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2016年6月に作成された投稿

2016年6月30日

運動で体重が減らなくてもいいじゃないか

Gigazine に、"「運動は健康にいいがダイエットに最適な方法ではない」という理由とは?" という記事がある。この記事には、運動をしても体重はなかなか減るものではないという事実と、その理由が述べられている。

こんなような記事が発表される背景は、ダイエットのために、つまり体重を減らすためという目的で運動をする人がいかに多いかということだ。

私自身のことについていえば、50代から還暦になったばかりの頃という、ほぼ 10年間はかなり運動不足気味で、体重が増えて困っていたが、一昨年の冬頃から自転車を始めてたおかげで、太りすぎるという悩みからはほぼ解放された。雨が降らない限り、1週間に 3日以上は往復 30km 以上の距離をペダルを漕いで移動するという生活にしているおかげで、体はかなり引き締まった。

しかし、体重はそれほど減っていないのである。一時は多分 80kg 以上あったのだが(実はその頃は怖くて体重計に乗っていないので、公式記録に 80kg 以上というデータは残っていない)、だいぶ痩せたという実感がある今でも、体重計に乗ると 75〜76 kg の間を行ったり来たりしている。当初は 70kg を切るのが目標だったが、今は諦めてしまった。

というのは、見た目はだいぶ痩せたのだが、落ちたのはかなり多くの内臓脂肪と多少の皮下脂肪である。そしてこの脂肪の減少は私自身、運動の成果というよりも、食事の量を抑えていることによる効果だと思っている。三度の食事で食べ過ぎないことや、間食をしないことが、多分運動をすることよりも体重減少には効果がある。

確かに、運動をしても体重はそれほど減るものではないというのは実感だ。私の場合、その理由は足腰に筋肉が付いてしまったことだ。筋肉は脂肪より比重が大きいので、数字的には見た目ほどの体重減少はないのである。

しかし、体重という数字が減らなくても、それはそれで構わないじゃないか。だって久しぶりに会う人のほとんどが、「tak さん、ずいぶん痩せましたね」 とか 「おなかがへっこみましたね」と言ってくれるのだもの。体重が減ればいいというものじゃない。

逆に言えば、見た目がスリムになって、体重自体はそれほど減ったわけじゃないというのは、健康ということだ。それに私は身長が 178cm あるから、75kg の体重でも太っているようには見えないのがありがたい。さすがに 80kg 以上あった頃は、お腹の出っ張りが気になったけどね。

 

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2016年6月29日

オバサンたちは私語が多い

先日、ちょっとした地域の講演会に顔を出してみた。聴衆は地域のオバサン連中を中心に 100名にちょっと足りないぐらい。たいして面白い講演でもなかったが、まあ、浮世の義理(断っておくが、選挙関連ではない)で人数あわせのために参加したので、講演が終わったらすぐに帰って来た。

その時につくづく思ったのだが、オバサン連中というのは、やたらと私語が多い。開会前からあちこちで世間話に花が咲いていたのだが、講演が始まってもその私語はまったく収まらない。講師の話なんかまったくお構いなしに、堂々とした世間話が延々と続く。

「この人たち、3分間黙らせたら死ぬんじゃあるまいか」と思ってしまうほど、とにかくしゃべる、しゃべる。どうでもいい話をしゃべり続ける。

そういえば、この感覚は覚えがある。うちの娘たちが小学生だった頃の授業参観だ。わが家の三姉妹は同時に同じ小学校に通っている時期があったので、授業参観には妻とかけもちで参加していた。今思えばずいぶん律儀なことである。

小学校の授業参観なんて、9割近くが母親の参加なのだが、その半数ぐらいが、授業の真っ最中に教室の後ろで世間話をしているのである。そんなに話をしたかったら、教室から出て廊下の端っこで思いっきりしゃべっていればいいと思うのだが、彼女らはまったくお構いなしに、教室でずっと私語を続けている。

あのオバサンたちは世間話に熱中すると、自分たちの世界に入り込んで、周りが見えなくなってしまうようなのだ。それにしても、あれでは教師が気の毒だ。授業中に私語をするなと子どもを怒れないではないか。

あれって、茨城県特有の現象なのだろうか。それとも全国共通なのかなあ。「人の口に戸は立てられない」と言うが、「オバサンの口にはカーテンすら下ろせない」と思ってしまう。

念のために断っておくが、私の妻も、あの私語の多さには呆れてしまっていた。

【2025年 4月 13日 追記】

あの私語の多さは、決して茨城特有ってわけじゃないようだ。こんな記事があるし、ほかにも「授業参観 私語」でググるとクサるほど出てくる。

 

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2016年6月28日

そういえば、参院選が公示されていたんだった

そういえば、参院選が 22日に公示されていたのだった。投票日は 7月 10日ということになっているが、私はいつも期日前投票を行うから、そろそろ誰に投票するか決めなければならない。しかし今回は英国の国民投票ばかり話題になって、国内の選挙についてはほとんど盛り上がっていない。私なんか自分の選挙区で誰が立候補しているのかも、今日まで知らなかった。

全国の一人区では野党が統一候補を立てているらしいが、それに関しては「余計なお世話」と思っている人もいる。「自民党は支持しないが、共産党と相乗りしている候補に票を入れるのもなんだかなあ」という感覚である。

ここ茨城県は定員が 2名なので、野党統一候補はおらず、各党がそれぞれ独自候補を擁立しているようだ。余計なお世話に悩まずに済むのはありがたいが、結局のところ「積極的に支持したくなる政党なんてないよ」と言うほかない。悲しいことである。

昨年 11月に 「リベラル保守の受け皿が出てきてくれないと困る」 と書いたが、状況はそのまんまである。

 

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2016年6月27日

「鬱憤晴らし」の行きすぎを後悔する英国民

一昨日 "英国の EU 離脱が示す「鬱憤晴らし」の時代" という記事を書いたが、その鬱憤晴らしで EC 離脱に一票を投じた人の多くが、早くも気を取り直して後悔し始めているらしい。多くのニュースがそれを報じているが、毎日新聞の記事の見出しは "英EU離脱 公約「うそ」認める幹部「投票後悔」の声も" と、とても直接的だ。

何しろ離脱派のキャンペーンの中でもかなり目立っていたのが、EU への拠出金が高額すぎるという話だったのだが、英国独立党のナイジェル・ファラージ党首が、投票に勝利した翌日のテレビ番組で、これが間違いだったとあっさり認めたというのである。「おい、マジかよ!」 と言いたくなるではないか。

彼は週 3億 5000万ポンド(約 480億円)にのぼる拠出金を、国民医療サービスの財源にすべきだと主張していたのだが、実は EU から還元される補助金を差し引くと、拠出金は週 1億数千万ポンドだったらしい。さらに EU を離脱すれば大陸からの移民を制限できると主張してきたが、実際にはそんなに簡単なものではないらしい。離脱後に EU との貿易協定を有利な形で締結するためには、「人の移動の自由」を認めることが交換条件になるとみられるので、移民が減るというのもほとんど幻想のようだ。

結局のところ、23日の国民投票は壮大なる感情論に支配された結果とみるのが妥当のようで、ちょっと落ち着いて我に返ると、多くの人が 「やば!」 と思ってしまっているわけだ。人間は感情に流されるとろくな事がない。そのせいで、21日の "英国の EU 離脱派が抱える矛盾" という記事で指摘した通り、スコットランドでまたぞろ独立論が高まっているようだし。

英国の国民投票の結果を聞いて、米国ではドナルド・トランプが大喜びしていたわけだが、ちょっと落ち着いてみると、まともな米国民なら、これまでトランプ支持を表明してきたとしても、「待てよ、俺たちも頭を冷やして考え直してみる必要がありそうだ」と思っているだろう。結局のところ彼にとっては、それほどいいニュースではなかったということになる。

 

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2016年6月26日

「ファッション・ピープル」 が初心者に優しくなれないわけ

〜服を売らない店員さんの〜 初心者のための学生ファッション塾」というブログがあり、アパレル店員という仕事の矛盾がつづられている。アパレル店員として本当にお客のためのファッション提案をしたいと思いつつも、現実には単に「服を売る」ということしか求められていないということのようだ。

そもそも彼はアパレル業界に関して、「初心者に優しくなさ過ぎる」と感じている。「ほぼ全てのオシャレが好きな方が、初心者の気持ちが分からなくなっているような気がしている」と言うのである。そのため、ファッション初心者はファッション・ショップ店員にまともに相談に乗ってもらえないのである。

なるほど、これが例えばクルマだったら、あるいは PC だったら、初心者が店に行って店員に相談すれば、それなりのアドバイスはしてもらえる。わけのわからない専門用語も、ある程度はわかりやすい言葉に置き換えて説明され、その上で、その店のラインナップの中から最も相応しい車種や機種を推薦してもらえる。

ところがアパレル専門店、とくにハイ・ファッションと言われるような店だと、まず初心者が入店することからして、かなりハードルが高い。それにツンとすました店員は、初心者レベルの質問なんかとても受け付けてくれそうにない雰囲気を醸し出している。

さらにわけのわからないファッション用語を連発されたら、初心者はパニックになってしまう。どうしてハイ・ファッションの人たちというのは、初心者に対してそんなにまで優しくないのか。

その答えは、実は簡単だ。ハイ・ファッションの人たちというのは、ダサい人たちがいてくれるからこそ、自分たちの優位性を確認し、「あいつらとは違うのよね」と自分に呟いて、安心することができるからである。だからダサい連中には、いつまでもダサいままでいてもらわなければならないのだ。

