「適当な時に死ぬ義務」ではなく「適当な時に死ぬ権利」
一昨日の「健康というもの」という記事のコメントで、ハマッコーさんが、曽野綾子氏の『週刊ポスト』上での発言を紹介してくださっている。
曽野氏は 90歳過ぎの老人をドクターヘリで救急搬送したことに端を発し、それは「利己的とも思える行為」と批判し、こうした高度な医療サービスについて「法的に利用者の年齢制限を設けたらいい」と発言している。そして「高齢者は適当な時に死ぬ義務あり」と言っているわけなのだ。
この発言に対しては「あなたからどうぞ」という、「当然そう言われるだろうな」的反発を始め、中には「『高齢者は命令されたら死ね』と発言したに等しい」なんて、さすがに「そこまで言ってないだろ」と言いたくなるような感情的な反応まであって、かなり物議を醸したようだ。まあ、この人の発言は、いつもこんなことになる。
私としては、人は必ず死ぬのだから、敢えて「適当な時に死ぬ義務」なんて言い出さなくてもいいと思っている。逆に、高齢者に限らなくても「人は皆、適当な時に死ぬ権利がある」と言い換えたいほどの気持ちだ。「高齢者」だけでなく「人は皆」ということなので、高度な医療サービスについての年齢制限も必要ない。命は年齢とは関係なく平等だ。
その上で私が「死ぬ権利」なんてわざわざ言うのは、最近はなかなか死なせてすらもらえない風潮があると感じているからである。曽野氏の発言の発端となったらしい「90歳過ぎの老人のドクターヘリでの救急搬送」ということにしても、これは憶測だが、当人の希望というよりも周りの判断によるものだったんじゃなかろうかと思うのだ。
曽野氏は「『いくらでも生きたい』は傲慢」と発言しているようだが、実際問題としては、当人は「早く逝かせてくれ」と思っていても、周囲が「死なせたくない」として延命治療を希望するケースの方が多いと思っている。要は「当人の傲慢」というよりは、「世間の気分」なのだ。
私は過去に危篤の病人を何度か見舞ったが、彼らの多くは既に自力で生きる力を失っていて、体中パイプだらけになり、機械的な人工呼吸で胸が強制的な収縮を繰り返していた。付き添いの家族としてもそうした姿はあまり人に見せたくないらしく、「こんな状態ですから......」と、言外に「長居は無用。さっさとお引き取り下さい」と要求するのだった。
そうした姿を見る度に、私としては率直なところ、「ああ、この人は既に十分に生きた。今は早く楽にさせてあげたい」と思うのだった。そして大抵は数日後に訃報が届く。あのような最期の延命治療は、「当人のわがまま」というよりは、周囲のエクスキューズの手段のように思われる。そのエクスキューズは、「できるだけのことはした」という自己満足のためと、周囲から薄情呼ばわりされないための防御柵である。
というわけで私は「その時がきたら、延命治療はしないように」と、常々周囲に言っている。延命治療をせずにごくフツーに死なせても、家族は「あれは当人のたっての希望なので」と言えば、周囲から無責任な批判を受けずに済む。
というわけで「適当な時に死ぬ権利」なのである。
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