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2016年12月に作成された投稿

2016年12月31日

あっという間の 1年だった

大晦日である。年を取ると時の経つのが早いといわれるが、今年ほど短く感じた 1年はない。正月 4日に 140km のロングライドをしたのがついこないだのような気がしているうちに、いつの間にか 12月の声を聞き、ゴチャゴチャしているうちに大晦日である。

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本当に今年はこれといって新しいことを始めたということもないし、これまでの自分なりの路線を踏襲して、ほんのちょっとだけ磨きをかけられたかもしれないという程度の年だった。ということは、別に大きな悔いが残るということもなく、悪くない年だったのかもしれない。

改めて去年の 「私的十大ニュース」 というのを振り返ってみると、エコ生活が堂に入ってきたというトーンが濃くなっている。今年はそれがさらにブラッシュアップされたということは言えるだろう。別に新しいことではなく、ライフスタイルとして定着してきたということだ。

私ももう還暦を過ぎて、来年の夏には 65歳になり、法的には「高齢者」の仲間入りをするので、このライフスタイルを大きく変えるつもりはない。あとはそれを洗練するだけだ。

ただ「高齢者」というのは単に法的な分類に過ぎないことで、体力的には老け込んだりはしていないので、一昨年から始めた自転車生活もまだまだ続けられそうだ。最近は仕事で出かけるにしても報復 50km なら、雨でも降らない限りごく当然のごとくペダルを漕いじゃうしね。

というわけで、来年もいろいろ新しい発見だけはし続けたいと思っている。

今年 1年、ご愛読ありがとうございました。よいお年をお迎え下さい。

 

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2016年12月30日

今年は JR の急行列車の定期運行が全廃されたらしい

「近頃 JR じゃ 『急行列車』 というのがめっきり減っちゃったなあ」 と思っていたら、今年 3月の北海道新幹線開業に伴い、最後の急行「はまなす」が廃止されて、これで JR には定期運行される急行列車というのが 1本もなくなってしまったのだそうだ。

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「へえ! じゃあ 「特急(特別急行)」 という名称の意味がなくなっちゃったんだから、ぜんぶ『急行』にしちゃえばいいじゃん!」と思ったのだが、よく調べると、今後も臨時急行列車が走る可能性があるので、「特急」の名称はそのままなのだそうだ。

世の中には、「すべて『急行』として、時々臨時運行される昔の急行に相当する便は、『準急』とすればいい」 と言っている人もいるようだが、まあ、それだとややこしくなるので、現実的にはずっとこのままなのだろう。JR は特急のことを英語で "special express" と言っているようだが、こうなったらちっとも「特別」でも「スペシャル」でもないのだがね。

思い起こせば、私が学生時代は「鳥海」という名の急行列車があり、上野駅始発で、上越線の長岡を経由して羽越線に入り、日本海岸を北上して秋田まで行っていた。夜行の普通席で行くと、一晩中固い座席で揺られ(あるいは満席で座席に座ることすらできず)、朝になってようやく到着していた。

所要時間は約 9時間。飛行機だったら米国のシアトルまで行ける長旅である。あの頃は若かったから、そんな旅もごく普通のことと思っていて、6時間で行ける特急「いなほ」は、ちょっとした贅沢という認識だった。

今なら上越新幹線の「とき」と 羽越線特急の「いなほ」を乗り継いで 4時間 20分足らずで行ける。昔の急行の半分以下の時間だが、今はその急行列車がなくなったので、これが標準の行き方になってしまった。山形新幹線で新庄まで行き、そこから陸羽西線で酒田まで行けば 610円安上がりになるが、時間は 1時間ほど余計にかかる。

で、実際に上越新幹線〜羽越線特急というルートを使って酒田まで行くと、新潟で乗り継ぐ特急「いなほ」の停車駅というのが、昔の急行「鳥海」の停車駅とほとんど同じなのだ。つまり、昔の急行が特急に格上げされているだけなのである。まあ、特急の快適な車両だし、スピードもそれなりに速くなっているので、「ぼられてる」という感覚はないが、多少は「なんだかなあ」と思ってしまう。

というわけで、田舎に行くのに特急料金を取られたくなかったら、夜行の高速バスを使えということなのかもしれない。ちなみに夜行バスだと、JR の特急を使う場合の半額で行ける。所要時間もほとんど昔の急行列車と同じぐらいなので、体力さえあればこれがオススメなのかもしれない。

 

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2016年12月29日

そんなに金がないなら、誘致すべきじゃなかった東京オリンピック

国際オリンピックの大会経費総額が 1兆 6000億円から 1兆 8000億円になるとの予算が示されている。そもそも誘致立候補の段階では、8000億円とかでやると言ってたはずなのだから。これは「悪質詐欺」のレベルだよね。

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私は 2020年東京オリンピックに関しては元々関心がなかったというか、冷淡だったというか、「そんなにやりたければどうぞ」ってな感じだった(参照)。しかしここに来て、「冷淡な態度なんかでいるべきじゃなかった」と、少々反省している。

もっとはっきり「反対」 と言っておくべきだった(参照先を見てもらえばわかるように、こっそりとは言っていたのだがね)。私ごときが「反対」なんて言ってもひっくり返るようなものじゃないが、少なくとも言うべきことはしっかり言わなければ、自分の中で落とし前がつかない。

そもそも当初予算の数字からして、まったく人を馬鹿にしている。リオ・デ・ジャネイロのオリンピックでも 120億ドル (1兆 3000億円) かかったというし(参照)、ソチでは 500億ドル (5兆 2300億円)、北京では 400億ドル (4兆 1800億円)かかった(参照)。東京が 8000億円で開催するなんて、初めから正気の数字とは思われないではないか。

この辺りのことをきちんと批判的に読み込んで反対しておくべきだったのだが、当時は日本中が「お・も・て・な・し」なんて言ってノー天気に浮かれていて、批判的なことを言ったらそれこそ怒られそうな雰囲気だった。私もあの時は単に「冷淡・無関心」だったから、予算のいい加減さなんて少しも知らなかった。これだからお上の言うことは、きちんとチェックしていないととんでもないことになる。

とにかく誘致が決まってからというもの、エンブレムのパクリ問題、国立競技場のデザインのどんでん返しと、馬鹿馬鹿しいまでの問題が相次いで、ここに至って 「金がない」 なんて言い出している。こんなことなら、いっそ返上してしまえばいいいのにとまで思うが、まあ、責任上そんなわけにもいかないのだろう。

少なくとも、この類いのお話は今回限りにしてもらいたいものである。

 

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2016年12月28日

クリスマスの飾りは、いつ片付ける?

写真は、今月 24日の 「和歌ログ」 に使った、我が家のクリスマス・リースの画像である。これは 12日の記事で紹介した妻の手製の飾りに天使の飾りを付けたもので、基本的に毎年使い回しにしている。

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この飾りは 25日のクリスマスツリーが終わって、26日には取り払ってしまったが、それはちょっとだけ手直しして、来たるべき正月バージョンにするためで、それさえなかったらずっと飾り放しにしていてもいいぐらいのものだ。

「クリスマスの飾り付けは、いつまで飾っていていいものなのか?」というのはよく話題にされるが、日本においては基本的にクリスマスが済んだらすぐに正月用の飾りに変えなければならないから、速やかに撤去される。いつまでもダラダラと残っていることは滅多にない。

近所の庭と玄関先で、夜になるとど派手にキラキラ光っていたクリスマス・イルミネーションも、25日にはしっかり撤去されていた。まあ、そうでもしないと電気代が大変なのかも知れないが。

ところが西洋のキリスト教国では、案外いつまでも飾り付けられたままになっている。これは別に片付けるのが面倒だからとかいうわけじゃなく、クリスマス・シーズンというのは 12月 25日をもってすっぱりと終わるというわけじゃないかららしい。

まず、イルミネーションを飾り始めるのが、”Advent" (待降節または降臨節) という日からで、これはクリスマスの 4つ前の日曜日とされている。というわけで、まあ、11月末頃から飾り付けを始めるというのは、ここに根拠があるわけだ。

とりわけ米国では、11月の第四木曜日の Thanksgiving Day(感謝祭)という重要な祝日があるので、この日の前からクリスマス気分に突入するわけにはいかない。このあたりは案外きっちりしているようなのだ。

そして飾り付けを片付けるのは、1月 6日の Epiphany (顕現日) とされている。日本でも関東あたりでは 7日までが松の内とされているので、似たような感覚なのかも知れず、要するに西洋でもクリスマス・イブから新年の 6日までは特別な日で、クリスマスの飾りは 1ヶ月以上片付けられずに残されるというわけである。

ところが香港となると、もっとすごい。昔、よく香港に出張していた頃は、寒い季節(香港だって、冬は寒いのだ)の街は基本的にギンギラギンという印象だった。まあ、香港はいつ行ってもギンギラギンなのだが、とくに 11月末からはクリスマスの電飾が灯され、年が明けてもずっとそのままで、旧正月 (2月初めということが多い) までずっとギンギラギンである。

つまり 3ヶ月半、ということは 1年の 4分の 1以上はギンギラギンのイルミネーションで賑わう。これは中国に返還されてからも、多分変わってないんじゃないかなあ。

 

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2016年12月27日

ステテコの考察

ちょっと季節外れかも知れないが、「ステテコ」というものについて書く。私はずっとステテコを持たなかったが、近頃になり、夏に浴衣以外の和服を着なければならない時などにはくために、仕方なく 1着だけもっている。最近はユニクロでも売っているので、スーパードライ素材のものを買った。

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このステテコというのは決して外来語なんかじゃなく、純粋な日本語らしい。『語源由来辞典』というサイトには、次のようにある。(参照

明治時代に流行した「すててこ踊り」という滑稽な踊りに由来する。 すててこ踊りとは、明治初期に宴席で江戸吉原の太鼓持ちが、うしろ鉢巻きにじんばしょり、半股引姿で踊る踊りで、鼻をつまんで捨てる真似をし、「ステテコ ステテコ」と歌ったことから、「すててこ踊り」という名が付いた。

