザーが圧倒的に多くなっている中で、日本は Twitter が優勢という理由の一つに、この 「140文字のハンデ」 があると思う。英語の 140文字は、「ほんの一言二言」 でしかないが、日本語だとある程度の内容のことが言えてしまうのである。

Twitter が日本で「異常」なほどアクティブ・ユーザーが多いことの、大きな理由はここにあると思うのだ。英語では「半角で 140文字」という制約があるのに、日本語の全角でも、70文字とはならず、同様に 140文字なのである。これでは英語はハンデを背負っているようなものだ。

このため、日本語の tweet は、「俳句的精神」で、とても完結に短くまとめてしまおうとすることもできるし、逆に、漢字を使った簡潔な表現を駆使して、ある程度の内容のあることを言おうとしても、それが可能なのである。これは中国語でもできるかもしれないが、表音文字だけの韓国語では無理だろう。

Twetter の DM では既にこの文字数制限は撤廃されているようだが、tweet は相変わらず 140文字ということになっている。この状態での日本語/英語のハンデキャップ・マッチを解消するためには、単純に、アルファベットの tweet は 280文字まで認めるべきということになりそうだ。

しかしもしかしたら、それは諸刃の剣になるかもしれない、140文字という制約でこそ練られてきたきりっとした文化が、ちょっとダレてしまう可能性がある。その結果、逆に「おもしろくもなんともない」tweet が増えてしまって、スポイルされてしまうことになりかねない。

ただ、英語の tweet を 280文字までにするという試みは、リスクはあるがやってみる価値はあると思う。実際に Twitter がそうするかどうかは、知ったことじゃないが。

 

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2015年9月 5日

「後から文句を言うやつ」への対処法

世の中には「総論賛成、各論反対」というのがある。包括的な方向性としては賛成しておきながら、具体論に落とし込んだあたりでとたんに文句を言い始める人というのが少なくないのだ。

各論になって急に文句を言い始めるタイプに限って、総論には何も異論を唱えない。その総論の実現のためには、お互いに多少譲るべき点も出てくるだろうというところまでは認めている。そこまではいい。しかし自分が譲る段になると、とたんに気にくわないと言い出す。

しかも、そうしたタイプは「自分は譲歩したくない、我慢なんかしたくない」とは口が裂けても言わない。その代わり「中には、これこれこんなような不満を持つ人がいる」とか「それでは困ると言っている人もいる」みたいな、他人事みたいな言い方をする。

しかしそれは、サウナ風呂や酒場みたいな無責任な場で、自分からそれとなく不満を言い出し、周囲が「そうだよね」と軽く相づちを打っただけというようなことがほとんどだ。つまり共犯者を作って、その共犯者をあたかも首謀者のごとく言う。

彼は総論に賛成した時点では、自分にもある程度の責任が生じる事態になることを予測できていないのである。実際に新しいことを始めなければならない段になって、初めて「こりゃ、エラいことになった!」とアセる。

それで一度は賛成したことに、急に「そもそも、初めから疑問に思っていた」などと言い始める。例えば「現場の怠慢による弊害」を是正するためのプロジェクトであるにも関わらず、この期に及んで「それでは、現場の賛同を得られない」なんて戯言を言い始める。そのココロは、他ならぬ自分がやりたくないだけのことだ。

要するに、当初から自分の考えを述べられない人というのは、プロジェクト実現のプロセスで阻害要因となりやすい。これは経験則的事実である。一方、事前の検討段階でいろいろと注文を付けるタイプの人間は、一度決まったことにはしっかりと従う。まさに対照的だ。

というわけで私は、大きな方針決定の際には予測されるいろいろな各論的問題を明示して、「それでもやるか?」と問いかけることにしたことがある。「それでもやる」という意思表示をしたからには、最後まで協力してもらわなければならない。

ところがそうすればそうしたで、「やる前から、そんな消極的なことばかり言ってどうするんだ」と怒り出す人間が出てくる。そしてそんなことを言うやつに限って、いつもやり始めてからつべこべ言い出すのだ。

というわけで、最近私は「経験則第二弾」を学んだのである。それは「後から文句を言うやつはうっとうしい」のではなく、実は「うっとうしいやつは、必ず後から文句を言う」ということだ。後から文句を言うやつは、いつも同じだからね。

そして最終的結論は、そんなやつには酒でも飲ませてさんざん「本音」とやらの文句を言わせ、そうかそうかと聞いてやって「あんたもいろいろと大変だね」なんて言ってガス抜きをし、いい気持ちにさせてやるしかないということだ。

本当に他に手はない。この手がかなり有効ときてるから、馬鹿馬鹿しくなるのだが。

 