誰でもが簡単に「ファッション・ピープル」なんかになってしまったら、自分たちのよって立つ基盤がなくなってしまうのである。日本の伝統的な職人の世界と同じようなところがあって、親方は弟子に親切丁寧に技術を教えたりはしないようなものなのである。「盗んで覚えろ」ってなもんだ。

私は実はアパレル業界でのキャリアが結構長くて、意外かも知れないが、ファッションには案外詳しいのである。自分のファッションにこそ無頓着だが、ファッションを論じることならできちゃうのだ。なにしろ、昔は東京コレクションを最前列のプレス席で見て、それをレポートしていたぐらいだからね。

だからこそ言えるのだが、ハイ・ファッションの人たちにとっての「差別化」は「一目瞭然の見てくれのこと」だけに、そう簡単には真似されないために、シーズンごとにビミョーに変化し続けなければならない。そんなような努力に金を使い続けて悔いないのが、「ファッション・ピープル」なのである。

ところが最近になって、ファッションの世界にも変化が生じている。 「ファッション・ピープル」の多くは感覚的すぎて、インターネットの波にも乗り遅れ気味だし、実は「ピュア・ファッション」という視点以外からは、「ちょっと面倒な人たち」と思われるまでになっている。

普段の身なりはユニクロでテキトーに繕いながら、ファッション以外の分野により多くを投資する人間の方が「ややマシな人間」と思ってもらえるようにさえなりつつある。 冒頭で紹介した「服を売らないアパレル店員」さんも、「僕は『量産型』大賛成派で(笑)」とおっしゃっている(参照)。

そうなると、従来の価値感に即した「因習的なファッション・ピープル」 は孤塁を守るために、ますます自らのエリアを狭く、特殊なものとしなければならない。だからますます、初心者に優しくなれるはずがないのである。

 

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2016年6月25日

英国の EU 離脱が示す「鬱憤晴らし」の時代

英国で EU 離脱派が勝利したので、私は「米国ではトランプが密かに喜んでるだろう」と思ったら、さすがにドナルド・トランプである。「密かに」なんてもんじゃなく、大喜びしていた。わかりやすい人である。CNN Japan が、"トランプ氏「次は米国」大統領選でも反エリート感情が鍵か" と伝えている。

私はこの流れは日本の安倍政権支持の大衆心理とも共通していると思う。CNN Japan では「反エリート感情」と総称しているが、原文では "populist anger" (大衆主義的怒り)とまとめている。要するに感情論であり、別の言葉で言えば「鬱憤晴らし」だ。ドナルド・トランプは次のように述べているという(参照)。

The referendum campaign -- just like the U.S. election -- has boiled with populist anger, fear-mongering by politicians, hostility towards distant political elites and resurgent nationalism, and exposed a visceral feeling in the electorate that ordinary voters have lost control of the politics that shape their own lives.

彼は、英国の国民投票は米国の大統領選と同様に、大衆主義的怒りの現れであるとしている。その内容というのは、政治家による恐怖の扇動への反発、政治的エリートたちに向けた敵意、ナショナリズムの復活、有権者の腹の底からの感覚の表現だとしていて、英国の EU 離脱は、一般民衆が政治家のコントロールから脱していることを示すと言っている。

さすがトランプで、核心を突いている。米国のシンプルなオッちゃんたちの心の琴線に触れる。しかしそれほどのパワーをもつのは、徹頭徹尾「感情論」に立脚しているからだ。感情論は簡単に理屈に勝つ。面倒な理屈をごちゃごちゃ述べ立てるより、喜怒哀楽に訴える方がずっと強力なのだ。だからこそ厄介なのである。

日本では安倍内閣がこのメソッドに立脚している。「美しい日本」なんて言って、実態のわからないことを単なる感情論で引っ張ろうとしているように見える。一杯飲み屋のおっちゃんたちの政治談義と変わらないレベルのもので、煎じ詰めるとやっぱり「鬱憤晴らし」なのである。

こうした「鬱憤晴らし」がこんなにも力をもってしまうのは、やはりそれだけ「鬱憤」がたまっているということで、その「鬱憤」は、これまで続いてきた新自由主義的な政治経済によって、社会の底にたっぷり沈殿してしまっていたものだ。だからちょっとかき混ぜただけで、こんな不透明なことになる。

その「鬱憤晴らし」というのは、イスラム過激派の心情とも一致していて、だからこそドナルド・トランプは、近親憎悪的にあれほどイスラム教徒を排斥しようとしているのだ。自分よりストレートに命がけで「鬱憤晴らし」しようとしている連中を、恐れてしまうのである。

 

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2016年6月24日

アヤしいマーケティング手法

『現代広告の心理技術 お客が買わずにいられなくなる心のカラクリとは』(ドル—・エリック・ホイットマン 著)という本が、ネット上で注目されている。まあ、注目されているといっても、SNS などで自分で宣伝しているだけなのだが。

どんな本かというと、「消費者心理を科学的に暴きお客の心理を研究し尽くした本」なんだそうだ。とくに話題になっているのが、"悪用厳禁:「恐怖を利用して売る」とても簡単な方法" というものである。一見かなりもっともらしい。

一流大学の教授と一流企業の研究機関が共同開発した 100%ダニの侵入を防止する ”枕カバー” (価格は 980円) を売る際に、どんなチラシを作ればいいかと、この本は問うている。で、どうするのかというと、こんな風にチラシに書くのだそうだ。

実は、2年間使用した枕の重さの10%は、ダニの死骸とその排泄物だと知っていましたか?

実はあなたの枕カバーには、何千、何万匹というダニがいます。そのダニはどんどん卵を生み続けます。ダニの数は増えるだけではありません。そのダニは糞を撒き散らしたり、そのまま死んでいくダニがどんどん増えていきます。

(馬鹿馬鹿しいからちょっと中略)

でも、大丈夫。ダニの侵入を 100%防ぐ枕カバーというのがあるんです。これは、一流大学の教授と一流企業の研究機関が共同開発したもので、しかも、値段は1000円もしません。

と、こうした「恐怖を利用して売る」やり方をすると、販売のレスポンスが飛躍的に高まるのだそうだ。ふーん、なるほどね。

私がここで「なるほどね」と書いたのは、広告の作り手の方から悪用スレスレの方法論をバラしてもらったので、騙されにくい消費者になることができるという意味である。これから先は、こうしたあざといやり口に遭遇しても引っかからなくなる。「ハハーン、例のヤツだな」ってなもんである。

本当に枕の中がダニの糞と死骸だらけだったとしても、それを知らなかったら、なんてことなく寝ていられるのである。知った途端に変な気分になる。まさに「知らぬが仏」である。そしてたとえ知ってしまったとしても、「それがどうした?」で済ませることができる。「そんな枕を何十年も使ってきたけど、別にダニの糞まみれなんかにならずに済んでるじゃん!」と気付きさえすればいいのだ。

そもそも、このダニを防ぐ枕カバーという例からして「あり得んだろ!」という無理な設定である。まともな消費者なら、「ダニの侵入を 100%防ぐ」 という枕カバーがわずか 980円だなんて、「どんな仕掛けなんだ?」と疑心暗鬼になる。「人体にだっていいはずがないんじゃなかろうか」と思う。そして、そうした疑問に丁寧に答えよとは、この本は全然言ってない。

よく考えると、この本、かなり「トンデモ」なんじゃあるまいかってなことになる。そしてふと思い出して発売元を調べてみると。「ダイレクト出版」という会社である。この出版社の本については、前にもクサしたことがある。去年の今頃の、"ならば私は「¥記号をつけた数字で表示:¥1,200」 の店を選ぶ" という記事だ。

槍玉に挙げたのは、『脳科学マーケティング100の心理技術』という本だ。この本は、レストランのメニューでは、 値段を表すのに「¥1,200」でも「千二百円」でもなく、単に「1200」と書けば、客の心理的抵抗感を軽減できるとしている。

しかし実際問題として、メニューに単に「1200」なんて書いているレストランなんてろくなもんじゃないと思うのは、私だけではなかろう。うさんくさすぎるではないか。で、今度の本はモロに「柳の下のドジョウ」みたいなのだ。巧みに恐怖心を煽るのは、カルト宗教と同じ手口で、ますます信用できない。

この本を書いた著者にしても、出版社にしても、そんなに有効な方法論があるなら、秘密にして自分だけで実行すればいいようなものだが、こんなアヤシげな本にして売るというのだから、それだけで「なんだかなあ」と思ってしまう。

馬券の指南という商売があるが、そんなに競馬で当てることができるなら、誰にも教えずに自分だけで大穴馬券を買えばいいではないか。実際には自分でやっても儲からないから、人にやらせて金を取る方が確実なのである。そしてその先のことまでは、責任を取らない。

 

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2016年6月23日

定食屋のメニュー表示について一言

今月 19日の記事でも触れたが、このほど名古屋に 2泊した。2泊目は 18日の土曜日の夜に、地下鉄丸の内駅の近くのビジネスホテルに泊まったのである。土曜の夜のビジネス街だから、ひっそりとしたもので、夕食を食べようにも適当な店が見当たらない。

私は近頃、酒をほとんど飲まないので、居酒屋で食事をするなんてまったく気が進まない。「名古屋駅のステーションビルで食ってくるんだったなあ」と後悔しかけた時に、ちょっとモダンな造りの定食屋が見つかった。店の名前は忘れたが、とりあえずそこに入ったのである。

店内は各席に液晶モニターがあり、それに表示されるメニューを選ぶと自動的にオーダーされるという仕組みだった。私は 「なす味噌と焼き魚の定食: ¥880」 というのをチョイスした。最近はできるだけ肉類を避けているので、魚と野菜のおかずというのを選んだのである。

