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2017年1月に作成された投稿

2017年1月31日

「ニフティ」 の "N" は、「ノジマ」 の "N" になるのか

"nifty ニュース" が 「富士通、ニフティのコンシューマー向け事業用をノジマに売却すると発表」 と、他人事みたいに伝えているが、いやはや、こちらとしてはビックリだ。なにしろ私は、自分のサイト 「知のヴァーリトゥード」 もこの ”Today's Crack” も、ほかならぬ 「ニフティのコンシューマー向け事業」 を利用して運営しているわけだからね。

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ニフティ(@nifty)は元々は日商岩井(現・双日)と 富士通の合弁で創業したので、日商岩井の略称である "NI" と富士通の頭文字の "F" を取って命名されたわけだが、これからは頭文字が「ノジマ」の "N" になるのか。ノジマって、家電量販店としてはケーズ電気に次いで国内 6位の規模なんだそうだが、私としてはあんまり馴染みがないのだよね。

プレスリリース(参照) を読む限りでは、利用者側にとっての変化はとくにないようで、昨年の今頃の @homepage から LaCoocan への移動(参照)みたいな面倒くさい事態にはならずに済むみたいなのである。2年続けてうっとうしい移転作業をしなくて済むようで、その点では少しほっとしている。

それにしても私は、NIFTY-Serve 時代(つまり「パソコン通信」と言っていた時代)からのニフティ・ユーザーなので、この世界の移り変わりにはずいぶん長く付き合っていることになる。英語としての "nifty" という単語は「粋な、便利な、気の利いた」といった意味なのだが、実感としては、文字通りの「粋で、便利で、気の利いた」サービスの恩恵には未だかつて浴したことがない。

ニフティって、富士通、日商岩井という大企業の体質を受け継いできているようで、安定はしているが小回りがきかないというか、ちょっとどんくさいイメージがあるのだよ。ノジマというもろに消費者向けの業態の会社の子会社となったら、今度こそ "nifty" なサービスを受けられるかなあ。

 

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2017年1月30日

SugarSync がつながらない!

外部の仕事でプレゼンをする時、PC を使わなくなって久しい。2013年 4月の「iPhone でプレゼン」という記事で、Lightning - VGA アダプタというものを買ったので、「プレゼンテーションにも iPhone だけでいける」と書いているから、iPhone でプレゼンするようになって、2年半以上は経っている。

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この記事には、その前からプレゼンには iPad を使っていたと書いているから、とにかくプレゼンごときに PC なんか使わなくなってから 3〜4年以上は経っていることになる。PowerPoint ファイルの作り込みにはもちろん PC を使うが、実際のプレゼンにまで使おうとは思わない。

理由は簡単。PC は持ち運びが面倒だし、iPhone ならピンマイクを付けて動き回りながらプレゼンできるからだ。ワイヤレスで iPhone をプロジェクターに接続できたらどんなに楽だろうと思っていたが、既にそれも可能な世の中になったようだ。まあ、ワイヤレス接続のプロジェクターはまだ少ないので、アダプターは持ち歩いているが。

ところで先日ある仕事で、普段のように iPhone を使ってプレゼンしようとして、ちょっと焦りまくったことがある。いつもは PC で作り込んだ PowerPoint ファイルを iPhone 用の Keynote ファイルにコンバートし、それを iPhone の中に保存して出かけるのだが、その日はどういうわけかその作業を忘れていた。

仕事先に向かう途中でそれに気付いたのだが、「まあ、いいや、SugarSync でアクセスして読み込んじゃおう」と思ったのである。SugarSync というのは、ファイルをクラウドに保存して、いつでもアクセスできるようにしてくれるサービスで、これのおかげで、どこにいても自分の PC で作り込んだファイルに自由にアクセスできる。

この日も、軽い気持ちで自分のクラウドにアクセスしようとしたのだが、どういうわけかいつまで経っても自分のデータが表示されない。延々と待たされる。「一体、どういうことなんだ?」と焦っていると、「回線がデータにアクセスできません。しばらく経ってからお試しください」みたいな表示に切り替わった。何度トライしても同じ表示になる。

「なぬ !?」である。やばい。この接続の不具合が長引いたら、会場に出向いても、せっかく作り込んだプレゼン・ファイルが映し出せない。引き返して PC を持ってくるにも時間が足りないし、一体どうしたらいいんだ?

運を天に任せて会場入りし、改めて SugarSync にアクセスしてみると、こんどは接続がうまくいって、自分の作ったファイルを iPhone 内に取り込めた。やれやれ、安心である。力がどっと抜けた。

教訓。クラウド・サービスというのは、いつもまともにつながるとは限らない。稀なことだろうが、つながらなくなる時もある。そんな時でも焦らないように、当日必要なファイルは、ちゃんと端末に入れて持ち歩くことだ。

 

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2017年1月29日

ストロベリーの「ストロ」 はどういう意味ですか」という質問

偶然に「ストロベリーの『ストロ』はどういう意味ですか」という質問が Yahoo 知恵袋に 3度も寄せられているのを知って唖然とした(参照 1参照 2参照 3)。元の英語の綴り(strawberry)をみれば、「ストロ」は "straw" (ストロー = 麦わら)であることが一目瞭然なのだから、こんな質問が出ること自体、「知の劣化」と言われても仕方がない。

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ちょっと調べさえすればわかることをすぐに他人に聞きたがるやつに対して、ネット界隈では「ググれ!」の一言で対応することが主流になっている。この言葉の後ろには往々にして「カス!」の付けられることが多いらしく、「ググれ、カス!」というのが定型句になっていたりする。

ただ「ストロベリーの 『ストロ』 は……」 に至っては 「ググれ」以前の問題で、「辞書引け、辞書!」というほかないような気がする。しかしこんな手合いだと、国語辞典で「ストロ」を引いてみて、「そんな言葉、見つかりませんでした」なんて言い出す可能性大だから、ちょっと始末に負えないかもしれない。

とはいえこの質問に関しては、「ストロ」は ”straw" で 「麦わら」 のことですよと答えて、それで済むなら話は簡単だ。「ああ、そうだったのか、ストローで麦わらか!」となって、フツーはそれで十分だと思う。

しかし私みたいに「知りたがり」の病がちょっと重症化していたりすると、「どうしていちごが、麦わらと関係あるのか?」なんて食い下がりたくなる。こうなると、話はちょっとややこしくなるようなのだ。

「語源由来辞典」 によると、「地を這い広がった姿が麦わらに似ているから」とか「果実の表面にある小粒の種子が麦わらの切れ端に似ているから」とか言われているらしいが、「実際のところ解っていない」ということのようだ(参照)。確かに、どちらの説も「こじつけ臭さ」が強すぎて、「一体どこが似てるんだ?」と突っ込むことすら馬鹿馬鹿しいレベルだ。

ところが、Yahoo 知恵袋に新しい説が見つかった。引用してみよう(参照)。

英名の「strawberry」の「straw」は「麦」ではなく、「あちこちに散らす、一面を覆う」を意味する「strew(strawの古語)」が語源で、ランナーを伸ばして繁殖する様子を表しているそうです。また、2002年 1月 13日のNHK 「日本人の質問」 では、ランナー自体を麦わらに見立てたという説が紹介されていました。

確かに、"strew" という言葉は「(砂、種などを)まき散らす、振りまく」という意味で、「ランナー」というのは「親株」から伸びる「子株」のことらしく、家庭菜園インフォパークというサイトには「【簡単!イチゴの子苗取り】収穫後のランナーから新苗を作る方法」というページがある(参照)。

そしてこの「ランナー」というのは日本語では「匍匐茎(ほふくけい)」というらしく、これをキーワードに引き返してみると、Wikipedia に英語では "stolon" (ストロン)という(参照) とあった。下に引用する。

走出枝(ランナー/Runner)  と呼ばれる場合もある。厳密には匍匐茎(ストロン)と走出枝(ランナー)は異なる物であるが、実際上、両語を明確に区別して使用される場面は少ない。

匍匐茎が「ストロン」というと、じゃあ、「ストロベリーの語源はこっちの『ストロン』なんじゃないの?」と言いたくなるかもしれないが、カタカナで書いたら似ていても、"straw" と "stolon" は最初の "st" 以外はまったく別の発音なので、原語を話す人々にとっては日本人が思うほど似た言葉じゃない。ここは慎重にならざるを得ない。

まあ、”strew" から来たとみるのが一番近そうだが、決定的な説ともいえず、語源は「よくわからん」としておくのが無難だろう。

 

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2017年1月28日

ヤマダ電機のマーケティング

ヤマダ電機からメールが来た。"【御確認下さい】ヤマダ電機のレシート保証書がまとめてケイタイ会員証に更新されました【ヤマダ】" というタイトルで、本文には "<2008年以降>ヤマダ電機でお買い物いただいた商品の『レシート保証書』がケイタイ会員証にまとめて【保存・更新】されました" とある。

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私はここ数年、ヤマダ電機で買い物をしたことがない。山形県酒田市の実家近くには、家電量販店はヤマダしかなかったので、帰郷の折に仕方なくちょこちょこ買ったことはあるが、近頃は同じ国道沿いにケーズ電気ができたので、すっかり遠ざかっている。

そしてこのメールが、なんとなくアヤシい雰囲気を漂わせているのである。初めはすっかり新手のスパム・メールかと思ってしまった。なにしろ「ご確認下さい」というタイトルで届くのはほとんどスパムと、あり余るほどの経験で知ってしまっているしね。

まず差出人を確認すると、当然ながら「ヤマダ電機」と名乗られているが、そのメルアドは "noreply@tpgaw.jp" となっている。"yamada" という文字がないのだから、フツーは「こりゃ、手の込んだスパムかな」と思ってしまう。念のため調べてみると、一応ヤマダ電機のドメインには違いないようなのだが(参照)、どうして自ら好んでこんなアヤシく見えてしまうやり方をしているのだろう。