京ちぢみの山城という通販サイトの記事(参照)によると、これは初代三遊亭円遊が明治 13年頃に寄席で踊って流行らせたものであるらしい。彼は「鼻の円遊」といわれたほど鼻が大きかったので、この踊りを踊りながら自分の鼻をつまんでひょいと捨てる振りをしていたらしい。上の画像は、山城のサイトから拝借した。

その踊りを踊りながら歌っていた歌は、『瓢箪ばかりが浮き物か 私もこのごろ浮いてきた。さっき浮いた さっき浮いた すててこすててこ 』というものだったようだ。

「ステテコ」 というのは三遊亭円遊のオリジナルというわけではなさそうで、鳴り物の太鼓の音を「ステテコ、ステテコ」と表現したものと思われる。それに三味線の音を加えれば「ステテコ、シャンシャン」になる。

それに、ステテコ踊りの「浮いた」という言葉から連想すると、「丼鉢ゃ浮いた浮いた ステテコシャンシャン」もその系統に入れられる。曲名はその名も『ステテコシャンシャン』で、レコードにもなって残っており、YouTube で聞くことができる。

それに私の好きな 『かっぽれ』 なんかを踊る時にはいてる「股引」もステテコの一種なんだろうと思われる。

こうしてみると、ユニクロのカラーを採り入れたステテコというのも、決して奇をてらったものというわけじゃなく、伝統に沿ったものともいえそうなのである。

 

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2016年12月26日

年賀状印刷を完了した

遅まきながら、年賀状の印刷が完了した。毎年手作りの年賀状を出していて、その印刷にちょっと手間がかかる。今年は明日から年末だというのに 2泊 3日の出張が入っているので、慌てて今日のうちに仕上げたというわけだ。

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年賀状の枚数は、10年前ぐらいが最多で、仕事の関連もあって140枚ぐらい出していたが、還暦を過ぎて徐々に仕事を減らし始めたこともあり、今年用(昨年暮れに印刷)は 110枚足らずだった。そして来年用は思い切って 80枚ほどに絞り込んでみた。私も来年は 65歳になって「高齢者」の仲間入りをするのだから、そんなもんで十分だろう。

年明けには、こちらから出していない人から来るのにお返しとして、多分あと 数枚ぐらいプラスすることになるだろうが、それでも昨年より 20枚ぐらいは減らしたい。そしてこの調子で、70歳の大台に乗る頃には 50枚以下に圧縮したいと思っている。日本人の出す年賀状の枚数は平均で 40枚といわれているから、ようやく平均に近付く。とはいえ、その頃には平均枚数がもっと減っているだろうが。

郵便局の発行するお年玉付き年賀葉書でなくても、今はメールで画像添付の年賀状を出すという手がある。田舎の親戚は年寄りばかりだから、「メールって何?」ってなことになるので無理だが、そのうち同世代には紙の形ではない年賀状に置き換えようと思っている。

思い返すに、年賀状に一番手間をかけていたのは、30年前頃までだった。まだ PC とかワープロとかいう機器が一般的ではない時代で、「プリントゴッコ」というものを使って簡易印刷していた。インクが乾くまでやたら時間がかかるので、印刷した葉書を床一面に広げて乾燥させ、子どもを近付かせないようにしていたのを思い出す。

1980年代半ば過ぎには富士通のワープロ専用機、OASYS というのを購入して、ようやくデジタル印刷(モノクロ)を始めたが、なにしろプリンターのスピードが遅く、丸一日かかって印刷していた。しょっちゅう紙詰まり(葉書詰まり)を起こすので、それは難行苦行のレベルだった。あの頃は単に、宛名印刷が自動でできるのがありがたかった。

自宅で PC を使い始めたのは 1994年だったが、まともな画像ソフトがなく、インクジェット・プリンターもやたらとトロかったので、凝ったデザインをしようなんていう気には到底なれなかった。デジタルの機能をしっかり使ってまともなデザインの年賀状を作り始めたのは、1999年の卯年向け (つまり Windows 98 を使い始めた頃) からのことで、その時のデザインは、こんな 感じだった。

今から見ると、いかにもデジタルで作りましたという感じである。思えばこの頃になって、ようやくプリンターのスピードがもだえ死にしなくて済むくらいには改善されたということだ。今我が家で使っているインクジェット・プリンターは 5年前のモデルだが、さらにスピードが速くなっていて、紙詰まりもほとんどしないのがありがたい。

こうしてみると、家庭用のデジタル環境がストレスなくまともに 100枚以上の年賀状印刷に使えるレベルになったのは、せいぜい 5〜6年前ぐらいからのことといっていいんじゃないかと思う。せっかくプリンターが進化したのに枚数を減らすのはもったいない気もするが、まあいいだろう。

上の画像をクリックすると年賀状プロモーションサイトに飛んで、郵便局も必死なのだとわかるが、まあ、時代は変わるものである。

 

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2016年12月25日

「カジノ」を「カッシーノ」と言い換えたいんだってさ

JR 中央線の東小金井駅を降りると、その辺は「梶野町」というところで、「梶野公園」という公園もある。昔、よく散歩した辺りである。なんでまたそんなことを思い出したかというと、例の「IR 法案」の関連である。

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電通が今年 6月頃に、「カジノ」という言葉のもつ悪いイメージ払拭のため、「カッシーノ」と呼ぼうなんて言い出していた(参照)。言葉の言い換えだけでイメージを変えちゃおうなんていうのはいかにも広告代理店らしい発想で、「じゃあ、東小金井周辺も『カッシーノ町』にしちゃえばいい」なんて思っちゃったものである。

「カジノ」というのは英語だと思っている人も多いが、"Casino" の発音は「カスィーノゥ」に近くて、頭にアクセントを置いて「カジノ」なんて言っても米国では通じない。「カジノ」に近い発音なのは、イタリア語やフランス語であるらしい。イタリアはマフィアの発祥地だから、「カジノ」じゃイメージ悪いとでも言うのかなあ。

まあ、いずれにしても「カッシーノ」ではどこの言葉としても通じなくて「何それ?」ってなことになるだろうし、下手すると「似非イタリア語」っぽくて、ますます怪しいマフィアを連想させたりするかもしれない。

その昔、博報堂がウールマーク・プロモーションに一枚噛んで、「昔は『ウール』は高級素材のシンボルだったが、時代の変化とともに古くさいイメージになってしまったので、『メリノ』と言い換えよう」なんて言ってたことがある。「メリノ」というのは、その毛が主として衣料用ウールとして使われる羊の種類だ。

ところが「メリノ・キャンペーン」なんてものを展開しても、「それ何?」となるのは当然の話で、せっかくよく知られた「ウール」のイメージまでおかしくなって、大金を使ったもののほとんど効果が発揮できなかった。今となっては、「メリノ」なんて言葉でウール需要を増やせるなんて誰も考えてない。

「カッシーノ」でギャンブルのイメージを改善できるなんて考えつつ、とんでもない長時間労働してる人には、「せいぜい長生きしておくれ」としか言いようがない。

 

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2016年12月24日

天皇の生前退位について

昨日の天皇誕生日、関東は例年のごとく穏やかな日和となり、皇居の一般参賀には多くの人が集まったようだ。「生前退位」のご希望を表明された後の「お言葉」が注目されたが、多くの人が耳を傾けたことに対する「感謝」が述べられたにとどまった。

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ただ、あのご希望表明が「内閣とも相談」してのことだった事実が、さりげなく初めて明らかにされたことで、内閣への圧力は少しだけ強まるだろう。これまではなんだか、「突然、何をおっしゃるんだか……」みたいにトボけていたが、今後それは通じなくなるということだ。

今回の生前退位問題に関しては、安部首相周辺、いわゆる日本会議系の人たちが、実は天皇をちっともリスペクトしていないんじゃないかと思われる心情を、言葉の端々にうかがわせる発言をしていることに、私は少なからず驚いている。「へえ、あんたたち、一皮剥けばそんな風な考えだったの?」と言いたいぐらいのものだ。

「天皇はちょっとおかしい」とか「皇居の奥で静かにしていてもらいたい」とか、言いたい放題である。私としては、今上陛下が推進されている(と思われる)「開かれた皇室」のコンセプトに共感していて、「もっと開かれてもいい」とさえ思っている。ところが、首相周辺の人たちはそうじゃないみたいなのだね。

彼らは今回の「生前退位」を一代限りの特例措置として片付けたいみたいだが、高齢のために公務を果たしにくくなるというのは、何も一代限りの事情じゃない。皇室典範の改正も視野に入れるべきだという民進党の指摘の方が、この問題に関してはしっくりとくる。

ただしそれをするとなると、やたらと時間がかかってしまい、今上陛下のご希望実現は遠のくことになるのがジレンマだ。まずは特例措置として実現した後に、それを既成事実として次の段階に踏み込むのが現実的なのかなあ。

 

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2016年12月23日

飛び火を消せ! — 糸魚川の大火の教訓

昨日の夕方過ぎにちらりとテレビをみると、新潟県糸魚川市で大変な火災が発生して延焼中というニュースが流れた。おりしも南風が強まって我が家の窓ガラスもガタガタ音を立てていたので、「こりゃ、大変だ」と直感し、40年前に故郷で起きた「酒田大火」を思い出してしまった。

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酒田大火のことは、6年前にこのブログでも書いた(参照)。強風に煽られてまたたくうちに燃え広がったという点が、今回と共通している。あの時、私は実家を離れて東京で暮らしていたが、火元から一直線の風下が私の実家だったので、まんじりともせずにテレビ・ニュースに見入っていた。

今回も、糸魚川出身で自宅から離れて暮らす人は心配でたまらなかったろう。その意味でも、テレビ・ニュースはしっかり情報を提供すべきなのだが、酒田大火の時に比べるとずいぶん素っ気ない報道に思われた。あの時と比較すれば規模が小さいとはいえ、情報を欲する人にとってみれば、地図上のどこまで燃え広がっているのかという報道はとても重要だ。

Twitter などをみても、現地からのレポートは驚くほど少なく、遠くから心配している声の方が圧倒的に多い。北陸の地方都市だけに高齢者の比率が高く、スマホでバシバシ現場情報を発信できる人というのは少ないのだろう。

