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2016年5月に作成された投稿

2016年5月31日

ひょんなことから、千歳でもう一泊

今夜は自宅に戻っているはずだったのだが、思いがけない飛行機便のトラブルのため、北海道千歳のホテルに泊まっている。

釧路空港から搭乗する予定だった羽田への直行便は、羽田から来る折り返しの機体だったのだが、これが釧路の濃霧のために羽田に引き返す可能性が高いとのことだった。ということは、私の乗る機体が釧路に来ないってことになり、当然ながら欠航になる。こちらは早めに釧路空港に到着していたので、便の変更を申し出ると、一度新千歳空港まで行き、そこから羽田行きの便に乗り継ぎするのが確実だと言われた。

「その方が確実ですか? オススメなんですね?」と確認すると、カウンターにいたお姉さんは「ご搭乗予定の便は、欠航にならないまでも遅れることは確実なので、新千歳で乗り継がれる方が確実です」と太鼓判を押すので、素直に従ったのである。ところが、これが見事にはずれてしまった。

新千歳空港に到着すると乗り継ぎ便の機体トラブルとやらで延々と待たされ、次の便に変更しても、もう我が家に帰る最終バスに間に合わないことが確実となったのである。タクシーを利用したら深夜料金になるので、ホテル代ぐらいはかかってしまう。

というわけで、「だったら、千歳でもう一泊して、明日の朝の便で帰るわ!」と即決し、その場で iPhone の「楽天トラベル」を開いて、サクサクっとホテルを予約したのである。カウンターのお姉さんは、ホテル予約の世話までしなくてすんでほっとしていた。そこまで ANA に頼らなくても、自分でなんとかする。

まあ、明日は差し迫った予定はないから、おいしいものでも食べてゆっくり帰ろう。ホテル代は ANA に請求できるようなので、気楽なものである。

それにしても、今日は釧路から根室までレンタカーで行ったのだが、根室の寒さったらハンパじゃなかった。昨日は「ダウンベスト持ってきてよかった」と思っていたのだが、今日は「ダウンパーカを持ってくるんだった」という思いに変わっていた。夕方に根室から釧路に戻った時には、暖かく感じたほどだった。

まあ、いずれにしてもいい経験をさせてもらった。根室半島の自然は素晴らしかったしね。

 

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2016年5月30日

「1年連続」 なんて言って、よく気持ち悪くならないものだ

今朝東京を発って、北海道の釧路に来ているのだが、羽田空港構内の店にこんな看板が大々的にかけられていた。

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"Tokyo Chocolate Waffle Sand" (直訳すると「東京チョコレート・ワッフル砂」 というお菓子らしい)が、「ANA FESTA 羽田」という店において、「1年連続 1位!」を記録したというのである。

「1年連続 1位だと ???」私はてっきり冗談をほざいてるか、大ボケをかましてるかのどちらかに違いないと思ってしまったよ。「2年連続」 とかいうなら話はわかるが、「1年」は単年なのだから「連続」とは言えない。

あるいはどこかに「タネ」(左端のワッフルが 「1」 を表していて 「11年連続」 というココロとか)が仕込んであるのかと思ってよくよく眺めてみたが、どうやら当事者としてはこれでマジらしい。

というのは、下の方に(2014.7〜2015.6)と書いてあるからだ。てことはつまり、一昨年の 7月から 昨年の 6月までの 12ヶ月間、売り上げ 1位をキープしたと言いたいもののようなのだ。ふむふむ、それでつい「1年連続」なんて書いちゃったわけなのね。

これ、フツーなら「12ヶ月連続」と言うべきところだが、どうしても「1年」を強調したいなら、「1年間連続」なら OK だ。しかし 「1年連続」はやはりアウトである。よくまあ、これで気持ち悪くならなかったものだと思う。まあ、気持ち悪くならなかったからこそ、こんなにも大々的に訴求してしまったのだろうが、受け取る方としては十分に気持ち悪くなる。

で、もう一つ不思議なのは、どうして 1年近く前のデータをこんなにも誇らしげに訴求しているのだろうかということだ。この記録が継続中と書かれていないってことは、昨年の 7月以後は売り上げ 1位の座から転落してしまったと受け取るべきだろう。つまり現在の状況から目を逸らし、過去の栄光にすがって「あの夢よ、もう一度」というプロモーションしているとしか見えないのだ。

本当に不思議な看板である。

 

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2016年5月29日

固有名詞まで訛っちゃうんだもの

11日の記事で、庄内では「祥月命日」を「しょっづぎめーにづ」と訛るので、ずっと「正直命日」だと思っていたということを書いた。「祥月」と「正直」は、耳で聞いただけではほとんど区別できないのである。同様に、「獅子/煤」も紛らわしい。しかし「寿司」はアクセントの違いによって完璧に区別できる。

東京方面から庄内に来た人は、「庄内弁って、固有名詞まで訛るんだもの、聞いててわけわかんない」と言う。そりゃそうだ。普通の単語を訛って、固有名詞だけは訛らずに発音するなんて不自然なことはしない。すべて平等に訛る。

例えば、庄内では「佐藤、齋藤、馬のクソ」というほど、佐藤、齋藤という名字が多い。しかしネイティブな庄内弁では佐藤さんのことを 「さとうさん」なんて言わない。「さどさん」である。他から来た人は「佐渡さん」だと思うだろう。同様に、「齋藤さん/伊藤さん/後藤さん」 は、「さいどさん/いどさん/ごどさん」になる。

ちなみに、佐藤さん、齋藤さんは、あまりに多すぎるので、大抵は名字ではなく名前の方で呼ぶ。そうでないと、「さどさ〜ん」 なんて呼びかけたら、同時に 5〜6人が振り向くことになる。今はどうだかしらないが、昔は「さとうさ〜ん」と呼ばれても、自分のことと思わない人がいて、3〜4人しか振り向かないなんてこともあった。

「さどさん」が「佐渡さん」じゃなく「佐藤さん」で、「いどさん」が「 井戸さん」じゃなく「伊藤さん」、「ごどさん」が 「神様」じゃなく「後藤さん」だというのは、庄内人の耳がそんな風にできちゃってるので全然問題ないのだが、庄内人でも区別できずに困る固有名詞というのがある。

その代表格が「静子/鈴子/節子」だ。庄内の年寄りが発音すると、「静子/鈴子」は、どちらも「すずこ」になりやすい。極めると、ビミョーに 「ン」が入って「すずこ」になる。こうなると、その人の名前を文字で確認するまではなんという名前なのかわからない。

さらに面倒なのは、「静子」をきちんと意識して「しずこ」と発音すると、今度は「節子」と区別が付かなくなるのである。これは本当に厄介である。

その昔、母の働いていた職場にどこだかの営業のお兄ちゃんが来て、「あれ、今日は節子(せつこ)さん、いねんですが(いないんですか) ?」 と聞いた。きっと気があったんだろうね。母は「節子さんでう人は、元々いねよ(節子さんという人は、元々いないよ)」と答えた。

話がややこしくなって、よく確かめてみると、職場で「しずこさん」と呼ばれている「静子さん」は確かにいるが、その日に限って休みを取っていた。ところが営業でやってくる若いお兄ちゃんは、おばさんたちに「しずこさん、しずこさん」と呼ばれている若い女性は、「節子さん」なのだと思っていたのである。

だって、庄内のオバサンはフツー、「静子さん」のことは「すずこさん」と言うから、よもや本来の発音通りに「静子さん」だったとは思いもしなかったようだ。私だって時々母の話に出てくる「しずこさん」を「節子さん」だとばかり思っていたのだから、営業のお兄ちゃんの勘違いはごく当然である。その静子さんは若くてきれいな女性だったので、オバサンたちもちょっと意識して訛らずに「しずこさん」と呼んでいたのだろう。そのせいでかえってややこしいことになった。

そんなことを言ったら、私の母の名前も、思いっきり訛って呼ばれていた。母の名は「千枝(ちえ)」だが、庄内では女性の名前はなんでも最後に「子」 付けて呼ぶ傾向がある。だから母も親戚中では 千枝子」と呼ばれていた。ところが字で書けば「千枝子」だが、何しろ訛るので、実際の発音は「ついこ」になってしまう。だから知らない人は、私の母は「ツイ子さん」だと思ってしまっても仕方なかっただろう。

その流れで言うと、私が現在住んでいる茨城県では、「い」と「え」がひっくり返る。庄内では区別が付きにくいだけだが、茨城では本当に見事に入れ替わってしまうのである。私が今の家の購入契約をする時、「それでは、『えんかん』をお願いします」 と言われて、一瞬「鉛管?」と思ったが、それは「印鑑」のことだった。何しろ「色鉛筆」が「エロいんぴつ」になるというぐらいである。

茨城に限らないと思うが、「きみい」とかいう名前のおばあちゃんがよくいる。彼女の親は生まれた子の出生届を役場に提出する時、つい平仮名で「きみい」と書いてしまったわけなのだが、意識としては「公恵さん」とか「君枝さん」とかと同じ名前のつもりだったんじゃないかと思われる。だって茨城県では、「公恵さん」も「君枝さん」も「きみいさん」と発音されるんだもの。ああ、ややこしい。

言文一致とは厳密に言えばなかなか難しいもので、一筋縄ではいかない

 

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2016年5月28日

考えることの 2% でも、人におもしろがってもらえれば

ブログを毎日更新してるなんていうと、「よくそんなにネタが見つかりますね」なんて言われる。まあ、確かにネタ切れで苦し紛れのことを書く日もないわけじゃないが、人間生きてる限り、ネタというのはあるものだ。ただ、それがおもしろいネタか、つまらないネタかというだけの違いである。

私の場合、ふと思いついたネタは一応メモしておくことにしている。そうでもしないと忘れてしまうからだ。ふとおもしろいネタを思いついて、「あ、これいいな。今日のネタに使っちまおう!」なんて思っても、メモしないでおくと、5分も経たないうちに忘れてしまうことが多い。そして一度忘れてしまうと、何かちょうどいいきっかけでもないと、なかなか思い出せない。これも年のせいかなあ。

ただ、メモさえすればいいのかというと、そういうわけでもない。私は思いついたネタはできるだけ速やかに、iPhone アプリの「メモ」に書き込むようにしているが、後になって確認してみると、5つのうち 4つはおもしろくないのである。思いついた瞬間には「これ、イケるかも!」という気がするからメモするのだが、ほとぼりが冷めると、大した思いつきじゃないのだ。