さらに画像にもあるとおり、「お持ちの保証書を確認する ↓↓↓」などのリンクがやたらと多い。アヤシいページに誘導するスパムメールと同じような手口に見えてしまい、リンク先の URL にも、"yamada" の文字は全然見当たらないのだから、クリックするのがためらわれる。

とにかく、差出人がアヤシく見えてしまうメールで、これまたアヤシく見えてしまう URL のページにさかんに誘導しようとしているのだから、警戒するなという方が無理というものだ。せっかく「レシートと保証書がネットに保存されて、いつでもアクセスできる」という便利なサービスを始めても、第一歩で「アヤシすぎ!」と思われてしまっては、元も子もない。

私は 1年半前に「ヤマダ電機とイオンの苦境の原因」という記事の中で、ヤマダ電機について "いくら地方の店とはいえ、家電量販店で貧相なパソコン売り場のすぐ隣にスナック菓子や清涼飲料水の売り場があるのを見たら、誰だって「この店、大丈夫か? 気は確かか?」と思う" と書いている。

ヤマダ電機っていつも自然に「アヤシく、ダサく、ドンくさく」見られてしまう運用をしてしまっているような気がするのだよね。

【1月 31日 追記】

"tpgaw.jp" というドメイン・ネームの "tpgaw" というのは、どうやらケータイで「やまだから」と打つ場合、アルファベットだとこうなるということらしい(参照

そんなことで、こんなアヤシげなドメインを取得するとはね。やれやれ。

 

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2017年1月27日

米、メキシコ国境の壁の建設が始まってしまうのか

米国のトランプ新大統領が、メキシコ国境に壁を建設するという大統領令に署名した。これで実際に壁は建設されることになるのだろう。考えるだに馬鹿なことをするものである。こうなったら彼が大統領でいる 4年の間に壁の建設は完了せず、次の大統領が工事途中の壁をさっさと撤去してくれるように望む。

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メキシコ国境に壁を建設するなんてことが非現実的なのは、メキシコが「払わない」と言い、トランプが「メキシコ産品に 20%の関税を課して払わせる」と言っている費用の問題だけではない。環境的な見地からも悪影響が懸念されるし、実際の建設工事が始まったら、複雑な地形による困難さなど、多くの問題が浮上する。

まず壁建設により、砂漠の繊細なエコシステムが破壊されることが懸念される。ただでさえこの地域に生息する野生動物の多くが絶滅に瀕しているというのに、壁によって自由な移動ができなくなったら、食料やパートナーの確保が困難になり、絶滅の可能性がさらに高まる。

合衆国魚類野生生物局の 2016年のレポートによると、壁の建設により、絶滅危惧種 111種、渡り鳥 108種、4つの禁猟区および魚卵孵化場、および数え切れないほどの湿原に影響があるとされている。一度失われた環境は、それを取り戻すのに何倍もの時間がかかる。

また、壁さえ作れば密入国が防げるというわけではない。常に監視し続けなければ、壁を乗り越えるぐらいのことはそれほど難しくはない。3200km にも及ぶ壁全体を、どうやって見張り続けるというのだ。結局のところ、野生動物の自由な移動を妨げるだけのものになってしまう。

元々の地球には、国境なんていう線は存在しない。それは人間が勝手に作ったものだ。それは観念として存在し、物理的なものではないのだが、それを無理矢理に物理的な壁という形で固定化してしまおうというのは、意味のあることとは到底思われない。壮大なる無駄遣いに終わるだろう。

 

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2017年1月26日

マルチ商法というもの

朝一番でクルマの運転をしながらラジオ・ニュースを聞いていると、リゾネットとかいう会社がマルチ販売で 3ヶ月間の業務停止命令を受けたという。「へえ、マルチ商法ってのは、まだ健在なんだなあ」と思い、帰宅してからちょっとググって見ると、今も昔も変わらず、「楽して儲けよう」というやつがいるらしいのである。(参照

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業務停止命令が出た後もこの会社のサイト (上の写真は、今どきバブリーなまでのトップページの画像)はしっかり生きていて、今回の件については一言も触れられていない。なかなかいい度胸をしている。おもしろいのは「リゾネット」というキーワードでググると、「リゾネットの勧誘を受けた」という体験談がブログなどで結構公開されていることで、「なるほど、こんな風にして会員を募るのか」と、興味深く読んだ。

マルチ商法というのは、大抵自分が勧誘されて会員になる時には、入会金とかなんとかの名目で、ある程度のまとまった金を払わされる。そして自分が勧誘を始めて「子会員」とか「孫会員」とかを作ると、自分の口座に結構な金が振り込まれ、その規模が膨らめば膨らむほど、自分は楽して金が儲かるという仕組みになっている。

実は私も半世紀近く前、田舎から上京して何もわからないまま都会生活を始めた頃に、どこかの喫茶店で会った調子のいいニイチャンに、マルチ商法に勧誘されたことがある。

詳しい内容はすっかり忘れてしまったが、手っ取り早く言えば、コンサートだかライブだかの運営をしている会社で、会員になれば毎月破格の値段でそのコンサートだかライブだかに入場でき、さらに自分が会員を増やして行けば、どんどん金が振り込まれるという、まさにマルチ商法の王道を行くような話だった。なんでも、5〜6人以上の子会員を持てば、左うちわで暮らせるという。

当時「マルチ商法に注意」なんていう情報はまだなかったし、そんな言葉すら知らなかったので、一応話を聞くだけは聞いてみた。しかし「楽して儲かるという話ほどアブないものはない」という常識に照らしてもアヤシすぎる話だし、たとえこの話が本当だったとしても、自分の友達に、よりによってそんな話に乗るようなバカが 5〜6人以上いるはずがないのである。それで、丁重にお断りしたわけだ。

この種の話を聞く度に思うのだが、真っ当な友だち付き合いをしている人間なら、こんな話を友人にもっていって、「俺の『子会員』になってくれないか」なんてことは言えるものではない。「お前、気は確かか?」と呆れられ、以後縁を切られるのが関の山というものだ。

ということは、こうした話に乗ってしまうのは、いつ縁を切られても構わないようなバカな友達が大勢いる連中なのだろう。まあ、別の言葉で言えば「軽薄なやつ」ということである。「類は友を呼ぶ」 というぐらいのものだから、軽薄なやつの回りには軽薄なやつが集まって、そしてその軽薄な付き合いの中で、マルチ商法というのは生き長らえているに違いない。

軽薄なやつに「心を入れ替えて真面目に生きろ!」と意見してもしょうがないから、自分たちの世界の中だけでマルチ商法をやって、そのうち潰れてしまう分には、こちらは全然構わない。しかしまともな人間にまで勧誘の手を伸ばして余計なストレスを強制するのは、甚だ迷惑だから止めて貰いたいものなのである。

 

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2017年1月25日

国民の 61%が 『坊ちゃん』 を読んでいるというのだが

私は 2013年 5月に 「漱石文学って、もっと読まれてもいいと思うのだが」 という記事の中で、「『坊ちゃん』 を読むぐらいは日本人の常識で、少なくとも 3人に 2人は読んでいるものと信じていた」 のだが、高校に入って 「クラスの半分もいないみたい」 と気付いたと書いている。

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ところが、ちょっと古い記事で恐縮だが、昨年 10月の毎日新聞の 「読書世論調査」 という記事の見出しに、『坊ちゃん』 は国民の 61%に読まれているとある。もしそれが本当なら、「少なくとも 3人に 2人は読んでいる」という私の中学校時代の思い込みはほぼ正しかったことになるが、にわかには信じられない数字だ。

毎日新聞の記事をきちんと読んでみてわかったのだが、『坊ちゃん』を読んだことがあるという回答が多かったのは、国語の教科書に載っているからということらしい。記事中から引用しよう。


「読んだことがある」 人の多い作品は、小中学校の教科書で取り上げられてきた。1906年に発表された「坊っちゃん」は小中学生向け国語、「アンネの日記」は 52年に日本語版が刊行され、中学生向けの国語や英語の教材に採用。「坊っちゃん」は現在も中学国語の教科書に載っており、国民的文学といえる。

なんだ、そうだったのか。私の使っていた中学校時代の国語教科書には 『坊ちゃん』 は載っていなかった(『アンネの日記』 は載っていたと思うが)ので、そんなこととは少しも知らなかった。しかし教科書に採用されているのは、『坊ちゃん』のほんの一部だろう。

どの部分が採用されているのかと思い、ググってみると、WKIBOOKS というサイトに 「中学校国語/現代文/坊っちゃん」 というページがあり、それによると、「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」という有名な書き出しから、坊ちゃんが松山に旅立つために汽車に乗ったところまでである。

こんな冒頭の部分だけ教科書で読んで「読んだことがある」なんて言う人は、こう言っちゃナンだが、ちょっと図々しい。『坊ちゃん』が実際におもしろくなるのはここから先のことなのだから、ぜひ最後まで読んでみることをお薦めしたい。

 

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2017年1月24日

中国観光局が APA ホテルをボイコットするなら

例の APA ホテル問題で、中国観光局が旅行業者に利用停止を求めているのだそうだ(参照)。まあ、そのくらいのことはしてもちっとも不思議じゃないだろうが、APA ホテル側としてはそんなのは覚悟の上なのだろう。

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最近はどこに行っても中国人観光客が多くて、フツーに考えたら、中国人が利用しなくなったらホテル側としては大きな損失につながると考えられるだろうが、この場合はどう出るかわからない。

