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2016年2月に作成された投稿

2016年2月29日

「シュッとした」は「コテコテ」の反対

大阪人の言う「シュッとした」ということの意味が、長いこと今イチよくわかっていなかった。ネット上の weblio 辞書 で調べると、「今風(の)、あか抜けた、研ぎ澄まされている、洗練された、スマートな、すっきりとした、締まっている、かっこいい、涼しげな、嫌らしさのない」と、ずいぶんいろいろなニュアンスが出てくる。なんとなくわかるが、「それで、つまり、どういうことなんだ?」 と、しっくりはきていなかったのである。

知り合いの大阪人に聞いても、「うぅん、要するに『シュッとした感じ』のことを言うんですわ」ってなことで、まあ、あまりにも感覚的すぎてよく伝わってこないのである。わかっている者には当たり前にわかるのだが、わかっていない者にはなかなか難物の言葉だ。

で、最近、京都出身で大阪と東京でも長く暮らしたことのある友人に聞いてみて、これまでよりなんとなくよくわかったような気がした。彼はしばらく 「うぅん、このニュアンスを説明するのは難しいなあ」と悩んでから、次のように言ったのである。

「誤解を恐れずメチャクチャ早く言ってしまうと、『コテコテ』の反対と思えばいいのかもしれない、そして、いい意味か悪い意味かといえば、それは明らかに『いい意味』の言葉だと思う」

なるほど、そうであったか!「コテコテの反対」が「シュッとした」感じだったのか。

東日本の人間からすると、大阪人の代表的キャラは「コテコテ」と思っているようなところがあるが、その対極として「シュッとした」という価値感があるとは、新しい発見だった。関西文化の重層性を見る思いがした。

そして気をつけなければならないのは、「シュッとした」感じというのは、東京的なスマートさとは一線を画していて、あくまでも関西的な洗練の形でなければならないようだということなのである。そうでなければ単なる「脱コテコテ」にすぎず、「なんや、あいつは、東京に染まってしまいよってからに」ということになりかねない。

 

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2016年2月28日

漢字の「保」の字をどう書くか

Img_4977この年になって初めて知ったのだが、保険の「保」の字の右下の部分は、カタカナの「ホ」ではなくて「木」と書くのだそうだ(参照)。私はずっと「ホ」だと思っていて、「木」という形に書いたことなんて、生まれてこの方、一度もなかったよ。

手書きで書くと、左のようになる。私はメモや署名など以外はワープロを使うことがほとんどなので、楷書で手書きすることなんて滅多にない。左は比較的ゆっくり書いた場合だが、大抵は右のようになる。自分でわかりゃいいのでね。

上でリンクした朝日新聞の記事によると、常用漢字表では「保」の字の右下部分は「ホ」でも「木」でもどちらも認められているのだが、文化庁の調査では 「20代の 8割以上が『木』だけが適切と答えたのに対し、70歳以上の 7割は『ホ だけが適切と回答」したのだそうだ。てぇことは、ナニかい。私は年寄りってことなのかい?

そういえば、最近は小学校の漢字書き取りテストなどでも、「とめ/はね」などにはうるさく言わなくなったらしいが、私が子供の頃はやたら杓子定規だった。「木」という字でも、縦棒をはねたりすると間違いとされていたのを思い出す。まったくナンセンスな基準だ。その辺りのことは、時代や字体によってどうとでも変化するのである。

そのやたら杓子定規な時代においても、私が「保険」の「保」の字の右下を「ホ」と書いても間違い扱いにはされなかった。それは当時の教師が、現在の「70歳以上」となるから、それこそが「正しい」と思っていたからなのだろう。もしかしたら「木」と書いたら、×印を付けられていたかもしれない。

どうも明治時代以降は「楷書」だけが正しい字体で、行書や草書は行儀悪く崩した字体だという思い込みがあるようなのである。しかし実際は、隷書が先にあり、その後に行書ができて最後に楷書が確立したらしい。だから最近まで甚だしかった小学校の杓子定規な漢字教育は、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

ちなみに、平仮名の「ほ」の字は、漢字の「保」の草書体から発生したものだ。上の画像の右側は草書体ってわけじゃないが、かなり「ほ」に近いよね。

 

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2016年2月27日

積極的休養ということ

仕事での移動が多い。移動の手段は飛行機、鉄道、クルマなど様々だ。そしてそれぞれの乗り物によって、疲労度というか、疲労の仕方が違う。

飛行機や鉄道での移動は、座席に座りっぱなしでいいのだから疲れないだろうと思いがちだが、これが案外疲れる。とくに腰に来る。腰痛で起き上がったり立ち上がったりするのが辛くなることもある。座りっぱなしという点ではクルマも同じで、やはり腰に来ることもあるが、私の場合は鉄道や飛行機ほどじゃない。

クルマの場合は自分で自由に休憩が取れるからいいのだと思う。腰に来そうになったら、高速道路のパーキングや一般道の道の駅なんかに駐車して、ストレッチングをすることができる。その代わり、運転中は寝ることができないが、飛行機や鉄道では睡眠が可能だ。私はどこでも眠れるので、これはありがたい。

というわけで、クルマでの移動は睡眠不足になりがちで、飛行機や鉄道での移動は腰に来るという結論になる。睡眠不足は着いてからぐっすり眠れば解消するが、一度腰痛になってしまうと、回復するのに時間がかかる。

ところで最近気がついたのだが、自転車での移動はかなり心地良い。往復 100kmぐらいだったら、時間さえ許せば自転車を使いたいと思うようになった。自転車で長距離移動をすると太股の筋肉は疲れるが、後々まで残る不快な疲労ではない。

じっと座っていた結果による腰痛などの静的な疲労はかなり厄介だが、自転車を漕いだ場合のような動的な疲労は、長引かないのだ。それどころか、長時間座りっぱなしだったことによる疲労などは、自転車を漕いでいるうちに解消してしまうこともある。これなんか 「積極的休養」 というのだそうだ。

というわけで、グダグダしていれば疲れないというのは幻想だ。マグロは泳ぎ続けていないと死ぬのに、人間は座りっぱなしでも腰に来て、寝ていても寝疲れするというのだから、まことに厄介なものだ。

ただ、適度な運動をする方が疲れないというのは実感である。このところ新幹線とクルマでの移動がやたら多くて、明日も自分で運転して福島県に行く。往復にそれぞれ 1日使っていいというなら自転車で行きたいぐらいのものだが、まあ、それは現実的じゃないから、帰って来てから自転車に乗りまくることにしよう。

 

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2016年2月26日

原発問題に関する福島県民の感覚

昨日は仕事で福島県の郡山市に行って来た。そして明後日はそのちょっと南にある須賀川市に行く。別の用事ではあるが、このところ福島づいている。

福島県に行ってまず話題になるのは、やはり原発の問題だ。あの震災から 5年近く経つわけだが、はっきり言って何も解決していない。郡山市は案外放射能濃度の高い地域であるらしく、市民はことさら恐れるわけではないにしても、自宅付近や周囲の濃度については多くの人が数値を知っている。気にしないではいられないようなのだ。

除染した土壌の処理に関しても、「あちこちに中間貯蔵されちゃっていて、30年後に県外に搬出するなんていっても、誰も本気にしてませんよ」と、かなり悲観的だ。「埋めてある墓所の目印だっていい加減で、30年経ったら誰もわからなくなっちゃうんじゃないかと、それが心配」と言う人も多い。

日本全体では原発事故の問題も案外風化しつつあるような気がするが、現場である福島ではまだまだ不安が大きい。「福島県内と県外では、温度差が大きいなあと感じる」と、多くの人が言う。その辺りの感覚は、沖縄の基地問題と似通っている。現場にいないと実感するのが難しいのだ。

「原発は安全」という神話に最も大きく裏切られたのは福島県民であり、その神話をいい加減な形で復活させようという動きには、大きな疑問を感じてしまうのも道理である。起きてしまったことは取り返しがつかないが、この問題をきちんと直視し続けることが必要と感じた。

 