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2015年9月 4日

18歳でダメなものが 20歳になったら即 OK という理屈

選挙権は 18歳から与えられるが、飲酒喫煙の認められる「成年年齢」も同時に 18歳に引き下げるという自民党の案は、党内からも反対意見が続出して継続審議なのだそうだ。反対理由は、「若者の健康への影響が懸念される」「高校にお酒やたばこが持ち込まれるのではないか」といったことだという。

ちなみに私はといえば、今年 6月 20日に「投票しろというなら酒ぐらい飲ませてやれ」という記事で、"世界的に見れば、選挙権年齢と成人年齢が一致していない例はないわけじゃないが、圧倒的多くは同じになっている。そりゃそうだよね。「いっぱしの大人として、責任ある存在なんだから、選挙にも関わって当然」というのが、当たり前のコンセプトだろう" と書いている。

私は個人的には、前は毎日酒を飲んでいたが、最近は週に 1度飲むか飲まないかという程度である。さらに煙草に関しては禁煙して 37年になるし、今では喫煙者には近付きたくもないというほどの「嫌煙派」 だ。

だったらどうして飲酒・喫煙年齢の引き下げに賛成なのかといえば、「選挙権を与えるからには、酒と煙草について自分で判断する権利ぐらい与えてしかるべきだろう」と思うからである。18歳になったら全員酒飲んで煙草吸えと言っているわけじゃあるまいし。

もし 18歳以上 20未満の連中が、酒と煙草程度のことでまともな判断ができないというなら、そんな連中に選挙権を与える決定を、既にしてしまったことの方がずっと問題だろう。20歳になったら、なぜか急にまともな判断ができるというなら話は別だが、そんなわけでもないしね。

この度の議論を聞いていると、選挙権よりも酒と煙草の方がずっと重要なファクターだと言っているように聞こえてしまう。それって、一体何なんだ? これもまた、「自転車置き場の議論」のようなものなのか?

いくら「酒と煙草は 20歳から」なんて言っても、飲んだり吸ったりするやつのほとんどは、そのずっと前から始めている。「20歳」で線引きすることに、大きな意味があるとは思われない。「18歳でダメなものが 20歳になったら即 OK」という理屈が、私にはわからないのである。

個人的には、18歳で煙草を吸ってしまうやつに「法令違反」のレッテルを貼ってしまうよりも、「健康にはよくないけど、犯罪ってわけじゃないよ」ということにしとくほうが、むしろマシと考える。そいつらを社会の闇に追い込まなくて済む。そして若者たちが「法令を破る歪んだ楽しみ」なんてものにも染まらずに済む。

「若者の健康への影響が懸念される」という懸念については、「健康への影響懸念は、20歳を過ぎればきれいさっぱり解消するってわけじゃない」 と指摘するばかりである。18歳だろうが 20歳以上だろうが、「飲み過ぎないようにしようね」というばかりだ。ただ、いくらそうしても飲み過ぎるやつは、年齢に関わりなく飲み過ぎるが。

「高校にお酒やたばこが持ち込まれるのではないか」という心配に関しては、従来通り「学校に酒や煙草を持ち込んではならない」という規則を適用すればいいだけのことだ。それに現状だって持ち込まれていないわけじゃない。規則が 20歳だろうが 18歳だろうが、持ち込むやつは持ち込む。それは今と変わらない。

飲酒・喫煙年齢を 18歳に引き下げたとしたら、若者の飲酒・喫煙率は、多分一時的に高まるだろう。調子に乗って始めてしまうやつが結構いるだろうことは想像に難くない。それは私としてもかなり不愉快なことではある。

それでも、本音と建て前の落差を無視しながら「お酒と煙草は 20歳から」なんてノー天気なことをほざいているよりは、ずっとまともで現実的な対策が取れるだろうと、私は思うのである。

 

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2015年9月 3日

グラフィック・デザインの世界の変わり目なのかも

今回のエンブレム「パクリ」騒動で、当初から言われていたのは、「シンプルなデザインでは、類似はある程度避けられない」 ということだった。確かにタイポグラフィとか、単純な図形を組み合わせることによる平面的デザインは、どう組み合わせようともどこか似てきてしまう。

おまけに色に関しても「トレンド・カラー」というものがあって、Intercolor という国際団体が、世界の色使いの潮流をまとめ、動向を予測したりしている。デザイナーたちはこれを無視できないから、色使いまで似通ったものになりやすい。

だから、受けのいい平面的組み合わせにトレンド・カラーを乗せたら、どうしてもどこか似通った印象になってしまうのは避けられない。あとは 「おっと、そうきたか!」 と思わせるような意表を突いた組み合わせをするという手があるが、それにしたってすぐに陳腐化する。

そこへもってきてネット界隈には、今回のエンブレム騒動で類似デザインをあちこちから見つけ出してきて注目されることに、味をしめてしまった人たちがいる。たまたま似てしまったデザインをもってこられて、無闇に「パクリだ!」と言われるリスクが高まったのだから、今やデザイナー家業も楽じゃない。