さて、今回の大火では飛び火による延焼を防ぐことが重要という点が、とても大きな教訓になったと思う。

酒田大火のケースでは、火元と私の実家の間に新井田川(にいだがわ)という川が流れていたおかげで、そこで延焼は止まった。それでも実家の周辺では拳骨よりも大きな火の粉が飛んでくるので、多くの人が一晩中屋根の上に上り、ホースで散水して飛び火による延焼を防いでいたそうだ。屋外にいると熱風がひどく、多くの人が低温火傷になって頬を赤く腫らしていた。

今回の糸魚川市の火災でも、風で飛んだ火の粉から燃え広がり、いくつかの離れた地点で火の手が上がったもののようだ。最初の 1時間は火元付近のみが燃えていたが、その 30分後には飛び火により、離れたところで火の手が上がったとの証言が、実際に報告されている。

ということは、強風時の火災では風下での早めの自主的警戒を呼びかけることが必要なのではなかろうか。40年前の酒田でやっていたように、避難しなければならない状態になる前に、屋根に上ってホースで散水し、飛んでくる火の粉を消すことなどが考えられる。

酒田大火の場合は夜だったので、飛んでくる火の粉がことさら赤く大きく目立ち、誰に言われなくても消さなければならないという意識になったのだろう。今回の糸魚川の大火は昼間だったので、そこに意識が行かなかったかもしれない。また消防による水の大量使用で水圧が下がることも考えられ、どこまで有効かはやってみなけれがわからないが、少なくとも一つの教訓ではあるだろう。

秋から冬にかけての北陸・東北の日本海側というのは、今でも強風による大規模火災の危険性が高いことが改めて立証されたことになり、改めて防災の検討が必要になる。

 

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2016年12月22日

「ロックフェラー」 は 「ロッカフェラー」 であるらしい

今日の昼前の BS NHK、「ザ・プロファイラー」 という番組で、「夢と野望の人生 華麗なる一族の光と影 〜ロックフェラー一族〜」 という番組があった。私は 10年以上前に 12月のニューヨークを訪れたことがあって、ロックフェラーセンター前の豪華なクリスマス・イルミネーションを思い出した。

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で、今日はロックフェラー一族を語ろうというわけではなく、例によってどうでもいいような細かい話である。それは "Rockefeller" という名前の発音についてだ。日本ではずっと昔から 「ロックフェラー」 ということになっているが、本当の発音はどうもそうじゃないと、ずっと昔から思っていたのである。

ロックフェラーともなると、いろいろな歌にまでその名が登場するが、私が最初に知ったのはドリス・デイの "On the Sunny Side of the street" だと思う。この中で彼女は 「1セントも持ち合わせがなくても、ロックフェラーみたいにリッチになるわ」 と、いかにもアメリカン・ドリームといった世界を歌っている。

しかし、YouTube で確認してもらえばわかるように、彼女は "Rockefeller" を、カタカナで書けば 「ロッキフェラー」 と聞こえる発音で歌っている。"Doris Day - On The Sunny Side Of The Street" という動画の 1分 20秒あたりからに注目いただきたい。

というわけで私は、「ロックフェラーって、本当はロッキフェラーなんだな」 と思っていたのだが、間もなく、それもどうも怪しいということになった。どうやら 「ロッカフェラー」 という発音の方が多数派らしいと気付いたのである。

ベット・ミドラーはその名も "Mr. Rockfeller" という歌を歌っているが、どう聞いても 「ロッカフェラー」 としか聞こえない発音だ。のっけから 「ロッカフェラーさん、ご機嫌いかが?」 だもの、こればかりはしょうがない。

ボブ・ディランは 1962年に "Hard Times in New York Town" という歌で、「ゴールデンゲイトからエンパイア・ステイトのロックフェラー・プラザまではとても長い道のりだ」と語った。その発音は強いてカタカナで書けば「ロカフェラー」である。(ビデオの 1分 10秒あたりからに注目)

そもそも名前の綴りからして "Rockfeller" じゃなくて ”Rockefeller" だもの。「ロッキフェラー」 か 「ロッカフェラー」 に聞こえるのも自然なことだ。どうして日本では 「ロックフェラー」 になってしまったんだろう?

 

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2016年12月21日

安倍首相は、百戦錬磨のプーチンに手玉に取られた?

タイミング的にはちょっと遅れてしまったわけだが、今回の安倍・プーチン会談の結果について、なんだかよくわからないけど、垣間見えてきたと思われることだけ整理してまとめておきたいと思う。まあ、世の中では「安倍首相が百戦錬磨のプーチンに手玉に取られた」ということになっているわけだが。

Hoppo

上の地図は、一目見てわかるように、今回大きな問題となった北方領土関連のものだ。外務省のサイト (参照) から拝借したものである。こうして改めて見ると、「北方四島は日本のものじゃない」 なんて言われたら、「おいおい、いくらなんでも、そりゃひどい話だろう!」 と言いたくなる感覚も、しっくりとくる。とりわけ歯舞色丹なんて、根室半島から点々とつながっていて、地形上でも日本そのものに見える。

さらに国後、択捉の二島は結構大きな島で、とくに択捉島なんて、戦略上の意味合いからもロシアは手放したくないのだろうというのもうかがえる。無茶を言えば、樺太の南半分を返してもらえたら日本も陸上の国境線というのを持つことができて、さぞ見ものだろうと思うが、まあ、それは到底無理だろうね。

で、この北方領土問題について、安倍首相は当初、「自分の任期のうちに解決する」みたいなことを公言していたわけだが、それはあっさりと儚い夢ということで片付けられそうである。しかしあきらめがよすぎるのも考え物で、まだまだじっくりと交渉し続けなければならない。

今回はっきりしたのは、日本としても「四島を耳を揃えて返せ」とだけ言い続けるのでは、永遠に何の進展もないだろうということだ。今回の会談の結果が、「経済協力の口約束だけさせられて、北方領土問題では完全にケツまくられた」と言うのはあまりにも単純素朴すぎる見方で、「まずはこんなところから始めないと、何も進展しない」というのが実際のところなんだろう。

その意味では、北方領土問題はこれでおじゃんになったわけじゃなく、ようやくまともな話ができる段階の一歩手前まで辿り着いたということなのかもしれない。日本側の方で先回りして失望すぎると、ロシアの思うつぼだ。

とはいえ、「それだけのために、経済的な大盤振る舞いを約束させられたのか」 というのが、巷の大きな不満なのだが、経済協力と言っても金を出すのは圧倒的に日本で、しかも民間が主力となるのだから、向こうが誠意を見せなければこちらもグズグズしていればいい。ロシアに投資したくてたまらない企業なんてそんなにないし、政府は敢えて本気でプロモーション強化する必要もない。

日本が北方四島を返して欲しいと思っている以上に、ロシアは日本の金が欲しいのだろうから、ようやくまともな駆け引きのできる舞台ができたとみることができるわけだ。本当に面倒な話だけど。

それと同時に、日本がロシアと接近することで、極東における中国の位置づけが少々ビミョーになる。つまり「中国のやりたい放題にはさせないよ」という一定の意思表示にはなるだろうと指摘されている。これは案外な副産物だ。

とまあ、ぼんくらな私にはこの程度のことしか見えないのである。でもまあ、一応見えたところまでは書き記しておいても損はないだろう。いずれにしても国際関係、とくにロシアとか中国とかを相手にした交渉ってのは、ほとほとうんざりするところがあるようだ。

最後に一言書いておくが、安倍首相が途中までちょっとはしゃぎすぎていたのは確かなことで、その意味では 「手玉に取られた」 というのは言えてるだろう。

 

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2016年12月20日

「けしからん」という言葉の、現在進行形での変化

言葉は生き物で、時代と共に変化するとはよく言われることだが、今まさに変化しつつある言葉として「けしからん」というのが挙げられると思う。ニュアンスがなんとなくビミョーに変わってきているような気はしていたが、それはネット界隈では既に認められた既成事実であるようなのだ。

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「けしからん」を辞書で引くと、漢字まじりの表記は 「怪しからん」 で、意味としては 「道理や礼儀にはずれていてよくない、無礼だ、不都合だ」というようなことと解説されている。ところが最近は「ちょっとヤバいけど、実は歓迎」ってなニュアンスで使われているような気がしていたのである。そしてそれは、ネットスラングとしては既に公認であるようなのだ。ピクシブ百科事典には、次のようにある(参照)。

本来の意味

相手の非常識 (非道徳的) な言動に怒ったり、憤慨する時に使う。
例 嘘を付くとはけしからん。

ネットスラングとしての意味

自分の欲求(主に性欲)をくすぐられた場合に使用し、怒りや憤慨を装って妄想を展開している。

ニコニコ動画などでは子猫動画などかわいらしいものに対しても使われる。
無理やり文章にすると 「私の欲望を刺激して堕落させようとする。けしからん」か。

なるほどなるほど。そういうようなことなのだね。一応は憤慨を装いながら、「も、もっとドンドンやってくれ!」というバレバレの本心を表現する言葉に変化しているわけだ。サザエさんのマンガで波平さんがカツオを 「けしからん!」 と一喝していた時代からは、ちょっとした変化を遂げているのである。

新時代の「けしからん」を視覚的に確認したい方は、Google で画像検索してみればすぐにわかる。ここでは(当ブログの品位のために)敢えてリンクしないでおくので、どうしても見たい人は、自分で検索してもらいたい。

で、この「けしからん」という言葉は、元々の成り立ちからしてそんなような方向に進みやすい萌芽を持っていたようなのである。ネット上の「由来・語源辞典」によると、次のように説明されている(参照)。

本来の形は「けしからず」で、形容詞「異(け)し」の未然形に打ち消しの助動詞「ず」がついた語。「ず」の連用形「ぬ」の終止法が広まるにつれて「けしからぬ」と変化し、さらに「けしからん」となった。

「異し」は、「普通と違い異常だ」という意味で、「けしからず」とはそれを否定したもので、つまり「もっと異常だ」ということであり、そこから「とんでもない、不届きだ」の意になった。

なるほど。「普通と違い異常だ」という意味の「けし」を否定したら、本来は「フツーじゃん!」てなことになるはずなのだが、「けしからん」の場合は「フツーの異常よりさらにずっと異常だ」と、まったくフツーじゃない意味合いを持つようになったわけなのである。