というのは、最近は少しはマナーが向上しているようだが、それでも夜中に大声で話しながら廊下を歩いたり、部屋のドアを開け放したまま酒盛りをしたりする中国人がいるからだ。そんな騒音に悩まされなくて済むというなら、喜んで APA ホテルに宿泊する日本人が増えるかもしれない。

APA ホテルがそこまで読んで、部屋にオーナーの著作を置いているのかどうか、それは知らないが、中国人にボイコットされるのはデメリットばかりじゃないはずだ。中国人客は直前での宿泊ドタキャンも多いらしいから、マネジメント・リスクも軽減するだろうし。

とはいえ私個人としては、20日の記事で書いたとおり、これまで通り APA ホテルは敬遠し続けるつもりだが。

 

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2017年1月23日

これから我慢の 4年間

ドナルド・トランプが米国大統領に就任して、「世界は 4年間の我慢を強いられる」と思っていた矢先、ローマン・カソリックのフランシスコ教皇が、国境に壁や鉄条網を張り巡らせるという政策を批判する声明を発表した。内容的にはポピュリズム批判そのものである。(参照

1701223世界史は 「21世紀の初めの世界は、グローバリズムへの反動でポピュリズム台頭に直面した」と、振り返ることになるだろう。問題はトランプ大統領の 4年間を世界がどう捉えるかだ。

フランシスコ教皇は「ヒトラーは指導者の座を盗んだのではない。彼はドイツ国民によって選ばれ、そしてドイツ国民を破滅させた」と語った。米国民の半数が今後の 4年間でトランプを選んだことを後悔することになれば、破滅からは免れる。

しかしそれだけではない。米国の残りの半数も、民主党候補としてヒラリー・クリントンを選んでしまったことを後悔しなければならないだろう。どちらも安易に流されすぎてしまったのだ。他に人がいなかったわけじゃあるまいし。

まあ、とにかく、我慢し続ける 4年間というのは長いだろうなあ。間違ってもさらに 4年間なんてことにならないように祈りたい。というわけで、今日はこれでおしまい。

 

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2017年1月22日

「ちくわぶ」 というおでん種

恥ずかしながら、つい最近まで「ちくわぶ」という食い物を知らなかった。先日のラジオで話題になっていたので、妻に「ちくわぶって、竹輪のこと?」と聞くと、「ちくわぶは、ちくわぶでしょ」という答えが返ってきた。

 

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というわけで私は、生まれて初めて「ちくわぶ」という独立した食品があることを知ったのである。それまでは「ちくわぶ」という言葉を耳にしたことはあるが、それは魚肉系練り物の「竹輪」の幼児語だろうぐらいに思っていた。

あわてて Wikipedia に当たってみると、次のようにある(参照)。

ちくわぶ(竹輪麩)は、小麦粉をこねたものを茹であげた麩である。

東京(関東)ローカルの食材で、全国的には「ちくわぶ」という存在すら知らない人がいる。近年はテレビなどで取り上げられて知名度が上がり、全国チェーンの大手スーパーなどで真空パックの製品が取り扱われている。だが現在でも首都圏以外ではほとんど見かけることがなく、全国的には現物を見たことすらない人がほとんどである。

"東京(関東)ローカルの食材で、全国的には「ちくわぶ」という存在すら知らない人がいる" とあるのがやや救いだが、18歳で上京して以来、半世紀近く関東に暮らしているのだから、やはりちょっとショックではある。そういえば 20代の頃におでんを食っていて、ついつまんでしまい、そのモソモソした妙ちくりんな食感に「何だ、こりゃ?」と思った記憶がある。

今から思えば、あれが「ちくわぶ」というものだったのか。見るのも嫌というほどまずいわけじゃないが、金を払ってまで食いたいと思うようなものでは決してない。他においしいおでん種はいくらでもあるのだから、何が悲しくてあんなものを食わなければならないのだ。

ちくわぶの入っていないおでんがあっても、個人的にはまったく構わない。そもそも「ちくわぶ」という名称からして、「竹輪」の代用品としか思われないから、たとえこの世からなくなってしまっても、なくなったことに気付くことすらないだろうと思う。

念のために、おでん種の人気がどんな風になっているのか調べてみると、Softtrain という会社の「~おでん 4700人アンケート~」というページが見つかった。「好きなおでんの具の全国 1位は大根、2位たまご!」というタイトルには納得するが、2行目に「関東で好まれる具はちくわぶ、はんぺん」とあるのにびっくり仰天してしまった。

全国ベースの人気ベスト 5 は、「大根、たまご、こんにゃく、竹輪、餅入り巾着」と続き、ちくわぶはようやく 14位に顔を出す程度なのだが、関東だけに絞ると、このベスト 5 にはんぺんを加え、その次の 7位にランクされているではないか。これには驚きだ。関東を除いた地域では、ほぼ最低ランクに近いレベルだというのに。

なんとまあ、しらたき、がんもどき、さつま揚げ、つみれよりも、ちくわぶなんてものを好む関東人が多いというのである。関東ネイティブのおでんの好みって、一体どうなってるんだ。よっぽどおいしいものを知らないんじゃなかろうか。

とまあ、ちくわぶの好きな人には散々の暴言となってしまったかもしれないが、食の好みは人それぞれなので、お許し頂きたい。

 

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2017年1月21日

稀勢の里は横綱になれるだろう

暗くなった道をカーラジオを聞きながら家路を辿っていると、大相撲初場所で稀勢の里が優勝を決めたというニュースが入った。これで横綱昇進を決定づけたかもしれない。3年前に「稀勢の里は横綱になれない」と予言した(参照)私としては、不明を恥じるほかない。

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私が 3年前に稀勢の里を見限ったのは、下半身の弱さ故だった。四股を踏めば「悪い四股の典型」だし、腰を下ろして見合う時も素人みたいな腰高だ。とにかく、上半身の力強さに比べて腰回りが小さすぎるのである。いかにもバランスの悪そうな体つきだった。だから安定性に欠けて、負けなくてもいい下位力士にポロポロ負けていた。

大相撲中継を見るところでは、稀勢の里の四股の踏み方は今でもかなり腰高で、決して褒められたものじゃない。しかし腰回りのアンバランスなほどの小ささは目立たなくなっていて、「よほど下半身強化に取り組んだんだろうな」と思わせる変化が見られる。30歳を過ぎてこれほどの変化が現れるとは思っていなかっただけに、ちょっと驚きだ。

元々上半身の強さは抜群だから、下半身が安定すれば、序盤戦での取りこぼしも少なくなる。最近の勝率の高さはそれを証明しているだろう。3人のモンゴル人横綱の衰えが目立ち始めているのも追い風だ。

というわけで、3年前の「稀勢の里は横綱になれない」発言は撤回させていただくことにする。 ただ今場所も中日を過ぎてからすぐに腰が浮いてしまいがちなので、この欠点は完全に払拭されたわけではない。調子の良い時はいいが、やや体調が悪い時でもそれなりに安定性を確保できるかは疑問だ。

だから横綱になれても、名横綱になれるかどうかはちょっと悲観的である。それに横綱土俵入りの四股は、通常の四股とはちょっと違うけど、きちんと腰を入れてないとカッコ悪くなってしまうから、意識してもらいたいものだ。

 

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2017年1月20日

APA ホテルの印象

中国版ツイッター といわれる「微博(ウェイボー)」という SNS に、日本の APA ホテルの客室に「南京大虐殺を否定する本」が置かれているという批判的な記事が掲載され、それからというもの、ちょっと炎上気味になっているようだ。このホテルのサイトもあっという間にハッキングされた模様(参照)で、下の写真のように「システムメンテナンスのお知らせ」という画面が出っぱなしでまだ復旧していない。

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私としては、ホテルといえどもプライベート企業なんだから、客室にどんな本を置こうが勝手で(それに、フツーはそんなもの読まんし)、本が置いているだけで嫌というなら客の方でボイコットすればいいだけの話と思っている。ハッキングしちゃうなんていうのは、ちょっとやり過ぎだろう。

ただ個人的には、悪いけど「APA ホテル、ちょっとなあ。あの女社長 キモいし」と思っていて、これだけ毎月毎月、日本全国に出張の機会がある仕事をしながら、ホテルを予約する際には APA だけは避けている。今さらのように言っちゃうけど、まあ、及ばずながら前々からボイコットしているわけだ。

実は、APA ホテルには 1度だけ宿泊したことがある。もう一つのブログで和歌による日記みたいなものを書いているので、日時まで特定できる(参照)。平成 17年(2005年)の 8月 11日というから、もうすぐ暦が一回りするほど前のことだ。この日は京都府宇治市の企業を訪問し、その夜は京都祇園の APA ホテルに泊まったのだ。

祇園という立地だけで選択したので、意図して APA を選んだわけではく、さらに 12年も前のこととて詳細な記憶はないが、結構古い造りだったことだけは覚えている。何でも昔の「祇園ホテル」というのを APA が平成 12年に買い取って経営しているらしく、カーペットやカーテンも相当くたびれていた。まあ、いかにも祇園らしい気がして、何のことなく眠りにおちたわけだけどね。

APA はいろいろなホテルを買い取って運用しているらしいから、建物自体は新しいのから古いのまでいろいろある。全国各地で APA ホテルの看板に遭遇するが、統一的なイメージは全然ない。他のホテル・チェーンは曲がりなりにも一目見ればなんとなくどこのホテルかわかる造りのものが多いが、APA はイメージということについては「どーでもいーわ!」と思っているようだ。

これ、経営側にとっては確かに「どーでもいーわ!」という問題かもしれないが、宿泊客にとって「イメージが定まらない」というのは、ちょっと不都合である。ホテル関連の口コミ・サイトをみると、「〇〇の APA ホテルはよかったから、信用して △△でも APA ホテルに泊まったら、ひどかった!」なんていうのが結構多い。玉石混淆なのだね。

