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2016年7月に作成された投稿

2016年7月31日

日本人、「汗」が好きなのだね

昨日、クルマを走らせながらラジオを聞いていると、「さあ、選手のキラキラした素晴らしい汗が見られる大会が近付いてきました!」と言っている。一瞬「何のこっちゃ?」と思ったが、すぐに「ああ、オリンピックのことか」とわかった。

それにしても、オリンピックのテレビ中継を見るのに「キラキラした素晴らしい汗」なんてものに注目する人なんて、本当にいるんだろうか。そんなのを画面に映し出そうとしたら、相当のドアップにしなければいけないだろうが、本当にやられたら目を背けるかもしれない。

まあ、これは単にメタファーに近い表現なのだろうが、それにしても日本人、なぜか「汗」が好きみたいなのである。「額に汗して働く人がエラい」とか、所属する組織に尽くすことを求めるのに「もっと汗をかきなさい」とか、かなり「汗」に意味を持たせたがる。

そういえば、40年ぐらい前に仕事先で「ポカリスエット」の試供品(販売開始直前だった)を試飲させてもらった時、私は缶に記された "POCARI SWEAT"(ポカリ汗)という商品名にちょっとびっくりして、「これって、汗なの?」と思わず聞いてしまったのを思い出す。気持ち悪い感じがしたのだよ。正直なところ。

担当者は私の感覚には全然無頓着に情熱的に説明を始め、私はさらに冷めていった。

「いえ、そりゃあ、『汗そのもの』ってわけじゃありませんよ。でも、汗と同じような成分が入ってるので、運動で失われた体の成分を速やかに補給できるんです」
「ふぅん、そうなの。だからおいしくないんだね」
「いやだから、これは、美味いとか不味いとかいうことで飲むものじゃないんです。あくまでも運動で失われた体の成分を......」
「なるほど、やっぱり『汗』 なんだ」
「いや、だからぁ、さっきも言ったように『汗そのもの』じゃないんです」
「でも、『汗』って英語で書いてあるじゃん」

その後「ポカリスエット」は当たり前の商品として、市場でも十分お馴染みになったが、私個人としては今でも  "POCARI SWEAT" という商品名にちょっとした抵抗を感じてしまうのである。実はこれは国際的にはスタンダードな感覚のようで、海外で展開する時の商品名は、単に "POCARI" としているらしい。

まあ、いくら何でも日本市場だってもろに日本語で 「ポカリ汗」 では売れないだろうが、いずれにしてもこの国では「汗」って「美しいもの」という感覚があるらしいのだね。一方で「汗臭い」なんて言って嫌われたりもするのだが。体を動かして働くことに対するリスペクトの象徴ではあるのだろうね。

 

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2016年7月30日

「生前退位、憲法に抵触」とは、「お前が言うな!」と政府に言いたい

NHK が "憲法抵触を懸念=生前退位 「お気持ち」表明で-政府" というニュースを伝えている。要するに政府は、陛下の「お気持ちの表明」が 「天皇の政治的行為を禁じた憲法 4条に抵触する事態を招かないか」と懸念しているというのだ。

「おいおい、そりゃ虫が良すぎるだろう!」と私は思う。安保法制とやらで「集団自衛権」などという、明らかに憲法に抵触する事案を妙な解釈で「合憲」と言い張りながら、天皇陛下の率直なお気持ち表明を「憲法に抵触」とは、「お前が言うな!」と一喝したいぐらいのものだ。

私は立憲君主制を支持し、さらに何度も表明している通り改憲論者でもある。しかし安倍政権は「改憲」を謳い文句にしながら、「集団的自衛権」という重要な案件を、現憲法の無理矢理な解釈変更で押し通してしまった。一内閣の一方的な解釈で憲法の骨組みがぐしゃぐしゃになるなら、ことさらに「改憲」なんて言わなくていい。そのせいで憲法の総合的な筋はどんどん通らなくなるが。

安倍政権とその取り巻きは「美しい国」などと言い、天皇制をかけがえのないもののように主張しているが、実は天皇を政治利用したいだけなのではないか。彼らの政治スケジュールを遂行するにあたり、天皇の「生前退位」という重要な問題の審議は「邪魔」でしかないのかもしれない。

政府の対応をみていると、「天皇は我々にとって利用しやすい存在であってくれさえすればいい。あとはおとなしく決まったことだけやっといてくれ」とでも言いたいのではないかと疑うほどだ。そうでなかったら、「生前退位」 ぐらいはお得意の「解釈改憲」で何とでもなるではないか。

 

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2016年7月29日

子どもに物事を説明するのは、実は難しい

NHK ラジオ第一放送で 「子ども科学電話相談」 というのをやっている。夏休み特別企画として、毎年やっているようだ。

子どもの電話相談といえば、TBS の「全国こども電話相談室」というのが元祖的存在で、独特の語り口の無着成恭先生や永六輔さんらが、素晴らしい名解答を連発してくれていた。ところが今はリニューアルして、「全国こども電話相談室・リアル」という番組になり、悩める子どもの人生相談番組となっている。

考えてみればそれも当然で、今どきはちょっと気の利いた子どもだったら、単純な疑問ならインターネットで調べる方がずっと手っ取り早いと知っている。TBS が「元祖・こども電話」をインターネットでは解決の難しい悩みごとの相談に特化させたのは当たりだったと思う。

とはいえ、今となっては伝統的スタイルともいえそうな、「ちょっとした疑問」の答えを、電話でその道の専門家に聞いてみるというのも、悪いものじゃない。大人が聞いていても、とても素朴な疑問の解答が思っていたよりずっと深いものだったりして、「へえ、そうだったのか!」と驚くことがある。なかなか馬鹿にできない。

今日の朝に聞いていたところ、「どうして宇宙船の中では人間が浮くんですか?」という質問があった。もろ文系の私なんか、「無重力状態だからね」と軽く済ませてしまうところだが、実はそんな単純なものではなかったのである。

番組回答者、国司眞先生の模範解答によると、宇宙空間では地球の引力がとても小さくなるが、ゼロになったわけじゃなく、まだ少しだけ地球に引っ張られている。しかしそれに対して地球を廻る宇宙船には遠心力という地球と逆方向に引っ張る力も働いていて、この地球の引力と遠心力が釣り合っているので、宇宙船の中では人間が浮いていられるというのだった。なるほど、そうだったのか。

ところが残念なことに、国士先生のこの説明は相談した子ども(5歳ぐらいだったかなあ)にはちょっと難しかったらしく、進行係のおねえさんが「わかった?」と聞くと、悲しげに「わかんない」と言うのである。で、国士先生は縁日のヨーヨー釣りの例まで持ち出して、なんとかわかったような、わからないようなという線までもっていって、けりをつけていた。

そこへ行くと、昆虫関係の回答者、丸山宗利先生の、「昆虫はどうして足が 6本なんですか?」という質問への解答は見事だった。この質問に対しては、素人の私でも「それは論理が逆で、昆虫はなぜ足が 6本か? なのではなく、足が 6本の虫を昆虫と分類してるんだよ」という答えを用意できる。

丸山先生はさすが昆虫学者で、解答がそれより行き届いていて、「体が 3つに分かれていて、足が 6本の動物を昆虫って言ってるんだよ」と答えられた。模範解答である。しかしそれだけでは済まない。さらに「もうちょっと深く言っていい?」と聞くのである。その「もうちょっと深い話」というのは、こういうことだった。

昆虫の体は、頭、胸、お腹の 3つの部分に分かれていて、頭は司令塔、胸は運動の役目、お腹は消化、卵を産むなどの役目をもつ。そして胸部分は、「前胸、中胸、後ろ胸」の 3つのパーツでできていて、それぞれから左右に 2本ずつ足が生えているんだそうだ。これは私も知らなかった。そして、足が 6本というのは、運動するのにとても安定して都合がいいので、この方向で進化したというのである。

この解答には質問した子もとても納得していた。

「頭の良さ」ということのかなりの部分は、「自分で理解していることを、いかにわかりやすく説明できるか」ということだと思っている。つまり「言語能力」が重要なのだ。「わかったつもり」になっていることでも、 「平易な言葉での言い換え」ができなかったら、それは本当に理解しているとは言いにくい。

物事を堅苦しい術語でしか語ることができないとしたら、それは実は理解しているのではなく、「そのプロセスに慣れてしまっているだけ」なのだ。小さな子どもに物事を説明する羽目に陥ってしまった時こそ、本当に深く理解しているかどうかが試されてしまう。

そしてやさしい言葉で言い換えるという困難な技を駆使しつつ、何とか順序立てて説明することで、自分自身の理解も深まったりする。本当に役立つ知見とは、そういうものだ。

 

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2016年7月28日

ようやく梅雨が明けたのだが

関東甲信は今日梅雨明けしたようだ。平年より 1週間遅く、昨年と比べると 20日も遅い。まあ、8月にずれ込まなかっただけ幸いである。

昔は「梅雨明け十日」などと言って、梅雨明けしたら安定した晴天が 10日間は続くとされていた。実際に、梅雨明けした途端に急に夏になったような気がしたものである。ところがラジオの気象予報士によると、「今年は、『梅雨明け 3〜4日』ということになりそうです」という。

安定した晴天はそれほど続かず、来週あたりからまた天気がぐずつきそうだというのだ。それほど暑くならずに済むのかと期待して聞いていたら、さにあらず。日照時間が少ない割に気温は高めで推移するという。要するに蒸し暑くなるというわけだ。最悪じゃないか。

ちなみに「今年は、『梅雨明け 3〜4日』ということになりそうです」なんて、いかにも特殊な夏のように言っているわけだが、最近では毎年そんな感じという印象が強い。梅雨入りが宣言されるとすぐに天気が回復して晴天が続き、梅雨明けになっても天気はそれほどもたない。昔の常識が通じない天気になっている。

地球全体の気象が、ちょっと変わって来てしまっているのだろう。「地球温暖化」なんていうより、「気象変化」という方がしっくりくる。「2〜30年に 1度」 というほどの異常気象が毎年出現しているのだから、気象のメカニズムはよほどおかしくなっているのだろう。何があっても驚かない覚悟を決めておくほうがいい。

 