元々「フツーじゃない」言葉なので、「ヤバいけど、歓迎!」というようなニュアンスになってしまうのも、無理からぬところという気がするのである。

 

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2016年12月19日

クリスマス・シーズンのとんでもないラジオ放送

Twitter に "車で子供の送迎中に聞いていたラジオで 「週末は子供のクリスマスプレゼントを買い込みました」 などという不用意な投稿があり、子供に気づかれないよう慌ててチャンネルを切り替えた。気づかれたかも?" という tweet があった (参照)。うぅむ、これは問題だなあ。

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なによりもまず、こんなような投稿をする人の感性を疑ってしまう。私の本宅サイトで、今の季節に賑わうページ、"サンタクロースは本当にいる! クリスマス・イブは、「大きな愛」 を知るチャンス" というページを読んで戴ければわかるように、世のお父さん、お母さんたちはクリスマスには、オリジナルのサンタクロースの代理人として子供たちにプレゼントをあげるのだ。

代理人なんだから、そこはきちんと分をわきまえて、「子供のクリスマスプレゼントを買い込みました」なんてことを堂々と公言すべきじゃない。あくまでもさりげなく密やかに行うべき行為なのである。クリスマスにおける主役はあくまでもサンタクロースであり、自分は 「影の存在」 なのだ。

そもそも、「子供のクリスマスプレゼントを買い込みました」なんてことを自分の子どもには言わないだろう。自分の子どもに言わないことを、誰が聞くかわからないラジオ番組に投稿なんかしちゃいけない。他人の子どもになら聞かれてもいいなんていうのは、あまりにも浅はかである。

それに、そんな投稿を取り上げるラジオ局もラジオ局である。これは決して小さなことじゃない。担当者の責任問題にするのが当然だが、見過ごされるとしたら、そのラジオ局全体の常識の問題だ。

 

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2016年12月18日

アントラーズ、準優勝なら立派なもんだ!

日曜日だというのに外で仕事があり、家に帰った時にはすっかり日が暮れていた。サッカーの FIFA クラブワールドカップ ジャパン 2016 の決勝は既に始まっていて、テレビのスイッチを入れた時には前半終了間際だった。

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私は茨城県在住なので、当然鹿島アントラーズに勝ってもらいたい。しかし相手はあのレアル・マドリードである。到底勝ち目はないと思っていた。前半で 3点差ぐらい付けられてるんじゃあるまいかと思っていたが、なんと、1対1 の同点ではないか。こりゃ、エラいことだ。

それどころか、後半開始早々に、柴崎の見事なゴールで逆転してしまった。あれは、なかなかカッコよかった。「後は、必死に守ってくれ! こりゃ、とんでもないことになるかもしれない」と、少なからず胸が躍ったのである。

もし相手が同じスペインのチームでも、バルセロナだったら、アントラーズ贔屓の私でも、バルサを応援していたところだ。私はバルセロナが世界で最も贔屓とするサッカー・チームであり、アントラーズは 2番目なのである。レアル・マドリードはお呼びじゃない。

いかにも体制派の王室御用達みたいなレアルは、趣味じゃないのである。スペインという国は一度も行ったことがないが、昔から仕事で会うカタルーニャの人とはなぜか馬が合うのだ。だったら、バルサを応援せずにどうするというのだ。

試合はロナウドに同点 PK を決められて振り出しに戻り、延長前半にロナウドに 2ゴールを決められて、ということは、癪なことにハットトリックなのだが、結局 4−2 で敗れてしまった。でも、まあ、初めから世界ナンバー・ワンのクラブチームになるなんて期待はあまりしてなかったから、準優勝なら立派なものである。

J リーグのクラブが世界一になるのは、もう 10年かかっても無理かもしれないが、「2016年に、アントラーズが決勝まで残ったんだぜ!」 という実績は、大きな誇りとして残り、それ以上に大変な励みになるだろう。あとは、ワールドカップでちゃんとした実績を残せるナショナル・チームを実現してもらいたいものである。

 

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2016年12月17日

男性の身長 178cm 最強説というのを見つけた

「はてなブックマーク」というページをクリックしたところ、「男性の身長は 178cmが最強だと思う理由」という記事が一番上に表示されていた。実は私の身長はまさに 178cm なので、どういう意味で最強だなんて言っているのか知りたくなって、ついクリックしてみた。

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リンク先の記事を読んでみると、ライターのなぎにゃぎさんという方は身長が 182cm あって、満員電車の中でも呼吸困難にならずにすむなど、高身長の恩恵には浴しているらしい。しかし高校時代に経験した 178cm という身長が一番良かったとおっしゃっていて、次のような理由を挙げておられる。

  • 服のサイズに困らない(身長が高すぎると、着る服がなくなる)
  • 日本の建物では、180cm を越えると鴨居に頭がぶつかる
  • 平均身長(158cm) の日本女性がハイヒールを履いた時に、うまく釣り合う

とまあ、こんな理由なのだが、確かに「満員電車で呼吸困難にならずに済んで、なおかつ着る服のサイズに困らない身長」というのは、178cm 前後なのかもしれない。私は大抵の服なら 「L サイズ」 でちょうどぴったり合うので、服選びに苦労がない。

しかし 178cm なら鴨居に頭をぶつけなくて済むかというと、あながちそういうわけでもない。頭の位置というのはステップ次第で多少上下するので、タイミングが悪いとしっかりぶつかる。私は頭をぶつけて気を失いかけたことが何度かある。

女性と並んで歩いた時の吊り合い加減なんていうのは、世の中は平均身長の女性ばかりじゃないのだから、こればかりは何とも言えない。私の妻はたまたま日本女性の平均身長そのものだが、ハイヒールなんて滅多にはかないので、並ぶと結構身長差が目立つことになる。しかしそれで困ったことなんて一度もない。

とはいえ、私としてもなぎにゃぎさんの「178cm 最強説」には実感的に賛同する。体格的に多少押し出しがきくので、それだけであまりなめた態度を取られずに済むし、着る服に困らないというのは本当に大きなメリットだ。

 

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2016年12月16日

「素性」って、「そせい」とも読むのね

今朝ラジオを聞いていたら、2016年に注目されたシンガーの一人として、シーア (Sia) というオーストラリア出身のシンガー・ソングライターが紹介されていた。彼女のことを知らない人でも、"This Is Acting" というアルバムの "Alive" という曲ならどこかで聞いたことがあるかもしれない。

"I'm still breathing" (まだ息してるわよ)という繰り返しが印象的で、youtbe 動画は土屋太鳳のダンスとのコラボが結構素敵だ。見ておいて損はないと思う。

で、ようやく今朝のラジオの話に戻る。本題は "Alive" の話ではなく、相変わらず「言葉」のお話。ラジオで解説していた某音楽評論家が Sia のことを紹介するのに、「この人、『ソセイ』を明らかにしたがらない人なんですが……」と言っていた。「ソセイ」の「ソ」にアクセントを置いている。

「ソセイ?」 …… 一瞬考えてしまったが、「もしかして『素性』を『ソセイ』と読んじゃってるのか?」 と思い当たった。シーアは顔出し NG だった時期もあったほどで、確かに「素性(すじょう)を明らかにしたがらない歌手」として知られている。

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「まったく、もう。近頃の音楽評論家ってやつは、漢字の読み方を知らないのかよ!」と、ちょっとカリカリしたが、そこはさすがに我ながら還暦過ぎのオッサンの用心深さである。「もしかして『ソセイ』って読みもあったりしたら、カリカリしちゃったこと自体が恥になっちゃうもんね」と思い返し、念のため iPhone を取り出してインストールしてある『大辞林』で「そせい」を引いてみた。

すると、何と言うことか、「素性」には「ソセイ」という読みもあるではないか。意味として次のように書いてある。

① 本来の性質。すじょう。

② 《言》 [feature] 音的、統語的、あるいは意味的な単位を構成する部分的な特性。ある特性があることを+、ないことを−で表す。例えば、+round (円唇性)、+N (名詞のこと) など。

2番目の意味は言語学の学術用語 (原語は "feature") なので、結構ややこしい話になっているが、とにかく「素性」は「すじょう」とも「そせい」とも読むもののようだ。とはいえ、「すじょう」の方がずっと一般的なのは言うまでもない。今月 5日の "「分別」と書いて「ぶんべつ」「ふんべつ」と読む分別" という記事に、この 「素性」 という言葉も加えておくべきだったかもしれない。

で、そもそも、かの音楽評論家は、「素性」を「そせい」とも読むことを知っていたのか、あるいは知らずにそう言っていただけなのか。ここでは「わからん」ということにしておこう。

 

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2016年12月15日

日本語の「ん」の発音

Twitter 上で коноплякиноварь(まりこ) さんが、"日本語の「ん」には3つの発音があると習ったのは大学の、授業ではなくて合唱部でだったな。そう、日本人のほとんどは意識してないけど、違うんだよね" と、エリカさんというドイツ在住(らしい)の方の tweet を引用して指摘しておいでだ(参照)。そう、日本語の「ん」の発音のコンセプトは、確かに融通無碍すぎるかもしれない。

161215元 tweet のエリカさんの記事は、次のようなものだ (参照)。

① さんにん
② さんまい
③ さんかく

この 3つの 「ん」、アルファベットで書くとそれぞれ sannin,  sammai,  sangkaku で、ドイツ人の耳には全く違う音に聞こえてるらしい。確かに ① の「ん」では唇がつかないけど ② ではくっついてて、③ だけ舌が上あごの奥に触れてる。

「ドイツ人の耳には全く違う音に聞こえてるらしい」というのは、多分ドイツ人だけじゃなくて、多くのヨーロッパ系言語を話す人もそうなんじゃないかと思う。ドイツ人がとりわけ厳密に考えているという可能性もあるけどね。

で、まりこさんの書かれているように、日本でも合唱をしたりすると、この発音の区別に敏感になる。コーラスの中で "n" と "m" の発音が混在すると、濁ってきたなく聞こえてしまうからだ。