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ところが、供された料理を見て驚いた。「なす味噌」 という料理は、実は 「なすと豚肉の味噌炒め」 だったのである。せっかく肉類を避けて注文したのに、出てきたのは肉料理だったわけだ。メニューの写真をみても、よもや肉が混じっているとは気付かなかった。

まあ、私は厳格な菜食主義者じゃなく、魚とチキンは食うし、出てきちゃったものは捨てるのももったいないので食べるというなまくらである。この時も、豚肉というものを何週間ぶりかで食べた。食べながら、「このメニュー表示って、ちょっと詐欺っぽいよなあ」と思った。

世の中には厳格なノーミート主義者というのもいる。魚なら食うが、肉は牛だろうが豚だろうが鶏だろうが、ポリシーとして食わないという人は知り合いにも何人かいる。そうした人が、 「なす味噌」を注文して「なすと豚肉の味噌炒め」が出てきたら、箸を付けるわけにいかないではないか。

メニューの名前は、内容がはっきりとわかるように付けてもらわないと困る。「肉と書いてないのに肉を加えてるんだから、サービスがいいじゃないか」ってなわけにはいかない。名前で表現しきれないなら、ちょっとした説明書きを添えてもらいたい。いずれにしても「なすと豚肉の味噌炒め」を「なす味噌」というのは、私に言わせたら「虚偽表示」である。

 

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2016年6月22日

この夏の参院選と改憲論議

何度も書いているように、私は改憲論者である。そして安倍政権も改憲を唱えている。というわけで、私は安倍政権を支持してもいいように思われているかもしれないが、とんでもない。私は安倍政権を支持しない。それは昨年の夏に書いた「安保法制論議なんて、今は止めとけ」という記事で述べた通りである。

私の「改憲が必要」という理屈のベースにあるのは、日本国憲法が制定されてから 70年も経ったんだから、現在の世界の実情に合わない点が出てきているという考えである。そりゃそうだ。70年も前の理念が今の世界にそのまま通用するはずがないじゃないか。

しかし安倍政権の取り巻き連中の頭の中にあるのは、日本国憲法よりもさらに古い明治憲法である。あれを復活させろと、本気で思っている連中が安倍政権を支えているのは、最近出版された『日本会議の研究』という本の中で述べられている通りだ。70年前にできた憲法が古いと言っている私としては、100年以上前にできた憲法の復活を唱えている連中に支えられている政権を支持するなんて、到底できない。

「自主憲法制定」 を唱える連中は、「今の憲法は米国に押しつけられたものだから、変えなければならない」と言っているが、私としてはこの主張には護憲論者の言い草よりももっと強い違和感を覚えてしまう。「押しつけられたものだからダメ」なんていうのは単なる感情論である。押しつけだろうがなんだろうが、悪いものなら放り出せばいいし、いいものならありがたく頂戴しておけばいいじゃないか。

戦後の日本国民は、天皇敬愛の念は維持しながらも、軍部の馬鹿どものやり口にはとことん愛想が尽きていた。だからこそ、あの馬鹿どもが二度と実権を握ることができない体制を保証する日本国憲法を、大喜びで受け入れたのである。

その日本国憲法を否定して明治憲法礼賛をちらつかせるなどというのは、アナクロニズムも甚だしい。だから「改憲」を唱える政権であっても、その中身がトンデモなのだと言わざるを得ない。ここ数年、私は自民党には投票したことがない。

かといって、ほかに票を入れる価値のある政党があるのかということについては、正直愕然としてしまうのだが。

 

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2016年6月21日

英国の EU 離脱派が抱える矛盾

英国の EU 離脱の賛否を問う国民投票が、6月 23日に行われる。客観的に見れば、EU に留まる方がいいに決まっているように思えるのだが、世の中とは不思議なもので、英国内では EU 離脱を求める声が高まっていて、投票の結果はどちらが勝つにせよ、かなり拮抗したものになると予想されている。

EU 離脱を求めるのは労働階級に多く、移民によって仕事が奪われているという感覚が強い層であるらしい。しかし EU を離脱すれば移民は減るかも知れないが、経済が停滞して仕事そのものが減ってしまうだろう。

EU 離脱を求めるのは、そうした「反移民」の感覚だけではないはずだ。英国は元々「ヨーロッパは一つ」という考えに馴染んでいない。フランスやドイツは、昔から大きな戦争の度に領土を取ったり取られたりしているから、「だったらいっそ、自分たちはヨーロッパ市民と思う方が手っ取り早い」なんて思っているところがあるが、英国はそうじゃないのだ。島国だし、英連邦という広大な背景ももっているし。

EU に属しながらも、通貨はずっとポンドのままで、道路交通を見ても英国では車は左側通行である。英連邦諸国でも世界の大勢に従って右側通行に変えてしまう国が多いというのに、英国はこれからもずっと伝統を守り通すだろう。なぜか日本までそれに従っているのが面白いところである。

そんなこんなで、英国のとくに高年齢層は「俺たち、ヨーロッパ市民なんかじゃないもんね」と思っているから、簡単に EU 離脱を求めたがる。しかしそうしたナショナリズムを肯定するならば、その次はスコットランドや北アイルランドを独立させなければ論理の辻褄が合わなくなる。

「英国は別だもんね」という主張は、英国内では 「スコットランドは別だもんね」という主張と相似形をなすし、ましてや北アイルランドに至っては「俺たち、植民地なんだから独立して当たり前だもんね」ということになる。独立問題がまたぞろ大問題になってしまうだろう。

英国はこれまでもずっと、EU のいいとこ取りをしてきたのだが、離脱するとなると、「EU とは袂を分かつけれど、スコットランドと北アイルランドはずっと併合したままでいたいんだもんね」という、かなり自分勝手すぎる主張をすることになる。それはなかなか通りにくいんじゃあるまいか。EU 離脱によって経済が下降してしまったら、スコットランドと北アイルランドの独立派は過激な方向に走ってしまうはずだ。

つまり英国は、グレート・ブリテン・北アイルランド連合王国の仕組みを守りたいというなら、EU は離脱しない方がいいという、妙な矛盾要素を抱え込んでいる。

日本にいてはこのあたりの感覚は理解しにくいが、UEFA EURO 2016 サッカー欧州選手権で、英国がイングランド、ウェールズ、北アイルランド (スコットランドは予選落ちしちゃったようだ) に分かれて戦っているのをみても、これらは別の国なのだとわかる。連合王国統一チームとして出ればかなり強いのだろうが、それは「あり得ないこと」のようなのだね。

 

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2016年6月20日

放送事故レベルと話題の、民放連 「Stop 温暖化 CM」

昼の TBS ラジオ『たまむすび』を聞いていたら、民放連の 「Stop 温暖化 CM」の話題で盛り上がっていた。この CM では、犬が何だか日本語らしき言語でわめいているのだが、それが何を言っているかさっぱりわからないというのである。

この CM、ちょっと前から頻繁に流れていて、実は私も気にかかっていた。検索してみたら、ニコ動で音声ファイルが見つかった(参照)。こんな CM である。(下の画像をクリックすると、mp3 で音声が再生される。"STOP 温暖化ラジオ CM 「犬の気持ち」篇" というらしい)

1_3

ちょっとテキスト化してみる。

「ジョン、元気ないねえ」

(やたら甲高い声で) 「当たり前だろう!」
「わっ、犬がしゃべった!」
(甲高い声) 「温暖化で、暑くて暑くてたまらないんだよ〜! ○▲□×△〜〜〜 !!!」

(なんだかんだ、ややあって)

(甲高い声) 「地球をこんなに暑くしたのは、誰だぁ〜〜〜 !!!!!」

「この星に住むみんなのために、ストップ温暖化。民放連です」

というわけで、甲高い犬の声の、「○▲□×△〜〜〜 !!!」の部分が、何を言っているのかわからないというのである。私には何となく「ハチャメチャバカたれ〜〜〜 !!!」のように聞こえていたが、もちろんそんなわけがなく、空耳だろうと思っていた。

『たまむすび』が手を尽くして調べた結果を言ってしまうと、この犬は「ハサミとバリカンくれぇ〜〜!!!」と叫んでいるというのである。犬も長い毛を刈ってしまいたくなるほどの暑さというココロの CM のようなのだ。

しかしネットで検索してみても、「何を言ってるのかわからない」「CM として用をなしていない」「甲高い声がうるさくてたまらない」「放送事故レベル」などと、はなはだ不評のようなのだ。うむ、確かにもっともな指摘である。

しかし私としては、「何を言ってるかわからない」以前に、もっと気がかりでならない点があるのだ。「ジョン、元気ないわねえ」と言ってるのだから、犬が息も絶え絶えの声で応えるならまだ話もわかる。しかしこのジョンときたらやたらハイテンションで、甲高い声でギンギンに叫びまくるのである。これって、無駄に意表突きすぎだ。

「ジョン、元気すぎるほど元気じゃん!」と言いたくなってしまうのだよね。

確かに放送事故レベルの CM である。しかし、『たまむすび』という番組、身内制作の CM をいじってしまうのだから、大したタマだ。

 

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2016年6月19日

名古屋はおもしろい街である

今回、3泊 4日の出張で大阪と岐阜を訪れ、名古屋に 2泊した。直接用があったわけではないが、中継地として便利だったのである。私はこれまでにも名古屋ではずいぶん宿泊したが、そのほとんどは名古屋周辺に用があっただけで、実は名古屋の街にまともに足を踏み入れたことはあまりなかった。

つまり、名古屋駅周辺しか知らず、せいぜい地下鉄で 2つめの「丸の内」という駅で降りたところの「繊維街」の入り口あたりに何度か行ったことがある程度のことである。この程度の浅い馴染みだが、名古屋駅自体は本当に何度も訪れているので、私の中に「名古屋のイメージ」というのは厳然としてある。

