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2015年10月30日

よき師につくことについて

今朝の NHK ラジオを聞いていたら、「以前に(番組パーソナリティの)高橋源一郎さんが『楽しみは〜○○の時』と続く句を紹介していたのを聞き、それをきっかけに自分も始めて、作品が千句以上になりました」 という投稿があった。

こう聞いたら、フツーは俳句の話かと思うじゃないか。例えば「楽しみは新蕎麦の時喉鳴れり」みたいなのを想像したのである。ところが、よく聞いてみると短歌の話なのだった。「短歌だったら『句』じゃなくて『歌』 と言ってよね」とか、「数の話でも『千句』じゃなくて『千首』と言ってくれよ」とか、つい思ってしまうよね。

要するに、橘曙覧(たちばなのあけみ)という幕末の歌人の「独楽吟」の話だったのである。天皇皇后両陛下が 1994年にがアメリカを訪問した折、ビル・クリントン大統領が歓迎スピーチで「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」という歌を引用したとかで、世間の注目を浴びたことがあった。

番組ではその投稿者の「句」(本当は「歌」なんだけどね)を紹介していたが、はっきり言って「お下手」である。基本的に文法の誤りが多すぎる。連体形で続けるべきところを終止形にしちゃう(例えば「流るる○○」とすべきところを「流る○○」にしちゃう)ものだから、歌がずたずたに切れまくったりしている。

普通は、短歌も 500首以上詠めばかなり上達すると言われているが、1000首以上詠んでこの程度では、「ど」のつく素人芸でしかない。やはりよき師について習うことは必要なのだと思った次第である。それは短歌ばかりでなく、芸術一般、スポーツ、宗教的修行でも同じだ。

翻ってわが「和歌ログ」だが、はっきり言って師匠はいない。昔、かなり道を極めた先輩について指導していただいた時期があったが、今は離れてしまい、いろいろな本を参考にしながらの独学になってしまっている。そのせいでなかなか進歩しないのだろうが、昔の指導がなかったら、もっとヘボだったろうと思う。

ちなみに、私が短歌なんかやってると聞くと、「じゃあ、ここで一句お願いします」なんていう人がいるが、そんな時私は、「誰が詠むか!」と思ってしまう。短歌を「一句」なんていうのは、どうせ軽はずみな「ノリ」で言ってるだけの人なので、まともに請け合ってもしょうがない。(参照

 

 

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コメント

たのしみは 栓抜き注ぎ飲み干して いくつ空いたか 忘れをる時

投稿: 乙痴庵 | 2015年10月31日 19:28

乙痴庵 さん:

なるほど (^o^)

投稿: tak | 2015年10月31日 20:21

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