実際ブログに使えそうな思いつきなんて、本当に 6つのうち 1つぐらいのものである。ということはつまり、私の考えることなんて、8割はつまらないことでしかないのだ。人間なんて、その程度のものである。大抵はくだらないことしか考えていないのである。

ただしかし、見方を変えれば、5つのうち 1つでもおもしろいことを考えられるというのは、大したものなんじゃなかろうかという気もする。考えることの 2割は、まあまあブログにできる程度のおもしろさがあり、そしてブログに書いた記事の 10本に 1本ぐらいは、人に読んでもらってもまあまあおもしろいってなことになれば、それはそれで、なんとかなるんじゃなかろうか。

考えることの 2% でも、人におもしろがってもらえるなら、生きていく価値があろうってなものだ。そうでも思わないと、ブログの毎日更新なんて作業はやってられないのである。

 

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2016年5月27日

ワードローブの 「戦線縮小」 が楽しい

私も再来月には 64歳という年になる。生きてもあとせいぜい 20年だろうから、だんだん人生の「戦線縮小」をしようという考えになっている。余計な持ち物を減らし、どうでもいい人との付き合いを減らす。そうすることで、本当に大切なモノと人だけに、意識を集中したいのである。

とりあえず最近は。ワードローブの中身を減らすことを楽しんでいる。今は仕事を選んで堅苦しい仕事は極力避けているから、ありがたいことにスーツを着る機会がめっきり減った。今持っているスーツは、春夏物と秋冬物各 1着と、冠婚葬祭用が 1着の、合わせて 3着だけである。これだけあれば、十分すぎるほどで、新たに買う気は毛頭ない。

実は着る頻度は冠婚葬祭用が一番高い。これは背中に裏地のない夏物だが、冬はユニクロのヒートテック肌着を着れば全然寒くない。冠婚葬祭用が夏物だけで済んでいるのだから、普通のスーツも秋冬物は処分してもよさそうな気がするが、さすがにそこまではまだ踏ん切りがついていない。

踏ん切りが付かないといえば、ワードローブの中で一番邪魔くさいのが、ロングサイズの本格的なトレンチコートである。スーツを着る機会がないのだから、トレンチコートも年に 1度着るかどうかだが、それだけにまだ新品同様だ。まあ、2年に 1度ぐらいの着用機会のために、ずっと「新品もどき」として持っていてもいいかもしれない。

ネクタイは慶事用の白と弔事用の黒は、お約束だから仕方なく 1本ずつ確保している。それ以外では、水玉の明るめが 1本に、地味目が 1本だけだ。地味目の方はポリエステル素材で、バッグに放り込んでもシワにならないタイプ。ネクタイは月に 1度もしないので一生擦り切れることもないだろうから、多分もう買わずに済む。

白のいわゆる「ワイシャツ」も、冠婚葬祭以外ではまず着ないから 2着残してあとは処分した。1着だけでも十分だろうから、どちらか早く擦り切れた方を処分するつもりだが、着用機会が少ないのでなかなか擦り切れず、捨てるに至っていない。

これ以外はいわゆるカジュアルウェアと自転車用ジャージしかない。普段はカジュアルなジャケットとジーンズで過ごし、これからの季節はポロシャツにジーンズである。このスタイルで仕事にも出かけるし、これで行けないような仕事は、基本的に受けない。気楽なものである。

 

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2016年5月26日

もらって困るモノ

もらって困るモノというのがある。というか、もらい物って、実は困るモノの方が多い気がする。

まず困るのは、「置き物」「飾り物」の類いである。花瓶、置き時計、人形、得体の知れない書画の入った額、はたまたわけのわからない置物等々、我が家のインテリアはシンプルさを旨としているので、趣味の合わないモノは置きたくない。かといってもらい物は無闇に捨てるわけにもいかないので、本当に困る。

仕方がないので、数年間は物置にしまっておいて、ほとぼりの冷めた頃にバザーか何かに出す。ところがそういうモノの多くは、10円とか 20円とかいう値段でも売れ残る。多分 1円でも売れないだろう。しょうがないので、最後はリサイクルショップに持ち込む。大抵は 「値段がつきませんよ」なんて言われるが、「タダでもいいから、引き取って下さい」と、半ば強引に押しつけて、ようやくせいせいする。

衣料品も困る。最ももらうことが多いのは、オジサンの背広とビジネスシューズ姿に似合う靴下セットだが、10年経っても絶対に履かないと確信されるので、もらってすぐにウェス(汚れ拭き)にしてしまう。合繊使いが多いので油汚れには親和性があるようだ。

かなり前に勤め先の上司が定年退職する際に、「松坂屋お仕立て券付きシャツ地」というのを記念にくれた。そのシャツ地というのが、軽薄なブルーのチェックで、まったくそそられなかったが、一応仕立てておかないと、後で顔を合わせることがあったら話の持って行きように困ると思い、帰りに渋々松坂屋に立ち寄った。

オーダーシャツ売り場というところには、怖い顔をしたオバサンがいたのを覚えている。こちらが恐る恐る「あのぉ、ソフトな仕立てにしてもらいたいんですが......」と言っても完全に無視され、強引な採寸の後に受取券というのを押しつけられた。数日後に受け取りに行くと、案の定、襟とカフスに段ボールが入っているのかと思うほどのガチガチにハードな仕立てのシャツになっていた。

それはもう「100年経っても絶対に着ない」という代物で、嫌悪感さえ覚えたので、そのまま駅のゴミ箱に捨てて帰った。くれた上司とはあまりいい関係でもなかったし、「持って帰るだけ馬鹿馬鹿しい」ってな感じである。私のサイズなので、人にあげるわけにもいかないしね。

食ってしまえば後に残らない食べ物関係ならもらいたいという人もいるが、私は近頃肉類を食わないので、ハムだのサラミだのをもらうのは困る。インスタントコーヒーもほどんど飲まないし、妙なドリップセットみたいなのがついたレギュラーコーヒーも、やたら面倒くさい。そもそもあれって、小さくパックすれば単行本一冊ぐらいのサイズに収まるのに、昔の百科事典 2冊分ぐらいの大げさな箱に入っているのもうっとうしい。

最近は香典返しとか引き出物とかで、カタログ付き商品券というのがある。一見すると選択の自由があるようにみえるが、そうした類いのカタログって、要するに中身は 「もっともらしく見えるだけの贈答品」 だから、実は欲しいモノなんてない。要するに「贈答品」の市場って、いりもしないもので成立しているようなのだ

結局のところは身も蓋もないようだが、単純な商品券というのが一番ありがたい。かさばらないから持ち帰るのが楽だし、本当に使えるモノに交換できる。しかし世の中には、自分のセンスに根拠の伴わない絶対の自信をもっている人というのがいて、 「この私の選りすぐりなんだから、謹んで受けなさい!」みたいな勢いで、気合いの入った邪魔物を押しつけてくる。

そういうのって、はっきり言って「ありがた迷惑」の極致である。

 

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2016年5月25日

飲み会、とっくにやめている

私は基本的に「おごられる」のが苦手である。自分の飲み食い分ぐらいは、自分で払いたいと思っている。さらに、接待でもなんでもない部署内の人間だけのいわゆる「飲み会」を、会社の「経費」で落とすのも苦手である。割り勘なら、まだ安心するのだが。

しかし会社勤めをしていた時代には、「当然ながら、自分では払わない」というケースがあった。それは上司が「どうだ? たまには 1杯やらんか?」などと、「飲み」を誘ってきた場合である。こうしたことはできるだけ断っていたというか、誘われないように立ち振る舞っていたのだが、仕事の延長というムードがありありで、「今回は断りにくいな」というケースがたまにある。そんな場合は、仕方なく付き合っていた。

そんな時には、私は決して払わない。なにしろ「仕事の延長みたいな雰囲気満々」のくせに残業代もつかないことに、渋々付き合うのである。ただで飲み食いしても嬉しくもなんともなくて、単に苦痛なだけなのだから、その「苦痛の代償」を相手に支払わせることに、何のてらいもなかった。

ところが上司は決して自分の金でおごっているわけではない。領収書をもらって、経費で落としているのである。「だったら、勤務時間中にミーティングとしてやってもらいたいなあ」と思うのだが、彼らは会社の金で飲み食いしながら、「仕事の話」をするのが大好きなようなのである。そして、昼にやってくれれば 30分で済む話を、夜に 3時間ぐらいかけるのだ。

「酒が入ると、相手の人間性が理解できていい」という人もいる。しかし、なまじ人間性を理解してしまったせいで、ますますその人とは付き合いたくなくなることが多い。ところが「この人とは距離をおいて接したいなあ」と思う人ほど、やたらと飲みに誘ってくるというパラドックスには、本当に悩まされる。

 

最近は昔ほど「飲み会」が頻繁ではないようで、なかなかいい傾向である。同僚や部下の「限られた時間」を尊重しようと思ったら、やたらと飲み会なんかに誘えないはずなのだ。「飲み食いしながらのフランクなコミュニケーションの場」なんて、年に 1度の忘年会で十分じゃないか。

私は会社勤めから離れ、飲み会といううっとうしい慣習から解放されて本当にせいせいしている。今は出張先で合流するスタッフとも、晩飯を一緒に食べたら、あとは基本的にフリーというのがお約束だ。年に 1度ぐらいはじっくり飲みながら話すこともあるが、しょっちゅう誘ったりなんかしたら確実に敬遠されてしまうと、お互いに思っているから気が楽だ。一匹狼同士の方がずっと付き合いやすい。

ハフィントンポスト日本版編集長の竹下隆一郎氏が「#飲み会やめる そしたら、人生変わる気がする」という記事を書かれている。そして「#飲み会やめる を考える」 というハフポスト日本版イベントが、6月 10日(金) の 18:30 開場、19:00 開始で開かれるらしいが、私の仕事環境では、飲み会なんてとっくにその使命を終了してしまっている。

 

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2016年5月24日

ラニーニャだと猛暑になるというので

ここ数日、急に暑くなった。気温 25度以上の夏日は当たり前になって、30度以上の真夏日もちらほら出現してしまっている。子供の頃、夏休みの絵日記に天気と気温だけはきちんと書いていた(肝心の本文と絵はテキトー)が、30度以上になんて滅多にならなかった。それが 5月下旬で 30度を軽く越すのだから、温暖化はかなり進んでいるということだ。