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2016年2月25日

もみじマークと若葉マークの 2枚貼り

私はこれまで、「高齢運転者標識」(いわゆる「もみじマーク」)について 3回書いている。"「もみじマーク」 のメッセージ性" "再び 「もみじマーク」 のメッセージ性" "新しいもみじマーク制定から 4年半近く経って" という記事だ。

私はこの中で、もみじマークにかっこ良さなんか求めるのは本末転倒で、多少の哀れっぽさを感じさせてこそ本来のメッセージ性を発揮できると主張している。そして新しいもみじマークは時間と共にもみじ色の部分が早く色褪せて、若葉マークと区別がつきにくい色合いになってしまうとも指摘している。

知り合いの高齢者はもみじマークについて、ほとんどが「あんなマークは付けたくない」と言っている。「カッコ悪い」からだそうだ。しかし私は「もみじマークはカッコ悪いからこそ意味がある」と思っているので、自分のクルマに早く付けたいと思っているほどである。ただ、金を出して買うのも馬鹿馬鹿しいし、どこで売ってるかも知らないので、まだ付けずに走っているというだけだ。

ちなみにあのもみじマークは何歳から付けなければならないのか知らなかったので、ネットで調べてみると、Wikipedia には次のように説明されている。

70歳以上の者は、「加齢に伴つて生ずる身体の機能の低下が自動車の運転に影響を及ぼすおそれがある」場合には、この標識をつけて普通自動車を運転するように努めなければならないと、道路交通法は定めている。(道路交通法第71条の5第3項)

さらに「周囲の運転者はこの標識を掲示した車両を保護する義務を有し、幅寄せ・割り込みなどの行為を行ってはならないと定められており、違反者は初心運転者等保護義務違反に問われる」とある。やはり、このマークを付けていれば、安全性は高まるとみていい。

しかし、高齢ドライバーは必ずこのマークを付けなければならないかというと、そうではないらしい。次のように説明されていて、付けなくても罰則規定はないようだ。

道路交通法第71条の5第2項には、「七十五歳以上のものが高齢運転者標識を付けないで普通自動車を運転すること」 を禁じる規定があるが、この規定は、道路交通法附則第22条により、当分の間、適用しないこととされているので、現在、高齢運転者標識の表示義務及び違反者に対する罰則はない。

とはいえ、いくら罰則規定がなくても付ける方が安全性が高まるし、さらに70歳以下の運転者が付けてはならないという規定もなさそうだから、私が付けて走っても、何の問題もなさそうだ。問題がなくて安全性が高まるなら、付けて走りたいものである。

さらに考えてみると、もみじマークと若葉マークを並べて付けたら、「70歳過ぎて免許取り立てです」というアピールになる。これは安全性の確保という見地からは最強の組み合わせになるんじゃなかろうか。自分だって、この 2枚を貼り付けて走っている車を街で見かけたら、決して近付きたくない。

誰か 2枚一緒にくれないかなあ。タダでもらったら、明日からでも付けて走るのに。

 

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2016年2月24日

苦楽は分かち合うものさ

昨日の記事では 「出産や子育ての苦労なんてあまり強調するべきじゃない」 というようなことを書いた。しかし三日前の "「待機児童問題」では、誰もがちょっと身勝手だった" という記事では、「多くの人が子育て層の苦労を知らないか、過ぎてしまえばあっさり忘れてしまうのが問題」 と書いている。

つまり、三日前は「人の苦労を思いやれ」と言い、その舌の根も乾かぬうちに、昨日は「自分の苦労はあまり言うべきじゃない」と言っている。矛盾してることを言ってるじゃないかと突っ込まれる前に、「いや、矛盾してるわけじゃないよ」ということを書いておきたい。

人は他人の苦労を思いやる能力を、生まれながら備え持っている。6年も前の "Empathy の時代" という記事で私はそうしたことについて書き、さらに 5年近く前の "ネズミもすなる「思いやり」というもの" という記事の中で、動物行動学の見地からもそれは言えるということを書いている。

我々には 「ミラーニューロン」という神経があり、それは 「他人の笑顔を見ると我がことのように嬉しくなる働き」を司っているといわれる。人は自分の苦労をことさら声高に訴えなくても、他人が自然に共感してくれるものなのである。

我々は自分のミラーニューロンを、もっと解放してやる必要がある。

 

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2016年2月23日

いくら出産と育児が大変なことでも

Twitter で、ぬえさんという方のツィートが話題になっている(参照)。下に引用する。

以前、小学校の 「命の授業」 でお母さん達が出産体験を話してきかせるというものがあり。先生の要望で 「いかに痛く苦しく出産後も育児がどれだけ大変か」 を話し、締めは先生から 「ご両親に感謝しましょう」 だったのですよね。児童達は 「将来大人になっても子供イラネ」 と話してた、と娘から聞きました。

これに対する返信も、「出産が苦痛を伴うもので、生んでからも大変な苦労が続くと聞かされては、子供を産みたくなくなるのも道理」とか、「伝え方が間違ってる」とかいうものがほとんどだ。つまり完全に逆効果である。

さらに、こんな話を聞かされた後に「ご両親に感謝しましょう」という結論になってしまっては、子供としてはかなり複雑な思いにとらわれる。殊勝な「よい子」は意識的には「そんな苦労をしてまで産んで育ててくれた両親に感謝しよう」と思うだろうが、潜在意識にそれと反対の思いを閉じ込めてしまう。

まじめなよい子ほどその潜在意識では「自分はそんなにまで不当な負担を両親にかけてしまったのか」とコンプレックスをもってしまう。そしてその「負の意識」による認識的不調和を解消するために、「別にこっちが望んで産んでもらったわけじゃないわ」とか「勝手に産んだくせに、恩着せがましいことを言うんじゃないよ」といった言い訳的負の思いを心の隅に抱く。

「よい子」ほど表面的には「両親に感謝している」と思いつつも、実は単に「親をまつりあげているだけ」となるのは、この認識的不調和を解消するためだ。借金してしまったら、誰だって態度のでかい金貸しとはあまり頻繁に付き合いたくない。

しかしそうした思いは望ましい自己肯定感をスポイルし、人生を意味のないつまらないものと考える傾向に結びつく。私は高校時代に「人生に意味がないなら、自分で意味を付け加えればいいじゃないか。同じ付け加えるなら、死ぬ時に後悔しないような意味がいいよね」と、「人生はおもしろい」とする大方針を決めたのだが、そう思えない気の毒な人も多い。

さらにもうちょっと考えてみると、こうした「苦労したんだからエラい(エラいということにしておかなければならない)」 との勘違い的価値感は、日本社会全体を覆っている。

仕事においても、同じことをさらりと片付けて定時に帰宅するよりも、苦労して残業してやっと仕上げる者の方が「あいつはマジメ」なんて思われたりする。その上、大抵のことをさらりと片付けてしまうやつには多くの仕事が押しつけられて誉められもせず、時間のかかるやつは大した成果もあげてないのに「あいつは人より仕事してる」なんて評価されたりする。

人間誰しも、余計な苦労はしたくない。だから余計な苦労をしているヤツに対しては、無意識に 「自分の背負いたくない重荷を背負ってくれているヤツ」 として、そいつに借りを作っているような畏敬の念を抱く。だからそいつを「苦労を一手に引き受けてくれるありがたいヤツ」としてまつりあげておかないと、不安になってしまう。そうすることで、自分は余計な苦労から免れる。

私なんか「同じことなら苦労するより、楽しんでやる方がずっといいよね」と思っていて、実際そんな風にやっている。そのため周りから畏敬の念をもたれることがない代わりに、余計な貸借感情のような思いを押しつけることもないので、あまりゴチャゴチャにとぐろをまいた人間関係に悩まされることもない。

出産においても仕事においても、「自分はこんなに苦労したんだ」なんてことを強調してはいけない。それは世の中を無駄に面倒なものにする行為である。

 

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2016年2月22日

個人情報流出ということ

できる人に任せ過ぎ? 堺市68万個人情報流出事件、最大の問題」という日経コンピュータの記事を、やたら興味深く読んでしまった。堺市では、「高度な PC スキルをもつ職員」に、選挙管理システムなどの業務処理システムを作成させ、しかもそのためのデータの自宅持ち帰りなどを黙認していたらしい。