私が APA を避けるのは、「女社長がキモいから」というほかに、「泊まってみるまでわからないから」というのもある。繁忙期にはものすごく値段をつり上げるという評判なので、「これだけの値段を払うんだから、結構いい部屋だろう」という常識が当てはまらないみたいなのである。

経営者の政治信条は別としても、要するに「結局のところは顧客志向なんてしてないホテルなんだろうね」と思っているわけなのだ。

【追記】

それにしても、APA ホテルのサイトのシステム・ダウンが長引きすぎている気がする。15日にはダウンしていたはずだから、かれこれ 5日目で、どうも急いで復旧する気がないみたいなのである。公式サイトなんてどうでもよくて、楽天トラベルとか代理店とかから予約が入りさえすればいいってなわけで、「面倒がなくていい」ぐらいに思っているんじゃなかろうか。

 

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2017年1月19日

例の「聞き流す英会話」の CM に関する素朴な疑問

昨日の "パソコン教室と、「聞き流す英会話」" という記事の続編である。まあ、あまり上品な内容ではないが、CM に接する度につい心に湧いてきちゃうことなので、ここらで一度吐き出しておかないと健康によくないと思い、敢えて書いてしまう。

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例の 「スピードラーニング」 の CM についてである。プロゴルファーの石川遼選手も愛用なんだそうで、彼はこの教材のおかげで米国での活動にも不自由していないというのである。しかし私としては、あれだけいつも米国にいさえすれば、フツーは日常会話ぐらいはできるようになって当たり前というものだろうと思うのだよね。

彼が英会話に不自由していないとすれば、それは実践で鍛えたものと解釈する方が自然なんじゃないかなあ。少なくとも私なら、周り中が英語をしゃべっている中で、あえて「聞き流す英会話教材」なんて聞こうとは思わない。それよりも現地の人間と積極的に付き合えば自然に身につくだろう。

いやしかし、日本人というのは不思議な人種で、仕事で米国に赴任すると、現地で英会話のプライベート・レッスンを受ける人というのが大勢いるらしいから、もしかして石川遼選手も、英語の溢れる中で、ヘッドフォンでスピードラーニングを聞き流したりしているのかもしれない。ちょっと異様な光景のように思えるが。

もう一つの「素朴な疑問」は、いつも流れているラジオ CM に関してである。こんな内容だ。


アパレルの仕事で会ったアメリカ人に「英語ぐらいできるんだろうね」と言われ、 「ノー」と言ったら、「英語ができなくて何の仕事ができるんだ。お前帰れ!」と言われて傷ついた。

CM ではこれをきっかけに一念発起してスピードラーニングを始め、英会話を身につけたということになっているのだが、この「英語ぐらいできるんだろうね」という質問は、英語で聞かれたのか、日本語で聞かれたのか、よくわからないのである。

もし英語で聞かれたのなら、それを理解できたのだから、「ノー」と答えるのは論理的に矛盾している。だから日本語で聞かれたとしか考えられないのだが、それならば「できません」と言えばいいだけのことなのに、どうして「ノー」なんて答えたんだろうということになる。

それに相手のアメリカ人がそんなに流ちょうな日本語をしゃべるなら、日本語でやりとりすればいい。英語ができないぐらいで「お前帰れ!」なんて言うのは無茶苦茶な話で、初めからまともなビジネスをする気がなかったに違いない。いずれにしてもよくわからない CM である。

もうちょっと言ってしまえば、日本の「アパレルの仕事」というのは実は、知る人ぞ知る「ドメスティックな仕事」で、イメージに反して全然国際的じゃない。業界では密かに「まるドメ」(まるでドメスティック)と言われるほどのものである。アパレル業界周辺で 30年メシを食った私が言うのだから、間違いない。

英語ができないぐらいで米国人にこんなにまで口汚く罵倒されるとはリアリティがなさすぎて、できの悪い作り話というのがバレバレだ。

というわけで、私としてはつい教材自体を 「胡散臭いなあ」 と思ってしまうのだよね。悪いけど。

 

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2017年1月18日

パソコン教室と、「聞き流す英会話」

もしかしたら、私自身がまだその機会に恵まれていないというだけなのかもしれないが、パソコン教室に通って PC がバリバリに使いこなせるようになったという人と、例の「聞き流す英会話教材」だけで不自由なく英語で会話ができるようになったという人には、少なくとも未だかつて会ったことがない。

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パソコン教室に通ったという知り合いは、数人(いずれも 60代以上)いる。しかしそこで何を教えてもらったかと聞くと、「電源の入れ方・切り方、マウス操作の仕方、キーボード操作、お絵かきの仕方等々」だそうだ。その結果、メールぐらいはできるようになったようだが、そのメールにファイル(写真とか)を添付して送付する作業は、何年経ってもできない。

添付ファイルの送り方を教えると、その時だけは「ああ、そうか、なるほど」なんて言って、手順をノートに手書きでメモしているが、その日のうちにわからなくなってしまっている。というよりメモというアナログ作業に集中する過程で、PC 操作の実感と結びつかくなっているのだろう。

だから何度教えても、「デジカメで撮った画像をメールで送って下さい」なんて頼むだけ無駄で、実際に訪問して、デジカメの SD カードからコピーさせてもらわなければならない。彼らの「会報」作りなんか手伝わされると、大昔に逆戻りしたような気がする。

彼らは PC のハードディスクにはたっぷり空き容量があるのに、デジカメで撮影した画像を 10枚以上の SD カードで保存している。生きてる間は SD カードの画像ファイルが壊れたりしないことを祈るばかりである。

「こんなことならスマホの方がずっと楽ですから、PC は諦めて、その大昔のガラケーから鞍替えしたらどうですか?」と言うと、「いやぁ、今どきはパソコンぐらい使わないと」なんて返事が返ってくる。いやいや、あなた、使えてないからね。

同様に、例の「聞き流す英会話教材」で英語ができるようになった人というのも、寡聞にして知らない。パソコン教室の場合は「通ったことがある」という話は聞くが、「スピードラーニングをやった」という知り合いは 1人もいない。

あるいはこっそりとやってみて、そのうちに挫折してしまっているのは何人かいるのかもしれないが、そんな人は「挑戦してはみたんだけどね」なんて告白はしないのだろう。あれだけひっきりなしにマスコミで宣伝しているのに、それで成果を上げたという人を 1人も知らないのは、この世の七不思議である。

パソコン教室に通っても添付ファイルすら送れない知人が最近、「スピードラーニングをやってみようかと思っている」なんて言い出したので、「そんなものやっても、せいぜい道案内ぐらいしかできないと思いますよ」と答えておいた。

すると彼は、「いやいや、道案内できるようになるだけでも立派なものじゃないですか」なんてことを言う。

「その程度は、中学生英語でいけるはずなんですけどね」と言うと、黙り込んでしまった。うぅむ、また余計なことを言ってしまったかな。

本日の教訓は、「習うより慣れろ」である。

 

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2017年1月17日

「民意」 と 「支持率」

JNN 世論調査で、安倍内閣の支持率が 67%に上昇したことについて、「民意に反して支持率を集めている!!」 とした panama slim さんという方の tweet (参照) が、ネット上で 「なぞのいちゃもん、日本中が笑った」 と dis られまくっている。

 

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上記でリンクした先の netgeek というサイトでは、「一体何を言っているのか到底理解し難い。こんな短い一文で矛盾することができるとはかなりのギャグセンスの持ち主だ。ウケ狙いでやったのでなければもはや思考回路が正常に機能していないのだろう」と、散々な言われようである。

しかし、ちょっと冷静になって考えれば、「民意」が「支持率」にストレートに反映されないなんて、それほど珍しいことではない。つまり件の tweet は、そんなにまで寄ってたかって笑いものにするほどのことでもない。「思考回路が正常に機能していない」とは言い過ぎだろう。

そもそも「民意」とは、ちょっと考えればわかるように甚だ曖昧な言葉である。『大辞林』では「国民の意思。人民の意思」とされているが、そんなのは解釈によってどうにでもなるもので、「主観要素」が入り込む余地がたっぷりある。

一方「支持率」というのは、一応は統計的調査によって導き出された「客観数字」という体裁を取っている。人の数だけあっても不思議じゃない「民意」と、客観数字の「支持率」が一致しなくても、不思議ではない。さらに「支持率」そのものも調査方法によってバラツキの生じるのは毎度のことで、絶対的なものではない。

ということは、「民意」と「支持率」が一致しないというテキストが存在しても、そんなにまで鬼の首でも取ったようにあげつらうほどのものではない。あまりはしゃぎすぎてはいけない。今回の騒動は早く言えば、左がかった tweet を、右がかった人たちが dis りまくっているという構図に見える。

とはいえ、「民意に反して支持率を集めている!!」というのが、不器用なテキストであることに変わりはない。そして panama slim さんは後日、次のような補足的 tweet を書き込んでいる。(参照


多数意見ではない民意のほかにも、市民によらない市民運動。個人の多様性は押し付けても、ローカルな社会の多様性は認めないリベラル。日々変化する現実を見ようとしない進歩的知識人。自分で翻訳しつつ読まなければいけない言葉はたくさんあります。

問題の tweetは、「安倍内閣は、私の考える民意に反して支持率を高めている」と翻訳すればいいのだろうけど、後日の tweet にしても「翻訳 の必要度の高いテキストではある。気持ちはわかるけど。

 

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2017年1月16日

『イムジン河』 を遡る冒険

"『イムジン河』 物語" という本を読んだ。「"封印された歌" の真実」という副題が付いている。高校時代の友人が久しぶりにメールをくれて、この本を読んで 「歌の力はすごいと思いました」 と書かれていたので、その日のうちに Amazon で注文して読んだのである。