今日なんかも、朝のうちに家の中の寒暖計が 28度を超していた。湿度が低くてさらっとしているからいいが、これでジメジメしていたら、朝から何もしなくても汗がダラダラ流れるような陽気になっていたところである。

ちなみにしばらく続いていたエルニーニョが終わって、今年の夏はラニーニャが発生するらしい。ラニーニャになると夏は猛暑に、冬は厳冬になりやすいなどと言われる。とはいえ、昨年はエルニーニョだったのに、冷夏になんかならなかったから、「ラニーニャだと猛暑というのも当てにならない」と言っている人もいる。確かに、ラニーニャだと必ず猛暑になるというわけでもない。

とはいえ、昨年の夏の初めの頃はそんなに暑くはなく、「エルニーニョのせいで、冷夏のまま終わるかな?」なんて思っていたのである。それがだんだん暑くなってしまって、8月に入った頃には猛暑になった。しかし、9月以後は死ぬほどの残暑というほどでもなく、なんとか生き延びたという印象がある。

もしかしたら、最近の「冷夏」って、あの程度のものなのかもしれない。全般的な温暖化で気温が底上げされてしまい、「冷夏」とはいえ、8月にもなればそこそこ暑くなってしまうのだとしたら、かなり恐ろしい話になる。この新スタンダードをベースにして「ラニーニャで猛暑」なんて言った日には、とてつもない暑さになってしまいかねないではないか。

せいぜい体を鍛えて、暑さにやられないような体力をつけておく方がいいという気がする。

 

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2016年5月23日

カモガヤ花粉症の季節

既に何度か書いているが、カモガヤという植物の花粉症に悩んでいる。これ、スギのような木じゃなくて、背の低い草なので、花粉が風で遠くまで飛ばされることがない。しかし我が家の周りにはうじゃうじゃ生えているので、この時期は大変なことになるのだ。

私は 2月から 4月にかけてのスギ花粉アレルギーがちょっと一段落したかと思うと、間もなくカモガヤのアレルギーになってしまい、これが下手すると 7月頃まで続く。つまり 1年のうち半分近くはアレルギーに悩まされるという、因果な体質のようなのだ。

私の妻はスギ花粉アレルギーには縁がないが、去年からカモガヤのアレルギーを発症してしまった。これに関しては私よりもずっと症状がひどく、医者に行って薬をもらっている。スギ花粉が大丈夫なのに、カモガヤなんていうマイナーなアレルギーで悩むとは気の毒なことだが、これで夫のスギ花粉アレルギーのしんどさを心から理解してくれるだろう。

それにしても、7月の声を聞いてアレルギーから解放されると、今度はじめじめとした湿気と暑さの季節になる。ああ、春から初夏という一番いい季節にアレルギーで鼻水とくしゃみと目の痒みに悩まされるとは、ムカつくことであるなあ。

 

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2016年5月22日

大都市の選挙における「知名度」という魔物

昨日の「どうしてまともなと知事が選ばれないのか?」という記事の続編である。昨日の記事には、K.N さんが次のようなコメントをしてくれた。

先日TV番組で、あるアナリストが言っていたことですが、都知事に当選するには、「政治手腕・資質プラス『知名度』が必要なのです。」とのこと。

候補者の「政治手腕・資質」なるものを一般市民がある程度把握するには結構な時間、手間、若干の費用を費やさなければいけないし、そこまでやって選挙に臨む人っていないのでは・・・。結局、メディアに露出しまくって、口達者で、一見知識人的な人を気軽に選んでしまったのでしょうね。

うぅむ、多分、これなのである。 これが「どうしてまともな都知事が選ばれないのか?」との疑問への最もわかりやすい解答だ。

これだけ情報社会となって、ちょっとインターネットにアクセスすれば溢れるほどの情報があるのに、有権者の多くは、単にメジャーなメディアに登場しまくって、「口達者で、一見知識人的」という印象の人に貴重な 1票を投じてしまう。そして東京都のような大都市圏では、「メディアに登場しまくる人が存在して、その中にはその知名度を選挙に利用する人がいる」ってなことなのだ。

さらに割り切れないことに、わざわざ投票所に行く人の多くが、「知名度」なんていう薄っぺらな基準に左右された投票投票行動を示すのである。有権者のたかだか半分以下しか投票所に足を運ばないというのに、その「わざわざ投票所に行く、意識ある有権者に見える人たち」の投票行動が、その程度のものなのだ。

どうして大都市においてこんなことになるのかといえば、それは「大都市だから」としか言えない。田舎の選挙なら、候補者の人となりを多少なりとも口コミなどで伝え聞くことが可能だが、隣に住む人との交際もほとんどない大都市においては、メディアへの露出度がモノを言う。そしてメディアへの露出度がハンパじゃない候補者が、大都市には当たり前に存在してしまうのでとにかく始末が悪い。

選挙期間中はさしものインターネットも、その強力な情報力が制限されてしまう。下手なことを書くと選挙妨害として訴えられかねないから、まともな人はまともなことを書きにくくなる。そして無責任な情報だけはあふれかえるから、インターネットそのものの信頼度が低下する。

その結果、それまでのメジャーなメディアへの露出度だけが力をもってしまう。そう考えると、あの青島幸男さんを選んでしまったことや、大阪で横山ノック府知事が誕生したことなどの意味が理解される。

逆に言えば、「知名度なんかくそ食らえ」と思っているような「冷めた人たち」は、投票所に行かないのである。それで私はずっと、都知事選挙の結果をみてびっくりしっぱなしだったのだ。「まともにモノを考えて選んだ結果とは信じられない」と思ってきたが、よく考えれば単純なことで、実際に「まともにモノを考えて選んだ結果」なんかじゃなかったのである。

これまで、田舎の選挙の汚職まみれに暗澹たる思いでいたが、大都市圏では別の意味での「民主主義の危機」が存在するわけだ。これは大都市における投票行動が、「民主主義そのものがもつ最大の弱点」である「ポピュリズム」の傾向に振れやすいことを意味する。

インターネットの情報力がもっと地に着いたものとなれば、このリスクは乗り越えられる可能性があるが、逆に、より極端なポピュリズムの方向に振れてしまうリスクもある。

 

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2016年5月21日

どうしてまともな都知事が選ばれないのか?

舛添都知事に、まさに十字砲火のごとき非難が浴びせられている。東京都民の間でも、「セコい」だの「ネコババ」だの、散々な言われようだ。しかし私は東京都民じゃないから、「その舛添さんを選んだのは、あんたたち東京都民でしょ」と言いたくなってしまうのだよね。

「いや、あの時の投票率は 46%しかなくて、舛添さんはそのうちの 43%を得ただけだから、都民の 20%が支持したに過ぎない」 と反論する人もあるかもしれない。しかし、投票率 43%という時点で、半数以上の有権者は、最有力候補を暗黙のうちに支持したといわれても仕方ないのである。舛添さんが嫌だったら、積極的に対立候補に投票すればよかったのだから。

世の中は米国のトランプ旋風を呆れて見ているが、私に言わせれば、東京都知事選挙だって相当いい加減なものだった。昔から都知事にはろくな人がいない。1979年に当選した鈴木俊一さんがややましな都知事で、その前の美濃部さんがガタガタにしてしまった都財政を立て直してくれた。しかしよせばいいのに四選なんかしちゃったものだから、末期には裸の王様状態だった。

その後の青島幸男さんは、他に文句を言う才能はずば抜けていたが、自分が当事者になった途端に、何もできない人になってしまった。あの頃都庁に行くと、役人たちがものすごくだらけていたのを覚えている。都知事が役人になめられていたのだ。

青島さんとしてもさすがに居心地が悪かったらしく、一期でやる気をなくして、その後に都知事になったのが石原慎太郎さんである。この人、ある意味「恐怖政治」を敷いたものだから、都庁の中が青島時代から一転してピリピリした緊張感に包まれていた。役人がだらけなくなったのはいいが、政策的には、米国のトランプ氏のさきがけみたいなものだったと、私は思っている。

石原さんの三選だけでも私は呆れて見ていたのに、さらに東京都民は四選さえもさせてしまった。私は 「あの、文句を言うだけで当事者能力ゼロの青島さんを選んだ人たちだもの、石原四選もしょうがないか」と、無理矢理に自分を納得させたものである。

そして友だちのいない猪瀬さんの後に、「人の金なら使い放題だぜ」の舛添さんである。舛添さんは今は辞任の素振りは全然見せていないが、任期を半分以上残してレイムダック状態なのだから、多分もたないだろう。

次の都知事選挙になったら、東京都民には今度こそまともな都知事を選んでもらいたいと思う。本当にそう思うのだが、青島、石原、猪瀬、舛添と、こんなにも連続してびっくりするような人を選んでしまっているのだから、実際には期待するだけ無理なのかもしれない。すっかり失望してしまう前に、予防線として期待しないでおこうという気にさえなってしまう。

 

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2016年5月20日

観光立国とホテル事情

昨日まで関西方面に 2泊 3日で出張したが、これに限らず、私は日本中のあちこちに出張する機会が多い。その上での実感なのだが、近頃、ホテルがとてもタイトである。

17日夜は大阪市郊外のホテルに泊まったのだが、それは大阪市中心部のホテルが満杯で予約できず、郊外に押し出されてしまったのである。10日前ぐらいの段階で、そんな状態だったし、来月の名古屋出張では、1ヶ月前からいつものホテルの予約が取れない状態だ。

東京、大阪、名古屋、京都など、大都市のホテルは、一昨年ぐらいまでは繁忙期でもなければ 3日前でも十分に予約できたが、今や 10日前や 2週間前の予約が難しい。最近では、仙台、金沢、広島、福岡など、地方の中核都市のホテルもかなりタイトになったし、さらに小樽、長崎、など、地方の観光地のホテルもやたら予約しにくくなった。

これは中国人などの外国人旅行客の急増によるものだ。ちょっと前までは、東京や大阪などの大都市で「爆買い」やディズニーランド、USJ などに集中している印象だったが、昨年頃からは「こんなところにまで観光に来るのか」と驚くほどの「中堅どころの観光地」にまで、ツアーが押し寄せている。主なところは一巡してしまい、「穴場」が求められる段階になってしまったのだろう。

政府は「観光立国」なんてことを言っているようで、2020年までに訪日外国人旅行客を、2000万人に増やすという目標を掲げている。一昨年は 1300万人規模にまで急増したというのだから、さらにその 3割増しを狙っているというわけだ。