その中で最も強いイメージは、「名古屋の女性は、ファッションがケバい」ということだ。大阪のオカンたちとは別の種類のケバさで、派手なプリント柄が多いし、なんだか知らないが薄物フリルの多用でひらひらしたものを着ている女性がやたらと多い。

10年以上前、名古屋在住の友人に「名古屋の女性のファッション、ちょっとケバいよね と言ってみたことがある。彼は「そうなんですよ。皆、今から合コン行ってきますっていう気合いでしょ」と答えた。名古屋の人間でも、他で長く暮らしたことのある者はそのあたりのことを感じているらしい。

「あれって無意識的に男に媚びてるというか、おもねてるんですよ」と、彼は言う。要するに延々と嫁入り道具を連ねる風習と、意識の深いところでは共通しているというのだ。なるほど、名古屋というところは金はないわけじゃないので、そんなところなのかもしれない。

それから、名古屋の街は道路標識の道案内がわかりにくい。既に述べたように私は名古屋駅周辺しか知らないが、20年以上前にレンタカーを借りて名古屋港に近い金城ふ頭の国際展示場に展示物を運んだことがある。当時はカーナビなんてなかったし、道路案内がまともに整備されてないので一苦労した。

名古屋の道路は今も案内標識が少なめだが、当時はその傾向が今より極端で、ずっと走ってようやく「あ、あそこに案内がある!」と思って近付いてみると、そこは国道 1号線(要するに東海道ね)で、右に行くと東京で、左に行くと大阪という大ざっぱすぎる表示にずっこけたりした。

大都市名古屋ではあるが、その根底には日本古来の思いっきりドメスティックな身内感覚が脈々と残っていると感じられる。そうかと思うと、その身内感覚だけでは対応しきれなくなって、後から取って付けたようなものが随所に見受けられる。その代表的なのが、下の写真だ。

2403103

これは地下鉄丸の内駅 (つまり、名古屋の中心部) 構内の、ホームに降りる階段付近である。元々ある案内表示だけではわかりにくいというので、降り口にこんな風にべたべた貼ってあるのだろうが、その張り方がいかにも間に合わせっぽい。そして結局のところわかりにくい。

張り紙が無駄に階段の傾斜と合わせて斜めに貼ってあり、しかもその角度がビミョーに混乱しているというのも、何だか泣かせるポイントである。いずれにしてもこんなような案内表示は、少なくとも私は日本の他の街の地下鉄では見たことがなく、「ああ、名古屋だなあ」と感動してしまったのである。

 

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2016年6月18日

あれだけ盛り上がっていた東京オリンピックだが

2013年の 9月頃は、2020年の東京オリンピック開催が決定して日本中が「お・も・て・な・し」なんて言いながら浮かれまくっていたが、私はその年の 11月に "2020年は 「壮大な終わり」 の確認の年になりそうだ" なんて、無茶苦茶シニカルな記事を書いている。その記事からちょっと引用しよう。

(2020年の東京オリンピックは)「そんなにやりたければどうぞ」という感じだが、もっとぶっちゃけて言えば「反対」だ。ただ、それをあまり鮮明に打ち出すほどの思い入れもないというだけだ。

(中略)

ところがこんな記事を書いていると、「せっかく東京開催が決まって、みんな喜んでいるのに、どうしてそんなに後ろ向きのことを言うのだ」と、怒る人がいる。中には、「東京オリンピック開催が決まったとたんに、そんなぶち壊しのことを言うのは、性格が悪すぎる」なんて非難されることまである。

ところがどうやら、ここに来て、東京オリンピックに関しては後ろ向きなことを言ってもあまり非難されない状況になってしまったようだ。私としては「そら、見たことか」と言いたいところだが、まあ、日本全体もようやく気付いてきたみたいなので、よしとしておこうと思う。

開催のための予算は当初の計算と比較してウソみたいにふくれあがっているし、エンブレムだの国立競技場だの、そして肝心の東京都知事までが無茶苦茶なことになってしまっていて、開催決定の時にはあんなに盛り上がっていた人たちも、もうすっかりシラけてしまっている。

"2020年は「壮大な終わり」の確認の年" なんて書いたが、既にその確認作業は結構進んでしまったような気がする。時代の流れはずいぶん速くなった。2回目は行きがかり上、仕方なく開催するだろうが、よもや 3回目の立候補なんてことはしないで済むだろう。もう、オリンピックの使命なんてとっくに終わってしまったのだと思う。

 

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2016年6月17日

本当にムッとくるほど無神経なのは、オバサンよりオッサンである

出張のため東海道新幹線で関西に来た。昼前の「のぞみ」号は案外空いていて、私は予約していた 3列並びシートの窓側に腰を下ろした。3列シートは避けられるようだが、実は真ん中の席がずっと空きっぱなしというケースが多いので、通路側に誰かが座っても、ゆったりと旅ができるのである。

出発直前にオッサンの一団が乗ってきて、4〜5人が前後 3列ほどのバラバラの席に腰を下ろし、私の座っている 3列シートの通路側にも 1人のオッサンが座った。このままずっと真ん中の席が空いていれば、目的地までゆったり座れる。

オッサンの一団はグループ旅行なのだろうが、たとえまとまった席を予約していたとしても、ゆったりバラバラに座りたいという気持ちはわからないわけじゃない。しかし困ったのは、離れた席に座っているくせに、大声で下らないゴルフの話なんか始めたことである。

東京を出発して品川に着くと、乗客がどっと乗ってきて、それまで空いていた席がどんどん埋まり始めた。そして私の座っている座席の列にも 2人連れの女性がやってきて、通路側に座っていたオッサンに「席をお間違えじゃないですか?」と聞いている。

やはりそのオッサンは自分の取った指定席じゃないところに座っていたようで、後ろの席に移った。「空いてるから、いいかと思って」なんて、余計な言い訳じみたことを呟いている。見る間にこんなに混んできたんだから、言われる前に察してさっさと自分の席に戻るべきだったのだが。

私は 「世の中に無神経なオバサンは多いけど、本当にムッとくるほど無神経なのはオッサンの方だな」と思った。これは昔から感じていたことだが、改めて確認した思いである。

品川でどっと乗客が乗ってきて、見る間に満席になりかけているというのに、まだ無神経に予約した座席以外の前後 3列で大声の会話を続けているオッサンたちの感覚というのが、私には到底理解できない。しかもそれが、結構旅慣れた様子のオッサン集団だったので、ますます唖然としてしまったのである。

趣味の悪いオッサンたちはゴルフの話になると急に必要以上の大声で盛り上がる傾向がある。私はゴルフと麻雀と焼き肉の話は専門用語からして理解できなくて、単にうるさいだけなのだが、ゴルフ談義は一際大声になるみたいで、迷惑加減が最大レベルである。

 

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2016年6月16日

ドナルド・トランプは、イスラム教徒をどうやって見分けるというのだ

米国共和党の大統領候補となることが確実なドナルド・トランプは、イスラム教徒の入国禁止を求めている。とくにフロリダ州での銃撃事件を受けて、この主張を改めて強調するようになった。

しかし言うまでもなく、彼の主張は信教の自由を保障する憲法に反しているし、司法の場において認められるはずもない。そもそも、彼はその運用をどうしようと考えているんだろうか。イスラム教徒をどうして見分けるつもりなんだろう。

米国入国を希望するすべての人間の信ずる宗教を申告させるとでもいうのだろうか。入国カードに信ずる宗教を記入して提出せよなんて言っても、どうしても米国入国したい者は偽装申告ぐらいするだろう。ましてやテロ実行という目的があったりしたら、なおさらだ。

あるいはイスラム教徒の多い国の人間に限って入国を拒否するのだろうか? しかしイスラム教国といわれる国にだって、他宗教を信じる人間は存在する。それを区別するのは至難の業だ。あるいは踏み絵をさせようとでもいうのだろうか。しかしもしムハンマドの絵を踏みつけてみろなんて言われたら、イスラム教徒ではない私だって、そんなことはしたくない。

要するに、トランプの主張は実行不可能なのだよ。実行不可能なことを大声で言っているというだけで、彼が危ない人間だということぐらいわかるはずなのだが、それが一定の支持を得てしまうというのは、米国社会自体も危なくなってしまっているのだろう。

 

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2016年6月15日

クマの被害が増えているのは

今年は人間がクマに襲われたというニュースが多い。山に入った人の行方不明が相次いで、クマに襲われたのでないかとみられている秋田では、駆除したクマの胃袋から人間の体の一部が発見されたなどのニュースもあり、緊張が高まっている。今日は島根県で、鮎釣りで山に入っていた人が襲われている。

この春は秋田県の山奥で、山菜採りの名人に同行するという、得がたい経験をした。登山道とは関係のない山の斜面で、這いつくばうように行くのである。連れて行ってくれた人は、「クマはそのあたりにいるはずだけど、向こうの方で気を利かせて人間を避けてくれるから、大丈夫」なんて言っていたが、ちょっと無遠慮に彼らのテリトリーを冒してしまったら、やはり危ないのだろう。

一説には、山の木の実のなり具合が影響していると言われる。ドングリなどの実は、隔年で多い少ないを繰り返すらしく、偶数年は実が少ないので、クマが里の近くまで出没する傾向があるという。とはいえ今はまだ夏に入ったばかりで、ドングリの生育とはあまり関係がないだろう。

私は限界集落の現状と関係があるのではないかなんて、想像している。山村は老齢化が進み、限界集落が限界を越し始めたりしているのではなかろうか。そうなると、山菜やタケノコ採りで山に入る人たち(多くは山村の老人)が減り、人間のテリトリーが後退する。すると相対的にクマのテリトリーが前進してくる。