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2016年7月27日

いいネタを思いついたのだが

実はこのブログを書くにあたって、少しストレスが溜まっている。いや、書くのが嫌になったというようなことじゃない。3日前の日曜日、高速道路を運転しながらちょっといいネタを思いついた。それも 1つじゃない。1度に 2つも思いついたのだ。

しかし高速道路を運転しながらのことなので、ちょっとクルマを停めてメモするというわけにもいかない。「ああ、メモしたい、早く高速道路を降りてメモしたい」と思いつつ、ようやくインターチェンジを降りた。あとはコンビニに寄って買い物をする前に、駐車場でちょっと iPhone の「メモ」アプリを立ち上げ、ちょいちょいっと書き留めるだけだ。

ところが何たる不覚か、コンビニで買い物を済ませてクルマを発進させて間もなく、「しまった!」と思った。時間に迫られていてさっさと買い物をしようとするあまり、せっかくの思いつきのメモを忘れてしまっていたのである。

「しかたがない。着いたらさっそくメモしよう」と思いながら、急いで目的地に着くと、いきなり待ち構えていたスタッフに相談事を持ちかけられ、それを終えるともうミーティングの開始時間になっていた。

というわけで、ミーティングが終わった時には、せっかくの思いつきを綺麗さっぱり忘れてしまっていたのである。だから、思いついたことはすぐにメモしなければならないと、常日頃から心がけているのだ。ところが、そのメモすることすら忘れてしまうようでは、さすがに還暦過ぎである。物忘れがひどくなったのかもしれない。いや、こうしたうっかりは若い頃からでもあるのだが。

こんなことがあると、何を書いてもつまらないネタのように感じられる。「あの時に思いついたネタは、ヒット間違いなしだったのに!」 と、悔やんでも悔やみ切れない。もう本当にストレスである。

これからは、いいネタを思いついたらなんとかして早めにメモすることにしよう。そうしないと、ストレスを長く引きずることになってしまう。今回はネタを忘れたことをネタにしてちょっとだけ元を取ったがわけだが、この手はそう何度も許されることじゃない。

 

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2016年7月26日

私の誕生日は梅雨明け直後が多いのだが

誕生日である。この年になると誕生日だからといって家族で会食するでもなく、朝から淡々とたまった仕事をこなしているうちに、いつの間にか日が暮れている。まあ、64歳にもなれば、誕生日なんてこんなような呆気ないものなのだろう。

昨日はすっきりとした晴天だったが、今日は朝から降るような降らないような、はっきりしない天気が続いた。西日本と北陸は梅雨が明けているが、関東甲信と東北の梅雨明けは平年より遅れている。自分の誕生日はいつも梅雨が明けて強烈な太陽が照っているという印象なのだが、もしかしたらそれは単なる思い込みかもしれないと、気象庁のサイトで調べてみた。

一応、1971年春までは故郷の庄内で暮らしていたので、1952年から 1970年までは東北南部、1971年以後は関東甲信のデータを見ると、私の誕生日以後に梅雨が明けた年は、以下の 9回 (括弧内は梅雨の明けた日付)。単純計算で 7年に 1度以下である。自分の誕生日は太陽ギラギラという印象は、まんざら間違いじゃないようだ。

東北南部: 1957年(7月29日ごろ)

関東甲信: 1971年(7月 29日ごろ)、1982年(8月 4日ごろ)、1986年(7月 27日ごろ)、1988年(7月 31日ごろ)、1998年、2003年(いずれも 8月 2日ごろ)、2006年(7月 30日ごろ)、2007年(8月 1日ごろ)

1993年は梅雨明けのデータなし。つまり梅雨明けしないうちに真夏が過ぎ、秋になったということらしい。

興味深いことに、生まれてから 1970年までの 18年間で私の誕生日までに梅雨が明けなかったのは、たった 1度だけだが、それ以後は 46年間で 8度と、少し増えている。とくに 2003年以後は、今年も含めると 13年間で 4回と、3年に 1回のペースに近付くまで頻度が上がっている。やはり近年になるほど天候は不順になっているようだ。

ちなみに今年の梅雨明けはいつになるのだろう。天気予報をみると、明日からは晴れマークの日が続く (「曇り時々晴れ」 を含む) から、近いうちに「梅雨が明けたとみられる」というニュースが報じられるかも知れない。

今年は 8月初めと中盤に、関西方面に出張する予定になっている。さぞかし暑いだろうなあ。

 

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2016年7月25日

オリンピックと私

私の誕生日は 7月 26日で、ミック・ジャガーと同じ日に生まれたというのが密かな自慢ということはちょっと置いとくとしても、実は明日が誕生日なのである。そして 12年も前に書いたように(参照)、日本人は民法によって、誕生日の前日に年をとるということになっていて、ということは、私は既に 64歳になってしまったのである。

で、さらに言うと、私の生まれた年はヘルシンキ(フィンランドの首都ということを、案外知らない人が多い)でオリンピックが開かれていて、その開期は 7月 19日から 8月 3日までだった。ということは、私はヘルシンキ・オリンピックの真っ最中に生まれたのである。

当時の東北では、産婆さんを呼んで自宅で出産するというのが当たり前のことで、私も当然自宅で生まれた。母の陣痛が始まって産婆さんが駆けつけた時、ラジオではオリンピック水泳競技の男子 1500メートル自由形決勝が実況されていた。この競技で日本の橋爪四郎選手が銀メダルを獲得したのだが、母は自分の初めての出産という一大事をすっかり忘れて、ひたすら橋爪選手を応援しながら気張っていたという。

自然に気張っていたせいか、ゴール直前のクライマックスで母が一番エキサイトしていた時に、私が元気な産声を上げ、要するにチョー安産という結果になった。というわけで、母は私をオリンピック水泳の申し子と、しばらくは思っていたようなのである。後年に至って「お前はもうちょっと水泳が上手になると思っていたのに」なんて言っていたが、世の中そんなに都合良くはいかない。

余談だが、母は自分の初めての出産を忘れてまで応援した水泳選手の名をケロリと忘れて、ずっと「古橋選手」だなんて思っていたようなのである。橋爪四郎さん、ごめんなさい。

そんなこんなで、私が 4 で割り切れる年齢になると、オリンピックが開かれるのである。実にわかりやすい。今年はリオ・デ・ジャネイロで開かれるということで、「施設の工事が間に合うのか」と、かなりやきもきされていたが、どうやらもう開幕直前というところまで来てしまった。

聞くところによると、オーストラリア選手団が選手村入りしたところ、トイレの水が流れず、壁から水がしみ出てくるというお粗末さなので、とっとと選手村から出て、他に宿舎を決めたそうだ。で、ブラジルの当局は 「まだ完全ではないが、すぐに改善する」 と、呑気なことを言っているらしい。さすがブラジルである。プレッシャーがない。

ところで私は、12歳の時の東京オリンピックは心を躍らせてテレビを見ていたが、それでお腹がいっぱいになってしまって、それから先のオリンピックというのがほとんど印象にない。今回のリオ大会も無関心のままで終わるだろうし、下手すると、次の東京オリンピックだって無関心のままかもしれない。あまり無関心のままだと、「水くさい」なんて言われそうなのが心配なほどだ。

【2020年 7月 28日 追記】

誕生日の前日に年を取るという件に関しては、人は誕生日の前日になった途端に年を取るのではなく、誕生日の前日が終わらんとする一瞬(24時)に年を取るとされているようなのだ。詳しくは、2020年 7月 28日付の "人は誕生日の前日に年を取るわけなのだが" を参照されたい。

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2016年7月24日

「ポケモン Go」の奥に潜むもの

まことに恐縮だが、3日続きの「ポケモン Go」ネタである。このゲーム(ゲームと言っていいんだよね)は、自分じゃやる気が全然ないくせに、世間がこれほどまでに夢中になっているという現象の方は、かなり気になっているのだ。

そんなに気になるなら、自分の iPhone にインストールして、実際にやってみればいいじゃないかと言われるかもしれない。確かにそう言われて当然である。自分で体験してもいないくせに、ああだこうだと言いたがるのは、ある意味無責任な話である。

しかし「じゃあ、責任ある論評をしたいから、『ポケモン Go』をインストールして、やってみます」などと宣言して、それを実行する気には全然なれないのである。ただそれは『ポケモン Go』に反発しているからというわけでは決してない。私は反発なんかしていないのである。

「歩きながらスマホ・ゲームなんかしたら危ない」とか「外にいながら仮想世界に閉じこもっているのはおかしい」とか、もっともらしいことを言って非難する向きもあるが、そんなステロタイプの非難の方にこそ、私は反発を覚える。やりたきゃ、やればいいではないか。事故に遭わないようにという、当然の注意を払ってくれさえすればという条件付きだが。

要するに私は、「ポケモン Go」への反発は微塵もないが、ただ興味がないだけなのだ。試しにインストールしてみたところで、興味がないからやる気になんかなれないだろうし、無理にやってみても苦痛でしかないだろう。それがわかっているから、インストールするだけ無駄だと思っている。

そりゃ私にしたって、例えば飛行機に乗って何もすることがなく、SNS をチェックしようにもインターネット接続がないからそれもできないという時などは、iPhone でゲームをして時間を潰すことがある。しかしそれは、トランプゲームやオセロなど、リアルの道具を使ったゲームを画面上で行うという類いのものだけだ。

以前、子供たちにせがまれて仕方なく TV ゲーム(シューティング・ゲームとか格闘ゲームとか、自動車レースみたいなものだった)に何度か付き合ったことがあるが、疲れるだけで本当に苦痛だった。マジで楽しむなんて、想像もできないことだった。この方面に関しては、私はまったくのオッサンである。

反発したり嫌うよりも冷淡で始末が悪いのは、興味を持たないことだという。ただ私の場合はちょっと複雑で、自分でやることには興味がないが、現象そのものには「大いに関心あり」という、妙に複雑な関わり方になっている。

ほんの少しだけ共通するものを感じるとすれば、ウォークマンである。1979年の発売当初のウォークマンは、今の「ポケモン Go」以上の爆発的な話題となった。そして「歩きながらヘッドフォンで音楽なんか聴いたら危ない」とか「ひたすら自分の中に引きこもっているのは不健康」とか、今の「ポケモン Go」と同じような非難を浴びていた。