私がホテル不足を実感し始めたのは、昨年辺りからである。この上、観光客の増加ばかりを狙って、宿泊施設の充実が後回しになったら、とんでもないことになる。本当に仕事に差し支える。

政府は昨年頃から「民泊」なんてことを言い出した。「民宿」との違いは、簡単にいえば簡易宿泊施設として登録してあれば「民宿」で、フツーの民家で泊めたら「民泊」ということになるらしい。しかし昔話のような 「山中で日が暮れてしまったので、一夜の宿を」なんてわけにもいくまいし、なかなか大変なことになるだろう。

30年ほど前に、ここつくばの地では、「つくば万博」というイベントがあり、その時も宿泊施設の不足が問題となった。その解決策として、一般家庭に泊まってもらうなんてことが言われ、そのために「トイレ水洗化のための補助金」という時代を感じさせるお金が結構支払われたようだ。また、「列車ホテル」なんてのも話題になって、空き地に昔の客車が突然現れたりした。

しかし実際問題として、つくば万博に来た観光客が、列車ホテルや一般民家に泊まったなんて話は、ほとんど耳にしなかった。そりゃそうだ。当時の観光客は、つくば周辺で泊まれなかったら、東京のホテルに泊まっていたのだろう。トイレ水洗化の補助金や、列車ホテルの設置にかかった費用は、「一体、何だったんだ?」ということだ。

最近の「民泊」にしても、マンションの空き部屋に得体の知れない外国人が泊まって、夜中まで騒音をまき散らしたりする問題が発生したりしている。ほとんど歓迎されない状態だ。ましてや「ホームステイ」の延長のような考えで家の部屋を提供するなんてことは、期待できるはずがない。

都心部で新規ホテルを作ろうとしたら、フツーのビジネスホテルを建てても採算が取れないだろうから、ゴージャスなシティホテルだけが増えてしまう。すると、私のように出張で泊まるというニーズにはまったく役に立たない。需給マッチングが図られずに、いびつな状態になってしまうだろう。

あるいは中国の経済発展が明確な踊り場にさしかかって、外国旅行者が減少してくれれば、この問題は一挙に解決する。なんとなくそんなところに落ち着くんじゃないかという気もするのだが、さて、どうなるだろう。

 

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2016年5月19日

そもそもクルマの燃費って、一体何なんだ?

三菱自動車の燃費データ改ざんが散々叩かれたと思ったら、今度はスズキ自動車まで不正をしていたということで、日本の製造業界もあまり信用できないみたいな様相になってきている。しかしよく考えてみると、クルマの燃費という概念なんて、実は誰もよくわかっていないんじゃなかろうか。

そもそもクルマの燃費のカタログ・データなんて、誰もまともに信じちゃいない。一応の目安みたいなことにはなっているのかもしれないが、カタログに記された燃費がフツーの乗り方で実現されると思っているユーザーがいるとしたら、あまりにも無知ということになってしまう。

あれって、インターネット接続の速さの「ベスト・エフォート」よりちょっとマシかもってなぐらいのものでしかない。だから、今回の三菱自動車の騒ぎにしても、問題にされているのは燃費データの不正確さそのものよりも、同社の不誠実な社風ということのなのだと思う。

要するに、発表されていた燃費がほんのちょっとだけ不正確だったという「事実」より、「三菱自動車って、信用できない」と思われてしまったことの方が大きいのだ。

だから新たに発覚したスズキ自動車のデータ操作にしても、スズキの経営陣としては「カタログ数値への影響は小さく、誤差の範囲内だから OK」なんて言っているようだが、それはひょっとすると、高をくくりすぎているかもしれない。要は「信用」という問題なのだから。

一方、「燃費って、そもそも何なんだ?」というのも、なかなか難しい問題である。そんなもの、条件によっていくらでも変わってしまう。今夜の TBS ラジオでこの問題を取り上げ、自動車評論家が複数登場していろいろご託を並べていたが、フツーのユーザーには今イチ伝わりにくい内容だった。

それもそのはずで、自動車評論家というのはどうしても「クルマ好き」の目でしか今回の問題をみることができない。「クルマって嗜好品だから、燃費だけが問題じゃない」とか「最終的にはユーザーが好きなクルマを選べばいい」とか言っていたが、それじゃ「ほとんど何も言ってない」のと同じである。

パソコン好きが高じて「IT 評論家」になった人たちが、新製品が発表されると「期待されたほどの新機能がない」なんて言っているのも同様だ。フツーの PC ユーザーは「新機能」なんてそれほど求めちゃいないのである。

だからクルマの燃費にしても、「月間で締めてみたら、前に乗ってたのよりガソリン代が安くなってた」ってな実感が大切なのであって、それ以上にゴチャゴチャいう必要はあまり感じない。ただ信用失墜になるようないい加減なことをしないでくれれば、それで OK なんじゃないかと思うのだよね。

 

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2016年5月18日

2泊 3日の出張で、iPhone のバッテリー容量不足が決定的

大阪と神戸に、2泊 3日の出張に来ている。昔はこのくらいの出張になると、訪問先やホテルの地図、資料などをすべてプリントアウトして、A4 のクリアケースがずっしり重くなるほど持ち歩いていたのだが、今はすべて iPhone に入ってしまうので、荷物が軽くなってありがたいというのは、このブログでも何度か書いた。

ところがその代わり、iPhone を頻繁に使用するので、バッテリーが半日しかもたないということになってしまった。だからモバイル・バッテリーは必需品で、今年の 1月にもそのことについて書いた(参照)。そしてその頃はすぐにでも新しいモバイル・バッテリーを買うような気になっていたのだが、前々から使っていた 4700mA のが思いの外に長持ちして、まだ使い続けている。

これは iPhone を 1回半分ぐらいしか充電できないので、一泊以上の出張ではホテルに到着したらまず、モバイル・バッテリーの充電をしなければならない。そして今も、しっかり充電中だ。充電には結構時間がかかるので、夜遅くなってしまうと、朝までに満充電できなかったりする。そうなると、その日の iPhone のバッテリーがちょっと心配になる。

なにしろ初めての訪問先に迷わずたどり着くには、iPhone のナビ・アプリは必需品になってしまっていて、このナビ・アプリほどバッテリーを消耗するものはないのだ。クルマで行く時には、シガーソケットから充電し続けるので問題ないが、自転車で初めての道を 100km 以上走ろうとしたら、手持ちのモバイル・バッテリーでは間に合わない。

というわけで、いずれ大容量の新品を買わなければならないことはわかっているが、まだその機会がないのでぐずぐずしている。

根本的な問題は、iPhone のバッテリー容量が小さいことなのだが、Apple は薄さにこだわっているようで、必要十分な容量を確保しようとは思っていないようだ。それに最近は手持ちの iPhone 6 が使い始めて 1年半を過ぎたせいもあって、バッテリーがへたってきてしまっているので、ますますもちが悪くなっている。なんとかならないものかなあ。

 

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2016年5月17日

「おもてなし」には、やっぱり裏があった

先月の 24日28日に、「おもてなし」の語源が「表裏なし」だなんていう寝言を批判した。その途端に「おもてなし」には「裏」があったとわかったのは、まったくもって皮肉なことだった。

ほかでもない。東京オリンピック招致委員会が、シンガポールのコンサルティング会社に約 2億 3000万円を支払っていたという件だ。招致委員会はこの支出は必要なコンサルティング料だったとシラを切っているが、この会社が国際陸連の前会長と関係が深かったというのだから、まあ、その使い道は賄賂だったのだろうね。

フランスの検察はヨーロッパの国の賄賂だったら、見逃していたかもしれない。しかしフランスに限らず、スポーツの世界の賄賂体質にはむかついていたのだから、アジアの非白人国の賄賂疑惑をこれ幸いと利用して、この世界の正常化を図ろうとしているんじゃないかと、私は踏んでいる。

あの時は、日本以外のどこの国もあまり注目していなかった「お・も・て・な・し」に、自分だけでウケていた観があり、私としてはかなりシラけていたのだが、まあ、「表なし」で「裏があった」ということだったと知って、「さもありなん」ということになったわけだね。これを機会に、スポーツの世界もあまりあさましいことをしないようになってくれれば幸いというものだ。

【2019年 1月 17日 追記】

今回のフランス政府による竹田 JOC 会長の起訴は、日本では 「ゴーンの一件の意趣返し」 なんていう報道が結構多いが、私としては 2年半以上前の話に関して、「フランス、やっぱり本気だったのかな」と思っている。

 

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2016年5月16日

子供の頃は、イノシシって想像上の動物と思っていた

名前は忘れたが、ラジオに出ていた芸人が自分の出身地がいかに田舎かを言うジョークとして、「十二支すべての動物が出没します」なんて言っていた。「さすがに虎は出ないでしょ!」というツッコミに、「いやいや、毎年虎と竜の被害がスゴいんです」と、かなり根性の入ったボケをかましていた。そこまで言えれば大したものである。

自分のことを言えば、十二支の中で想像上の動物である龍(つまり辰で、私の干支)を除くと、未だに生で見たことのないのがイノシシである。さすがにトラを生で見たのは動物園だけだが、その他はフツーの生活の中で生で見たことがある。あまり田舎に縁のない人はサルも動物園でしか見たことがないだろうが、東北では奥羽山脈に分け入ればサルはいくらでもいる。

また、ヒツジも日本人には案外馴染みがなく、動物園以外でみたことがないという人も多いだろう。それに関しては、昨年の正月に「羊を巡る小さな冒険」という記事で、日本人はどうしてヒツジを数えても眠れないかを解き明かしている。要するに、日本人はヒツジに馴染みがないから、それを数えようとすると想像力が必要になって、つい脳が活性化してしまうのである。

イノシシの話に戻ろう。私の場合、イノシシは動物園ですら見たことがない。イノシシの北限は、太平洋側では宮城県南部とされていたが、温暖化の最近は岩手県まで進出したという説もある。しかし日本海側は雪が深いので、さすがに私の生まれた山形県では見られない。イノシシは足が短いので、雪の中では思うように動けず、冬を越せないのだろう。

だから子供の頃はイノシシなんてまったく縁遠い存在で、想像上の動物ぐらいに思っていた。北海道の人たちはゴキブリを知らないなんて言われているが、私はイノシシを知らずに育ったのである。