そうした状況の中で、なおかつ山に入る人というのは、既にクマが「俺のテリトリーだ」と認識し始めた領域に、これまで通りのつもりで軽い気持ちで入っていってしまっているのではあるまいか。

クマに限らず、野生動物の領域が広がっているのだとしたら、人間はこれまでよりも謙虚に、そして注意深く自然の中に入っていく必要がある。

 

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2016年6月14日

日本の住所表示は、確かにわかりにくい

"日本の住所はわけがわからない!? 不規則な番地に困惑する海外出身者 欧米では 「道+番号」" という記事がおもしろい。確かに日本の住所表示は、日本人にもわかりにくく、初めて訪ねる家を探すなんてことになると最悪だ。

例えば、まったく土地勘のない土地の「新町 1丁目 13-6」という住所の家に、初めて訪ねるとしよう。電柱に「新町 1丁目」という表示があり、ごく近くまではたどり着いているはずだ。しかし「番地」とか「号 (住居番号というらしい)」とかの段階でわけがわからなくなる。

家の門や玄関に「12-3」とかいう表示が貼り付けてあり、その隣は「12-4」となっている。「よし、もう少し行けば目的の家だ」 とばかり勢い込んで歩いていると、小路一本隔てていきなり「30-1」とかになる。かといって間の小路に分け入っても、なぜか「20-5」とかが現れたりして、まさに迷宮だ。

それに対して欧米の住所表示はわかりやすくて、初めて訪ねる場合でも楽なんてもんじゃない。表示された道路に行って、順番を辿れば迷わず到着できる。とくにニューヨークなんか初めて行った日本人でもわかりやすくて、例えば "22 E 52th St" という住所なら、「52番ストリートの東側の22番目の建物」 ということだ。

つまり欧米式は、特定された道路沿いの何番目かというのが、住所表示の基本になっている。一方日本式は、道路で囲まれたブロックごとに「何丁目何番地」という住所があって、その中で順繰りに「号(前述の住居番号ね)」にあたる数字がふられている。その数字のふり方もわけのわからないところがあって、一応右回りらしいが、ちょっとした小路で連続性が失われて堂々巡りさせられたりする。

どうしてこんなことになったのかというと、冒頭で紹介した記事では、「西洋の人々は道路沿いに家を建てたのに対し、日本人は空き地に家を建てたから」というのがベストアンサーとされている。

なるほど、空き地に家を建てたのならそもそもアクセスするために道路なんて必要じゃなく、草っ原を行けばいいだけだ。そして空き地で家が集まりだしたら、たまたまの結果として、その隙間が「道」になる。

主要街道や目抜き通りなら名前もつくが、たまたまできた隙間に、ことさらに名前なんか付けない。田舎に行くと、「こりゃ、道路というより軒下の隙間だよね」と言いたくなるような、「道ともいえない道」がいくらでも残っている。

つまり欧米式の「住処」というのは、道に沿って並ぶのだが、日本ではごちゃっと寄り集まって建てられたのだ。寄り集まった同士は一応の共同体意識を持ちやすいので、というか、元々親類縁者が寄り集まって家を建てたりしたので(そのせいで、田舎に行くと同じ苗字の家がごちゃっとかたまっていたりする)、当然ながら住所表示も線状に伸びた道路ではなく、「一かたまり」が基本となる。

おかげで日本式住所表示は、大まかな位置を示すには便利で、ごく近くまでは容易に行くことができるが、よくよく近くまでたどり着いてからわけがわからなくなる。欧米式は、「何とかストリートって、どこにあるんだ?」と最初に地図上で探さなければならないが、その道路まで行きさえすれば、あとは楽だ。もろに対照的である

日本式住所表示の思想は、オフィスのデスク配置にも反映されている。日本のオフィスのデスクは、「課」とか「係」とかを単位にして何人かがまとまって向かい合い、「シマ」を作るが、欧米式は、それぞれのデスクが独立して並んでいることが多い。欧米人は「始終向かい合っているんじゃ、仕事しにくい」と感じ、日本人は「同じ部署でデスクが離れてるなんて、やりにくい」なんて言い出す。

つまり日本の住所表示の「○○番地××号」は、 企業やお役所の「○○部××課」で向かい合ってシマを作っているデスクのかたまりに相当するもので、そのシマ(ブロック)がある程度広かったりすると、その中で特定の家を探すのがやたら手間だったりするわけだ。やれやれ。

 

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2016年6月13日

「楽しめ、少女たちよ!」 という広告

久しぶりで「つくばエクスプレス」に乗って東京都心まででかけた。座席に腰を下ろした時、乗降口付近に貼られたポスターを見て、ちょっとほっとした。それは「ミュゼ・プラチナム」という脱毛サロン(らしい)の広告で、ちょっと前まで気になってしょうがなかったのである。

いや、私が脱毛しようと思っていたわけじゃない。何が気になっていたのかというと、少なくとも先月末までは、この脱毛サロンのポスターは、ちょっと可愛い女の子の写真にかぶせたキャッチ・コピーが、"ENJOY the GIRL!" というものだったのである。下に証拠写真をあげておく。

Img_5906

「その女の子を楽しめ!」とは、あまりといえばあんまりな言い草で、このポスターが目の前に貼られているだけで居心地悪い気がしていた。気の毒なのはこのモデルの女の子である。「変な楽しみ方されなければいいが」なんて思っていたよ。

しかるに今日の電車内のポスターのキャッチ・コピーは、しれっと "ENJOY, GIRLS!" に変わっていたのだった。誰かが「あまりに下品」とか言って、抗議の電話かなんか入れたのかもしれない。結局コンマを加えて "the" を取っ払ってくれたおかげで、「楽しめ、少女たちよ!」になった。まあ、初めからこれを言いたかったんだろうとは思うのだがね。

Img_5908

思わずゼクシーというブライダル・ビジネス大手が、長らく使っていたキャッチ・コピーの "Get Old with You"(お前と共に年を取れ) を、いつの間にかしれっと "Get Old with Me"(私と一緒に年をとってね)に変えていたのを思い出してしまったよ (参照)。

少しはほっとしたものの、いずれにしてもちょっと気持ち悪い英語には違いなく、何を楽しむのか明確でない場面で、目的語なしの "enjoy!" なんてあまり言われつけないから、少女たちは思わず「何を?」と聞きたくなってしまうだろう。もしかしたら、「怪我(毛が)なく楽しめ」という洒落かもしれないが。

"Girls, Enjoy Yourselves"(少女たちよ、楽しく過ごしてね)ぐらいに添削したくなったりするが、それでもまあ、決して魅力的なコピーではないよね。

 

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2016年6月12日

『笑点』について

Nifty News に 「たけし"笑点"の番組作り批判」 という記事があった。あの番組のレギュラーになるとギャラが大幅アップするらしいし、答えのほとんどは番組の裏側にいる作家が作っているというのは、前々から知る人ぞ知る話だったから、まあ、たけしの批判は何も目新しいものではない。

私の知り合いにも『笑点』のファンは何人もいて、あの番組をみて無邪気に笑っているらしいが、ほとんど 65歳以上の高齢者である。若い世代では、せいぜい「たまに見て、大喜利のことも知ってはいる」程度のものだ。

で、不思議なのは『笑点』のファンだから、落語も好きなのかというと、どうもそういうわけではないらしい。信じられないことに、70歳を過ぎて、「大喜利は笑えるけど、古典落語は難しくてわからない」なんていう人がいくらでもいるのである。彼らの子どもの頃のラジオ番組なんて、落語と浪曲がやたら多かったはずなのに、一体何をして育っていたのだろう。

子どもの頃はむずかしくてわからず、年頃になって以後は落語や寄席芸なんて遠い世界のことになって、辛うじて『笑点』の大喜利で何十年も笑いながら、じいさん、ばあさんになってしまったというのだろうか。なるほど、この番組の視聴者の年齢層がものすごく高いというのも頷ける。

視聴者の年齢層が高いから、出演者も年寄りが多い。出演者の新陳代謝が進まないのも当たり前だ。見る人が年寄りばかりなのだから、出演者が頻繁に変わったら付いていけない。そしてたまに若い出演者に変わっても、新しめのギャグは通じないから、年寄り連中におもねる。そして暇な年寄りが毎週見るから、視聴率は高いまま維持されている。

若い作家が考えたギャグを、年寄りの出演者がしゃべって、それを聞いた年寄りたちが無邪気に笑っているという構造なのだ。この番組のファンの年寄りたちが、実は古典落語をわかっていないというのも、こう考えれば道理である。つまり「寄席芸入門」的な役割すらほとんど果たしていない。

そのくせ出演者の営業ギャラはやたら高くなっていて、「利権の巣窟」と化しているというのだから、たけしの批判も当然だ。繰り返すが、何も目新しいことじゃないけど。

 

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2016年6月11日

世間の LED 化が進んでいないことに驚いた

「@nifty リサーチ」というページがあって、ここでアンケートに答えるとコインがたまり、nifty への支払いが多少割引してもらえるというので、暇があるとちょこちょこ答えてみたりしている。

このページの中に「本日のミニアンケート」というのがあって、それに答えると 1コインもらえるというのだが、昨日の設問は「あなたの家のLED化はどれくらい?」というものだった。このアンケートは早々と回答終了していて、その結果は下図のようになっている。

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これを見て、私は本当に驚いてしまった。「ほとんど電球・蛍光灯」という解答が、半数以上の 53%にも達しているのである。一方「ほとんど LED」というのはわずか 18%、そして「半分ぐらい LED」というのでも 3分の 1 に満たない 29%というのだから、LED 化はまだまだ進んでいないというのが現状のようなのだ。