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この『イムジン河』という歌は、私が中学校 3年生の時に、今は亡きフォーク・クルセダーズの歌 (下のYouTube 参照) で注目されて日本中に知れ渡り、正式なレコード発売直前に、発売中止となった。当時は北朝鮮からのクレームがついたためとしか知らされず、まあ、裏にややこしい事情があるのだろうと思っていた。

何はともあれ歌としてはとても魅力的な作品なので、私は深夜放送で知ったメロディを採譜し、高校に入ってからもギターの弾き語りで歌っていた。いくら政治的に葬ろうとしても、生き残るものは生き残る。歌ってそういうものだ。このほど私にメールをくれた友人ともコーラスしたりしていたので、彼は自分の読んで感動した本を、いち早く私に知らせてくれたのだろう。

『イムジン河』 のレコード発売禁止事件の裏事情に関しては、後になってからいろいろなルートで聞いてかなり知っていた。北朝鮮で作られた歌ではあるが、本国ではほとんど忘れ去られ、在日朝鮮人を通じて日本でこの歌を知った作詞家の松山猛が、ほぼ忠実な訳詞の 1番に、自由に発想した 2番と 3番の歌詞を加えたものが、放送禁止になったフォークル・バージョンである。

その後、北朝鮮総連主導で、オリジナルに近い『リムジンガン』という歌が発表されたが、あまりぱっとしたヒットにはならず、多分「うたごえ運動」みたいなところで細々と歌われたのだろうと思う。タイトルが 2通りあるということからして、ややこしい歌なのである。

漢字では 『臨津河』 と書くらしいのだが、なにしろ朝鮮半島では今や漢字はマイナーな文字だから、言っても仕方がない。どうやら北朝鮮の発音に近いのが 「リムジンガン」 で、韓国の発音だと 「イムジンガン」 に聞こえるらしい。

私としては、オリジナルとはメロディと拍子に一部違ったところがあるものの、フォークル・バージョンの 『イムジン河』 の方が気に入っていて、もっぱらそれを歌っていた。下の YouTube で聞いてもらえればわかるように、『リムジンガン』 はちょっとご大層なのである。「将軍様」 のご威光を感じてしまうのだよね。

前世紀末からにわかに復活してメジャーな舞台でも歌われるようになったのは、フォークル・バージョンの 『イムジン河』 が圧倒的に多いのもむべなるかなである。こっちの方がずっと馴染みやすいのだから、こればかりはしかたがない。

メジャーな舞台で復活してからは、キム・ヨンジャが歌って注目されたりしたが、私は彼女のバージョンを聞くと、「うたごえ版 リムジンガン」 以上に息苦しくなってしまうので、かなり苦手である。タイトルは 『イムジン河』 としているが、メロディとリズムはオリジナルの 『リムジンガン』 だしね。やっぱりフォークル・バージョンが一番しっくりくる。

 

私は『イムジン河』という歌を歌う時、音楽と社会 (とくに政治事情) の関わりについて複雑な思いを抱いてしまう。この年になって 「政治には積極的に関わりたくない」と思っているのは、若い頃の『イムジン河』体験が少しは影響しているのかもしれない。

 

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2017年1月15日

ちょっとないほどの冷え込み

寒い! 天気図を見ると日本付近は等圧線が縦に走って、典型的な西高東低だ。夕べからしんしんと冷えてきて、朝起きて外に出ると、関東の平地ではちょっとないほどの冷え込みだった。

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田舎の山形県はかなりの大雪になっているようだ。庄内平野はそんなにどっかりとは積もらないが、ちょっと内陸に入ると、2メートルなんていう積雪になっているという。関東からはまともに行ける感じがしない。ヨーロッパはむちゃくちゃな寒さだというが、ここに来て日本も急に厳冬の様相を呈してきた。

今月は半ばに長崎に出張の予定がある。その頃には少しは寒気も緩んでいるだろうが、経験上、九州でも福岡、佐賀、長崎は、冬には案外寒いということを知っているので、油断がならない。それに来月は能登に行くことになっている。厳冬を避けて、二月中旬以降に日程を組むことにしよう。

 

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2017年1月14日

和式トイレが消えていく時代

2020年のオリンピックに向けた「東京都、トイレ洋式化に 37.6億円計上へ 17年度」というニュースに、「時代だなあ」と思った。都立小中学校、都営地下鉄のほか、多くの公共施設でトイレを洋式化するのだそうだ。

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私が 20代後半から30代の頃、つまり 1980年代は、今では信じられないかもしれないが、都内の百貨店でもトイレは和式ばっかりだった。当時の私は、なんとファッション関連の仕事なんてしていて(守備範囲は「ファッションそのもの」じゃなく、「ファッション業界」だったのだが)、しかも割と国際的なスタンスだったから、欧米のファッション関係者とも結構付き合いがあった。

あの頃は「コム・デ・ギャルソン」を初めとする「東京ファッション」が世界の注目を集めていた時期で、欧米のファッション・ジャーナリストやファッション・マーケティング担当者(ほとんど女性)が来日しまくり、私は彼女らの案内役をすることが度々あった。というのは、ちょこっと英語ができたからね。

で、一緒に東京のファッション・タウンや百貨店を廻っていると、彼女らもびしっとお洒落にキメているとはいえ、どうしたって途中でトイレに行きたくなっちゃう。何度も東京に来ている人は慣れているが、初来日なんていうケースだとこちらも気を使う。

彼女らの泊まっているホテルは当然にも洋式トイレだから問題ないが、和式ばっかりの百貨店などではかなり戸惑うらしいのである。さらにこちらは男なもんだから、その使い方をフランクに尋ねるのも憚られてしまうわけだよね。

でもまあ、全然放っぽらかしとくわけにもいかないから、私は「日本のトイレは、キャンプの時と同じだよ」と、さりげなく言うことにしていた。"Just like camping style" である。経験から言えば、これで大抵の場合は理解、あるいは何となく想像してもらえ、「何それ?」なんてことは一度もなかった。とくに米国人は、子どもの頃に大抵キャンプに行ってるみたいだし。

「欧米人は和式トイレで途方に暮れる」なんて言われるが、ちょっと大げさすぎる話だと思う。それはきっと、日本人が説明下手というだけなんじゃあるまいか。それに、人間は必要に迫られれば大抵のことは乗り越えられるのである。

 

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2017年1月13日

Windows PC の時代の終わり

iPhone Mania が 「対 Apple の Windows 優勢は 2017年に終焉を迎える〜調査会社予測」という記事を伝えている。この見出しは元記事の "Microsoft’s OS supremacy over Apple to end in 2017" (ComputerWorld)のちょっとぶきっちょな直訳だが、要するに Windows の出荷台数は今年、MacOS と iOS を合計したデバイスに抜かれるというのである。

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間の悪いことに、iPhone Mania の記事では何の手違いか、表示されているグラフが関係ないデータを示してしまっているので、元記事からグラフを拝借して上に表示しておいた。(念のために言うと、Windows PC は、既にずっと前から Android デバイスには完敗している)

2016年までは、グラフの茶色で表される Windows 搭載のデバイス (ほとんどが PC) が、ベージュの iOS と OS X(MacOS)のデバイス(つまり Mac と iPhone/iPad)を出荷ベースで僅かに上回っているが、今年は逆転し、その後も差が少しずつ拡大するとみられている。

その要因は、グラフからも明らかに読み取れるように、Windows 搭載 PC の出荷が減少してしまったことだ。一方、Apple のデバイスは 2012年から 15年までは増加しているが、その後はやや減少し、来年から再び緩やかに増加するとみられている。

つまり、Apple の Mac と iPhone/iPad が増えたり減ったりしつつも、長い目で見れば大きな減少はみられないのに対し、Windows PC は減少が目立つために、今年で逆転してしまうということのようなのである。Microsoft のマーケティングが PC に頼りすぎていて、それが失敗であることを如実に示している。

Windows PC の減少は今年で底を打って、その後は横ばいで推移するとみられているものの、出荷数は 2億 5000万台をやや上回る程度で、3億 5000万台近かった 2012年と比べると、5年間で約 25%も減少してしまうことになる。

私は 2014年の 7月に "「PC の時代」の「終わりの始まり」" という記事を書いた。本当に「PC の時代」は、あの頃から確実に終わりを迎えているのである。

私の回りには 65歳を過ぎて初めて PC に挑戦しようとしている人が何人かいるが、私は「悪いことは言わないから、止めときなさい」と言っている。今頃になって何のお遊びのつもりか知らないが、さして必要に迫られてもいない PC を始めようなんて、タイミングを逸しすぎている。

しかし彼らは言う。「いやぁ、今どきやっぱりパソコンぐらいは、ものにしたいじゃないですか」

私はさらに率直に言う。「そう思うんだったら、遅くとも 10年前に始めておくべきでしたね。こう言っちゃ悪いけど、あなたが今さら PC を始めても、スマホのレベルにすら達しないのは目に見えてます。無駄遣いは止めとく方がいいです」

「じゃあ、どうしたらいいの?」

「あなたの持ってるその大昔のガラケーを、iPhone に機種交換すればいいんです。どうせすぐには使いこなせないだろうけど、少なくともケータイとして使えて、メールぐらいはできるようになるだけましでしょ」

「いやぁ、あんなちゃっちいのより、パソコンでメールしてみたいんですよ。メールができるようになるだけでも十分じゃないですか」

「おぬし、全然わかっとらんな!」

どうせまともに使いこなせないなら、PC より iPhone の方がずっとストレスが少ない。それに下手に PC なんか持たすと、使い方がわからなくなるたびに電話で聞かれたり、プリンターの接続を頼まれたりするのがうっとうしいのだよね。

 