里山に近いところではイノシシが普通に出てきて、夜になると畑を荒らすなんて知ったのは、関東に出てきてからである。さらに福島では原発事故のために避難地域となった辺りで、イノシシが爆発的に増えているらしい。想像上の動物なんてもんじゃない。

しかし関西の山間部に住む人の話によると、いくら山里でも昔はそんなにイノシシの害に悩まされることなんてなかったという。集落と里山との間の地域が開発されすぎた結果、人とイノシシとの間の緩衝地帯が消滅して、イノシシが直接畑に現れて荒らすようになったのではないかと言う人もいる。

なるほど。それを言ったら、東北方面でのクマも似たような状況にある。ということは、山間部の限界集落と言われるところに、今後人が住まなくなってしまったら、人とイノシシやクマとの関係も元に戻るだろうか。

 

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2016年5月15日

経費支出の公私混同

東京都知事の政治資金の私的流用が取り沙汰されている(参照)。家族旅行のホテル代や私的な備品代を政治資金として支出していたようだ。しかもそれが結構高額なので、都知事になってからのやたら豪華な出張の件も合わせ、「この人、かなり金遣いの荒い人だなあ」と思ってしまう。

ただ政治資金に限らず、経費の公私混同というのは決して珍しくないことで、中小企業の経営者なんて、家族の牛乳代まで会社の経費で払ってるなんて言われきた。とにかく「経費で落とせるものはなんでも落とす」のが、この世界の常識みたいになっている。舛添さんを批判する人は、その辺りのことはさぞかしきれいに処理しているのだろうと思うが、実際はどうなんだろう。

私が自分の会社(私一人だけのワンマン・カンパニーだが)を作った時、税理士からは「どんなものでもいいですから、領収書は保存しておいて下さい。個人的な外食代や、ちょっとしたコンビニでの買い物でも、できるだけ経費で落とすといいです」と指導された。この世界ではそれが当然なのだそうだ。

だがそういうのって、何となく気持ち悪くて性分に合わないので、個人的な支出は会社の経費にはしていない。税理士からは、「なんでもいいですから、もっと領収書を保管しておいて下さい」と言われたが、結局従っていない。

舛添さんはこうした「世間の常識」に関して、気持ち悪いとは思わない性分なんだろう。そしてそれは、舛添さんだけというわけじゃない。しかしよく考えれば、こうした税理士の指導って「気持ち悪くて性分に合わない」どころか、れっきとした犯罪じゃないか。

思い返せば、亡くなった父は脱サラして零細企業を始め、まあまあ成功した部類に入るのだが、家族で食事をしても領収書なんかもらっているのを見たことがない。昔はレジから自動的にレシートが出てくるなんてことも少なかったから、手書きの領収書を書いてもらうことになるのだが、父はそんな面倒なことは要求していなかったと思う。

父は零細企業経営者としては、多分少数派に属するタイプだった。出張の際の食事代ぐらいは多分経費扱いにしていたと思うが、仕事とプライベートはかなりきちんと区別していた。私にはその父の血が流れているので、こんなような性分になってしまったのだろう。

そして父は、自分がきれいな経理をしているからといって、公私混同している連中を批判するなんてこともなかった。「俺はそういうことはしないから」と言うだけで、他人まではどうこう言わなかったのである。私はそんなところまで父に似てしまったようで、このブログで鬼の首でも取ったように舛添さんを批判しまくったら、さぞかしウケるだろうが、どうもそんな気にはなれないのだよね。

そりゃまあ、「困ったもんだ」とは思うが、それを本気で言い出したら、世間一般がほとんど「困ったもんだ」ってなことになってしまう。このブログはその昔、「世の矛盾を爽快に斬りまくる」なんて言い方で紹介されたことがあるが、私は「斬りまくる」なんてことはしたくないんだけどなあ。その辺のことは、9年前に "そりゃ、「斬る」方が楽さ" というタイトルで書いたまんまである。

 

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2016年5月14日

近頃台頭している 「ぶっちゃけ本音主義」

去年の夏、「生き返ったヒラリー・クリントン」という記事を書いた。10年前に「ヒラリーは、ただスマートなだけかも」と書き、8年前には「賞味期限切れのヒラリー」とまで書いたが、なんと周回遅れで復活しちゃったので、それまでの発言を修正したのだ。まあ、「ただスマートなだけ」というのは、まだまだ払拭されてないけどね。

そして去年の夏の記事では、ことのついでに「怖いもの見たさ人気のドナルド・トランプ」なんて書いていたのだが、それについても反省しなければならない。トランプ人気は、単なる「怖いもの見たさ」なんかじゃなかったようだ。

今年の 1月に「ドナルド・トランプと『本音主義』 の危なさ」という記事でも触れたが、それがいよいよ現実のものとなってしまった。今から思えば、ヨーロッパでの排他的政策を掲げる極右政党の躍進とも一脈通じる流れとして捉えておかなければならなかったのだろう。直近のフィリピンでのロドリゴ・ドゥテルテにしてもそうで、世界は今、身も蓋もない「ぶっちゃけ本音主義」に傾斜しているようなのである。

そもそも米国という国はそうした傾向の強い国だった。これまではそうした「本音」を大きな声で言う候補者がいなかっただけで、それをドナルド・トランプが始めてやってみたら、なんと大人気になってしまったのである。

このまま行けば、米大統領選はヒラリー・クリントンとドナルド・トランプの対決になるのだろう。常識的に考えれば、ヒラリーが勝つと予想されるが、トランプが好きな中西部の連中は、たいていヒラリーみたいな女が嫌いだから、どう転ぶか知れたもんじゃない。

こうした「ぶっちゃけ本音主義」の台頭というのは、実は民主主義そのものの危機なのかもしれない。この危機を乗り越えるのは、1月の記事でも触れたが「建前論」である(参照)。「建前」は「本音」の前では無力に見えるかも知れないが、「ぶっちゃけ本音主義」で突き進む「業」の暴走をくい止めるのは、「きちんとした建前」だろうと思うのだ。

 

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2016年5月13日

12年前に原爆ドームを目の当たりにして思ったこと

バラック・オバマが、現職の米国大統領としては始めて原爆ドームを訪問するという。いいことだと思う。米政府はこれが原爆投下の謝罪につながるものではないと、かなり神経を使ってアピールしているが、日本人の多くは、どこかの国のように執拗に謝罪を求めるつもりはなく、ただ「訪問すること」に意義があると感じていると思う。

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私は 12年前の 3月に、始めて原爆ドームを訪れた。上の写真はその時に撮ったものである。12年前のコンデジって、こんなに解像度が低かったっけと思うほどの写真だ。この時のことは、当時の「和歌ログ」に「世の中のなべての人よ来て見よやおのが遺伝子の為せるこの業(わざ)」という歌とともに、次のように記した (参照)。

これは、すべての人が訪れて生で見るべき世界遺産だ。我々のすべての遺伝子の中に、こんなことをしでかした資質が組み込まれているのだと思うと、悲しささえ覚える。

すべての暴力的遺伝子の、最大限に発揮された結果がこれだ。小さな 「いじめ」 から 世界戦争に至るまでの元になる遺伝子の象徴だ。こんな遺伝子情報を発動しないように、常に「スイッチ・オフ」にしておかなければならないと思った。

「世の中のなべての人よ来て見よや」という上の句のとおり、私は世界の全ての人がこの原爆ドームを訪れてみるべきだと思った。そして「おのが遺伝子の為せるこの業(わざ)」を目の当たりにすべきである。こんなことをしてしまったのは、人間の中にある暴力的な遺伝子である。

だから私は、米国大統領に謝罪を迫ろうとは思わない。どうせいくら言ったって謝罪なんかしないだろうし、そもそもこの世界遺産の意義は、米国が広島に原爆を落としたという、ただ一つの事実だけにフォーカスされるものではない。もっと大きな広がりをもつべきなのだ。

原爆ドームを訪れた人間がその次にすべきなのは、自分の中の過激な暴力的遺伝子を「スイッチ・オフ」することだ。そこに気付くことが重要である。

 

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2016年5月12日

結婚式の記念キャンドル

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昨日の和歌ログ のネタだが、押し入れから巨大キャンドルが出てきた。左がその画像である。上から撮ったので単なる円柱のように見えるが、実際には下の方がかなり膨らんでいて、安定して立つようになっている。

これは私たち夫婦の結婚式の際にメインキャンドルとして使い、そのまま式場から記念に贈られたものである。25まで目盛りが記されているということは、趣向としては結婚記念日の度に灯し、25年目の銀婚式まで夫婦でまったりしてくださいということのようだ。

そして 25の目盛りの下にもかなり余裕がとってあり、さらに下の方がずいぶん太いので、うまくやれば 50年目の金婚式までもたせることも十分可能だと思う。昔は夫婦揃って結婚 50周年を迎えるのはかなり難しかったが、平均寿命が延びたので、近頃はあちこちで金婚式のお祝いの話を聞く。ところが今度は晩婚化の傾向なので、金婚式の難度は再びアップするだろう。

ところで我が家のキャンドル、11の目盛りまでは消えているが、12からこっちはしっかりと残っている。残っているだけじゃなく、なんだか煤に汚れてしまって、結婚記念日に灯すという風情でもなくなってしまった。それに私たちの銀婚式なんて、14年も前に済んでしまったというのがお笑いぐさである。

このキャンドル、11年目の結婚記念日まではちゃんと毎年灯していたというわけでもなく、停電の時の灯りとして使っていただけという、まったく身も蓋もない話なのである。私たち夫婦は、結婚記念日の度にキャンドルを一目盛りずつ灯すなんていう妙にロマンチックな趣向には、あまり興味がないということになるわけだね。

結婚して 3年目にここつくばの地に移転してきたわけだが、当時は台風や大雪の時など、年に 2〜3度は停電してしまうことがあったので、このキャンドルはずいぶん重宝したのを覚えている。停電が長引くと、3〜4年分ぐらいは一挙に進んでいたが、その後は停電なんて滅多に発生しなくなったので、11の目盛りを越えた時点で停まってしまっていたわけだ。

本来なら、この写真にある半分以下の高さになっていなければならないのだが、今さらそれに追いつこうとしたら、一日中灯していても追いつかないだろう。まあ、これから停電することがないともいえないので、その時のための非常備品として捨てずに置こうと思う。

 