そして私は、1979年の発売と同時に初代ウォークマンを購入した者である。そして今でも iPhone で音楽を聴きまくっているから、この方面に関してはオッサンどころか、27歳の頃と同じ感性を維持している。私が「ポケモン Go」をやる気になれないのは、たまたま「ポケモン世代」でも「TV ゲーム世代」でもないからとしか言いようがない。

私が「ポケモン Go」現象に関心をもっているのは、一つには果たしてこのゲームがウォークマン同様にずっと当たり前の行為として生き残るのか、はたまた、一時的なブームとして徒花の如くに廃れてしまうのかとうことだ。もしかしたら、2〜3年後には 「あの頃は、みんなスマホをのぞき込みながら街を歩いてたよね。懐かしいね。今じゃ、あんなこと恥ずかしくてできないね」なんて言う日がくるかもしれない。

しかし、街を歩きながらスマホの中にポケモンを発見してゲットするという行為の奥に、何か普遍的な要素が隠されているとしたら、もう半年か 1年経ったら、その要素が姿を変えて、ゲームなのかあるいはもっと別の形になるのかは知らないが、密かに登場するかもしれない。そしてそれがどんどんバリエーションを増して、いつか生活に定着しないとも限らない。

私が興味をもっているのは、この「ポケモン Go」の奥に潜む「普遍的な要素」が何かということなのである。そしてそれを、外から眺めることによって発見する側にいたいと思うのだ。

 

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2016年7月23日

多くの人がポケモン Go に夢中になるわけ

昨日は「Pokemon Go について」という記事を書いたが、日本にも上陸してしまったので、既に「ポケモン Go」という表記が定着しているようだ。というわけで、私も今後は「ポケモン Go」と書くことにするのでよろしく。とはいうものの、いちいちきちんとキーボードを叩くのは面倒で癪なので、「pg」で単語登録した。

この「ポケモン Go」にどうしてこんなにまで世界が夢中になり、私はこんなにまで興味を持てずに冷淡でいられるのか、昨日までは自分でもわからなかったが、どうやら解答が見つかったような気がする。ヒントになったのは、Wired の "世界はなぜ「Pokémon Go」に夢中なのか、その心理学的な理由" という記事だ。

どうでもいいようだが、本論に触れる前に、どうやら英語媒体では "Pokémon" と表記するのが一般的のようだ。そうだろうね。私は米国で先行配信された時点で "Pokemon Go" と表記されたニュースを読んだので、"Pokeman" と空目して「ポークマン」かと思ってしまったのだよ。

まあ、空目しなくても、「ポークモン」と読んじゃいそうだったが、"e" の上に何とかいうシルシが付いてるので、どうにかそれらしく読まれるのだろう。ただ、日本酒の "sake" が「サキー」と発音されるように、「ポゥキィモン」ぐらいに言われてるのかな。

で、ようやく本論なのだが、上述の記事には、こんなように説明されている。

ポケモンには 20年の歴史があり、熱心なファンベースがもともと存在していたという理由もある。Pokémon Goは、すでに成功していたゲーム世界に、現実世界での双方向性というレイヤーを追加したのだ。

なるほど。既に成功していた世界のリバイズ版だったから、受け入れられるハードルがものすごく低かったのだ。そして私が冷淡でしかいられないのは、ポケモンが大流行した頃には既にオッサンで、しかもウチの子供たちもとっくに 20歳を過ぎていたので、我が家にはポケモンが入って来る余地がなかったのである。要するに、全然馴染みがないのだ。

似たようなことは「ウルトラマン」にも言える。ウルトラマンの全盛時代に、私はテレビのない貧乏学生だったので、ほとんど見ていないのだよね。だから、今の 40〜50歳(ぐらいかな?)の連中がもつウルトラマンへの思い入れが、私には全然ない。時々ビデオで見ると、その変てこな動きに思わず笑ってしまうぐらいのものだ。

今の若い層は、子どもの頃にポケモンに思いっきり馴染んでいるらしい。昨日の私の記事にコメントをくださった乙痴庵さんの子どもさんは、「ポケモン Go」の意義を端的に語ったという。それは「自分でポケモンをゲットすることは、子どもの頃から憧れていたことだもん!」ということだった。

なるほど、そういうことだったのか。既に 20年前から多くの人が 「ポケモン Go」 に夢中になるためのドアは用意されていたようなのである。

 

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2016年7月22日

Pokemon Go について

今をときめく "Pokemon GO" が、日本でも配信開始されたのだそうだ。私はしばらくは「ポークマン ゴー」 ("Pokeman" というスペルに見間違えていたのだよね)かと思っていたぐらい、こっち方面にはとんと疎いので、多分自分の iPhone にインストールすることはないだろう。ただ、世界を巻き込んだ「Pokemon Go 現象」には、ちょっとだけ興味を覚える。

このゲームというのは、自分のスマホの中に映し出された風景の中に、ポケモンのキャラクターが出没するらしい。ということは、自分の目の前に広がる世界を一度スマホの中に取り込み、その画面に映し出される世界を相手にするわけだ。

そんな仕掛けが、引きこもりだった人間が久しぶりで外界に出るきっかけとなったりしているらしい。ただ、外界に出たところで、彼は外界を直接見るのではなく、スマホの画面を通じて見るのだから、世界に対する接し方が劇的に変わったというわけじゃなかろう。それまでは家の中で閉じこもっていたのが、家の外で閉じこもるようになったというだけである。

まあ、ずっと閉ざされた空間にいるよりはずっとましだろうが、逆に、これまで直接的に外界を見ていた人間まで、間接的に世界を見るクセがついちゃうかもしれない。私としては、現実の街を間接的な画面で見ながら歩く人間の感覚が、どんな具合に変わっちゃうのかが興味深い。

茨城県の田舎に住む私としては、外出する時は自転車かクルマということが多いから、たとえ興味があったとしても物理的に "Pokemon Go" で遊ぶ機会が少ない。ということは、このゲーム、かなり都会的なものなんだと思う。

 

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2016年7月21日

都知事選は気分悪すぎ

私は東京都民じゃないので関係ないが、それでも今回の都知事選の成り行きを見ていると、ものすごく気分が悪い。自民党の分裂騒ぎは既得権益を巡るものだろうし、鳥越氏の「淫行」報道にしても、政治的な策略の臭いがぷんぷんする。

近頃の文春の趣味の悪さは大変なもので、他人の色恋沙汰に首を突っ込んで部数を稼ぐスキャンダル雑誌になり果ててしまっている。今回の報道にしても、「淫行」なんていうから相手は問題のあった時期に 18歳以下だったのかと思ったら、20歳だったという。14年前の 20歳である。そんな話には付き合いきれない。

とはいえ、鳥越氏はこれで限りなくアウトに近付いてしまっただろう。そもそも彼が立候補を表明した時から、私は体力的に大丈夫なのかと疑っていた。彼は小池氏の「病み上がり発言」に激高したというのだが、私に言わせれば当然の懸念である。その上に、降って湧いたような「淫行」報道である。これが本当かガセかは知らないが、このタイミングで出てきたというのは、完全に狙い撃ちだ。

この気分悪すぎの選挙で投票しなければならない東京都民が、本当に気の毒である。

 

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2016年7月20日

夏休みと「海の日」、「山の日」

関東ではほとんどの都県の小学校が、今日から夏休みに入ったのだそうだ。道理で近所の子供たちが呑気に道路で遊んでいる。

私は関東の小学校のほとんどすべてで、今日から 8月 31日までの 42日間が夏休みなのだと思っていたのだが、それは間違いだとわかった。当茨城県では、夏休みは 8月 29日までの 39日間だけなのだそうだ。へえ、気の毒に。

そして千葉県では夏休みは他の関東都県より 3日多い 45日間なのだそうだが、ちょっとしたカラクリがあって、7月 16日から 8月 29日までとなっている。一見すると夏休みが早く始まって、小学生はハッピーのようだが、実は今月 16日から 18日までの 3日間は、土日と祝日(海の日)が連続して、別に夏休みなんて言わなくても元々お休みなのである。

だから、ほかより 3日間多く見えて、実は変わらないのだ。それどころか、他より 3日早く夏休みが終わるという印象の方が強くなる。8月末なんてまだまだ暑さの真っ盛りだから、辛いところだ。千葉県の小学生の多くは、「そんな姑息なだまし討ちで『45日間の夏休み』なんて言われるより、『7月 19日から 8月 31日までの 44日間』の方が、ずっといいわ!」と思っているに違いない。

ところで今日ちょっと遠出したところ、何軒かの家で門口に日の丸を立てていた。「別に祝日って訳じゃないのに、何か特別なことでもあるのかな?」 と思いながらクルマを運転していたが、帰宅してからそのわけがわかった。

「そうか、今日 7月 20日は海の日と思っている人たちが、まだいるんだ!」

ちょっと調べてみたところ、この祝日は平成 8年から実施されているが、当初は 7月 20日だった。しかしいわゆる「ハッピーマンデー」の制度によって、平成 15年から「7月の第 3日曜日」ということに変更された。ところが世の中では、10年以上経っても「7月 20日は海の日」という刷り込みから抜け出せない人がいるわけである。

物事の周知徹底というのは、ことほど左様に難しい。5年前にテレビのアナログ放送が終了した時も、あれだけ事前の告知をしていたのに、当日になって「ウチのテレビが突然映らなくなった」という問い合わせが殺到した(参照)というのだから、世の中というのはなかなか大変なものである。

ちなみに来月 11日は「山の日」という祝日だが、これは旧盆の休暇を 1日でも長目に取りやすくする効果があるのだろう。「海の日と山の日って、何のための祝日なの?」という質問には、「会社や学校を休むための祝日だよ」と答えることにしている。そうでもしないと、日本人は休まないのだからしょうがない。

Wikipedia によると、「海の日」に関しては 「2014年に 『海の恩恵に感謝する日だったはずが、単なるお祭りになってしまった』として、超党派の国会議員からなる海事振興連盟により 7月 20日に固定化する議案が出され、2016年から当初の7月20日に戻そうとする流れにある」とされている。

しかし「海の日」の意義なんて元々理解されていなかったんだから、そんなのは国民の支持を得られないだろうけどね。現実に、2016年今年になってもそんなことにはなってないし。

 

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2016年7月19日

「眼精疲労」 の 「眼精」 って、一体何だ?