これが本当だとしたら(まあ、本当のようなのだが)、堺市役所というお役所は、その辺のデータ管理にルーズな中小企業と同じか、それ以下のレベルの機密情報管理しかしていなかったことになる。堺市民はそうしたお役所に自らの情報を預けていたわけだ。

ただ、そうした状況というのは何も珍しいことでもなんでもなく、どこでもあり得ることだと、私は思っている。それは自分の経験から実感をもって言えることだ。

昔、某団体に勤務していた頃、私はその組織の中でピカイチの「高度な PC スキルをもつ職員」で、まさに業務システムをいくつも作成していた。当時はいわゆる「バブル崩壊」で団体の収入が激減しており、PC を使った業務効率化を行わなければ団体運営ができなくなるという時代だったが、まともに PC を使える職員なんて他にいなかったので、そうした仕事はすべて私の元に集中していたのだ。

だから仕事上のデータの管理なんてまさにやりたい放題で、データを持ち出してその辺の闇市場に売る気になったらいくらでもできる状態だった。まあ、私はそんなことはしなかったのだけれどね。このあたりのことはかなりの部分で個人のモラル次第ということになるし、モラルの問題はなくても技術の問題で心ならずも漏れてしまったりするリスクも高い。

当時の情報は今でも私の手持ちのハードディスクの中にある。このハードディスクはネットから切り離されて、棚の奥で眠っているので流出の心配はないし、たとえ誰かが物理的に盗み出してネット上に公開したとしても、情報として古すぎてあまり価値はないだろう。しかしちょっと前だったら、漏れたりしたら問題になっていただろうと思う。

私の知り合いの在籍する某超大手企業などでは、こうした問題にものすごく神経質になっていて、職場へのスマホの持ち込みさえ制限されており、自宅でプライベートに使っている PC の中身まで抜き打ち査察するという「それって行きすぎもいいとこじゃん!」と言いたくなるほどの管理が行われているらしい。それに比べたら、堺市の情報マネジメントは、20年前の私の職場と変わらない。

繰り返すが、生ぬるい情報管理は珍しいことでもなんでもなく、個人情報なんていうのは知らないところでどんどん流通している。例えば、それなりの世界では「クレーマー情報」なんていうのはずいぶん知れ渡っていると思う。

要注意人物の使用する電話番号なんていうのは、結構広い範囲で共有されているはずで、彼または彼女が新しいケータイを買ったとしても、新しい番号はすぐに知れ渡るだろう。だから企業の苦情受け付け部門に彼らから電話がかかった時点で、すぐにスクランブル体勢になる。

もし番号非通知で電話したとしても、話の初めの方の段階で、「あ、こいつ○○ってやつだな」とバレて、それなりの対応がなされる。企業としても、そのくらいの防衛体制は敷いているはずだ。

常習クレーマーではないフツーの市民でも、自分の個人情報なんて既にあちこちに漏れているはずで、娘の成人式が近付くだけで、あちこちの着物屋から DM が殺到したりするなんていうのは、まさに序の口である。

 

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2016年2月21日

「待機児童問題」では、誰もがちょっと身勝手だった

病児保育問題に取り組む「フローレンス」 という NPO 法人の代表理事、駒崎弘樹さんが、"「保育園落ちた日本死ね」と叫んだ人に伝えたい、保育園が増えない理由" (2月17日付)、"政治が子育て層を簡単に無視できる、投票率以外の大きな理由"(同 19日付) という、とても興味深い記事をご自身のブログに書かれている。

ええと、「保育園落ちた日本死ね」というのは、大方は既にご存じのとおり、ひょんなことからかなり有名になった匿名ブログの記事である。この件についてうっかり見落としのある方のために触れておくと、保育園の申し込みに落ちたある母親が憤慨の気持ちを率直に書いたもので、駒崎さんのブログはそれに関して書かれたものだ。

17日付の記事で駒崎さんは、「政府は保育園をたくさん作っているが、待機児童の数は減らない」と述べ、その理由として「予算の壁」「自治体の壁」「物件の壁」という構造的な問題があると説明している。そしてこの壁を打ち破るためには、怒りの活動をすることが大切だとしている。

さらに 19日の記事では、子育て層が政治的影響力を行使できないのは、彼らの投票率が低いばかりでなく、彼らが「当事者」であり続ける期間が短く、子育て期間を卒業すると政治的な声をほとんど上げなくなることが問題だと指摘されている。なるほど、それはかなり大きいだろう。

私は政府や自治体が保育園問題に積極的に取り組まないのは、政治家の妻の多くが専業主婦で、保育園問題に全然ピンときてないからなんだろうと、皮肉に思っていた。待機児童がどんんなに増えても、基本的に他人事だと考えている。一方老人問題は、誰でも年をとるから政治家にとっても他人事ではなく、さらに老人の投票率も高い。だったら、どうしても高齢者対策のプライオリティが高まり、保育児童対策は後回しになる。

私のこの発想からは、駒崎さんの 17日付記事で指摘された内容までなら容易にたどり着ける。しかしうかつながら、「子育て層の当事者意識をもつ期間が短い」 ということまでは気付かなかった。なるほど、これでは政治的な影響力をもつことは難しい。

待機児童問題の当事者意識を、子育て層だけではなく、社会全体でもつことが大切だったのだ。まあ、今までだってまったく無関心だったわけじゃないが、当事者意識を「切実にもつ」というところまではいっていなかったのだね。

誰もが「ちょっと身勝手だった」ということを、反省しなければならないと思った次第である。

 

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2016年2月20日

まんざら三日坊主でもなかった私

車を運転しながらラジオを聞いていると、「皆さんが長く続けているのは何ですか?」という特集で、聴取者からいろいろな反応があった。運動とか、趣味とか、園芸とか、まあ人にはそれぞれ長く続けているものがあるもので、鉄道模型の趣味を長く続けている人なんて、家の中が線路だらけになっているらしい。

翻って私の「長く続けているもの」って何だろうかと考えてみると、全然思いつかない。何をやらせても長続きしないのである。ちょっとかじったものならくさるほどあるが、長く続けてはやっていない。そう考えるうちに、「ああ、俺にもあった!」と思いついた。

私が自信をもって 「長く続けている」 と言えるのは、他でもない 「三日坊主」 である。うむ、なかなかいいパラドックスじゃないか。これからは 「何か長く続けていることがありますか?」と聞かれたら、「あります。物心ついてこのかた、ずっと三日坊主を続けてきました」と答えることにしよう。

そう思って妙に悦に入っていたのだが、しばらくして「ありゃ、そうじゃなかった」と気がついた。ほかならぬ、この "Today's Crack" と「和歌ログ」の 2つのブログがあった。両方とも 10年以上毎日更新している。1つのブログを毎日更新している人はいくらでもいるだろうが、2つでそれを続けているというのは、レアな存在だろう。

私はずっと「自分は何をやらせても三日坊主だ」と思ってきた。それが案外そうじゃないと、今日初めて気付いたのだった。人間、自分でも気付いていない自分というのがあるものである。2つのブログの更新はあまりにも当たり前すぎるものになってしまっているので、あまり意識されていなかったのだ。

 

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2016年2月19日

スイセンという花について

花の名前がわからない。もう一つのブログで「和歌ログ」なんてものをやっているので、花の名前がわからないようでは歌も詠めないと、できるだけ人に聞いたり自分で調べたりして、なんとか若い頃よりはどの花がどんな名前だかわかるようにはなったが、いかんせん、近頃では一つ覚えると三つ忘れる。困ったものである。

本日の「和歌ログ」では、「スイセン」という花を詠んだ。水仙なんだからそれでいいじゃないかというようなものだが、どうも同じスイセンでも、主なところでもニホンズイセンとラッパスイセンというのがあるらしい。ニホンズイセンはその名の通り日本に元々あった種類だが、ラッパスイセンは西洋から来た外来種だというのである。

