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2016年5月10日

母の命日

今日 5月 10日は、母の祥月命日である。亡くなってから 9年経ったわけだ。早いものである。

母は天真爛漫な女性だった。酒田のちょっとした家の娘として生まれたが、いろいろな事情で子供のなかった私の戸籍上の祖父母の養女となり、かわいがられはしたが、それなりに苦労もして育った。ただ、養女とはいえ一人娘だったこともあり、父が婿入りしてきたため、舅、姑に遠慮して暮らすという経験をしなかった。それであの天真爛漫さは失われることなく、晩年まで保たれたのだろう。

天真爛漫かつ単純な人というのは、誕生日と命日も単純で覚えやすいものになるようだ。誕生日が 10月 30日で、命日が 5月 10日というのだから、とにかく忘れにくい。得な誕生日と命日である。

私の誕生日は 7月 26日だが、生前の母によく「お前の誕生日はいつだっけ?」と聞かれた。「自分で産んどいて、覚えてないのかよ。まあ、10月 30日よりはずっと覚えにくいだろうけど」と思ったものだが、よく考えてみれば、だいぶ早くから認知症の傾向は出ていたのだろう。認知症になると、固有名詞と数字は覚えていられないようだ。

認知症の上に重度のリウマチで、左手の指先以外は動かなくなり、晩年の 7年間はベッドの上で寝たきりの生活になった。父はよくまあしっかりと世話したものだと思う。私たち夫婦と妹も、隔月交代で実家に行き、母の世話を手伝った。思えば、7年以上、2ヶ月に 1度クルマで帰郷していたのである。これもまあ、よくやったものだ。

7年以上も家族が喜んで母の世話をしたのは、母の性格が幸いした。母は認知症になってからもずっと天真爛漫で、ぼうっとしているか、嬉しそうにしているかのどちらかだった。あれで暗かったり暴れたりなんかしたら大変だったろうが、世話するといかにも嬉しそうにするので、つい世話してしまうのである。本当に得な性格の人だった。

私が母から学んだのは、嬉しい時には嬉しさを素直に表現するということである。

 

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コメント

私の母も脳卒中後遺症で要介護5の認定を受けた数年後に、takさんの御母堂様と同時期にこの世を去りました。
一歳違いの父がメインで介護しましたが、隔週で兄夫婦と私夫婦が交代して、父が一日フリーで過ごせるようにサポートしました。
母を見送って二か月後、納骨した直後に父が体調を崩して二週間ほどの入院で後を追いました。

さて認知症を患っても、可愛くボケて周囲の人を和ませるので皆が寄ってくる場合がありますね。
反対に医者の薬は毒ではないかと疑い、看護師やヘルパーは他の人を優先して私を邪険にすると不平を言い、現金や指輪が無くなったと身近な親族を疑い、遠方の息子は私を見捨てて財産だけを狙っている、と世の中全てが敵に見えて世間を呪って生きている方もいます。

メディアの報道を疑いながら生きていると、私も後者のような老人にならないかと心配しています(*_*;

投稿: ちくりん | 2016年5月11日 10:23

ちくりん さん:

ご両親を相前後して見送られたというのは、大変でしたね。

私の父は、母を看取ってから 3年生きました。丈夫な人だったので、気楽な身になって百まで生きるかと思っていましたが、いつの間にか肺がんになっていました。

妻を亡くした男は長くは生きないと言われますが、父の場合は母の介護をしながら、まったく自立していたので、それは当てはまらないと思っていましたが、「やることは全てやった」という意識が、「もうそろそろ死んでもいいかな」ということに繋がったのかもしれません。

ちなみに、可愛くボケるというのも才能のうちなのですね。

父は母とは正反対に、最期までボケることもなく明晰な頭脳のままでした。自分も父に似ればいいのですが。

投稿: tak | 2016年5月11日 12:55

私の母の誕生日は tak さんのお母様と同じ10月30日です。二年前の春に98歳で他界しました。

高等師範学校卒で、亡くなる4カ月前までは新聞や書籍を丹念に読んでいました。もともとあった驚異的な記憶力も一切衰えることもなく、年寄りによくある ”あれ、なんて言ったっけ” なんて言葉を聞いたことがありませんでした。電話番号、口座番号などは全て記憶していました。

しかし、年明けに食が細くなり体力が急激に落ち、認知症の症状が出たり消えたりを繰り返すようになりました。看護や介護の人が体温を測ろうとすると拒否をしてしまい、困り果てました。他人が敵に見えていたようです。

聡明な母がガタガタと崩れていくのを見るのは辛かったですね。
いまとなってはああすればよかった、こうすればよかったと後悔の念でいっぱいです。

投稿: ハマッコー | 2016年5月11日 18:19

ハマッコー さん:

そんなに素晴らしい存在だったお母様が、年明けから春にかけてという短期間のうちに変わってしまうのを目の当たりにするのは、さぞかし辛かったでしょうね。

でも、衰えた姿を長くは見せないという、一つの矜持だったのかもしれませんね。

投稿: tak | 2016年5月11日 23:20

死んだ親自慢(?)ということであれば、ウチもけっこうスゴいです。

私が20歳の正月に母が倒れ、親戚が集まって葬式の打ち合わせをしている最中に父が倒れました。喪主入院中のまま母の葬儀を済ませ、その数日後に父も他界。仲が良いのもほどほどにしてほしいです(笑) 姉と私が遺されましたが、まぁ二人とも大学生だったし、ちゃんと生命保険とか入ってくれていたので、さほど苦労もせずに済みましたが。

投稿: 山辺響 | 2016年5月16日 10:59

山辺響 さん:

そりゃまた、大変なことでしたねとしか、言いようがないですね。

世の中にはいろいろなケースがあるものと、驚きました。

投稿: tak | 2016年5月17日 21:44

山辺響 さん:

そりゃまた、大変なことでしたねとしか、言いようがないですね。

世の中にはいろいろなケースがあるものと、驚きました。

投稿: tak | 2016年5月17日 21:45

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