このブログのポータルサイトである 「知のヴァーリトゥード」 のサブサイト、「知の関節技」 の中に "「小股ってどこか」よりも大切なこと 「よくわからない」まま置いておく美意識" というヒット・ページがある。このページでは「小股の切れ上がったいい女」とかいう決まり文句の「小股」ってどこかということにフォーカスしている。

で、私としては結局のところ、人体には「小股」という特定の部位があるわけではなく、「小腹が空いた」とか「小耳に挟む」とかいうのと同様の、「体言挟みの係り」説を支持している。「小股の切れ上がった」というのは、「股がちょっと切れ上がった」という程度の意味ということだ。

ところで、私が「小股」以上に疑問に思っていたのが、「眼精」ってどこなんだ? ということである。よく目薬の効能なんかに、「眼精疲労に効く」なんてのがあるのだが、この「眼精」って一体何なのか、疑問に感じながらずっと放っておいてきてしまったのだ。

私としては、眼球の中のピントを合わせるための筋肉や神経関係の総称ぐらいに思っていた。だから PC の前に座りっぱなしで根を詰めた作業をすると、そこらへんの部位の総称である「眼精」というのが疲労してしまい、視界がボヤボヤになってしまうのだろうと、ずっと考えていたのである。

ところがふと思い立って「大辞林」で「眼精」という言葉を引いてみて驚いた。それは人体の、とくに眼球の中の特定の部位を指す言葉なんかじゃなかったのである。「モノ」じゃなくて「コト」を示す単語だったのだ。以下に引用する。

眼精: 目の力、視力。また、見分ける力。

用例として「一目見たりし頼政が眼精を見ばや」という『源平盛衰記』の中の文が挙げられている。源頼政って、一目で何かを見抜く眼力があったってことのようだ。

何と、要するに「視力」とか「見分ける力」とかいうのが、「眼精」の正体だったのだ。意外や意外である。で、世の中の目薬の多くが、この「視力」や「見分ける力」の疲労回復に効果があると謳っているのだ。

ここで注目すべきなのは、「視力が良くなる」というのではなく、「視力の疲労」の回復に効果があるとされている点だろう。もっとわかりやすく言えば、「目の疲れ」の回復に効果があるというのである。

なんだ、「眼精疲労に効く」 なんていうとずいぶんもっともらしく聞こえるが、要するに「疲れ目」を癒やすというだけのことのようなのである。

 

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2016年7月18日

100円ショップに長くいると、頭が痛くなるんだよね

人によって違うだろうが、私は「100均」とか「百円ショップ」とかいわれる店に入ったとたん、ガソリンに似た刺激臭を感じ、目にしみるような感覚がある。そして長くいると、ちょっと頭が痛くなったりする。そんなわけで、なるべくさっさと退出するようにしている。

確証はないが、あれって店内の空気中のホルムアルデヒド濃度が高いのではないかと疑っている。ホルムアルデヒドというのは結構な毒性の発がん物質で、直接的にはとくに粘膜を刺激する。だから目にしみるような感覚があるのだと思う。

昔は生地屋(洋服やカーテンの布地を売る店)に行くと同様の臭いと刺激があった。生地にハリを持たせる加工や防カビ、防しわ加工にホルムアルデヒドが使われるので、その残留成分が空気中に発散してしまうのだ。今は有毒成分として厳しく規制されているが、中国製の衣料品だと基準以上のホルムアルデヒドの残留があったりする。

9年前にも中国製衣料品から高濃度のホルムアルデヒドが検出されたというニュースがあり、それについて私は 3本の記事を書いているので、以下にリンクを張っておく。この 3本を読んでいただけば、消費者として知っておくべきことは理解されると思う。

衣料品のホルムアルデヒド騒動
少しは自分で調べて書こう
何でも 「やりすぎ」 の中国的乱暴発想

ホルムアルデヒドは有害物質だが、残留濃度の高い衣料品を買ってしまったとしても、水で洗えばほとんど溶けて流れてしまうので、「中国製の服を着たらすぐがんになる」なんていう過剰な心配はいらない。とはいえ、店頭に並べられた時点でそんなに残留濃度が高かったら、生産現場はホルムアルデヒドまみれだろうから、中国人労働者の体が心配だというのが、上述の 3本のストーリーである。

で、100円ショップの店内というのは、生産コストの安い中国などで作られた製品が多いから、それらの製品から発散するホルムアルデヒド濃度が高いんじゃないかというのは、容易に想像されてしまうのだ。別に無理にこじつけた話じゃない。

これについて店自身が公表することはあり得ないだろうし、何か問題があって保健所が入ったとしても、一昨年のマニキュアの時のように個別の商品を持ち帰って検査するのが関の山で(参照)、店内の空気の検査まではしないだろうから、データの公表は期待できない。

だから私の言い分も単なる推論に過ぎず、「個人的にはそう疑っている」 というだけのことだ。とはいえ店内に入ると刺激臭を感じて目がショボショボし、長くいると頭が痛くなって、外に出ればすぐに収まるという体験的事実から言っているので。私としては 「シックハウス症候群」 のような敏感な人には、「念のため、100円ショップは避けた方がいいよと」とアドバイスするのである。

 

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2016年7月17日

人口減少で、過疎地にクマがあふれる可能性

Gigazine が 「日本の人口が減少し続けると過疎化した土地にクマがあふれる可能性」と、次のように報じている。

人口の減少が今後も続けば、さらに過疎地域の空洞化が進み、維持できず空き家となった神社や学校にクマやイノシシなどの野生動物が住み着く事態が起こりかねないことから、「移民政策」の必要性についてロサンゼルス・タイムズが指摘しています。

この件に関しては私も、先月 15日付の「クマの被害が増えているのは」という記事で、次のように危惧している。

山村は老齢化が進み、限界集落が限界を越し始めたりしているのではなかろうか。そうなると、山菜やタケノコ採りで山に入る人たち(多くは山村の老人)が減り、人間のテリトリーが後退する。すると相対的にクマのテリトリーが前進してくる。

そうした状況の中で、なおかつ山に入る人というのは、既にクマが「俺のテリトリーだ」と認識し始めた領域に、これまで通りのつもりで軽い気持ちで入っていってしまっているのではあるまいか。

今回のロサンゼルス・タイムズの記事で、同じような心配をしているのは私だけではないとわかった。野生動物は人間の気配を案外恐れていて、人が入ってくれば好んで争いたいとは思わず、自ら身を隠す。しかし進入する人間の数が減少すれば、野生動物の意識だって変わる。「ここは俺のテリトリーなんだから、無遠慮に入ってくるヤツは、攻撃してやる」と思ったとしても不思議ではない。

限界集落では、かつて人間が野生動物たちから奪い取ったテリトリーを、知らないうちに返還してしまいつつあるように思う。人はこれまでより遠慮深くなる必要がある。「そちら様の土地に、ちょっとお邪魔させていただきますので、なにぶんよろしく」といったつもりで、山に入らなければならない。

 

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2016年7月16日

本当に 「鬱憤晴らしの時代」 なのだなあ

先月末あたりから、やたらと大きなニュースがバンバン飛び込んできて、本来なら当ブログでも「いいネタ、ゲット!」とばかりに書きまくるところだが、あまりにもヘビーすぎて手をこまねいてしまっている。思えばば私も、頭の回転がトロくなってしまったものというか、ズバズバ書きまくることができない体になってしまった。

還暦を越してしまうと、それぞれの出来事が独立して意味をもつのではなく、すべてつながったものだという感覚が強くなってくる。まあ、複雑系という考え方がしっくりきちゃうのだ。で、それはそれでいいのだが、何か書こうとすると、たった一つのことを書きたいのに、その背後にある諸々の事項が自然にからまりついてきてしまって、単純なことは言えなくなってしまうのだよね。

最近起こった複数のテロ事件や、英国の EU 離脱、米国の大統領選の動向、そして今日いきなり飛び込んできた、トルコのクーデターのニュースなど、何か一つの大きな流れに沿ったことには違いないと直感するし、同様の感覚をもつ人も多いだろう。だがそれを安易にまとめすぎると、その辺のテレビ・ニュースの解説みたいにつまらくなっちゃうから、頭の中で熟成されるのを待っている。

ところがそうしているうちにも、次から次に新しいニュースが出てきて、追いつけなくなってしまうのだよ。今の世の中、本当に忙しすぎる。

いずれにしても、最近の世の中の流れは「鬱憤晴らし」というファクターが大きいというところまでは思いが至った。先月末に 英国の EU 離脱が示す「鬱憤晴らし」の時代 という記事を書いたが、この「鬱憤晴らしの時代」というのは、案外いいキーワードだと思っている。

鬱憤晴らしがこんなにまで大きな時代の潮流になっているというのは、世界はそれほどまでに、過去に鬱憤をたしこたまめ込んできたということだ。それは「新自由主義」という名の「弱肉強食」を是とする時代の副産物でもある。この鬱憤がガス抜きされるまでは、世界はとても不安定な状態のまま推移せざるを得ない。

 

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2016年7月15日

LINE のマーケットに、自分はいない

LINE が上場を果たしたというのが、エラい話題になっているが、私はこのシステムにはほとんど興味がない。自分の iPhone に LINE というアプリをインストールしてはいるが、これはメッセージを送ってくる相手がいるので、仕方なく入れているだけで、自分から積極的に利用しようとは全然思わない。

メッセージを送ってくる相手に対しても、内心では「もう、面倒だなあ。なんで SMS(いわゆる 「ケータイ・メール」)じゃいけないの?」と思ってしまう。「SMS はお金がかかるが、LINE は無料」ということらしいが、SMS の料金なんて知れたもの(1通 3円とか)で、毎日 1通送っても 100円以下で、しかも家族とか同じキャリア同士とかだと無料だ。

私はビジネス上のメールはいわゆる E-mail を使うし、ちょっとしたやりとり(例えば、待ち合わせの確認など)なら SMS を使う。若い知人も、「tak さん、どうも LINE をうっとうしがってるみたい」と察してくれたようで、私への連絡に LINE を使うことがだんだん減ってきた。近頃では 1ヶ月に 1度あるかどうかぐらいで、少しはせいせいしている。

そもそもこうしたシステムというのは、相手側にも同じシステムがないと使い物にならない。それで私のように「仕方なくインストールだけはしている」とか「月に 1度はメッセージが送られてくるので、返事ぐらいは書いている」程度のユーザーも結構多いのだろう。で、月に 1度ぐらいのことでも「アクティブ・ユーザー」にカウントされてしまうというわけだ。