昔なつかしいフォークソングに『七つの水仙』というのがあり、原題は "Seven Daffodils" という。だから私はずっと、「スイセン」は英語で 「ダーフォディル」 というのだと思っていたが、改めて辞書を引いてみると、スイセンの仲間の総称は "narcissus" というのだそうだ。

そういえばギリシャ神話で、ニンフのエコーをふったナルキッソスが復習を受けて自分しか愛せないようになり、湖に映る自分の姿に恋い焦がれて死んでしまい、スイセンの花と化してしまったというのがあった。なるほど、だから「ナルシサス」なのか。

じゃあ、「ダーフォディル」は何なのかというと、これこそが「ラッパスイセン」なんだそうだ。あのフォークソングも本当は「七つのラッパスイセン」ということなのだが、それじゃあちょっと歌の文句にならないので、「七つの水仙」になってしまったわけなのだね。それに "Seven Narcissuses" では、ラブソングにならない。

というところまではわかったのだが、ぱっと見ただけでニホンズイセンとラッパスイセンの区別がつくようには、なかなかならない。

他にもツバキとサザンカ、ツツジとサツキの違いがどうしてもわからない。本当になんとかならないものかなあ。

 

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2016年2月18日

「@homepage」が終了してしまうとのことなので

そうそう、うっとうしい知らせが nifty から届いていたんだった。「@homepage サービス終了のお知らせ」というやつである。「@homepage」というのは、これまで nifty が提供してきた web サイトのサービスで、私が「本宅サイト」と呼んでいる 「地のヴァーリトゥード」というサイトも、この「@homepage」というサービスを使って構築している。

で、nifty としては今年の 9月 29日をもってこの「@homepage」を終了して、「@niftyホームページサービス」に一本化するのだそうだ。「何それ?」と思ったが、「@homepage」と「@niftyホームページサービス」というのは別物で、後者は例の "LaCoocan" というドメインネームで展開されてるアレのことらしい。

私のインターネット活動の主力は、既にこのココログの "Today's Crack" になってきているわけなのだが、本宅サイトにも結構重要なページがある。クリスマスが近付く度に異常にアクセスが増える 「サンタクロースは本当にいる」 というページなんて、いつまでも存続させたいものの一つだ。
(注: Lacoocan への移転を開始したので、上記のページへのリンクは、3月23日に修正した)

そうでなくても本宅はあくまで本宅なので、残さなければならない。そうでないと、このブログだって根無し草みたいになってしまうような気がする。ただ、移行するのが面倒くさいなあ。どうせ移行するなら、いっそ独自ドメインにしちゃおうか。

いろいろ考えているところだが、まあ、いずれにしても近いうちに結論を下して、本宅サイトを新しいドメインに移すことになると思う。そうなると、これまでの実績で Google 上位に来ているページも、一から出直しになってしまうのかなあ。そうなると、なんだか手持ち不動産の資産価値が下落してしまうみたいな気がしてしまうのだよね。

あ、そうそう、私の場合は、「和歌ログ というサイトも「@homepage」で公開しているので、移行作業が 2度になってしまう。ああ、うっとうしいなあ。

 

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2016年2月17日

ココログのログイン、回復

一昨日は旅に出る前に自宅でブログを更新し、山口県某市の某ホテルに夜にチェックインしてインターネットに接続しようとすると、LAN 端子がない。フロントに問い合わせると、「当館内は無線 LAN でインターネットに接続できます」という。パスワード入力の必要もないフリーアクセスらしい。この時点で、何だかヤバい気はしていた。

案の定、その無線 LAN に接続してみるとめちゃくちゃスピードが遅い。とにかくどのサイトにアクセスしても延々と待たされるので、諦めてメール・チェックなどはすべて iPhone で済ませた。ネットで予約する際に「インターネット接続可」という条件をチェックしたのだが、こんな遅いのでは、お話にならない。接続は辛うじていしているが、受信はしないという感じだ。

そして昨日は仕事が伸びてしまったので、急遽広島県内のホテルを予約して泊まったのだが、そこもインターネット接続が問題ありすぎだった。LAN ケーブルにモバイル・ルータをつなぎ、Mac で Wifi 接続しようとしたのだが、またしてもとにかくスピードがのろい。前夜のホテルほどではないが、とにかく我慢できないぐらいである。

そして、ココログの管理ページにログインできなかったというのは、昨夜の記事で書いたとおりである。ホテルのインターネット接続ではログインできないのに、iPhone の 4G 接続では問題なくログインできる。この辺りのホテルって、まともなインターネット接続サービスを提供する気があるのだろうか。

で、今日帰宅してからいつもの Wifi 環境でログインしてみると、何の問題もなくスルリとログインできて、この記事を書いている。一体どうなってるんだかわからないが、こういう不具合の発生することがあるというのは覚えておこう。

 

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2016年2月16日

ココログのログイン不調

今日は出張中で広島県のホテルにチェックインしたのだが、PC でココログの管理ページにログインすることができず、難儀している。

とにかくこのホテルのインターネット接続サービスからして重すぎて話にならないのだが、その上、ココログのログインページにアクセスしようとすると、延々待たされて、ついには「このウェブページにはダイレクトループが含まれています」という表示が出て止まってしまう。

iPhone でアクセスすればつながるのに(この通り、今現実に iPhone でログインしてこれを書いている)、Mac では入れないのだ。ホテルのインターネット接続に問題があるんじゃなかろうか。

このまま iPhone で記事を書きたいところだが、今日はハードな一日だったせいで目が疲れていて、iPhone の小さな画面で長文を書く気になれない。

というわけで、今夜はこのまま寝落ちします。おやすみなさい。

 

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2016年2月15日

英語なんて記号か装飾にすぎないのだから

Img_4819

えぇと、左の写真は我が家の近所の不動産屋兼リフォーム屋兼その他モロモロ屋の店頭の表示である。(クリックで拡大表示される)

"Tochi・Tatemono" "Reform・Renovation" "House selection" とある。1行目の "Tochi・Tatemono" というのが、なかなか泣かせる。

ちょっと洒落て英語の表示にしてみたかったのなら、一番上の部分も "Land・building" ぐらいにすべきだった。(いずれにしても「ナカグロ」で区切るのは変だけどね)。ところがこのような、日本語ローマ字と英語の混在になってしまったのはどういうことなんだろうか。

ちょっと考えてみて、その理由がわかったような気がした。この表示は 「日本語ローマ字と英語の混在」 なのではなく、徹頭徹尾 「日本語」 なのだ。その 「日本語」 を、たまたまアルファベットを使って表記しただけなのだ。

これを発想の元の表記に戻すと、こうなる。

土地・建物
リフォーム・リノベーション
ハウスセレクション

そう、元々は多分、というか、ほぼ確実にこういうことだったのだろう。なるほど、これなら普通によく見る看板そのものである。それを 「ちょっとお洒落に」書いてみただけなのだ。

結果、1行目はローマ字で "Tochi・Tatemono" になり、2行目以下は元が英語なので、一応元のスペルで表記してみただけなのだろう。2行目が 「ナカグロ」なんかで区切ってあるのも、「あくまで日本語」と考えれば納得がいく。

じゃあ、なんでまた結果的に「日本語ローマ字と英語の混在」となる表記にしてしまったのか。上述のように、漢字カタカナ混じりのままで表記してしまえば、いっそすっきりわかりやすいのに。

それはもう、「英語みたいに書く方がカッコよく見えるから」という思い込みの産物にすぎないのだろう。「意味が通じる/通じない」とか 「表記の一貫性」 とかいうのは、全然問題じゃない。どうせ英語なんてのは「カッコよく見える記号か装飾みたいなもの」にすぎないのだから。

なにしろ 2020年には東京オリンピックが開かれて外国人が増えるから、日本の看板もこのくらい「国際的」にしておかなきゃ恥ずかしいしね。

 

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2016年2月14日

春一番とその反動

昨日の四国に続き、今日は関東、東海、北陸、中国地方で春一番が吹いたようだ。東京では夏日直前の 24.7℃ まで気温が上がったという。つくば周辺はそこまではいかなかったが、とにかく妙に暖かすぎたから、たまらず冷房を入れてしまったところもあったんじゃなかろうか。

