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2016年3月11日

東日本大震災から 5年

5年前のこの日、2時 46分頃、突然の大きな揺れに襲われた。その時のことを、当日の「和歌ログ」ではこう書いている。(参照

実は今日は昼過ぎまで自宅で仕事をしていて、5時頃に都内に用事があるので、ちょっと早めだが 2時半頃に家を出て、車で取手駅に向かった。そして途中で忘れ物に気付いて引き返し、家に戻って車から降りようとしたら、車が嘘のようにバウンドして降りられない。

一瞬、車がどうにかしてしまったのかと思ったが、すぐに地震と気付いた。ずいぶん長く揺れたように感じ、収まって家の中に飛び込むと、妻と末娘がテーブルの下に身を潜めて青くなっていた。

本当にあの時は、車のエンジンがどうにかなって爆発してしまうのではないかという気がして、「早く脱出しなきゃ!」なんて思ってしまったよ。ところが実際には脱出しても家や電柱が波打って揺れているのだった。昭和 39年の新潟地震の時、私は小学校 6年生で廊下に立たされていて、あまりの揺れに一瞬「思えば短い一生だった」とまで思ったが、あの時よりも確実にすごい揺れだった。

我が家のある茨城県南部の震度は 6弱だった。近所では地割れが起き、家が傾き、瓦が落ち、塀が倒れ、惨憺たる有様だった。我が家は本棚の中身が落ち、床に落ちた食器が粉々に割れてしまっていたが、ありがたいことに被害は近所でも一番軽く済んだ。

電気と水道は止まらなかったし、地震直後の何も情報が入らなかった時点では「今後 1週間は大きな余震に悩まされることになるだろうな」ぐらいに考えていた。すぐに大津波が来ることや、そのせいで原発事故が起きるなんてことまでは、まったく考えが及ばなかった。地震そのものでは人はそんなに簡単には死なないが、津波は手の下しようがない。さらに原発事故の影響は延々と続く。

あの東日本大震災の発生を境として、日本は確かに変わった。最近、立て続けに福島に行く仕事があったが、現地ではあの日の記憶が今でも生々しい。そしてそればかりでなく、原発事故の後始末が遅々として進んでいないことを目の当たりにする。

安倍首相が東京オリンピック招致の際に、原発事故について誇らしげに "the situation is under control"(事態は統御されている)とスピーチしたが、「よく言うよ!」と多くの人が思った。世の中、恥ずかしげもなく大きな声で言いさえすれば、でたらめでも通るのだ。まったくもって教育によろしくない。

さらに宮城県に行けば、仮設住宅に暮らす人がまだまだ多いことを知る。私の知り合いも何家族かがいまだに仮設住宅住まいだ。津波で亡くなった人も多い。震災後 1週間ぐらいかかって、私の身内や知人はほとんど無事と確認が取れたが、最後の最後に、妻の実家の身内の 5人が津波に呑まれたと知った(参照)。夫婦が両方とも東北出身だと、親類縁者のうちで誰か犠牲になっているケースが多い。

地震そのものは自然現象だから、罪はない。問題にすべきなのは、人間の側の防備や対策の甘さである。被害がここまで大きくなったのは、人間の営みとの合わせ技だ。その中でとくに大きな問題は、やはり原発であると言わざるを得ない。

世の中には「原発事故が原因で死んだ人は一人もいないから、安全なのだ」などと寝言を言う人もいる。しかし死ななきゃいいってもんじゃないのは、今に続く深刻な影響を見れば誰だってわかる。さらに言えば、原発事故が原因で死期を早めた人も多いことは明らかだ。

それがわからないのは、人間に対する愛情が足りないのである。はっきり言って、付き合いたくない人たちである。原発に関しては、「よく言うよ!」という発言がやたらに目に付く。

あれから 5年経った。私個人と家族についていえば、被災者といえば被災者で、その後 1年ぐらいは高速道路を無料で利用する特権を与えられたが、被災者の中では一番軽いレベルである。

とはいえ、都内の山の手あたりに済んでいる人たちの体験とは、ちょっとレベルが違うほどに大変な思いをした。杉並区や世田谷区辺りにいた人の話を聞くと、「へえ、あの地震がその程度の印象で済んだんだ!」と思ってしまうのである。

それだけに、いっぱしながらこの体験を風化させてはならないと思う。

 

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