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2016年5月11日

「祥月命日」は「正直なところの命日」だと思っていた

昨日は母の祥月命日で、それに関した「ある話」はもうとっくの間に書いたことだと思って、このブログの中を検索してみたのだが、見当たらない。「いや、そんなはずはない。確かに書いた」と、さらに検索してみたら、「和歌ログ」の方の 6年前の本文に書いていた (参照)。

どういう話かというと、「祥月命日」という言葉の意味についてである。若い人の中には、単なる「命日」と「祥月命日」の区別がつかない人もいるだろうから、念のために書いておく。

「命日」は毎月あり、「祥月命日」は 1年に 1度である。例えばじいさんが 10年前の 8月 10日に亡くなったのだとすると、毎月 10日が「命日」である。そして月まで同じの 8月 10日というのが「祥月命日」となる。

私の生まれ育った庄内はかなり訛りのきつい地域なので、「祥月命日」を「しょっづぎめーにづ」と発音した。そして「正直」も「しょっずぎ」なので、耳で聞いただけでは「祥月」と「正直」の区別はほとんどつかない。だから子供の頃は「祥月命日」は「正直命日」なのだと思っていた。

うちの田舎は信心深い土地柄で、黙っていてもお寺の和尚さんが直近に亡くなった先祖の命日にやってきて、仏壇に向かって読経し、こちらはその度にいくらかのお布施を出す。

そして 1年に 1度の「祥月命日」になると、家人は「おお、今日は『しょっづぎめーにづ』(あるいは 『しょっづぎび』)だ」 と言って、仏壇を念入りに掃除したり、特別のお供え物をしたりする。そして和尚さんのお経もちょっと長めになる。

というわけで幼い頃の私は、毎月和尚さんがやってくる命日は、和尚さんがお布施をもらうための「嘘んこの命日」で、1年に 1度だけ「正直なところの、つまり本当の命日」がくるのだと思っていた。

それが誤解だと知ったのは、なんと高校の頃だったような気がする。普段接する活字の世界では、それほどまでに「祥月命日」なんて言葉にお目にかかることがなかったということだ。

最近では、毎月の命日にとくに懇ろに供養するなんて風習も薄れて、「命日」と言えばほとんど祥月命日のことを指すようにさえなった。だから「祥月命日」を「正直なところの命日」なんて誤解してしまうようなこともなくなった。

しかし私の子供の頃の誤解はなかなか 「味な誤解」 だったと、今でも思っている。

【2023年 8月 15日 追記】

「祥月命日」の庄内弁発音についてよくよく検索してみたところ、2003年 3月 4日付の「庄内弁ではのぅ」という記事で次のように書いているのだった。だから、この日の記事は二度目ということになる。ちなみに 2003年の庄内訛り表記の方がより土着的だ。

「祥月命日」 のことを 「ショズギメーヌズ」 という。「祥月」 も 「正直」 も同じ発音になる。だから私は子供の頃、毎月の命日は 「うそんこの命日」 で、年に一度だけ 「正直なところの命日」 があるのだと思っていた。

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2016年5月10日

母の命日

今日 5月 10日は、母の祥月命日である。亡くなってから 9年経ったわけだ。早いものである。

母は天真爛漫な女性だった。酒田のちょっとした家の娘として生まれたが、いろいろな事情で子供のなかった私の戸籍上の祖父母の養女となり、かわいがられはしたが、それなりに苦労もして育った。ただ、養女とはいえ一人娘だったこともあり、父が婿入りしてきたため、舅、姑に遠慮して暮らすという経験をしなかった。それであの天真爛漫さは失われることなく、晩年まで保たれたのだろう。

天真爛漫かつ単純な人というのは、誕生日と命日も単純で覚えやすいものになるようだ。誕生日が 10月 30日で、命日が 5月 10日というのだから、とにかく忘れにくい。得な誕生日と命日である。

私の誕生日は 7月 26日だが、生前の母によく「お前の誕生日はいつだっけ?」と聞かれた。「自分で産んどいて、覚えてないのかよ。まあ、10月 30日よりはずっと覚えにくいだろうけど」と思ったものだが、よく考えてみれば、だいぶ早くから認知症の傾向は出ていたのだろう。認知症になると、固有名詞と数字は覚えていられないようだ。

認知症の上に重度のリウマチで、左手の指先以外は動かなくなり、晩年の 7年間はベッドの上で寝たきりの生活になった。父はよくまあしっかりと世話したものだと思う。私たち夫婦と妹も、隔月交代で実家に行き、母の世話を手伝った。思えば、7年以上、2ヶ月に 1度クルマで帰郷していたのである。これもまあ、よくやったものだ。

7年以上も家族が喜んで母の世話をしたのは、母の性格が幸いした。母は認知症になってからもずっと天真爛漫で、ぼうっとしているか、嬉しそうにしているかのどちらかだった。あれで暗かったり暴れたりなんかしたら大変だったろうが、世話するといかにも嬉しそうにするので、つい世話してしまうのである。本当に得な性格の人だった。

私が母から学んだのは、嬉しい時には嬉しさを素直に表現するということである。

 

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2016年5月 9日

「適当な時に死ぬ義務」ではなく「適当な時に死ぬ権利」

一昨日の「健康というもの」という記事のコメントで、ハマッコーさんが、曽野綾子氏の『週刊ポスト』上での発言を紹介してくださっている。

曽野氏は 90歳過ぎの老人をドクターヘリで救急搬送したことに端を発し、それは「利己的とも思える行為」と批判し、こうした高度な医療サービスについて「法的に利用者の年齢制限を設けたらいい」と発言している。そして「高齢者は適当な時に死ぬ義務あり」と言っているわけなのだ。

この発言に対しては「あなたからどうぞ」という、「当然そう言われるだろうな」的反発を始め、中には「『高齢者は命令されたら死ね』と発言したに等しい」なんて、さすがに「そこまで言ってないだろ」と言いたくなるような感情的な反応まであって、かなり物議を醸したようだ。まあ、この人の発言は、いつもこんなことになる。

私としては、人は必ず死ぬのだから、敢えて「適当な時に死ぬ義務」なんて言い出さなくてもいいと思っている。逆に、高齢者に限らなくても「人は皆、適当な時に死ぬ権利がある」と言い換えたいほどの気持ちだ。「高齢者」だけでなく「人は皆」ということなので、高度な医療サービスについての年齢制限も必要ない。命は年齢とは関係なく平等だ。

その上で私が「死ぬ権利」なんてわざわざ言うのは、最近はなかなか死なせてすらもらえない風潮があると感じているからである。曽野氏の発言の発端となったらしい「90歳過ぎの老人のドクターヘリでの救急搬送」ということにしても、これは憶測だが、当人の希望というよりも周りの判断によるものだったんじゃなかろうかと思うのだ。

曽野氏は「『いくらでも生きたい』は傲慢」と発言しているようだが、実際問題としては、当人は「早く逝かせてくれ」と思っていても、周囲が「死なせたくない」として延命治療を希望するケースの方が多いと思っている。要は「当人の傲慢」というよりは、「世間の気分」なのだ。

私は過去に危篤の病人を何度か見舞ったが、彼らの多くは既に自力で生きる力を失っていて、体中パイプだらけになり、機械的な人工呼吸で胸が強制的な収縮を繰り返していた。付き添いの家族としてもそうした姿はあまり人に見せたくないらしく、「こんな状態ですから......」と、言外に「長居は無用。さっさとお引き取り下さい」と要求するのだった。

そうした姿を見る度に、私としては率直なところ、「ああ、この人は既に十分に生きた。今は早く楽にさせてあげたい」と思うのだった。そして大抵は数日後に訃報が届く。あのような最期の延命治療は、「当人のわがまま」というよりは、周囲のエクスキューズの手段のように思われる。そのエクスキューズは、「できるだけのことはした」という自己満足のためと、周囲から薄情呼ばわりされないための防御柵である。

というわけで私は「その時がきたら、延命治療はしないように」と、常々周囲に言っている。延命治療をせずにごくフツーに死なせても、家族は「あれは当人のたっての希望なので」と言えば、周囲から無責任な批判を受けずに済む。

というわけで「適当な時に死ぬ権利」なのである。

 

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2016年5月 8日

収納の 8割は、分類整理すること

私も一応「妻」という女性と一緒に暮らしているので、女性雑誌や女性を主なターゲットにしたインテリア雑誌などに目を通すことがある。で、こうした雑誌は「収納」を繰り返し特集しているという印象がある。

あれだけ繰り返して特集を組んでいるところをみると、「収納特集」の号は売れ行きがいいのだろうと想像される。ところが率直な感想を言うと、この手の雑誌の収納特集は、あまり役に立たない。とくにファッション性の高い雑誌の収納特集ほど、ほとんど絵空事だ。

例えば「衣類の収納」のページでワードローブの写真なんかをみると、ハンガーにかけられた服が、シャレオツなブティックみたいなイメージでパラパラっと並んでいる。収納の専門家ではなく。ディスプライの専門家の手によるものだろう。こんなのを見ると、「ウッソだろ!」と叫びたくなる。本当は小ぎれいな感じでは到底収まりきれないほどぐちゃぐちゃっとあるから、みんな苦労してるんだろうよ。

書棚なんかも同様で、美術系の本や写真集なんかが慎ましく並び、たっぷりした隙間には洒落た置物が飾られている。これも「ウッソだろ!」 である。蔵書がこの程度しかないとは、よっぽど本を読まない人間だろう。

「主婦も書斎やデスクスペースを」なんてテーマのページでは、ちゃっちいデスクにおよそ実用的じゃないノートがパラパラっと置いてあるだけというのが多い。最近は申し訳程度にノート PC が登場するようになったが、インターネットに接続するルーターの置き場所がなかったりする。

こんなのを読まされていたら、収納なんか上手になるわけがない。深読みすれば、読者がいつまでも収納下手のままでいるからこそ、雑誌社は何度も何度も繰り返して「収納特集」を組むことができる。収納特集を読んで本当に収納が上手になられたりしたら、編集部は困るのである。

それで大抵の収納特集は、「単にお洒落なだけで実用性皆無」の雰囲気だけのものだったり、「全体のディレクションが無視されて、部分的な収納アイデアが満載」の実は面倒なだけのものだったりする。あんなものを参考にしていたら、まともな収納なんてできない。

というわけで、我が家の収納メソッドはここ 10年以上、ほとんどすべて私がお膳立てしている。女性雑誌の収納特集なんかでは、「カテゴリーや使用頻度に応じて分類整理し、しかるべきものをしかるべきところに収める」という原則が理解されにくい。