ところが明日はまた冬型の気圧配置に逆戻りし、寒さがぶり返すらしい。春一番の直後に一転して冬の寒さになるというのはお馴染みのパターンである。日本付近で低気圧が発達して南風が強まったら、それが東に進んだ時には自然に強い冬型になる。低気圧が強ければ強いほど、その反動としての冬型も強くなる。

最近は天候が極端から極端に振れがちだから、やたら暖かい南からの強風をもたらした強力な低気圧が東に進めば、今度は北西から冷たい空気をぐいぐい引き込むのが当然の成り行きだ。これも「天気の極端化」の一環である。

明日は山口県に出張する。明後日早朝からの海上での取材のために前泊することになる。明日が冷え込んで、明後日の早朝までは寒風が強くて寒いままになるだろうから、覚悟して出かけなければならない。

 

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2016年2月13日

ゴロゴロ野菜が苦手

まあ、他人にとってはどうでもいいような私事にわたる話で、その中でもとくに馬鹿馬鹿しいことのような気もするが、今日のところはとりたててはかばかしいネタもないので、ちょっとだけ書きおくことにする。

それは「ゴロゴロ野菜」が苦手ということである。馬鹿馬鹿しいネタと断っておいて正解だったと思う。とにかく、カレーやシチューに入っている大きめに切った野菜が苦手なのだ。

私は常日頃「好き嫌いは一切ない」と公言している。「嫌いで食べられないもの」なんて一つもない。イナゴの佃煮や蜂の子やヘビの丸焼きみたいなものでも、何でも食べる。よっぽど味付けに失敗したとか、真っ黒焦げを通り越して炭になってしまったとかいう極端なものを除けば、本当に何でも食べる。

しかし好き嫌いというのではなく、「物理的に食べにくくて苦手」というのがある。それが「ゴロゴロ野菜」なのだ。大きな口を開けて大きな野菜を食べるのが苦手なのである。とくに一昨年、顎関節症(要するに、顎が外れかけたのだ 参照)を経験してからというもの、ますます大きな口を開けるのが苦手になった。あくびをしただけで、今にも顎が外れそうな気がしてしまうのだよ。

まあ、ゴロゴロ野菜が苦手なのは昨日や今日に始まったことではなく、顎関節症を経験する前からのことだった。ウチの家族は私を除いてゴロゴロ野菜が好きなようで、妻が作るカレーやシチューは決まって大きめに切った野菜が入っている。そして私が作ると野菜はすべて賽の目切りなのだ。この点に関しては夫婦で流儀が全然違い、まったくかみ合わない。

娘たちは「どうしてお父さんがカレーを作ると野菜が小さいの? 大きい方がおいしいのに」と、いつも言っていた。私としても昔 「口を大きく開けて食べるのが苦手」というのをあまり明確に自覚していなかったこともあり、「これが本式なのだ」なんて言っていたのだが、言ってる当人も言われた家族も、あまり納得はしていなかったのである。

ところが顎関節症を経験することで 「口を大きく開けて食うのが苦手」とはっきり自覚できてしまった。それで今や、私の作るカレーの野菜がすべて賽の目切りという根拠が周知徹底されてしまったのである。世の中、何が幸いするかわかったものじゃない。

ただ、家族は相変わらずゴロゴロ野菜が好きなので、私用の皿は、食べる前に専用ナイフでメッタメタにカットするということになっている。私としては、自分の皿だけでなく、鍋の中身を全てメッタメタにカットしてしまいたいぐらいなのだがね。

私が大きな口を開けるのが苦手なのは、やはり日本一の地吹雪地帯で生まれ育ったせいなのかなあ。いや、それはあまり関係ないと思うのだが。

 

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2016年2月12日

製造業の国内回帰

"「海外生産が安い」はもう古い、エプソンの国内回帰戦略" という日経テクノロジーの記事を読んで、「そりゃ、もっともだ」と思った。エプソンによると、「2013年以降、労働集約型の海外工場に比べて、自動化設備を積極的に導入した国内工場の方が労務費の面で安く抑えられている」 のだという。そうなるのはごく自然なことだと思う。同社は次のように説明している。

2012年までは、国内と海外の製品内労務費の差が10倍以上あった。2013年に国内の生産設備の自動化を進め、生産性を10.5倍に向上させた。この取り組みは組み立てセル間の搬送や除給材といった作業もロボットに置き換えるほど徹底したものだ。

国内の人件費の上昇率は 2~3%。一方、海外での人件費の上昇率が年間で 10~15%である。この結果、同社は 2020年には国内と海外の製品内労務費の差は3.5倍に縮まると見積もる。自動化された国内工場の労務コストはほぼ横ばいなので、国内工場の方が、コスト競争力で大幅に上回ることになる。

さらに国内生産によって経営リスクが排除できること、生産拠点と研究開発拠点を密接に連携させ、知識集約が進められることも大きなメリットになる。こうしたトータルなメリットを勘案すれば、国内生産は海外生産を上回る競争力をもつことになる。とくに最近の中国経済の不透明さは、将来を悲観視するに十分な材料である。

こうしたストーリーは、労働集約型の典型と思われている繊維産業でも可能なことと、私は前々から考えていた。私のキャリアは繊維産業でその大半が形成されているのであろ。

繊維産業の中でも織布や丸編みなどの分野はかなりの部分、装置産業化している。同じ原料と同じ機械があれば同じ製品が生産できるのだ。こうした工場を取材するにつけ、私は「これならどこで作っても同じじゃん。どうせ同じなら、近い方がいいじゃん」と思っていた。きめ細かい生産コントロールに対応できる国内工場の方が、有利になる時がくる。

思ってはいたが、本格的にその有利性が表れるには時間がかかるのもしょうがないとも考えていた。その有利性を発揮する前提条件が徹底したロボット生産ということなので、多額の初期投資が必要になるからである。これまで日本の企業はバブル崩壊からずっと続く景気低迷で、それを行うだけの体力がなかった。

しかし今、そのチャンスが巡ってきている。もしかしたら最後のチャンスかもしれない。

定番品ばかりを大量生産するという「少品種大量生産」なら人件費の安い国の方の有利性が継続するだろう。しかし「多品種少量生産」なら国内生産の方が有利だ。製品の品質管理、出荷コントロールなど、目に見えない部分で国内工場の方がノウハウをもつからである。

徹底したロボット生産が前提なら雇用は増えないので、国内経済への好影響は限定的と思われるかもしれないが、そんなことはない。周辺の品質コントロール、IT 産業、部品産業、ロジスティックスなどが、総合的に発展する。

これまで日本の製造業は、オフショア・ビジネスに過度に傾斜しすぎていたと思う。そろそろ揺り戻しがきてもいい頃だ。その動きは徐々に出始めている。

 

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2016年2月11日

家庭用ビデオが売れないのはもっともな話

近頃、家庭用ビデオカメラが売れないんだそうだ。そりゃそうだろう。動画なんてデジカメやスマホで獲れるんだから、いくら小型化したとはいえ、あんなものを持ち歩く必要はない。

家庭でビデオを撮るケースというのは、赤ん坊やペットのちょっとした可愛い動きを記録するほかは、子供の習い事の発表会とか運動会の記録ぐらいのものだ。言うなればちょっとした自己満足のための「記録」でしかない。だったら、デジカメやスマホで十分だ。

本格的なムービーを撮りたいのなら家庭用ではなく業務用の機材が必要になるが、ごくフツーに考えればそんなものが求められる機会なんて滅多にない。だから家庭用ビデオカメラが売れなくなってしまうのももっともな話である。

そもそも自分で録画した動画を繰り返し見る機会なんて、あまり多くない。よほど芸術的な感性に自信があるなら別だが、旅行先で映した動画なんていうのもあまり大した作品にはならない。それよりも何枚かの静止画像を保存する方がずっといい。動画を見るのは時間がかかるが、静止画像なら一覧性があるので楽だ。

ちょっとした「面白動画」なんていうのも、見ていられるのはせいぜい 20〜30秒ぐらいのものである。「オチ」にたどり着くまで 2分や 3分もかかってしまうのでは、そこまで待ってくれる人なんてそうそういない。