我が家はあの東日本大震災を機に、「原発を再稼働させないためには、電力を極力使わなければいいんだろ!」とばかりに、エアコン使用を最小限に抑え、家中の照明をさっさと LED に切り替えてしまった。震災の翌年の 8月、"やればできる 「エアコンなしの生活」" という記事で、「家中の照明を LED にしたので、電気代が安い」と書いている。

というわけで、我が家は LED 化を完了してから 5年近く経つというのに、世間ではまだ「ほとんど電球・蛍光灯」という家庭が半分以上を占めているというのである。これほどまでに「エコ」だの「環境保全」だの言われているというのに、世の中の動きって、なんてまあ遅いんだ。

もしあなたが脱原発の方向性に賛同しているのに、家の照明がまだほとんど白熱灯か蛍光灯だというなら、悪いことは言わない、今日にでも(もう夜だというなら、明日にでも)全部 LED に変える方がいい。原発に反対しているのに、家の照明が LED じゃないなんて、それは言行不一致というものだ。少しでも電力消費を減らすことで、「原発なんかなくても、十分やっていけるぜ!」という態度表明をすべきだろう。

「今使っている白熱灯、蛍光灯が切れ次第、順番に交換する」なんて言う人も多いが、そんな呑気なことを言ってないで、すぐに全部交換することをオススメする。今日 LED 化すれば、今日のうちに電力消費が減る。しかし蛍光灯の切れるであろう半年後まで待てば、半年間は電力消費が減らないのだよ。そしてその分、CO2 排出は高水準で維持されるのだ。

なにしろ LED はどえらく長持ちするから、既存の電球が切れないうちに交換した無駄遣い分なんて、そのうちに吸収してお釣りがくる。いずれ交換しなければならないのはわかっているのだから、早くお釣りをもらう方が、経済的にも環境的にも得策だ。

そして可能ならば、太陽光発電パネルを屋根に乗っけることもオススメする。「太陽光発電パネルは耐用年数の 25年が過ぎたらゴミの山になる」なんて無知蒙昧なことを言う人もいるが、それに関しては去年の夏の 「太陽光パネルのゴミの同時的大量発生はあり得ない」 という記事で明確に答えているので、読んでいただきたい。

とにかく、家の照明を LED 化して、屋根の上(庭でもいいけど)で発電できるようにすれば、「原発なんていらない」と堂々と言うための裏付けができる。そしてそれは決して困難なことではない。私のような貧乏人でも、あっさりできちゃったのだから。

 

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2016年6月10日

「都知事問題」と「不倫問題」

ちょっと前までニュースは北海道の「子供置き去り事件」で持切りだったが、それが一段落した今は、「都知事問題」と「不倫問題」が両横綱で、それに時々米国の大統領選挙の話題が絡んでくる程度という様相だ。

大統領選挙に関しては昨日触れちゃったから、しばらくは静観しようと思っているが、両横綱の「都知事問題」と「不倫問題」については、なんだかちょっと違和感を覚えてしまうのだよね。

これについては 「叩きやすい問題は皆が集中して叩く」 という指摘があちこちでされているが、まあ、確かにその通りだと思う。今年 4月に「炎上の構造」という記事で、"炎上というのは「炎上しやすい下世話なシチュエーション」で発生する" と書いたが、都知事問題も不倫問題も、それにぴたりと当てはまる。

「都知事問題」については、都議会で「セコい、セコすぎる!」と批判されたというのだが、私は議会という場で「セコい」なんていう俗語的形容詞を使って批判するというのは、「いかがなものか?」と思ってしまう。言葉の意味そのものも、趣旨からしてちょっとずれてるし。

私は先月15日の「経費支出の公私混同」という記事で、舛添さんについて「この人、かなり金遣いの荒い人だなあ」と書いているが、「セコい」とは思わなかった。実のところ、彼の金の使い方は「セコい」のではなく「厚かましい」のだよ。

団塊の世代よりちょっと遅れて生まれてしまったために、高度成長期が完全に終わってから世の中に出た世代の一人である私は、原則として「金はセコく使うべき」だと思っている。だから「セコくて何が悪い?」と言いたいほどのものだ。

舛添さんは自分の金に関してはセコかったのかもしれないが、批判されるべき問題は「公金とされている財源からテキトーに好きなように使っていた」ということである。ということは、彼は「セコい」というより、 「厚かましい」あるいは「図々しい」ということで批判されなければならないはずだ。どうも批判する側からして「公私の別」を曖昧にしている。

この言葉上の勘違い、どうも世間の軽薄な価値感におもねているようなのだ。女にモテない男の特徴として、「セコい」という要素は「不潔」と並んで常に上位にランクされるそうだから、この言葉で批判する方が、世間で受け入れられやすいと踏んでいるのだろう。

しかし私の感覚としては、世間話として「あいつ、セコいよね」とか言うならまだしも、都議会という場でことさら声を荒げて「セコい、セコすぎる!」なんていうのは、言葉の意味からしてもイメージからしても、なんだかなあと思ってしまうのだよ。「もっとよく考えて適切な形容詞使ってよ」ということだ。

さて、次は「不倫問題」である。これについてはざっとしたものだ。

近頃ニュースになっているファンキーモンキー何とかかんとかの不倫がどうのこうのというのは、まったく興味がない。近頃タレントの不倫問題が連続して妙に大きく取り上げられているが、私としては「勝手にやってくれ」と思うばかりだ。他人の色恋沙汰に口を差し挟むのは、無粋というものである。

どうやら不倫が明るみに出て大きなダメージを蒙るのは、多くの CM に出演しているタレントのようで、そういうのにあまり関係のない、要するにそれほど売れているわけじゃないタレントは、ほとぼりが冷めるのを待ちさえすればいいようだ。そうか、あれって要するに、「電通マター」なのだね。

 

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2016年6月 9日

米国大統領選挙について書く

他に適当なネタもなく、仕方ないから米国大統領選挙について書く。このブログでは久しぶりの、まともに大きなテーマだ。

私は昨年 7月に「生き返ったヒラリー・クリントン」という記事で、それまで「単にスマートなだけ」とか 「賞味期限切れ」などと散々辛辣に書いていたヒラリーをちょっと見直して、米国初の女性大統領が誕生するのを期待していいかも、なんて書いた。

しかし半年経って思い直し、今年の 2月に「ヒラリーの悪いクセ」という記事を書いている。彼女はバーニー・サンダースとの指名候補争い中で、「誰が大統領になる準備ができているだろうか?」なんてことを口走った。「自分こそ大統領になるにふさわしい実績も見識も兼ね備えている」と言いたかったのだろうが、そんなことばかり言うから、彼女は嫌われ者なのだ。

米国民の多くは、既存の政治に嫌気がさしているのである。だからこそ、無茶苦茶なドナルド・トランプとか「民主社会主義者」を自認するサンダースとか、これまでだったら考えられなかったユニークな人物に、あれほどの支持が集まっている。

彼女は去年、せっかく「公平な経済」というテーゼを掲げ、「富める者がより富めば、低中所得者層にも富がしたたり落ちる」という新保守的な考えが誤りだったことを認めた。そのまま富の公正な配分が重要と指摘し続けていれば、「既存エスタブリッシュメントの代表」「ウォール街の回し者」的イメージを払拭できたはずなのだ。

それなのに、党内の指名争いでサンダースとの差別化に迫られて、古い価値感の中でしか意味をなさない「これまでの実績」なんてものを強調するという愚を犯した。これで彼女は完全に「既存政治の流れの中の人」に戻ってしまったのである。ということはやっぱり、私がずっと言ってきたように「賞味期限切れ」なのだよね。党内でサンダースに競り勝っても、本選ではトランプのハチャメチャに勝てない。

勘のいいヒラリーは「どのように振る舞えばスマート(当然ながら「スリム」っていう意味じゃないよ)に見えるか」をよく知っているが、結局のところ、本当の意味での洞察力がない。想定通りの受け答えは見事にこなすが、芸術的なアドリブは効かない。それで脳内メモリーが一杯になると、突然失神しちゃったりする。頭がフリーズしちゃうんだろうね。

サンダース支持者のかなりの部分は、本選でトランプ支持に回るだろう。ヒラリーが勝つには、共和党内主流派の「反トランプ票」に期待するしかなくなっていると思う。ただ彼らの多くは、ヒラリーなんかを支持するのを潔しとせず、棄権に回るだろうが。

結局、今回の大統領選を民主党と共和党の争いと見ていては、何も理解できないということだ。これは両方の党内と支持者の中に存在する、エスタブリッシュメントと非エスタブリッシュメントの争いなのだ。私はこれまで、二大政党制が政党政治の理想の姿と思ってきたが、もはやその考えは古びてしまったと認めなければならない。

民主主義は新たな混迷の時代に入っている。世界の混迷は経済格差で生じているが、国内の混迷も同様に格差で生じる。

 

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2016年6月 8日

WOWOW の UFC 放送が終了していた

「近頃、WOWOW で UFC の格闘技戦が見られなくなったなあ」と思っていたが、既に 3月末の時点で放送終了となっていたと知った。いやはや、この頃は何だかんだとやたら忙しかったから、このニュースを見落としてしまっていたよ。

放送終了の理由は明らかにされていないが、どうやら日本人ファイターの活躍が目立たないので、国内での視聴が伸びないという事実がネックになっているらしい。格闘技先進国と思われていた日本は、現在は UFC の進化に付いていけず、フライ級の堀口恭司を除けば、ランキング上位に入ることも難しい状態になっている。