で、エリカさんはこの tweet に続き、次のようにも書かれていて、とても興味深い (参照)。

だから日本語勉強中のドイツ人に 「ねぇ信号の発音って、しんごう? それとも、しんごう?」 って聞かれて「?????」ってなるんだなぁ……………

上の図は、「英語で悩むあなたのために」というサイトの 「子音 / ŋ /」 というページから拝借している。この 3つのメカニズムで発音される音が、日本語ではすべて「ん」という文字で表現される。だから、「しんごう? それとも、しんごう?」 と聞かれたりすることになるわけだが、実は「信号」の発音にはとくにややこしいところがある。

「信号」 をローマ字表記すると "shimgo" じゃないのは明らかなので、"shingo" と表記することになるのだが、そうすると「ん」の発音が "n" なのか "ŋ" なのか、甚だ不明確になるのだ。でもまあ、実際のところは "n" の音を省いた "ŋ" なんだけどね。ああ、面倒くさい。

この関連でいうと、多くの新聞社のサイトで、URL が "shinbun" と表記されている (例えば ここ とか、ここ とか) のが、妙なところにこだわりたがる私としては気になってしまう。「う〜ん、"shimbun" にしてくれんかなあ」なんて思ってしまうのだ。それだけじゃなく、ついローマ字に引きずられて "shin-bun" と、舌の先を上あごの内側につけて発音する自分を発見したりする。

これって、ある意味ビョーキだ。

 

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2016年12月14日

曜日の名前について、洋の東西

「曜日」ということのコンセプトについて、ちょっとだけ書いておきたい。日本語の場合は、「日、月、火、水、木、金、土」 で、これは古くからある 「五行説」 (あらゆるものは、「火、水、木、金、土」 の 5つの要素からなるという説) に由来して、それに 「太陽/月」 をプラスしているのは明らかだ。

Calendar

一週間を 7つの「曜日」とする「七曜」のシステムは、明治以後に西洋から日本に伝わったものと思われがちだが、実は平安時代にはあったようなのである。Wikipedia の「曜日」という項には、次のように記されている。

日本には入唐留学僧らが持ち帰った「宿曜経」等の密教教典によって、平安時代初頭に伝えられた。宿曜経が伝えられて間もなく、朝廷が発行する具註暦にも曜日が記載されるようになり、現在の六曜のような、吉凶判断の道具として使われてきた。藤原道長の日記 『御堂関白記』 には毎日の曜日が記載されている。

いやはや、ものごとというのは調べてみるものである。こればかりは、この年になるまで知らなかった。

そして英語の場合の名称でも "Sunday" "Monday" は、それぞれ「太陽」「月」を指すから、共通している。ただこれは、元々世界中でそういうコンセプトで名付けられたのかどうかは、ちょっとわからない。ラテン語系では、日曜日は 「主の日」 という意味の言葉になっている。

英語の曜日の名称は、当然ながら五行説とは一致しない。火曜日から土曜日は、北欧神話に由来しているらしいのである。

Tuesday(火曜日)は、北欧神話の軍神「チュール(ティル)」からきている。"S" が付いて「チュールの日」という意味になる。以下、順を追って書く。

Wednesday(水曜日)は、北欧神話の主神「オーディン」の日。 "Odin" が "Woden" "Wenden" に変化して、Wednesday になった。ちなみに "Odin" は怒りを意味するという。最高神は怖い存在のようなのである。

Thursday(木曜日)は、雷神「トール」の日。トールは怪力の戦神・雷神で農耕神でもあったという。

Friday(金曜日)は、愛と美と豊穣の女神「フレイア の日。発音が似ているため、主神オーディンの妃の「フリッグ」と混同されているということもあるらしい。

Saturday (土曜日) は、人類に畑作を教え、ブドウの木の剪定方法を教えた農耕神「サトゥルヌス」(ローマ神話では "Saturn" の日。日本人はややもすると、「悪魔」 の "Satan" と混同してしまいがちだが、まったく別の言葉である。

ついでに書くと、日本語では曜日の呼称と惑星の名前は共通しているが、英語では惑星の名前は、ギリシャ神話由来である。火星は軍神 "Mars" で、水星は商業の神 "Mercury"、木星は最高神の "Jupiter"、金星は美の女神 "Venus"、土星は土曜日と同様に、農耕神 "Saturn" だ。

火曜日/火星の由来は軍神で、金曜日/金星が美の女神、土曜日/土星が農耕神というのは共通しているが、これは日本語を介してみているので、たまたま共通性が目立つだけなのかもしれない。最高神の名前は、水曜日と木星に分かれている。

これに関しては、よくよく考察すればいろいろなことがわかってくるかもしれない。

 

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2016年12月13日

"He/she" の代わりに "ze" を用いるべしというお話

ネット上の(あるいはネット上に限らないのだろうが)アンケートに答えようとすると、必ずと言っていいほど「性別」というのを聞かれる。で、大抵の場合、その選択肢が「男性」と「女性」の 2つしかないのでるある。

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私自身はあっさり「男性」と答えることができるのだが、中にはとても抵抗のある人もいるだろう。戸籍上の性別と意識上の性別が一致しない人というのは、少なくないはずだ。そうした人たちは、聞かれる度に意に反して戸籍上の性別を解答するのが、結構なストレスになると思う。

これに関して英国のオックスフォード大学が、三人称単数の代名詞として "he" と ”she" ではなく "ze" を使用するよう学生たちに推奨したと報じられている(参照 1参照 2)。今後、トランスジェンダーの学生に対して "he/she" という性別を特定する代名詞を意図的に使うことは、オックスフォード大学の行動規範に反する行為になるという。

ちょっと前までは "he or she"(彼または彼女) なんていう言い方をするのがトレンドだったが、もはやその言い方でも意は尽くせないというわけだ。ただ複数形は元々、男でも女でもそれ以外でも "they" なので問題ないだろう。

こうした措置に関して、伝統的な価値感から抵抗を示す人もいるだろう。「世の中、男と女しかいないんだから、どちらかということにしておけばいいじゃないか」というわけだ。しかし「世の中、男と女しかいない」というのは、かなり不確実な話のようなのである。性というものはかなりの多様性を包含している。

性別を訊ねる質問に対する回答に「その他」という選択肢をを加えるぐらいのことはしてもいいのではないかと思う。ただこれは、あまりにも苦し紛れで事務的すぎる選択肢なので、あまり良い気持ちはしないだろう。もっといい言い方があればそれにしてもいいと思う。

最後にひっかかるのは、"ze" を日本語に訳す時にどう言えばいいかという問題だ。元々「彼/彼女」というのは明治以来の翻訳語だから、"ze" にも何らかの訳語を当てなければならないだろう。「彼の人」という意味で 「彼人」 なんていう造語をしなければならないのだろうか。さらに "they" を「彼ら」 と訳すのも問題になるだろうから、日本語の方がややこしいことになりそうだ。

 

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2016年12月12日

違っていて当たり前というお話

今日、NHK BS 放送を見ていたら、フランスの家庭での手作りクリスマス・リースに関する話になっていた。ナレーションにいわく 「クリスマス・リースの作り方は、それぞれの家庭で少しずつ違います」

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あまのじゃくな私はこうした話を聞く度に、「そりゃそうだ。手作りのモノをまったく同じに作る方がずっと難しい」と思ってしまう。自然の材料を使っていたら、設計図とマニュアルを整備し、強いてまったく同じモノを作ろうとしても無理だと思う。一つ一つ違っている方が当たり前なのだ。

写真のリースは一昨年の暮れの「和歌ログ」にアップした、我が家のクリスマス・リースである。妻がちゃちゃっと手作りしたものだ。これはクリスマス前から小正月にかけてずっと使い続けられるように、見ようによってはクリスマス・リースだが、あるいは松飾りのようでもあり、初めからそれを狙った作りになっている。

いわば和洋折衷ミニマリズムの「リース松飾り」なので、西洋ではなかなか見られないデザインだと思う。手作りというのはこういうことが可能なのだ。そしてそれは「それぞれが違ったデザイン」というより、「どうしたって違ってきちゃう」 のとしか言いようがない。

昔、あるお寺の「五百羅漢像」を拝観した時、案内の若い坊さんが「五百もある羅漢さんですが、すべて違う表情になっているんです」と、それがさも特別のことのように説明してくれた。この時も私は「そりゃそうだ。鋳型にはめて作るのでもない限り、同じ表情に作る方がずっと大変だ」と思ったものだ

多様性というのは狙って作るものではなく、自然に実現されてしまうものなのだ。マスプロダクションの工業製品は、同じ部品で同じデザインの製品を多数作ることで合理化しているのだが、それを「当たり前」と思ってしまうと、手作りの多様性がことさら「特別のもの」という気がしてしまうだろう。しかしそれは幻想で、特別でもなんでもなく、「多様で当たり前」なのだ。

これがわからないと、ちょっと違った要素を排除するメンタリティに陥りやすく、「いじめ」につながったりする。実は「違っていて当たり前」 で、それだからおもしろい。「一様に揃っている」という方が、ずっと特殊なことなのだ。

 

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2016年12月11日

Mac に乗り換えてよかったと思うとき

初心者に PC の操作法について教えてくれと頼まれることがある。私の年になると、知人に PC 初心者がまだまだ多いのである。そしてその初心者が、還暦を過ぎてようやく PC に触れ始めるということが珍しくないのだ。

Windows

今頃になってようやく始めるぐらいなら、もっと若い頃からやっておけばよかったのにと思うが、まあ、それは過ぎたことだから仕方がない。で、その初心者たちが初めて触れる PC は Windows マシンであることが多く、しかも Windows 10 というのが圧倒的だ。彼らは tak なら 四半世紀以上 PC をやっているのだから、詳しいに違いないと頼ってくるのである。

ところが私は Mac に乗り換えて 3年近く経っている。Mac に乗り換えた理由が、「元々 Mac を使いたかった」ということと 「Windows 8 を使うなんて真っ平ご免」 ということの合わせ技だから、ましてや Windows 10 なんて滅多に触ることがない。なので初心者に頼られても、こちらが戸惑ってしまうことが多いのである。

PC そのものには慣れているから、何をどうすればいいかはわかる。しかし、Windows 10 上でそれをするにはどうすればいいかに戸惑うのである。「えぇと、これはどこをクリックすればいいんだ?」なんて呟きながら手が止まってしまうので、相手は 「tak さん、PC のベテランだと聞いてたけど、本当に大丈夫なのかな?」 なんて思いかねない。