確かに、若年層には圧倒的に指示されているらしい。なるほど、あまり意味があるとも思われないメールをやたらと頻繁に交換する習慣のある層には、「手軽な無料のメール」というのはありがたい存在なのだろう。しかしそうしたコアなヘビー・ユーザーに引きずられて、しぶしぶ使っているユーザーも多いわけだ。

ただ、それにしても「国内ユーザー数 5000万人」とかいうのは、「本当かなあ」と思ってしまう。LINE は「1人につき 1アカウント」ではなく、「1端末につき 1アカウント」という、ちょっと理不尽なシステムのようなので、複数端末(スマホ 2台持ちとか、スマホとタブレットとか)利用のユーザーは、1人でいくつもアカウントをもったりしている例が多く、それでそんな数字になるのかもしれない。

海外展開に関しては、日本、台湾、タイ、インドネシアの 4カ国に重点市場を絞り込んでいるようで、はっきり言って、欧米じゃ全然マイナーな SMS である。私の知り合いの米国人は、誰も LINE なんて知らなかった。

考えてみると、LINE ってかなりドメスティックな性格の SMS だと思う。アカウントのベースが電話番号になっている(それで、1端末につき 1アカウントになるようだ)とかいうことからして、「ちょっとガラパゴスっぽいよね」と思う。

というわけで、これまでも頻繁にケータイ・メールをやりとりしてきた若い層が、「無料なら、使い放題じゃん!」というわけで、どっと LINE になだれ込んだだけのような気がするのだよね。それで「LINE のマーケットに、自分はいない」と思うばかりなのである。

 

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飛行機が揺れまくるときは、大抵眠っちゃってる

参院選とか永六輔さんの死去とかいう大きな話題が続いたので、ちょっと書きそびれていたが、先日の徳島出張での飛行機は、とくに帰路の気候条件が悪くて、ずいぶんガタガタ揺れた。何しろ、徳島空港の出発からして、20分遅れたのである。羽田空港付近の大きな雨雲をやり過ごすためだそうだ。

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そして、大きな雨雲をやり過ごしたはずなのに、羽田空港への降下を開始した時は気持ち悪くなるほど揺れまくった。私は昔から自分の乗った乗り物が揺れまくるときには、睡眠の中に逃げ込むという便利な身体反応を示すことになっていて、この時もずいぶん長い間うとうとしていた。

実は私は 28歳で初めて飛行機に乗った。それも国内便ではなく、いきなりの海外出張で、フランクフルト行きである。私はこの頃、まだ鉄のかたまりの飛行機が空を飛ぶということをあまり上手にイメージできていなかったので、成田空港からの離陸にあたってはかなり緊張していた。滑走路でスピードが上がるに連れ、必死に脚を突っ張っていたほどである。

そしてこの時のフライトが、かなりの悪条件でものすごい揺れ方だった。とにかく揺れるだけじゃない。北極圏上空の乱気流でいきなりエアポケットに入ると、スーッと落ちるのである。話に聞くと、このスーッと落ちる時というのは、少なくとも数百メートル落ちているのだそうだ。気圧のものすごく低いところで落下し、まともな気圧の層にバフッとぶつかって落下が止まるのである。

この時は、そんな落下を何度経験したかしれない。スーッと落ちる時の、あのはらわたがホエーっと浮き上がるような気持ち悪さは、かなりこたえる。昔の性能が悪かった頃の超高速エレベーターに乗って、いきなり降下されるとあんな感じだった。この気持ち悪さから逃れるために、私は眠りまくった。

私の「揺れまくるときは睡眠の中に逃げ込む」という身体反応は、12歳で青函連絡船に乗った時に身についたのだと思う。この時は台風通過直後で、津軽海峡はかなりのうねりだった。スーッと上がったかと思うと、ストーンと落ちる繰り返しで、すっかり船酔いしてしまった。そしてこの船酔いの苦しさから逃れられたのは、ひたすら眠ったことによる。眠りさえすればいいのだ。これはある種の 「成功体験」 である。

幸いなことに、私は寝つきのいい性分である。この時の経験から、「揺れるときには眠ればいい」という条件反射が身についてしまったらしい。そして初めての飛行機でも、乱気流で生きた心地がしないので、とにかく「眠ってしまおう。眠ってしまいさえすれば怖くない」と無意識の中で思ったようなのである。とにかく、ひたすら眠っていたよう気がする。

この時にはあまりの揺れや落下で度々目を覚まし、肝を潰していたのだが、その後、何度も飛行機に乗って揺さぶられるうちに、悠々と眠れるように堂に入ってきてしまった。人間、ストレスが大きいと眠れなくなるが、私の場合は、大きすぎるストレスだとかえって眠ってしまうようなのである。我ながら便利な体だ。

先日の徳島からの帰路も、羽田に近付いて降下を開始した頃から「ずいぶん揺れるなあ」と思っていると、 「機長からの指示で、乗務員も座らせていただきます」 なんて機内アナウンスが流れた。トイレに行くのも控えろという。結構ヤバい。

しかし「こりゃかなわんなあ」と思っているうちに、またしても都合良く眠ってしまったようで、最後に「ドスン!」という衝撃でびっくりして目を覚ますと、飛行機は既に羽田空港の滑走路を疾走していた。どうやら、一番恐ろしい揺れは眠っているうちにやり過ごしてしまったようだ。

というわけで、我ながら便利な身体反応を身につけてしまったようなのである。

 

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2016年7月14日

「キー発見器」 というデバイス

「キー発見器」というものがあるのだそうだ。キーホルダーで電波の受発信ができて、どこに置いたかわからなくなった時にスマホで電波を送れば、音や光を発してありかを知らせてくれるというものである。うっかり者にはありがたいデバイスかもしれない。

ネットで検索してみると、「キーファインダー」とか「探し物発見器」とかの商品名で紹介されている。IT Media のなぜか「ヘルスケア」のページ(探すストレスから解放されて、精神衛生にいいということなのか)に「必死に探す必要なし――音や光で鍵の所在を知らせてくれる便利グッズ 5選」という記事がある。

この記事を見ると、単にキーホルダーを発見するだけでなく、キーホルダーの方からもスマホを探せたり、距離が離れると警告したり、スマホのカメラのリモートシャッターとして使えたりという多機能なモデルが展開されているようだ。なるほど、近頃の技術があれば、小さなキーホルダーにこれくらいの機能を詰め込むのは簡単なことなのだろう。

この記事を読んで私は「これは便利だ! 是非欲しい!」と、瞬間的に思ったが、すぐに「待てよ、本当に必要だろうか?」と思い直した。私はうっかり者でいろいろなものを探し回ることが多いが、置き忘れる場所は決まり切っているので、そんなに苦労することなくすぐに見つかる。

一番探し回るのは iPhone だが、それは誰かに電話してもらえば呼出音や振動音で探し当てられる。キーホルダーは帰宅したらすぐに引っかける場所が決まっているので、ありかがわからなくなることはまずない。その引っかける場所になければ、前日に履いていたズボンのポケットにあると決まり切っている。

その他、財布や定期入れも探し回ることが多いが、大抵はキーホルダーと同じで、前日のズボンのポケットを探せば見つかる。ということは、探し物発見器なんてものに頼らなくて済みそうだ。

最近探すのに苦労したのは、今月 3日の記事で触れたように、運転免許証である。この時に探し当てるのに結構苦労したので、瞬間的に 「欲しい!」 なんて思ってしまったのだろう。しかし運転免許証単体にこんなデバイスをくっつけるのは難しそうだ。

私の場合は、それまで使っていた定期入れがよれよれになって、中に入れていたカード類がバサッと落ちてしまうまでになっていたせいで、クルマの運転席で免許証だけが滑り落ちてしまったようなのだ。これはドア・ポケットに辛うじてひっかかっているのを発見して、再発行申請はしなくて済んだ。

これに懲りて定期入れは頑丈な新品を買ったので、もう安心だ。私の場合は確かにうっかり者ではあるが、幸いなことにこうした発見機を買うまでの重症うっかり度ではないようだ。保険のつもりで買うというなら別だが。

ちなみに上述の記事でも紹介されている「探し物発見器 AZ-KHSF5(AZ)」というのは、スマホではなく、専用の電波受発信機で、5種類までのキーホルダーをセットすることができるというものだ。4種類までセットできるタイプ「ミツカルテット」というのも Youtube でも紹介されていて、これなら家族で使えそうだ。

しかしウチの場合は、そもそもこの専用電波受発信機の方をなくしてしまいそうなので、検討の対象外だろう。スマホで探す方が、まだ現実的な気がする。

 

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2016年7月13日

山形県の形が人の横顔ってことについて

今日は軽いネタ。県の形についてである。

群馬県の人たちは、自らの県の形が鶴に似ていると主張する。『上毛かるた』 にも「鶴舞う形の群馬県」というのがあるという。西日本には群馬県と栃木県を区別できないという人も多いので、ちょっと下に画像をリンクしておく。

 

Gunma_turu

 

ただ個人的には、これはかなり無理があると思っている。群馬の人たちには悪いけど、「言われてみれば、そう見えないこともない」程度だ。頭の形が鶴というよりゴジラっぽいし。

この他に、福井県が鍵の形に似ているという説もあるが、これもちょっとしたこじつけっぽく聞こえてしまう。福井県が鍵の形に似ているというよりも、「福井県に似たように見えないこともない鍵もある」 程度のことだと思っている。

しかし我が故郷の山形県が、人の横顔に見えるということに関しては、異論を唱える人はあまりいないのではないかと思う。鼻の形も無理がないし、口をぽかんと開けているのもご愛敬だ。下の図の左側が山形県で、赤く塗った部分が我がペンネームの由来となった庄内地方である。

Map1

ただ、これほどはっきりと特徴的な形をした県だというのに、「山形県って、人の横顔の形だよね」と皆が言うほどには、全然有名な話じゃない。かなり無理のある「鶴舞う形の群馬県」の方が、まだ知られているというのが、ちょっと痛恨である。

まあ、要するに山形県は僻地なんだろうね。そしてアピール下手ってことだ。私の出身地の酒田市は最近、「山形県の目玉」(そういう位置にあるのだよ)なんて言っているようだが、山形県が人の横顔の形という前提自体があまり知られていないので、「は?」なんてことになるのも、残念なことである。