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2017年1月12日

庄内弁の 「さどけ」(潔癖症)という言葉を巡る冒険

昨日は庄内弁の「せやみ」について考察し、その語源は上方言葉の「かんしょやみ」ではないかという新仮説を立てた。「かんしょやみ」とは度を外れた潔癖症のことを言うらしいのだが、我が庄内ではそうした傾向を「さどけ」という。

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この「さどけ」というのはどうやらかなり地域限定の方言らしく、ネットで検索しても庄内以外の地域で使われているという記述が見当たらない。昨日の「せやみ」はちょっと検索しただけでが北陸から秋田までの広い地域で使われているらしいことがわかるので、エラい違いである。

「さどけ」はイメージで言えば、自分の家以外の洋式トイレでは、便座をトイレットペーパーなどでカバーしないと腰を下ろせないみたいな人のことである。まあ、上の写真はかなり極端すぎる例だが。

庄内には「さどけのびしょなし」という格言じみた言葉があって、「きれい好きで他人にはいろいろとうるさいことを言うくせに、自分自身はまったくだらしない」という意味で使われる。「紺屋の白袴」とか「医者の不養生」みたいなものだ。

で、この「さどけ」 の語源だが、これこそ昨日の「せやみ」以上の難物で、ググってみても何の手がかりも見つからない。念のため断っておくが、「サドッ気」とか、そっちの方の話とはまったく関係がない。

私としては、神経が敏感であることを示す「敏い(さとい)」という言葉に、「け」が付いたものと考えている。「け」は「もののけ」(物の化)」の「け」に通じ、異様な状態を示す。つまり「清潔/不潔という観念に敏感すぎる、フツーじゃない状態」ということだ。

ちなみに私の母は、潔癖症のことを「さどけのピー」と言っていた。この「ピー」が何を表しているのかは、今となっては謎である。母が生きているうちに聞いておけばよかったのだが、聞いたとしても多分、母自身もわかっていなかったんじゃなかろうか。

 

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2017年1月11日

「せやみ」という言葉を巡る冒険

庄内弁に「せやみ」という言葉がある。意味は「寒がり、ものぐさ」で、派生語として「せやみこぎ」がある。「こぎ」は、「馬鹿こくでねえ!」の「こく」の名詞形。意味は「寒くて囲炉裏やこたつから離れようとしない人のこと」(参照) だ。

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仮に「せやみ」と表記されるが、実際の発音は「しぇやみ/しやみ」に近く、酒田では「寒がり」の意味が強いので、私は「冷や身」が語源なのだと信じていた。ところが Web の世界の多くは、「背病み」が語源であるとしている。

『横手/方言散歩』 というサイト(参照)では、「せぼねやみ(背骨病) の略にて、負担を命ぜられたる場合に背骨に病ありと称してズルケル意味の語なり」という説を紹介している。しかし私の感覚としては、それはたまたま「せやみ」と標記してしまったことに引きずられすぎたもので、取って付けた感ありありの不自然さを覚える。

そんな中で最近、偶然に「かんしょやみ」という言葉を知った。大阪などの上方では昔から使われてきた言葉で、漢字は「癇性病み」。Weblio 辞書では「神経質、潔癖症などのこと。小さな事でも気になってしまう気質や体質」としている (参照)。

上方言葉は北陸を経て東北日本海側に伝播しやすく、「せやみ」という言葉は、まさにこの地域で使われる。そこで私は、この「かんしょやみ」の「かん」が落っこちて、「しょやみ」→ しぇやみ/せやみ」に変化したという仮説を立ててみた。

神経質な潔癖症はいろいろ面倒なことを言い立てて、ぐずぐずすることがある。そこでそんなやつのことを「せやみ」と言うように変化したのではあるまいか。布団から出たがらないので、「寒がり」というイメージも加わったのだろう。

言葉の意味というのは、案外簡単に変化するもので、例えば「お笑いぐさ」という意味の「笑止」が、我が庄内地方では「しょす」に変化して「恥ずかしい」という意味になり、米沢地方では「おしょうしな」に変わって、「ありがとう」という意味になった。「かんしょやみ」が「せやみ」になって意味も変わるぐらいのことは十分あり得る。

本日はサービスとして、庄内昔話を聞いていただこう。ちなみに動画のタイトルは 「せやみこぎ」 だが、聞いてみればわかるように、庄内弁の実際の発音は 「しぇやみこぎ」 になる。そして当然ながら私は、ここで語られる庄内弁は全て理解できちゃうのだよね。

 

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2017年1月10日

「名乗れることができる」 という妙な言い方

今朝、何気なくみていたテレビ・ショッピングで、「ハンガリー産の高級ダックダウン 90%使用の高級羽毛布団」 が取り上げられていて、その説明のナレーションで、「ダウンが 50%以上含まれていれば、羽毛布団と名乗れることができてしまうんです」と言っていた。90%という数字がハイ・スペックだと言いたかったのだろう。

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しかし 「名乗れることができてしまう」 というのは、明らかに誤用である。「動詞の可能形 + ことができる」というくどすぎる誤用は、近頃枚挙にいとまがないほどで、例えば「走れることができた」というフレーズでググると、19,800件がヒットする(参照)。トップにあの茂木健一郎氏の tweet (参照) が来ているのにはびっくりしたが。

こうした間違いはフリートークや Twitter など、ちゃちゃっとしゃべったり書いたりした時に、つい間違いがちなのかと思っていたが、テレビ・ショッピングのナレーションにまで登場したことに、ちょっとしたショックを受けた。これは「つい言い間違えた」というレベルではない。

日本語のプロであるはずのライターが平気でこんな原稿を書いている。そしてそれを読む段階で、ナレーターが間違いに気付けばいいのだが、何の疑いもなくそのまま読んでしまっている。これは「〜れることができる」という言い方が一般化してしまっているという、危機的状況を示しているんじゃあるまいか。

というわけで念のため書いておくが、「名乗れることができてしまう」は、正しくは「名乗ることができてしまう」あるいは「名乗れてしまう」である。これを 2つも組み合わせるのはくどすぎる。同様に「走れることができた」も、「走ることができた」あるいは「走れた」である。

いくら言葉は生き物で時代とともに変化するとはいえ、私はこの「動詞の可能形」にさらに「ことができる」を加えてしまう言い方が、気になってしかたがない。「走ることができることが可能です」と言っているようなもので、もっと言えば「四角い正方形」と言っているのと変わらない。この言い方が当たり前になってしまうようだと、日本語が危ないレベルに達しているんじゃないかと思ってしまう。

あるいは 「すべからく〜すべし」という慣用句みたいに、決まり切った言い方として定着してしまうんだろうか。ただ、この「すべからく」にしても「誤用のチャンピオン」みたいな言葉で、「全て」の洒落た言い方と思っている人が圧倒的に多い。「すべからく」と言いたくなったら、ぐっと堪えて「総じて」とか「ことごとく」とか「概して」とか言い換える方が身のためだ。(参照

ちなみに、例の羽毛布団のテレビ・ショッピングでは、「高級 『ダッグダウン』(『ク』 が濁音)を 90%使用」 なんて言っていた。「ダックダウン」(言うまでもなく 「アヒルの羽毛」 ね)を聞き違えたのかと思って、注意して聞いていたが、2度目も明らかに「ダッグダウン」と言っていた。「ダッグ」って、一体どんな鳥だ?

最近の放送業界の劣化は、かなりヤバいところまで来ているなと確信してしまったよ。

 

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2017年1月 9日

「毎年の紅白」 が 「一生に一度の成人式」 に置き換わった

今日は成人の日という祝日だったようだが、実は朝起きてニュースを聞くまで、そのことを知らなかった。そういえば、最近の成人の日というのは 3連休になるようにセットされていたのだね。私の仕事は世の中の土日や祝日とは関係ないので、どうもそのあたりの事情には疎くなる。

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元々成人式というものには興味がなく、「自治体による余計なお世話」と思っていたので、自分の時も当然ながら出席しなかった。当時の若い年代には今よりずっと反体制的なムードあったし、「そんなものに背広や振り袖なんか着てチャラチャラと出席するのは馬鹿しかいない」 と思っていた。

そんなわけで、1970年代の成人式なんて、本当に淋しい限りのものであったらしく、「成人式の出席を増やすために、豪華記念品を配る自治体が増えた」なんていうのがニュースになったことさえある。私なんか「モノで釣ってでも馬鹿を集めたいのかよ」と思っていたぐらいだから、今のように出席して当たり前みたいな風潮を目の当たりにすると、隔世の感がある。

共同通信が伝えた「日本法規情報」という東京の調査会社が実施した調査結果によると、約 7割の日本人が成人式に出席しているらしい(参照)。凄いなあと思う。昔の 「紅白歌合戦」 の視聴率みたいな数字だ。

昔は日本人全体が大晦日を紅白歌合戦を見ながら過ごすのが当たり前だったが、今は紅白の視聴率が 50% にも満たなくなった代わりに、20歳の連中が背広や振り袖を着て成人式に集まるのが当たり前になった。というわけで、「毎年の紅白」が 「一生に一度の成人式」に置き換わったのだと思うと、個人的にはとてもわかりやすい気がしている。

 

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2017年1月 8日

高級腕時計をもつ意味

「高級腕時計を持つ意味」というのが話題になったことがあり、ネットでググってみると、「高級腕時計は一流の証。選ばれし者のみが持つブランド15傑」というページがある。

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飛んでみると見るからにご大層でややこしそうな時計の写真が並んでいて、それを見ただけで「ああ、一流でなんかなくていい、選ばれし者になんかならなくていい!」と思う。本当に心の底から思う。

私の腕時計は、"Reguno" とかいうブランド (シチズンがやってるらしい) の安物である。メーカー希望小売価格みたいなものは 1万円以上するらしいが、ヨドバシカメラだかどこだかで、6,000円ぐらいで買った記憶がある。

