大津で思ったこと
京都への出張から戻ってきて、一日おいて今度は新潟への出張である。そして明日新潟から戻ったら、一日おいてまた京都に行く。一昨日の京都行きとはまったく別の用件なのだが、できることなら連続した日程でアポイントが取れれば楽だった。
ところが、間に今回の新潟での案件が割り込んでしまったので、京都からは一度帰ってまた出直すということになってしまった。新潟が割り込まなければ、少なくとも三泊四日ぐらいで京都に滞在できて、これまでの未踏の地に行くこともできたのに、ちょっと残念である。
もっとも京都にはこれまで何度も訪れて、観光客が行ってみるべきところはほとんど行ったといっていい。まだ行ったことのないところといえば、かなりの 「穴場」 となる。それで前回は京都市内ではなく、京都駅から電車で 10分以内でいける滋賀県大津に泊まり、前々から気にかかっていた三井寺(みいてら)を参拝した。
三井寺というのは通称で、本当の名前は長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)。天台宗寺門派の総本山である。琵琶湖のほとりの長等山の広大な敷地に、金堂や観音堂など、多くの由緒ある建物がある。また仏像などの文化財も多い。
この三井寺、天台宗ではあるのだが、その本山の比叡山延暦寺とは長い間、敵対関係にあった。9世紀に円珍 (智証大師) を中興の祖として発展し、その円珍は天台座主の地位にまで昇ったが、その死後、円仁(慈覚大師)派との抗争が始まった。
円仁派は「山門派」、円珍派は「寺門派」と呼ばれ、山門派の僧兵が比叡山内の円珍派の建物を焼き払ったりしたために、寺門派は比叡山を下り、円珍以来のゆかりがある三井寺を根拠とした。しかしその三井寺も、山門派によって何度も焼き払われ、昔からそのまま残っている堂塔はほとんどないのだという。
仏門に帰依しながら、しかも同じ天台宗の中で相争うというのも悲しいものだが、白河天皇が 「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」 と嘆いたというほどだから、叡山の僧兵は相当に荒っぽい存在だったようだ。
その荒っぽい僧兵たちの本拠である比叡山から見下ろすと、眼下の琵琶湖の手前に目障りな三井寺があるのだから、焼き払ってしまいたくもなったのだろう。
写真は三井寺参拝から下山して琵琶湖畔に降り、そこから比叡山を望んだところである。こうしてみると、比叡山にとって三井寺は、目の上ではなく、眼下のたんこぶだったのだと、実感としてわかる。
もし三井寺が琵琶湖の畔ではなく、もっと遠くにあったのだとしたら、そこまで対立しなくて済んだのではないかという気がする。しかし、例えば鎌倉なんてところを本拠とするにはもう少し時代を下らなければならなかった。歴史の運命というのは、なかなか大変なものである。
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