ただ、それだけではない。私が思うに、総合格闘技はボクシングやプロレスなどと違って、「見る目」が要求される。要するに、観戦が難しいのだ。打撃はまだわかりやすいからいいが、寝技の攻防は地味でとらえどころがない。関節技なんてどこでどう決まるのか、素人にはほとんどわからないだろう。

私は合気道をやっていたので、関節技の感覚がわかる。かなり前、「リングス」の試合を友人数人と観戦した時、リング上の関節技の応酬を見ながら 「まだまだ決まらないね」、「あ、これは入った。一丁上がり!」なんて言うと、「どうしてそんな微妙なことがわかるんだ?」と驚かれた。こればかりは、実際に関節を決めたり決められたりした経験がないとわからないのだよね。

プロレスはそのあたりのことはパスして、誰が見てもわかりやすい技の応酬を演出している(そのかわり、受ける側が積極的に受けないと、プロレスの技なんてほとんど決まるもんじゃない)し、ボクシングは殴り合いに特化しているから、見ていてわからないことはない。しかし総合格闘技は、玄人の目がないと寝技での硬直はつまらないだろうし、関節技なんて、何が何だかわからないうちに終わったりする。

米国では「俺たちの地域の選手」というフランチャイズ意識でもって、細かいところはわからなくても興奮することができるだろうが、日本人にしてみると、肝心の日本人選手が少ないので思い入れしにくい。細部がわからない上に思い入れもしにくいのだから、視聴者の増えないのは無理もなかろう。

コアなファンばかりでは、WOWOW の UFC 放送は維持できなかったのだろう。こうなったら日本の UFC ファンとすれば、月額制の映像配信サービス "UFC Fight Pass"(月額1214円)の契約をするしかないかもしれない。それにしても、総合格闘技というのは、この国では本当にマイナーな存在なのだなあ。悲しいことに。

 

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2016年6月 7日

「ざる天丼セット、ワン!」 だと?

先日、北海道への出張で昼前に羽田空港に到着した。その日はいろいろあって、朝飯を 5時前に食べており、昼前とはいえ結構腹が空いていた。それに北海道釧路空港への到着は午後 1時頃になる予定だったので、離陸前にしっかりと腹ごしらえをしておく方がいいと思い、空港ビル内のざるそばとミニサイズ天丼のセットが 1000円以下で食える店に飛び込んだ。

そして、注文した途端に「あ、こりゃヤバかったな!」と後悔した。その後悔の根拠は、お茶を持ってきてくれたオバサンが私の注文を調理場に通すのに、「ざる天丼セット、ワン!」と叫んだことである。

「蕎麦と天丼のセットが、ワンだとぉ !?」

蕎麦屋に来て注文を通すのに「ワン」なんていうのを聞いたのは、後にも先にも初めての経験だ。そもそも蕎麦屋でなくても、「チキンカレー、ワン!」とか「カルボナーラ、ツー!」なんて言い方をする店で、まともにおいしい食い物にありついたためしがない。というか、それ以前に 「何とか、ワン」なんて、私なら恥ずかしくて言えない。

案の定、今日された蕎麦は、「まあ、フツーの食堂蕎麦屋だもんね。空港ビル内で、ミニ天丼とセットで 1000円しないんだもんね。しょうがないわな」というレベルの蕎麦だった。はっきり言って、自分の家で乾麺を茹でる方がずっとおいしい。

一方、天丼の方は天ぷらは決して不味くはなかったが、肝心の米の飯の炊き具合がべちゃべちゃで、蕎麦以上に失望した。私はもう一度、「まあ、この値段だもの、しょうがないわな」と、無理矢理自分を納得させた。とはいえ、私の故郷の酒田で 1000円近い金を出したら、かなりおいしいものが食えるがなあ。

今回の店の選択は、完全に失敗だった。搭乗時刻が迫っていたので、何も考えずに飛び込んだ自分が悪い。店に非はない。何でもお高い羽田空港ビル内で、麺とミニ丼のセットが 1000円以下だもの。値段的にはよく頑張っている。

とはいえ、これでおかしいと思わなかったのがいけない。値段が安くてもまともなものを食わせてくれる店もあるにはあるが、よく見極めてから入るべきだった。で、決心した。注文を通すのに「何とか、ワン!」なんていう言い方をする食い物屋には、金輪際入らないことにしようと。判断材料は、これにとどめを刺す。

それを確認するには、ちょっと店の前に立って中の様子をうかがわなければならないのが面倒だが、食い物を供された時点で後悔しないためには、多少の面倒は厭わないでおこう。

 

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2016年6月 6日

舛添さんはとりあえず辞任しないと言っているが

舛添都知事が記者会見を開き、自ら依頼した「第三者」による資金問題の調査結果を明らかにした。結論は「適切ではないが、違法ではない」というもので、これ、きっと今年の流行語大賞にノミネートされる。上半期に登場したのが惜しいところだが、年末に近かったら大賞モノだったろう。

というわけで、舛添さんは「違法じゃないんだから」というところにポイントをおいたようで、とりあえず辞任はしない意向のようだ。周囲の多くは「適切ではない」というところを重視して、辞任すべきだと思っているようだが、この辺が考え方の違いというものである。

まあ、当人が辞任しないと言っているのだからしょうがないが、都知事としての都政運営は、当然ながら難しいものになるだろう。自らが蒔いた種で、周り中から支持されない都知事という存在になってしまうのだから、こればかりはしょうがない。

そうなると、気の毒なのは他ならぬ都民である。任期を半分以上残した都知事が早くもレイムダックというのだから、都議会はぎくしゃくするだろうし、まともな都政は期待できない。さっさと辞任するように圧力をかけ続けるのが得策だろう。いくら圧力をかけても、当人は任期を全うして退職金を満額もらうために、なかなか辞めないだろうが。

ちなみに 「気の毒なのは都民」とはいえ、そんな都知事を選んだのは都民自身なのだから、ある意味自業自得である。私は先月 20日に「どうしてまともな都知事が選ばれないのか?」という記事を書いた。ここしばらく、まともな都知事が選ばれたという印象がないのである。とくに青島幸男氏以後、都知事選挙の結果には驚きっぱなしだ。

だから舛添さんが辞任して新たな都知事選挙が行われても、またぞろ唖然とするような人が選ばれてしまう可能性が高いと、私は思っている。「何遍やっても同じようなもの」なら、舛添さんが居座ってもしょうがないか。

 

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2016年6月 5日

関東甲信が梅雨入りしたらしい

本日午前 11時に、気象庁が「関東甲信地方が梅雨入りしたとみられる」と発表した。確かに関東南部では結構雨が降っていたらしいが、ここ茨城県つくばの地では、雨なんてほとんど降っておらず、昼前からはからっとした青空が広がって気持ちのいい一日だった。

梅雨入り宣言の翌日から晴れが続くというのは、なんだかお約束みたいなところがある。去年も翌日からずっと晴れたし、その前にも、ずっと天気がぐずついていたのに、梅雨入り宣言した途端にずっと晴天が続いたということもあった。しかし当日から晴れちゃうというのも珍しい。

昔は梅雨時の雨のことを 「五月雨(さみだれ)」と言ったが、それは旧暦だと 5月がちょうど梅雨の時期になるからだ。それでふと思い立って調べてみたら、旧暦だと今日が 5月 1日になる。気象庁が意識的に旧暦に合わせたわけじゃあるまいが、ちょうど区切りのいいところでの梅雨入り宣言になった。

1ヶ月予報によると、関東地方は梅雨の前半は降水量が少ない状態が続くらしい。「それって、はたして梅雨なのかね」とも思ってしまうが、元々梅雨って、晴れないまでもしとしと降るような降らないような、はっきりしない天気が続くというイメージがあるから、それで正解なのかもしれない。それでも、晴天続きなんてことになると、「なんじゃ、こりゃ?」になりかねないが。

二番目の娘が、明後日沖縄に行くらしい。私も今月中頃に、屋外での撮影が必要な仕事が入っているから、本格的な梅雨は下旬まで待ってくれるとありがたい。

 

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2016年6月 4日

雑誌の売れない時代

2016年 3月期の雑誌の売り上げが、32年ぶりに書籍の売り上げを下回ったのだそうだ。日本経済新聞はその大きな要因は、女性向けファッション誌の 11.8%減という大幅な落ち込みだったとしている。まあ、今どきファッションなんかにうつつを抜かしている女性は、大幅に減っちゃってるからね。

私としては、雑誌の売り上げが減少したというニュースよりは、32年前までは書籍の売り上げが雑誌より多かったということの方が驚きだったりしている。その 32年前といったら 1985年のことで、時はバブル前夜の様相を呈していた。この頃から、女性向けファッション雑誌がやたら増えてしまったわけなのだね。

バブルの頃なんか、電車に乗ったら若い女性はみんなファッション雑誌を開いて読んでいたという印象がある。しかもその女性のファッションによって、読んでる雑誌がみんな違っていたものだ。今から思えば、よくまああれだけのファッション雑誌が世に出ていたものだ。

当時の価値感では、ファッションのわかっている者がエラくて、ファッション・センスのないオッサンは馬鹿にされ尽くしていたものである。ファッションしかわからない者が馬鹿扱いされる今とは、えらい違いだった。あんな時代だったら、そりゃファッション雑誌は売れまくるわな。

あれから 32年も経ったのだから、時代は変わってしまったのである。当時、電車内での暇つぶしに最適だった雑誌というメディアは、今ではインターネットに取って代わられた。昔の電車内では、オッサンは『週刊ポスト』みたいな週刊誌、女性はファッション誌を読んでいたものだが、今ではみんなスマホをのぞき込んでいる。