こう考えると、一時かなり普及した家庭用ビデオカメラというのは一体何だったんだろうと、ちょっと呆然としてしまう。

ビデオカメラばかりではない。今の時代はスマホで代用可能な商品は売れない。その代表格が紙の百科事典で、これは既にほとんど死に絶えてしまった。そのほか、図鑑、録音機、万歩計、取り付け式のカーナビなどはどんどん市場性を失うだろう。

かくいう私も 10年前は「1台の多機能機より、複数の専用機」なんていう記事を書いていたのだが、たった 10年足らずで、市場は大きく変わってしまったのである。

今も 70歳以上の人の多くはスマホの多機能性に馴染めず、専用機を持ちたがる傾向が強いが、世代交代が進めば専用機の需要は加速度的に縮小するだろう。需要がなくなれば進化もストップするので、いずれは「昔は、そんなような機械があったよね」と言われることになる。

 

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2016年2月10日

「サーモントラウト」 のややこしい事情

ちょっと前からだと思うが、食品の表示で「サーモントラウト」というのが気になってたまらなかった。「それって一体何だ? そんな魚、聞いたことないぞ」と思っていたのである。

ところが手持ちの Wisdom 英和辞書で調べたら "salmon trout" というのがあって、「ウミマス」という訳語が載っている。ところが「ウミマス」というのをあちこち手を尽くして調べても、今イチよくわからない。辞書ってのもいい加減だなあ。

改めて調べてみると、日本でいうところの「サーモントラウト」は、いわゆる「ニジマス」を指しているのだという。だったらどうして素直に「ニジマス」と表示しないのか。一時は消費者庁も「わけのわからない名前で表示するのは問題だから、フツーに『ニジマス』と書いたらどうだ」と言いかけたようなのだが、最近は沙汰止みになっている。

そもそも「サーモン」も「トラウト」も同じサケ・マスの仲間で、英語圏では一般的に生育の過程で海に下りるのがサーモン、ずっと淡水に留まるのがトラウトとされている。で、私はサーモンは日本でいうところの「サケ(シャケ)」で、トラウトは「マス」なんだと思い込んでいたのだが、どうやらコトはそう簡単ではないらしい。

水産総合センター北海道区水産研究所のサイトにそれに関する記述がある(参照) 。ただ研究者特有のもってまわったわかりにくいテキストなので、私なりに要点をまとめると以下のようになる。

どうやら古来より日本においては、海に下りるサケマスの仲間は「サケ」と「サクラマス」の 2種類しかおらず、それらを称して「サケ」、「マス」と言ってきたもののようなのである。英語圏の、海に下りるか下りないかによって区分される "salmon/trout" とは無関係の呼称だ。で、古来「サケ」の方が高級扱いされてきた。

後年に至り、北海道や北洋方面への漁場の広がりによって市場に「カラフトマス」(和名)などが加わった。しかしそれまで「サケ」が別格扱いされてきた経緯があるため、「新参者はいっそ『サケ』と言っちゃう方が高級っぽいよね」ってなことで、それらに「ベニザケ」「ギンザケ」などの呼び名を付けて流通させちゃったというのである。とにかく魚の名前のこととて、地方によってもいろいろごちゃ混ぜで区別がややこしい。

いずれにしても北海道産の「ベニザケ」ってのは、私の故郷の山形県や新潟県の川を遡上してくる「サケ」とは、似てはいても別物だというのである。知らなかったよ。私はサケの中でも北海道産は紅色が強いので「ベニザケ」というぐらいに軽く考えていた。で、ベニザケの陸封種(海に下りないで育ったやつ)が「ヒメマス」なんだそうだ。ややこしいなあ。

ここで本来のテーマである「サーモントラウト」に戻ろう。これは「ニジマス」のことではあるが、いわゆる「シャケ弁当」に使っちゃうことが多い。本物のシャケは高いし流通量も限られていいるので、同じような赤い色をしたニジマスが代用品として使われているらしい。

しかしながら「シャケ弁当」ということにしちゃってるので、行きがかり上、原材料が「ニジマス」とは言いにくい。そこでちょっと英語っぽくボカして、「サーモントラウト」なんていう日本でしか通じない(いや、日本でもよく通じない)名前にして表示するようになったようなのだ。なかなかご都合主義である。

とはいえ、単純に「ご都合主義」とばかりも言い切れない側面もある。元々の「ニジマス」は海に下りない淡水魚だが、「サーモントラウト」はニジマスを海面養殖(沿岸の海水を使った養殖)したもので、天然のニジマスとは育ちが違うというのである(参照)。

さらに、シャケは生食できないが、海面養殖のニジマスは生食可能なので、回転寿司なんかで廻っている 「サケの握り」はみんな「サーモントラウト」なんだそうだ。おいおい、知らないうちにそこまで来てたのかい。そういえば、新潟名物の「鮭寿司」は、発酵させた押し寿司で、全然別物だしね。

というわけで、「シャケ弁当に使われるマス」 とか 「サケ寿司に使われるマス」ってなココロなのかどうか知らないが、「本籍は『ニジマス』だけど現住所は『シャケ』なんで、テキトーに『サーモントラウト』とでも呼んでちょうだい」ってなことになってしまったようなのだ。

こんなような複雑怪奇な事情で、消費者庁としてもあまり固いことばかりも言っていられないと静観しているみたいで、結果として「うーん、ごにょごにょ……」となっているのが現状のようなのである。

ああ、本当にややこしい。

 

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2016年2月 9日

ANA を選ぶ理由

海外はまた別の話として、国内の出張などで飛行機を使う時には、なるべく JAL は避けて ANA を選ぶようにしている。出雲空港に行く場合などはしかたなく JAL にする(羽田〜出雲間は、JAL しか飛んでないので)が、選べるなら ANA にすることが圧倒的に多い。

それは別に ANA の株を持ってるとか、JAL だと落ちそうな気がするとかいうわけじゃない。単に JAL と ANA を比べると、どちらかといえば ANA の方が居心地いいというだけの、ごく単純な理由からである。

さらにより明快に言ってしまうと、JAL の CA のお姉さん(あるいはおばさん)の、あの己の顔面に自信たっぷりにべったりと貼り付けたような、ことさら度満点の作り笑顔と、「お客様」を鳥肌が立つような猫なで声で 「うけくせめ」と発音する言い方が気持ち悪過ぎるからだ。あれこそ望ましいと思っているか、または気にならないという人も確実にいるのだろうが、少なくとも私は居心地悪くてしょうがない。

日本の百貨店とか旅客機とかの業界では、客に対して慇懃無礼なまでに接しなければならないと思い込んでいるフシがあり、サービス係のお姉さんの猫なで声が半ば伝統となっている。その昔、百貨店で「エレベーターガール」と称するお姉さん(あるいはおばさん)がいた頃は、「上へ参ります」を「うえぇめりめぇっ」(最後の 「めぇっ」で裏声にひっくり返る)と発音していたものだ。「うけくせめ」は、その流れを脈々と引き継ぐ発音である。

この気持ち悪さは圧倒的に JAL の方に色濃く残っていて、ANA の方はかなりマシだ。それで私は飛行機に乗るぐらいのことで背筋がぞくぞくっとしたくないので、できるだけ ANA の方を選ぶようにしているというわけなのである。

だが最近、ANA を選ぶ理由がもう一つあると気がついた。自分でもずっと無意識のままできて、最近ようやく意識化されたことだが。ANA の機内音楽がとても気に入っているのである。離陸前と着陸後に流れる音楽が、とてもいい気持ちにさせてくれるのだ。

この曲のタイトルが "Another Sky" で、葉加瀬太郎さんの作曲だと知ったのはつい最近のことである。道理でいい感じなわけだ。もしかしたら ANA をずっと選び続けてきたのは、この曲で機内から目的地に送り出してもらいたいという理由からだったかもしれない。

この曲を聴くと 「うん、いい旅が始まっているぞ」という気がするのだよね。音楽の力って、なかなかのものだ。ANA には私が生きている間だけでもいいから、他の曲に変えないでもらいたい。

 

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2016年2月 8日

レディー・ガガ、すげぇ!!!