安物ではあるが、ソーラー・バッテリーで動き、デザインだってそんなに捨てたものじゃない。前のが 10年近く使って壊れたので、同じ型を探して買った。訳知り顔に「高級品を末永く使う方が得だ」なんていう人がいるが、10万円の時計を一生使うのが 6,000円の時計を 5回買うより得だとは、なかなか思えないのである。

ましてや、数十万円とか百万円とかいう値段の時計なんて、日常的に身につけたいとは思えないし、眺めていたくもない。もしもらったとしても、どこか自分でも忘れてしまいそうなところにしまい込んで、絶対に使わないだろう。くわばら、くわばら。

実際、20歳の頃に金持ちの親戚にもらった高級万年筆は、一度も使ったことがない。持ち歩いたりしたら、絶対に 3ヶ月以内にどこかに置き忘れる。それで引き出しの奥にしまったままで、それはつまり「ない」のと同じことである。「ないのと同じ」なら、捨てるか売り払うかしたいのだが、どの引き出しにしまったかも忘れてしまって、処分しそびれたままでいる。

高級スーツにしても、私は持っていたとしても着る気になれないだろう。私は図体がデカい上にそそっかしいので、あちこちにぶつかったり引っかけたりして、よくかぎ裂きを作る。だから安物のスーツでも着るのが憚られて、ジーンズみたいな格好でいたいのに、ましてやアルマーニとかの高級スーツなんて身につけたら、肩が凝ってしょうがないだろう。

だから高級品はあったとしても絶対に使わないし、使わないものをしまっておくのはスペースの無駄遣いだから、たとえもらったとしてもありがた迷惑なのである。

私は本当に、高級ブランドとかいうものをもつ意味が理解できない類いの人間のようなのだ。

 

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2017年1月 7日

例の「高齢者の再定義」という提言の胡散臭さ

昨日の「そもそも 「日本老年学会」 って、一体何なんだ?」という記事の続編である。昨日は、例の「高齢者は 75歳以上から」という唐突なニュースが、実は政府肝いりと疑われるワーキング・グループによって作られたもので、「日本老年学会」という組織自体がそもそもアヤシすぎるということを述べた。

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上にあるのは、「社団法人 日本老年医学会」 というサイトに、お義理で仕方なくみたいに載っていた例の提言書(PDF)の、該当箇所を画像化したものである。そもそもこの提言書自体が、A4 でたった 2ページのどうでもいいような内容のものであることは、画像自体をクリックして飛んでみて、確認してみるといい。詳細な報告者は後日発表すると断り書きがあるが、どうせくどいだけの取って付けたようなものになるのだろう。

さらに驚いてしまったのが、「准高齢者/高齢者/超高齢者」という新提案区分の英訳である。それぞれ、"pre-old/old/oldest-old, super-old" という珍妙さだ。お医者さんたちの英語力って、この程度のものなのかなあ。

さらにお笑い草としか言いようのないのが、「この定義は主として先進国の高齢化事情を念頭においていますが、平均寿命の延伸と『若返り』現象が世界にひろがるようになれば、全世界的に通用する概念であると考えています」というくだりだ。こんな "oldest-old" なんていう珍妙な言葉が、全世界的に通用するのは、アニメの世界の話みたいな気がするわけだよね。

さらに、「超高齢者」(oldest-old, super-old)という概念の根拠が、「平均寿命を越えた 90歳以上とするのが妥当」という、これまたアニメ発想だったとは恐れ入った。そのうち平均寿命が 90歳を越えたらどうするつもりなのだろう。

というわけで、例の提言というのは真面目に取り上げるのが馬鹿馬鹿しいような代物と、私は言わせていただく。こんなものが今後政府に妙な形で利用されないように、その馬鹿馬鹿しさをしっかりと認識しておくことが必要だろう。

お上主導のワーキング・グループの提言なんて「初めに結論あり」で、胡散臭いものが多いのである。実は私自身もだいぶ前に、浮世のしがらみで複数のワーキング・グループに列席させられて、「なんなんだよ、こりゃ?」 とむかついたことがあるのだよね。

 

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2017年1月 6日

そもそも 「日本老年学会」 って、一体何なんだ?

日本老年学会という学会があるなんてことを初めて知ったのだが、この学会が、現在は 65歳以上とされる高齢者の定義を 75歳以上に引き上げることを提言しているのだという(参照)。私は今年の夏に 65歳になるので、晴れて「高齢者」の称号を獲得できるのを楽しみにしているのに、まったく余計なことを言うものである。

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この様子だと私は、今年めでたく「高齢者」と言われるようになっても、もしかしたら数年後にいきなり「准高齢者」なんて妙な地位に格下げとなり、75歳になって再び「高齢者」に復帰するということになるかもしれない。図らずもややこしい世代ということである。

そもそも 65歳以上を「高齢者」と呼ぶのは、法的根拠はないらしい。とすると、今回の老年学会のことさらな提言というのをほんのちょっとだけ深読みすれば、そんなに深々とほじくり出すまでもなく、将来的な年金支給年齢のさらなる引き上げのための地ならしとしか思われない。

なにしろインターネットでググってみても「一般社団法人 日本老年医学会」とか「日本応用老年学会」とかいうのは見つかるが、 「日本老年学会」なんて組織に関しては「第29回 日本老年学会総会」という 1年半も前の総会の告知ページが見つかるだけ(ってことは、この学会、総会を毎年開いてないのか?)で、学会の公式サイトなんて見当たらない。

「一般社団法人 日本老年医学会」のサイトには、トピックスとして「高齢者の定義と区分に関する提言(概要)を掲載しました」(今年 1月 6日更新記事)というコンテンツが、さりげなく載せてあり、それには今回の提言が「日本老年医学会」と「日本老年学会」から委員を出したワーキング・グループで練ったものとなっている。

しかし、だったらどうして報道には「日本老年学会」の名前しか出てこないのか。ニュースによっては「日本老年学会など」なんて主語になっているが、どうして「老年医学会」の方の名前はことさらに伏せられているのか。そしてこんなに大きなニュースになったのに、「老年医学会」のサイトでは、まるでお義理で仕方なくみたいな感じで、ひっそりとしかリリースを載せていないのはどうしてなのか?

まるで単なる思いつきみたいな提言が、(ちゃんとした一般社団法人の方をさしおき) 今どき公式サイトもないようなアヤシい組織を主語として、いきなりのようにこんなにもメジャーなニュースとして取り上げられるというのも。唐突すぎて不自然な話である。実はその検討母胎が 「ワーキング・グループ」の体裁だったということからしても、政府肝いりの「出来レース」の臭いがプンプンしてくるじゃないか。

そんなわけかどうか知らないが、「75歳にならなければ高齢者じゃない」という話の成り行きには、反発している人が多い。日頃は「年寄り扱いされるのはイヤだ」なんて言っていても、金が絡むと話が違ってくるようなのである。

 

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2017年1月 5日

昨年中に生き返っていた「モバイル Suica」

昨年 11月 4日に、iPhone アプリの「「モバイル Suica」を思いっきりけなしてしまった(参照)。確かにこの記事を書いた時点では、辛うじて Apple Pay に取り込むことだけはできたが、パスワードの認識すらしてくれず、ということは、クレジット・カードからのチャージができなかった。

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iPhone に取り込んだ時点で、元のカードの方は使えなくなってしまったので、JR の駅の券売機ではチャージできないが、辛うじてコンビニのレジでならチャージできるという。「一体何のために iPhone に取り込んだと思ってるんだ」とぼやきたくなるような状態だった。

これは多分、iPhone への登録が殺到して、JR のコンピュータがダウンしてしまったのだろう。私のように iPhone に取り込めたのはまだいい方で、ネットでは「登録すらできない」という声であふれかえっていた。

ところが昨年末のある日、チャージ金額がだんだん少なくなって、「今日か明日あたり、どこかのコンビニでチャージしなきゃいかんなあ」と思いつつ、iPhone を改札口の読み取り機にタッチして構内に入った途端、iPhone の画面に Suica を使って移動中であることを示す表示がピピッと現れた。同時にパスワードも生き返り、クレジットカードからのチャージが可能になったのである。

というわけで、11月の記事では 「1〜2ヶ月経って落ち着いた頃にもう一度トライしてみようかとも思っているが、あまり期待しないでおこう」なんて書いたが、実際には 2ヶ月足らずでまともに使えるようになったのだった。

まともに使えるようになってみると、モバイル Suica では、いつでもチャージ残高を確認できるので、降りる時になって突然「金額が足りません」なんて足止めを食らうこともなく、なかなか便利である。残高不足とわかれば、電車に乗っている間にでもピピッとクレジットカードからチャージできて、改札で止められなくてすむ。

交通系のカードでは、JR 東日本の Suica しか Apple Pay に対応しておらず、PASMO すら使えないというのが気の毒である。

【2022年 3月 6日 追記】

今さらながらで申し訳ないが、PASMO も 2020年 10月 6日から Apple Pay に対応 したようだ(参照)。私は モバイル SUICA だけで間に合ってるので情報が遅れてしまい、申し訳ない。それにしても、ずいぶん時間がかかったのだね。

 

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2017年1月 4日

禁煙がイヤなら、勝手に煙もうもうのままでいればいい

タバコのない五輪が微妙な状況に。完全禁煙はもちろん分煙についても異論が続出」 と、「ニュースの教科書」が伝えている。「厚生労働省が導入を検討している本格的な受動喫煙対策について、自民党内で反対意見が相次いでいる」のだそうだ。下のような広告で育ったじいさんたちが抵抗しているんだろうけど。

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東京オリンピックを前に、公共の場での原則禁煙を盛り込んだ「たたき台」が自民党内で検討されていたが、「小規模な飲食店から反発が大きく、対策が導入されるのかは微妙な情勢」という状況のようなのだ。分煙にすら反発しているというのでは、一体どこの国の話だと言いたくなる。