まあ、「それがどうした?」 ってなことではあるけれど。

 

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2016年7月12日

『土曜ワイド』 外伝

永六輔さんが亡くなられて、7月 12日の TBS ラジオ『いち・にの三太郎~赤坂月曜宵の口』は、さながら追悼番組と化していた。しかしちっとも湿っぽいところがなく、「さすが、永イズムを受け継ぐ人たち、わかってるなあ」と感じさせた。この番組は、期間限定でインターネット後悔されている(参照)。

私は永さんがパーソナリティを務めていた TBS ラジオ、『土曜ワイド』 のファンだった。この番組でアシスタントを務めていた TBS 女子アナ、長峰由紀、外山恵理の両人も、永イズムをよく受け継いでいると思う。

永さんの次女である永麻里さんが『いち・にの三太郎』に出演され、「呂律が回らなくなってからの父を外山さんはうまく翻訳してくれた。私たち(姉妹)は長峰さんを三女、外山さんを四女だと思っています」とおっしゃっていた。なるほど、この番組を長く聴いた者には、その感覚がよくわかる。

しかし、「おや、土曜ワイドのアシスタントは、長峰、外山の 2人だけじゃないよね」と思い、調べてみると、4人いたのである。長峰由紀(1991年4月〜1996年3月)、雨宮塔子(1996年4月〜1999年2月)、堀井美香(1999年3月〜2000年4月)、外山惠理(2000年5月〜2015年9月)という順番だ(参照)。しかし、長峰、外山の両人以外は、見事に印象から抜け落ちている。

いや、実は「印象から抜け落ちている」のは堀井美香だけで、この人は何をやらせても強烈なアピールをしないというのが持ち味だからいいが、雨宮塔子の方は、「ちょっとヒドかったなあ」という印象がある。彼女は永六輔氏をリスペクトしていないわけじゃなかったのだろうが、彼の世界をほとんど理解しないでアシスタントを務めていたのだろう。全然かみ合わなかった。

番組中で永さんに「そんなことも知らないの?」とあきれられ、「初めてお聞きしました」としれっと答えるパターンが何度もあった。ミスキャストもいいところで、私は「こいつ、なんとかしてくれよ!」と思っていた。その後に下町娘の外山恵理アナウンサーに変わって、長峰時代とは別の形だが見事にかみ合うようになり、ほっとしたのを覚えている。

その雨宮塔子がこのほど、TBS テレビの夜の報道番組のキャスターとして復帰するらしい。私はテレビは見ないから、どうでもいいけど。

 

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2016年7月11日

永六輔さん、フォーエバー!

ザ・ピーナッツの妹の方、伊藤ユミさんが、今年 5月 18日に亡くなっていたと、今日になって報道された。姉の方のエミさんは 4年前に亡くなっているので、これであのザ・ピーナッツはこの世から消えてしまったのである。昭和の名残が、次々に消えていく。

淋しくなったものだと思っていたところに、もっとショックな訃報が飛び込んだ。あの永六輔さんが亡くなったというのである。命日は 7月 7日だそうだ。新暦ではあるが、七夕である。さすが永さん、いい日を選んで亡くなられたものだ。

思えば私がワセダに入ったのは、一つには永さんと同じ大学に入りたいと思ったからだった。だから同じ文学部(第一文学部)を選んだのである。ただ永さんは中退されたが、私は何を間違えたか大学院まで進んで、不肖ながら文学修士なんてものになった。

実は私は永さんからお葉書を頂いたことがある。そのことについては 10年前に「ミスター・ボージャングルの正体」という記事で書いたので、古くからの読者の中には覚えておいでの方があるかも知れない。この記事で、頂いた葉書の画像を紹介している。

永さんは当時、もらった手紙や葉書にはすべて自筆で返事を出しておられたということなので、これはそんなにレアなお宝というわけじゃない。とはいえ、最近になってそれも叶わなくなったそうだから、まだお元気な時にこうして葉書を頂戴できたのは光栄だった。

永さんが亡くなったことで、私としては日本が大きな存在を失った気がする。「放送作家・作詞家」 と紹介されることが多いが、それだけに留まらず、日本文化の中での「ジャイアント」の一人だったと思う。私はこの人のラジオ放送、著作から多くを学んだ。ただ感謝である。

そして永六輔さん、フォーエバー! と祈る。

 

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2016年7月10日

選挙速報を見ながら、うだうだと考えている

仕事で日立方面にでかけ、日が暮れて帰ってから夕食を食べ、おもむろにテレビのニュースをみると、参院選は既にかなりの数の「当確」が出ていて、与党が過半数の議席を獲得することが確実になっている。それどころか、野党内の改憲勢力を合わせて 3分の 2 以上に達しかねない勢いだ。やれやれ。

いつも、本当にいつもいつも、選挙の度に思うのだが、開票率が 0% とか 1〜2% とかの段階で早々と「当確」マークが付くというのは、まあ、間違いはほとんどないようなのだけれど、あまりにも「お行儀悪すぎ」なんじゃなかろうか。

事前予測のほかに、投票した人たちが「出口調査」とやらで、信じられないほど軽々しく自分の投票行動ををしゃべっちゃうことも、こうした傾向に拍車をかけているらしい。出口でマスコミに、どんな投票をしたかなんて聞かれて、それに正直に答えるなんて、個人的にはあり得ないことだと思う。世の中の人たちって、一体何を考えているのだろう。

まあ、そんな風に「正直すぎる人たち」が、「世間の空気に促されて」与党に投票したり、「義憤にかられて」野党に投票したりして、そして出口でマスコミに聞かれたら得々としゃべっちゃったりしているのだろう。「一体どこの世界のお話なんだ?」と言いたくなってしまう。

安倍政権の掲げる政策を含むコンセプトというのは、既に思いっきり古くなったというか、手垢にまみれたものだ。「アベノミクス」で経済指標は上向いていると言っても、富の配分の不均衡はますます顕著になっている。豊かな企業や人たちが多くの富を得たら、そのおこぼれが下の方まで行きわたるなんていうのは、もはや幻想と化しているのだ。

わずか 2〜3%の経済成長が 2年やそこら続いたところで、近頃はまたぞろ不確定要素が濃くなっているから、その恩恵は中小企業や非正規労働者の懐までには届かない。むしろ経済格差が広がるばかりだ。私としては、日本人は「経済成長モデル」の呪縛から解放されなければならないと思っている。

だって、実際に包括的な実感レベルでは成長なんてしてないんだもの。ここまで来たら我々は、表面的な経済成長なんてしなくても幸福を感じられるシステムを模索しなければならない。

 

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2016年7月 9日

若い層も、ちゃんと選挙に行こうよ!

ちょっと旧聞で申し訳ないのだが、選挙権年齢が引き下げられたのを機に、東京世田谷に住む 18歳の大学生が仲間と共に「選挙に行こう」と主張する小さなデモ行進を、先月 19日に行ったという記事が毎日新聞に載っていた。「思いを形に、不満を形に、声を形に、夢を形に」と、投票を呼びかけて地元を歩いたのだそうだ。

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なかなか素晴らしいことである。こんな志をもった若い連中がしっかりと主張してくれるなら、日本もまんざら捨てたもんじゃない。嬉しいじゃないか。

明日の参院選、そしてその次に行われる東京都知事選で、若い連中もしっかりと意思表示すべきなのである。そうしないと、投票率の高い高齢者の意向ばかりが選挙結果に反映されてしまうことになる。若い連中としては、選挙にも行かないで後から文句言ってもしょうがないのだ。

はっきり言って、あと 10年か 20年ぐらいしか生きない連中の声が重視されて、これから半世紀は生きるだろう若年層の声が後回しにされているのは、若い連中の投票率が低いせいなのだよ。しっかりと投票率を上げれば、政治に圧力をかけられるのだ。

まあ、私自身はもう還暦を過ぎちゃったけど、気だけは若いのでこんなことを心配してしまうわけなのだよね。

ただいちゃもんつけるわけじゃないが、今回のデモで惜しむらくは、プラカードが "GO VOTE" になっていることだよね。これでもわからないわけじゃないけど、普通は "Go to vote" (投票に行け)だよね。ただ、それでは突き放しすぎみたいな感じもするから、"Let's Vote"(投票しよう)の方がいいかなあ。

いや、それより何よりも、シンプルに日本語で「投票に行こうよ!」の方がずっといいと思う。とにかく、本当にちゃんと投票に行こう。私は期日前選挙を済ませちゃったからもういいけど。

 

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2016年7月 8日

日本のこころを大切にする党のジングル

日の暮れたコンビニの前の駐車場に、ウンコ座りしてたむろする若い連中を追い払うのに最も有効な方法は、周囲に迷惑にならない程度の小さなボリュームで、演歌を流し続けることなんだそうだ。こうすると連中は「ここは俺たちの場所じゃないな」という気がして、寄りつかなくなるらしい。

オッサンたちは「今の若い連中の音楽は、何を聴いても同じに聞こえる」と嘆くが、若い連中にしてみればオッサンたちの好む演歌こそ、何を聞いても同じに聞こえるのだ。オッサンたちがヒップホップの流れる場所が苦手なのと同様に、若い連中は演歌の流れるところは居心地が悪いようなのである。

で、何を言いたいのかというと、「日本のこころを大切にする党」という政党のジングルである。こんなのだ。下の画像をクリックすると、ちょっと珍妙な音が流れるので注意。

これ、最近のラジオで案外頻繁に流れてきて、どこかの CM ソングみたいに「何を言ってるのかわからない」なんてことはないのだが、この党は若年層からの支持なんてまったく期待していないというスタンスを、高らかに表明しているんじゃないかと思ってしまう。まあ、政策の内容からしていかにも高齢者向けという気もするので、ただでさえ投票率の低い若年層なんかに構っていられないのかもしれないが、ちょっとなんだかなあ。

 

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2016年7月 7日

ラジオの CM ソングはよくわからないのが多い

先月 20日に、何を言ってるのかわからないラジオ CM ということで、民放連の「Stop 温暖化 CM」というのを挙げた(参照)。しかし実を言うと、ラジオ CM では気になっているのが他にもある。