新たに公募し直されることになった東京オリンピック・パラリンピックののエンブレムだが、デザイナーたちには「下手に突っ込まれたくない」という意識が働いて、どうやら我も我もと応募したがる空気ではないらしい。

というわけで私は昨日の記事で、"「どう工夫してもある程度似通ってしまうのはしかたがない」みたいな分野では、「ブルースのコード進行」のようなフリーの 「入会地的ソース」 を認めておいて、利権主義的な 「知的所有権」 のコンセプトから、ある程度解放してあげなければ、そのうちにっちもさっちもいかなくなると思っている" と書いた。デザイン業界にはほとんど関わりがないが、そこまで心配してあげたくなってしまったのである。

しかし 1日経って、やっぱり「別に素人がそこまで心配する義理はないね」と思い直した。問題なのは今のグラフィック・デザインの主流が、タイポグラフィや単純な図形の組み合わせになっていることであって、手法を変えてしまえばデザインの可能性は広がる。

要するに行き詰まっているのはグラフィック・デザインそのものではなく、今の「主流スタイル」なのだ。いつの時代でも、メインの手法が行き詰まったら、新しい手法が生まれる。グラフィック・デザインは、たまたま今、その時期にさしかかっているということなんだろう。

今後いろいろと新しい模索が行われ、その中で「これって、いいんじゃないの?」と言われる要素が力を得て、共通する手法を採用する有力なデザイナーが輩出し、もしかしたら「○○派」なんて呼ばれ、それが新たなメインストリームを形成する。このようにして時代は変わり、繰り返し、また変わる。

今回のゴタゴタは、時代の変わり目を象徴する事件ということなのかもしれないね。

一つの可能性として、今は「ユニークさ感じさせる絵の描ける人」より「既存のネタの組み合わせの上手な人」 が大いばりしているようだが、それが逆転するということはあると思う。より「手の使える人」が重宝されるだろう。つまり、グラフィック・デザインがちょっとだけイラスト寄りにシフトするだけで地平はぐっと広がる。

ただそれにしても、あまりにもアナログなところまで戻りすぎると問題だろう。そのあたりの匙加減がキーポイントかもしれない。

 

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2015年9月 2日

結果とプロセスの(意図的)混同が、エンブレム騒動の根本原因

東京オリンピックのエンブレムの一連の騒動で、多分誰もが薄々と感じてはいるが、明確に言い切っていないことがある。それは、今回の騒動を必要以上にややこしくした最大の原因は、当事者たちの「結果とプロセスの(意図的)混同」 にあるということだ。

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今回の当事者たちは、「見かけは似ていても、発想や成り立ちが違うのだから、『盗用』ではない」と主張した。OK。それは確かに理解できる。客観的証明は難しいが、「パクリじゃない」という主張は可能である。ところが異なるプロセスをたどっても、結果として明らかに似てしまうことは十分あり得ることで、結果とプロセスは別問題なのだ。

その意味で、佐野氏自身の会見での「要素は同じものはあるが、デザインに対する考え方がまったく違うので正直まったく似ていないと思った」という発言は、常識的にいえば明らかな「無理筋」である。これほど似ているものを「まったく似ていない」とは、「目が節穴」と言われてもしょうがない。

「似ている/似ていない」というのは、結果をみての判断であって、結果にたどり着くまでのプロセスなんてどうでもいいことだ。ところがこの結果とプロセスを、多分意図的に混同して、結果として明らかに似ているものを、プロセスが違うんだから「まったく似ていない」と言い切ってしまう傲慢さが、デザイン業界の一部では通用するようなのである。

もしこれが、世の中を甘くみたことによる意図的混同でなく、「自然の振る舞い」なのだとしたら、今回の騒動の関係者たちは頭が悪すぎる。明らかに基本的な大問題であり、根本から考え直してもらわなければならない。

こうしたことは、例えば商標や商号の登録ではあり得ないことだ。製作プロセスがどう違おうとも、結果として類似性が認められ、紛らわしければ、「アウトはアウト」というのが常識というものである。

ところがデザイン業界では、「(佐野氏のデザインを)プロのデザイナーとしては納得できるが、一般の人には理解できないかもしれない」なんて、したり顔で発言している人もいる。そんな発言自体が、この業界の一部に特殊な価値観があるらしいことを物語っている。

このあたりで、他の視点から語ろう。音楽でいえば狭義の「ブルース」というのは、12小節でコード進行までほぼ決まり切っており、同じ曲に聞こえる別の歌がゴマンとある。それが「本来のブルース」である。

つまりブルースというのは、ある意味、俳句や短歌のような「定型芸術」であり、初めからその定型に沿って作られるので、いくら似ていても、「パクリ」という概念の外にある。似ていて当たり前というジャンルなのだ。