私としては 「だったら、どうしても全面禁煙や分煙に抵抗のある小規模飲食店は、煙草を野放しにしておけばいい」という考えである。個人の選択として、分煙すら行われない「喫煙可」の店には入らなければいいというだけの話だ。結果として煙草の吸える店は喫煙者ばかりになり、店内はもうもうの煙が立ち籠め、喫煙者すら敬遠するようになるだろう。

飲食店側が自己責任でそれを選択するというなら、勝手に自分の店の雰囲気を悪くして、売り上げを悪化させればいいだけの話だ。その挙げ句に潰れるなら潰れればいいし、雰囲気が悪いままで営業し続けるというなら、その道を選べばいい。まともな客は次第に離れてしまう。

私が昨年暮れにたった 1度だけ参加した忘年会は、中年過ぎの男ばかり 12人が参加したが、喫煙者は 1人もいなかった。もしかしたら 1人か 2人は煙草を我慢していたのかもしれないが、苦しそうな顔をみせる者は 1人もいなかった。

参加者の多くが喫煙者という飲み会には参加を見合わせたいところだが、実際のところ、最近はそんなのはほとんどない。同窓会などでも、喫煙者は片隅に追いやられ、それでも煙草に火を付けたりしたら、会場の外に追い出される。

「喫煙者の権利を蹂躙している」という声もあるが、所構わず煙草を吸う者の方が、非喫煙者のまともな空気を吸う権利を蹂躙していることに気付くべきである。さらに「俺は煙草を吸って余計に税金を払っているんだ」などと言い張る輩は、煙草が原因の病気に、煙草税以上の税金が投入されている事実を知るべきである(参照)。

その上で、度々述べることを繰り返させてもらうが、私は健康上の理由で医者に喫煙を止められたために禁煙したという人間を、内心軽蔑する者である。それまで他人の健康被害についてはずっと無頓着だったくせに、自分の命が危ないと知ったとたんに禁煙するというのは、甚だ「身勝手」な話である。

本来なら、「医者に止められて禁煙しました」 なんて、恥ずかしくて言えないはずのことではなかろうか。それを堂々と公言するのは、「私は他人は死んでもいいけど、自分だけは死にたくないという、とても自己中心的な人間です」 と言っているのと同じである。

 

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2017年1月 3日

尾道ラーメンは、申し訳ないが口に合わなかった

昨年暮れ、といってもまだ 1週間も経っていないが、広島県への出張で「尾道ラーメン」というご当地ラーメンを食してみた。ポリシーとしてなるべく肉食を避けている身としては、最近では 「ラーメンってチャーシューが付き物だからなあ」と敬遠気味なのだが、まあものは試しと、駅前の「たに」という店に入ってみたのである。

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尾道ラーメンに関しての予備知識はまったくなかった。だから出てきたものを見て、そのスープの色の濃さにまず驚いた。しょう油そのものの色に見える。チャーシューがやたら大きく、さらに「背脂ミンチ」と称されるらしい肉の脂身の小間切れがスープにたくさん浮かんでいる。麺は細打ちで縮れが少ない。薬味は青ネギ。

ここから先は悪口に聞こえてしまうと不本意なので、初めに断っておくが、決して「まずい」と言っているのではなく、私の好みには合わないというだけの話である。好きな人は好きなんだろうが、私個人としては正直言って「このラーメンのどこがうまいんだ?」とぼやきたくなった。

私はできれば魚介系のコクがあってなおかつあっさりしたスープが好みで、脂分はできれば少なくてギトギトしていない方がいい。麺は中太の縮れ麺が好みである。一番好きなのは生まれ故郷、酒田の「満月」のワンタンメン(参照)だが、佐野、喜多方、米沢系のラーメンは総じて旨いと思う。

要するに北関東から東北にかけてのラーメンならかなり OK で、やはり生まれた血筋は争えない。一方、西日本系のラーメンは決して「まずくて食えない」ってわけじゃないが、和歌山ラーメンとか博多ラーメンとか熊本ラーメンとか、やっぱり「今イチ、ピンと来ない」のである。

今回の尾道ラーメンにしたって、「まずい」というわけじゃないので完食し、スープだって最後の一滴まで飲み干した。だから傍から見たら、いかにもおいしそうに食べているように見えたかもしれない。

「もしかして同じ尾道ラーメンでも、この『たに』という店がとくに口に合わないだけなのかもしれない」と思い、念のため翌日にその近くの「味麺」という店にも入ってみた。ところがやっぱり、出てきたのは似たようなラーメンで、すっかり完食したのは前日同様ではあるが、やはりおいしいとは思えなかった。

これでどうやら、尾道のご当地ラーメンは自分の口には合わないと確信するに至ったわけである。尾道ラーメンが大好きな方には申し訳ないが、やはり食い物の好みというのは微妙なもので、「絶対的なおいしさ」なんてものはそうそうあるものではない。こればかりはどうしようもないことなのである。

 

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2017年1月 2日

キーボードと入力メソッドについて

昨年夏頃の記事を今頃取り上げるのもナンだが、”Diamond Online" の "「若者のパソコン離れ」 が示唆する恐ろしい未来" というのにちょっと興味を引かれた。最近の新入社員の中には、スマホばかりいじって、PC のキーボードを打てないのが少なからずいるというのである。

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筆者の鈴木貴博さん  (百年コンサルティング代表) という方は、これをまったく否定的には捉えておらず、「20代前半の新入社員というものは頭脳が柔軟なので、パソコンのキーボード入力は数週間もすれば自然にマスターするようになる。(中略) その点では時が解決する問題と言える」 と書いている。しかしながら、「この問題、本質的にはもっと違う、より大きな問題を内包している」 として、PC というデバイスに関して次のように論じている。

やがて今の新入社員たちが 30代になり、製品設計や業務設計の中心世代になると、パソコン中心の業務フロー自体が時代遅れであることに気づくようになるだろう。

あんな大きな物体に机を占領させておくよりも、業務はスマホで十分だということに気づき、会社の仕組みは今よりもずっとスマートなものに変化するだろう。

この鈴木さんという方は基本的にはスマホのフリック入力すら苦手で、PC を使わない場合はタブレットで PC キーボードを表示させて入力しているらしい。しかし 「ある日本を代表するロボットメーカーのアジアでのシェアが落ちるという出来事があった」 という事実を挙げ、それが 「操作パネルがキーボードのままだった」 という理由によるということで、(少なくともアジアでは) フリック入力が主流を占めるようになるだろうとしている。

ただ気になるのは、どうも 「PC 離れ」 と 「キーボードか、スマホのフリック入力か」 という入力メソッドの議論が曖昧なまま論じられていることだ。私としては PC と QWERTY キーボードの必要性は、アジアにおいてもそんなに簡単に消滅するものではないと思っている。

そもそも私は 40年近く前に、英文タイプを打つことで初めてキーボード文化に触れたので、初めから PC キーボードの 「ローマ字入力」 には困らなかったが、それはいびつなメソッドだと思っている。その後、富士通のワープロ専用機 OASYS で伝説の 「親指シフト」 をものにし、PC に移行するために泣く泣く JIS キーボードに戻った。

この経験から言うのだが日本語のローマ字入力は、英文をタイプする時の快速感覚に比べたら、どんなに速くキーを叩いたとしても、いつまでもトップギアに入れず、ずっとセカンドギアのままでクルマを運転するみたいなものである (参照: 「和才洋コン キーボードのストレス」)。これは英文タイプから入った者としての実感だ。

つまり日本語を打つためなら、どんなに長文だろうと PC の QWERTY キーボードが最適というわけじゃない。どこまでもドメスティックに生きちゃうつもりなら、鈴木氏の言うようにスマホのフリック入力で十分だ。

しかし英語を使いたいとか、使わざるを得なくなるとかしてしまったら、やっぱり QWERTY キーボードが必要になる。他にものすごく便利なデバイスが発明されて、誰でもすぐに慣れて使えるようになるとでもいうなら話は別だが、こればかりはしょうがない。

だから 「フリック入力による新時代」 というのは多分来るだろうと思うが、それは思いっきりドメスティックなものということだ。しかも PC が必要ない程度の仕事しかしないという、ずいぶんなまくらな条件下の話である。

本当の意味での 「新時代」 にきちんと対応するためには、PC のキーボードもしっかり使える 「両刀遣い」 にならなければならないだろう。そしてその頃には、「ローマ字入力とフリック入力」 よりも、「英文入力とフリック入力」 を使いこなせる方がずっと使い物になるはずだ。PC のインターフェイスもフリック入力に対応するようになるだろうし。

最後にちょっとだけ触れるが、「若者の PC 離れ」 は、経済的要因、つまり 「若者は PC を買う金がない」 ということが大きいと思っている。経済的余裕があれば、若者だってスマホと PC の両刀遣いになるだろう。

 

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2017年1月 1日

新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。昨年は本当に本当に短く感じられ、あっという間に平成 29年になってしまったような気がしています。年を取ると時の経つのが早いというのは、誠にも真実のようでありますね。

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さて、今年は酉年なので、恒例の年賀状はどうしようかと迷ったが、鶏といえばやっぱり若冲ということになるだろうと、昨年(参照)に引き続きいにしえの日本画のデザインを拝借した。昨年は襖絵、今年は屏風絵である。

恒例の歌は 「鶏声は太き脚にて踏みしむる地より湧き出で天に放たる」 。「鶏声」 は 「けいせい」 と読む。私も今年の夏は 65歳になり、「高齢者」 という範疇に入れられてしまうようなので、少しは地に足を付けて生きたいものだという思いと、とはいえ、相変わらず飛び回っていたいという願いをもっともらしく交錯させたような歌である。

 

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