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2016年11月28日

死刑制度と被害者感情をセットで語らない

世界的には廃止の方向に向かっている死刑制度だが、日本では相変わらず容認派が多い。下のグラフは、朝日新聞の調査によるものだが、死刑制度容認は 5年前よりはわずかに減っているが、20年前に比べると多くなっている。今世紀に入って容認派が 8割を越えているというのは、私には異様に思える。

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本日夕方の TBS ラジオ「デイキャッチ」で、ジャーナリストの青木理氏が「“死刑制度” と “被害者感情” をセットで語ってはならない」という主張を語っていた。私としてはこれに大いに納得したので紹介してみよう。

詳しくは YouTube で聴けるので、こちら に飛ぶのがお薦めだが、まあ、ざっとまとめてみると、死刑制度廃止について語る時にいつも「被害者(遺族)感情にも配慮しなければ」という議論が出てくるのは、考え物だということである。被害者感情に配慮して犯人を死刑にしてしまうのは、要するに「復讐」であって、それはかなり前近代的な発想だというのだ。

一般に死刑の対象となる残忍な複数殺人の場合と、被害者が 1人の殺人の場合で、被害者感情がどう違うのかということを考えると、結構矛盾が生じる。例えば飲酒運転などでひき逃げされてしまったなどという言語道断なケースでは、遺族としては殺してしまいたいほど犯人が憎いだろうが、現実にはこうしたケースでは滅多に死刑にはならないのである。これをどう考えればいいのか。

そこで青木氏としては、「死刑廃止」を論じる場合には「被害者感情」をセットにしないことが大切だと主張しているわけだ。「被害者は犯人を殺したいほど憎んでいる」というようなことを必要以上に重視してしまったら、結局は「復讐肯定」になってしまうというのである。

青木氏としても被害者感情に配慮する必要性は十分に認識しているが、それは残された遺族の感情的、経済的なケアを社会制度としてしっかりしなければならないということであり、短絡的に「犯人を死刑にしてしまえ」というのではない。死刑にしてしまえば鬱憤晴らしにはなるかもしれないが、例えば一家の大黒柱を失ってしまったというようなケースでは、遺族の経済問題の解決にはならない。

さらに、「死刑は凶悪犯罪抑止効果がある」という主張に関しても、私は今や懐疑的である。4年前にも書いている(参照)が、要するに「世をはかなんで自殺しようと思ったが、自分では死ねないので、世間を見返すためにも大量殺人をしてしまえば、確実に死刑にしてもらえると思ってやった」なんていう虫のいい殺人事件が出てきているのがその理由だ。

大阪心斎橋通り魔事件」や「池田小殺人事件」などがその例で、むしろ死刑制度が結果的に凶悪殺人事件を犯すインセンティブになってしまっているのである。こうした事件の犯人は、「おぉ、俺は死刑になりたいんじゃ。だからどう間違っても懲役刑なんかで済まないように、できるだけ残虐に多くの命を奪って、世の中に意趣返しをして、その上で国の手で殺してもらうんじゃ」と考えて犯行に及んだのだ。

そしてこれらの事件では、犯人の希望通りにあっという間に死刑が確定し、さっさと死刑も執行されてしまっているのだから、ある意味、アフターサービスが良すぎるほどだ。個人的にはこんな事件の犯人は、望み通りに死刑になんかしないで、延々と無意味に監獄暮らしさせる方が厳罰に値すると思う。

死刑制度を考え直すには、「被害者感情をセットにしないこと」と、「凶悪犯罪抑止効果があると思われてきた死刑制度には逆効果もある」という 2点をしっかりと考慮する必要がある。

 

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