比叡山の横川まで行ってみて
一昨日付の「和歌ログ」にも書いたが、先日の京都出張のついでに、比叡山に登ってきた。京都には一泊二日の日程だったが、初日のうちに仕事は済ませてしまい、翌日は帰るだけでよかったので、時間の余裕もあり、せっかくだからと寄り道したのである。
8月の京都は滅茶苦茶暑いので、行くならば都の北の方角、鞍馬〜貴船、大原、比叡山のどれかのコースにしようと漠然と思っていたが、 2日目の朝になって、直感的に「えい、今日は比叡山だ!」と決めた。迷った時は直感で決めるに限る。
比叡山には 8年前の 3月にも登ったが、この時は雪がどっさり残っていて、東堂地区と西塔地区には行けたが、比叡山の奥殿ともいうべき横川(「よかわ」 と読むらしい)地区までは行けなかった。さらにこの時は、手持ちのノート PC がおシャカになっていて、帰りに秋葉原で新品を買って帰らなければならず、ゆっくり廻る時間もなかったのである。
今回は時間的余裕もあったので、前回行きそびれていた横川地区まで行ってみた。しかも行きはバスに乗らず、4kmの山道を歩いて行ったので、かなり汗をかいた。
行ってみて感じたのは、「比叡山は横川まで来なければわからない」ということだった。しかもフツーにバスに乗ってちゃちゃっと行ったのではわからない。細い山道を自分の足で辿るからこそ、昔の人の感覚まで思いを馳せることができるのである。
私はこれまで、比叡山については複雑な印象を抱いていた。いうまでもなく比叡山延暦寺は、高野山金剛峯寺の真言宗と並ぶ密教、天台宗の総本山である。さらに「仏教の総合大学」とまで言われ、鎌倉期には曹洞宗の道元、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮の、三大スーパースターを輩出した。
そんなにまですごいところであるはずなのに、一方では荒くれの僧兵を擁し、白河天皇が 「賀茂川の水、双六の賽、山法師(比叡山の僧兵)だけは意のままにならない」と嘆いたほどの暴力装置を確保していたのである。
このブログでも、4月 17日付の「大津で思ったこと」という記事で触れているが、天台宗の内部でも山門派と寺門派に分かれ、抗争を繰り返した。幾多の抗争で寺の堂塔は何度も焼き払われている。有名なところでは、織田信長も火を付けて壊滅状態にまで焼き払った。宗教的に大きな役割を果たしてはいるが、世俗的にもどうしようもないほどの抗争の歴史がある。
延暦寺に行ってみるとわかるが、多くの堂塔は意外なほど新しい建物で、古びた味わいなんてほとんどない。「これで世界遺産なのか?」と驚くほどだが、まあ、そんなに何度も焼き払われているのだから、古い建物が残っていないのも道理である。それもみな、宗教的深みだけでなく世俗の力を持ちすぎていたからこそのことだ。
どうしてこんな二重構造があったのかと、ずっと解せない思いでいたのだが、今回、横川まで行ってみてなんとなくわかった。横川は比叡山の奥殿と言われるだけあって、別世界なのである。道元、親鸞、日蓮らは、山法師の荒くれた世界から離れた静謐な奥殿で、宗教的研鑽をすることができたのだろう。比叡山は広いのだと実感した。
世の中には、実際に行ってみないと得心しにくいことというのが、確かにある。
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