根本的なことを言えば、私としては「どう工夫してもある程度似通ってしまうのはしかたがない」みたいな分野では、「ブルースのコード進行」のようなフリーの「入会地的ソース」を認めておいて、利権主義的な「知的所有権」のコンセプトから、ある程度解放してあげなければ、そのうちにっちもさっちもいかなくなると思っている。

音楽で言えば、そうした例はいくらでもある。例えば、"Careless Love" と "Release Me" は、下の YouTube ビデオで聞けばわかるように、ほとんど同じ曲と言ってもいいほどよく似ている。それは同じ古い民謡を原曲としているので当然だ。同じ原曲をアレンジによっていろいろなイメージに膨らませ、別個の楽曲にしている。

デザイン業界でもこんなような手法がきちんとオーソライズされれば、問題なくなるのにね。どうせ似たようなことがフツーにやられてるようなんだから。

 

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2015年9月 1日

国立競技場とエンブレムと自転車置き場

東京オリンピック・パラリンピックの大会組織委員会が、例のエンブレムの使用を取り下げる旨を発表した。これでまあ、一連の馬鹿馬鹿しい騒動の火は収まったわけだが、国立競技場問題と相まって、「ぐったり疲れた感 」と、「やり直すのもうっとうしいなあ感」が残った。

それにしても、2016年に向けての立候補にはあれだけシラけ、消極的だった国民の多くが、2020年の開催決定には大喜びしたというのが、私には今でもよく理解できていない。個人的には、2020年に関しては「そんなにやりたきゃ、やれば?」ぐらいに考えていたのだが、振り返ってみれば、本当にそんなに心の底からやりたかったのかなあ?

1964年の東京オリンピックの頃と今とでは、社会の構造がかなり変わってしまったことを感じる。当時は、大きな流れの前には小さな情報は取り上げられることすらなく、日本全体がイケイケ・モードでオリンピックに突入した。そして当時はそれでよかったのだと、今でもそれを経験した多くの国民が納得している。

ところが約半世紀以上経った今の情報化社会では、小さな情報でも結構拾い上げられる。国立競技場建設計画は「金かかりすぎじゃね?」という疑問の拡大によって、多くの国民の支持を得られなくなり、ついに取り下げの憂き目にあった。エンブレム問題も、私は当初、「なんだかんだと言っても、結局これで行っちゃうのかなあ」と思っていたが、同様に「炎上」してしまった。

これは多くの人が言うように、インターネットを初めとする「草の根情報」システムが、既に大きな力を得ていることを示す。マスコミの力だけでは、ここまでの炎上エネルギーは生み出せなかっただろう。

ただ、それはそれとして、私は何だか割り切れないものを感じてしまうのだよね。政府は国立競技場とエンブレム問題でガス抜きして、もっと大きな 「安保法制」 をしっかりと通してしまう姿勢なのだ。草の根情報もかなり頑張ってはいるのだが、安保法制まで覆してしまうまでには至らない。

というのは、安保法制に関してはインターネットの世界も真っ二つなのである。お互いに火の手は上げつつ、一方でお互いに水をかけ合っているから、大きな流れを変えるまでの炎上には至っていない。国立競技場とエンブレムで、右も左も盛大に火の手を上げて騒いでいたのとは大違いである。

とくにエンブレム問題では、"東京オリンピックのエンブレムに関する「余計な説明」が、火に油を注いでいる" という記事で書いたように、選考委員会の代表までが余計なことを言って炎上を加速させたのだから、まさにしっちゃかめっちゃかである。

私はそこに、「自転車置き場の議論」的要素を垣間見てしまうのだよね。これは「パーキンソンの凡俗法則」というのから来ていて、Wikipedia によると、次のようなことである。

原子炉の建設計画は、あまりにも巨大な費用が必要で、あまりにも複雑であるため一般人には理解できない。このため一般人は、話し合っている人々は理解しているのだろうと思いこみ口を挟まない。(中略) このため審議は「着々と」進むことになる。

この一方で、自転車置き場について話し合うときは、屋根の素材をアルミ製にするかアスベスト製にするかトタン製にするかなどの些細な話題の議論が中心となり、(中略) 次に委員会の議題がコーヒーの購入といったより身近なものになった場合は、その議論はさらに白熱し、時間を最も無駄に消費する。

とまあ、オリンピックに関連した国立競技場建設やエンブレムを「些細な問題」とは言わないまでも、国民がそれらに関して盛大にやいのやいのと言っているうちに、安保法制は影で(というほど影ではないが)着々と進行している。

最後に余計な話かもしれないが、これで佐野さんというデザイナーは、商売にならなくなってしまうんだろうなあ。気の毒に。

 

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