今朝、何気なしにテレビのスイッチを入れて NHK BS1 を見ると、米国のスーパーボウルのオープニング・セレモニーをしているところで、レディ・ガガの米国国歌独唱が始まるところだった。この日の彼女は奇抜な化粧やコスチュームではなく、赤のスーツでシックに決めている。

歌が始まってすぐに、「レディー・ガガ、すげぇ !!! 」と思った。自分の国の国歌でもないのに、聞いていてこんなに震えるほど感動したのは初めてである。彼女、やっぱり天才だ。聞いている選手も観客も、完全に魅了されている。

今日はもう、これ以上の言葉はいらないだろう。YouTube の動画を見てもらうだけでいい。下のリンクをクリックしてご覧頂きたい。ただ、NFL としては自由にブログに埋め込まれないような措置を講じているようなので、まず画像の 「▷」 をクリックしてから、さらに 「YouTube で見る」 をクリックし、直接飛んでいただくことになる、

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2016年2月 7日

懐かしのシネサロン

なぜか急に、故郷酒田の「グリーンハウス」という映画館のことを思い出した。小さな田舎町の映画館ではあるが、知っている人にとってはとても大きな意味をもつ。その素晴らしさは、あの淀川長治さんが絶賛したというほどのものだった。詳しくは Wikipedia の記事をご覧いただければわかる。

グリーンハウスは昭和 51年 10月 29日の酒田大火の火元となって焼失した。映画館 1軒だけではなく、吹き始めていた強烈な冬の季節風に煽られて火は横へ横へと広がり、風下の 1767棟が焼け落ちた。繁華街の中心だったこともあり、私の高校時代までの思い出の街並みが、たった一晩で消え去った。

私は中学後半から高校時代に至るまで、グリーンハウスに入り浸った。とくに足繁く通ったのは、客席 14席というミニシアター、「シネサロン」 。正確な金額は忘れたが、当時 200円以下の低額で、田舎の一般の劇場では絶対にかからない、ハイブロウな洋画が見られたのである。

スクリーンの大きさは、畳 1帖より一回り大きい程度のものだったかなあ。私はあのこじんまりとした空間の小さなスクリーンで、昔の名画や、興行的な大成功を収めたわけではないが玄人筋には好評をもって迎えられたアバンギャルドな映画を、毎週のように見ていたのである。

私はこのシネサロンをたまらない懐かしさで思い出す。できることなら、もう一度でいいからあの小さな空間で映画を見たい。そしてそれは、『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』にとどめを刺す。

これはペーター・ヴァイスの前衛的な戯曲の映画化で、フランス革命時にジャコバン派に属して過激な共和制を主張していたジャン=ポール・マラーが、シャルロット・コルデーというジロンド派を支持する若い女性に浴槽で滅多刺しに遭って暗殺された事件を描いている。

ただしその描き方が劇中劇になっていて、事件当時シャラントン精神病に実際に入院していたマルキ・ド・サドが、この病院の患者たちを俳優として使い上演しているという設定になっている。

とまあ、設定からしてかなりややこしいうえに、劇中劇(いや、この場合は映画中劇という方がいいかな)の演出がまたとびきり前衛的なので、わからない人にはさっぱりわからなくて、死ぬほど退屈ということにもなるだろうが、演劇好きにはたまらない映画だった。

高校生の私は「こういう演劇に浸りたい!」と思いながら、わくわくして見ていた。

ああ今どき、あんなに心躍るような前衛的フィルムを、劇場映画として見られることは稀になってしまった。そうした稀なタイプの映画を、もう一度小さなハイブロウなシネマ空間で見たい。私の小さな、しかし途方もない願いである。

 

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2016年2月 6日

清原って、一人でメシの食えない男なんだろうな

世間は元プロ野球の清原なんとかが覚醒剤をやっていたという話題でもちきりである。私は元々プロ野球にあまり興味がないし、清原という男も、もしかして一緒に酒飲むことがあっても絶対に話が合わなそうだし、「付き合ったらややこしいことになりそう」感覚を思い切り発散させているので、完全に別の世界の人間と思っていた。

だからこの件に関しては、ほとんどコメントすることがないようなものなのだが、ひとつだけ言ってしまうと、「清原って、一人でメシの食えない男なんだろうな」と思ってしまうのである。子分を引き連れて賑やかに飲み食いするのでないと、淋しくてたまらなくなるタイプなんじゃあるまいか。対象的に、桑田の方は一人メシが好きそうだ。

私は人を判断するのに「一人でメシを食えるか食えないか」を基準としているところがあって、先月 25日の当欄でも書いている(参照)ように、「一人でメシの食えないやつは、ろくなもんじゃない」と思っている。その意味で清原は、チヤホヤされているうちはいいが、一緒にメシを食ってくれる子分がいなくなったら、アイデンティティまで喪失してしまったんだろう。

世間では「スポーツマンは爽やかな男」と思われているが、当然ながらすべてのスポーツマンがさわやかなわけじゃない。気が小さくて嫉妬深くて、理屈が通じなくて、チヤホヤされてさえいれば機嫌がいいというタイプのスポーツマンは腐るほどいる。

だから体育会系って、人間関係が案外うっとうしいのだよね。私も体育会系に足を突っ込んで生きていた時代があったから、その辺の面倒くささは、うんざりするほどよくわかる。「付き合ったらややこしいことになりそう」という雰囲気には結構敏感なのだよ。

 

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2016年2月 5日

茨城県では選挙カーのウグイス嬢の口跡が悪すぎる

明後日の市議会議員選挙を控え、街中を選挙カーが走り回って、朝からうるさくてしょうがない。さっきはウチの町内を「くろがね しゅうほう」という変わった名前の候補の選挙カーがやたらゆっくり走りながら、イライラを通り越して滑稽なほどしつこい連呼を繰り返していた。

「この『くろがね しゅうほう』というヤツには、死んでも投票しないぞ」と思いつつ、ふと窓の外を見ると、その選挙カーが我が家の前を通り過ぎるところだった。まさに喧噪のピークである。ところがその看板をみると、なんと「ふる○て 千恵子」という名の候補だった。

その字面を見た上で、改めてよく聞けばそんなように聞こえないこともないが、何気なく聞いている分には「くろがね しゅうほう」と耳に残る。安物のスピーカーのボリュームを必要以上に上げているから、音が割れかかって明瞭に聞こえないしね。

致命的なのは、「千恵子」という名前の語尾を「こぅ」と無意味に伸ばしてしまうクセだ。「ちえ」の部分の発音のあいまいさとも重なって、「しゅうほう」にしか聞こえない。名字の方も妙に平板に近いアクセントなので「くろがね」に聞こえる。このウグイス嬢、口跡悪いにもほどがある。

いくら連呼を繰り返しても、有権者に候補者の名前が正しく届かないのでは意味がない。いや、実は私のように「こいつには死んでも投票しない」と思うような人間の方が多いだろうから、逆に届かない方が身のためなのかもしれないが、いずれにしても選挙カーを繰り出すだけ無駄というものだ。

もう一つ気になるのが、「○山×夫でございます」と連呼する時のアクセントである。ここ茨城県は北関東から福島、宮城にまでつながる 「無アクセント地帯」 と呼ばれるところの真っ只中で、アクセントがメチャクチャなのだ。

「ございます」 というのを 2音目の 「ざ」 にアクセントを置いて、「コバンザメ」とか「アノニマス」とか「5連勝」とかと同じ抑揚で言うウグイス嬢が多いので、やたらと野暮ったく聞こえる。そのため、ごく普通に平板に言うウグイス嬢の連呼が妙に都会的に聞こえちゃったりするのも、この地域特有の現象である。

いずれにしても、選挙というものがこれだけ「なんだかなあ」と言いたくなるような馬鹿馬鹿しさを感じさせてしまうと、投票率が上がらないのも、もっともという気がしてしまうのだよね。

 