近頃、『週刊文春』のスクープが連蔵して世間を騒がせたが、世間の人たちがみんな文春を読んだわけじゃない。大抵はテレビのワイドショーとかインターネットとかで知ったのである。元々雑誌が発信した情報でも、一度知れ渡ってしまったら、あとはテレビやインターネットの方が速報性で勝ってしまう。一度ドカンと花火を打ち上げてしまったら、それで雑誌の出番は終わりだ。

インターネットに負けない要素と言ったら、雑誌よりは書籍の方にあるのだろう。雑誌の売れない時代になってしまったのだ。

 

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2016年6月 3日

根室にも「オランダせんべい」があった

私の故郷、酒田には「オランダせんべい」というお菓子がある。これについては前に当ブログで書いていたつもりだったが、検索してみると見つからない。「おかしいなあ」と思ってさらに検索してみると、ほぼ 6年前に Twitter で次のように書いていただけだった(参照)。

オランダせんべいが話題になってるけど、あの超洗練の薄焼きは、酒田の誇りです。日本中に伝道して廻りたいほど。東北限定販売だけと、ネットでなら買えます。

とにかく超薄焼きなのである。くちに入れただけで、噛もうとも思わないうちにパリっと割れる、あのはかない感覚。そしてクセになるほどの微妙な塩味。製造元の酒田米菓のサイトでは 「庄内のソウルフード」と紹介している。下の写真は酒田米菓のサイトから借用している(クリックで酒田米菓のページに飛ぶ)が、その瑞々しいまでの薄焼き加減が伝わると思う。

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というわけで、私は帰郷する度にこのオランダせんべいをパリパリとおいしく食べているわけなのだが、先日出張で訪れた北海道の根室に、名前も同じ「オランダせんべい」というものがあることを知って愕然とした。何しろ名前は同じだが、まったく対象的な食べ物なのだ。

超薄焼きの洗練度を誇る酒田のオランダせんべいに対して、根室のオランダせんべいは、もっちりとした厚焼きである。下の写真は根室で頂いてきたのを我が家で開いたものだが、一見するとせんべいというよりはワッフルに近い。

Img_5803

食感も、酒田のは口の中ではかなげに 「パリッ」 と割れるのだが、根室のは、まず手でむちっと引きちぎってから口に入れないと、まるでスルメみたいに噛み切るのも大変なほどだ。「洗練」 というよりは 「素朴」 という言葉が似合う。

味はほんのりと甘い。粗糖的なやわらかくて素朴な甘さだから、全然くどくない。酒田のは米が原料だが、根室近辺は水田がないので、これは多分小麦粉を原料としているのだろう。根室の子供たちの代表的なおやつとして親しまれ、大人になっても間食に欠かせないというが、なるほど、これなら飽きずに一生付き合えるだろう。

とにかく名前は同じでも、両者はまったく性格を異にしている。共通点は微妙な薄味ということだけだ。このおかげで 2つのオランダせんべいは、いくら食べても飽きない「ソウルフード」的な存在となっているのだろうね。

あ、そうそう、書き忘れるところだった。酒田のオランダせんべいのネーミングは、「誰んだ?」「おらんだ(俺のだ)」という洒落だが、根室のネーミングの由来は誰も知らないらしい。ただ一説には、オランダ人の靴跡のパターンを表しているからという。そういえば、丸い全体の 4分の1 ずつパターンが違うんだよね。

 

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2016年6月 2日

自分は「旅好き」なのだと思う

自分は「旅好き」 なのだと思う。「旅行好き」というより 「旅好き」なのだ。「旅行」というと何となく事前に組んだスケジュール通りに動くというニュアンスがあるが、「旅」というと、行き当たりばったり、好きにあちこち行くという感覚だ。で、私としては行き当たりばったりの「旅」が好きなのである。

もちろん、本当に行き当たりばったりの旅がしょっちゅうできるというわけじゃない。それどころか現実には、スケジュールの決まった「出張」という名の旅行が大部分だ。それでも出張のスケジュールの中で、できるだけ行き当たりばったりの要素を付け加えるのが、「旅好き」の腕の見せ所となる。

まず出張の予定を立てるにあたっても、できるだけ余裕のある予定にする。用事だけ済ませてトンボ返りするしかないというような、キチキチのスケジュールにはしない。現地で仕事を済ませて一泊したら、翌日はあちこち行って、夕方に発って帰ってくればいいというようなことにする。この手で現地に馴染むことにより、仕事自体の密度も濃くなるというメリットがある。

現地の空き時間の過ごし方というのは、まさに行き当たりばったりである。事前に予定なんか立てずに、現地に入ってから決める。現地の人のオススメ情報を聞くことが多いが、1人だけでなく複数の人に聞くようにしている。1人だけに聞くのでは、薄っぺらな観光情報になりがちだが、複数の人に根掘り葉掘り聞くと、「本当に行ってみるべきところ」というのが見えてくる。

その上で、私は 1人でうろうろすることにしている。誰かと一緒だと、その人に合わせなければないが、1人だったら好きに動ける。1人旅なら、同行者に合わせて興味のない買い物に付き合う必要もなければ、気に入ったところで小一時間ぼうっとしていることもできる。

海外出張の見本市視察などでは、コストの関係でそれを目的としたパッケージ・ツアーに混じることもあるが、現地では絶対に単独行動を貫く。ただでさえ「英語ができる」というだけで同行者に頼られて、あれこれ余計なことを頼まれてしまうことがあるから、日本人同士でつるむのはできるだけ避ける。

先月末の北海道への出張では、釧路から根室まで約 120km の道をレンタカーで行った。現地の人に聞くと「2時間の道のりですが、途中は何にもないところですから、ただシカにぶつからないようにして、退屈に耐えてください」という話だったが、退屈どころかとても楽しいドライブだった。あちこちでクルマを停めて、ちょっとした散歩を楽しんだおかげで、2時間のはずが 3時間以上かかった。

それを見越して早めに出発していたので、遅刻することはなかったし、帰りもまたあちこち寄り道した。道東の自然は、内地に比べて「剥き出し感」がハンパじゃないからワクワクする。できれば数年前の知床のようにエゾシカに遭遇したかったが、今回は多くの野鳥を見るだけで済んだのが、ちょっと残念といえば残念だった。

ちなみにこれだけあちこちで寄り道を繰り返していると、「お馴染みの光景」という感覚が醸成されてくる。いわゆる「デジャヴ」(既視感)というのとはちょっと違って、何というか、どこに行っても戸惑うことがなく、何となく親しみさえ感じて、ずんずん入って行けてしまうのだ。

おかげで私は、世界中で現地の人と思われて道を尋ねられることが多い。

 

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2016年6月 1日

「かわいい」という褒め言葉

NewSphere に "「かわいい」って言われたくない女性もいる…気をつけたい異文化コミュニケーション" というタイトルの記事がある。記事の冒頭からちょっと引用してみよう。

「かわいい」「女子力高い」「できる女」など、褒めるつもりでこのような表現を女性に対して使う人が少なくない。しかし、女性は褒められたと理解しながらも、必ずしも喜ぶとは限らない。特に外国にルーツを持つ女性は「かわいいと言われたくない」と心の中で唱えることが多い。

私はこの記事のタイトルからしてショックを受けた。この文章からは、大抵の女性は「かわいい」と言われたいが、「中には言われたくない変わった女性もいる」というニュアンスが濃厚に伝わってくる。外国にルーツをもつ女性には、この「変わった感覚」の人が多いと言いたいようだ。

私の感覚としては、「一応大人と言われる年になったら、『かわいい』なんて言われたくないだろ、フツー」と思っていたのである。ところがいくつになっても「かわいい」と言われたい女性がかなり存在するようなのだ。少なくともこの記事の筆者は、それを前提として書いているとしか思われない。

そういえば雑誌のインタビュー記事で、「いくつになっても『かわいい』と言われる存在でいたい」なんて、マジに語っているオバサンもいたぐらいである。確かにこの「かわいいと言われたい」という価値感は、女性の間で一定の力をもっているようなのだ。

「かわいい」という形容詞には、「子供っぽい」とか「あどけない」とかいうニュアンスが付きまとう。その証拠に、大人としての洗練を遂げてしまったら「かわいい」なんて言ったらかえって失礼になってしまう。てことは、この国の女性の多くは、大人として洗練をやんわりと拒否しているようなのである。

そう考えると、「かわいいおばあちゃん」なんていう言い方もある程度理解できる。老齢になっても、あまりつべこべ言わずに、いつもニコニコしながら周囲の雰囲気を損なわない「扱いやすい年寄り」になると、「かわいいおばあちゃん」と言ってもらえる。豊富な人生経験からいろいろな教訓じみたことを言うようだと、決してそうは言われない。

つまり「かわいい」と言われる女性は、いつもにこにこして、あどけない物言いに終始し、決して理屈を言わず、周囲のゆるめの雰囲気を壊さないでいる存在ということになるのだろう。このうち、「いつもにこにこ」は確かに悪いことではないと思うが、それ以外の要素が強調されると、私には「要するに頭悪いんじゃないの?」としか思われないのだよね。

とはいえ、この日本的社会では、女性は「頭悪いんじゃないの?」と思われるぐらいにかわいぶっている方が、世渡りしやすいみたいなのである。だから「女子力高い」と言われる女性は、結構ぶりっ子っぽいし、「できる女」というのも、あえて要所要所にちょっとしたぶりっ子要素を散りばめてみせるすべを心得たりしているようなのだ。

逆に「かわいいと言われたくない」なんていうそぶりを露骨に示したりすると、ちょっと生きにくくなったりするというのがあるのかもしれない。何事も「ほどほどのお付き合い」が肝心のようで、世間というのはこの辺が面倒くさいのだよね。

 

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