ラジオというのはそのメディアとしての性格上、集中して聞くというよりは、何か他のことをしながら聞いていることが多い。とくにクルマを運転しながらとか仕事をしながらとかいう場合には、ビミョーな発音を明瞭に聞き取るというのはかなり難しい。それだからこそ、CM の社名や商品名はできるだけしっかりと発音してもらいたい。

ところが、歌に乗せて社名や商品名を告げる場合、「歌としてのうまさ」を訴求する方に引っ張られてしまうのか、発音が不明瞭な場合がよくある。以下にその典型例を示す。

まず、「大成ユーレック」という会社の CM ソングだ。これは「歌おう! 踊ろう! 演奏しよう!」というキャンペーンの一環のようで、それだけにずいぶん若向けというか、サザンなんかに代表されるような、ちょっと英語っぽい発音の傾向がある。それだけに正確な発音は聞き取りにくい。

出だしの社名を繰り返す部分で、最初の発音はクルマの雑音の中では「ヨーマック」に聞こえ、次第に「ヨーレック」に近付いていくが、最初の印象に邪魔されてか、なかなか「ユーレック」とは聞こえないし、途中の歌詞にいたっては何度聞き直しても「わけのわからん宇宙語」としか思われない。いずれにしても肝心の社名が紛らわしいのでは、気の毒な CM というほかない。

紛らわしいといえば、お菓子の「ぼんちの味かるた」 もその一つだ(試聴)。私はリアルの「味かるた」という商品を見たこともないので、耳から聞こえる CM ソングのみの情報で、ずっと「戸口のアルファルファ」と思っていた。しばらくして「ありゃ、穂口のアジファルファ」かな? と修正したが、「ぼんちの味かるた」までは自力では行き着けなかった。

まあ、改めてじっくりと聴けばちゃんと聞こえないこともないが、なにしろラジオは「ながら聴取」なので、CM のスポンサー料を無駄にしないためにも、はっきりわかるように発音して歌う方がいいだろうと思うんだがなあ。

【追記】

大成ユーレックの CM ソングの、「何度聞き直しても『わけのわからん宇宙語』としか思われない」 部分は、改めて調べてみたら「♫ 土地活用〜」と言ってるのだと判明した(参照)。私は 「♫ キョンシーか中央〜」と思っていたよ。

 

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2016年7月 6日

今さらながら、IoT って知ってる?

世の中は既にインターネットなしには成立しなくなってしまったようで、昨今は IoT というのが脚光を浴びている。私も去年あたりは「一体何の顔文字?」なんて思っていたが、これはまんま「アイ・オー・ティ」と称して、"Internet of Things" を短くしたものだというのである。「モノのインターネット」 だ。

要するにどういうことなのかというと、モノをインターネットで結ぶことだ。最も初歩的な例を挙げれば、家の中の様子をカメラで監視し、その映像がリアルタイムで見られるなんてこともある。自宅のドアロックや窓の鍵をインターネットで確認できるようにして、留守にしてるはずなのにロックが解除されたら(つまり何者かの進入が検知されたら)インターネットで知らされるなんてこともある。

こんなのはことさらに IoT なんていわれる前から実用化されている。さらに冷蔵庫の中の古い食材がいつまでも消費されなかったら、賞味期限が切れる前にアラームされるとか、おむつにセンサーを取り付けて、替え時をアラームで知らせるなんていう技術もできているようだ。

便利な世の中になるものだなあと感心するが、その一方で、「自分に関しては、そこまで必要ないな」なんて思ってしまう。「そんなことまでインターネットに結ぶのは、かえってうっとうしい。そのくらいは手動でなんとかする」ってなもんだ。

そしてふと考えたのは、「そこまでインターネット化しなくていいよ」と思ってしまう境界線というのは、どの辺にあるのだろうということだ。

この境界線の位置というのは、実は人によって大いに違っているのだろう。私はメールやインターネット検索などの機能がなければ、もはや暮らしていけないと思うほどだが、世の中にはインターネットなんてどこの世界の話だろうと思っているオッサンやオバサンがいくらでもいる。21世紀初頭の日本をちゃんと眺めると、「詳しくは web で」なんて言われても、そこから先には一歩も踏み込めない高齢者だらけなのだ。

まだまだ社会活動から引退したわけでもないのに、「その件はメールで送りますから」と言っても、「いや、俺、メールとかやんないから」なんて返されると、「おいおい、今どきメールぐらいやってくれよ。頼むから」と思う。しかしこれって、明日は我が身なのかもしれない。

例えばホームセンターで庭の花の肥料を買おうとして、「最適の肥料を選びますから、お宅の庭の映像見せてください」なんて言われる日も近いかもしれない。そんな時、「いや、俺、IoT とかやんないから」とか言って、「マジかよ!」とヒンシュクを買わないとも限らないのである。

「そのくらいは、アナログでやる方が趣きあるじゃん」なんて思っても、周囲のヒンシュクを買わないためにも、時代についていくぐらいの努力はする方がいいのかもしれない。普段は使わないけど、求められればフツーに対応できるよというぐらいの態勢を整えておくのは、ボケ防止のためにはいいだろう。

とはいえあまりこんなのに頼りすぎると、根本的なところでボケてしまいそうな気もするが。

 

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2016年7月 5日

期日前投票を済ませちゃった

実は今日、参院選の期日前投票を済ませてきた。10日は朝から日立まで出かける用があり、帰りは夜になってしまいそうだからだ。私は日曜に仕事が入ることが多いため、ここ 10年ぐらいはいわゆる「投票日」に投票所にでかけたことがなく、ずっと期日前投票である。

今回の選挙に関して個人的には、与党に 3分の 2 以上の議席を取らせないことが課題だと思っている。私は自分が「改憲派」だと何度も公言しているが、安倍政権の提唱する「改憲」とはコンセプトが違うと思っている。この勢いと方向性で改憲なんかされてしまうよりは、今の憲法のままの方がずっとマシだ。

問題は話題の「野党共闘」だ。「自民党には票を投じたくないが、共産党と組んでいる勢力に投票するのは死んでも嫌だ」という人にとっては、選択肢がなくなってしまう。ある意味、迷惑千万だ。しかしこの件に関しては先月末の私の記事に、山辺響さんが、次のようにコメントしてくれた(参照)。

誰かがツイートしていましたが、「あなたが投票しようと思っている自民党はかつての自民党ではなく、あなたが投票をためらっている共産党はかつての共産党ではない」 というあたりが、まぁ妥当なところかと思います。

なるほど、それは確かに言えるだろう。その線で割り切るのも一つの見識だ。

それに基本的なことをいえば、民進党は共産党と共闘しているが、自民党だってずっと昔から公明党と連立している。そのあたりは「おあいこ」みたいなもんだ。

あれ、私って、選挙期間中にずいぶんビミョーなことを書いてしまっているかなあ。でもまあ、選挙区では誰それに投票すべきだとも、比例代表制ではどこそこの党に入れろとも書いてないし、このくらいは別に公職選挙法に抵触するわけじゃなかろう。

 

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2016年7月 4日

Windows のシェアと、あのカラーリングについて

Slashdot によると、6月のデスクトップ OS で、Windows 10 のシェアが初めて 20% を上回ったらしい (参照)。OS 別にみると、次の通り。/p>

Windows 10 21.88% ↑ 1.90ポイント
Windows 8.1 8.66% ↓ 0.92ポイント
Windows 8 3.52% ↑ 0.10ポイント
Windows 7 42.02% ↓ 1.26ポイント
Windows XP 6.50% ↓ 0.19ポイント

なお、Windows 以外では、OS X が 0.11ポイント増の 9.94%、Linux が 0.02ポイント増の 1.46%となっている。

強制的な(?)アップデート作戦が功を奏してか、Windows 10 のシェアが 20% を越えたものの、依然として Windows 7 が 40% 以上を占めている。そりゃやっぱり、業務用途では Windows 7 の方が使いやすいし、うかつにアップデートなんかしたりすると、独自に組んだデータベース・システムの動きがおかしくなったりするリスクがあるから、なかなか Windows 8 や 10 には行きにくい。

一方、個人用ではさっさと Windows 10 にアップデートした人が増えたらしく、休日に限るとシェアが急に増えることでも、それがうかがわれる。EU 諸国では、休日になると Windows 10 のシェアがトップになるらしい。しかし日本では、休日に 29%台になっても、まだ Windows 7 に追いついていないようだ。

それにしても、こうしてみると、あの Windows 8 って何だったんだろうと思う。あまりにも評判が悪すぎて、Windows 8.1 でスタートボタンを復活させ、さらに Windows 10 で Windows 7 ライクなインターフェイスも選べるようになっているらしい。

これではさんざん振り回されたユーザーがいい迷惑だ。ただ、全然振り回されることなく、今でも XP のままという人が 6.5% もいるというのは、また面白いことである。なかなかいい度胸をしているなと思う。

上に書いた表をしみじみ眺めると、Windows XP と 7 は、かなり使いやすい OS だったということが知られる。そして 「あの Windows 8 って何だったんだろうと思う」 と書いたが、それ以上にしみじみとしてしまうのは、「今となっては『何だったんだろう』とさえ思われない、Windows Vista という悲しい OS があった」ということだ。ただ Visita にしても、存在感が希薄なだけで、Windows 8 ほどの「積極的なクズ」 じゃなかった。

ちなみに個人的な好みでいえば、Windows 8 以降の、あの「タイル」と呼ばれるインターフェイスが、ものすごくダサダサに見える。あの色使いって、タネをあかせば発表当時のトレンド・カラーを全面的に取り入れたもののようで、Microsoft としては柄にもなくずいぶんお洒落に気を使ったつもりだったんだろうと思う。個人的には全然好みの色じゃないけどね。

トレンド・カラーというのは、Intercolor という国際団体が世界中の情報を分析し「流行色」としてまとめているもので、それを受けて、日本では (財) 日本流行色協会 (JAFCA) という組織が仕切っている。ファッションの世界では結構な影響力をもっている組織だ。

ただ、こうした組織の発信するトレンド・カラーに沿っていれば一応の安心感はあるものの、ファッション関連の常として、流行は半年ごとに変わるのである。Windows 8 以降のインターフェイスは、もう何年もそのままのカラーリングなもので、今となっては 「何だかなあ」 という感じになってしまっている。「不易流行」 というのは、上手に取り入れないとヤバいことになるのだ。