思えば 3年近く前に Windows 7 から Mac に乗り換えた時は、ほとんど戸惑うことがなかった。初めから Mac の 10年選手みたいに楽々と操作することができた。ところが、仮にも Windows と名の付くシステムに 20年も触れていた私が、ほんの 3年離れていただけで、Windows 10 にはかくも戸惑ってしまうのである。これは衝撃的だ。

要するに実感として、Windows 10 は使いにくいのだ。この事実を考えるだけで、Mac に乗り換えて本当によかったと思う。

 

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2016年12月10日

「でっごぐさん(大黒様)の歳夜」と「事始め/事納め」

「大黒様の歳夜」 について 3日連続で考察してみたのは、もう 7年も前のことだった。

でっごぐさんのとしや (大黒様の歳夜) #1
でっごぐさんのとしや (大黒様の歳夜) #2
「大黒様の歳夜」 をさらに突っついてみる

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私の郷里、山形県庄内地方では 12月 9日の夜に「でっごぐさんのとしや」(大黒様の歳夜)という行事を行う。とくに大きなお祭りというわけではなく、各家庭で大黒様にまっか大根(二股に分かれた大根)とハタハタの煮たものなどをお供えして祝うのである。上の写真は、YAMAGATA MIRAI LAB. の 「庄内には今も神様がいる? 大黒様のお歳夜」 という記事から拝借している。

私は上述の 3日連続の記事で、大黒様の歳夜は農業に関係があり、最も日没の早いこの時期に「歳夜」として祝うのだろうと結論づけた。農業をしていると、日の沈むのが最も早いこの時期が、素朴な「年の終わり」と感じられるのだろう。

ちなみに、日没が最も早いのはこの時期で、日の出が早くなるのは年明けの 15日頃の、小正月辺りからだ。冬至が日の出が最も遅くて日没が最も早いというわけじゃない。それは早起きしてみれば、実感としてよくわかる。

そしてさらにその翌年、大黒様の歳夜と恵比須講の関連についても考察した。

「大黒様の歳夜」 と 「恵比須講」 の不思議な関係

この中で私は、地方によって大黒様と恵比寿様がごっちゃになって、農業神として祀られることがあることに注目した。恵比須講は普通、10月 20日に祝われるが、12月 8日(大黒様の歳夜の前日)になることもよくある。そして 10月 20日が「商人恵比寿」、12月 8日が「百姓恵比寿」と呼ばれる。

12月の最も日没の早い時期に祝われる「大黒様の歳夜」も「百姓恵比寿」も、やはり農業と大いに関係があるようだ。そしてこれはまた、「事始め」と「事納め」ということにも関係があるとわかった。「日々是活き生き − 暮らし歳時記」 というサイトに、「事始め・事納め」というページがある。

このページの解説によると、12月 8日と 2月 8日を「事八日 (ことようか)」というのだそうで、この日には針供養をしたり、お事汁を食べたりする風習があるという。そして、この 12月 8日と 2月 8日は、「事(こと)」が何かによって、「始め」と「納め」が逆転するのだそうだ。

「事」 とは、もともと祭りあるいは祭り事を表す言葉で、コトノカミという神を祭るお祭りです。そのお祭りが 12月 8日と 2月 8日の2回あり、「事八日」「事の日」などと言われました。

コトノカミが 「年神様」 か 「田の神様」 かで、事始めと事納めの時期が逆転します。

この日付の違いは、この時に始める「事」が新年に迎える神様の「事」なのか、田畑を耕し農耕に勤しむ人の「事」かという違いです。

つまり歳神様を迎える、一連のいわゆる「年末年始」の行事の「事始め」は 12月 8日である。この日から「年越し」の神事が始まり、年を越して一段落する「事納め」は、2月 8日だ。これが神様の方の「事」である。しかしまさに、歳神様の「事納め」となるあたりから、農作業を行う人間の方の「事」が始まる。

人間は 2月 8日を「事始め」として生産活動に入り、田植え、収穫、脱穀などの一段落する 12月 8日の「事納め」まで、「日常生活」という「事」を行うのだ。現代の目で見れば、それは「人間の都合 = 農業生産活動」そのものなのだが、何しろ古代のことだから、それすらも「田の神の事」に還元される。

農業ができない冬は正月を中心にして、非日常的な「歳神」の神ごとを集中的に行い、夜明けが早くなった頃から日没の早くなるころまでの、1年の大半を占める間は、人間の日常生活 = 生産活動を重視して「田の神」と共に過ごす。そんなわけで、12月 8日が人間の生産活動の終わり、即ち「田の神の事納め」となり、その翌日に「大黒様の歳夜」という特別の祭りになるのだろう。

なるほど、なるほど。「大黒様の歳夜」 について、ずいぶん長い時間がかかったが、かなりよく理解できた。

 

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2016年12月 9日

どうして「箸」のことを "chopsticks" なんていうのか

長年にわたって疑問に思いながら、それについてつい調べそびれてきたということが、数えればいくつもある。普段はその疑問すらも忘れてしまっていて、年に 2〜3度ぐらいふと思い出すのだが、「時間ができたら調べてみよう」と思いつつ、気がつけば何十年も経っている。

Chop

 

というわけで、今回は一大決心をして、その一つを調べてみた。「『箸』はどうして "chopsticks" というのか?」という疑問である。「箸は英語で『チョップスティックス』というんだよ」と習ったのは、多分中学生だった頃だが、それ以来ほぼ半世紀に渡って悶々たる疑問だったのだ。

当時は 「チョップ」 と言えば力道山の空手チョップを連想するしかない時代で、どうしてまた、「食べ物をひょいとつまむ道具」が、「叩き切る棒」というイメージの「チョップスティックス」なんてことになるんだろうと、わけがわからなかった。

で、今回初めてググってみたところ、疑問は呆気なく解決した。"【Kei式】カドを立てない英会話術辞典" というサイトに "【Kei式-世界史英会話】vol.332 箸はなぜ chopsticks という【語源】" というページがあり、そこに詳しく載っていたのである。

手短に言えば、"chopsticks" の語源はピジン・イングリッシュで、中国語(広東語を含む)と英語のチャンポンで使われていた言葉が、世界に広がってしまったもののようなのである。そうか、「箸」といえば日本食と思っていたが、元はといえば中国から広がったと考える方が自然だよね。

上述のページでの解説を、順を追って説明しよう。

  1. 箸は中国語で「筷子」(kuaizi)といい、「快」 は中国語では 「速い」 という意味。

  2. イギリス人は中国人の料理の様子を見ていて、タンタンタン……と食材を切断するのを "chop" と表現していた。

  3. 中国人は、イギリス人の言う "chop" は「切断」ではなく、「速い!」と言っているのだろう、と勘違いした。

  4. それで中国人は 「筷子=速い棒」を chop sticks と英訳し、それがそのまま世界中に拡がる中華料理とともに伝わり、chopsticks は一般的な英単語になってしまった。

ということのようだ。念のため Online Etymology Dictionary (オンライン語源辞典) に当たってみても、「広東語の "k'wai tse" (速い子) がピジン・イングリッシュになって広まった」 と、ほぼ同様のことが書いてある (参照)。

also chop-stick, 1690s, sailors' partial translation of Chinese k'wai tse, variously given as "fast ones" or "nimble boys," first element from pidgin English chop, from Cantonese kap "urgent." Chopsticks, the two-fingered piano exercise, is first attested 1893, probably from the resemblance of the fingers to chopsticks.

そして、Online Etymology Dictionary の方にはもう一つ、ピアノの練習における 2本指の快速演奏が、箸の動きと似ているからという説も併記してある。なるほどね。合わせ技でより納得しやすい。

蛇足だが上述のページには、香港人や韓国人(そして、それに影響された日本人)が、「お久しぶり」という意味でよく "Long time no see" と言うことについても解説してある。私としてはこの言い方にはとても違和感があって一度も使ったことがないのだが、やっぱりこれもピジン・イングリッシュのようだ。

これは中国語の 「好久不見」 を英語に直訳したものだという。なるほどね。道理で欧米人の口からは聞いたことがないわけだ。こればかりは ”chopsticks" のようには行かなかったわけである。

 

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2016年12月 8日

「サンタクロースは本当にいる」 ってことに変わりはないのだが

去年まで私の本宅サイトには、12月の声を聞くと圧倒的なアクセス数を誇るページがあった。"サンタクロースは本当にいる! クリスマス・イブは、「大きな愛」 を知るチャンス" というタイトルで、「サンタクロース/本当にいるの」 というキーワードでググると、長年にわたってトップにランクされていたのである。

Santa

アクセス解析ソフトで調べると、例年 12月初め頃からアクセスが急上昇して、クリスマス直前の 1週間ぐらいは毎日 1000以上のアクセスを記録していた。この時期に読んでもらうテキストとしてちょっと自信があったので、私としても少しはハッピーな気分になっていたのである。

ところが私の本宅サイトは今年の初めまでは @nifty の "@homepage" という、ちょっとダサい名称のサービスを使って公開していたのだが、今年の 11月 (だったかな?) でこのサービスは終了するので、同じ @nifty の "LaCoocan" というサービスに移行するようにという通知があった。そこでちょっと面倒だったけど、言われた通りの手続きを行った。

で、私の本宅サイトである 『庄内拓明の知のヴァーリトゥード』 は今、LaCoocan においてある。ただこのサイトには、このサンタクロースについて書いたページ以外にも Google で結構上位 (トップとかね) にランクされていたページがいくつもあって、URL の移行に伴って、その Google 評価が軒並み消滅してしまうのが心配だった。そこで、今年 2月の記事で次のように嘆いた (参照)。


これまでの実績で Google 上位に来ているページも、一から出直しになってしまうのかなあ。そうなると、なんだか手持ち不動産の資産価値が下落してしまうみたいな気がしてしまうのだよね。

するとこの記事に、kazuhiro さんから 「@homepageの方にcanonicalを設定しておけば、Googleの評価は引き継げそうです」 というありがたい情報のコメントをいただいた。で、早速実行したのだが、私のやり方が間違っていのか、今日現在のところ、Google 評価は引き継がれていない。

せっかく貴重な情報を提供して下さった kazuhiro には申し訳ないし、自分としてもちょっとがっくりである。まあ、あちこちからリンクしてもらって、評価を再び上げて行くしかない。

というわけで年中行事みたいなつもりになって、今年も例の記事を読んでいただければ幸いである。その際に、もしよろしければ Twitter などでシェアしてくれると、Google 評価を取り戻すのに効果があるので、図々しいお願いだが一手間かけていただければ感謝感激である。

Thanks in advance.

