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2016年7月24日

「ポケモン Go」の奥に潜むもの

まことに恐縮だが、3日続きの「ポケモン Go」ネタである。このゲーム(ゲームと言っていいんだよね)は、自分じゃやる気が全然ないくせに、世間がこれほどまでに夢中になっているという現象の方は、かなり気になっているのだ。

そんなに気になるなら、自分の iPhone にインストールして、実際にやってみればいいじゃないかと言われるかもしれない。確かにそう言われて当然である。自分で体験してもいないくせに、ああだこうだと言いたがるのは、ある意味無責任な話である。

しかし「じゃあ、責任ある論評をしたいから、『ポケモン Go』をインストールして、やってみます」などと宣言して、それを実行する気には全然なれないのである。ただそれは『ポケモン Go』に反発しているからというわけでは決してない。私は反発なんかしていないのである。

「歩きながらスマホ・ゲームなんかしたら危ない」とか「外にいながら仮想世界に閉じこもっているのはおかしい」とか、もっともらしいことを言って非難する向きもあるが、そんなステロタイプの非難の方にこそ、私は反発を覚える。やりたきゃ、やればいいではないか。事故に遭わないようにという、当然の注意を払ってくれさえすればという条件付きだが。

要するに私は、「ポケモン Go」への反発は微塵もないが、ただ興味がないだけなのだ。試しにインストールしてみたところで、興味がないからやる気になんかなれないだろうし、無理にやってみても苦痛でしかないだろう。それがわかっているから、インストールするだけ無駄だと思っている。

そりゃ私にしたって、例えば飛行機に乗って何もすることがなく、SNS をチェックしようにもインターネット接続がないからそれもできないという時などは、iPhone でゲームをして時間を潰すことがある。しかしそれは、トランプゲームやオセロなど、リアルの道具を使ったゲームを画面上で行うという類いのものだけだ。

以前、子供たちにせがまれて仕方なく TV ゲーム(シューティング・ゲームとか格闘ゲームとか、自動車レースみたいなものだった)に何度か付き合ったことがあるが、疲れるだけで本当に苦痛だった。マジで楽しむなんて、想像もできないことだった。この方面に関しては、私はまったくのオッサンである。

反発したり嫌うよりも冷淡で始末が悪いのは、興味を持たないことだという。ただ私の場合はちょっと複雑で、自分でやることには興味がないが、現象そのものには「大いに関心あり」という、妙に複雑な関わり方になっている。

ほんの少しだけ共通するものを感じるとすれば、ウォークマンである。1979年の発売当初のウォークマンは、今の「ポケモン Go」以上の爆発的な話題となった。そして「歩きながらヘッドフォンで音楽なんか聴いたら危ない」とか「ひたすら自分の中に引きこもっているのは不健康」とか、今の「ポケモン Go」と同じような非難を浴びていた。

そして私は、1979年の発売と同時に初代ウォークマンを購入した者である。そして今でも iPhone で音楽を聴きまくっているから、この方面に関してはオッサンどころか、27歳の頃と同じ感性を維持している。私が「ポケモン Go」をやる気になれないのは、たまたま「ポケモン世代」でも「TV ゲーム世代」でもないからとしか言いようがない。

私が「ポケモン Go」現象に関心をもっているのは、一つには果たしてこのゲームがウォークマン同様にずっと当たり前の行為として生き残るのか、はたまた、一時的なブームとして徒花の如くに廃れてしまうのかとうことだ。もしかしたら、2〜3年後には 「あの頃は、みんなスマホをのぞき込みながら街を歩いてたよね。懐かしいね。今じゃ、あんなこと恥ずかしくてできないね」なんて言う日がくるかもしれない。

しかし、街を歩きながらスマホの中にポケモンを発見してゲットするという行為の奥に、何か普遍的な要素が隠されているとしたら、もう半年か 1年経ったら、その要素が姿を変えて、ゲームなのかあるいはもっと別の形になるのかは知らないが、密かに登場するかもしれない。そしてそれがどんどんバリエーションを増して、いつか生活に定着しないとも限らない。

私が興味をもっているのは、この「ポケモン Go」の奥に潜む「普遍的な要素」が何かということなのである。そしてそれを、外から眺めることによって発見する側にいたいと思うのだ。

 

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コメント

本家ウォークマンを買えたのは羨ましい(笑) まだ小遣いの少ない中学生だった私は、その後数年して、ようやくAIWA製(偽ウォークマンと揶揄されていた)を買いました。

それはともかく、ポケモンGO、私もやるつもりはないのですが、哲学科出身としては、間主観性(共同主観性)とかいう言葉を思い出してしまって、「ポケモンはどこまで『存在する』と言えるのか」なんてことを考えております……。


投稿: 山辺響 | 2016年7月25日 11:05

山辺響 さん:

>哲学科出身としては、間主観性(共同主観性)とかいう言葉を思い出してしまって、「ポケモンはどこまで『存在する』と言えるのか」なんてことを考えております……。

なるほど、そういう概念がありましたね。

なんちゃって、言葉だけしか知らなくて、吉本隆明の 「共同幻想論」との区別も付いていませんが ^^;)

ぶっちゃけて言えば、世間が夢中になって追いかけ始めると、いつの間にか 「存在」 になってしまうということなのかなあ。

ああ、ますます共同幻想論との区別がつかなくなっちゃう。

「ポケモンとは、国家のようなものである」 とか ^^;)

投稿: tak | 2016年7月25日 12:17

初代ウォークマンを持っていたなんて ”伝説の人” ですね。私が買ったのは、1988年頃のものですが、動かなくなったのでソニーに持ち込んだら、”古くて部品がなくもう修理できません”でした。
仕方なくソニーから分解図をもらい自分で修理しました。
アキバに行けば部品(ゴムベルト)なんていくらでも入手できるのに...。

pgについては全く分かりません。

投稿: ハマッコー | 2016年7月25日 14:07

ハマッコー さん:

私の初代ウォークマンは記念にとってありますが、動かなくなって久しいです。修理できるんですね。

とはいえ、今は iPhone で音楽を聴いているので、重くてデカいウォークマンは、記念として鎮座ましましていただくだけで十分です。

何やら鳥取砂丘が「ポケモン解放区」を宣言したらしいですね。
23日の記事ついた もりけん さんのコメントにあるように、「地域興し」ができるかもしれません。ただ、こうしたプロジェクトはすぐに飽きられて陳腐化するでしょうが。

投稿: tak | 2016年7月25日 23:22

確か、物それ自体の客観的な存在というのは保証されていなくて、「これ、ここにあるよね」「うん、あるね」という複数の主観の共同了解によってのみその客観性は担保されている、みたいな考え方だったような気がしますが、全然違うかもしれません(笑)(←哲学科出身)

ポケモンGOの仕組みが分かっていないのですが、「今そこにモンスターがいる」という認識を多数のユーザーが共通して持つのであれば、そこには共同主観的な存在構造が成立していることになりはしないか、みたいな……。

あ、お誕生日おめでとうございます(この記事で…)

投稿: 山辺響 | 2016年7月26日 15:09

山辺響 さん:

主観的なことであっても、共通した主観が複数あると確認されることで、それは客観化されるということなら、「なるほどね」 と理解できます。

その主観同士の繋がりのあり方は、「ポケモン Go」 で補完されるとか (^o^)

投稿: tak | 2016年7月26日 19:20

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