収納作業の 8割は上手に分類整理することで、それさえできれば、実際の収納作業は、2割ほどでしかない。そしてその「分類整理」の 5割ぐらいは、「不要なモノを捨てる」ということになる。

 

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2016年5月 7日

健康というもの

ありがたいことに健康で、あまり医者にかかったことがない。とはいえ、まったく医者いらずというわけではなく、調べてみると、ここ 5年間で歯科医には何度か通っているし、老眼が進んで眼科の世話にもなった。歯と目だけは年には勝てない。それ以外では、春先に何度か花粉症で医者にかかり、捻挫で接骨院にかかったこともある。

というわけで、風邪を引いたとか腹具合が悪いとかいうことで医者にかかったのは、遙か昔のことのような気がするし、ましてや命に関わるような病気や怪我というのもない。近頃は、「自分はややこしい病気にはならない」と思い込んでいるようなところがある。

煙草を吸わず、酒は 週に 1度か 2度軽く飲むだけで、さらに最近は自転車なんてものを始めて、20km以内なら当たり前のように自転車で移動するようになったおかげで、メタボも解消して体力も戻った。ますます病気とは縁遠くなっている。

世の中には「健康オタク」というのがいて、「体にいい」と聞けばいろいろな食材を試し、さらにロイヤルゼリーや黒酢なんとかなんてものを飲み、ジョギングやウォーキングにはげみ、寝具や入浴剤にまで気を配ると聞く。しかし自分自身について考えると、実は「健康」ということにはあまり興味がない。

「健康」というのはごくフツーの状態だと思っているので、強いて追い求めようという気になれない。金をかけて健康を追い求めても、死ぬ時には死ぬのだし、別にどうでもいい気がしている。しかし考えてみれば、「どうでもいい」と思えるのは自分が健康だからで、病気がちの人にしてみれば、なんとか手に入れたいと思うのが「健康」というものなのだろう。

去年の 3月にも書いたが(参照)、私の意識としては、健康で長生きしたいなんて思いはもとよりなく、死ぬ時がきたらあっさりと死にたいということの方が大きい。日常的に運動しているのは、その方が楽に生きられるからである。常に体のどこかに軽い筋肉痛があるぐらいの運動をしていると、筋肉が衰えず、太らずにも済むので、その方が楽に体を動かせるのである。

そしてその程度の負荷(「無理」 と言ってもいい)を体にかけていると、その時がくればあっさりと死ねると思っている。無駄に体をいたわってじわじわと死ぬよりは、常にちょっとした無理をして、あっさりと死ぬ方がいい。

 

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2016年5月 6日

二の足踏んだら三の足

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昨日付の毎日新聞に、共同通信社の実施した世論調査の結果が掲載されていた。選挙権年齢が「18歳以上」に引き下げられるのに伴い、6月末までに 18、19歳になる人を対象にした意識調査である。

この調査では、この夏の参院選に「必ず行く」「行くつもりだ」との回答は計 56%で、「行かないつもりだ」「行かない」は計 12%。残り 32%は「今はよく分からない」との回答だった。少なくとも半数以上は選挙に「行く」と答えているわけだ。

しかし、これは全然アテにならない。この記事も次のように皮肉に結ばれている。

 

設問の違いなどで直接の比較はできないが、2013年 7月の参院選の前に、毎日新聞が 20歳以上の有権者を対象に行った電話世論調査で、投票に「必ず行く」と答えたのは 60%、「たぶん行く」30%、「たぶん行かない」5%、「行かない」2%だった。実際の選挙区の投票率は 52.61%。

つまり、20歳以上の有権者を対象とした調査で 80%が「行く」と答えていたのに、実際の投票率は 53%に満たなかったのである。この傾向に関しては私も 12年前の記事で「ウソばっか!」と嘆いている(参照)。この年の参院選では、読売新聞の世論調査で「(投票に)必ず行く」が 77%になったが、実際の投票率は それより 20ポイント以上も低い 56.44%だった。この類いの調査って、大抵はこんなもんだ。

「選挙に行くか?」と聞かれたら、多くの人は「行く」と答える。しかしその中のかなり多くが、実際には行かない。聞かれた時には何となくカッコつけて、「必ず」か「多分」かの程度の違いはあるとしても、つい「行く」と答えてしまう。そして結果としては自分の言葉を裏切るケースがかなりの比率になる。

なるほど、これが「二の足」さんというものかと思う。「二の足」さんとは、"emi's" というブログを書いておられる emi さんの造語のようなのだが、要するに「二の足」を踏んじゃう人たちのことである。ワークショップなどの募集をすると彼らは、「おもしろそう」「やってみたい」という反応を示す。しかし実際には参加しない。詳しくは、次の 2つの記事を参照すると 「な〜るほど」 と思うだろう。

二の足
続・二の足

emi さん自身は「一の足」タイプなので、「やってみたい=やる」「やらない=やってみたくない」と単純に割り切るというのだが、「二の足」さんたちはそうじゃないようだし、どうやら質問者に対して「気を遣っている」というわけでもないらしい。「興味あり」と「実際行動に移す」ということの間に、結構なギャップがあるとしか言いようがないのだ。

私はこうした傾向に関しては単純に「ウソばっか!」と思ってきた(私も「一の足」タイプのようなので)のだが、emi さんの分析を読んで、「なるほど、まんざらウソばっかってわけでもなかったのね」と納得するようになった。要するに「二の足」なのだね。そうとしか言いようがない。

総務省や選挙管理委員会あたりは、「二の足」さんたちが実際に投票所に足を運ぶことができるような、さりげなく背中を押してあげる環境作りをすることが求められるのかもしれない。「二の足踏んだら三の足!」なんていうようなテーマの、投票促進キャンペーンである。でもまあ、お役人たちはやらないだろうね。発想は案外理解できても、実際にはきっと「二の足」を踏んじゃうだろうから。

それに「二の足」さんたちは、「三の足」を踏み出そうとしても「四の足」を踏んじゃうかもしれないし。

それからもう一つの分析。今の 17〜18歳は、「行く」(「必ず」と「行くつもり」の合計) と答えたのが 56%と、ちょっと前の読売新聞の調査の 20歳以上の 77%が「必ず行く」と答えたのに比べれば、かなり正直な数字に近付いているようなのである。実際の結果がこの数字に近かったら、最近の 10代は「二の足」さんの比率がとても低いことになる。

 

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2016年5月 5日

自分の会社が「好き」ですか?

「千日ブログ ~雑学とニュース~」というサイトに「社畜が多い日本でまさか! 世界一会社を嫌いな日本人 信頼も最低」という記事がある。いろいろな調査で、日本人の自分の会社に対する "engagement" 意識の低さが明らかにされているのだそうだ。

ギャラップ社の調査によると、下の表のような具合だという。ちなみにここでは便宜的に、「Engaged: 会社が好き、Not engaged: 別に好きじゃない、Actively disengaged: はっきり言って嫌い」というような意味合いと解釈してそう大きな間違いはないだろう。

国名 Engaged
(%)
Not
engaged
(%)
Actively disengaged
    (%)
米国 30 52 18
ブラジル 27 62 12
オーストラリア 24 60 16
イギリス 17 57 26
ドイツ 15 61 24
フランス 65 26
日本 69 24
中国 68 26

 

なるほど、確かに日本人は会社が好きじゃないようだ。もっとも中国人は日本人以上に会社が嫌いのようだが、「日本人は勤勉で会社に忠実」というイメージからすると、外国からみたらかなり意外な数字と思われるだろう。そしてこう言っちゃナンだが、フランス人と中国人の数字はかなりイメージ通りだと思う。

で、日本人の数字だが「会社が好き」なのはわずか 7%で、69% は「好きじゃない」と答え、24% は「はっきり言って嫌い」としている。フツーの考え方からしたら、「じゃあ、どうして日本人は好きでもない会社の仕事を、そんなに勤勉にこなすのか?」という疑問を投げかけられるだろう。

その答えは簡単だ。日本人は仕事を楽しそうにこなしても、そんなに誉められないのである。逆に、いかにも苦労している風に仕事をしていると、評価してもらえる。「苦労イコール勤勉」なのである。「仕事を楽しくこなす」なんて態度を示したりしたら、「勤勉なヤツ」とはまず思ってもらえない。

だから「会社が好き」なんてことは、あまり言っちゃいけないのである。苦労の場である会社を「好き」なんて言うと、「頭おかしいんじゃないの?」なんて思われかねない。そんなのは、就職試験の面接以外の場で言うべき文脈ではないのだ。就職前は「貴社が好き」と言わないと採用してもらえないが、就職して「自分の会社」になったとたん、言いにくくなる。

ただ、ビミョーな感覚ではあるが、「会社」ではなく「仕事が好き」ということなら、時と場合によっては言うべきだと思われている。とくに仕事の後の飲み会などでは、上司に対してそれをアピールすると、覚えがめでたくなったりする。「苦労が好きな勤勉なヤツ」と思ってもらえるのだ。

ところがいくら会社の飲み会でも「会社が好き」なんて口走ろうものなら、ちょっと白い目で見られることになりかねない。日本の仕事社会というのは、なかなかビミョーで難しいものなのだ。おもしろい国だね。

ちなみに私自身は、「企業内個人事業主」みたいな立場の仕事しかしたことがないので、勤め人だった頃も、「会社はクライアント」という意識で働いていた。別に好きも嫌いもなく、「請け負っただけの結果はきちんと出しますよ。それで文句ないでしょ」という感じだったなあ。

 

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2016年5月 4日

「気持ち」という便利な単語

やや「今さら」感のあるテーマだが、ベッキーというタレントの例の不倫云々ということについて、ちょっと書きたいと思う。

ただ、是非とも書いておきたいというようなテーマでもなく、ネタ枯れの時期の埋め草なので、読んでくれる人も「そうそう、そうだよね!」ってな感じで膝を打ってくれるような内容にはならない。なにしろ私はベッキーというタレントの顔は知っているが、相手の何とか乙女のかんとかいう男については何も知らないのだから、深いことなんか書けるわけがない。

基本的に私は、タレントが不倫云々で休業するということに、あまり興味がない。そんなようなことでいちいち休業しなければならないのだとしたら、もっとずっと多くのタレントが休業していなければならないだろう。要するに、世間にバレちゃったのがいけないのだ。