 

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2016年12月 7日

カジノ合法化には反対しないが、「IR 法案」 には反対

「ギャンブル法案」 とか 「カジノ解禁法案」 とかいわれる 「IR 法案」 の ”IR" というのは、"Integrated Resort" (統合リゾート) ということなんだそうで、まあ、その中でカジノを解禁しちゃおうというのが、法案の目玉なわけである。英語にしちゃえば、カジノ云々が曖昧になるとでも思っているのだろう。

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そんなようなカジノが目玉の 「統合型リゾート」 施設を日本のどこに造るんだか知らないが、推進派の議員の多くは、「もちろん自分の地元に」 と思っているようだ。要するに、既に利権化の道を突き進み始めているわけね。

実は私は 7年近く前に、カジノ合法化については「むしろ賛成」 と書いている。こんな具合だ (参照)。


しかし私はカジノの合法化に反対というわけではない。むしろ賛成である。私自身は興味がないが、興味のある人はやればいいというスタンスである。下手に非合法としているから、暴力団の資金源になったりする。やるならやるで、公明正大にやればいい。

ただ、ちょっと危惧するところがあって、次のように続けている。


ただ、ここで疑問なのが、「日本では既に 『パチンコ』 という公認カジノがあるではないか」 ということだ。パチンコが実質的に換金可能で、なんだかちんぷんかんぷんな建て前を装ってはいても、ギャンブルとほとんど変わらないのは誰でも知っていることである。パチンコを放っておいて、カジノ合法化もないではないか。

で、この当時は 「カジノ議連はパチンコの換金についても、カジノ法案と同じ仕組みで立法化していく方針」 としていたが、ここに来てそんな話は全然立ち消えになってしまっている。約束が違うのである。

ということは、日本中に 「パチンコという実質的ギャンブル場」 がいくらでもあるという状態はそのままにして、その上に 「統合型リゾートとしてのカジノ」 が造られるということになる。

日本は今でも実質的に 「世界一のギャンブル大国」 である。その証拠に、ギャンブル依存症患者は国内に 530万人以上いるといわれ、人口比率にすると約 5%と、世界でも断トツだ。そこら中で気軽にギャンブルができちゃうから、こんな数字になる。

ただでさえこんな状態なのに、その上に 「公認カジノ」 ができてしまったら、一体どんなことになるというのだ。私は 「パチンコ屋を整理する」 という前提でカジノ合法化に賛成したのだが、その前提が曖昧にされてしまっては、賛成する理由が失われたのである。

「ちょっとひどいなあ」 と言うしかない。経済効果にしても疑問で、国内のギャンブル好きは 「統合型リゾート」 なんていう面倒なところには行かず、相変わらずパチンコ屋に通い続けるだろう。

 

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2016年12月 6日

「東京カリント」は、大阪で食べても「東京カリント」だが

「東京カリント」というお菓子があって、「東京カリントは大阪で食べても、東京カリントと言うんですか?/ハイ! 東京カリントは日本中どこで食べても、東京カリントと言うんですねぇ!/ ♪ ハチミツカリント、東京カリント ♪」というラジオ CM がお馴染みである。作っている東京カリント株式会社は、東京板橋区という地味なロケーションにある。

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「日本中どこで食べても東京カリント」というコピーには、「そりゃそうだ、草加せんべいは大阪で食べても草加せんべいで、讃岐うどんはニューヨークで食べても讃岐うどんだしね」とツッコミを入れたくなる。しかしよく考えてみると、あながちそうとばかりも言い切れないことに気がついた。

例えば「ズワイガニ」は地方によって呼び名が違う。「越前ガニは山陰地方で食べても、越前ガニというんですか?」「いいえ、越前ガニは山陰地方で食べると、松葉ガニというんですねぇ!」ということになる。しかし「伊勢エビ」はどこで獲れても「伊勢エビ」なので、一筋縄ではいかない。

さらに地名由来の食べ物が、その土地に行っても見当たらないということもある。「日本茶」は日本にあるが、「アメリカンコーヒー」というコーヒーは米国にはない。スパゲティの「ナポリタン」は、ナポリでは誰も知らないし、「天津丼」もそうらしい。さらに米国のバーモント州に行って「バーモントカレー」を探すのは一苦労だろう。

一方、信州の野沢温泉に行かなくても「野沢菜」はどこででも食えるし、「博多ラーメン」や「長崎ちゃんぽん」も同様だ。そうかと思うと「練馬大根」は、今どき練馬に行っても見られなくなった。それから讃岐うどんチェーンの「丸亀製麺」を運営する会社は、香川県ではなく兵庫県にある。

食い物の名称というのはとても感覚的な要素が強いので、統一ルールなんてものはあり得ない。

そう言えば、私が学生時代には学食に「早稲田ランチ」というメニューがあったが、今となってはググってみても見当たらなくなってしまったのだよね。まあ、大して美味しいものでもなかったから、別にいいんだけど。

 

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2016年12月 5日

「分別」と書いて「ぶんべつ」「ふんべつ」と読む分別

世の中には「分別ゴミ」のことを「ふんべつごみ」と読む人もいれば、「思慮分別」を「しりょぶんべつ」なんて読んじゃう人もいる。漢字の読み方というのは、なかなか一筋縄ではいかない。

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同じ漢字で「分別」と書いても、「ふんべつ」と読むと「物事の是非、道理を判断し、わきまえること」との意味であり、「ぶんべつ」と読むと「種類によって別々に分ける」ということである。よって「分別ゴミ」は「ぶんべつごみ」で、「思慮分別」は「しりょふんべつ となる。

「分別」という言葉は仏教用語から来ており、元々は 「虚妄である自他の区別を前提として思考すること」で、転じて「我(が)にとらわれた意識」との意味合いをもつ。本来はあまり高尚な意識ではないようで、「分別智」というと「煩悩を持つ人間の世俗的思考」という意味になる。ところが時代が下るに従って理性的な意味合いを強め、「分別のある大人」なんて言われるようになった。「言葉は生き物」というのは本当である。

一方、「ぶんべつ」と読ませる「分別」という熟語はずっと新しく、近代に入って「分別結晶」「分別蒸留」「分別沈殿」など、科学用語に用いるために、従来の「ふんべつ」という読み方とは別の流れとして「分別的」に造語されたもののようだ。それがさらに下って、ゴミの「分別収集」にまで至る。

これと似たような流れの言葉に「変化」 というのがある。「へんげ」と読ませるのが元々の流れで、「妖怪変化」などの熟語がある。これも元々は仏教用語で、神仏が衆生を救済するために、仮に人などの姿をもって現れることをいう。「観世音菩薩は三十三身に変化する」というのは、観音様は人を救うためにいろいろな姿をもって現れるということだ。

そして「へんか」と読む「変化」になると、ずいぶん素っ気ない話になり、物理的あるいは化学的変化、または文法的な語形変化のことになってしまう。

「利益」という言葉も同様で、「りやく」と読むと「宗教的な恩恵」のことで、「りえき」と読むと「儲け」とか「有益なこと」という意味になる。「末期」という言葉も、「まつご」だと「人の一生の終わりの時」で、「末期の水」は 「臨終の際に唇を湿す水」のことをいう。そして「まっき」は「限られた時間の終わりの時期」という極々即物的な意味になる。

こうした類いの言葉は、仏教哲学の言葉を転用して近代的な知見を表現する熟語としたという共通の歴史をもつ。その際に、読み方も「呉音」から「漢音 に変わるのが通例だったようだ。

その意味で、同じ漢字で読み方によって意味が異なる言葉といっても、「人気」(にんき/ひとけ)、「上手」(かみて/うわて/じょうず)「色紙」(しきし/いろがみ)、「工場」(こうじょう/こうば)などの、音読み/訓読みの別や、当て字などによるものとは、成り立ちを異にすると考えるべきである。思いのほかにヘビーな言葉なのだ。

 

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2016年12月 4日

偽ニュースに騙されて、シェアなんかしちゃわないように

グーグルやフェイスブックが偽ニュース対策」という日経の記事を読んで、「ふぅん、そうなんだ」と思っていた。確かに近頃、SNS で「それ、ホントかよ!」と叫びたくなるような怪しいニュースを知り合いがシェアしちゃったってことが度々あり、「ヤバいなあ」と思ってはいたのである。「おいおい、あれ、削除しとくほうがいいよ」と、メールで注意することもあった。

Fakebook

米国大統領選挙直前に、「ローマ法王がトランプ候補を推薦へ」というとんでもないガセネタが Facebook に表示されたことがあって、偽ニュースは大きな問題になっていたようなのである。しかしこんなアヤし過ぎるニュース、まともに信じる方がおかしいと思うがなあ。

そしてまた最近「Facebook が嘘ニュース検出機能をテストしている」というニュースが流れたが、これもまた偽ニュースだったらしい(参照)。ここまで来るとお笑いである。このニュースの真相は、Google Chrome と Mozilla Firefox に搭載可能の "BS Detector" という拡張機能のことを早合点して報じてしまったようなのだ。

"BS Detector" というのは、Facebook に投稿されたリンクをチェックし、胡散臭い Web サイト へのリンクを検出したら警告を表示するという機能をもっているらしい。要するに、「そのニュース、出所が結構アヤシいですよ!」と知らせてくれるものだ。