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2016年2月 4日

スマホのスクリーンロックは、3割しか設定していない

ジャストシステムの「モバイル&ソーシャルメディア月次定点調査(2016年 1月度)」によると、「スマホのスクリーンロックを設定しているのは 3割、“肌身離さない”は男性で 2割」ということなんだそうだ。びっくりである。

なにがびっくりかというと、「スマホのスクリーンロックを設定しているのは 3割」ということについてだ。「“肌身離さない” は男性で 2割」 の方は、私も家にいる時はテーブルに置きっぱなしだったりするから全然驚かないが、スクリーンロック(パスワードによる画面ロック)を 3割しかしていないというのは、やはり驚きだ。

私の iPhone の「連絡先」 には、数えたことはないが、多分 1000人以上(もしかしたら 2000人近く?)の個人情報が入っている。もし私がどこかに iPhone を置き忘れてしまって、スクリーンロックを設定していなかったとしたら、下手するとこれらの個人情報がダダ漏れになってしまう。

そうならないためにも、スクリーンロックぐらいはしておくのが礼儀みたいなものだと思うがなあ。礼儀という言い方がおかしければ、「保険」と言い換えてもいい。保険料のいらない保険なんだから、設定しておくに越したことはない。少なくとも私は、私の個人情報の入ったスマホにスクリーンロックがかけられていないと知ったら、あまりいい気分ではない。

だがよく考えてみると、スマホを起動する度にパスワード(パスコード)を入力しているように見受けられる人って、そういえば周囲を見回しても少数派のような気がする。「いちいち入力するのが面倒」なんていう人もいるが、そんなことを面倒がっていたらスマホ操作自体が面倒でしょうがないだろうに。

この記事には "「お風呂に入っているときでもスマートフォンを持って行くことがある」が 10.2%、「専用のアプリを使用して写真や動画にロックをかけたり、隠したりしている」が 7.7%" というのもあって、さすがに笑ってしまった。よっぽどヤバい写真や動画を保存してるんだろうね。

 

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2016年2月 3日

MS オフィスのツールバーのアイコン

Word2ふと気付いたのだが、MS Office のツールバーの「保存」 を表すアイコンが、どうみてもフロッピー・ディスクの絵のようなのだ。そういえばその隣の「印刷」のアイコンも、大昔のインクジェット・プリンターそのものである。

これ、私が Windows で Office を使い始めた 22年ほど前からずっと変わっていないと思う。確かにその頃は CD-ROM すら普及途上で、ソフトウェアの多くはフロッピー・ディスク10枚近くに小分けされて提供されていた。今となってはそんな時代を知らない人の方が多いかもしれない。

Microsoft ってつくづく変な会社だと思う。OS の画面や Office のリボンとやらなどをいろいろ変えて、古くからのユーザーをやたら戸惑わせるのに、アイコンのデザインだけは妙に保守的だ。

どうせ変えるならこの辺の絵を変える方がずっと簡単だし、ユーザーも戸惑わずに済む。逆に言えば、最近の若いユーザーはフロッピー・ディスクや二時代も前のインクジェット・プリンターの絵を見ても、直感的にはその意味が理解しにくいかもしれない。

と思っているのだろうか。大抵の操作はメニューバーとリボンですることを前提として、ただツールバーに慣れた古くからのユーザーのためだけに、古式ゆかしいデザインを保存しているのかもしれない。

いつも思うのだが、MS のプログラムは一つの操作をするための入り口が多すぎる。同じ操作をするのに、メニューバーやツールバーから、あるいはリボンからと、いろいろな道を辿れるのは、プログラムを知り尽くしたヘビーユーザーにはいいのだが、初心者にはややこしい。それにいくら入り口があっても、実際には「右クリック」で絞り込んだメニューを出す方が楽だし。

やっぱり MS の体質というのは、基本的に 「パソコンオタク」 の会社なんだろうという気がするのだよね。

 

 

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2016年2月 2日

選挙カーの連呼と、投票依頼の電話

私の住む街では 2月 7日が市会議員選挙の投票日なので、選挙カーが候補者の名前を連呼し続けている。はっきり言ってうるさくてしょうがない。

この「連呼」というのは誰が考えても馬鹿馬鹿しいことだが、日本の公職選挙法では、動いている選挙カーでは候補者名の連呼をすること以外は許されていない。これは私の本宅サイトの「選挙カーの 「連呼」 は 「迷信」 から生じているらしい」というページから日本中に知れ渡った驚愕の事実である。

その根拠を示そう。公職選挙法の条文だ。

(車上の選挙運動の禁止)
第141条の3 何人も、第141条 (自動車、船舶及び拡声機の使用) の規定により選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない。ただし、停止した自動車の上において選挙運動のための演説をすること及び第140条の2第1項 (連呼行為の禁止) ただし書の規定により自動車の上において選挙運動のための連呼行為をすることは、この限りでない。

もう何度も書いたことだが、「選挙運動のために使用される自動車の上においては、選挙運動をすることができない」というのは、日本一シュールな法律条文である。つまり公選法 第141条の3 では、「選挙運動のために使う選挙カーでは選挙運動をしちゃいけないんだけど、連呼行為だけは許してあげる」 と、実に馬鹿なことを言っているのである。

こんな馬鹿な法律のせいで、選挙期間中は選挙カーの連呼で実にかまびすしいことになる。とくに市議会議員選挙みたいな身近な選挙だと、街中が選挙カーであふれかえるので、たまったものではない。

連呼しかしちゃいけないというので、「地元の ○○××です。よろしくお願いいたします」なんていう、ちょっとすれすれの言い方が多くなる。市議会議員選挙だもの、地元で当たり前じゃないかと思うのだが、どうも「地元」という言葉は人の心をくすぐるらしい。

投票日の 2〜3日前になると、いろいろなところから投票依頼の電話がかかってきて、これはもう、選挙カーの連呼よりもうっとうしい。私は投票依頼電話が来たらたった一言、「もう期日前投票を済ませました」と言うことにしている。すると向こうも「頼んでも無駄なヤツ」ということで、あっという間に電話を切ってくれる。それはもう、薄情なほどの素っ気なさに切り替わるので、びっくりするほどである。

 

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2016年2月 1日

ヒラリーの悪いクセ

昨年 7月に「生き返ったヒラリー・クリントン」という記事を書いて、前回の大統領予備選の頃は賞味期限切れになっていたヒラリー・クリントンが「周回遅れで走っているうちに、いつの間にか生き返ってしまった」と書いた。しかし完全に生き返ったとも言えないみたいな様相を呈してきたようなのである。

本日(時差の関係でまだ結果はわからないが)開催のアイオワ州党員集会を控え、地元紙デモイン・レジスターが先月 30日に発表した世論調査によると、ヒラリー・クリントンの支持率は45%だったのに対し、バーニー・サンダースが 42%と猛追している。バーニーはインターネット世代からの支持が圧倒的らしい。(参照

ネット世代はいろいろな情報に不断に接しているので、リベラルで多様な価値観をもち、それを理解するバーニー・サンダースを支持しているというのである。サンダースの方が 74歳と、ヒラリーより年上なのに、若い層に支持されているというわけだ。

それに対してヒラリーは、「誰が大統領になる準備ができているだろうか?」と、自分のキャリアを強調する戦略に出ていると報道されているというのだが、私はこの記事を読んで「ああ、またこの女の悪いクセが出始めているな」と思った。何かツッコまれると典型的にステロタイプな反応をして、それで解決したつもりになっている。しかし実はそれでは「なんか違うな」と思われてしまうという結果を生むのだ。

ツッコミに対するヒラリーのお約束的すぎる反応は、実は逆効果の方が大きくなってしまうのである。今回と同じような図式が、前回のバラック・オバマとの対決で如実に表れ、ヒラリーが急速にフェイドアウトしてしまったのを、教訓にしきれていない。

共和党のドナルド・トランプの「お約束から外れすぎた言動」が妙な共感を呼んでしまうという世の中で、ヒラリーの「いかにもスマートだがお約束的すぎる」言動は、実は米国人の気質に合わないところがある。それでいつも、肝心なところで支持を失うのだ。彼女はまだそれをわかっていないのかもしれない。

 

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