どうやら CM 関連のスポンサーが視聴者の反発を恐れるというのが大きなファクターらしいが、私個人としては、そんなことでいちいち反発するほどヒマじゃないよと言うほかない。色恋沙汰なんて当事者同士でテキトーにやってくれればいい話で、こっちは別にカンケーない。

しかしこの分野では、そんなことでいちいち反発するようなヒマな人が、大きな影響力を発揮するようなのだね。テレビ局やスポンサーに抗議の電話をかけたりするんだから、そんな電話の応対をしなければならない側としては、そりゃあうっとうしくてしょうがないだろう。

とにかく、どーでもいいことでやたらといろんなことを言わなければならない世界のようなのだ。しかし所詮「どーでもいいこと」なので、それに対しての言い草も「どーでもいい」言い方になる。ただ、その「どーでもよさ」が、曰く言いがたい趣きがあって、それはそれでちょっと面白い。

何が「面白い」のかというと、ベッキーというタレントが週刊文春に寄せたという手紙の内容である。曰く言いがたい「どーでもよさ」をもっともらしく書き連ねると、こんな感じになるのだなあと、私は半分は感心してしまった。私にこういう文章を書けといっても、まず無理だ。ある意味、たいしたものである。

Intergate というサイトにその手紙の全文が載っている(参照)ので、そこから一部を引用する。

出会って好きになった後に奥様がいることを知りました。そこで気持ちをとめるべきでした。

川谷さんへの気持ちはもうありません。

文春さんで奥様が話された記事を読み、そこで初めて奥様のお気持ちを知り、自分の気持ちの整理がつきました。

私がとった軽率な行動は謝って済まされることではありませんが、せめて奥様の前で頭を下げてお詫びをさせていただければと思っております。

記者会見についてですが、私は気持ちの整理もつかないまま会見の場に立ちました。

短い 5つのセンテンスのうちに、「気持ち」という単語が 5回も使われていて、しかもそれぞれ意味合いはビミョーに異なっている。「それぞれの『気持ち』という言葉は、以下の何をさしているか」 なんて、現代国語の試験問題が作れそうだ。

まあ、コトの内容をぼかすには、ちょうどいい便利な単語なんだろうね。とくに「気持ちはもうありません」という言い方は、ちょっと「気持ち悪い」けど。一方で「ぼかし」だけにとどまらない凄みすら感じてしまう。こうしたレトリックを学ばなかったことが、私の世渡り下手を象徴しているんじゃないかとさえ思った次第である。

 

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2016年5月 3日

北秋田への出張から戻った

秋田県北部への一泊二日の出張から帰った。秋田県北部というところは、はっきり言って陸の孤島である。東京から鉄道で行くとすると、まず秋田新幹線 「こまち」 の終着、秋田駅まで行く。この秋田新幹線というのは東北新幹線の車両と連結されていて、盛岡で切り離されてようやく秋田新幹線に入る。

ところが盛岡から先は新幹線とは名ばかりで、在来線、しかも単線である。だからところどころの駅で、すれ違う電車の待ち合わせをするという、「なんちゃって新幹線」だ。ちなみに山形新幹線も同様に、福島で切り離されてからは「なんちゃって」である。要するに、乗り換えの手間がいらないというだけのことだ。

で、昨日は午後一番に自宅を出発して、日の暮れた頃に秋田駅に着いた。とりあえず、秋田駅近くのホテルに前泊である。秋田新幹線の車内のエアコンは「送風」になっていたようだが、午後 5時近くになってからは結構肌寒くなり、それまでバッグにしまっておいた上着を羽織った。そして秋田駅に着いてみると、道行く人の多くはコートやパーカを羽織っている。まだ春になったばかりという風情で、関東とは季節が違う。

で、今日は朝一番でホテルをチェックアウトして、奥羽本線弘前行きの電車で秋田県北部、その名も北秋田市の鷹ノ巣という駅に向かった。これがまた、1時間半以上かかる。今日は天気がよくて途中の景色は抜群だったが、なにしろ陸の孤島である。そこからまたタクシーに 40分近く乗ったところが目的地だ。

その辺りは電車の運行が 1時間に 1本程度しかない。だから仕事は早々に済ませ、昼過ぎにはまた 40分近くタクシーに乗り、1時間半以上電車に揺られて秋田駅まで戻り、そこからまた秋田新幹線に乗り換えて、自宅に戻ったのは夜の 10時半である。できれば二泊三日でゆっくり行きたかったところだが、他の予定もあったので、一泊二日の強行軍となった。

今度行くチャンスがあったら、できれば三泊四日にして、秋田から弘前、青森まで足を伸ばし、青森県を横断して、東北新幹線で八戸周りで帰って来たいと思った。まあ、それほど見所は多い地域である。見所と行っても、賑やかな観光地ではなく、白神山地などを含む自然の真っ只中という意味だが。

秋田県北部は、陸の孤島という意味では、私の出身地である山形県庄内地方と似ている。庄内地方も山形新幹線だけではたどり着けず、どちらかといえば、上越新幹線で新潟まで行き、そこから特急に乗り換えて、海岸線をえっちらおっちら行く方が、まだ早く行ける。ただ東京からの距離という点で、北秋田はずっと陸の孤島度が高い。そしてその分、自然の見所が一杯である。

北秋田は桜が満開だった。ところが関東に帰ってみると、既に初夏である。蒸し暑い。日本も結構広いものである。

ちなみに鷹巣駅前商店街は、見事なまでのシャッター通りで、連休のど真ん中というのに、人っ子一人歩いていなかった。東北に行くと、街より自然の真っ只中の方がずっと豊かというのが、如実に実感される。もちろんここでいう豊かさとは、GDP に反映されない豊かさである。

 

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2016年5月 2日

鯉のぼりの虫干しイベント

昨日の和歌ログで、「楽しさともの悲しさの入り交じる風吹く中の鯉のぼりたち」という歌を載せた(参照)。ここつくばの里では、「鯉のぼり Project in 岡堰 2016」という催しが開かれていて、小貝川の岡堰という堰のある辺りが、満艦飾の鯉のぼりで溢れているのだ。

ところがこの催しが、「楽しさともの悲しさの入り交じる」という風情なのである。何ゆえ「もの悲しさ」が入り込んでくるかというと、それは少子化と大いに関係があるからだ。私はこの催しを、「各家庭に子供がいなくなって、上げられることのなくなった鯉のぼりを押し入れの奥から引っ張り出してきて、年に一度の虫干しをするイベント」だと思っている。

ここ茨城県というところは鯉のぼりの盛んな土地柄で、私がここに移転してきた 35年前頃は多くの家に満艦飾の鯉のぼりが上げられていた。ところが当時少年だった男の子の多くは今、40歳を過ぎたが、まだ独身というケースがものすごく多いようなのだ。農家の跡継ぎには嫁のきてがないのである。

一方、次男、三男は都会に出て、まあ、結婚していることが多いらしい。しかし都会暮らしでは鯉のぼりをあげるスペースなんてないから、子供が生まれても実家から鯉のぼりをもってきて上げるわけにもいかない。つまり、この辺りの農家で昔、あんなにまで満艦飾に上げられていた鯉のぼりは、今では上げられることがなくなってしまったのである。この事情については、3年前にも詳しく書いている。(参照

で、そんな行き場を失った鯉のぼりの、年に一度の虫干しをするのが、このイベントなのだろう。各家庭で盛んに上げているようだと、こんなところに集めて上げるイベントなんて成立しないのだが、こうでもしないと、親戚中からもらってどっさり眠っている鯉のぼりの出番がないのだ。

そんなわけで、「楽しさともの悲しさの入り交じる」イベントとなってしまっているわけだ。全国の田舎で似たようなイベントが開かれているようだが。どこも事情は同じようなものだろうと思っている。

 

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2016年5月 1日

「コンピューターの電源を切る準備ができました」 という表示

Gigazine に "Windows の電源オフ時に「コンピューターの電源を切る準備ができました」と表示される理由とは?" という記事がある。この表示は Windows 95 の時代からのものだそうだが、私は Windows から離れて Mac ユーザーになって久しいので、「え? Windows って、まだこんな表示がされてるの?」と驚いてしまった。

私は MS-DOS 時代から PC を使っているが、95 より前はどんな表示だったか、ほとんど憶えていない。Windows 3.1 では何かのメニューで「Windows の終了」 か何かを選択してクリックすると、MS-D0S 画面に変わり、その時点で手動でスイッチオフしていたような気がするが、定かではない。

ちなみに上述の記事にある画像によれば、「コンピューターの電源を切る準備ができました」の元々の英語表示は、"It's now safe to turn off your computer." のようだ。実はこれは初めて知った。

Windows の日本語メニューって、まるでこなれない言い回しが多いが、これもその一つのようだ。早く言えば「はい、もうコンピュータの電源を切っても大丈夫よ」ってことなのに、ずいぶん回りくどい言い方をするものである。

自分が Windows ユーザーだった時のことを思い出すと、そもそも Windows 2000 以後はシャットダウン(電源オフ)なんて、滅多にしなくなっていた。だって、いちいちシャットダウンしていたら、翌朝起動する時に、またやたらと時間がかかってしまう。私は ノート PC を閉じた時(つまり「ふた」【って言うのかな?】をパタンと閉じた時)に、休止状態になるという設定にしていた。

その日の仕事が終わったら、パタンとふたしてしまえば、自動で休止状態になる。そして翌朝ふたを開きさえすれば、前日に閉じた時と同じ状態にすぐに復帰する。Windows 98 まではこんなことをしているとすぐにメモリーにゴミがたまって頭が一杯になってしまうようで、やたらとフリーズしまくっていたが、2000 以後は、週に 1度ぐらいシャットダウンしてやりさえすれば大丈夫になったと記憶している。

ところが、世の中には仕事を終えると PC をいちいちシャットダウンする人が結構多いようなのである。よくまあ、そんな時間のかかる面倒なことをしているなあと、驚いてしまうのだが、電源オフしないで帰宅するなんて考えられないという人も多いようなのだ。

私は基本的に面倒くさいことが嫌いで、面倒を避けて手っ取り早く仕事を済ませるために PC を使うのだと思っている。ところが世の多くの人は、PC は基本的に面倒くさいもので、何をするにも時間がかかって当然だと思っているようなのだ。

手書きする方が早いのに、それではビジネス文書扱いしてもらえないから、しかたなく PC に入力していると思っている人がまだまだいることに、驚いてしまうのである。

 

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