こうしたプラグインがなくてもアヤシいニュースに騙されて拡散しちゃうなんてことをしないように、NewSphere は次の点に注意するように呼びかけている。(参照

  • 投稿日、いつの出来事か確認する。再編集の可能性を考える。

  • 発信元の他の記事を確認する。

  • サイトデザインやドメイン、免責事項や著作権の記述など、サイトをよく確認する。

  • 事実確認のサイトで情報の真偽を確認する。

  • 信頼できる大手メディアのサイトで同じ事件・事象が扱われているか確認する。

  • 類似画像検索サービスで記事の写真と似た写真の記事を検索する。

  • ユーモアにあふれ、欲求充足や親近感に富む記事こそ注意。

7番目の 「ユーモアにあふれ、欲求充足や親近感に富む記事こそ注意」という項目に、「ふむふむ、それなんだよね」と思ってしまう。そういう記事って、つい騙されてシェアしちゃいたくなるみたいなんだよね。

「こんな記事をシェアして、皆にも紹介したくなる俺って、かなりいいやつでしょ!」と言外に言いたいみたいなのが、結構目に付いてしまうのだよ。危ない危ない。

 

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2016年12月 3日

自転車の 「傘さし運転」 はやめようね

何ということか、奥歯が欠けてしまってギザギザした部分が舌に当たり、痛くてたまらないので、ほぼ 1年ぶりで歯科医にかかった。ただ今回書くのは、還暦過ぎて歯が脆くなってしまったわびしさについててはなく、自転車の「傘さし運転」 についてである。

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一昨日の昼前の雨上がり、歯医者に着いて自転車置き場をみると、ママチャリが 2台並んでいて、どちらも雨傘付きで駐輪してある。右側の自転車のハンドルにはビニール傘がひっかけられ、左側のカゴには折りたたみ傘が入っている。どちらの自転車も、「傘さし運転」でここまで来たものと見える。

待合室に入ると、2人の 70歳過ぎと思われる女性(つまり、おばあちゃん)が椅子に座って順番を待っていた。傘さし運転をしてきたのは、この 2人のようだ。いくら元気なばあちゃんでも、これはやっぱり危ない。

そもそも自転車を漕ぎながら傘なんかさしたところで、結局のところ濡れることは避けられない。よほど濡れたくないと思ったら傘を前傾させることになるが、それだといくらビニール傘でも視界が遮られて危ない。要するに自転車の傘さし運転は、危険を冒してまで挑戦するほどの意味がない行為なのだ。

濡れたくなかったら雨具を着用すればいいが、透湿性のない防水素材だと、内側から発する汗が凝結して、結局のところ濡れてしまう。つまり雨の日に自転車を漕ぐのは、少しは濡れてしまうことを覚悟の上でなければならない。

それにしても、日本人は雨傘好きである。自転車に乗る時にまで、大して役にも立たない傘さし運転をするというのは、よっぽど「雨が降ったら傘をさすもの」と思い込んでいなければできないことだ。そんなタイプの人というのは、一滴でも雨が降ったら傘をさすのである。

私なんか傘をさすのが案外嫌いで(というか、面倒くさくて)、折りたたみ傘をいつもバッグに常備しているくせに、なかなかさそうとしない。「体は熱があるから、濡れてもすぐに乾くけど、傘はなかなか乾かない」なんて言って、結局ささずに済ませようとする。ちなみにいつも傘をバッグに入れているのは、「今日は傘が必要かなあ」なんて考えるのが面倒だからである。我ながら、よほどの不精者だ。

誰かと一緒に歩いていると、どうってことのない雨でも相手がすぐに傘をさし、こちらにまでさしかけて相合い傘を強要してくることが多い。そんな場合はしょうがなく、「いえいえ、私も持ってますから」と、傘を取り出すことになる。相手は「なんだ、持ってるんならどうしてささないんだ」なんて、不思議そうな目でこちらを見るのだが、とにかく面倒なんだからしょうがない。

私としては歩いている時でさえ面倒でさしたくないものを、どうして自転車に乗る時にまでさしたがる人がいるのかなあと、不思議でしょうがないのである。

いずれにしても自転車の傘さし運転は、5万円以下の罰金に相当する交通違反だし、命の危険にまで関わること(参照)だから、良い子と良いおばあちゃんは、本当にやめとこうね。

 

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2016年12月 2日

タラバガニの値段が高騰しているのだそうだよ

タラバガニの漁獲量が減り、値段が急騰しているのだそうだ。そんな中、ラジオショッピングなどでは「お正月にはおいしいプリップリのタラバガニをたっぷり食べたいですよね。そこで、1kg 2万円のタラバガニを、本日に限り、2kg 2万円で提供します!」なんてプロモーションを展開している。私なんか、「それでも高すぎるなあ」と思ってしまうのだが。

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タラバガニの漁獲量が減っているのは資源が枯渇しかけているからで、最大供給国ロシアからの輸入も密漁取り締まりによって激減しているらしい。普通に考えれば、資源が枯渇しかけているなら食うのを控えて増加に転じるのを待てばいいということになりそうなものだが、人間の業というのは浅ましいもので、それでもなんとかたっぷり食いたいと願うもののようだ。

私なんか、余計なものを食うのは面倒くさいと思うところがあって、「タラバガニの値段が高騰している」なんて聞けば、「それなら食う理由がなくて、面倒がないからありがたい」と感じてしまう。メロンに関してもアレルギーがあって、昼間に食うと夕方過ぎまで口の周りが痒くてたまらなくなるから、逆に「アレルギーという免罪符のおかげで、高いものを食わずに済んでありがたい」と思っている。

同様に、マグロやウナギが資源枯渇の危機にあるというので、「だったら高いものを食わずに済んでありがたい」と、喜んで割り切れる。それで 3年以上前に「当面、ウナギとマグロは食わないことにする」と宣言している。

決して食うのを我慢しているわけではなく、「面倒なものを食わずに済むありがたさ」の方が勝っている。今年正月の記事、"「ご馳走を食わない」 というポリシー" で端的に書いているように、私は要するに、過剰なご馳走を食うことに苦痛を感じてしまうタイプなのだね。

そうでなくても、人間は何を食うかということにもう少し理性的であっていい。キリストは「山上の垂訓」で、「何を食ひ、何を飮まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと體のことを思ひ煩ふな」(マタイ伝 第 6章 25節)と語ったわけだが、「面倒なものは食わない」と割り切りさえすれば、少なくとも食い物で思い煩うことからは解放される。

旨いものや珍しいものを追い求めるのは、いくら「グルメ」として取り繕おうが、突き詰めれば餓鬼道である。いくら旨かろうが珍味だろうが、面倒な事情にまみれたものは食わずに済ませたい。その方がずっと楽に生きていける。

 

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2016年12月 1日

ショートカット・キーは誰でも使えるってわけじゃなかった

PC を使って作業する際に、ショートカット・キーを使うと効率がものすごく高まるというのは誰でも知っていると思っていたが、実際に使っている人は決して多くない。周囲を見渡してみても、5人に 1人もいないんじゃないかという印象である。

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PC の世界には便利なショートカット・キーがものすごくたくさんあって、それを全部知っている人なんて極々少数だろう。私にしても知っているのは 20に満たないんじゃないかと思うが、それでも知っているのといないのとでは、作業効率に天と地ほどの差が生じる。

最も頻繁に使用するのは、「command (Windows の場合は Ctrl)+ C」 と 「command (Windows の場合は Ctrl)+ V」 のコピペの操作である。前者がコピーで、後者がペースト(貼り付け)だ。いちいちマウス・クリックでコピペするのが死ぬほど面倒に感じられるほど、指先にしみついた動きになっている。他は何にも知らなくていいから、この 2つだけは知っておくといいよと、人にも勧めている。

ところが、いくら教えてもショートカット・キーの使えない人がいると、最近初めて知った。

先日、知り合いに上述の 2つのショートカット・キーを教え、「とりあえず、実際にやってみて」とやらせてみたが、彼はどうしてもできないのである。コピペするために、マウスでコピーの範囲を指定させた上で (彼のマシンは Windows PC だったので)「Ctrl + C」をやらせると、最初は左手の人差し指で「Ctrl」、右手の人差し指で「C」 、つまり両手を使って押そうとした。

「だめだめ、右手のマウスでコピーの範囲や貼り付け先を指定しつつ、左手だけでショートカット・キーを押すからサクサクできるんであって、いちいちマウスから右手を離してたら意味ないよ」と、左手だけでやらせてみる。するとどうしても「Ctrl」キーを確実に押すことができず、画面上では範囲指定した文字列が空しく「c」の 1文字に置き換わるだけだ。何度やっても同じことで、こっちまでがっくり疲れる。

ここで初めて、私は自分が「Ctrl」キーを左手小指で押していることに気がついた。私は PC に触るより先にギターを弾いていた人なので、左手の小指は元々苦もなく自在に操れる。しかし彼がそれを真似ようとすると、小指に力が入らず、「C」のキーだけを押してしまう結果になる。

「小指が使いづらかったら、中指と人差し指の 2本を使うのでも何でもいいから、やってごらん」と助け船を出しても、長い中指で手前の 「Ctrl」 キーを押しつつ、人差し指をその先のキーに伸ばすという動作がどうにもやりにくいようで、「指がつってしまいそう」と言う。そして 「こんな不自然な指の動きを強制されるぐらいなら、マウスを使う方がずっと手っ取り早い」と頑強に主張する。

彼は決して不器用な男ではないのだが、ショートカット・キーの打鍵だけはどうしてもスムーズにできないようなのである。

ここで私は「なるほど!」と合点した。ショートカット・キーは、タッチタイピングができるぐらいのスキルをベースにしないと、かえって時間がかかるのだ。ましてや普段のタイピングでも両手の人差し指しか使っていないような人に「ショートカット・キーは便利だよ」なんて言っても、片手で 2つのキーを同時打鍵することすらできない。

インターネット上では「ショートカット・キーを覚えると作業効率が格段に向上する」などと、お気楽に使用を勧めるページがいくらでも見つかるのだが、どんなに勧められても、「はい、そうですか」とすぐにできる人はそう多くないのだ。この年になって、それに初めて気がついた。それまでは、「なんで皆使わないんだろう?」と不思議に思うばかりだったのだ。

最近のオフィスワークは PC を使うのが前提みたいなものだから、仕事の速い人はサクサク気持ちよくこなすが、遅い人はいつまで経っても、側で見ていてイライラするほどトロいままだ。その理由の一端は、こんなところにもあるとわかった。

 

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