何といっても最も不細工に感じられるのが、ちょっと前に流行って、既に終わってしまったトレンドなのだよね。Microsofit としては慣れないことをしてしまったので、あれから 3年以上経って、もう完全にダサダサの色使いと化し、何やらもの悲しいまでの印象になっている。

私は Windows 8 のひどさに付き合うのが真っ平ご免で、Mac に鞍替えしたから、Windows 8 以後の画面設定についてはよく知らないが、あのダサダサの色使いは、多分設定画面で自分好みの色に変えることができると思う。しかしそれを実行している人は見たことがない。私ならすっきりと変えるか、デスクトップ画像を好きな写真にしちゃうけどなあ。

Windows ユーザーって、そのあたりのことについては、どうでも構わない人が多いんだろうか。さらにまた、一部の感覚派過ぎる Windows ユーザーは「このカラーリング、ダッサいなあ」と思いながらも、設定のしかたがわからなくて、フラストレーションをため込んでしまっているのかもしれない。

 

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2016年7月 3日

リアルのショップでは、欲しい品物が見つからない

ずっと昔から使っている定期入れ(パスケース)がボロボロになって、中のカード類が時々ぼろっと落ちてしまうまでにくたびれてしまっていた。そのうちに買い換えようかと思っていたところ、中に入れていた運転免許証が行方不明になっていることに気付いた。

家の中で落としてしまったのかと、必死に探したが見当たらず、諦めて再発行申請をしようかと思っていたところ、クルマのドアポケットに辛うじて引っかかっているのが見つかった。何かの拍子にぽろりと落ちてしまったらしい。危ない危ない。

というわけで、これは一刻も猶予できないと気付いて、近くのショッピングセンターに寄り、新しい定期入れを買うことにした。ところが、「これなら使える」 と思えるまともな品物がなかなか見つからない。

私はクレジットカード類はさすがに財布に入れるが、その他の諸々のカード類まで入れたら分厚くなってしょうがないので、Suica、運転免許、駅の駐輪場定期券、保険証、ETC カード、種々のポイントカード、歯医者の診察券等々は、定期入れに入れることにしている。だから、ある程度の容量のある 2つ折りタイプが必要なのだ。ところが文具店や雑貨店で売っているのときたら、ポケットがせいぜい 2つか 3つで、Suica を含めた 2〜3枚しか入らない。

「今どきは、こんなタイプの定期入れしかなくなってしまったのかなあ」 と思い、ネットで検索すると、「2つ折りタイプの定期入れが欲しいのに、どこに行っても見つからない」 といったような不満が多く寄せられている。同じことで困っている人は、巷に溢れているようなのだ。

こうしたタイプの商品って、手に馴染んだものに限るのだが、それを供給する店の方は表面的な流行を追いすぎているみたいで、「10年前に買った品物がくたびれたから、できればまったく同じタイプの新品が欲しい」 と思っても叶わないことが多い。まったく困りものである。

試しに iPhone で Amazon に行ってみると、それなりに豊富な品揃えになっていて、2つ折りタイプの定期入れも結構見つかる。しかし私は今すぐ欲しいのだ。そのためにリアルのショッピングセンターに立ち寄っているのだ。こんなに大きなショッピングセンターで、どうして目指す品物が見つからないのだ。

必死に探した結果、バッグ店の小物コーナーで、たった 1つだけ目指すタイプの品物が見つかった。Kensho Abe のブランドが付いたライセンス物である。安部兼章氏は、昔々、繊維業界でメシを食っていた頃に付き合いがあったデザイナーで。本職の服は意表を突いたデザインをするが、小物はまともな企画をしてくれているようだ。ありがたい。

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今回はたまたま必要に迫られて、リアルのショップで買ったわけだが、こんなに苦労してやっと見つかるというようでは、世の中はますますネット・ショッピングの方に傾いてしまうだろう。

 

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2016年7月 2日

Windows を見限っておいてよかった

私はとっくに Mac ユーザーになってしまったのでもう関係のない話だが、Windows ユーザー の中には、Windows 7や 8.1 などから Windows 10 への強制的なバージョンアップを阻止するのにストレスを感じている人が多いらしい。IT media に「過激な Windows 10 アップグレード推進策で Microsoft が失うもの」という記事がある。

この記事を読んでみて、「ああ、Mac ユーザーになっておいてよかった!」と、しみじみ思った。なにしろ私は、知人が買った Windows 8 マシンの初期設定を頼まれて、その使いにくさに仰天し(参照)、「自分が Windows 8 を使っている姿は想像すらできない」と思って、Mac に乗り換えたのである。あんな使いにくい OS に慣れるよりも、Mac に慣れる方がずっと楽だろうと考えたのだ。

Mac を購入したとたんに、この選択は大成功だったと確信したが、今になると、大成功以上のものだったと思える。あのまま Windows ユーザーであり続けたら、今頃フラストレーションまみれになっていただろう。

というわけで、今さら「Microsoft が失うもの」なんて言うよりも、既に多くを失ってしまっていると気付くべきなのだ。Windows 8 にした時点で、Microsoft からは少なからぬユーザーが去っているのである。今はまだ 「昔の遺産」 で食いつないでいるが、「Windows でなければならない」という理由なんて、ほとんど消えてしまっているのだ。

今後は、オールドファッションドな Windows マシン、高級機としての Mac、普及機としての Chrome Book というイメージが、ますます確固たるものになっていくのだろう。そしてそれ以上に、スマホやタブレットで済ませるという時代になるはずだ。ライトユーザーにとっては、PC でなければならない理由なんて見当たらないのである。

 

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2016年7月 1日

良い PTA とは、別に何もしなくて済んじゃう PTA である

Yomiuri Online に「お父さんが知らない、妻が PTA を嫌がる三つの理由」という記事がある。その「三つの理由」とは、次のようなようなことらしい。

「強制的にやらされるから」
「目的が見えないから」
「平日日中の活動が中心だから」

とまあ、もっともらしい三つの項目が挙げられているが、なんだかとってつけたような話である。この記事では、PTA を本来の意味でのボランティア活動として、希望者のみが、仕事が終わってからの夜間、あるいは休日を中心に活動するようになってから、うまく行くようになったという例が紹介されている。

この例ではまず "PTA" (Parent - Teacher - Association) の名称を「"PTO" (Parent - Teacher - Organization、学校応援団)」と変えたのだそうだ。これがどうして「学校応援団」ということになるのかよくわからないのだが、まあ、「雰囲気のモノ」なんだろう。

そして総会や入学式で「ハッピーなもの」というイメージを訴求するフォトムービーでプレゼンし、休日中心の活動としたところ、強制的参加ではないのに、全家庭が参加しているのだという。ふぅん、ただ、この記事でもやはり「目的が見えない」という点に関しては改善されているようには見受けられないのだよね。強いて言えば、PTA、じゃない、PTO 活動をすること自体が、PTO 活動の目的なのかもしれない。

私の考えで言えば、PTA(あるいは PTO でもいいけど)なんて、別に何にもすることがないのが一番いいのだと思う。年度初めの総会で、一応役員を決め、会長は一応名誉職としていろいろな会合で取って付けたような挨拶をし、もし将来的に市会議員にでも立候補なんていう野心があるなら、それを利用して好きなだけ顔を売ればいい。そこから先のことは知らない。

そして 1年の間、特段何もせず、おざなりの広報紙を半年に 1度ぐらい出して、後は最後の総会でテキトーに活動報告をすればいい。目立った活動なんて何もしなくていい。というか、しない方がいい。

もし、しょっちゅう集まって会議をしなければならないようなことがあったら、それは学校で何か大きな問題が生じた時である。問題がなかったら、無理に活動なんてしなくていい。「便りのないのが良い便り」というのと同様に、「活動のないのが良い活動」なのである。

迷惑なのは、妙に PTA 活動に熱心な人がいて、多くの親たちを自分のやりたい活動に巻き込みたがるケースが生じた時である。声の大きなおばさんがますます声を張り上げて音頭を取り、さして必要でもない活動に皆をかき集めたがると、とたんに不満がたまる。

実はウチの子どもが小学生の時に、まさにそんなケースが生じた。PTA の図書委員長だったかになったのが妙にアグレッシブなオバサンで、図書委員になったお母さんたちをかき集めて、週に何度か町立図書館 (当時は「市」でなくて「町」だったのよね)で何だかの活動を行うように決めちゃったのである。

これには、なりたくてなったわけじゃない図書委員のお母さんたちがうろたえた。実は私の妻もたまたま図書委員になってしまっていて、「図書館は好きだけど、なんでそんなことしなければいけないの?」ってなことになった。

そこで私は「なにを馬鹿なことを!」と憤り、すぐに町立図書館の館長に直接かけあったのである。「どうして特定の町立小学校の PTA が、その分限を越えて町立図書館の活動なんてしなければならないのか」と質問すると、図書館長としても、なんだか強引なオファーがあったので、断るに断り切れないで受けちゃったってなことだったようなのだ。

そこで私は「一町立小学校の PTA が、町立図書館の運営に関わるのは、その任務の枠を逸脱している」と問題提起した。「そんなにやりたかったら、PTA を巻き込まず、一町民の立場でボランティアをかき集めてやればいいでしょ!」

するとそれまで不満に思いながらも耐えていたお母さんたちが、「そうよ、そうなのよね!」と一斉に声を上げ始め、妙なプロジェクトはあっという間に立ち消えになった。当たり前である。そんなの、ちょっと考えればあり得ない話じゃないか。

その時に私が強調したのは、「良い PTA とは、別に何もしなくて済んでしまう PTA ではないでしょうか。しょっちゅう集まって、どうしたらいいか討議を重ねなければならないような事態になったら、そりゃ大変です。なるべくそんなことにならないように希望したいですね」ということだった。

これは親たちの本音そのものである。PTA 活動なんて、不必要な建前だけで流されるから、みんな嫌になるのだ。この主張は、当人が思っていた以上に大いなる賛同を得てしまったなあ。

今どき、みんな暇なわけじゃないし、わけのわからない PTA 活動なんかより、もっと楽しくてやり甲斐のある活動も他にたくさんあるのだ。

要するに、何もしなくて済んじゃう PTA が一番なのである。何かやりたかったら、PTA なんかじゃなく、他のもっと広がりを持った舞台でやるべきなのだ。

 

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